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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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シュリーマンの会った青年は誰だったか?

シュリーマンの会った青年は誰だったか?
1.
 6月6日釜澤さんと一緒に、横浜外国人墓地と開港資料館を訪ねた。
目的は、シュリーマンが1865年5月から7月初めの2カ月日本に滞在していた間に、横浜で会ったハノーヴァー・リンゲン出身の青年の名前とその来歴などを確認する為である。
 シュリーマンがフランス語で書いた「清国・日本旅行記」の講談社学術文庫日本語訳では横浜でグラヴァー商会の協力を得て、江戸への旅行手配をしてもらっており、紀行文の終わりの方に、M.グラヴァー氏はハノーヴァー・リンゲン出身の有名な医者の息子で、立派な調度品を日本の大工に作らせ云々と紹介している。長崎の有名なグラヴァーはトーマスだからなぜイニシャルがMなのか、どうもおかしいと感じた。
 釜澤さんの協力を得て、フランス語の原文を調べて貰った結果:
同書の126ページには「MM. W. Grauert et Cie de Yokohamaの親切なとりなしで米国総領事フィッシャー氏…」云々の記載があります。(MMはムッシューの複数形と思われます。W. Grauert兄弟商会といった感じでしょう。)
 
という事が判明したので、その確認をしに横浜外人墓地まで足を伸ばした。
2.
 2百円の募金を払って、順路通りに墓石に刻まれた名前を読みながら、日本語の説明板と併せ尋ねて歩いた。右手には入り口でもらった案内図と、斎藤多喜夫著「横浜外国人墓地に眠る人々」有隣堂2012年版を持って、コンパスと条規の刻まれたフリーメーソンの印の多いのに驚き、復十字の下にもう一本斜めの物があるロシア語の名の刻まれた墓の多いのも印象に残った。ドイツ人とみられる姓の多いことから、入国時の国籍は不明だが幕末明治維新の前後には大勢のゲルマン人が日本に来ていたことが分かる。
 案内図の17番に目指す「Grauert」グラウエルト一家の立派な墓群がある。
Wilhelm Grauert(1829-1870)、Herman Grauert (1837-1901)、
Heinrich Grauert(1846-1890)の3兄弟。斎藤氏の著書288頁に依ると、「まず長兄のヴィルヘルムが来日し、1862年7月1日、横浜にグラウエルト商会を設立した(参考263:同書の出典番号)。来日前は香港の商社で働いており、来日時の国籍はイギリスだった。香港版の商工名鑑(The Chronicle & Directoru for China,Japan,&the Philippones)1868年版の横浜の部にN・グラウエルトが現れるが、NはHの誤りだと思われる。翌年版からはHになる。
(中略)ヴィルヘルムは1870年に死去し、以後ヘルマンの個人経営となった」
 同書はその後、「ヘルマンが横浜天主堂の創建に尽力したという伝説が生まれた。横浜開港70年を記念して、有吉忠一市長が(ヘルマンの息子の)クレマンスにヘルマンを表彰する文書を手渡した。(中略)1962年には彫刻家の井上信道の制作したヘルマンの胸像が墓地に設置され… 伝記(Herman Ludwig Grauert 1837-1901)が編集され、伝説が歴史の領分に侵入してきた」
 同氏は続けて「結論から言うと、伝記には疑わしい部分が多い。例えば、横浜天主堂創建の主体であるパリ外国宣教会の記録にヘルマンの名はまったく現れない(参考265)そもそも天主堂が創建された1862年1月12日にはヘルマンはまだ横浜にいなかったと思われる。(中略)
 1865年に居留地参事会の議長に選出されたとも記されている。然しこの時期にはまだヘルマンが来日していた形跡はないので、これは兄のヴィルヘルムであろう。ただし議長に選出されたのはショイヤ―であって、グラウエルトは財務委員に就任している。(参考267)
 調べればわかることなのに、多くの人が事実と会わない伝説を信じてしまったのはなんとも不思議だ」と結んでいる。
 事実、墓碑の前の日本語版も誤りが多い。斎藤氏は「あとがき」に「既存の文献と本書とで食い違った記述がある場合には、本書の方が正しいか、あるいは少なくとも新しいと思ってください。と能力の範囲内でできるだけの事をしたという自負を述べている。
3.
 我々は義経伝説を始め、聖徳太子や弘法さんの伝説をより「ありがたがって」読めるように後世の人達が「時代を経るごとにふくらましてきた物語」として読んできた。その方が面白いしすっきりしたイメージとして頭に残る。実像と虚像は歴史的な人物が古くなればなるほどその距離が離れて行くのだろう。
 ディリュク・ファン・デア・ラーン氏が「横浜居留地と異文化交流」(山川出版)の81頁に「幕末・明治期の横浜のドイツ系商社」で6社の中にグラウエルト社を紹介し、「ヴィルヘルムとヘルマンのグラウエルト兄弟は開港以前1857年(安政4年)出島に来て翌年に横浜に移住したと言われるが、史料に食い違いがあり、真偽を確認する必要がある。(中略)
 弟ハインリッヒ1872(明治5年)から1890年に事故死するまで会社に勤めた。1876年ロベルト・ブライフスが入社し、1901年事業を引き継ぎ第一次大戦まで続けた。
二代目ヘルマン・クレメンス及び三代目オット・イスライブ・グラウエルトは2人とも横浜で医者として活躍した」と記している。
4.
 以上の事から、シュリーマンが1865年の2カ月の間に横浜で会ったのは長崎グラヴァー邸で有名なトーマス・Gloverではなく、ハノーヴァーの神学者の
グラウエルト一家のヴィルヘルムであったことが事実であろう。ヴィルヘルムの父親 Clemens August DR.PHIL. GRAUERTのDRは一般日本人は医者だと思ってしまうが、釜澤さんの説明では、PHILの博士の意味だそうだ。
 ただし、1865年時点で、The Chronicle & Directoru for China,Japanの横浜の部にGlover商会とあり、そこにED. Harrison とThos Smithの名がある。
この時点でGlover商会は長崎にThomas Glover がいて、横浜に支店を出していたのであろう。これは確認の必要があるが、彼らが会ってはいないだろう。
 いずれにせよ、横浜で医者を開業して外国人墓地の管理委員を長年にわたってつとめていた2代目3代目のグラウエルト家の子孫が横浜にいたら、彼等の伯父さんが1865年夏即ち150年前にシュリーマンにいろいろ協力していたことを伝えてあげたいものだ。シュリーマンは世界一周の旅で横浜を発ってサンフランシスコに向かったのは、南北戦争がその前に終わったという情報を得てから決めたのだろう。5という年はその後日清日露そして第二次大戦と戦争に因縁の深い年だ。今年2015年は起こらないで欲しい。いやもう今後戦争の歴史の年代を覚える必要の無い世界にしたいと思う。
   2015/05/07記

 

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