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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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王化

王化
 中国の王化は今まことに「光は四方上下にいたる」(尚書)ものである。
 溥儀の弟嫁が料理長と3万余元を持って逐電した。
そこで中国の法廷は彼女を捕え「夫の家に戻して監督させる」判定を下した。
満州国は「偽」だが、夫権は「偽」ではない。
 新疆の回族が騒いだので、宣撫使を派遣した。
 蒙古の王公が流浪の果て、行き先が無くなったので「蒙古王公救済委員会」 を特別に作った。
 西蔵の懐柔に、パンチェンラマに御経を念じて呪文を唱えてもらった。
そして、最も寛仁な王化政策は広西の瑤民への対応策と言える。
「大晩報」に、この「寛仁政策」は、3万瑤民のうち、3千人を殺したという。
三台の飛行機が瑤族の洞(家)に「卵を落とし」彼らに「天神天将が来た、 と驚きいぶからせ、戦わずして投降」せしめた由。

その後、瑤民の代表を選び、外埠を観光させ、彼らに「上国」の文化として、 街路に金ぴか制服のインド人巡査のいかめしい姿などを見物させた。
インド人巡査は「ガタガタ騒ぐな!」と怒鳴った。
 これらもうすでに久しく前に帰化した「夷犾」は近頃「ガタガタ騒ぐ」のは、 どうやら恨みがあるからだ。
王化が盛んな頃は、「東面すると西夷が恨み、南面すると北犾が恨む」のも、 当然の道理である。(尚書:早く自分の所も王化して欲しいとの意)  だが東奔西走し、南征北伐するに決して怠けているのではない。
苦しいけれど「精神的勝利」は我らにあるのだ。
 「偽」満州の夫権保障の後、蒙古王公を救済し、ラマの経と呪を念じ終え、 回族は本当に安心でき、瑤民は「戦わずして投降」したら、次は何ができるか?
もちろん、ただ、文徳を修め、以て「遠く離れた所にいる異族」日本を服すのみ。
この時、我らのインド人巡査式の責任は果たし尽くせたと考えられる。
 嗚呼、草の民は盛世に生まれ、遠くに歓呼の声を聞いて、鼓舞するのみ!
(孫文が1894年、李鴻章への上書の句)  5月7日
 
 本篇は新聞検閲により、没となった。幸い瑤民でもなく、租界に居たので、 国産飛行機の「卵の落下」も免れたが、「ガタガタ騒ぐな」は一律に受けた。
従って「歓呼」も許されず――されば、一声も発すことあたわず、 死んだふりの救国あるのみ。  十五夜記
 
訳者雑感:
 日本に触れた段の原文は「自然只有修文徳以服“遠人”的日本了」とある。
出版社注に、“遠人”は異族或いは外国人を指し、「論語・季氏」に:
“故に遠人が服さぬなら、則、文徳を修め以て之を来させしむ”とある。
武力で服さぬなら、文徳を修めさせて云々と読める。
文脈からすると、この当時の対日政策は、日本に服従させられるのではなく、 日本を(他の周辺民族のように)文徳で中国に服させる、ことにあったようだ。
武力で滅茶苦茶にされているが「精神的勝利は我らにある」、と。
    2013/01/12記
 

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盛宣懐から道理のある圧迫を語る


 盛氏の先祖は積徳がとても厚く、子孫は「失地回復」を2度も行えた:
最初は袁世凱の民国政府治下、次は今回の国民政府治下である。
 民国元年の頃、盛宣懐は売国奴だとされ、家産はすべて没収された。
暫くして、第二次革命後、返還された由。それは何の不思議も無い。
袁世凱の「同類の不幸を憐れむ」の御蔭で、自身も売国奴だからである。
毎年5.7と5.9を記念するではないか?
(21カ条調印の国恥記念日)
袁世凱が21カ条を調印したのは売国の真の証だ。
 最近また紙上でニュースを見た。趣旨は「盛氏の家産は命令により返還され、 蘇州の留園、江陰無錫の土地家屋などは現在手続中」の由。
 これには驚いた。聞いたら、民国16年、国民革命軍が上海南京に来た時、 又盛氏の家産を没収した:当時の罪名は「土豪劣紳」で、紳も「劣」となった訳。
売国奴の旧罪に加え、当然没収すべし、となった。だが何故返還したのか?
 第一、現在、売国奴がいるなどと疑ってはならぬ。本当の証拠が無いから――
今の人はすでに屈辱的な条約には調印せぬことを誓っており、彼らは盛宣懐や、 袁世凱とは比べようもない。(国民政府は袁のような屈辱的条約は調印せぬという)  第二、今まさに飛行機募金の最中で、政府の財政が厳しいことはよく知っている。
それなのになぜだ?
 学理的な研究の結果――圧迫には元来2種あり:
一つは理のあるもので、且つ永久にあるもの。もう一つは理が無いもの。
理のあるものとは、小民に高利子の返済や田租を上納せよと迫るもの。
この種圧迫の「理」は公告に:「借金返済は国内外、同じ理の定めあり、田祖納税も、 千古不変の鉄則なり」 理のないものは、盛宣懐の家産没収など:大金持ちの紳士を「圧迫」する手段は、 当時も多分理があっただろうが、今ではもう理の無いことになった。
 新聞で初めて「メーデーの労働者に告げる書」の記事を見た:
「自国資本家の理の無い圧迫に反抗せよ」には驚いた。
これは階級闘争の提唱ではないか?後によく考えてみたらこうだと悟った。
これは理の無い圧迫には反抗せよというので、理の有るのは含まぬ、と。
理があるかどうかは下記で明らかで、下記すると:
「克苦耐労し、生産に励み…、困難な時も、労資間の真誠の協力に努め、 労資間の全ての紛糾を無くすべきで」云々とあり、 更に「中国の労働者は外国の様に辛く苦しくはない」などと続く。
 思うに、それほど大仰に驚くことも無いのだが、天下の事は大概道理があり、 全ての圧迫もかくの如しである。ましてや、盛宣懐などに対する理由は少ないが、 労働者への対応は無いということはあり得ない。   5月6日

訳者雑感:
 「天津のコンプラドール」を書いていた頃、梁さんの父親の世代は、若い頃、 広東や香港で英語を学び、ジャーディンのコンプラドールとして上海や天津に来た。
広東語英語の他に北京語や上海語も操って、李鴻章や袁世凱などと外国資本を 結び付け、鉄道や鉱山開発、商船会社、郵電局、器械・製鉄会社などを起こした。
 その巨頭ともいうべき大官僚資本家が盛宣懐である。大変な財を成した。
民国元年とは辛亥革命のころだが、彼は「売国奴」とされ、財産を没収された。
だが、暫くして袁世凱は同類相哀れむでそれを返還したという。
しかし1928-9年頃の第二次革命で、国民党政府は蘇州など江南各地の土地、 産業などを全て没収した。それを33年に又返還したのだ。訳が分からない。
 魯迅もこれは理解しがたく、彼なりの解釈を加えている。
古来、中国では突出した「大金持ちの紳士」の家産を没収した例は多々ある。
しかし、10年ごとに、没収・返還を繰り返す裏には、盛家と政府の間に「取引」が 存在したに違いない。
 政府の役人は没収したものの、そこから何も「うまい汁」は吸えない。
それを元の持ち主に「返還」すれば、役人としてとてもうまい汁が吸えるのだ。
梁さん一家も、新中国成立後、いろいろな難癖をつけられて、家産を没収され、 彼は本家の邸宅は取りあげられ、離れに住んでいた。
住所の番地には元の番地に「余」がついていた。
    2013/01/11記
 
 
 
 
 
 
 
 

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責任を負わぬ戦車

責任を負わぬ戦車
 最近紙上で、江西人が初めて戦車を見たと報じた。勿論江西人には良い眼福だ。
だが、ある人は不安そうに又戦車義捐金を取られるのでは、と怖れる。
私は別の事を下記する:
 自称「張」という人が「私は言論の不自由を擁護する者で…言論が不自由でこそ、
良い文章が生まれ、所謂、冷笑諷刺ユーモアその他の諸々が、責任を負わぬ文体で、
強制的圧迫の下で応用されて生まれる」と言った。
これは所謂責任を負わぬ文体だが、戦車との比較においてどうか、分からない。
 風刺などがなぜ責任を負わぬか、私はほんとうにわからない。
だが人々が「根拠の無い話」はなぜダメなのかという議論や、「暗闇から矢を放ち」
どのように天才を射殺するか、などを多年に亘って聞いてきた。
長い間、そうだということは何やら道理がありそうである。
大体のところ、人を罵るのは、好漢になれない肝の小さいものがすることだが、
厚い鉄板に隠れ――戦車から、パンパンと爆撃するのは痛快至極だが肝は大きくない。
 高等人はこれまで厚い物の後に隠れ、人を殺すのが上手かった。
昔は厚い城壁で、盗賊や匪賊を防いだ。今は鋼鉄の防弾チョッキ、鉄甲車、戦車だ。
「民国」と私有財産を保障する重厚な法律本もとても分厚いものである。
天子から卿大臣の棺材も庶民のよりとても厚い。面の皮の厚さも古礼に合っている。
 只、下等人が自衛したいといっても「責任は負えぬ」と嘲笑されるのが落ちだ。
 「さあ出てこい!出てこい!影に隠れて根拠の無いことを喚くのは卑怯者ぞ!」
 但、君が当局のペテンにはまり、本当に丸裸で前線に飛び出して行くと、
あたかも許褚(三国志の豪傑)のような好漢にみえるが、相手はすぐ一発ぶちかまし、
まったく何の遠慮もしない。しかる後、金聖嘆の「三国演義」を批す筆法をまねて、
罵声一発「誰がお前に丸裸で出てこいと言った」――死にそこない。
要するに、死ぬも生きるもすべて罪ありとなる。
実に人となるはとても難しく、戦車になるはとても容易なのがわかる。5月6日
 
訳者雑感:正月3日の「南方週末」の記事すりかえを巡る抗議とストライキに、
ネット市民や北京の出版社などが反応し、「言論の自由」をと叫んでいる。
以前の中国では、こういう当局の勝手な「すりかえ」は、それ自体も報じられず、
それゆえに、それに反対するストライキや抗議も報じられることは無かった。
「言論が不自由だから…」こうした抗議行動が讃えられている。
魯迅の時代ももちろん国民党政府を批判する記事・文章を新聞に発表しようにも、
当局が印刷を許可しなかったから、検閲を「すりぬけられる」文章をひねり出した。
それが良い文章かどうかは、わからない。ただ相当頭脳を使わないと書けない。
「南方週末」の記者たちはどうなるだろう。 2013/01/10記

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「多難の月」

「多難の月」
 前月末の新聞に5月は「多難の月」というのが多かった。
こういう言い方は以前は無かった。今、この「多難の月」となった。
過ぎ去った日々を思い出すと、確かに5.1は「メーデー」で「多難」であり:
5.3は済南惨案の記念日でこれも「多難」に属す。
但、5.4は新文化運動が発揚したし、5.5は革命政府成立の佳日であり、 どうして全て「難」の字の山に積み上げるのか?実に奇妙でおかしい!
 だがこの「難」の字を国民の「受難」の「難」に解さずに、人を「こまらせる」 という意味の「難」に解せば、一切の困難はきれいに氷解する。
 時勢もほんとうに変化が早く、昔の佳節も後には難関となるのを免れぬ。
 かつて、大会というと多くの人が広い空き地に集ったものだが、 今や機に乗じて騒ぎを起こすのを防ぐため、代表に書面を出して、ビル内に召集し、 軍警に秩序維持を要請するようになった。
以前、要人が外出する時は、「道を清掃」(俗語で「街を清浄」)させて、地上を移動した。
今は「不軌を謀る」(張作霖の列車爆発を指す:出版社、以下同)のを防ぐためには、 飛行機に乗らねばならず、(張学良は辞職して)外遊する時になって初めてそれを、友人に安心して贈れるようになった。(宋子文と蒋介石に贈った)
著名人は骨董店に出かけるのは、以前も別に珍しくもなかったが、今は「平服」だが、 「平服」で騒いでも誰も聞いてくれないから、名山に登るか、古廟に入る他なく、 これは何も驚くに当たらない。要するに、頼るべき国の柱石の多くは、 すでに半空にあり、最も低いところでも高楼峻嶺に上がってしまい、地上には疑わしい 民百姓だけが留まって、本当に「下民」となり、また民なのか匪なのかも分け難く、 慶弔の際には、「仮名で騒ぎを引き起こす」ことになる。

これまで「華洋(中華と西洋)双方の当局の事前の厳格な防止策」に頼ってきたため、 大騒ぎにはならなかったとはいえ、平時よりはエネルギーを要し、困ったことで、 5月も「多難の月」になり、記念の対象が良いことであれ悪いことであれ、 日々の暮らしが悲哀や、喜びとなって話しも無くなる。
 但、世界に大事件がこれ以上増えず:中国にこれ以上惨事が起こらず:
なんとかいう新しい政府が成立せず:偉人の誕生日と忌日が増えぬことを願う。
さもないと、日月を重ねるたびに「多難の年」になってしまうし、 華洋当局はいつも困ってしまい、我々地上を歩く小民は、永遠に「嫌疑」を 受けるしかなく、「戒厳を守り奉る」、嗚呼哀しい哉、息もできぬ。
     5月5日
 
訳者雑感:習主席は就任後、南方視察に際し、以前の指導者のように、交通規制などで、 庶民に影響を与えるような「特別なこと」を一切禁じた、と報じている。
これは大変素晴らしいことだと、各紙が称賛している。
だが、受け入れる側が、言葉通りに実行して、大騒ぎが起こったら、誰が責めを負うのか。
「赤旗を振って大歓迎」する「人民」が街路からいなくなったら、何かを訴えようとする 所謂「上訪」の人々が車を取り囲んだりしたら、当局はどうするのだろうか?
魯迅がここで指摘する「道を清掃」というのは、かつて北京から偉い役人がやってくると、 その地方は総出で出迎えて、覚えめでたく帰ってもらって、これ以上苛政をされぬ様、 「大接待」した訳だ。
 習主席の指示がいつまで維持できるか、注視してゆこう。
   2013/01/09記
 
 
 
 

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新薬

新薬
 話しだすと思いだすのだが、918(満州事変)以来、呉稚老(国民党元老)の、
あの絶妙な洒落の効いた談話を耳にしなくなったが、病気との噂だ。
今しがた、南昌の特電に彼の声が顕れたが、もう昔の面影は全く消えてしまい、
918後、なりを潜めていた民族主義文学者達も、よって、たかって冷笑をあびせた。
 どうしてだろう? 918のせいだ。
 想い起せば、呉稚老の筆舌は大変な任務を果たしたものだ。
清末時、五四時代、北伐の頃、清党の頃、清党以後のまだ黒白がついて無い頃、
だが、今口を開くと、身を隠していた連中まで冷笑する。
918以来の飛行機は、本当にこの党と国の元老呉氏を爆撃し、
また身を潜めていた連中の小さな肝かで大きくしてしまったかもしれない。
 918後、情勢はかくも違ってしまった。
 古書にこんな寓話がある。
某朝の某帝の頃、宮女達が病を得て、どんな手を尽くしても治らない。
最後に名医が神技的処方を書いた:少壮男子若干名、と。
帝はやむなく彼の指示に従った。数日後見に行くと、宮女達は精神渙発になり、
床には多くの痩せこけた男たちが伏せていた。帝は驚いて訳を問うた。
宮女達は、ひそひそ声で:薬の出ガラ、と答えた。
 数日前の新聞では、呉氏は薬の出ガラのようで、イヌにすら踏みつけられそうだ。
だが彼は聡明で恬淡ゆえ、自分の事は顧みないで、だし汁を人に全て与えるような事には、
決してならないだろう。
だが918以後、情勢は既に変わっており、一種の新薬を売りだす要があるのも確かで、
彼に対する冷笑は実を言うと、この新薬の働きである。
 この新薬の効能はとても激烈かつ穏かでなければならない。文章にするなら、
須らく、まず烈士の殉国を講じ、そして美人の殉情を叙さねばならない:
ヒットラーの組閣を讃えると同時に、ソ連の成功を頌し:
軍歌を歌った後、恋の歌を歌い:道徳を説いた後、妓楼の話しをし:
国恥記念日には楊柳を悲しみ、メーデーにはバラを想う:
主人の敵を攻撃しながら、主人にも不満のようで――要するに、以前使ったものは、
単純な処方だったが、その後に売りだしたのは複合薬である。
 複合薬は何にでも効くが、これといった効き目は無く、病は治せず、中毒死も無い。
だが誤飲した病人には、それ以外の良薬を探そうという意欲を失わせ、病状を悪化させ、
訳のわからないまま死に至ることになる。
      4月29日
 
訳者雑感:
 寓話の薬の出ガラというのは、漢方薬を飲んでないと理解が難しい。
漢方では薬草一斤を薬缶に入れて、三合の水を注ぎ、一合になるまで煎じるとか、
説明があり、その一合の薬を瓶に入れて、小分けにして飲めという。
残ったのが出ガラで、お茶のものと同じである。
 新薬というのは、漢方なのか西洋のものか分からない。
いずれにせよ、呉氏の薬はもはや効かなくなったのだから、ヒットラーの組閣から、
妓楼の話しまで、すべてに対応できる新しい薬が、1933年頃の上海に広まっていた。
それを飲んで殆どの人が「訳のわからないまま」に死んでゆく。
魯迅は、残り3年の寿命をうすうす感じながら、そうでない新薬を探し求めたのか?
      2013/01/08訳
    
 

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文章とテーマ

文章とテーマ
 あるテーマについて文を書いてゆくと、書く事が無くなってくる。
新しい機軸を出すと、もはや訳が判らなくなってしまうが、一歩ずつやってゆくと、
また書けるようになる。それを太鼓持ちがはやし、人の耳になじんでくると、
次つぎに出て来るだけでなく、それが通用するようになる。
 その例が、近来の最重要テーマの「安内攘外」(内を安定させ、外は攘夷)で、
これについて沢山書かれている。ある者は安内のためには、先ず攘夷せねばならぬ、
又ある者は安内と同時に攘夷すべし、ある者は攘夷なくして安内はあり得ないとし、
攘夷即ち安内だと言う者や、安内即攘夷として、安内は攘夷より急務だという者もいる。
 ここまで書いてくると、文章はもうこれ以上展開できないようで、
見たところ多分ピークに達したと言えよう。
 従って、新しい機軸を出すと、もう訳が判らなくなってしまう。
今流行の名づけ方だと、「漢奸」の嫌疑が出て来る。どうしてか?
新機軸の文は「安内の為には、必ずしも攘夷は不要」「外を迎え、以て内を安んず」
「外はすなわち内で、もとより攘(じょう)すべきではない」の3つしか残らない。
 この3つの意味を書きだすと、実に珍奇だが、事実として存在している。
それも遥か昔の晋・宋の時代に求める要も無く、明朝時代をみれば十分だ。
満州人は早くから機を窺っていたが、内は民草の命を軽んじ、
気骨ある官僚を殺してしまっていた。これが一番目。
李自成が北京に入城し、権門連中は奴(やつ)が皇帝になるのは我慢ならず、
「大清の兵」に彼を殺すよう要請した。これが2番目。第3に至っては、
まだ「清史」を見ていないので分からぬが、旧例によれば、愛新覚羅氏の先祖は、
もともと軒轅(けんえん)黄帝の第何番目かの子の苗裔で、朔方に逃れていたが、
仁に厚く、ついに天下をとったというべきで、要するに、我々はもとから同じ一族だ、
ということだ。
 後の史論家は、もちろんその非を強く排斥したし、今の名人も(その当時の)
流寇(全土を荒らした匪賊:当時のも揶揄している)を痛切に非難している。
ただし、これはその後と今日の話しで、当時はまったくそうでは無かった。
(狩猟用の)鷹と狗が道を塞ぎ、不義の者が権力を握り、魏忠賢などは生存中に、
孔子廟に祀られたではないか?彼らのこうした手法を、当時の人たちは皆肯定した。
 前清末、満州人は革命鎮圧に必死になり、「友邦に贈る方が、家人にとられるよりまし」
ということを言いだし、漢人はそれを知って切歯扼腕した。
実を言えば、漢人もこれと同じでは無かったか?
呉三桂が清兵の入関を請うたのは、自身の利害を考えてだが「この点では人は同じ」
という実例だ。……
        4月29日
付記:原題は「安内と攘夷」だった。5月5日。
 
訳者雑感:
 付記の意味は、出版社によって勝手に変えられてしまったということを示す。
今広州の「南方週末」の4-50人に記者が、抗議のためにデモを始めたという。
「民主」とか「自由」を求めて発行した雑誌が、出版社の勝手な方針(上からの圧力)
で、まったく別物にすり替えられてしまったことへの抗議だという。
 「国をよくしたい」と願う記者たちの動きは、「党に対して不適切」で「反党行為」と
判定されている。この国は国民の為のものか、党の為のものか?
湖南省の長沙の三一集団会社の梁会長は、「ライバル会社が公権力を使って我々に
かける圧力を避けるため」北京に本社を移した。
彼のコメントは「党が求めるならば三一のすべてをささげても構わない」というが、
何か違和感を覚えた。民営企業すらも「党のためでなければ」存続して行けぬようだ。
   2013/01/07記
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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言論の自由の限界

言論の自由の限界
「紅楼夢」を読んで賈府(賈家のお屋敷)では言論が頗る不自由と感じだ。
焦大(召し使い)は使用人の分際で、酔いに任せ、主人はじめ他の使用人を、
片端から罵り、ここで穢れてないのは、2頭の石の狛犬だけだとわめいた。
 結果はどうか?主人からはすごく憎まれ、他の連中から痛烈に恨まれた結果、
彼の口を馬糞で塞がれてしまった。
 だが焦大の罵りは、賈府を潰そうとしているのではなく、なんとか良くしなければ、
との思いから、主人も他の連中もこんな状態では、やって行けないと言ったまでだ。
しかし、それに対する報酬は馬糞であった。だから焦大は賈府における屈原で、
もし彼が文章を書けたなら、「離騒」の類を書いたことだろう。
 3年前、新月社の諸君は、不幸にも焦大と似た境遇であった。
西洋の経典を引用し、(国民)党と国家に苦言を呈した。
彼らが用いたのは主に英国の物だが、党と国家にどうして悪意など持っていようか?
「他の人の服はとても清潔なのに、ご主人様のは、少し汚れていますから洗いましょう」
と言ったにすぎない。
所が、「荃(セン、君主)は余(私)の心を分かってくれず」馬糞を食わされてしまった:
国(民党)機関紙で一斉に叩かれ(彼らの)雑誌「新月」も災難にあった。
だが新月社は畢竟、文人学士の団体だから、この時は声を大にして三民主義に基づき、
胸中の「離騒経」で弁明した。
今では大分よくない、馬糞も吐き出して、うまい汁を吸えるようになった。
ある者は顧問や教授、秘書、大学院長などになり、言論は自由となった。
「新月」もすべて所謂「文芸のための文芸」となった。
 これは文人学士は、目に一丁字もない奴才より利口な所で、党と国もつまるところ、
賈府よりは高明であり、現在は乾隆時代より明るい:三明主義なのだ。(三民のもじり)
 しかし、言論の自由を叫ぶ人はまだまだいる。
世の中、そんなにうまい汁が多くないのは明らかな事だと思う。
今の言論の自由は、主人が寛大さを示せるのは、「ご主人様の服は、少し汚れて…」
という辺りまでであることを悟っていないからで、それ以上何かを言おうとするからだ。
 これはけっして許されない。以前の場合は「新月」の受難時代とは違い、
もうすでにあるようで、この「自由談」もその一つの証拠で、時として数名の英雄が、
馬糞を手にそういう者がいないか探している。限界を越えて何か言おうとすると、
言論の自由の保障を破壊してしまう。
 今は昔より光明だが、より大変で、何か言えば、命を落とすことになることも、
知らねばならぬ。たとえ言論の自由が明文化されても、いい加減に考えてはならぬ。
これは私が何回も目にしてきたことで、「年寄りの自慢」じゃないが、自覚も無しに、
実は奴才になっている君子諸君が少し考えてくれれば幸いである。4月17日
訳者雑感:
「荃(セン、君主)は余(私)の心を分かってくれず」馬糞を云々とは離騒の一節だ。
「朝に諌めると、夕べに棄てられた」という句とともに、国の為に苦心惨憺して、
何とか良くしようとしてきたのに、讒言によって足をすくわれた…。
「ご主人様、服が汚れています、洗いましょう」とは、汚職にまみれた現在の役人の
親玉たちに向かっても発することのできる言葉だ。
温首相はバンコクでの在タイ華僑に対して、NY Timesで報じられたような事はない。
身の潔白を示すために、真理を追究して、九死すといえども悔いはない…、と訴えた。
 実態はどうなのか、知るすべもない。今日1月3日、NY Timesの記者のVisaは
期限切れで、年末に出国させられた、と報じられている。
 NY Times以外のメディアはこの件をどうとらえているか、自社のコメントは出さない。
言論の自由の限界を悟っているのだろう。度を越えたら、自社のVisaも危うくなると。
 世界のメディアも1933年の魯迅の指摘したのと変わらない。
      2013/01/03記
 
 
 
 
 

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夷を以て夷を制す

夷を以て夷を制す
 去年中国の多くの人が、いちずに国際連盟に泣いて訴えた時、
日本の新聞は往々、これを嘲笑い、中国祖伝の「以夷制夷」の古い手だとした。
一見そうにも見えるが、実はさにあらず。当時、中国人の多くは確かに、
連盟を「清廉な調停人」と看做し、心の中に「夷」の字の影は微塵も無かった。
 だが「清廉な調停人」たちはいつも「華を以て華を制す」方法を使った。
例えば、彼らが強く憎む反帝国主義の「犯人」には、自分は悪役にならず、
ただ、軽い気持ちで華人の所に送り、彼らに殺させる。
彼らが大変憎んでいる根拠地の「共匪」についてが、自分の意見は明示せずに。
只飛行機と弾薬を華人に売り、彼らに爆撃させる。
下等華人には、黄帝の子孫の巡査とボーイに対応させ、インテリには「高等華人」
である学者と博士に対応させる。
 我々は長い間、我々の「大刀隊」(長い柄の刀を持った軍隊)を誇りに思い、
制圧されることはないと思って来たが、4月15日の「XXX」紙に1号活字で、
「我軍は敵2百を斬せり」の見出しが出た。ざっと見ると勝ったようだが、
本文を見てみると、――
「本紙本日北平電: 昨日喜峰口右翼の灤陽城以東各地で争奪戦が起こった。
敵は大刀隊千人をくり出して来、彼らは新着軍で、我が大刀隊が応戦した。
その刀は特に長く、使い方もさほどのものではなかった。
我軍は刀を揮い、斬り倒し、敵は抗戦及ばず、刀と腕が縦横に地に満ちた。
我軍の傷亡者も2百余に達した。…」
 これを見ると実は「敵が我軍2百を斬った」ことになり、中国の文字はまことに、
「国の前途・発展」と同じで、日に日に艱難さが増している。
 だが私が指摘したいのは、じつはこの事ではない。
 言いたいのは「大刀隊」がやはり中国人自身が長い間誇りにしてきた特技で、
日本人は銃剣があるとはいえ、大刀は素地がないことから、
今回「出現」したのは、満州の軍隊なのは、疑いの余地も無い。
 満州は明末来、毎年直隷・山東人が大量に移り、数代後に土着化した。
満州軍と雖も、大多数は実は華人であるのも疑いの余地はない。
今すでに特に長い大刀を使い、灤東で殺し合って「刀と腕とが縦横に地に満つ」
状態になりながら、一方では「傷亡また2百余に達した」というのは、
明らかに「以華制華」を演じたわけだ。
 中国の所謂手段は、私の見る所、有ることは有ると言うべきだが、
「以夷制夷」ではなく、「以夷制華」である。
しかし「夷」にもどうして、そんな愚鈍な者がいようか。
まず「華を以て華を制す」を諸君に見せるのだ。中国の歴史にはよくあることだ。
後に史官が新王朝の為に頌を作り、こうした輩の行為を:「王の前駆となる」と称す!
 近頃の戦争報道は極めていぶかしい。同日同紙には、冷口を失ったと記し:
「10日以後、冷口方面の戦闘は激烈をきわめ、華軍は… 頑強に抵抗をしてため、
未曾有の大激戦となった」とあるが、宮崎部隊は十余人の兵で、人梯子を作り、
前の兵が倒れても、後のが続き「ついに長城を越えたが、宮崎部隊の犠牲は、
23人の多きに達した」
 一つの険要を越すのに、日本軍は23人しか死ななかったのに、「多きに」と記し、
また一方では「未曾有の大激戦」と記すのも理解に苦しむ。
 それゆえ、大刀隊の戦闘は多分私の推測とは違うかも知れぬ。
だがすでに書いてしまったものは、一つの説として暫く留めて置くこととする。
    4月17日
 
訳者雑感:夷を以て夷を制すというのは中国人の専売特許でもない。
モンゴルは大量の南宋の軍人と朝鮮の軍隊を日本征服の為に派遣した。
これは、一つには南宋と朝鮮の軍事力を弱体化させる意図があった由。
魯迅が記すように、上海の租界の欧米人もインドからグルカ兵などを連れてきて、
租界の警備にあたらせた。両次世界大戦ではイギリスは大量のインド兵を投入した。
当初はインド(植民地)政府に軍費を払っていたが、払えなくなったそうだ。
 アメリカは1945年以後の朝鮮・ベトナム・イラク・アフガンでの戦争で、
アメリカ大陸に移民して国籍を得ようとする若者を募ったという。
 重慶で辣腕を揮った警察のトップ王立軍も、似たような手法を用いたそうだ。
「以黒打黒」 匪賊を使ってヤクザを叩く、あるいは逆も真なり。
普通の警官ではとても太刀打ちできない強力な相手には、競合するヤクザをぶつけた。
黒(悪)を以て黒を打つ、である。
      2012/12/27記

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来信

来信(「透底」に対して)   祝秀侠
家干様(魯迅の筆名)
 昨日、大作「透底」拝読。以前発表した「新八股を論ず」を引用いただき、
欣幸の至り。ただ、「譬え」については誤解があるようで、弊意の新八股は、
ある種の文を指しており、もともと大した内容も無いのに、ただ流行のスタイルで、
或いは古い皮袋を新しく包装しているのを指しています。
湯は換えても、薬は換えてないため、「この空虚な宇宙」「また其の天地の間」
と同じ八股なのです。羊頭を掲げて狗肉を売る為、「ダーウインは説く」や、
「プレハーノフの言う」と「この宇宙」本体は(その実、「子曰く」、「詩に云う」
で中国文学史をものするには、やはり引用するわけで、決して所謂八股ではないが)
こういう書き方だと、新八股の形式になるのです。
先生の挙げられた「地球」「機器」の例、「透底」、「道を守る」の理は、子供でも、
その非を知っていることで、これで以て比するのは曲解のように感じます。
 今日の文壇は、新しい気分に満ちているが、すべて魑魅魍魎で、
頭を換え、面を換え、錦を着て逍遥する、鴛鶯胡蝶派などが旧貨を新装して、
登場しており、この種新しい毛皮で古い骨髄のままの八股について、
先生のお考えでは排撃すべきか否か、未審査の状態でしょうか?
 また、時代の看板を借り、革命学説を歪曲し、口で南無阿弥陀仏と念じながら、
心では妄想している者は、人の衣装を借りて、自分の臭い脚を隠す新八股なども、
先生は又排除すべきかどうかも未審査でしょうか?
 これを透底して云えば、「譬えば」昔の皇帝と今の主席の関係のように、
実質は大きな差があることは固より知っていますが、やはり今の主席と、
昔の皇帝はそっくり同じ道理で、ある意味、主席を非難するのはその意は自明で、
その志が虱を捉える(つまらぬことか)のでなければ、一目瞭然とは限りません。
 私は生まれたのが晩く、学も浅く、術も無く、「透底」の聡明さも無いとはいえ、
「透底」の愚鈍には至っておらず、或いはまだ「透」にも至っておらず、
誤解を招いただけかもしれません。やはり「底」に到達できるよう教えを賜れば、
感謝の「透」(極み)です!    祝秀侠 拝
   
「返信」  (魯迅より)
秀侠様:
 貴信拝受。貴方の所謂新八股は鴛鶯胡蝶派などの事を指すこと分かりました。
しかし鴛鶯胡蝶派の病根がすべて彼らの八股性にあるのではありません。
八股は新旧問わず、すべて掃討すべきこと、既に述べた通りです:
鴛鶯胡蝶派も新八股性を持ち、他の人も持っています。
例えば、只「罵り、侮辱し」「恐喝」甚だしきは「判決」を下すだけで、
具体的科学的に求めるべき公式を適切に使って、毎日起こる新事実・新現象を、
理解しようとせず、一通の公式をただ写すだけで、すべての事実を無秩序に集めて、
文章にするのも八股の一種です。
 たとえ明らかに貴方に理があるとしても、読者が貴方の理が空虚だと疑わせ、
貴方が答弁できぬと、「国罵」(国挙げての罵り)だけが残る。
 革命学説を歪曲する人が、「プレハーノフ曰く」等で、自分の臭い脚を覆うのは、
彼らの間違いは、「プ…曰く」等等を書いたためだろうか?
我々は彼らがどのような間違いをしたのか、具体的に証明せねばならない。
もし単純に「プ…曰く」等と「詩云う、子曰く」とを同一視したら、
きっと誤解を引き起こすだろう。貴方の手紙もこの点は認められているようです。
これが即ち、私のあの「透底」で指摘した点です。
 最後に、私のあの文はある種の虚無主義的一般傾向に反対するもので、
貴方の「新八股を論ず」の中のあの一句は、多くの例の内n一つに過ぎず、
これは除去せねばならぬ「誤解」です。
あの文はその一つの例の為だけに書いたものではありません。   家干。
 
訳者雑感:
 中国語は発音すると耳に残って、暗誦し易い面があると言われている。
暗誦し易いことの反面は、それが次に自分の文章を書く時に頭をもたげてきて、
それをそのまま使う事、多少換骨すること、或いは「薬はそのままで湯を換える」
だけで、立派な文章になってしまうことだ。
 それを昨日使った人がいて、「粉骨砕身全此生」という句を披露した。
粉骨砕身は手垢に汚れている感じがしないでもない。八股でないことを願う。
この生をまっとうする、といわれるが、中国人はこの3文字をどう理解するだろうか。
蘇軾は「八月七日初入…と題する詩に「此生何止略知津」と言う句を残している。
この生何ぞ、ただに略(ほぼ)津(渡し場)を知るのみならんや。
 左遷された時の詩だが、とても陽性で明るく生きようとしている。
新党首もあの涙を忘れず、余生を全うしてもらいたいものである。
   2012/12/26記
 

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透底

透底(底に突き抜けるほど徹底してやる)
 物事は徹底するのが良いに違いないが、「透底」はそうとも限らない。
左回転ばかりをしていると、右回転してばかりいる人と、ごつんとぶつかる。
その時は互いに頭を下げて詫びるが、気まずいことだ。
 自由を求める人が、忽然王位復帰を保障する自由や、
群衆を殺す自由まで求めたりする―――透底は透底に違いないが、
本来の自由そのものが抜け落ちて、底の無い洞穴だけが残る。
 例えば、八股文に反対するのはごく当たり前のことだ。八股は元々愚の骨頂だ。
一つには、試験官が面倒くさいので――彼らの頭脳の大半はコチコチで――
聖賢に代わって立言するとか、起承転合、文章の気品など確たる基準も無いし、
今一つ捉えがたいので、一つずつ定まって来たものを、法令文の格式とし、
これを用いて「文の重量を判定し」ひと目見るだけでその軽重を量れるから。
二つには、受験者も省力でき、かつ面倒くさく無いと感じたためだ。
 このような八股は新旧に拘わらず、すべて掃討すべしである。
しかしこれは聡明になる為であって、愚鈍になる為ではない。
 だが愚鈍を保存したい者には、ある策略がある。
彼らはこう言う。「私はそれに反対で、彼も同じだ」皆がやって行けなくなる。
取り消した方が良い!
そして「彼」がやめるのを待って、古くて愚鈍な「私」こっそりと立ちあがり、
実恵は愚鈍な者が手に入れる。
丁度、偶像を打倒しようとする時に比せられる。偶像はあわてふためいて、
生きている人全員に対して「彼らは全て私にそっくりだ」と言いだす。
そうなると諸君は偶像にそっくりな人たちの所へ殺到し、全員を打倒する:
戻ると、偶像は大変称賛し、偶像を打倒せよという連中を「打倒」した、と。
確かに透底の至りだ。だがこうなると更に大きな愚鈍が全世界を覆うことになる。
 口を開けば、詩に云う、子、曰くは古い八股で:
「ダーウインは説く、プレハーノフ曰く」は新しい八股だと言う人がいる。
そうなると、地球が丸いことを知る為には、自から地球を一周せねばならず:
蒸気機関を作るには、先ず薬缶の前に坐って調べねばならぬ。…
これも誠に透底の極みだ。
 だが、かつて道を守る文学に反対したのは、元々あの様な人を食う「道」を、
守るべきではないのだが、ある人たちは透底して、如何なる道も守らぬという:
この「如何なる道も守らぬ」というのも一種の「道」ではなかろうか?
だから本当に最も透底しているのは次のような故事だ。
 昔ある国で革命が起こり、旧政府は倒れ、新政府ができた。
隣人が、お前のような革命党は元々(有)政府主義に反対していたくせに、
どうして又自ら政府を作るのか?」と言った。
その革命党は、即刻剣を抜き、自らの頭を刎ねた:
だが彼の体は倒れず、硬い屍となり、直立したまま、喉の管からぶつぶつ言いだした:
この主義を実現するには、本来3千年後を待たねばならぬ、と。  4月11日
 
訳者雑感:
 八股ができた背景が、試験官と受験者双方から「手間が省ける」「面倒くさくない」
ということからだったとは驚いた。
確かに四六駢儷体など、対句がどれほど散りばめられ、麗しい字句が使われているか、
こうしたひと目でその重さを量れる文章は、双方にとって「公平」な判定が下せたかも。
 最近、習主席は「党八股」を禁じた。決まり切った常套句を連ねた報告書を読み上げるだけの「会議」を止めた。報告者には自分の言葉で実態を報告するように求めた。
王岐山氏はさっそく、最近の会議で常套句を使う相手にその場で注意を促した。
 これは大変よいことだ。下から上がって来た「党八股」の報告書を読み上げるほか、
能の無い連中は淘汰されるだろう。そういう連中が「愚鈍」なのを自覚しながら、
そういうポストに就いて、貪欲に「財を蓄える」ことに邁進してきたのが現実だった。
 国を憂えて、国の為に力を尽くす、ということから最も遠い所にいる連中が、
中国の富を透底して偸んできた。
 だが、自分の言葉で自分の理想や夢を語れる官僚がどれくらいいるだろう?
    2012/12/24記
 
 
 
 
  

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