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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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内外

内外
 
(いにしえ)の人は内外の別をわきまえていて、道理も夫々違うと言った。
夫を「
外子(ワイズ)」と呼び、妻を「賤内(ジエンネイ)」と呼んだ。
傷病兵は病院内におり、慰労品は病院の外にあり、検査を通らねば受け取れない。
外国とは妥協し、国内では排除するか、わめき散らさねばならぬ。
 何香凝さん(
廖承志(リョウショウシ)の母)は嘆息し:
「当時は立ち上がらぬ人だけを怖れたが、今はそれが死なないのだけを怖れる」
しかし、死の道理も内外で異なる。
 荘子曰く:「哀は心が死ぬより大なるはなく、体の死はこれに次ぐ」
これに次ぐものは、両の害の中から軽いのをとる。それ故、外面的な体を死なせ、
内なる心は活かそうとする:或いは正にその心を活かす為、体は死を治める。
これを指して心を治めるという。
 治心の道理はたいへん玄妙で:心は活きるのだが、活き過ぎてはいけない。
 心が死ねば、もう抵抗はしないから、その結果、人々の心は落ち着かない。
心が活き活きしすぎると、色々考え、真剣に抵抗しようと思う:
こう言う人は「絶対抗日とは言えない」(先ずは匪を倒してからとなる)
 人々を落ち着かせるため、心が死んだ人は外遊すべきで、留学は外国に行って、
心を治める方法である。
 だが心が活き活きしすぎると、罪を得て厳罰に処すべしとなり、これこそが国内で
心を治める方法である。
何香凝さんは「誰が罪を犯したかが大問題」と思った――
これは彼女が内外に別ありという道理を知らぬ為である。   4月11日
 
訳者雑感:これは当時の国民党と張学良や共産党との三つ巴の関係を認識しないと、
理解困難な文章である。出版社注では、心が死んだ者は張学良を指すとの由。
 蒋介石は、国内の匪を平らげるのが先で、それから外(日本)に抵抗すると唱えた。
これは当時の国民党の武力から考えて、日本の軍官学校卒業生たる蒋介石が採った、
最も現実的な方法だったかもしれない。毛沢東が「持久戦」を唱えたが、
敵が味方より強大な武力を持っていると考えたら、敵が苦しくなるまで、
忍の一字で、持久戦に持ち込むしかないだろう。
毛沢東は蒋介石軍に対して、そして蒋介石は日本軍に対して。
その当時、張学良は心が死んでしまっていた。が忽然、西安で蒋介石を捕えた。
世に言う1936年12月の西安事件である。ここから変化が始まった。
しかし魯迅はその年10月に他界した。これを目にしたら何を書いただろう。
     2012/12/21記 (マヤ暦で末日とされた日に)
 
 
 
 

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中国人の生命圏

中国人の生命圏
 「虫けら尚、生を貪るを知る」
(出版社注:元代の言葉:この後に人はなぜ命を惜しまないのか、と続く)
中国の民はこれまで「蟻民」と自称してきたが、私は暫時、生命保全のため、
常により安全な所に居る様にしてきた。これに対して英雄豪傑でない人は、
私を嘲笑ったりしないと思う。
 しかし私は公表された文面を余り信じない。往々違った見方をする。
例えば、新聞に北平(北京)で今防空設備を整備中という記事を見ると、
それはあてにならないと思う:だが、古物が南に運ばれるという記事を見ると、
古都も危険だと思い、古物の行く先から、中国の楽土の所在を推測する。
 今、ロットごとの古物が全て上海に集っており、最も安全な所は上海租界と知る。
 しかし家賃はきっと高くなるだろう。
 そうなると蟻民には大打撃だから、別の場所を探さねばならない。
 いろいろ考え、ある「生命圏」を思いついた。
それは「根拠地」でもなく、「辺境(日本軍に占領された後の熱河一帯)」でもない。
その両方に挟まれた中間、まさしく環状の一つの圏のある所で、そこなら、或いは、
「まあ何とか命をX世」か、ながらえることができるかもしれない。
 「辺境」は空爆がある。日本の新聞は「兵匪」剿滅と言い:
中国紙は民を殺戮、村落・市街地は瓦礫と化した、と言う。
「根拠地」も空爆あり。上海紙は「共匪」剿滅で、滅茶苦茶に破壊されたという。
「共匪」の新聞がどう伝えているか知る由も無い。
要するに、「辺境」も爆撃を受け、「根拠地」もバンバンやられている。
ただ両者の中間地帯は爆撃されなければ、「血肉が吹き飛ぶ」ことから免れそうな
望みがあるから、私はそこを「中国人の生命圏」と名付ける。
 再度外部からの爆撃が来たら、この「生命圏」は「生命線」に縮小され:
更に爆撃されたら、人々は皆あのすっかり爆撃を受けた「根拠地」に逃れ、
この「生命圏」は完結し、「生命○」となる。
 実はこういう予感は皆持っており、この一年を見るだけで分かるが、
もう「我中国は地大物博、人口衆多」等の決まり文句を見なくなったのが証だ。
ある人などは、演説で自ら中国人は「弱小民族」だと言った。
しかし金持ちたちはそうは思わない。彼らは飛行機を持っているだけでなく、
彼らたちの「外国」があるから!   4月10日
 
訳者雑感:
 中国人が生命の危険を脅かされずに生きてゆけるのは、日本軍の空爆を受ける
「辺境」地域と、国民党軍の空爆を受ける「共産党の根拠地」の中間である。
それが、時間と共に変化してゆく。熱河から南京、上海。武漢重慶へ。
然し、日本軍は点と線だけと言われた。広大な「生命圏」はなんとか1945年まで、
人々を生き延びさせて、惨勝できた。米ソ両軍が日本を降伏させたのであって、
国民党軍が45年の5-8月の間に、日本軍と激戦して「勝利」したということは、
余り目にしないのは何故だろう。
 国民党軍は相も変わらず対日「不抵抗」作戦をとり続けたのか?
     2012/12/18記
 
 
 

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殺す相手を間違えた

(備考) 殺す相手を間違えた  曹聚仁
 一昨日、某紙に某君が長春から帰った客の話として:
日本人は偽満州国で「アヘン専売」と「幣制統一」の二大政策に成功した。
この二つは張作霖親子の時代、とても手が付けられぬと考えられていたが、
今、連中はあっという間に完了した。某君は嘆息して言う:
「かつて東北の人と幣制紊乱の弊害を論じたとき、みんな「積習改め難し、
と言い逃れて」いたが、日本人はあっという間に成し遂げたのか。
「これは為さざるなり。能わざるに非ずなり」これが我国人の大病根だ!」と。
 あに「病根」のみならんや!中華民族の滅亡と中華民国の転覆もこの肺結核のためだ。一つの社会、一つの民族が老衰期に入ると、何でも「積習改め難し」となり、
それゆえ「革命」せずにはいられぬ。革命は突変の過程であり:その過程で、
善人と悪人が、また善人でもなく、悪人でもない者とが殺し合う。
何人か殺した結果、その対価が得られない訳ではない:
社会に隔離作用が起き、古い社会と新しい社会に明確に二分される。
悪い勢力が新しい組織に伝染しないようにする。だから革命での殺人は基準を定め、
中年以上の人間を多く殺すべきである。
フランス革命の成功は、大恐慌の間に旧勢力を掃討したおかげである。
 しかし中国の革命はいつもその反対である。
多くの青年は革命に参加して犠牲となった:革命の進行中、旧勢力は一時身を隠し、
少しも除かれず:革命成功後、またぞろ復活し、大量の青年を殺して犠牲にした。
孫中山先生が苦労して十数年も革命に身を投じ、辛亥革命が成功したら、
袁世凱が大権を掌握し、連日党人を殺し、15-6歳の少年まで殺そうとした:
 こんな革命は隔離作用を起こせぬばかりか、旧勢力の用心棒に成り下がった:
このため、民国になってから、無気力のみで、元気が失われ、いかなる事業も
改革を論じることなく、論じだしても「積習改め難くの言い逃れ」が落ちだ。
その悪い勢力が今もずうっと続いている。
 この異常な状態を私は「殺す相手を間違えた」と名付ける。
いつも友人と話すのは:
「流血しない革命は無いが、その<流血>の相手を間違えてはならぬ。
早く溥儀を殺し、鄭孝胥(満州国の幹部)流の輩を殺すのが我が国の幸いだ。
25歳以下の青年をみだりに殺すのは真逆であり、社会の元気を失くしてしまうと、
<亡国滅種>の<眼前の報い>を受ける羽目になる」 「自由談」4月10日
 
訳者雑感:張作霖親子が統治していた旧満州を、日本の支配であっという間に
「アヘン専売」「幣制統一」して「病根」を取り除いたという。
偽満州国を作って、半植民地支配を行った。それまでの軍閥が成しえなかったことを
清朝最後の皇帝を担ぎ出して、五族協和・王道楽土などと喧伝した。
 沢山の日本人を開拓団として送り出し、現地の農民から土地を取り上げた。
こうした民族間の植民は、それまでも満州族の故地には漢族を入植させない、
としてきた清朝政府の方針転換で漢族、特に飢饉に悩む農民が大量に押し寄せた。
その次に、やはり世界恐慌と不作に悩む日本の農民が大量に押し寄せたのだが、
今の中国では、開拓団が現地の農民から良い土地を取り上げたことを問題にしている。
 日本側の記述では、荒野を開拓してとても苦労したというのが多いのだが、
双方とも事実であったろう。しかし追い出された者の恨みは消えることは無い。
 
 話しを本題に戻すと、「殺す相手を間違えた」というのは、何を意味するか?
彼はフランス革命に譬えて、旧勢力を殺さずに、革命を担ってきた青年を殺した、
ということが、辛亥革命の「錯誤」であったというのだろう。
 孫文や黄興などは、溥儀や袁世凱以下の旧勢力をなぜ「殺さなかった」のか。
「殺せなかった」というべきだろう。軍隊も持たず、鉄砲すらろくに無い革命軍は、
袁世凱や段祺瑞などの軍隊に依存せざるを得なかったことに根源がある。
 そして袁世凱が清朝を倒して、革命に協力してくれると「錯覚」「夢想」したことに
その後の大混乱の30年を招いた根源がある。
   2012/12/14記
 
 
 
 
 
 

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「殺す相手を間違えた」に異議あり

「殺す相手を間違えた」に異議あり
 曹聚仁氏の「殺す相手を間違えた」は、とても痛快だったが、
思い返してみると、なにか憤激しているようだから、異議を唱えたい――
 袁世凱は辛亥革命後、(革命)党員を大量殺害したが、袁世凱側からみれば、
間違って殺したのではなく、それは彼がエセ革命・反革命だったからだ。
 問題は革命者がだまされ、彼が北洋大臣から本当の革命家に転じたと錯覚し、
同調者として引き入れ、多くの血を流して、彼を総統の地位に就かせたことだ。
二次革命の時、袁世凱はまた大変身し「国民の公僕」から吸血鬼になった。
 しかし実はそうでもない。彼は本性を顕したにすぎない。
それで次々に人を殺した。北京市内の、ホテルや旅館など、全てに密偵を潜ませ:
「軍政執法処」を置き、嫌疑者、逮捕した青年をそこへ連行していったが、
彼らが再び生きて出て来たのを見たことはない:
又「政府公報」には連日のように、党員の離党公告が出ていて、
以前、友人に誘われ、誤って入党したが、今間違いに気付いたので、離脱し、
心を洗いなおして善人になる、という。
 暫くして袁世凱が殺したのは、人違いでなく、皇帝になる為だと証明された。
 20年前のことで、今20歳の青年は当時は乳飲み子。時の経つのは実に速い。
 しかし、袁世凱は皇帝になろうとしたが、なぜ彼のほんとうの敵であったはずの
(清朝の溥儀)旧皇帝を殺さなかったのか?これは余り議論するまでもない。
ただ現在の軍閥の混戦を見れば明らかだ。
彼らは生死をかけて争い、不倶戴天の敵のように叩きあうが、後に相手が「下野」
するとなれば、すぐとても丁重に扱った。だが革命者に対しては、争っていなくても、
一人も容赦せずに殺した。彼らは良く分かっていた。
 私は中国革命がこんなになったのは、彼らが「相手を間違えて殺した」為ではなく、
我々が相手を見誤った為だと思う。
 最後に「中年以上の人間を沢山殺せ」という主張については、少し異議があるが、
私も「中年以上」だから、要らぬ嫌疑を受けぬよう、目をつぶっておく。4月10日
(これは次に引用する曹氏の本文参照:訳者注)
 
 原稿には「丁重に」の次に、「外遊するとなれば、盛大に歓送会をし」
と言う意味の文章を書いておいたが、後に削られた。  4月12日記
 
訳者雑感:
今北京には袁世凱の「軍政執法処」と同じような「黒監獄」というものができ、
中央政府に異議を申し立てるために、地方から上京してきた「嫌疑者」たちを、
有無を言わさずそこに連行している、と報じられている。
黒監獄は、法の手続きを踏まずに、勝手に連行できる所で、何か所もある由。
彼らは再び生きて社会に戻ってこられるだろうか?心配だ。
 袁世凱の時代から百年経っても、考え方は変わっていないようだ。
ただ、習主席は、8つの方針を打ち出し、党の腐敗を減らそう無くそうとしている。
深セン視察には、道路を封鎖させなかった。道路に歓迎の旗振りを配備させなかった。
今後は会議で原稿を読むのを禁じたし、海外訪問時にも華僑や留学生の動員を禁じた。
 元の木阿弥にならぬことを切に願う。
   2012/12/11記

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推背図(裏から読む)

推背図(裏から読む)
 この「裏から読む」というのは:裏から未来を推量する意。
 先月の「自由談」に「文面を裏から読む方法」という一篇があり、
これは身の毛のよだつものである。こういう結論を得るまでには、
それまでにきっと多くの苦しい経験をし、多くの犠牲を払ってきたのだから。
(出版社注:当時の「飛行機で救国」しようと募金を集め、購入した飛行機は
日本との戦にではなく、「匪」(紅軍)爆撃に使われた事を指す)
本草家(薬草の専門家)が:砒素は猛毒と書く。たった4文字だが、
彼は確かに、その毒がかつて何人もの命を奪ったことを知っているのだ。
 巷の笑い話に:甲某は銀30両を埋め、盗られないように、その上に板を立て、
「ここに銀30両は無い」と書いた。
隣の阿二がそれを掘り出したが、露見を怖れ、板の裏に一筆添えた。
「隣の阿二はこれまで盗みを働いたこと無し」と。
これが正しく「文面を裏から読む方法」だ。
 だが我々が日々目にするものは、そんな単純なものではない。
やります、と明言するのは、実はやりませんということ:
やりません、と明言するのは、実はやるということ:
こういう方法でします、と明言するのは、実は別のやり方でやること:
実は自分がそうしたいのに、他の人がそうしたいと言っているから、という:
ひと声も発さぬが、実はやってしまっている。
又こうすると言いつつ、本当にそうするのもあり、難しさはここにある。
 例えば最近新聞に載った重要ニュースで:
1.xx軍はxxで血戦、敵xxxx人を殺した。
2.xxの談話:日本と直接交渉は一切せず、初志貫徹、徹底抗戦する。
3.芳沢(日本の外相)の来華は、私的な訪問の由。
4.共産党は日本と連携し、偽の中央は既に幹部xxを日本に派して折衝中。
5.xxは……。
 これらすべてが逆の意味と考えると、なんとも驚かされることばかり。
しかし、紙面には「莫干山路地区のわら船百余隻大火」「xx大安売り4日限り」等、
大抵は「裏読み」する要の無い記事もあり、頭が混乱してしまう。
 「裏から読む」という本は、かつては大変霊験あらたかだったそうだが、
某朝廷の某帝が人心を惑わすのを怖れ、贋物を混入させたため、
予知不能となり、それ以降は、事実が証明してからやっと悟るようになった由。
 我々も事実が明確に顕れるのを待つしかないが、そう遠くはないだろうが、
今年中にということにはならないだろう。 4月2日
 
訳者雑感:
 文字の国中国では、牛骨や亀甲に字を書いて、火で炙って割れ目が出た後、
それを判読して将来を占った。そこに書かれたのが甲骨文字だ。
この「推背図」というのは一種の占い・予言の図冊だという。
 魯迅が新聞に載った重要ニュースの見出しを引用して、政府の公式発表が、
殆どはその逆であると判読すべきと喝破している。
 今日の中国でも「反腐敗・反汚職」運動を積極的に展開している云々と発表し、
具体的には六十万以上が逮捕されたとし、最近も重慶を始め、全国各地で、
地方高官が写真付きでテレビ報道されている。
 これは一般庶民へ如何に政府が本腰を入れて取り組んでいるかを
「正面からの文」として発表しているのだが、魯迅がこれを裏から読んだら、
どういうことになるだろう?
共産主義というのは、1920年代に中国に共産党ができたころには、
「財産を共有する」という意味に使われ、金持ちたちが自分たちの財産を
貧しい連中に持って行かれる、何人もいる妻妾(これも財産と看做され)も
共有される、と戦々兢々となった。
革命後、全ての地主の土地は取りあげられ、農奴はいなくなったと宣言された。
 それが今、財産は汚職や腐敗を専らとする幹部が占有するという意味に変じた。
「裏から読む」と共産党の上層部が財産を私するという意味に変じた。
    2012/12/09記
 
 
 

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最も芸術的な国家

最も芸術的な国家
我々中国の最も偉大で最も永遠かつ普遍的な「芸術」は、男が女を演じることだ。
これが尊ばれるのは、両面で光ることで、或いは「中庸」とも言えるが――
男は「女に扮する」のを観、女は「男が扮する」のを観ることにある。
みかけ上は中性だが、中身は無論男だ。しかしうまく扮しなければ芸術にならない。
例えば、中国の固有文化に科挙があり、それに官位を買うということもある。
当初、これは民権とはとても釣り合わぬものとみなされ、時代の潮流にあわぬとして、
中華民国というものを演じることになった。
しかしこの民国というものは長い間、修繕されず、看板もすでにはげ落ち、
まるで女形の顔の脂粉のようになってしまった。
そこで真面目な民衆は真剣に政権を取ろうとし、ついに科甲出身者と
買官出身者を追い出して、参政権を奪おうとした。
これは民族に対して忠ではなく、祖先に対しても孝ではなく、実際は反動である。
今すでに固有文化の「時代の潮流」に戻っており、こんな不忠不孝を放任できない。
だからもう一度新たに演じる他なく、草案は次の通り:
第一、国民を代表する資格のあるものは、須らく試験で決める。
第二、(選)挙人を選んだ後、その中から再度、挙人を選び、これを挙人を選ぶという:
選ばれた挙人は被選挙人だ。文法的に言えば、このような国民大会の選挙人は、
「挙人を選ぶ者」と称すべきで、被選挙人は「選ばれた挙人」と称すべきだ。
しかし、もしそれを演じなかったら、それでも芸術になるだろうか?
それで彼らは憲政国家の選挙人と被選挙人を演じなければならぬが、
実際にはやはり(科挙制の)秀才と挙人になるわけだ。
 この草案の深意はここにあり:
民衆に対して見せるのは民権で、民族の祖宗に対しては忠孝で――
科挙を固有してきた民族に忠で、科挙を制定した祖宗に孝なのである。
 この外、上海のようにすでに民権を実現し、納税者だけが選挙と被選挙権を有し、
この大上海にわずか4,465人の大市民をあますのみ。
これは買官とはいえ――主に金持ちで、彼らは必ず挙人になれ、補試を受けなくても
進士出身と同じ身分を賜り、西洋人の旦那の膝元での模範者だから、
当然それに見習うべきであり、況やこれも一面、固有文化に背いてなどいないし、
またもう一面では、さも憲政民権のように演じているではないか?これがその一。
 その二、一面で交渉し、一面で抵抗するで:
こちら側から見ると抵抗だが、あちら側からは実は交渉となる。
その三、一面、実業家・バンカーだが、もう一面では「小民」に過ぎぬと自称する。
その四、一面では日本製品の売れ行きがまた盛んになっているのに、
もう一面では、人に対して「国産品愛用の年」と説いて回る…。
もろもろ、この類は枚挙に暇がなく、多くはとても巧妙に演じられ、
両面とも光って、つやつやしている。
 ア―。中国は本当に最も芸術的な国であり、最も中庸な民族である。
 しかし民衆はそれに対してやはり不満であり、
嗚呼、君子は中庸(を保ち)、小人は中庸に反す也。(出版社注では、「礼記・中庸」に、
「仲尼曰く:君子中庸、小人反中庸」とあり、訳者は、君子とは中庸を保てる人で、
小人は中庸に反していると理解する)  3月30日
 
訳者雑感:
 この草案の挙人と被選挙人を「共産党員と全人代代表候補」と読み替えると
21世紀の中国共産党一党独裁の体制が、民衆に対しては「民権」を見せつつ
祖宗に対しては「科挙」の仕組みを堅持していることを見せて忠孝を保持しているということが良く分かる。13億人の民衆には選挙権は無く、8千万といわれる党員になることが
まず先である。それだけでなく、有名大学を卒業して役人になり、地方自治で腕をふるい、
成果を挙げて、資金も蓄えて「実力」を発揮して上昇気流に乗る。
この考え方は「不易」のようだ。
    2012/12/06記
   

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文人に文無し

文人に文無し
 「大」の字がつく新聞の副刊に(大晩報)に「張」という姓の人が、
『中国の有為の青年に向かって「文人は元来行儀が悪い」という幌を隠れ蓑に、
人を罵るような悪癖を犯さぬように』と訴えている。それはその通りだ。
但し、その「行儀が悪い」の定義は、大変厳しいものである。
「所謂行儀が悪い」とは、いろいろな規則を守らず、不道徳な行為を指すだけでなく、
凡そ人としての情にはずれた劣悪な行為を含む」ということだ。
 ついで日本の文人の「悪癖」を例に挙げ、中国の有為の青年への殷鑑として、
一つ「宮地嘉六が指の爪で髪をすく」もう一つは「金子洋文が舌舐めずりする」等。
 勿論、唇が渇くことや、髪が痒いのは、古今の聖賢は美徳とはしなかったが、
悪徳として斥けなかった。はからずも、中国上海では、掻いたり舐めたりするのは、
それが自分の唇と髪でも「人の情から外れた劣悪な行為」となるそうだから、
しょうしょう気持悪くても辛抱する他ない。
有為の青年や文人になろうとするのは、日一日とますます難しくなってきた。
 だが中国の文人の「悪癖」は実はそんなことにはない。
只ただ彼が文章を書きさえすれば、掻いたり舐めたりする事は問題ではない。
「人の情に外れる」のは「文人の行儀が悪い」ではなく「文人に文章が無い」のだ。
 我々は2-3年前、雑誌で某詩人が西湖へ行き、詩を吟じたとか、
某文豪が50万字の小説を書いたという記事を見たが、これまで、何の予告もなく
出版された「子夜」以外、他に大作は何も出ていない。
 瑣事を拾いあげ、随筆を書く者はおり:古い文章を改作して自作とするのもいる。
寝ぼけた話を書いて評論だと称する者や:
薄っぺらな雑誌を出して一人密かに自慢しているのもいる。
猥談を集め、下らぬ作品を書き、旧文を蒐集し、評伝を出すのもいる。
ひどいのになると、外国文壇のニュースを少し翻訳して世界文学史家になり:
文学者辞典を作り、自分もその中に入れて世界的な文人になったのもいる。
そして今やもう、みんな中国の金看板的「文人」となっている。
 文人は文無しではすまされぬし、武人も同じく武無しでは話しにならない。
「戈を枕に旦(朝)まで待つ」と言いながら、夜になんの活動もせず、
「死を賭けて抵抗を誓うと言いながら、百余人の敵を見るとすぐ逃げ出した。
 只、電報や宣言の類だけは、駢儷体で書いて見事な文章をものしたという。
「武を偃(ふせ)、文を修す」という古くからの明訓があるが、
今は文章を司る星座は軍営を照らしているだけだ。
 そこで我々の「文人」は、唇を舐めることや、髪を掻かないようにし、
人の情を押し殺して、ただ単に「行儀をよくする」だけで満足している。
       3月28日
訳者雑感:
 1930年代の中国では、武人が(抗日)戦争に逃げ腰で、なんら抵抗せず、
文人も何の文章も書かないことを難じている。
文章で以て中国人の考え方・性格を改造しようと志してきた魯迅にとって、
当時の所謂文人たちが、上述のような「お茶を濁す」文章ばかり書いて、
人を感動させ・動かすようなものを書かなくなったことを嘆じている。
 しかし魯迅本人ももう長い間、所謂人を感動させる「文学作品としての小説」
を書けなくなっていた。そんなエネルギー・構想力が衰えていたのだろう。
またそれを発表する場も無かったのだろう。
2-3頁の雑感が殆どであるのは、どういう背景があるのだろうか?
翻訳で外国の作品の紹介に努めているが、紹興を舞台とした多くの作品から、
上海を舞台にした作品を書けなくなったのはなぜか?彼もその自覚はあったろう。
  2012/12/04記
 
 
 
 
 

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魂を売り渡す秘訣

 魂を売り渡す秘訣
 数年前、胡適博士は「五鬼が中華を騒がす」という文をものして曰く:
今この世界で所謂帝国主義の類が中国を侵略することはない。
それは中国自身の「貧窮」「愚昧」…等5つの鬼のせいである。
そのために皆が大変不安に陥っている、というそうだ。
 このたび、博士は又6つ目の鬼を発見し、それは仇恨だという。
この鬼は中華だけでなく、友邦にもその禍が及び、東京に飛び火した。
そのため胡適博士は対症薬をつくり、「日本の友人」に進呈しようとした。
 博士によると「日本軍閥の中国に於ける暴行がもたらした仇恨は、
今日ではもう消すことがとても困難で」「日本は暴力で中国を決して征服できない」
(胡適の最近の談話の新聞報道による、以下同じ)これは憂慮すべきことだ:
本当に中国征服の方法は無いだろうか? いや方法はあるのだ。
「九世の仇となるか、百年の友か、いずれも覚悟するか否かがカギである」――
「中国を征服する方法が一つしかない。即ち崖淵から馬をすぐ引き戻し、
中国侵略を全面停止し、翻って中国民族の心を征服するのだ」
 これが「中国征服の唯一の方法」という。その通りだろう。
古代の儒教の軍師も「徳を以て人を服すのは王、真心は誠に服す也」と言った。
博士は日本帝国主義の軍師たるに愧じない。
ただ、中国の民衆からすれば、魂を売る唯一の秘訣である。
中国民衆は実に「愚昧」で、暦来自分の「民族性」を知らず、
これまで仇恨しか知らなかった。
日本の陛下が大いに慈悲を発し、ひょっとしてもし胡適博士の上申を採用したら、
所謂「忠孝仁愛信義和平」の中国固有文化はすぐにも回復できる:――
日本は暴力を使わず、軟功の王道を用いるから、中国民族はもう仇恨を感じることは無い。
仇恨が無ければ、おのずと抵抗も無くなり、抵抗が無ければより平和になり、
より忠孝……中国の肉体はもとより買う事が出来るし、中国の魂も征服される。
 惜しいかな、この「唯一の方法」の実現は、日本の陛下の覚悟にすべて掛っている。
もしその覚悟が無ければ、どうすればよいか?胡博士は答えていう:
「如何ともしがたくなったら、恥辱だが城下の盟を受ければよい。
それは真に如何ともしがたい時――その時には「仇恨鬼」も消え去ろうとはしないから。
これが初めから終わりまで、中国の民族性の汚点となり、日本にとっても万全の道とは
けっしていえない。
 このため、胡博士は太平洋会議出席の準備をし、再度彼の日本の友人に「忠告」
しに行こうとしている。
中国征服の方法は無いわけではない。どうか我々が魂を売るのを受け入れてほしい、と。
それにこれは何も難しいことはない。所謂「侵略を徹底的に停止」すればよく、
元来「公平に」リットン報告を執行すれば――仇恨は自然とすぐ無くなるのだ!
      3月22日
 
訳者雑感:
趙無眠氏が「日本が中国に戦勝していたら」というテーマの本を出している。
氏の趣旨は、モンゴル族や満州族が中国に攻め入って大帝国を築いたが、
最終的には「漢文化」の影響を受け、「漢化」して「中華帝国」となったように、
日本民族が漢化され、東アジアに超大国ができれば、欧米諸国と対等になれる。
というようなものであったと記憶する。
 胡適博士は趙さんより70年ほど前に、日本の友人に対して、「侵略を停止し、
王道で以て中国民族の心を征服」するよう忠告したようだ。
 確かに漢民族は満州族に征服されたとき、彼らの風俗である辮髪にすることに、
最初は激しく抵抗したが、辮髪をしなければ首を斬るといわれて、それを受け入れ、
暫くしたらもう辮髪が自分たちに無くてはならないものと考え始めた。
 太平天国の時は、長髪にするか首を失うか!というのがスローガンだった。
1911年の辛亥革命前に辮髪を切った洋行帰りの連中の首も斬ろうとする動きが出た。
これは風俗的外見上の問題だが、これが漢民族の魂まで征服したことを物語る。
 過去の長い歴史の間に、北魏や遼、金・元・清など外来異民族の支配を受け、
それらの間に「魂を売りながら」彼らの風俗も押し付けられつつも、最終的には
それらの支配者たちを漢化し、骨抜きにして「排満復明」などで中華再興を図ってきた。
魯迅はここで完膚なきまでに胡適を批判しているが、何割かのエリートたちは、
日本との間で、「暴力行為である戦闘」を即時停止して、「魂」を売ることで、
国民生活の「安寧」を得ようとしていたのだ。フランスのペタンのように。
    2012/12/01記
 
 
 
 

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「人間の発言」

「人間の発言」
  オランダ作家V.Eeden―惜しいかな、去年死去したが―の童話「小さきヨハネ」に、2種の菌類が口論しているのを傍らからある男が「お前たちはどちらも有毒だ」と批判したら、菌類は驚いて、「お前は人間か?おおそれは人間の言い草だ!」と。
  菌類の立場からは確かに驚き叫ぶべきことだ。人は彼らを食べるから、有毒か否か、に注意するが、菌類にとっては関係ないし、問題にもならぬ。
  科学知識の本や文章を人々に与える為だとは言え、面白くするために往々にして、 「人が話す」ようにしている。この欠点はファーブルの有名な「昆虫記」でも、それを免れていない。手元にあるものを記すのだが、近頃雑誌で偶然見た青年向けの生物学を教える文章にこういう叙述あり――
『鳥糞クモ…形は鳥糞に似、じっと伏して動かず、鳥糞のように偽装できる』 『動物界に、自分の夫を食い殺すものも大変多いが、最も有名なのは先に述べたクモと、これから話すカマキリ…』
  これらも「人間の発言」に偏している。鳥糞クモは只形がそれに似ていて、 性情もあまり動かないが、故意に鳥糞の形に偽装しているわけではなく、その意図は、 小さな昆虫を欺く事にあり、カマキリの世界に(人の倫理を説いた)五倫説は無く、 交尾中に雄を食べるのは只腹が減っているからで、それが自分の主人とは知るべくもない。
だが「人間の言葉」として書くと、ひとつは陰謀で他を殺害する凶悪犯となるし、もう一つは、自分の夫を殺す毒婦となる。だがそれらはみな冤罪だ。
 「人の言葉」にも色々あり:「高等華人」「下等華人」とか、浙江省の西の田舎女の無知を嘲笑うもの等あり、それを記すと――
『とても熱い昼時、農婦はとても仕事が辛くてふとため息をもらしこう言った:
 「皇后さまはどんなにか楽だろうね。こんな時分には昼寝していて、醒めたらこう言う: 宦官や!干し柿を持て!と』
  しかしこれは「下等華人」の話しではなく、「高等華人」が考えている「下等華人」で実は「高等華人」の話しだ。下等華人はそういう時にそんなことを言うとは限らない。
もしそう言ったとしてもそれは笑い話ではない。
  更に続けると、階級文学が面倒を引き起こすとして、「中止」ということになる。
  今多くの人が本を出しているが、大抵は青年または少年への手紙形式だ。 勿論話すのは「人の言葉」だが、どの種の物かは知らぬ。
なぜ年配の人たち向けに書かないのか?いまさら彼らに教えても無駄だからか?
 青年と少年は比較的純真で、かんたんに騙せるからか?  3月21日

 訳者雑感:本編の趣旨はなかなか理解しがたい。
 推測するに、これまでの中国の「文章」は「高等華人」が独占してきて、それが下等華人の事を書いて笑い話にしてきた。下等華人は実はそんなことを考えてもいないのに。
とこう書いてくると、やはり当時の趨勢として、下等華人と看做されて来た「労農階級」が自分の言葉で文章を書くようになることが大事だと訴えているのか。
さらにそれを書きだすと、「階級文学」が面倒を引き起こすから「止めろ」ということになる。
 細菌や鳥糞クモ、カマキリの雌のことなど、高等華人は有毒とか凶悪犯とか、 毒婦と書くが、彼らは彼らなりの生存のための行為をしているに過ぎない。
    2012/11/23訳
  
 
 
 

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「光の射す所」

「光の射す所」
 中国の監獄の拷問は公然の秘密だ。先月、民権保障同盟がこれを取り上げた。
だが外国人が出している「North China Daily Report」2月15日付けの
「北京通信」に載った胡適博士の自ら何ヵ所かの監獄を視察した報告には、
「とても親愛的」に記者に語って曰く:
『彼の慎重な調査によれば、実際に拷問のほんの軽微な証拠も得られず、……
彼らは囚人と容易に話せ、胡適博士は英語で彼らと話すことができた。
監獄の状況に彼(胡適博士:筆者注)は満足できぬが、彼らはとても自由で、
(おおー、とても自由だと:筆者注)待遇が劣悪で侮辱的だと訴えているが、
厳刑拷問に関してはなんの暗示も無かった。…』
 私は今回の「慎重な調査」に随行する光栄に浴さなかったが、10年前、
北京の模範監獄を参観したことがある。模範監獄とはいえ、囚人を訪問するのは、
話しをするのもとても不「自由」で、窓を隔て、互いに三尺ほど離れ、傍らには
獄卒が立ち、時間も制限され、暗号禁止で、況や外国語をや、であった。
 今回胡適博士は「英語で彼らと話せた」とはまことに特別扱いだ。
中国の監獄が本当にここまで改善され、これほど「自由」になったのかも知れぬ:
だが実は獄卒が英語に驚き、胡博士をリットン卿と同郷で由緒ある人と思った為かも?
 幸い今回「招商局三大(疑獄)事件」の胡博士の題辞を見た。
「検挙を公開することが、暗黒政治打倒の唯一の武器で、光の射す所、暗黒は自ら消える」
(原文は新式句読点がないので、私が遷越にも付けた:筆者注)
 それで大いに悟った。監獄は外国語で囚人と話すのを禁じているが、胡博士には
特例とし、彼は「検挙を公開」できるから、彼は外国人と「親密に」話せるし、
彼が「光」だから、「光」の射す所、「暗黒」は自ら消える、というわけだ。
そこで外国人向けに民権保障同盟(会員)を「公開検挙」し、同盟側は「暗黒」になった。
 しかしこの「光」が帰った後、監獄は他の人も「英語」で囚人と話せるように
なったかどうか知らない。
 それが許されないということなら、「光が去れば暗黒が又来る」である。
 そしてこの「光」は又、大学と義和団事変の賠償金返還委員の仕事で忙しく、
そう頻繁に「暗黒」所に行けず、第二回目の監獄の「慎重調査」前には、
囚人は「自由自在」に「英語」を話せる幸運には恵まれるとは限らない。
嗚呼。光明はただ「光」と共に去り、監獄の光明世界はほんとうに短かかった!
 だがこれは誰も恨むことはできない。彼らは守るべき「法」を犯したのだから!
「善人」(胡適の提唱した善人の主導する良い政府)が「法」を犯すことはない。
もし信じられないなら、この「光」を見てみよ!   3月15日
訳者雑感:
 魯迅は民権保障同盟(1932年宋慶齢、蔡元培らとともに設立した)が国民党に
迫害された状況を、監獄の囚人(原文は犯人)からの拷問の訴えに対して、
外国人向けに胡適が監獄に調査に赴き、英語で囚人たちと話をし、彼らが自由で、
待遇が劣悪では無かった云々と新聞に載せた。これはそれに徹底反駁せるもの。
監獄で、英語で話せる訳が無い。明らかに外国人向けのポーズである。
囚人たちも英語で応じたのだから、民権保障同盟会員は皆インテリであったろう。
 こうした反政府的な組織を弾圧・迫害・拷問するというのは古来変わらず、
今なお重慶などで大変多くの無辜の市民が無実の罪で囚われていた。
市民だけでなく、地方政府の役人も収賄などで60万人以上が逮捕されたという。
実際に法を犯したのだろうが、どのような取り調べ・裁判がなされているか不明だ。
「光の射す所」は「暗黒が自から消える」というが、「光」は他の用事で忙しく、
いつも暗い所へ射しに来てくれるわけではない。
   2012/11/21訳
 
 
 
 
 
 
 
 

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