忍者ブログ

日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

現在、新しいコメントを受け付けない設定になっています。

隠士

隠士
 隠士は美名とされてきたが、時に笑い話のタネにもされた。最も顕著なのは、陳眉公の「翩然(ひらひらと舞う)雲中の鶴、飛び去り飛び来たる宰相府」の詩を風刺するもので、いまだにこれを持ち出す人もいるが、誤解だと思う。「自分の視線が高すぎる」ため、「求むのも高遠なもの」ということで、「その所以(ゆえん)を忘れて」しまい、「言葉に出さずとも分かりあえ」ず、誤解を招くこととなった。
 隠士でない人の眼中の隠士とは、名声を表に出さず、山林に静かに暮らす人だ。だがこういう人を世間の人は分からない。一度隠士の看板をかけたら、たとえ「飛び去り飛び来たる」ことをせずとも、きっと何か表明して旗揚げせざるを得ず:或いは彼を持ちあげる人達は、銅鑼を叩いて露払いをする:――隠士の家には太鼓持ちがいて、というとなにやら理屈に会わぬようだが、一度看板をかけて飯のタネにすると、すぐ太鼓持ちがやってくる。これを「看板の縁をかじる」という。これが隠士でない人がひどく罵倒する点で、隠士の身でもうまい汁を吸えるとなると、隠士の裕福さは推して知るべしとなる。だがこれも「高遠なものを求める」ことからくる誤解で、かたくなに有名な隠士を山林中で老いて死なせるのと同じである。凡そ有名な隠士はすでに「悠なるから遊なるかな、聊か以て歳を卒す(終える)」の幸福を手にしている。さもなければ、朝に柴を刈り、昼に田を耕し、晩に菜園に水をやり、夜に履物を繕ったりしていたら、うまいタバコや茶を楽しみ、詩を吟じ、文を作る暇などどうしてあろうか?陶淵明は我々中国の赫赫たる大隠で、「田園詩人」といわれている。もちろん彼は雑誌など刊行したりせず、「庚款」(義和団の際の賠償金の返還金で、当時の偽隠士たちがこれを私しようとしたことへの風刺)を貰ったりする機会はなかったが、彼には奴僕がいた。漢晋時代の奴僕は主人に仕えるだけでなく、田を植え、商いもし、正に財を生む器具であった。だから淵明氏も財を生む道を持っていた。でなければ、酒も飲めぬだけでなく、飯すら食べられずとっくに東籬の傍らで飢死したろう。
 それで隠君子の風を見ようとするなら、実際はこのような隠君子に会えるだけで、本当の「隠君子」に会うことはできない。古今の著作は汗牛充棟だが、樵夫漁父の著作を探し出す事ができるだろうか?彼らの著作は柴刈と漁である。文士や詩翁たちが釣徒とか樵子と自称しているが、大抵は悠々自適の素封家の翁か公子で、釣ざおや斧の柄を握ったことさえない彼らから、隠逸の気を鑑賞しようなどとするのは、敢えて言えば、自らの馬鹿さ加減を怪しむだけだ。
 仕官はメシの種で、隠に帰すのもメシの種だ。メシを食うことができなければ「隠」も成り立たない。「飛び去り飛び来たる」のは正に「隠」のためで、メシにありつくためだ:「隠士」の看板を「都会の中の山林」に懸けることが正に所謂「隠」で、メシにありつくためだ。太鼓持ちが銅鑼を叩き、露払いするのは、自分達はまだ「隠」になれぬから、「隠」のうまい汁を吸うしかないが、実はそれもメシの種に外ならない。漢唐以来、役人になるのが卑しいこととは看做されず、隠居も高遠とは看做さず、さらに貧乏とも看做されなかったし、「隠」になろうとしてなれぬのを読書人の末路だと看做してきた。唐末の詩人で、左偃という人は、彼の悲惨な境遇を自叙して:「隠を謀り、官を謀るも両つながら成せず」と7字で所謂「隠」の秘密を喝破した。
 「隠を謀るも」成せずなら淪落し、「隠」はどうあっても享福と相関関係にあり、少なくとも生を謀るに、必死にあらがう必要も無く、悠閑な余裕がなければならない。只悠閑を称賛し、タバコや茶を取り上げるのもある種のあらがいだが、隠蔵のあらがいに過ぎぬ。
「隠」といえどもやはりメシの為だから、看板もペンキを塗って保護せねばならぬ。泰山が崩れ、黄河があふれようと、隠士たちは目にも見ず、耳にも聞かぬが、自分達や仲間の誰かに問題が及ぶと、千里の外といえども、半句の微細なことでも耳をそばだて、目を見張り、袂をふるって立ちあがり、問題の大きさは宇宙の滅亡より大きいと騒ぐのはこの為だ。だが、小さなハエなど何の関係があろう。
 この点が判れば、所謂「隠士」について何ら不思議なことは無くなる。ぜひご賢察を賜り、これ以上は何も申し上げません。お互いに手間を省けるでしょう。
      1月25日
訳者雑感:これは林語堂や弟の周作人たちへの痛烈な批判である。彼らが明代の袁中郎を担ぎ出して、所謂「閑適」「性霊」な小品文で、「隠士」を持ちあげたことに対し、都会の中の山林に住む「隠士」はその看板をかけて「メシの種」にしていると批判し、そのからくりが分かれば、何の不思議も有り難がることも無いのだ、と。
 「翩然(ひらひらと舞う)雲中の鶴、飛び去り飛び来たる宰相府」というのが「隠士」の実態であり、政府の役人官僚になる口を探して、首相府に飛び去り飛び来たっているのだ。安部首相の府に飛び来たったNHKの会長や2人の委員たちは、公共放送という機関でその職を全うできるような「品格」を備えていない。即刻更迭が相当だろう。
    2014/02/06記

 

拍手[0回]

PR

コメント

お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

カレンダー

06 2024/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

フリーエリア

最新CM

[09/21 佐々木淳]
[09/21 サンディ]
[09/20 佐々木淳]
[08/05 サンディ]
[07/21 岩田 茂雄]

最新TB

プロフィール

HN:
山善
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R