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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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奇文を共に賞せん

奇文を共に賞せん   周敬儕(サイ) <備考>
 大人(タイジン)諸子が「故宮古物」を命(勿論小市民の命ではない)、
と同じと考え、南に移すのを断乎として決定したのは、古物の価値が、
大変高いだけでなく、容易に持ち出せ、容易に換金できるからで、
これは諸兄が驚くに当たらない。冷嘲やかっかして諷刺するに値しない。
 こんな風に考えていた時、首都(南京)の新聞に「古物南遷」を称賛する
社説が載った:更に「武力で反対者を制止せよ」と建議し、
「流血も辞さず」、政府に対し「威信を保持せよ」「政策貫徹」!と要求。
このような高説、高論を埋もれ消えさせてはならぬと、面倒を厭わず、
書き写して諸兄に献ず:
 『…北平の各団体の古物南遷への反対意見は、北平の将来の繁栄を害す、
としているが、この種の私利私欲的思考は国家利益を蔑視しておる。
北平の各団体がかようなことを言うのは、その厚顔無恥にあきれるが、
彼らは只、北平の繁栄のためだけを考えており、数千年の古物が、
敵に掠奪されるという大変な危険にさらされていることを知らぬ、
視野狭小のためだ。
 政府の戦略上、暫時北平を放棄し、敵を深く引き入れ、まとめて殲滅すべし。
古物が敵に掠奪されたら、将来の北平の繁栄は何に拠って維持するか?
故に、遷移を先行させ、日本を打倒して、北平が泰山の如く安泰になってから、
運びもどすに如かず。
 北平各団体の私利私欲は憎むべく、恥じるべし。その遠望深慮の欠如は、
憐れむべし。遷移反対のもう一つの理由は、政府はまず土地を保全すべし、
というが、これは似て非なる議論だ。蓋し、一部の土地を放棄し、
敵に一時的な占領をさせるのは、以て敵を殲滅するためである。
その後に再度これを回復するのは古今内外、その例は多い。
1812年の役で、ロシア人はモスコーを放棄したのみならず、焼き尽くして、
ナポレオンを困らせ、欧州大戦時、ベルギー、セルビアは皆領土を放棄し、
敵の蹂躙にまかせ、士卒も強いドイツに撃破され、領土は占領されたが、
講和はせず、割譲条約も結ばず、敵はその土地をいかんともできなかった。
故宮古物を遷移しなければ、不幸にして北平が占領されたら、
古物は掠奪される。そうなったら中国はどの様にして回復できるか?
中国の文明の結晶が、敵の戦利品となったら、大変な屈辱で恥ずかしいことだ。
… 最後に政府に奉告する。古物遷移の政策は既に決定せられたる上は、
如何なる阻碍があろうとも、その貫徹を求むべきである。
もし見識・遠望の無い群愚の反対で、即中止などすれば、政府の威信は、
どうなるだろうか。故に、張学良を厳しく追及し、以て反対運動を、
武力で以て制止すべし。やむなき時は、流血も辞せず』  
    2月13日「申報」「自由談」
 
訳者雑感:本文は前文の魯迅の「戦略上」の<備考>として付されたもの。
引用文中に、ナポレオンのモスコー攻撃や、欧州大戦のベルギーなどの例を
示し、あくまで敵を深くに誘い込んでまとめて殲滅するとか、
領土を蹂躙されても、割譲条約など結ばず、講和しないのが良いと主張する。
今「パリ解放」という本を読んでいるが、ナチスドイツに占領されたフランスは、北
半分をドイツの占領下に置き、南にペタン将軍のヴィシー政府を置いた。
これはフランスの苦渋の選択だったろう。

パリと並ぶ古い都北京(北平)も日本に占領されて、傀儡政府ができた。
陥落前は張学良が支配していたのだが、多くの北平の団体は故宮の古物を、
持ち出すことに大反対で、その後ろ盾が張学良だった。
 北平の支配者と市民、各団体にしてみれば、故宮の古物は彼らのもので、
それを持ち出そうとするのは、南京の国民党政府であるから、利害は対立。
「流血も辞せず」として多くの反対者を犠牲にして、大量の古物を運び出した。
この記事にも一理はあり、もしそのまま故宮に置いておいて日本軍の略奪に
あったら、どうなっていただろう。
日本人として、私は日本軍が故宮の宝物を掠奪するとは考えたくないが、
義和団の変の時は、主に欧州の軍隊が好き勝手に、掠奪したのは事実である。
円明園はその掠奪を隠滅する為に火をつけられて、跡形も無くなった。
 古来、ギリシャやエジプトの宝物は、欧州各国の侵略戦争時に持ち出されて
今は、本国には遺構しか残ってないという例が多い。
この記事の筆者の論調は、故宮の古物を運び出して、北京が安泰になった時に、
また戻せば良いと主張する。
今年、北京の古物が日本で展示されている。再来年は台北の古物も展示される。
台湾と大陸の繁栄は、この古物が、掠奪されずに「中華民族」の宝として、
精神的な支えになったのであろうか?
自国の宝物を侵略者に掠奪された国は、繁栄を取り戻すのは難しい。
それ故か、今イギリスやフランスに対して、そうした古物返還を求めている。
精神的な繁栄を取り戻す為に。
       2012/10/11訳
 

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戦略上

戦略上
 首都(南京)「救国日報」に名文句が載った:
 『戦略として、暫時北平を放棄し、敵を深く引きいれるべし…、
張学良を厳しく追及し、(北平の文物の南遷に)反対する動きを制止すべく、
これには流血も辞さず』(「上海日報」2月9日転載)
 流血も辞さず!とは勇敢哉、戦略の大家よ!
 血は確かに沢山流れ、今まさに更に沢山の血が流れており、これからまた、
どれ程流れるか知らない。これらは全て運動に反対する者の血だ。
どうしてか? 戦略上の為だ。
 戦略家は去年の上海の戦い(上海事変)でこう言った:
「戦略上、第二防御線に退去する」こうして退去し:
2日後にまた言った:戦略上「日本軍が我が軍に攻撃をしてこない限り、
我が軍は発砲せず、兵士は全員これを遵守すべし」かくして停戦となった。
後に「第二防御線」が消え、上海和議が始まり、交渉、調印、完結となった。
その時、多分戦略上の関係から血が流された:これは軍機上の大事で、
市民は知る由も無い―自ら流血した者は知っているが、彼らはもう舌が無い。
 あの時、なぜ敵を深く引き入れなかったか?
 今我々は知っている:当時敵が「深く入りこまなかった」のは、
戦略家のやり方が不手際だったからではなく、又運動に反対する者の流血が、
とても「少なかった」ためでもない。他に原因があり:
もともとイギリスが調停に入ろうとし、極秘裏に日本の諒解を取り付け、
日本には、君等の軍が暫時上海から退去すれば、英国は更に協力する。
満州国が国際連盟に否認されるようにはしない――これが今、
国際連盟の何とか草安で、何とか委員会の態度である。
実際は、日本は上海で深入りしないこと――ここの戦利品は皆で分けよう。
君はまず北方に深入りし、それからまた相談しよう。深入りは深入りだが、
地点が暫時違うとなった。
 それで「北平に誘い込む」戦略が必要となった。流血はまた何日も続いた。
実はいますべての準備は整い、臨時首都(洛陽)副首都(西安)も決まった。
文化的古物と大学生もそれぞれ移動した。
黄色い顔も白いのも、新大陸からのも旧大陸からの敵も、どんな所にでも、
深入りしたければすればよい。万一運動に反対する者がいると心配なら、
我々の戦略家はいう:「流血も辞さぬ」から、安心されよ、と。
      2月9日
訳者雑感:
 1933年前後の上海での日本軍の侵略行動に対して、
上海一帯に巨大な利権を持つイギリスが、日本と極秘裏に協議し、
「上海では互いに戦利品を分けあい、戦乱を広げなければ、
国際連盟での満州問題も協力する云々」という段は、興味深い。
 日英同盟は解消したとはいえ、英国のスタンスは、日本が満州でソ連の南下を防ぎ、
上海以南の豊饒な地域は自分たちが「優先的」にこれを取る。
この帝国主義的発想は何ら変わっていない。
 こういう国際情勢下、国民党政府は、自己の軍事力の劣勢を認識しており、
対日「不抵抗」作戦で、敵を奥地へ奥地へと引きずり込み、戦線が伸びきったところで、
国際情勢の変化を見ながら、国際連盟に日本の横暴を訴え、
米国の支援を取り付けようとした。
米国はなぜ中国を支援したのか?それは日本より「広大で豊かな国土があり、
これからも沢山、自分の欲しいものが得られると考えたからだろう」
 日本が中国を一人占めするのは許せないと考えていただろう。
日本は、上海で英国と戦利品を分けあったが、アメリカとは、どうしたのだろう。
アメリカとイギリスの利害は時に一致しないこともある。イギリスのように、
老獪に上海一帯の戦利品を分けあって、イギリスと同一歩調を取ることをせず、
正義とか理想とか人権とか、老獪とは違う次元から、対処しようとする。
それがイギリスから独立したアメリカのレゾンデト―ルと信じているように。
      2012/10/10訳

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誓いの呪文

誓いの呪文
 「天誅地滅、男盗女娼」(天地神明に誓っての意味だが、男は人の女を盗み、
女は娼婦というのは、この世はすべてそうだとのごろ合わせか、ロクデナシの意)
は中国人が良く使う誓いの呪文で、大抵は詩に云う、子曰く:と同じだ。
 今日の宣誓は「敵を殺すことを誓い、死ぬまで抵抗する事を誓う、…を誓う」で、
どうも以前の呪文は使わなくなったようだ。
 だが、その誓いの中身は同じで、おいそれと信じるわけにはゆかぬ。
彼は天が彼を誅し、地が彼を滅したりなどしないことをはっきり知っている。
今や、ニンジンすらも「科学化」し、電気を含むようになったのだから、
「天地」も科学化せずにはおられまい!
男は盗み、女は娼婦については、ただ単に無害であるのみならず、有益であり:
男が盗むのは――住民から巻き上げ、女は娼婦は――閨縁で役人になる事ができる。
 というと、古い友人が言う:君の「盗」と「娼」の解釈は昔の意味と違っている、と。
私は答える――君、今どんな時代か知っているだろう!
今や盗もモダンになり、娼もモダンに!だから誓いの呪文もモダンになり宣誓になったの。
     2月9日
 
訳者雑感:日高市の巾着田を見に出かけた。その後「高麗神社」に詣でた。
神社名を表す銘板に高句麗の句の字が高麗の2字の間に小さな字で書かれていた。
高麗(こま)と日本語で呼ばれるが、土地の人にはあくまで「高句麗」なのだろう。
その鳥居の前と駅の前に巨大な二つのトーテムが建てられていて、
「天下大将軍」「地下女将軍」とあり、どういう意味かを問うたら、「魔除け、厄除け」
の呪文のようなものの由。天下大将軍の御加護でというのは日本でも使われるが、
地下の女将軍というのは日本では余り使われない言葉だ。
天誅地滅、というのは日本語でも意味が判るが、男は人の女を盗み、女は娼婦だ、
というのは誓いの呪文で、日本人が取り入れなかった呪文のようだ。
中国朝鮮からいろんな文化言語を取り入れたが、取捨選択した先人の苦心が忍ばれる。
       2012/10/08訳
 

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空軍救国についての3つの願い

空軍救国についての3つの願い
 現在、色んな人々が各種の救国を声高に叫びだし、皆が突然愛国者になった様だ。
実はそうではない。もともとこうなので、このように救国しようとしてきたのだが、
今はそれを大声で叫び出したに過ぎない。
 銀行は貯蓄救国を説き、原稿売りは文学救国を説き、絵描きは美術救国を説き、
舞踊を愛す人は娯楽救国、更にタバコ会社は(抗日の)馬占山将軍牌のタバコを、
吸うことが救国の道でない事も無い、という。
 色々な救国は、以前から実行されて来たのと同様、今後も実行しようとし、
これは決して5分で終わるとも限らないだろう。
 只空軍救国は他とは異なるものがあり、刮目してみるべきだが、
その将来は予測しがたい。原因は主張している人たちの大抵が飛行家ではないからだ。
それで、我々はまず少しばかりの願を言ってもいいだあろう。
 去年の今頃、上海の新聞を見た人は、蘇州で一隊の飛行機が戦闘をしたことを、
忘れただろうか?後になって、他の飛行機は途中でみな「見失われ」、
編隊長の西洋人烈士の一機のみ残ったが、衆寡敵せず、日本の飛行機に撃墜された。
彼の母親はアメリカから遠路とんできて、痛哭し、幾つかの花輪を帯びて帰国した。
広州からも編隊が出発し、閨秀たちが詩詞を刺繍した短衣を戦士に贈り壮行した由だが、
残念ながら、今に至るも未着である。
 従って我々は防空隊成立前に2つの願望を明らかにすべきで――
1.ルートを明確に認識すること:
2.速く飛ぶこと:
 更に重要なことは、我々は今まさに「不抵抗」から「長期戦」に移っており、
「心理的抵抗」に入った段階では、実際はすぐには外国と戦争するとは限らず、
そうなると戦士はむずむずしてくるし、英雄もその武を使う場の無いのに苦しむ。
それで爆弾をひょっとして寸鉄身に帯びぬ人民の頭上に落としはしないか?
 だから更に戦々兢々としてもう一つの願望を表明せねばならなぬ――
3.人民を殺す勿れ!     
                                     2月3日

訳者雑感:
 尖閣問題で、米軍のオスプレイ配備がなし崩し的に行われ、本州の人々の中には、
オスプレイ配備で対中戦略が整った云々との肯定派が現れた。
 1930年代の上海も日本空軍への防備として、蘇州や広州に空軍を備えたようだ。
アメリカ人の編隊長の下での戦闘に破れ、飛行機は「行方不明」か「撃墜」された。
国民党政府は「不抵抗」「長期戦」「心理的抵抗」(不買運動など)を実行して、
実戦は極力避けられたが、武を使うところの無くなった飛行士は誤爆せぬとも限らぬ。
今オスプレイが「人的操作ミス」で人民の頭上に落ちてこぬことを祈るばかりだ。
     2012/10/07訳
 
 
 

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電気の便利さと弊害

電気の便利さと弊害
 日本の幕府時代に、大量のキリスト教徒を殺した。
その罰し方はとても残酷だったが、未公表なので誰も知るすべが無かった。
近年になって当時の多くの文献が出て来た。
「キリシタン殉教記」を見ると、中に拷問の状況が記され、温泉の近くに連行し、
熱湯をぶっかけ:或いは周囲に火を焚き、じっくりと火あぶりにする。
これは、本来は「火刑」だが、執行人は火を離して死刑者を虐殺した。
 中国にはもっと残酷なのがあった。
唐の小説に、さる県の役人が犯人の拷問に、少し離れた所から火であぶり、
喉が渇くと、醤油と酢を飲ませた。これは日本より進化したやり方だ。
今、役所は容疑者の拷問に唐ガラシの煎汁を鼻から注ぐが、唐以来のやり方だが、
或いは、古今、勇ましい人びとのやり方は略同じのようだ。
 かつて「反省院」(共産主義青年を収容した所)に囚われた青年の手記に、
最初にこの刑を受け、苦しくてたまらず、カラシの汁が肺と心臓にまで流れ込み、
不治の病となり、釈放されても死を免れぬという文を見た。
この人は陸軍の学生で、内蔵の構造を知らず、逆さ吊りにされ、鼻から注がれたら、
気管から肺に入り、死に至る病を起こしたが、心臓に入ることは無い。
きっと当時は苦しくて、知覚も朦朧とし、心臓にまで至ったと思ったのだろう。
 しかし現代文明人の造った刑具は、こうしたものよりずっと残酷である。
上海に電気刑があり、それだと全身が張り裂ける程痛く、昏倒する。
暫くして醒めると、又同じことをされる。連続7-8回受け、幸い死は免れたが、
歯はガタガタになり、神経麻痺で、復帰不能となった。
一昨年エジソンを記念し、多くの人は電信電話が人間に大変な便利をもたらしたと、
称賛したが、同じ電気がある人にはこんな大きな害を与えるとは思いもしなかった。
人に福を与える電気療法、美容もあるが、被圧迫者はこれで苦しみ落命する。
 外国では火薬で弾丸を作り、防御に使うが、中国ではそれで爆竹を作り敬神する:
外国では羅針盤で航海するが、中国ではそれで風水を見る:
外国ではアヘンで治療するが、中国ではそれを飯代わりに食す。
同じものが中国と外国での使われ方が、かくも異なるのは、蓋し電気だけでは無い。
       1月31日
訳者雑感:中国の処刑方法はなるべく長い時間をかけて、受刑者を残酷に扱い、
それを大衆に見せることで、悪いことをせぬようにとの見せしめが多かった。
日本でも鋸を首に切りこませ、通行人にひと引きずつさせて苦しむのを見させた。
最近、乃木将軍の切腹殉死に、介添え役を伴わず、自ら切腹して長時間苦しんで、
殉死した、という点について、名前は失念したが、確か日経かどこかの新聞に、
この介添え役を伴わぬことの意味が、自分の非を責めて、長い間苦しむことで、
その罪を購うのだ、という説を見て、なるほどそういうこともあるかと思った。
 
 火薬・羅針盤・印刷はいずれも中国で発明されたものだが、魯迅の指摘するように、
その使われ方はかくも異なっているとは!
アヘン鴉片Opiumは古くから、治療用に使われて来たものだが、中国ではそれを、
飯代わりに食す、という文は最初意味が判らなかった。
これは、推測だが、中国人は当時、飯を食わねば生きていけないように、
毎日アヘンを吸わねば生きてゆけないような中毒患者が沢山いたということだろう。
      2012/10/06訳
 
 
 
 
 
 

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実を尊ぶ(実はこうだ)

実を尊ぶ(実はこうだ)
 事実は常に文字に書かれたようにはかっこよくない。
例えば「自由談」がそうで、実は不自由だから「自由談」と称して、
我々はかくも自由にこの場で談じているということになっている。
 もう一つの例は、北平の古物の搬送と、学生の避難を認めない問題の如く、
発令にも理があり、批評にも理があるが、すべては字面上のことにすぎず、
本質的な問題ではない。
 古物が大変古い物で、唯一無二の宝物だから、速やかに移動すべし。
これは誠にその通りだ。しかし北平も二つあるわけじゃないし、
なお且つ北平は全ての現存する古物よりずっと古いのだ。
 禹は一匹の虫だからあの頃のことはさて置いて、商周の時代には、
この地は確かに存在した。それなのに、この地は棄ててしまって、
ただ単に古物だけを運び出すのか?
実を言えば、本当は古物が「古い」為でなく、それらを北京陥落後、身に帯びて、
随時金に換えるためである。
 大学生は「中堅分子」とされているが、市価は無い。
もし欧米市場で一人500ドルの値がつけば、きっと箱に入れ、専用車で古物と共に、
北平から運び出し、租界の外国銀行の金庫に入れるに違いない。
 だが、大学生は数も多いし、新しい(骨董ではない)。惜しい哉!
 無駄口はこれくらいにして、崔顥の「黄鶴楼」の詩に和してこれを弔うとしよう:
 闊人(金持ち)すでに文化(古物)を帯びて去り、
 此の地空しく余す 文化城。
 文化ひとたび去りて、復た返らず、
 古城千載(千年の都) 冷清々たり。
 専用車列は前門駅に連なり、
 晦気(不運)は大学生を覆う。
 日薄くして山海関の何処に抗うや、
 煙花(花柳街)場上、人誰も驚かぬ。
      1月31日
訳者雑感:台湾の故宮博物館の宝物が日本で展示される。
日本での展示で懸念されたのが、北京が盗まれたものだ、差し押さられること。
1933年に北平に日本軍が侵略してくるというので、最初に侵略の手から守るべきは、
「古物」だと唱えて、どんどん専用車で南方に搬出した。魯迅が喝破しているのは、
国民党政府は、北平を放棄して「古物」だけ搬出する目的は、実はそれを随時換金する、
という意図だと。事実、今台湾に遺された物以外の、おびただしい量の古物が、
換金され、逃走の資金となった。     2012/10/05訳
 
 

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逃げるが一番

逃げるが一番
 昔、女はとても辛いことが多かった。何をやっても間違いだと言われ、
これをしても罵られ、あれをしても罵られた。
 今、学生たちの頭上にこの不運が降りかぶさっている。進んでも罵られ、
退いても罵られる。
 私は一昨年の冬以来、学生はどのように騒動を起こしたか覚えている。
ある者は南下しようとし、ある者は北上しようとしたが、
どちらも汽車を出してもらえなかった。(満州事変への学生の抗議活動)
首都(南京)に着いてから、頭を地面につけて請願したが、逆に「反動派に利用」
されているとして、多くの頭は銃剣と柄に「ぶつかり」、ある者はついに、
「自ら足を滑らせて水に落ちて」死亡した。
 検死の結果、報告書には「全身が五色」に変じていた由。全く訳がわからない。
これについて誰か何か質問し、誰かが抗議しただろうか?
ある人達は、なんと彼らを嘲笑っていた。
更には退学させようとし、家長に通知しようとし、研究室に戻れと勧告した。
一年経って、やっと静かになったが、またしても山海関を失い、
上海まではまだ遠いが、北平はもうだめで、研究室すら危険な状態だ。
上海の人たちはきっと覚えていると思うが、去年の2月に、曁南大学(キナン)、
労働大学、同済大学……、研究室に座っておれようか?
 北平の大学生は知っているし覚えているから、今回は二度と頭を銃剣や柄に、
「ぶつける」こともしないし「自ら足を滑らせて水に落ちる」等思ってもいないし、
「全身が五色」にならずに、新しい方法を発見した:
皆がバラバラに逃げだし、各自で帰宅した。
これは正にここ数年の教育の効果だ。
 しかしある人たちはまた罵った。ボーイスカウトは烈士たちの挽聯の前で、
彼らを「臭を万年に遺す」とけなした。
 だが考えてみよう:歴史言語研究所の命の無い骨董は運び出したではないか?
学生はみな、自分たちで飛行機を準備できないではないか?
自国の銃剣と柄に頭を「ぶつけ」ぼーっとしても、研究室に逃げ込めるが、
頭がぼーっとしてもいないのに、外国の飛行機と大砲で爆撃されたら、
研究室から出ないでおられようか? 
 阿弥陀仏!       1月24日
訳者雑感:満州事変、上海事変など1931-32年に起きた日本の侵略に対して、
全国の大学生は「抗日」運動を起こしたが、当局によって銃剣や柄で頭を殴られ、
水に落とされて死亡した。
 魯迅は故宮の骨董を運び出すような「不抵抗」の政府に「抗日」を請願しても、
殺されるのだから、逃げ出すのが一番と勧める。  2012/10/04訳
 
 
 

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闘いを観る

闘いを観る
 我々中国人は、平和を愛すというのを好むが、実は闘いが好きだし、
人が闘うのを観るのが好きで、自分の仲間が闘うのを観るのが好きだ。
 最もよく観るのは闘鶏、コオロギの争いで、南方では黄頭鳥(羽が黄色の)、
画眉鳥(ガビチョウ)というのがあり、北にはウズラの、があり、大勢の閑人が、
取り囲んで夢中になって観るし、これで賭けもする。
 古時、闘魚もあったし、今は手品師がノミの争いを見せる。
今年の「東方雑誌」に、金華(浙江の地名)に闘牛があると出ていたが、
スペインのとは異なり、あちらは人と牛だが、我々のは牛同士である。
 彼らが闘うに任せ、自らはそれに与らず、只観るだけ。
 軍閥は只管自分たちで闘い、人民はそれに与らず、只観るだけ。
 しかし、軍閥も自ら闘うのではなく、兵隊にやらせるだけ。
だから年中、悪戦を続けるが、親分は個々には仲良くなり、忽然誤解は解かれ、
酒杯をあげて歓言し、共に侮りを取り下げ、報国を誓う。又忽然……。
言うまでも無いが、また忽然、自然に闘いを始めるのも免れぬ。
 しかし人民は彼らの演じる芝居に任せ、只観るのみ。
 但し、我々の闘士は、外敵に対しては只ふたつしか手が無い:
最近は「不抵抗」以前は「弩を負い先駆」である。
「不抵抗」は字面から明白だ。「弩を負いて先駆」は弩機のシステムがとうの昔に、
失伝してしまったから、考古学者に研究してもらい、製造できるかどうか、
負えるかどうか、そして先駆できるかどうか、確かめねばならない。
 やはり自分の兵を留め、現金で買った兵器を留め、自分たちで闘ってゆくのだ。
中国の人口はとても多いから、暫くは少数の残った者は観ているだろう。
ただもちろん、もしそういう状態にしておこうとするなら、外敵に対しては、
必ず「平和を愛す」でなければならない。         1月24日
訳者雑感:中国人は仲間同士が闘うのを観るのが好きだということ。
これは春秋戦国の7国、三国志の3国、その後の南北朝、五胡十六国などなど、
仲間同士ではなくとも内戦・内乱が常に起こった。フランスかどこかの学者は、
中国の四千年の歴史の中で四分の三は内乱で、安定していたのは千年だと言う。
それは1911年の辛亥革命から1949年の間も同じだ。
それで魯迅は言う:そういう状態にしておこうとするなら、外敵には「愛平和」
でなければならない。内乱と外国軍との戦乱が全国に拡大した結果、
人民は悲惨な状況に陥ったが、それでやっと内戦にケリをつけられたわけだ。
毛沢東は戦後訪中した日本人に対して、日本が国民党軍を叩いてくれたから、
彼の軍隊が、最終的に勝利できた、と。
         2012/10/03訳
 
 

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偽自由談 前記

 前記
 本冊子は今年1月末から5月中旬まで「申報」の「自由談」に寄稿した雑感。
上海に来てから、新聞は読むが寄稿はしなかったし、思ってもみなかった。
又新聞の文芸欄に注意しなかったから「申報」がいつから「自由談」を
始めたか、どんな内容の文を載せているか知らなかった。
 去年の年末だったか、偶然郁達夫氏に遭い、「自由談」の編集長が、
黎烈文氏に代わったが、彼はフランスから帰国したばかりで、
土地にも人にもなじみがなく、原稿が集まるか心配だから、私に書いてくれという。
私はおもむろに答えた:そうしてもいいよ、と。
 達夫氏の委嘱に対し、私はいつも「おもむろに答える:そうしてもいいよ」だ。
正直、私はこれまで創造社の人を避けて来た。これは単にこれまで私を攻撃し、
甚だしきは人身攻撃までしてきたからのみではなく、
大半は彼らのあの「創造」づら、の為である。
彼らの中にはその後、隠士になった人、富翁になった人、実践的革命家になった人、
漢奸やスパイになった人もいるが、「創造」という大旗の下で活動しているときは、
とても元気で、汗をかくのも、くしゃみすらも「創造」しているかのようだった。
達夫氏と遭ったのが、最も早く、彼の顔にはあの一種の創造の気が無かったから、
会ったときは気さくに話した:文学的な考えは多分一致できないから、
話しはたいてい空談だった。
だが、こうして親しくなり、時には私から彼に何か書いてくれと頼むと、
必ず約束通り買いてくれた。彼が私に書くようにと言うと、私もおもむろに、
いいよと答えねばならなかった。
だがそのおもむろにが、伸び伸びになることが多かった。
 その後「自由談」を見るようになったが、投稿しなかった。
暫くして、ある噂を聞いた。「自由談」の編集者は多忙で、夫人の臨褥にすら、
休みを取って世話できず、病院に送ったが、夫人は一人で死んでしまった。
数日後、偶然「自由談」の一文を見、その中で、嬰児に遺影を毎日見せ、
その子に、この母が産んでくれたことを教えていた。
私は、これは黎氏の作品だと思った。筆をとって反対意見を書こうとした。
私のこれまでの考えでは、慈母がいてくれるのは確かに幸福だが、
生まれてすぐ母を失っても、必ずしも不幸とは限らない。
ひょっとすると更に勇猛になり、(母孝行せねばならぬという)気がかりの無い、
男児になるかもしれないと思ったから。だがついに書かなかった。
改めて「自由談」に寄稿したのが、本書の第一篇(実は三)「崇実」:
また昔の筆名は通用できないので、「何家干」、「干」とか「丁萌」とした。
 これらの短評は個人的感触や、時事の刺激を受けて書いたが、意味はごく平常で、
書き方も往往、とても晦渋で「自由談」は同人誌ではないし「自由」もまた、
反語にすぎぬと知っており、この欄で活躍しようなぞ考えていなかった。
寄稿した所以は、一つは友情のため、もう一つは寂莫者に吶喊を与えるためで、
やはり私の昔からの気質だ。しかるに私の悪い点は、時事を論じるに際し、
面子に配慮せず、病巣を指摘し、閉じ込めるにあたり常に類型を使ったことで、
後者については尤も時宜にあわなかった。
悪い点については、病理学の図のように、デキ物ハレ物なら、この図は全ての対象の
標本で、甲某(なにがし)のデキ物と似ているし、乙某のハレ物と同じ所があるのだ。
しかし、それを見る者がそれをよく察しないで、描かれたのは甲某のデキ物だと考え、
端無くも侮辱されたと思い、それで必ず描いた者の死命を制してやろう、と思う。
例えば、以前私は狆コロを論じたが、元々は実在せぬ者を指していたのだが、
狆コロ性を自覚している人たちが勝手にそう思ってしまった。
それで死命を制する方法は、文章の是非を論じずに、先ず作者は誰か:他の事は構わず、
只只作者の人身攻撃をする。もちろんそれは全て憤慨している病人ではなく、
不満を持つものの代わりを務める侠客もいた。
要するに、この手の戦術は陳源教授の「魯迅即ち教育部僉事(センジ:役職名)周樹人」
から始まり、十年経って皆忘れたが、今回王氏が先ず告発、続いて周氏が暴露したのは、
全て作者本人の文章についてだが、左翼文学者に関連したもの。
この外に、私の目についたのは、何篇もあり、すべて私の本文の後に付けたから、上
海の所謂文学家の筆戦を、
見ることができる。どんなものか、私の短評本文とどんな関係かが判る。
但し、他に数篇あるが、私の感想がここから来ており、特に併記して読者の参考とした。
 寄稿は月8-9篇だが、5月初めは続けて発表できなかった。
それはその頃、時事について避けねばならず、文章も時事に言及できなかったためだ。
この禁止はお上の検査員か新聞社の編集長かは知らないし、知るべくもない。
 今当時の全てを本冊子にまとめるが、指摘した通り、現在は全て事実が証明しており、
私はあの当時、数日早く書いたにすぎぬ。以上を以て序とする。
     1933年7月19夜、上海寓居にて 魯迅記
 
訳者雑感:
 魯迅が東京にいる頃、浙江省を中心とする革命組織としての光復会に入った。
先駆者として秋瑾や徐錫燐などが義に就いた時、大勢の人が帰国して革命に参加した。
彼も後に続こうとしたが、故郷にいる母のことを思って断念した。
 このことが、彼がその後、実践的革命家の道ではなく、筆に拠る活動に向かわせた。
この段で、彼の以前の考えとして、生後間もなく母を失った子供が、
必ずしも不幸とは限らない。母に孝行せねばならないという「気がかり」から解放され、
更に勇猛な人間になって活躍するかもしれないから、と考えたが、ついに寄稿しなかった。
この点に彼の精神的な負い目と、実践的革命者に「犬死」はせぬようにとの思いが、
重なっている。多くの若者が、辛亥革命の前に、清朝政府によって逮捕処刑された。
中国では親が存命中に死ぬことが一番親を悲しませることだ、という「孝行」の思想があった。
その「気がかり」(中国語では「挂碍」)がある限り、迂闊なことで身を滅ぼすことはできない。
特に魯迅のような長男は。
      2012/10/02訳
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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