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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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文学大系4

文学大系4
 1925年10月、北京に莾原社が突然できたが、これは「京報副刊」の編者に不満な一群が別途週刊「莾原」を作り、「京報」の附録として発行し、聊か快哉を唱えたグループだ。一番奔走したのは、高長虹で、中堅の小説家に黄鵬基・尚鉞・向培良の3人:そして魯迅が編集者に推された。しかし声援がとても少なく、小説では文炳・沅君・霽野・静農・小酩・青雨などだった。11月に「京報」が副刊以外の附録を停止しようとしたので、半月刊とし、未名社から出版し、その頃紹介した新作は地方の沈滞した状況を描いた魏金枝の作品「鎮の黄昏を留めて」だ。
 しかし暫くして莾原社内部に衝突が起こり、長虹たちは上海に狂飆社(つむじ)を設立した。所謂「狂飆運動」でその草案は実は早くから長虹のポケットに蔵されてい、いつでも機に乗じて出ようとしていて、まず数号の週刊詩を刷り:その「宣言」にかつて1925年3月の「京報副刊」に発表したのだが、まだその時は「超人」として自命してはおらず、決して満足していない論調で――
 『黒く沈んだ暗夜、全ての人は死んだ如くに熟睡し、もの音一つせず、何の動きもない、何と退屈な長い夜よ!
 『こうして何百年、何百年もの時が過ぎ、暁の光の来ない暗夜は明けることはない。
 『全ての人は死んだ如くに沈々と眠っている。
 『そこで数名が暗黒の中から醒め、互いに呼び合う:
 『時は来た。その期が来るのを待っていたが、これ以上待てない。
 『――そうだ、我々は立ちあがろう。大いに叫ぼう。期が来るのを待っていた全ての人は立ちあがろう。
 『――暁の光がついに来なくても、立ちあがろう。我々は灯をともして真っ暗な前途を照らすのだ。
 『軟弱ではダメだ。眠ったままで望んでいてもしょうがない。我々は強くなろう。障碍を取り除くのだ。そうしないと障碍に圧倒されてしまう。恐れることはない。身を避けることも要らない。
 『この様に叫べば、微弱でも、東や西、南や北からじわじわと強くて大きい声が聞こえて来るし、我々より更に強大な応答がある。
 『一滴の泉水が江河の源流となれるのだし、微小な始まりが偉大な結果を生みだせる。この由来にちなんで我々の週刊雑誌を「狂飆」としよう』
 だが後に自ら「超越」を目指すようになった。しかし、ニーチェ式の互いに理解できぬ格言調の文章はついに週刊誌の存続を難しくし、ここに記すべき小説も、黄鵬基・尚鉞だけで――実は作者は向培良一人だった。
 黄鵬基は短編小説を一冊出し「荊棘」と称し、読者には2回目だったが、朋其と名前を変えていた。彼ははっきりと文学はバターになる必要はなく、棘のようになるべきで、文学家は頽廃せず、剛健でなければならぬと主張し、彼は「棘の文学」(「莾原」28期)に
「文学はけっして無聊なもの」ではなく、「文学家もけっして天恵を得た特等人」ではないし「終日メソメソ泣いている鮫人(海中で泣いている)でもない」と説いた。彼は云う:
 『中国の現代作品は一叢の荊棘のようであるべきだと思う。一片の砂漠では、憧憬する花はゆっくりと消滅し、社会に荊棘があらわれてきて、その葉に棘がはえ、茎にも棘がはえ、根にすらも棘ができる。――植物の生理で反駁しないでもらいたいが― 一篇の作品の思想、構造、練句、用字などすべては我々のいつも感じている棘の意味で表現すべきだ。
真の文学家は真っ先に立ちあがり、みんなが立ちあがらざるを得なくすべしで、彼は自分の力を充実し、人々にどういう風にして自分の力を充実し、自分の力を知り、自分の力を表現できるようにさせるべきだ。一篇の作品の成功は、少なくとも読者を一気に読み続けさせ、文章の良しあしなど考える暇もないほどにすること――劣悪だと思われるのは固よりダメだが、美文だと思われても失敗だ。――古いやり方ではうまくゆかない。いかに彼の病の深さをつかんで、強烈に彼を一刺するかが重要だ。一般的な整理や装飾の構造や平凡な字句は彼を他所へ向わせてしまうから、反対すべきだ。
『「砂漠すべてに荊棘を増やせば、中国人は人間的生活ができる!」と私は信じている』
朋其(四川省出身)の作品は確かに彼の主張と矛盾していないし、彼の流暢でユーモアのある言葉で、色んな人、特にインテリを暴露的に風刺している。彼は時に馬鹿を装い、青年の考えを説き、或いは四川名物のハム先生(彼の作品名)になって金持ちの家を訪ねる。だが、生き生きと動きまわり、流暢さを求めるため、そのえぐり出しは深くはできず、結末も特に滑稽にしようとし、往々全編の力量を損なってしまう。風刺文学は自らのニヒルで身を破滅させる。暫くして彼はまた「自白」で云う:『「棘の文学」の4字を書いたのも、毎日サボテンを眺めていたのと、「自分の生まれが不辰だった」ため、花の意味することをしっかり理解できなかったためであった』と。それはもう徘徊状態だった。その後彼の「棘の文学」を見ることはなかった。
尚鉞の創作も風刺で、且つ暴露と攻撃を狙ったもので、小説集「斧の背」の名前も自ら提要した。彼の創作態度は朋其より厳格で、幅広く取材し、時おり気風の未開な場所を描いた――河南省の信陽――の人々。惜しいかな才能に限界があり、その斧の背は大変軽くて小さいので、公衆と個人の為に打ち下ろした効力は、多くは機器不良と未熟な手法の為に的外れになっている。
向培良の処女小説集「飄渺の夢」を出した時、冒頭に云う――
『時間が過ぎ去る時、私の心はかすかな足音を聞き、私はそれを愚直に紙に移した。これが私のこの小冊子の来源だ!』
確かに作者は彼の心が聞いた時間の足音を叙述し、あるものは子供時代の天真爛漫な愛と憎しみに託し、またあるものは旅行中の寂莫のなかで目にし耳にしたものに託しているが、けっして「愚直」ではなく、矯正したような造作もなく、よく知っている人に対するときのように、素直に語っており、我々はなんの心配もせずに聞き入る間に、さまざまな生活の色合いを感じる。だが作者の内心は熱情にあふれ、もしそうでなければ、こんなに平静に、率直に語れない。彼は時に過去の失った童心の中で休息するが、最後は現在の「強い憎悪の背後に、更に強い愛を見つけ」た「虚無の反抗者」を愛し、我々に強く力をこめて「私は十字路を離れる」という本を提供した。以下にその名も不明な反抗者の自述した憎悪を記す――
『なぜ北京を離れるのか?私もそのたくさんの理由を口にできない。要するに;この古い虚偽に満ちた都会が嫌になったからだ。ここで遊離すること早4年、すでに骨の髄までこの古くて虚偽に満ちた都会が嫌になった。ここで私は挨拶とお辞儀、皇帝擁立、執政へへつらうばかりの――奴才を目にしただけだ!卑劣、怯懦、狡猾ではしこく身をかわす、それら全てが奴才の絶技だ!嫌でたまらぬという感じが私の口に中に一杯あり、生臭い魚が口中にあるのと同じだ:嘔吐したくてたまらぬから、私は棍棒を手に飛びだすのだ』
 ここにはニーチェの声が聞こえる。まさに狂飆社の進軍ラッパだ。ニーチェは「超人」の出現に備えよといったが、もし出現せねば、それは虚無となる。だがニーチェは次の手を考えていた:発狂と死だ。さもなくば虚無に安んじるほかなく、或いはその虚無に抗して、たとえ孤独の中で「末人」的に暖かな心を求めることもなく、一切の権威を蔑視し、縮こまって虚無主義者になるに過ぎなかった。バザロフは科学を信じていた:かれは医学の為に死に、蔑視は科学的権威では無く、科学そのものになってしまうと、それはサニンの徒になり、何もかも信じぬという名目をかかげ、なんでもやってしまえ、とあいなった。
但し、狂飆社はなんとか「虚無主義的反抗」だけで止まったようで、まもなく解散し、今残っているのは、向培良のよく響く戦叫のみで、半ばセビリーオフ式の「憎悪」のその先を説明しているにすぎない。
 未名社はその逆で、主幹の韋素園はむしろ無名の泥土に珍しい花や喬木を植えようとし、事業の中心も外国文学の訳書が多かった。「莾原」を引き継いで小説方面も魏金枝以外に李霽野もおり、鋭敏な感覚で創作し、細部まで深く一枚ずつ葉脈を数えるようであったが、そのために往々、それを広げることはできず、孤寂な発掘者が二つとも全うするのは難しかった。台静農は最初、小説を書こうなど思わず、後になっても望まなかったが、韋素園に勧められ莾原の原稿として1926年に初めて書いた。「地の子」の後記に自述して――
 『当時、2-3篇書き始めて、翌年用に備えた。素園が見て、私が民間から取材しているのに満足した:彼は結局私に専らこの方面で努力してはと勧め、多くの作家の例を挙げてくれた。だが私は余りこの道を好まなかった。社会の辛酸と悲痛を耳にし、目にしてきたことでもう堪えられなかった。今またそれらを私の心血で細部まで書くのは、不幸と言えないだろうか。だがその一方で美しい表現で同時代の青年男女に大きな喜びを与えることもできなかった』
 この後は「建塔者」が出た。彼の作品に「大きな喜び」を取り込もうとすつのは容易なことではないが、文芸に貢献し:且つまた恋愛の悲歓と都会の明暗を競って表現していたころに、田舎の生と死を泥土の息吹の中から紙に移すことを、彼より多く熱心に努めた人はいなかった。
訳者雑感:
 魯迅には彼が大学で教えていた頃の教科用としてまとめた「中国小説史略」という本があり、これは古代から近年のものを紹介している。今回訳した1-4までは、「中国新文学大系」の小説二集の序であり、1917年の文学革命以後の訳10年間の小説をまとめて紹介している。彼自身の作品も含め、鳥瞰しているようで、多くは作者の序や後記などを引用している。彼はこまめに同時代の小説家の作品を読んで、同時代のそうした作品を読もうとしている青年達に紹介しようと考えていたことが良く分かる。中国人の考え方を改善し、中国を良い国にしようとの熱意が伝わってくる。
    2014/03/05記

莾原社

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漫画と漫画そのもの。

漫画と漫画そのもの。
 ドイツの現代画家グロスは中国に何回も紹介されており、なじみの無い人ではない。
別の方面では漫画家とも言われ:作品は大抵白地に黒い線で描かれている。
 彼は中国では厚遇されていて、翻印された画も製版技術がだいぶ良くないとか縮小されているが、白地に黒い線というのはそのままである。ところが、中国の「文芸」家の頭脳は今年異常なようで、「文芸」と称する雑誌でグロスの黒白画を紹介しているのだが、線は真っ白に変わり:地は藍あり赤あり、まことにいろいろでとてもあざやかだ。
 もちろん我々も石刻の拓本を見ると大抵黒地に白字だが、翻訳した絵画で青緑の山水が紅黄の山水に変えられたのを見たことや、水墨の龍が彩色の龍に大改造されたのを見たことはない。だが、これ有りで、20世紀も35年経た上海の「文芸」家に始まった。私も始めて画家が絵を画く時の調色や配色の類はすべて余計なことだということを知った。中国の「文芸」家の手を経ると、それらはすべて問題無く、おおお―まったくデタラメだ。
 これらの翻訳されたグロスの絵は価値がある、漫画として又漫画そのものだ。
                     2月28日


訳者雑感:魯迅は以前グロスの白黒画を「小さきペテロ」で紹介したことがある。
それが「文芸画報」という雑誌に8枚の漫画が上述のようにカラーの地に白い線で印刷されたことを「漫画」だと論じている。本来のイメージを全く損なってしまうからだ。
拓本は確かに墨を塗って字を白抜きで作るが、水墨画の龍がカラ―で描かれるというのは見たことが無い、と批判している。しかし1935年の魔都上海では、なんでも派手に豪華にせねば、「文芸画報」も売れないような時代背景があったのだろう。
1932年に上海で開催されたドイツ版画展にはグロスの「シラ―劇本<強盗>の警句図」が10枚展示された(出版社注)が、それらは白黒だったのだろう。
日本の浮世絵、錦絵は江戸時代からカラ―だったが、上海の「文芸」家は、白黒の絵をカラ―にしたかったのだろうか。白黒テレビから一気にカラーテレビにした如く。
   2014/03/03記

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文学大系3

文学大系3
 北京は――「五四運動」の策源地だが、「新青年」と「新潮」を支えてきた人達が、風に吹かれ雲散りし後、1920年から22年の3年間は寂莫荒涼たる状況であった。「晨報副刊」は¬後に「京報副刊」となり頭角を現したが、いずれも文芸創作には余り傾注せず、彼らは小説方面では限られた作家を紹介しただけだった:蹇先艾・許欽文・王魯彦・黎錦明・黄鵬基・尚鉞・向培良たちだ。
 蹇先艾の作品は簡潔純朴で小説集「朝霧」に云う――
 『…とうに20歳を過ぎ、遥か彼方の貴州から北京に来て黄塵の中を彷徨し、もう7年になる。長くないとはいえぬ時間をいかにむだに過ごしてきたか、我ながら茫然とする。この様にあわただしく日々が過ぎ、童年の面影はぼんやりと淡く消え、朝霧のようにふうっと消え去り、空虚と寂莫を感ずるのみ。この歳月を、直近の2年間、筆に任せて書いた幾つかの新詩と似て非なる小説のほか、何をしたのだろう?回想のたびに物悲しくなる。今決然とこの小説集を出し……以てこの愛すべき童年との別離を記念しよう……赤子の心を失くしていない人がこれを読んでくれるなら、或いはこの中から幼いころの味わいを尋ねあててくれるだろう……』
 誠に簡潔純朴だが作者が自ら「幼稚」と謙遜するが、文飾は非常に少ないが、彼の心情の哀愁を十分に写しだしている。彼の描写の範囲は狭いが、幾人かの一般人と、瑣事ではあるが「水葬」の如く、私たちに「懐かしの貴州」の田舎の習俗の冷酷さと、その冷酷さの中から生まれる母性の愛の偉大さを示し、――遥かな貴州も人情は同じことを教えてくれる。
 この時――1924年――偶然だが作品を発表した作家に、斐文中と李健吾がいる。前者は多分それまで創作には関心が無かった人で、彼の「戎馬の声中で」は遊学青年が放火の下の故郷と父母のことを大変心配させられた実感を縷々描いている。後者の「終条山の伝説」は絢爛としていて、十年経た今でもあの口碑で織りなされた華やかな衣装に蔵された肉体と精神を見ることができる。
 蹇先艾は貴州を叙述し、斐文中は楡関(山海関)に心ひかれ、身は北京にいながら、自らの胸の思いを描いた人達は無論自分では主観的とか客観的と称していようがいまいが、実は往々、郷土文学で、北京から言えば、僑寓(仮住者)文学の作者である。但しこれはブランデスの言う「移民文学」ではなく、僑寓しているのは作者だけで、作者の書いた文章ではなく、この為そこここに漂う郷愁を感じるだけで、異国情緒で読者の心を魅了するのはとても難しいし、また彼の目を幻惑させるのは難しかった。許欽文は彼の最初の短編小説集を自ら「故郷」と名付け、知らぬ間に自ら郷土文学作者となったが、郷土文学を書く前に、彼は故郷から放逐され、生活が彼を異郷に追いやり、彼は「父の花園」を回想するだけであり、それはもう失われたものゆえ、明らかに存在するものより心が安らぎ、慰められるのだ。――
 『父の花園が最も美しかった頃はいつごろだったかもうはっきりしない。当時の盛況を一度写真に撮り、今、父の部屋に掛けてあるが、久しい昔の事で、田舎のことで撮影も拙く、もうぼんやりとしてよく分からない。その横の芳姉の遺影もはっきりせず、惟父がその写真に題した字句ははっきりわかる:「勝気な性格だったが、こんな憐れなことになり、一朝痛ましく割かれることになり、吾一人なんで堪えられようか!」
 『………
 『父の花園にもう一度いろんな花を植えようと思うが、あのころの盛況はもう取り戻せない。もう芳姉がいないから』 
 やるせない悲憤は、あきらめるしかないと思わせるのだが、作者はあきらめられない。やむなく冷静さと諧謔で悲憤の衣を見つけ出し:それで包むことで聊か「あきらめる」ことにする。そしてこうした手法でいろんな人物を描いたが、特に青年を描いた。だが無理やり作った冷静さゆえ、辛辣だがが、終には懐疑的でニヒルな笑いを帯びるのを免れぬ。
「風で瓦が落ちてきて怪我をしても恨まない」(「荘子」の言葉)冷静と言えば確かに冷静だが:憤激を包んだ冷静さ諧謔で観察され、描かれたものは喜んで受け入れることはない。彼らは作者が生命も意見も無い鏡であることを認めない。それで彼も往々にして風刺文学作家として扱われ、特に女性達のひんしゅくを買うことになる。
 この種の冷静と諧謔が増大してくると作者にとっては逆に危険になる。彼も「石宕」のような民間の暮らしを生き生きと描けるが、余り多くはない。
 王魯彦の一部の作品の題材と筆致も郷土文学作家のようだが、その心情は許欽文のとはきわめて異なる。許欽文の苦悩は地上の「父の花園」を失ったことだが、彼の苦悩は天上の自由の楽園から離れ去ったことだ。彼は「秋雨が訴える苦しみ」を聞いて云う――
 『地上はとても狭くて汚い。至る所、暗黒で、どこもみな嫌いだ。人々はただ金を愛するのを知るだけで、自由を愛すを知らず、美を愛すをしらぬ。君達人類は夜は豚のように堕眠を貪り、昼は犬のようにケンカし、殴り合う……。
 『こんな世界に慣れることなどできようか?なぜ哭してはいけないのか?野蛮な世界は野獣たちには生きて行けるが、私にはできぬ。我々はできない。おお! 私はこの世界を離れ、地底にもぐるしかないのだ…』
 これはエロシェンコの悲哀と相似ているようだが全く別物だ。あちらは地下のモグラで、人類を愛そうとして果たせず、こちらは天空の秋雨で世間から逃避せんとするもできないのだ。彼はしかたなく心を母に捧げ「人間」となって母を騙る微笑みだ。秋天の雨と心を失った「人間」はこの世の事を本心で語り合えるだろうか。冷静といえばこれこそ本当に冷静だ:これで「トルスト雨」の無抵抗主義や「牛クス」の階級闘争説を抹殺し:「ダーウ員」の進化論と「黒パト金」の相互扶助論を併せて嘲笑い:専制政治には不満だが、自由に対しても冷笑することとなる。作者は往々諧謔の筆致で描こうとするが、冷静すぎて往々、冷酷な文章になり、人間的なユーモアを失っている。(人名を1字もじっている)
しかしながら、「人」としての心が尽きた訳では無かった。「柚子」は湘中の作家にとっては、不満な点があるが、世を弄ぶ衣装の下でやはり世間への憤懣を仄めかしており、王魯彦の作品の中では最も熱烈なものと思う。
 私の言う湘中の作家とは黎錦明で彼は多分子供のころに故郷を離れたのだろう。作品中に郷土の息吹はとても少ないが、楚人の敏感さと熱情が勃々と伝わってくる。彼は早くから「社交問題」イプセン流の女性解放論に対して、ストリンドベリ式の投げやりを放っている:だが幼小時の「こまやかな印象」を精緻で美しい文章で表現もできた。1926年になると、彼は自分への不満を発表し「烈火」の再版の自序に云う――
 『北京に暮らす人で、まだ霊魂を失っていない人なら、彼の霊魂はたぶん灰色に染まっていない人はおらず、もちろん「烈火」もこうした状況下に書きあげられたが、私は去年の春、上海に来て、私の心境はまったく変わってしまい、これについては只遺棄しようとする一念しかない。…』
 彼は過去の生活は灰色と判じ、初期の作品は幼稚だと思った。果たしてこの後「破塁集」には確かに被り物を取り換え、風刺気味の軽妙な小品があるが、その中で面白い故事作家としての特色を顕著に打ちだした。時には中国の「磊砢山房」(清朝作家の房名)主人の瑰奇(奇聞)あり:またポーランドのシェンキビッチの警抜もあるが、多彩な内容で、読者を失望させることなく最期まで楽しませてくれる。だがその失点は主旨がきらびやかな装飾の下で、永遠に沈み埋もれてしまい、又現れても茫然としている事だ。
 「現代評論」は日報の副刊に比べると割合文芸に重点を置いたが、作家たちはやはり新潮社と創造社の古参が多かった。凌叔華の小説はこの雑誌で生まれ、彼女はまさしく馮沅君の大胆さと敢えて発言するというスタイルと異なり、大抵はとても穏やかな表現で、旧家庭のしとやかな女性を適切に描いた。たとえ軌道を外れるようなことがあっても、偶々文と酒の会の風に吹かれたためで、最終的には元の道に戻った。これは良いことで、――我々が馮沅君・川島・汪静之の描く人物とは全く違った人物を見ることができるし、世態の一角であり、権門豪族の精魂を見ることができる。

訳者雑感:中華民国ができてから袁世凱や孫文といった政治家のみならず、陳独秀・胡適などそうそうたる文人が政治に関与する姿勢を強めながら、「文学革命」を推進した。
政治的には日本の21カ条要求とか軍閥政府の割拠など、内乱・内戦状態にありながらも、この混乱のさなかの1934年前後に「中国新文学大系」という大部の大系が出版され、その中には沢山の小説がまとめられ、その小説二集の序が魯迅の手によって紹介されているのだが、日本から戦争をしかけられながら、魔都上海ではこうした文学大系も出版されていた、というのは驚きである。それを買う人が結構な数いたことが分かる。
 日本が第2次大戦の前の長い日中戦争時代にどれほどの文学・文化事業を継続できたのか、甚だ心もとない。アメリカでは第2次大戦の一番厳しい時でも、今にも残る名作の映画やJazzなどの名曲が大量に発表されている。国土の広さと文化の幅・大きさが
ひしひしと身にしみる。最近の大学生の4割は活字の本を読まないそうだ。
      2014/02/27記

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文学大系2

文学大系2
2.
 「五四」の件と共に、この運動の大本営の北京大学は盛名を得たが、艱難にも遭った。それで「新青年」の編集中枢は上海に戻らざるを得ず、「新潮」の群中の健将は大抵遥かな欧州に留学し、雑誌「新潮」も盛んに予告を出したが、今に至るも「名著紹介」は出版されずに終わった:国内の会員には1万部の「孑民先生言行録」(蔡元培)と7千部の「点滴」を頒布したのみ。創作は衰退し、人生の為の文学も衰退した。
 但し、上海には人生の為の文学を唱える一群がいたが、文学の為の文学を起こそうとする一群にすぎなかった。ここで触れねばならぬは、弥洒社だ。1923年3月に出版された「弥洒」(Musai)に胡源の「宣言」(「弥洒臨凡曲」)で我々に説いて――
 『我らは文芸の神:
  自らいずこに生まれたか知らず、
  何のために生まれたかも知らぬ:
  ……
 我らはすべて我らのInspirationに従うのみ!』
 4月に出た第2期の第1ページに明示して曰く:「無目的の無芸術観で議論せず、批評せず、只霊感に順じて創造した文芸作品を発表する月刊誌」即ち、脱俗の文芸団体の雑誌だ。但し、その実、無意識ながら仮想敵がいた。陳徳征の「編集余談」に言う:「近来の文学作品は商品化したものあり、所謂文学研究者、所謂文人は全て何らかの販売者の色彩を帯びている!これは我らの深く憎み、深く心を痛め、頭を痛くする問題と思う。…』
まさに「文壇を襲断」している者を征伐せんとする大軍と同じ鼻から出た檄文だ。この当時、独立した旗を立てようとしたら、「凡俗」のレッテルを貼られたのだ。
全ての作品は大抵は本当に優美を究めようとし「ひらひら旋回して」舞い、「婉曲に抑揚」をつけて歌おうとしたが、感覚の範囲はとても狭く、身辺の些細な悲歓を咀嚼するだけで、この些細な悲歓を世界のすべてと看做していた。この雑誌に小説家として現れたのは胡山源・唐鳴時・趙景澐・方企留・曹貴新だ:銭江春と方時旭は数編のスケッチのみだった。中で突出していたのは胡山源で彼の「睡」は宣言通り、全群中の佳作だが、「桜桃花の下」(第1期)はまさにこの点で過度の睡眠みたいで、明らかに病的な神経過敏である。「霊感」も畢竟は世に露出するためだ。趙景澐の「阿美」は単純で「やむなし」とは片づけられず、敏感な作家たちも忘れていた「女の子」の悲惨で短い生涯を、力をこめて描いている。
1924年に上海で結成された浅草社は、実は「芸術の為の芸術」の作家集団だが、彼らの季刊は毎号大変努力して:対外的には異域の栄養を採り入れ、対内的には自分たちの霊魂を発掘して心理的な眼と舌を発見しようとし、世界を凝視し、真実で美しい歌を寂莫の人達に向かって歌おうとした。韓君格・孔襄我・胡絮若・高世華・林如稷・徐丹歌・顧膸・莎子・亜士・陳翔鶴・陳煒謨・竹影女士は全て小説関係で:後に中国で最も傑出した抒情詩人の馮至もかつて彼の魅力に富んだ名作を発表した。翌年中枢が北京に移り、会員も一部散って行ったようで、季刊「浅草」も頁を少なくして週刊「沈鐘」に代わったが、鋭気は少しも衰えず、第一期の見開き上部に、Gissingの決然とした句を引用し――
 『諸君とともに真実を実証し、……
  死の瞬間までそれを堅持す』
 しかし当時覚醒し始めた知識青年の心情は、熱烈であったが、うら悲しかった。たとえ一点の光明をさがし出せても「半径が1なら円周は3」の円周率の定理のように、周辺のさらに涯なき暗黒をはっきりと見てしまった。取得した異域の栄養も「世紀末」の果汁で:ワイルド・ニーチェ・ボードレール・アンドレーエフたちが準備した物で「自分の舟を沈めよ」更なる絶境にて生を求めようとし、この外の多くの作品は往々「春は我が春に非ず、秋は我が秋に非ず」で黒い髪と赤い顔で苦労をなめつくし、明言できぬ断腸の曲を歌った。
馮至の詩情で飾り、莎子の辞に託した子草もそれを掩飾できなかった。凡そこうした作品は蜀の作者が書いたが、蜀が早く受難したことがここから見てとれる。
 だがこの群の作者達はまだ自ら腐ることはなかった。陳煒謨は彼の小説集「炉辺」の「Poem」で言う――
 『だが私はそうしたくない:私は生活を始めたばかりで、沢山の運命的な猛獣が向こうで牙をむき、爪を舞わせて私を待ちかまえている。そんなことは恐れることはない。必ずしも太陽を崇拝することは必要ないが、といって暗夜に怯え、身を隠してはならぬ。どうだろう。ちびた筆では破れ紙に書けないだろうか?数年後にこの時の自分を回想したら、他人がどう思おうと、自分にとって大切にする価値はある。追憶に値することは追憶すべきだ…』
 無論これは如何ともしがたい自慰の傷心の言だが、沈鐘社は確かに中国で最も堅靭で誠実で、最も長くあらがった団体であった。それは本当に吉辛の言葉のように、死ぬ日まで仕事を続けようとし:「沈鐘」(ハウプトマンの戯曲)の鋳造者のように、死んでも水底で、
自分の足で大きな鐘の音を叩きだせる。然し彼らはやはりそうはできず、彼らは生き続け、時移り世は変わり、百事、非ならざるなく:彼らも何とか歌おうとしたが、聴衆はある者は眠り、ある者は死に、ある者は離散し、目の前には只茫々たる白地のみが残った。それで風塵の混沌の中で、悲哀と孤寂のまま、彼らのクゴ(琴の一種)を放すしかなかった。
 後に「廃名」で名を成した馮文炳も「浅草」の一斑の作者として登場するが、まだ彼の特長を顕していない。1925年出版の「竹林の故事」ではじめて淡泊さを衣とし、著者の説くように、「彼らの中から自分の哀愁を抜きだす」ことができた作品であった。残念ながら多分作者は彼の限りある「哀愁」を愛惜しすぎ、まもなく以前の様な閃きを顕すこともなく、率直な読者の目にはただ低迷し、影をかえりみて、自ら憐れむ姿を見るばかりだった。
 馮元君は短編小説「巻旋」―芯を抜いても枯れない草の名――を書いたが、1923年から、身は北京に置きながら、「淦女子」(淦は沈む意)の筆名で上海創造社の雑誌に発表した物。その中の「旅行」は「隔絶」と「隔絶の後」(「巻旋」内にある)のエスプリの名文を練っているが、理に傾きすぎる嫌いはあるが、自然さは損なわれておらず:あの「私は彼の手を握ろうと思ったが、勇気がなく、ただ時おり車内の電灯が振動で消える時に握った。乗客の目を心配したからだ。しかし私はとても誇らしげに感じ、私たちは何の気兼ねもせずに車内で最も尊貴な人間だと感じた」という一段は確かに五四運動直後、毅然として伝統と戦いながら、勇気を出して毅然と伝統と戦うことを恐れて、ついにやむなく「纏綿たるせつなさの心情」に戻るしかなかった青年達の真実の姿を照写した。「芸術の為の芸術」の作品に出て来る主人公との対比で、頽廃ぶりを誇示し、或いはその才をひけらかすのとは大きな違いがある。しかし又無事平安にもどることもできた。陸侃如(馮の夫)は「巻旋」の再版の後記に云う:
 『「淦」と言う字は沈む意で、「荘子」の「陸に沈む」の意から採った(夫の陸に沈む)今、作者の考えが変わり、再版時に沅君に改めた。――作者はものぐさで、私に書くように託した』と。確かに3年後の「春痕」は只散文の断片のみで、更にその後は文学史の研究に移ってしまった。これは私にハンガリーの詩人ペトフィ・サンデルのB.S2夫人の肖像と題する詩を思い出させた――
 『貴女は男(夫)をとても幸せにしたようだが、私はそうならぬように望む。彼は悩める夜鶯だから。今、幸せの中で沈黙してしまった。彼を苛(いじめ)なさい。彼はそうされると、常に甘美な歌を唱ってくれるから』
 私は「苦悩が芸術の源泉で、芸術の為に作家を永遠に苦悩に陥れるべき」とは言わない。
だが、ペトフィの時代にはこれが些か真実であった。10年後の中国でもこれは些か真実であった。

訳者雑感:沢山の作家の名が出て来る。1920-30年代は丁度日本の大正から昭和にかけての時代で、日本でも大勢の詩人や小説家が輩出した。彼ら自身も苦悩の中に身を置いていたのだし、そうした作品を求めた読者たちも苦悩を共にしていたのだろう。
あの時代の熱情は、欧州大陸から輸入された作品から大きな影響を受けていた。魯迅が引用しているハンガリーの詩人のペトフィは日本では余り読まれなかったが、魯迅は他の作品でも引用している。「野草」の「希望」より、訳者の2010年の訳(魯迅の小説より)
希望とは何? そは娼婦:
  そは誰をも蠱惑し、すべてをささげさせ:
  君が、一番大切な宝――
  青春を献じたとき、――君を棄てる。
 この偉大な抒情詩人、ハンガリーの愛国者は、祖国のためにコザック兵の矛先の犠牲となってから、七十五年経った。悲しいかなその死:しかし更に悲しいのは、彼の詩が、今もなお死んでいないことだ。
 悲惨な人生! あの勇敢なペトフィも、終には暗夜に対して歩を止め、茫々と広がる東方を顧みて、言う:
 絶望の虚妄なのは、希望がそうであるのと同じだ。
   
 明暗のない“虚妄”のこの世に、私になお生を偸ませるのなら、あの過ぎ去った、悲涼ただよう青春を探し求めよう。それが体外のものでも良い。体外の青春すら消えてしまったら、体内の晩年はすぐ凋落してしまうから。
 だが、今は星も月も無い。地に落ちた蝶も、意味の無い笑い、愛の飛翔する舞にいたるまで、すべて無い。しかし青年たちはとても平安だ。
 私はただ自ら、この虚しい暗夜に肉迫するほかない。たとえ体外の青春を探し当てられなくとも、やはり自力で我が体内の晩年を放擲しなければならない。だが、暗夜はいったいどこにあるのだろう? 今は星も無い、月も意味の無い笑い、愛の飛翔の舞も無い:
青年たちはとても平安だ。だが、私の面前には、ついにそしてまたもや、真の暗闇も消え去った。
 絶望の虚妄なのは、希望がそうであるのと同じだ。

  2014 .2.20記


 

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「中国新文学大系」小説二集序

「中国新文学大系」小説二集序
1.
 凡そ現代中国文学に関心のある人は「新青年」が「文学改良」を提唱し、後に歩を進め「文学革命」を唱えた張本人だと知っている。だが、1915年9月に上海で出版を始めた時は全て文語だった。蘇曼珠の創作小説、陳蝦と劉半農の翻訳小説も全て文語だった。胡適の「文学改良趨議」が発表され、作品も胡適の詩文と小説だけが白話だった。後に白話作家が徐々に増えたが「新青年」は実は評論誌だから、創作は余り重視されず、比較的盛んだったのは白話詩だけで、戯曲や小説も依然として大抵翻訳だった。
 そこに創作短編小説を発表したのは魯迅だった。1918年5月から「狂人日記」「孔乙己」「薬」など次々に出し「文学革命」の実績を表した。また当時は「表現が深く適切で、文体も特別な」ため、一部の青年読者の心を激しく揺さぶった。この激しい揺さぶりはそれまで、欧州大陸文学の紹介を怠ってきたせいだ。1834年頃ロシアのゴーゴリは「狂人日記」を書いた:1883年頃ニーチェもZaratthustraの口を借りて「諸君はウジ虫から人への道を歩んできたが、諸君の中にはまだウジ虫がおり、諸君は猿だったが、今なお人はやはり如何なる猿よりも猿である」と説いた。そして「薬」の末尾には、はっきりとアンドレーエフ式の陰鬱さを残している。だが「狂人日記」は家族制度と礼教の弊害を暴こうとの意図があり、ゴーゴリの憂憤より深くて広範だが、ニーチェの超人的な渺茫には及ばない。この後、外国作家の影響から脱し、技巧は円熟し「石鹸」「離婚」などのように描写も深く適切になったが、一面では情熱が減り、読者の注意を引かなくなった。
 「新青年」からはこの外に誰も小説作家が生まれなかった。
 多いのは「新潮」だった。1919年1月の創刊から翌年の主幹者たちの留学で消滅する2年間に、小説家では汪敬熙・羅家倫・楊振声・兪平伯・欧陽予倩と葉紹鈞がいた。当然ながら技術は幼稚で往々、旧小説の手法と語調を残し:且つ平板直叙で一瀉して余韻無く:或いは話しがうまくできすぎとか、一刹那に一人の身の上に堪えられぬ程の不幸が襲ってきた。しかし又一緒になって前進する傾向もみられ、このころの作者達は皆、小説が脱俗の文学とは考えなかったし、芸術の為に芸術以外はなにもしなかった。彼らの書くものは「目的を成す」ことから発し、社会の改革のためのツールであった。――但し、窮極的な目標を定めてはいなかったが。
 兪平伯の「花匠」は人は型にはめずに、自然に任せるべきと考えたし、羅家倫の作品は結婚の自由の無い苦しみを訴え、やや浅薄の嫌いはあるが、まさに当時の多くの知識青年達の共通の考えで、イプセンの「ノラ」と「群鬼」を輸入する機運はこの時丁度熟した。但「人民の敵」や「社会の柱石」までは思い到らなかった。楊振声は特に民間の苦しみを描写しようとした:汪敬熙は微笑みを装いながら、優秀な学生の秘密と人を苦しめる災難を暴いた。だが結局は上層の知識人だったから、ペンは身辺瑣事と小民の生活の中で、伸縮するだけだった。後に欧陽予倩は劇本に注力した:葉紹鈞は大きく成長した。汪敬熙は「現代評論」に創作を発表し、1925年に「雪夜」を自選したが、自覚を失くしたのか、以前の奮闘を忘れたようで、自分の作品は「人生を批評する意味は何も無い」と考え、序に言う、
 『私がこれらの小説を書いた頃、目にした色々の人生経験を描こうとした。ただ忠実に描こうとし、批評の態度を挟まなかった。一個人が一つの事を叙述する時、彼の描写は彼の人生観の影響を免れぬが、私はできるだけ客観的な態度を保つように努めた。
 こうした客観的態度を保ったため、これらの小説は人生の意味を批評することは無かった。只、自分の目にした幾つかの経験を読者に見て貰おう。読者がそれらの小説を見て、心中、このような経験に対して何か批評があっても私の問う所ではない』
 楊振声のペンは「漁家」より生き生きしてきて、丁度以前の戦友汪敬熙とは対蹠的で:彼は「主観に忠実になろう」とし、人工的に理想の人間を作りだそうとした。更に自分の理想だけでは十分ではないと考え、数人の友人の教えを乞い、何回か改めてやっと中編小説「玉君」を完成し、その自序に言う――
 『もし誰かが玉君は本当にいたのがと訊いたら、私の回答は本当の話を書く小説家は一人もいない、である。実話を書くのは歴史家で、虚構を書くのが小説家だ。歴史家は記憶力を使い、小説家は想像力を使う。歴史家がとるのは科学的態度で客観に忠実で:小説家がとるのは芸術的態度で主観に忠実になろうとする。一言でいえば、小説家は芸術家の様に天然を芸術化し、彼の理想と意志で天然の欠陥を補うのだ』
 彼はまず「天然を芸術化しよう」と考え、唯一の方法は「虚構」を書き、「虚構を書くのが小説家」と決めた。そこで、この定律によって、又衆議を広く取り上げ「玉君」を創造したが、それはその通りだが:一つの傀儡に過ぎず、彼女の降誕は即ち死亡であった。我々はこの後、再びこの作家の創作を見ることは無かった。

訳者雑感:魯迅の小説に対する情熱は、古代からの小説を網羅した「中国小説史略」という大作があり、これは同じ医学を学んだ後、文学に移った加藤周一の「日本文学史序説」と同じく、鳥瞰的で外科医の人体解剖のごとく、整然とまとまっているが、本編も現代のと言うか、彼の同時代の小説にしっかり目を通して「鳥瞰的で外科医の人体解剖のごとく」まとめている。中に自分の「狂人日記」とゴーゴリのを比べて、自分の方を持ちあげているのも面白いが、後に彼の情熱が冷めて、青年達が注意しなくなったというのも、その後彼が「雑文」にその情熱を傾けていったきっかけだろう。
    2014/02/15記
 

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「漫画」の漫談

「漫画」の漫談
 子供たちがケンカをすると炭で――上海では鉛筆だが――壁にこう書く:「三公のおたんこ茄子、三千三百個に刻んでやる!」これは政治とは全く関係ないし、小品文でもない。絵も同じで、住民は道行く人が門前で小便せぬように、壁に亀(女房を寝とられた男の意)の絵と警告を画くが、それは「漫画」ではない。なぜか?それは描かれた物の形体あるいは精神と全く無関係だからだ。
 漫画で一番緊要なのは誠実さで、適切に事件や人物の姿態を表すことで、即精神である。
 漫画はKarikaturの訳語で、「漫」は過去の中国の文人学士の所謂「漫題」「漫書」などの「漫」ではない。(そぞろ、とりとめもないの意)勿論たいして思索もせず、一気に画くのも可だが、誠実な気持ちから芽生えるものだから、その結果もヒッヒと笑うだけではない。この種の画は中国の過去には余り無いが「百丑図」や「三十六声粉鐸図」などはやや近いが、残念ながら戯文の中の丑の脚の摸写である:羅両峰の「鬼趣図」はやむを得ぬ場合はそうとらえても良いが、社会からは相当かけ離れている。
 漫画は一目瞭然でなければならぬから、一番普通の方法は「誇張」だが、いい加減なのはいけない。縁もゆかりもない攻撃や暴露の対象をロバに描くのはちょうどおべっかのうまい男が相手を神のように祭り上げても、結局何の効果もないし、対象が実はロバの気息も神の気息もないという前提だが。しかし、もしも本当にその気息があるとなると、大変まずいことになり、それ以降、見れば見るほど似てきて、分厚い伝記よりずっと分かりやすい。ことがらに関する漫画も同じである。従って、漫画は、誇張はあるが誠実でなければいけない。「燕山雪花大如蓆」(李白の詩「北風行」の一句で、北京の燕山の雪を詠じた)
というのは誇張だが、燕山には雪花はあり、誠実で、燕山は元来そのように寒い所だと分かる。だが「広州の雪花は」となると笑い話になってしまう。
 「誇張」の2字に少し語弊があるかもしれない。「拡大」と言ってもよい。事がらや人物の特徴を拡大すると、漫画の効果はもとより容易に示す事ができるが、特徴でもない事を拡大すると、効果はさらに大きくなる。チビやデブ、ヤセやノッポは元々漫画の相があり、
更にハゲで近眼にすると再びチビでデブ、ヤセでノッポならどうやっても読者を笑わせられる。だが白くてたおやかな美人は中々難しい。一部の漫画家はドクロやキツネの類を画くが、それは自ら低能を示すにすぎない。だがこんなバカな手法はとらないで、拡大鏡で彼女の露出した二の腕を照らし、シワだらけの皮膚を見せ、そのシワの間の白粉と泥の黒白画を見せる。こうすると漫画の原稿はできる。これは事実で、信じられないなら、皆で自分を拡大鏡で照らせばわかる。それで彼女はこれも事実だと認めるほかなく、きれいにしたいなら石鹸とブラシで洗うのだ。
これは事実だから効果がある。だがこの種の漫画は中国で生存するのは難しい。去年ある文学家が言ったと思うが、彼は顕微鏡で人を論じるのを最も嫌う。
欧州でもかつては同じだった。漫画は暴露風刺だし、甚だしきは攻撃する。読者の多くは上等な雅人だから、漫画化の筆峰の向う所、往々にして只そうした拳も勇もない無告者で、彼らを笑い物にし、それで一本のシガーを貰う。スペインのゴヤ、フランスのドーミエのような漫画家にはなかなかお目にかかれない。  2月28日

訳者雑感:魯迅は幼いころから旧小説や劇本の挿絵などにとても興味をいだいていた。
それを書き写して一冊の本にしたほどだし、仙台で医学の勉強中にも、藤野先生の黒版の解剖図を彼流に「美的に」描いたほどだ。これは先生から実際と違うと指摘されたと作品の中にエピソードとして書いている。文末にあるゴヤやドーミエの漫画も見ていたのだ。
 漫画については、誠実さが一番大事だという。ふざけた気持ちやからかいの漫画はダメだという。誠実に何を訴えたいかをしっかり描かなければ漫画ではない、と。手塚治虫と対談させたかったな。
   2014/02/13記

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「レッテルはすぐ剥がそう」

「レッテルはすぐ剥がそう」
 心配症の人は実に多い。正月にある人が古今の全ての人を罵ったら、自分しかいなくなってしまうと心配していた。(林語堂を指す:出版社)古今内外で本当にそんなことが起こったら、それこそ珍奇なことというべきだが、実際にそんなことはないし、将来もないだろう。だが古今のすべての人でなく、一人も罵倒したことのないような人がいるだろうか。凡そ罵倒は、罵る為にではなく、仮面を剥ぐためだ。仮面を剥ぐのは、実際を示すことで、これを罵ると混同してはいけない。
 しかし世間は往々混同する。現在流行の袁中郎を例にとると、担いで看板にしてしまうと、観客はこの看板について議論せざるを免れず、どのように衣装を裂き、どの様にゆがんだ顔を描こうかと論じる。だがこれは中郎本人とは無関係で、示しているのは彼の弟子・孫弟子だと自称している連中の手になる。しかし弟子や孫弟子たちは、人が彼らの中郎を罵っていると思ったら、憤慨し狼狽する様は掬すべしで、今日の世界は五四時代より更に狂妄だと思う。但し、今日の袁中郎の顔は結局どのように描かれているだろうか?時代が近いから文字証拠は残っており、小品文の老師と「道学の気」の仇敵になったほかに何があるだろうか?
 袁中郎と同時代の中国には、無錫に顧憲成がいたが、彼の著作は口を開けば「聖人」口を閉じても「吾儒」で、まさに文面は「道学の気」で満ちていた。悪を疾す、は仇の如く、
小人にたいしても容赦しなかった。彼曰く:「吾これを聞く:凡そ人を論じるには正にその向う所の大本を見るべし、と。向う所が正しければ、小節の出入りは、君子たるを失わず:
向う所が劣るとなると、小節が多くなり、ついに小人に帰してしまう。また聞く:国家は、陽を助け隠を抑えてはならず、君子は不幸にして他人の罪に連座したら、保護愛惜して、これを成就す:小人は小にすぎず、まさに排絶すべく、令ぜずば後患となる。…(「自反録」)
これから考えると、袁中郎を論じようとするなら、彼の向う所の大本を見るべきで、それが正しければ、偶々の空話や小品文を書くを恕すも構わない。彼にはもっと重要な面があったからだ。李白の詩が秀れているから、その酒を責めずにすませられるが、只の酒飲なら李白の半分或いは李白の弟子孫弟子を自命する人もすぐに彼を「排絶」せねばならぬ。
 中郎はもっと重要な面があったろうか?あった。万暦37年、顧憲成が官を辞した時、中郎は「陝西の郷試を主催し、策(問題)を発し、<過劣巣由>(堯の時代の隠士巣父子由)の語あり、監臨者問うて: <何の意か>、袁曰く:「今呉中の大賢、亦出でず、将に世道に令し、いずれの所に倚頼(頼みとする)す、故にこの感を発す」(「顧憲成、年譜」下)中郎は正に世道に関心を持ち、「道学の気」を敬服した人で、「金瓶梅」を賛し、小品文を作ったのが彼の全てではない。
 中郎が罵倒されないのは、まさに彼が歪んで描かれることのないのと同じだ。ただ、この為に彼の身中の虫たちの永遠の巣穴にすることはできなかったのである。 
1月26日


訳者雑感:孔子を偉大にしたのは彼を看板にしてそれで王侯貴族の邸で働き生活してきた弟子たちである。今、中郎を担ぎ出して小品文を宣伝している作家たちは、彼を小品文の名人として持ち上げているが、彼の大本はそこにあったのではない。だからそんなレッテルはすぐ剥がした方がよいと説いているのだろう。
    2014/02/12記

 

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隠士

隠士
 隠士は美名とされてきたが、時に笑い話のタネにもされた。最も顕著なのは、陳眉公の「翩然(ひらひらと舞う)雲中の鶴、飛び去り飛び来たる宰相府」の詩を風刺するもので、いまだにこれを持ち出す人もいるが、誤解だと思う。「自分の視線が高すぎる」ため、「求むのも高遠なもの」ということで、「その所以(ゆえん)を忘れて」しまい、「言葉に出さずとも分かりあえ」ず、誤解を招くこととなった。
 隠士でない人の眼中の隠士とは、名声を表に出さず、山林に静かに暮らす人だ。だがこういう人を世間の人は分からない。一度隠士の看板をかけたら、たとえ「飛び去り飛び来たる」ことをせずとも、きっと何か表明して旗揚げせざるを得ず:或いは彼を持ちあげる人達は、銅鑼を叩いて露払いをする:――隠士の家には太鼓持ちがいて、というとなにやら理屈に会わぬようだが、一度看板をかけて飯のタネにすると、すぐ太鼓持ちがやってくる。これを「看板の縁をかじる」という。これが隠士でない人がひどく罵倒する点で、隠士の身でもうまい汁を吸えるとなると、隠士の裕福さは推して知るべしとなる。だがこれも「高遠なものを求める」ことからくる誤解で、かたくなに有名な隠士を山林中で老いて死なせるのと同じである。凡そ有名な隠士はすでに「悠なるから遊なるかな、聊か以て歳を卒す(終える)」の幸福を手にしている。さもなければ、朝に柴を刈り、昼に田を耕し、晩に菜園に水をやり、夜に履物を繕ったりしていたら、うまいタバコや茶を楽しみ、詩を吟じ、文を作る暇などどうしてあろうか?陶淵明は我々中国の赫赫たる大隠で、「田園詩人」といわれている。もちろん彼は雑誌など刊行したりせず、「庚款」(義和団の際の賠償金の返還金で、当時の偽隠士たちがこれを私しようとしたことへの風刺)を貰ったりする機会はなかったが、彼には奴僕がいた。漢晋時代の奴僕は主人に仕えるだけでなく、田を植え、商いもし、正に財を生む器具であった。だから淵明氏も財を生む道を持っていた。でなければ、酒も飲めぬだけでなく、飯すら食べられずとっくに東籬の傍らで飢死したろう。
 それで隠君子の風を見ようとするなら、実際はこのような隠君子に会えるだけで、本当の「隠君子」に会うことはできない。古今の著作は汗牛充棟だが、樵夫漁父の著作を探し出す事ができるだろうか?彼らの著作は柴刈と漁である。文士や詩翁たちが釣徒とか樵子と自称しているが、大抵は悠々自適の素封家の翁か公子で、釣ざおや斧の柄を握ったことさえない彼らから、隠逸の気を鑑賞しようなどとするのは、敢えて言えば、自らの馬鹿さ加減を怪しむだけだ。
 仕官はメシの種で、隠に帰すのもメシの種だ。メシを食うことができなければ「隠」も成り立たない。「飛び去り飛び来たる」のは正に「隠」のためで、メシにありつくためだ:「隠士」の看板を「都会の中の山林」に懸けることが正に所謂「隠」で、メシにありつくためだ。太鼓持ちが銅鑼を叩き、露払いするのは、自分達はまだ「隠」になれぬから、「隠」のうまい汁を吸うしかないが、実はそれもメシの種に外ならない。漢唐以来、役人になるのが卑しいこととは看做されず、隠居も高遠とは看做さず、さらに貧乏とも看做されなかったし、「隠」になろうとしてなれぬのを読書人の末路だと看做してきた。唐末の詩人で、左偃という人は、彼の悲惨な境遇を自叙して:「隠を謀り、官を謀るも両つながら成せず」と7字で所謂「隠」の秘密を喝破した。
 「隠を謀るも」成せずなら淪落し、「隠」はどうあっても享福と相関関係にあり、少なくとも生を謀るに、必死にあらがう必要も無く、悠閑な余裕がなければならない。只悠閑を称賛し、タバコや茶を取り上げるのもある種のあらがいだが、隠蔵のあらがいに過ぎぬ。
「隠」といえどもやはりメシの為だから、看板もペンキを塗って保護せねばならぬ。泰山が崩れ、黄河があふれようと、隠士たちは目にも見ず、耳にも聞かぬが、自分達や仲間の誰かに問題が及ぶと、千里の外といえども、半句の微細なことでも耳をそばだて、目を見張り、袂をふるって立ちあがり、問題の大きさは宇宙の滅亡より大きいと騒ぐのはこの為だ。だが、小さなハエなど何の関係があろう。
 この点が判れば、所謂「隠士」について何ら不思議なことは無くなる。ぜひご賢察を賜り、これ以上は何も申し上げません。お互いに手間を省けるでしょう。
      1月25日
訳者雑感:これは林語堂や弟の周作人たちへの痛烈な批判である。彼らが明代の袁中郎を担ぎ出して、所謂「閑適」「性霊」な小品文で、「隠士」を持ちあげたことに対し、都会の中の山林に住む「隠士」はその看板をかけて「メシの種」にしていると批判し、そのからくりが分かれば、何の不思議も有り難がることも無いのだ、と。
 「翩然(ひらひらと舞う)雲中の鶴、飛び去り飛び来たる宰相府」というのが「隠士」の実態であり、政府の役人官僚になる口を探して、首相府に飛び去り飛び来たっているのだ。安部首相の府に飛び来たったNHKの会長や2人の委員たちは、公共放送という機関でその職を全うできるような「品格」を備えていない。即刻更迭が相当だろう。
    2014/02/06記

 

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葉紫作「豊収」序

1935年
 葉紫作「豊収」序
 作者が創作すると、その中の事情に対して、必ず自分で体験することも無いが、やはり一番良いのは自ら経験することだ。難詰する人は問う:それでは殺人を描くには自分で人を殺すのが最も良く、妓女を描くには自分で淫売に行かねばならぬか?答えは:否だ。私がいう経歴するというのは、所遇、所見、所聞であって、必ずしも所作(行った所)ではないが、所作は当然ながら内面も含むことができる。天才たちのどんな大きな物語も、結局やはり無から創造することはできない。神や鬼(幽霊)を描くには、対証はないから、本来もっぱら神の思いに基づき、所謂「天馬空を行く」のように描けるが、描きだしてみると、三つ目とか長い首などにすぎず、すなわちいつも人体で目にするもので、目を一つ増やし、首を2-3尺伸ばすというのみ。こんなことが何の本領、どんな創造だと言えよう?
 地球はただ一つの世界だが、実際はいろいろで、人々の空想の陰陽両世界より、とてもすごいものである。この一つの世界の中で、軽蔑し、憎悪し、圧迫し、恐怖し、他の世界の人を殺すが、彼らはそれを知らないから、描くことができないので、自ら「第3種人」と称し、「芸術の為の芸術」として描けたとしても、せいぜい三つ目や長首にすぎぬ。
「もっと光を」?(ゲーテの言葉を題名にした杜衡の長編小説1934年)人を騙すな!諸君の目はどこについているのか?
 偉大な文学は永遠だ、と多くの学者はいう。確かに永遠だ。が、私はボッカチオ、ユーゴより、チェホフ、ゴーリキーの本を読む。それは、より新しく、我々の世界により近いからだ。中国もまだ「三国志演義」や「水滸伝」が盛行だが、これは社会にまだ三国や水滸の気があるからだ。「儒林外史」の作者の手法が、羅貫中より下だということがあろうか?
しかし、留学生がこの世にあふれだして以来、こうした本は永遠でも偉大でもなくなった。偉大なものも人に理解してもらわなければならない。
 ここに載せた6つの短編はすべて泰平世界の奇聞だが、今やごく普通のことで、ごく普通だから我々には密接で大きな関係がある。作者は青年だが、彼の経歴は泰平な世の中の順民としてこの世紀の間の経歴に抵触し、転輾とした生活の中で、彼に「芸術の為の芸術」を要求するが、彼はそれができない。ただ、我々の中にはこのような芸術が理解できる人がいて、誰が何と言おうとも心配することはない。
 これが即ち偉大な文学だろうか?否。我々自身もそんなことは言わない。「中国にはなぜ偉大な文学が生まれないのか?」多くの指導者の教訓を聞いたが、彼らは独善的で、一面で作者と作品を痛めつけて来たのを忘れている。「第3種人」は我々に教訓を垂れた。ギリシャ神話に、何とか言う悪鬼がいて、人を捕えてはベッドに寝かせ、短いと彼を引きのばし、長すぎると短く切る、と。左翼批評家はまさにこのベッドで、彼らに何も書けなくさせてしまった。今このベッドが本当に置かれたが、なんと「第3種人」だけが長くも短くも無く、ちょうどいい具合に寝られるようだ。天に唾をはくと自分の目に落ちるが、世の中はまさにこうした事が起こっているのだ。
 但し、我々にはまだ物を書ける作家がおり、作品も痛めつけられながらも堅実さを増している。大勢の青年読者の支持のみならず、「電網外」が「文学新地」に「王伯伯」の題で発表後、世界の読者を得た。(出版社注:ロシア語に訳されて紹介された)これはまさしく作者が既に目下の任務を果たし、また圧迫者への回答だ:文学は戦闘である!
 私は作者の更に多くの良い作品が読めるようになることを希望する。
   1935年1月16日  魯迅 上海にて記す。

訳者雑感:中国にはなぜ偉大な文学が生まれないのか?人の魂を揺さぶるような作品が数えるほどしかない。魯迅の幾つかの作品は世界各国に翻訳され、読み継がれて来た。しかし本国では教科書から消え、金庸氏の「作品」(武侠小説とか時代劇的大衆小説)の方が人気もあり、よく売れている。ノーベル賞作家の作品も読まれているが、人の魂に触れるような作品かどうなのか、まだ定まっていない。そもそも「小説」という名を与えたように、所謂文学としての「小説」を精魂こめて書くと言う伝統が短く、戯作とか劇本という類の扱いであって、読者と観客がはらはら・どきどきするような「章回小説」じたてのものが圧倒的に多くて、偉大な作品が生まれてこなかったのだろうか?
2014/02/02記


 

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且介亭雑文二集序文

且介亭雑文二集
   序言
 昨日去年の文を編集し終えた。新聞に載せた短文以外を「且介亭雑文」とし:今日また今年の文を再編集したが、数編の「文学論談」の他は、短文は余りなく、全てこの中に収録し「二集」とした。
 年越しは本来何も深い意味は無いし、何の日でもよいのだが、来年の元旦は今年の除夜と何ら違うと言うことは無いが、人間はこれを時に一つの段落とし、少しばかりまとめるのも都合のいいものだ。もし今年も終わりだなどと思わなかったら、私の2年来の雑文もこの1冊にならなかったかもしれぬ。
 編集し終えてもなんら大した感想も無い。感じなければならぬことを感じ、書かねばならぬことを書いた。例えば「華を以て華を制す」の説は、一昨年の「自由談」に載せた時、傅公紅蓼氏の流れをくむ人達からすごく攻撃されたが、今年またある人が提起したが、却って波風は立たなかった。きっと「不幸にして、吾が言があたった」ので、皆は黙して無言だが、時すでに遅く、互いに大きな悲哀をこうむった。
 私はどちらかと言えば、邵洵美輩の「人言」で説くように:「意気は議論より多く、捏造は実証より多い」というのだろう。
 私は時として、言論界で勝利を得ようとは思わないが、私の言葉がフクロウの鳴き声のように、とても不吉でよくないことを言い、私の言葉があたると皆が不幸になる。今年は内心の冷静と外力の圧迫で、殆ど国事を談ぜず、たまたま数編で触れたが「何が風刺か」や「手助けから無駄口」などはひとつも禁じられなかった。他の作者の遭遇も多分そうだろうが、泰平な天下では、華北が自治という事になってはじめて、新聞記者が正当な世論の保護を要求する様になった。私の正当でない世論は、国土と同様、一日一日と淪落し亡びてしまうが、私は保護を求めようとは思わない。それにはその代価が余りにも大きいからだ。
 単にこれらの文字を通して、過ぎたことを存し、いささか今年の筆墨の記念としよう。
  1935年12月31日  魯迅  上海の且介亭(租界の住まい)にて記す。

訳者雑感:華北が自治となって、というのは日本が進駐して来て、華北一帯を自治政府と言う名の傀儡政権にしたことだろう。新聞記者はそれに抵抗すべく正当な世論の保護を求めた云々というのは、昨今の「特定秘密保護法」の成立によって日本の世論が「委縮」させられてしまう、との危惧からこれに反対するという構図とどういう関係になるだろう。
 私は今の政府がどこかの傀儡とは思っていないが、その国から重要な秘密情報を得るためには、こういう法律がなければ、入手できないという説明で国民は納得できないだろう。
 政府は普通の生活を何ら脅かすものではない、というが…。
    2014/02/01記

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