忍者ブログ

日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

現在、新しいコメントを受け付けない設定になっています。

文学大系4

文学大系4
 1925年10月、北京に莾原社が突然できたが、これは「京報副刊」の編者に不満な一群が別途週刊「莾原」を作り、「京報」の附録として発行し、聊か快哉を唱えたグループだ。一番奔走したのは、高長虹で、中堅の小説家に黄鵬基・尚鉞・向培良の3人:そして魯迅が編集者に推された。しかし声援がとても少なく、小説では文炳・沅君・霽野・静農・小酩・青雨などだった。11月に「京報」が副刊以外の附録を停止しようとしたので、半月刊とし、未名社から出版し、その頃紹介した新作は地方の沈滞した状況を描いた魏金枝の作品「鎮の黄昏を留めて」だ。
 しかし暫くして莾原社内部に衝突が起こり、長虹たちは上海に狂飆社(つむじ)を設立した。所謂「狂飆運動」でその草案は実は早くから長虹のポケットに蔵されてい、いつでも機に乗じて出ようとしていて、まず数号の週刊詩を刷り:その「宣言」にかつて1925年3月の「京報副刊」に発表したのだが、まだその時は「超人」として自命してはおらず、決して満足していない論調で――
 『黒く沈んだ暗夜、全ての人は死んだ如くに熟睡し、もの音一つせず、何の動きもない、何と退屈な長い夜よ!
 『こうして何百年、何百年もの時が過ぎ、暁の光の来ない暗夜は明けることはない。
 『全ての人は死んだ如くに沈々と眠っている。
 『そこで数名が暗黒の中から醒め、互いに呼び合う:
 『時は来た。その期が来るのを待っていたが、これ以上待てない。
 『――そうだ、我々は立ちあがろう。大いに叫ぼう。期が来るのを待っていた全ての人は立ちあがろう。
 『――暁の光がついに来なくても、立ちあがろう。我々は灯をともして真っ暗な前途を照らすのだ。
 『軟弱ではダメだ。眠ったままで望んでいてもしょうがない。我々は強くなろう。障碍を取り除くのだ。そうしないと障碍に圧倒されてしまう。恐れることはない。身を避けることも要らない。
 『この様に叫べば、微弱でも、東や西、南や北からじわじわと強くて大きい声が聞こえて来るし、我々より更に強大な応答がある。
 『一滴の泉水が江河の源流となれるのだし、微小な始まりが偉大な結果を生みだせる。この由来にちなんで我々の週刊雑誌を「狂飆」としよう』
 だが後に自ら「超越」を目指すようになった。しかし、ニーチェ式の互いに理解できぬ格言調の文章はついに週刊誌の存続を難しくし、ここに記すべき小説も、黄鵬基・尚鉞だけで――実は作者は向培良一人だった。
 黄鵬基は短編小説を一冊出し「荊棘」と称し、読者には2回目だったが、朋其と名前を変えていた。彼ははっきりと文学はバターになる必要はなく、棘のようになるべきで、文学家は頽廃せず、剛健でなければならぬと主張し、彼は「棘の文学」(「莾原」28期)に
「文学はけっして無聊なもの」ではなく、「文学家もけっして天恵を得た特等人」ではないし「終日メソメソ泣いている鮫人(海中で泣いている)でもない」と説いた。彼は云う:
 『中国の現代作品は一叢の荊棘のようであるべきだと思う。一片の砂漠では、憧憬する花はゆっくりと消滅し、社会に荊棘があらわれてきて、その葉に棘がはえ、茎にも棘がはえ、根にすらも棘ができる。――植物の生理で反駁しないでもらいたいが― 一篇の作品の思想、構造、練句、用字などすべては我々のいつも感じている棘の意味で表現すべきだ。
真の文学家は真っ先に立ちあがり、みんなが立ちあがらざるを得なくすべしで、彼は自分の力を充実し、人々にどういう風にして自分の力を充実し、自分の力を知り、自分の力を表現できるようにさせるべきだ。一篇の作品の成功は、少なくとも読者を一気に読み続けさせ、文章の良しあしなど考える暇もないほどにすること――劣悪だと思われるのは固よりダメだが、美文だと思われても失敗だ。――古いやり方ではうまくゆかない。いかに彼の病の深さをつかんで、強烈に彼を一刺するかが重要だ。一般的な整理や装飾の構造や平凡な字句は彼を他所へ向わせてしまうから、反対すべきだ。
『「砂漠すべてに荊棘を増やせば、中国人は人間的生活ができる!」と私は信じている』
朋其(四川省出身)の作品は確かに彼の主張と矛盾していないし、彼の流暢でユーモアのある言葉で、色んな人、特にインテリを暴露的に風刺している。彼は時に馬鹿を装い、青年の考えを説き、或いは四川名物のハム先生(彼の作品名)になって金持ちの家を訪ねる。だが、生き生きと動きまわり、流暢さを求めるため、そのえぐり出しは深くはできず、結末も特に滑稽にしようとし、往々全編の力量を損なってしまう。風刺文学は自らのニヒルで身を破滅させる。暫くして彼はまた「自白」で云う:『「棘の文学」の4字を書いたのも、毎日サボテンを眺めていたのと、「自分の生まれが不辰だった」ため、花の意味することをしっかり理解できなかったためであった』と。それはもう徘徊状態だった。その後彼の「棘の文学」を見ることはなかった。
尚鉞の創作も風刺で、且つ暴露と攻撃を狙ったもので、小説集「斧の背」の名前も自ら提要した。彼の創作態度は朋其より厳格で、幅広く取材し、時おり気風の未開な場所を描いた――河南省の信陽――の人々。惜しいかな才能に限界があり、その斧の背は大変軽くて小さいので、公衆と個人の為に打ち下ろした効力は、多くは機器不良と未熟な手法の為に的外れになっている。
向培良の処女小説集「飄渺の夢」を出した時、冒頭に云う――
『時間が過ぎ去る時、私の心はかすかな足音を聞き、私はそれを愚直に紙に移した。これが私のこの小冊子の来源だ!』
確かに作者は彼の心が聞いた時間の足音を叙述し、あるものは子供時代の天真爛漫な愛と憎しみに託し、またあるものは旅行中の寂莫のなかで目にし耳にしたものに託しているが、けっして「愚直」ではなく、矯正したような造作もなく、よく知っている人に対するときのように、素直に語っており、我々はなんの心配もせずに聞き入る間に、さまざまな生活の色合いを感じる。だが作者の内心は熱情にあふれ、もしそうでなければ、こんなに平静に、率直に語れない。彼は時に過去の失った童心の中で休息するが、最後は現在の「強い憎悪の背後に、更に強い愛を見つけ」た「虚無の反抗者」を愛し、我々に強く力をこめて「私は十字路を離れる」という本を提供した。以下にその名も不明な反抗者の自述した憎悪を記す――
『なぜ北京を離れるのか?私もそのたくさんの理由を口にできない。要するに;この古い虚偽に満ちた都会が嫌になったからだ。ここで遊離すること早4年、すでに骨の髄までこの古くて虚偽に満ちた都会が嫌になった。ここで私は挨拶とお辞儀、皇帝擁立、執政へへつらうばかりの――奴才を目にしただけだ!卑劣、怯懦、狡猾ではしこく身をかわす、それら全てが奴才の絶技だ!嫌でたまらぬという感じが私の口に中に一杯あり、生臭い魚が口中にあるのと同じだ:嘔吐したくてたまらぬから、私は棍棒を手に飛びだすのだ』
 ここにはニーチェの声が聞こえる。まさに狂飆社の進軍ラッパだ。ニーチェは「超人」の出現に備えよといったが、もし出現せねば、それは虚無となる。だがニーチェは次の手を考えていた:発狂と死だ。さもなくば虚無に安んじるほかなく、或いはその虚無に抗して、たとえ孤独の中で「末人」的に暖かな心を求めることもなく、一切の権威を蔑視し、縮こまって虚無主義者になるに過ぎなかった。バザロフは科学を信じていた:かれは医学の為に死に、蔑視は科学的権威では無く、科学そのものになってしまうと、それはサニンの徒になり、何もかも信じぬという名目をかかげ、なんでもやってしまえ、とあいなった。
但し、狂飆社はなんとか「虚無主義的反抗」だけで止まったようで、まもなく解散し、今残っているのは、向培良のよく響く戦叫のみで、半ばセビリーオフ式の「憎悪」のその先を説明しているにすぎない。
 未名社はその逆で、主幹の韋素園はむしろ無名の泥土に珍しい花や喬木を植えようとし、事業の中心も外国文学の訳書が多かった。「莾原」を引き継いで小説方面も魏金枝以外に李霽野もおり、鋭敏な感覚で創作し、細部まで深く一枚ずつ葉脈を数えるようであったが、そのために往々、それを広げることはできず、孤寂な発掘者が二つとも全うするのは難しかった。台静農は最初、小説を書こうなど思わず、後になっても望まなかったが、韋素園に勧められ莾原の原稿として1926年に初めて書いた。「地の子」の後記に自述して――
 『当時、2-3篇書き始めて、翌年用に備えた。素園が見て、私が民間から取材しているのに満足した:彼は結局私に専らこの方面で努力してはと勧め、多くの作家の例を挙げてくれた。だが私は余りこの道を好まなかった。社会の辛酸と悲痛を耳にし、目にしてきたことでもう堪えられなかった。今またそれらを私の心血で細部まで書くのは、不幸と言えないだろうか。だがその一方で美しい表現で同時代の青年男女に大きな喜びを与えることもできなかった』
 この後は「建塔者」が出た。彼の作品に「大きな喜び」を取り込もうとすつのは容易なことではないが、文芸に貢献し:且つまた恋愛の悲歓と都会の明暗を競って表現していたころに、田舎の生と死を泥土の息吹の中から紙に移すことを、彼より多く熱心に努めた人はいなかった。
訳者雑感:
 魯迅には彼が大学で教えていた頃の教科用としてまとめた「中国小説史略」という本があり、これは古代から近年のものを紹介している。今回訳した1-4までは、「中国新文学大系」の小説二集の序であり、1917年の文学革命以後の訳10年間の小説をまとめて紹介している。彼自身の作品も含め、鳥瞰しているようで、多くは作者の序や後記などを引用している。彼はこまめに同時代の小説家の作品を読んで、同時代のそうした作品を読もうとしている青年達に紹介しようと考えていたことが良く分かる。中国人の考え方を改善し、中国を良い国にしようとの熱意が伝わってくる。
    2014/03/05記

莾原社

拍手[0回]

PR

コメント

お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

カレンダー

06 2024/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

フリーエリア

最新CM

[09/21 佐々木淳]
[09/21 サンディ]
[09/20 佐々木淳]
[08/05 サンディ]
[07/21 岩田 茂雄]

最新TB

プロフィール

HN:
山善
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R