忍者ブログ

日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

現在、新しいコメントを受け付けない設定になっています。

「中国新文学大系」小説二集序

「中国新文学大系」小説二集序
1.
 凡そ現代中国文学に関心のある人は「新青年」が「文学改良」を提唱し、後に歩を進め「文学革命」を唱えた張本人だと知っている。だが、1915年9月に上海で出版を始めた時は全て文語だった。蘇曼珠の創作小説、陳蝦と劉半農の翻訳小説も全て文語だった。胡適の「文学改良趨議」が発表され、作品も胡適の詩文と小説だけが白話だった。後に白話作家が徐々に増えたが「新青年」は実は評論誌だから、創作は余り重視されず、比較的盛んだったのは白話詩だけで、戯曲や小説も依然として大抵翻訳だった。
 そこに創作短編小説を発表したのは魯迅だった。1918年5月から「狂人日記」「孔乙己」「薬」など次々に出し「文学革命」の実績を表した。また当時は「表現が深く適切で、文体も特別な」ため、一部の青年読者の心を激しく揺さぶった。この激しい揺さぶりはそれまで、欧州大陸文学の紹介を怠ってきたせいだ。1834年頃ロシアのゴーゴリは「狂人日記」を書いた:1883年頃ニーチェもZaratthustraの口を借りて「諸君はウジ虫から人への道を歩んできたが、諸君の中にはまだウジ虫がおり、諸君は猿だったが、今なお人はやはり如何なる猿よりも猿である」と説いた。そして「薬」の末尾には、はっきりとアンドレーエフ式の陰鬱さを残している。だが「狂人日記」は家族制度と礼教の弊害を暴こうとの意図があり、ゴーゴリの憂憤より深くて広範だが、ニーチェの超人的な渺茫には及ばない。この後、外国作家の影響から脱し、技巧は円熟し「石鹸」「離婚」などのように描写も深く適切になったが、一面では情熱が減り、読者の注意を引かなくなった。
 「新青年」からはこの外に誰も小説作家が生まれなかった。
 多いのは「新潮」だった。1919年1月の創刊から翌年の主幹者たちの留学で消滅する2年間に、小説家では汪敬熙・羅家倫・楊振声・兪平伯・欧陽予倩と葉紹鈞がいた。当然ながら技術は幼稚で往々、旧小説の手法と語調を残し:且つ平板直叙で一瀉して余韻無く:或いは話しがうまくできすぎとか、一刹那に一人の身の上に堪えられぬ程の不幸が襲ってきた。しかし又一緒になって前進する傾向もみられ、このころの作者達は皆、小説が脱俗の文学とは考えなかったし、芸術の為に芸術以外はなにもしなかった。彼らの書くものは「目的を成す」ことから発し、社会の改革のためのツールであった。――但し、窮極的な目標を定めてはいなかったが。
 兪平伯の「花匠」は人は型にはめずに、自然に任せるべきと考えたし、羅家倫の作品は結婚の自由の無い苦しみを訴え、やや浅薄の嫌いはあるが、まさに当時の多くの知識青年達の共通の考えで、イプセンの「ノラ」と「群鬼」を輸入する機運はこの時丁度熟した。但「人民の敵」や「社会の柱石」までは思い到らなかった。楊振声は特に民間の苦しみを描写しようとした:汪敬熙は微笑みを装いながら、優秀な学生の秘密と人を苦しめる災難を暴いた。だが結局は上層の知識人だったから、ペンは身辺瑣事と小民の生活の中で、伸縮するだけだった。後に欧陽予倩は劇本に注力した:葉紹鈞は大きく成長した。汪敬熙は「現代評論」に創作を発表し、1925年に「雪夜」を自選したが、自覚を失くしたのか、以前の奮闘を忘れたようで、自分の作品は「人生を批評する意味は何も無い」と考え、序に言う、
 『私がこれらの小説を書いた頃、目にした色々の人生経験を描こうとした。ただ忠実に描こうとし、批評の態度を挟まなかった。一個人が一つの事を叙述する時、彼の描写は彼の人生観の影響を免れぬが、私はできるだけ客観的な態度を保つように努めた。
 こうした客観的態度を保ったため、これらの小説は人生の意味を批評することは無かった。只、自分の目にした幾つかの経験を読者に見て貰おう。読者がそれらの小説を見て、心中、このような経験に対して何か批評があっても私の問う所ではない』
 楊振声のペンは「漁家」より生き生きしてきて、丁度以前の戦友汪敬熙とは対蹠的で:彼は「主観に忠実になろう」とし、人工的に理想の人間を作りだそうとした。更に自分の理想だけでは十分ではないと考え、数人の友人の教えを乞い、何回か改めてやっと中編小説「玉君」を完成し、その自序に言う――
 『もし誰かが玉君は本当にいたのがと訊いたら、私の回答は本当の話を書く小説家は一人もいない、である。実話を書くのは歴史家で、虚構を書くのが小説家だ。歴史家は記憶力を使い、小説家は想像力を使う。歴史家がとるのは科学的態度で客観に忠実で:小説家がとるのは芸術的態度で主観に忠実になろうとする。一言でいえば、小説家は芸術家の様に天然を芸術化し、彼の理想と意志で天然の欠陥を補うのだ』
 彼はまず「天然を芸術化しよう」と考え、唯一の方法は「虚構」を書き、「虚構を書くのが小説家」と決めた。そこで、この定律によって、又衆議を広く取り上げ「玉君」を創造したが、それはその通りだが:一つの傀儡に過ぎず、彼女の降誕は即ち死亡であった。我々はこの後、再びこの作家の創作を見ることは無かった。

訳者雑感:魯迅の小説に対する情熱は、古代からの小説を網羅した「中国小説史略」という大作があり、これは同じ医学を学んだ後、文学に移った加藤周一の「日本文学史序説」と同じく、鳥瞰的で外科医の人体解剖のごとく、整然とまとまっているが、本編も現代のと言うか、彼の同時代の小説にしっかり目を通して「鳥瞰的で外科医の人体解剖のごとく」まとめている。中に自分の「狂人日記」とゴーゴリのを比べて、自分の方を持ちあげているのも面白いが、後に彼の情熱が冷めて、青年達が注意しなくなったというのも、その後彼が「雑文」にその情熱を傾けていったきっかけだろう。
    2014/02/15記
 

拍手[0回]

PR

コメント

お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

カレンダー

06 2024/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

フリーエリア

最新CM

[09/21 佐々木淳]
[09/21 サンディ]
[09/20 佐々木淳]
[08/05 サンディ]
[07/21 岩田 茂雄]

最新TB

プロフィール

HN:
山善
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R