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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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文壇三戸(家)

文壇三戸(家)
 この20年中国には多くの作家と作品が生まれ、今なお進行中で:「文壇」ができたのは何の不思議もない。だがそれを博覧会に出展するとなると顧慮せねばならぬ。
 文字が難しく学校も少ないから、我々の作家の中で、村娘が才媛になったとか、牧童が文豪になったというのは多分殆どないだろう。かつては、牛羊の世話をしながら経典を読み学者になった者もいたが、今は多分殆どいない。――2回「多分殆ど」と書いたが、例外的な天才がいたらご容赦願いたい。要するに、凡そ墨筆を弄す人々はまず何がしかの拠り所を持っており:先祖伝来の財産が今まさに減りつつある家系でなければ、父親が貯めて今なお増えつつある家系だ。さもなければ、人は読書識字に縁が無い。今識字運動をしているが、私もこれで作家が出て来ると信じていない。従って文壇は陰影の面からは、当分は多分2つの大分類の家系の子弟で、「没落しつつある戸」と「成り金の戸」で占められている。
 成り金でも没落でもなくて著作する人も結構いるが、それは第3種人ではなく、甲に近くなければ乙に近く、自費出版する者や、持参金を頼りに出版する者で、彼らは文壇の買官で、本論の範囲外だ。従って筆墨で生きてゆく作家は、まずは没落戸の中に求めねばならぬ。彼は以前、成り金だったかもしれぬが、今は文雅が算盤を上回り、家景は大変不如意だが、またその為に世間の浮き沈み人生の苦楽を見、そこで真に今昔の落差を思い比べ、「纏面とやるせない」気持ちになる。一に天の時が悪いと嘆じ、二に地の理が悪いと嘆き、三に自身も無能と嘆ず。だがこの無能は真の無能にあらず、自分は有能なることを潔よしとせず、それゆえ無能は高尚であり、却って有能より遥か上位にある、と思っている。
君達、剣を抜き、弓を張り、背中に汗をたらし、何をやろうとするか。我が消沈せし顔には「十年一たび覚める揚州の夢」のみ、我が破衣は「襟に残るは杭州の古い酒の痕」のみで、ものうさと汚れたしみ痕さえも歴史的に甚だ深い意味を持っているのだ。惜しむらくは、俗人には分からぬから、彼らの傑作も大抵は特別な神的な色彩を放つ:「影を顧み、自ら憐れむ」というものだ。
 成り金作家の作品は、表面的には没落戸と同じだ。というのも彼の意図は墨水で銅臭を洗い消すことにあり、それで初めて没落戸の主宰する文壇に上ることができたので、自ら「風雅の園林」に附し、他の旗を立てようとしないし、新たに異を唱えようともしない。
但、よく見てみると、別の戸に属しており:彼は窮極的には浅薄で、もったいぶったマネをする。応接間には諸子の(作品の)断句があるが、誰も分からぬ代物で:机上にも石印の駢文があるが、読めもできぬので、「襟には杭州旧酒の痕」と声に出すが、一方では人が彼の破衣を嘲笑いはせぬかと気にして、着るのは新調の洋服か、まっさらな絹の長衫(伝統服)だと見せたがる:又「十年一たび覚める揚州の夢」と言うことはできるが、品行優秀などと言う訳にはゆかず、成り金が金に対しては、ものうさと汚れたしみ痕より、ずっと深い歴史的意味があると感じる。没落戸が消沈しているのは、転げ落ちた者の悲声であり、成り金のやるせなさは、「文壇に上がる為」の手段にすぎない。
 だからその作品はたとえ没落戸の傑作に似たように書いても、やはり見劣りし:彼の作品は少しも「影を顧み、自ら憐れむ」はなく、却って「得意がってうれしがる」方だ。
 この得意がってうれしがる根性は「本物の色」から外れたら「俗」となる。字を識らぬのを「俗」とは言わぬが、文語を書こうとして、うまく書けなければ俗だ。文壇で没落戸はこれまで蔑まれて来た。だが没落戸が没落に耐えられなくなると、この両戸は時に交流を始めた。誰かが「文選」で「詞彙」を探し出すと、それを調べることは大いに可能で、覚えているが、その中に弾劾文があり、弾劾しているのは没落した「世家」で、娘を成り金に嫁がせ、世家の金満家だと騙る:それで両戸がどれほど反発し、またどのように聯合するかが良く分かる。文壇も無論こういう現象あり:ただ作品への影響は、成り金が少し得意になるのを増長させるに過ぎぬが、没落戸は「俗」に対して控えめとなり、他の方面に向って、大いにその風雅を談じるのみだ:しかしたいしたことは無い。
 成り金は文壇に上ると、固より俗は免れぬが、時が経つにつれ、算盤勘定をしながら、詩を誦し読書して数代後には雅となり、蔵書も日増しに増え、お金が日ごとに減ると本物の没落戸の資格ができる。だが時の変化は迅速で、時には修養の時間を与えず、成り金の時期は短く、没落が直ぐ来て「得意がってうれしがる」から「影を顧み、自ら憐れむ」となるか、「得意がってうれしがる」の自信も失くし、また「影を顧み、自ら憐れむ」の姿も似ず、ただ無聊で、いにしえの雅俗すらも口に出せぬ状態となる。これまで名前が無かったが、しばらくこれを「没落成り金」としよう。この一戸はこれから増えるだろう。但し、更に変化し:積極的な方に向えば悪いのは減るだろうが:消極的な方に向うとチンピラ・ヤクザとなるだろう。
 中国の文学を好転させることができるのは、この三戸以外である。   
             6月6日

訳者雑感:魯迅がこの20年の文壇三戸というのは五四運動以来の中国の文学事情、文壇の構成者のことで、没落戸・成り金戸・没落成り金戸の三戸となる。魯迅は没落戸という整理になろうか。何代も続いた科挙合格者を輩出した家系から祖父の疑獄と父の死で一気に没落し「世間の浮き沈み人生の苦楽を見」、南京の鉱務学校などに「転身」し、日本に留学した。当時それしか没落した家系は歩めなかった。鉱務・海軍・医学などを勉強したが、やはり文学に転じた。一匹の魚が死んで浮かんでいるのは魚の病気だが、川じゅうの魚が死んで浮かんでいるのは、水の問題だ。その水を変えなければどうしようもない。それには文学による魂の改造しかない。いいかげんに糊塗するのではなく、真面目に取り組むのだ。
 しかし中国の文壇は、上述の通り、没落戸の「十年一たび覚める揚州の夢」のみ、我が破衣は「襟に残るは杭州の古い酒の痕」のたぐいしかない。成り金戸に至っては、墨水で銅臭を洗い消すことにその意図があり、「得意がってうれしがる」にすぎぬ。その中間として「没落成り金」というのも出てきたが、これらは「自分の楽しみ」のために「ものかき」をしているだけで、中国文学を、そして中国を良い方向に転じさせることができるのは、この三戸以外である、と喝破している。
 しかし、中国の伝統として、古典として今に残って人々に愛され、読まれているのは、たいていは「没落戸」の書いた「詩・戯曲・散文」などで、「楚辞や史記」すら、放逐された屈原や宮刑にされた司馬遷の手になる。李白や杜甫、蘇軾なども左遷中や失職中に書かれた作品が人々に愛されているのも事実である。
 成り金戸の書いたものや政権の中枢にいた人物の書いたものは少ない。
    2014/05/23記
 

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「全国木版画聯合展覧会特集」序

「全国木版画聯合展覧会特集」序
  木版画は元々昔から中国にあった。唐末の仏像、紙牌から、後の小説の挿絵、説明図に至るまで、今も現物を目にできる。またこれで明らかなように:元来大衆の物で「俗」なものなのだ。明代人はかつて詩箋に用い、雅に近い物だったが、結局は文人学士がその上に、大筆で揮豪して踏みにじられてしまったことを証明しているだけだが。
 この5年来、急に盛大になった木版は、古文化とは関係ないとは言えぬが、埋葬された骨に新しい装束を着せたものではない。それは作者と社会民衆の内面からでた共通の要求だから、若干の青年達の一幅の鉄筆と数枚の木版を、このように力強く発展することができた。それらが表現するのは、美術学生の熱い誠で、その故に、常に現代社会の魂である。
実績も具体性を伴い、それが「雅」だとはもとより言えぬが、全て「俗」だとは断乎違うと言える。これまでも木版はあったが、このような境界に達していなかった。
 これは即ち、新興木版の所以であり、大衆が支持する理由である。血脈相通じ、軽視されることはなくなった。だから木版は雅と俗の境界を取り払っただけでなく、実際にずっと光明を増し、前途に偉大な事業が待っている。
 かつて高尚だとされた風景と静物画は新しい木版画では減少したが、この2者は却って優秀な成績を顕した。中国の旧画は両者が最も多くて、見慣れているので、それを見て知らず知らずの内にその長所を長い間かけて摂取してきたためだが、今最も必要なのは、作者の力を込めた人物と物語の絵だが、やはりまだちょっと劣り、平常の器具の姿形が、実物にそぐわないものもある。この事から一面では古い文化の後者への助けになっているが、束縛にもなっているのが分かる。また一面では「俗」に入るのも不易なことが分かる。
 この選集は全国から出品されたものの精髄の1冊目で、これは開始であって、功が成ったというのではないし、幾つかの前哨が進行中ということで、この後、更に尽きることの無い旌旗が空を蔽うような大部隊が現れるのを願ってやまない。
    1935、6、4記
訳者雑感:魯迅の近代木版画への愛情がひしひしと伝わってくる文章だ。伝統ある風景と静物画は長い年月をかけて目にしてきただけに、その「こやし」が近代木版画にも大きな栄養となって機能したのだ。只魯迅も指摘するように、現物とそぐわないようになった物も昔のまま踏襲して陳腐なままにしているのは残念だ。日本の浮世絵ほどには彩色化しなかったのはどうしてだろうか?日本では友禅染のような素晴らしい着物を描いて、それを型にしたりして多色刷りなどを発展させたのがろうか。一方の中国は友禅染というよりは、西陣織のように、糸を染めて、それを織り上げる、絨毯のようにタテ糸横糸を見事に組み合わせて、芸術品に仕上げる方向に進み、版画は章回小説の英雄などの線画とか風景を、白黒印刷で普及させたから、彩色での役者絵などの浮世絵の方に進まなかったのかな。
 江戸時代の京大阪や江戸の町人文化と北京や蘇州の町人文化の差かもしれない。
     2014/05/14記

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再び「文人相軽んず」を論ず

再び「文人相軽んず」を論ず
 今年の「文人相軽んず」は黒白のスローガンが混淆している上に、文壇の混迷を蔽い隠して「羊頭を掲げて狗肉を売る」の者も登場してきている。
 「夫々、長所を以て、短所を軽んず」ということがどれ程あろうか!
この数年目にしたのは「その短を以て、人の短を軽んず」であった。例えば、口語文でちょっとした難読の個所をなじる。確かに「短」なのに、ある人は小品や雑録を引っ提げて、この点を昂然と批判したが、暫くして馬脚を露わし、自分たちが提唱した文章すら、句読の間違いで「短」が大変多いことを露した。あるものは全く「其の短、以て人の長を軽んず」であった。例えば「雑文」を軽蔑する人も、彼が書いているのは「雑文」であるのみならず、彼の「雑文」は彼が軽蔑する他の「雑文」とも比べ物にならぬ程、拙劣なのだ。それらの高論放談はチェホフの指摘するように、恥知らずにも山頂に上り、全てを見下し、軽んじられたものには全く福が無いというのは、彼らと比べ、一体どう「相」(軽んず)ことができるだろうか?今「相」と言うのは、実際は相手に花を持たせたからで、この「相」に依存するのも「文人」故である。然るに「長」たる物はどこにあるのか?
 況や、現在文壇の紛糾は、実は文筆の長短などではない。文学の修養が人を木石に変えることはなく、文人もやはり人間で、そうである以上、心中には是非があり、愛憎がある:ただ、文人であるから彼の是非はより明らかであり、愛憎も愈々熱烈た。聖賢からペテン師や屠殺者に至るまですべてを尊敬し、美人香草から癩病菌まで愛する文人は、この世界では探し出す事ができぬが、遭遇したのが是であり愛であるとすぐ抱きしめる。遭遇した物が非であり憎であれば直ぐ反発する。第三者がそう思わぬなら、彼が非とする物は実は「是」だと言えるし、彼が憎む物は実は愛すべき物で、単にひとくくりに「文人相軽んず」という空話だけで抹殺することはできず、世間はそんな生易しくは無い。文人が居る所必ず紛糾があるが、後に誰が是で誰が非か、何を存し、何を滅ぼすか、全て明らかでないものは無い。と言うのも、読者がいるから彼の是非愛憎は調停役の評論家より明確だからだ。
 しかし又ある人がお前はこわくないのか、と嚇かす。昔、嵆康が柳の下で鉄を鍛えているとき、鐘会が会いに来たが、無愛想に問うた:「何を聞きにきたのか。何を見たら去るか?」それで鐘文人を怒らせ、その後彼は司馬懿の前で是非を問われ落命した。だから誰に会っても急いで挨拶し、坐を勧め、茶を献じ「お名前はかねてより伺っております」と言わねばならない。無論必ずしもそこまでする必要は無いが、文人になる為にここまでするのは、ちょっと娼妓に近いのではないか?こうした脅し屋の例を出すのは正しくは無い。嵆康の落命も彼が傲慢な文人のせいではなく、大半は彼が曹家の婿の故で、たとえ鐘会が是非を問わずとも、いずれは誰かがそうしたろうし、所謂「重賞の下、必ず勇夫あり」なのだ。
 だが私はここで、文人は傲慢であるべきだとか、傲慢で構わぬと言っているのではない。文人は附和すべきではない、と言っているのである。文人は附和してはならぬし、附和できるのは調停役だけだ。只この附和は回避でもないし、是とする所を唱い、愛する所を頌すことで、非とする所と憎む所は相手にせぬ事だ:是とする所は熱烈に主張すると同時に、非とする所を熱烈に攻撃し、愛する所を熱烈に抱擁するように、憎む所をより熱烈に憎み、――丁度ヘラクレスが巨人アンテウスをぎゅっと抱きしめ、彼の肋骨をへし折る為にのようにきつく抱きしめるのだ。   5月5日

訳者雑感:これは難解なロジックで構成されているようで、文壇のどろどろした「せめぎ合い」「罵り合い」を体感していない80年後の私には理解困難な文章だ。だが一点だけ理解できるのは、論争相手に絶対附和してはいけない。相手の肋骨をへし折るくらいギュッと抱きしめるくらいでなければ存立できない、という覚悟を吐露したものかと推察する。
    2014/05/14記

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「人の言、畏るべし」を論ず

「人の言、畏るべし」を論ず
「人の言葉(以後、人言という)畏るべし」は人気スター阮玲玉の自殺後、彼女の遺書にあった物だ。世間を騒がせたこの事件は、から騒ぎの後、段々沈静化し、「玲玉香消記」の公演が終われば、去年の艾霞自殺事件と同様、完全に消滅するだろう。彼女らの死は無辺の人海の中に、数粒の塩をまいたに過ぎず、口さがない連中は些かの塩味を感じたが、暫くせぬうちに淡、淡、淡となってゆくだろう。
 表題の句も初め少し風波を起こした。ある評論家は彼女を自殺させた咎は、彼女の訴訟問題に対し、新聞が大大的に報じた為だとした:暫くしてある記者が公開反駁し、現在の新聞の地位と世論の威信は極めて憐れなもので、人の運命を左右するような力など豪も無い。況やそれらの記事は大抵官憲から取材した事実で、捏造・デマは絶対ないし、古い新聞も揃えているから、もう一度調べられるが、阮玲玉の死は記事とは全く関係ない、としている。
 これらは皆ほんとうのことだと言える。だが――全てがそうだと言いきれない。
 現在の新聞が記事らしく書けないというのはその通りだ:評論は感じたまま談じることはできず、威力を失っているのも事実で、道理の分かった人は新聞記者を過分に責めたりはしない。だが新聞の威力は実はまだ全般的に地に落ちた訳ではない。それは甲には損失は無いが、乙には大きな傷となる:強者に対しては弱いが、弱い者には強者となるから、時に声を呑み、忍耐するとはいえ、時には武威を輝かせる。それで、阮玲玉のような者はその余威発揚の良いネタにされるのは、彼女は有名だが無力なためだ。小市民は他人のゴシップが好きで、とりわけよく知っている人の物が好きだ。上海の横丁に住む因業婆は、近隣の阿二姐さんの家に情夫が出入りするのを知るや、すぐ面白おかしく話す。甘粛の誰かが間男を作ったとか、新疆の誰かが再婚したとかなど、彼女は聞く気も起こさない。阮玲玉は今、うつしみのスターで、皆が知っているから、新聞で騒ぐには好材料で、少なくとも販路拡大につながる。これを見た読者は思う:「私は阮玲玉より美人じゃないが、彼女よりまっとうだ」と:また「阮玲玉の技両には及ばないが、出自は彼女より高いわ」と思う者もいる:自殺後でさえも:「阮玲玉のような技芸は無いが、彼女より勇気はあるわ。だって、私は自殺などしないもの」と思わせた。銅銭何枚かを払って、(ゴシップ覧を見て)自分の優位性を見つけるのは算盤にあう。だが演芸で生きる人は、公衆が上述の前2種の気持ちを持つようになったら、もうおしまいだ。それゆえ、我々は自分でもあまり判然としない社会組織とか意志の強弱などの表面的な問題を大げさにとりあげるのをやめ、自分をその立場に置いて考えてみよう。すると、多分阮玲玉が「人言畏るべし」と思ったのは本当だと思うし、彼女の自殺は記事と関係があるのも本当だと思う。
 だが記者の弁明は、記事は法廷から取材した事実だというのも本当である。上海の幾つかの大新聞とタブロイドに出る記事は、社会のニュースで、ほとんどは既に訴訟として公安局か工部局(租界の行政)に提出された案件だ。だが少し悪い癖があり、大げさに書きたてることで、とりわけ女性に対して余計そうしたがり:この種の案件は名士やお偉方に関係が無いから、描写に遠慮会釈もない。案件中の男の年齢と容貌はたいていそのまま書くのだが、女だとすぐ文才を発揮「年増だが艶っぽさは衰えず」でなければ「妙齢の乙女で聡明で可愛い」となる。女が失踪すると、自ら出奔したか、誘い出されたか分からぬうちに、文才は断定的に:「娘は独り寝のさみしさに男なくして眠られず」というが、どうしてそんなことが分かるのか?農村の婦女が2回3回嫁すのは、元来貧しい寒村では常にあることだが、才子の筆にかかり、大きな見出しを与えられると、「奇淫、則天武后に劣ることなく」とあいなるが、どうしてそんなことが分かるのだろうか?このような軽薄な文章は、村娘を相手にしてもきっと何の問題も無い。彼女は字を知らぬし、彼女の関係者も新聞を読むとは限らぬ。だが知識人に対し、特に社会で活動している女性は大変傷つけられるし、故意に誇張し大騒ぎをおこすのは云うまでもないことだ。しかし中国の習慣では、このような文句は筆を揺らせばすぐでてきて、何も考えずに、その時はそれが女性を弄ぶものとは思いもせぬだけでなく、自分が人民の喉と舌であることにも思い到らない。無論どんな描写をしようが、相手が強者なら構わない。訂正するとか、次号でお詫びすれば、一通の手紙も不要が。だが拳も勇気もない阮玲玉にとってはまさしく生けにえの材料となり、あらぬ隈取りをかかれ、それを洗い落とす術もないのだ。彼女に戦わせようか?彼女は機関紙を持っていないから、どうやって戦う事ができるだろう:冤罪だが相手が見えず、誰と戦えば良いのか? 我々は足を地につけて考えてみれば、彼女が「人言畏るべし」と思ったのもその通りだと分かり、彼女の自殺は記事に関係があると皆が思うのも本当だと知る。
 然るに、前述のように、現在の記事が力を失ったのも事実だが、私は記者謙遜して言うように、一銭の価値もないほど豪も責任を取れぬという所にまでは至っていないと思う。
記事はさらに力の弱い阮玲玉のような相手に対し、彼女の命運を左右するだけの若干の力を持っており、言うならば、やはり悪を為せるし、自分を善だとすることができる。「聞いたことは必ず記事にする」とか「全くその力が無い」とかいうのは、向上しようとする記者がお題目として言うべきことではない。実際はそうではなく――実態は選択し、作用させようとするからだ。
阮玲玉の自殺を弁護するつもりは無い。自殺には反対だし、私も自殺する考えはない。私がその考えが無いのは、それが潔くないからではなく、そうできないからだ。凡そ誰かが自殺したら、今は剛毅な評論家の叱責を受けざるを得ぬ。阮玲玉も例外ではない。だが私が思うに、自殺は大変むつかしいことで、その準備をしていない人が、軽く考える様な容易なことじゃない。もし容易と思うなら、試してみるが良い!
無論試してみようとする勇者もきっと多いことだろうが、彼はその価値があるとは思わないだろう。というのも社会に対する偉大な任務があるからだ。それは言うまでもなくずっと素晴らしいことなのだ。私は皆がノートに果たすべき偉大な任務を書き、曾孫の生まれるころにそれを取り出して、どんな具合になっているか見てみることを希望する。
     5月5日

訳者雑感:
 本編で魯迅は当時のゴシップ記事が魔都上海の大手紙とタブロイド版の大半を占め、弱者をネタにとりあげて、販路拡大優先で、人気スターの自殺事件が続いたことを例にとり、自殺には何の値打もないから、もっと大切な任務をノートに書きだして、曾孫の生まれるまで生き続けようよ!と呼びかけている。
この5月5日は端午の節句を念頭に置いたものだろうか。
人言畏るべしのゴシップ社会でどれだけのスター達が自殺していっただろう。
直近の新聞では、汚職で嫌疑を受けた政府高官が、取り調べを受けたという新聞記事の後
数十名自殺している(40名以上?)と報じている。本来は中国の建設の為に使われるべき税金からの支払いが、役人の懐に貯められ、それが莫大な金額となって、国外に持ち出され、富が喪失されている。そんな役人は新聞がどしどし記事にして、自殺してもらったらよい。彼らにはノートに書くべき偉大な任務などこれっぽっちも無いのだから。
   2014/05/09記

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「諷刺」とは何か?

「諷刺」とは何か?
         ――文学社の問いに答えて。
  思うに:一人の作者が、精錬された、又些か誇張した筆致で――但し勿論芸術的でなければならぬが――ある一群の人のある側面の真実を描き、それに対してその一群の人達がこれは「諷刺」だと称すものだ。
 「諷刺」の命は真実である。かつて実際にあったことである必要ないが、ありうべし、というものでなければならない。従って、それは「捏造」ではなく「中傷」でもない:又「陰に私事を暴く」のでもなく、人を驚かす「奇聞」や「怪現象」でもない。書かれた事は公然のことで、常に目にするが、平時は誰も奇とせず且つまた誰も注意せぬ事だ。
だがこうした事は、その時すでに不合理で、おかしくて軽蔑すべき物で、憎むべきでさえある。だがそういうふうに行われ、習慣になると、公衆は誰も奇に思わぬが:それを取りあげて提起すると、影響がでるのだ。例えば、(殆ど中国服だった時代に)洋服を着た青年が仏像を拝むのは、今ではもはや普通のことだが、それを見た道学先生が怒るのも普通のことだが、暫くするとそれも過去のものとして消えてしまう。だが「諷刺」は正にこの時に撮った写真で、一人は尻をぴんとはねあげ、もう一人は眉をしわ寄せている。他の人から見てもとても不格好に感じるし、自分でもとても不格好に感じる:さらにこれが広まって行くと、後に科学を大大的に講じ、修養を説く際に、大きな障害になる。撮られた写真が真実でない、といったところでむだである:その時、目にした人がおり、誰もが確かにこれらの事があったと思うからだ:しかしそれが本当にあったことだと認めるのは気分が悪い。自分の尊厳を失くしたと感じるからだ。そこでいろいろ知恵を絞って、名目を考えだし「諷刺」と呼ぶのだ。その意味は:そんなことを取り上げるのは褒められたことではないぞ、というのだ。
 意識してこれを提起し、精錬し誇張するのは確かに「諷刺」の本領だ。例えば、新聞記事で記憶に残るのは今年2件あった。一件はある青年が士官と詐称し、各地で詐欺をして逮捕され、後に懺悔書を書き、生活のためにやっただけで他意は無いとした。もう一件はコソ泥が学生を引きずり込み、窃盗の手口を教えたので、家長はそれを知り、自分の子弟を家に閉じ込めていたが、それでも奴は家まで押し掛けてきて、したい放題をした。注目すべき事件について、新聞では往々特別な論評が出るのに、この2件には今に至るも何もなく、とても普通の事の様にとらえ、意に介するに足りぬとしている。このネタは、Swiftやゴーゴリの手に渡したら、きっと出色の風刺作品になったと思う。ある時代の社会にとっては、ある事柄はより平常なほど普遍的なものとなり、それはより諷刺を作るのにふさわしいものになるのだ。
 風刺作者は大抵諷刺された者に恨まれるが、彼は常に善意であり、彼の諷刺は彼らが改善するのを望んでいるのであって、その一群を水底に陥れようとしているのではない。然し、同じ群の中に、諷刺者が現れたらこの一群は収拾不能で、もう筆墨の救える状況になく:そんな努力は大抵徒労に終わり、又その反対になってしまい、実際その一群の欠点から悪徳に至るまでを表現するに過ぎず、敵対する別の一群にとって有益になってしまう。思うに:別の一群から見ると、その受けとるものは諷刺されたその一群とは異なり、彼らは「暴露」と感じる方が「諷刺」と感じるより多いのだ。
 諷刺に似た風貌の作品で、善意のかけらも無く、ただ読者に対して、世事一切はひとつもとるに足りないと感じさせるのは、諷刺ではない。それは「冷嘲」だ。 5月3日

訳者雑感:
ここでは魯迅は自らを諷刺作者として答えているようだ。彼が諷刺した一群の人の改善を願って。彼の諷刺は決して一群の人達を水底に陥れようとして書いているのではない。だが一群の人は、これは自分たちを水底に陥れようとしているのだと感じ、魯迅は人を諷刺して罵るのに長けておるだけで、自分たちの改善を願ってなどという気持ちなぞ微塵もない、と罵り返す。それがこの時代の社会の実態であった。
「阿Q正伝」を書いた時、彼は中国人の多くが根のところに持っている「阿Qの根性」を改善して欲しいと願ったのだが、逆に多くの人はこれは自分の事を諷刺していると感じ、毎月発表される文章にはらはらしながら、罵り返している。
香港のフェニックステレビの何亮亮氏が日清日露の戦争中に戦場となった遼寧省一帯で、
おびただしい数の中国人が戦闘行為のみならず、スパイの嫌疑とか他の容疑でいとも簡単に殺されているのを、それを茫として物見している中国人の多さに触れて、中国人にはそれに反抗しようとする「血性」が無いと評していた。(「劉亜洲氏の文集から引用」)
 朝鮮民族には伊藤博文の安重根とか白川義則の尹奉吉とか日本人高官を暗殺した「血性」のある人間がいたが、あれだけひどい目にあっていながら、誰も歴史に残る様な「血性」を発揮したものはいない。旅順で大量の中国人が殺されたのをただ坐して見ているだけで、誰も反抗しようと立ちあがらなかった。
 彼が最後に引用していた、「日本の右翼のある作家が、南京で30万人も虐殺したなど、絶対あり得ないことだ。30万人も殺される状況で、誰も反撃せず、逆に日本人が殺されてない、ということは、あり得ないから」というのが耳に残った。確かに爆撃機による空襲や原爆ならいざしらず、地上戦で30万人も殺されて、誰ひとりそれに反撃をしなかったというのは、「血性」の欠如だけではない別の問題があるのではないか?(血性は血気の意)
  2014/05/01記

 

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六朝小説と唐代伝奇はどう違うか?

六朝小説と唐代伝奇はどう違うか?
    ――文学者の問いに答えて
 このテーマに答えるのはとても難しい。
 唐代伝奇は今でも実物を見ることができるが、所謂六朝小説は只「新唐書芸文志」から清の「四庫書目」の判定まで依拠するものは幾つかあるが、六朝当時、小説とは看做されていなかったからだ。例えば「漢武故事」「西京雑記」「捜神記」「続斉諧記」等から、劉昫の「唐書経籍志」まで、やはり史部の起居注と雑伝類に属していたのである。当時は神仙と鬼神を信じていたから、虚造とは考えず、記述に神仙と凡俗、あの世とこの世の違いはあっても、全て史の一種であった。
況や晋から隋までの書目は、現在一種も存在しておらず、当時小説と看做されていた物が、どんな形式と内容だったか知る由もない。現存の唯一最も早い目録は「隋書経籍志」だけで、編集者が自ら言う「馬史と班書を遠く覧じ、近くは王・阮の志録を観る」というように、きっと王倹の「今書七志」阮考緒の「七録」の痕跡を尚残しているが、その録す所の小説25種中、現存するのは「燕丹子」と劉義慶撰の「世説」を合わせた、劉考の標注2種しかない。この他は「郭子」「笑林」と殷芸の「小説」「水飾」と当時すでに隋代に亡くなっていた「青史子」「語林」などで、唐宋の類書の中にまだ少し遺文を見ることはできる。
 上記の材料だけから武断的に言うと、六朝人の小説は神仙や鬼怪の記叙なく、書かれたのは殆ど人事で:文筆は簡潔で:材料は笑柄で話しのネタ:だが虚構は排斥したようで、例えば「世説新語」は斐啓の「語林」は謝安は不実を語ると記し、謝安は一説に、この事が即おおいに声価を損じた云々というのがそれである。 唐代伝奇文は大いに異なる:神仙人骨妖怪、すべて自由に駆使でき:文筆は精細で曲折があるが、簡潔で古いものを尊嵩する者からは辱められた。叙す所の事情も大抵首尾と波乱を備え、断片的な話柄に止まらず:なお且つ作者は往々、故意にこの事跡の虚構なることを顕示し、以て彼の想像の才を見せる。
 だが六朝人も想像と描写ができなかったのではなく、小説に使わなかっただけで、この種の文章は当時も小説とは言わなかった。例:阮籍の「大人先生伝」陶潜の「桃花源記」も実は後代の唐代伝奇文に近い:即ち稽康の「聖賢高士伝賛」(今僅かに輯本のみあり)、
葛洪の「神仙伝」も唐人伝奇文の祖師とみなせる。李公佐の「南柯大守伝」李肇為の賛はすなわち、稽康の「高士伝」の法で:陳鴻の「長恨伝」は白居易の長歌の前に位置し、阮稹の「鸎鸎伝」はすでに「会真詩」に録されており、また李公垂の「鸎鸎歌」の名作の結びを挙げれば「桃花源記」を思わずにいられない。
 彼らが書いた所以は、六朝人も唐人もすべて所為(目的)あり、「隋書経籍志」は「漢書芸文志」を抄して(コピペに近い意)説き、小説を著録して之を「卑見を尋ねる」に比すが、小説といえども所為があることの明証と考えた。だが実際は所為の範囲は縮小した。
晋人は清談を尚し、品格を講じ、常に廖々数言で致を立て、顕かにしたから、当時の小説は、多くは奇行や味わい深いものを記した「世説」の類で、実は口舌を借りて名位を得るための入門書だった。唐は詩文で士を採用したが、社会的な名声も大切で、士子は上京して(科挙の)試験を受ける際、予め名士に挨拶に行き、詩文を献じ、称誉を請わねばならず、この詩文を献ずる事を「行巻」と言った。詩文はすでにいっぱい溢れており、もう観たくもないから、ある者は伝奇文を使い、耳目一新を希図し、特別な効力を得んとしたから、当時の伝奇文も「門を叩くレンガ」と大きな関係があった。だが勿論、ただ気風に推されて所為も無く作った者もいなかったわけではない。   5月3日

訳者雑感:換骨奪胎とは骨組を換えて、胎児を奪うという意味の由。STAP細胞の問題で、それまでの論文に他者の論文が「そのまま」コピペされていたことが問題とされていたが、中国で換骨奪胎とか抄本の「抄」(コピペに近い)をするのは、こと文芸や演劇については、何代にも亘って繰り返されて来た。それは有名な詩人のさわりの句を転用・再利用しつつ、さらに人口に膾炙するような作品に仕立てるというのが「文人」の才であったとされてもきた。魯迅が指摘するように、長恨歌はすでにその原型が白居易より昔にあったが、今や彼の代表作となっているように、こなれて、耳に心地よく、感動することができれば、それが一番良い作品となるのだろう。
 京劇や歌舞伎の古典もこれまで何代にも亘って、繰り返し演じられるたびに今日の姿に変遷してきたので、最初から「完成品」だったわけではあるまい。
それにしても、最後の段で詩文が世にあふれかえっていたので、名士への「行巻」にもはや詩文では通用しないから、所為のある人たちが伝奇文を書いて詩文に替えたというのは面白いと思った。科挙に合格して役人になることが人生最大の「所為」だった中国人はその所為を達成するために詩や伝奇文の上達に意を用いた。だが合格して出世し始めたら、その「門を叩くレンガ」は棄てられた。ただ出世しなくて、もう「所為」の無くなった者の中にもそれを作った者がいなかったわけじゃない、という。確かに、栄達を極めた人にも名詩を残した例はあるが、多くはそうでない人達の残したものだというのも事実である。
  2014/04/28記

 

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現代中国の孔夫子

現代中国の孔夫子
 新着の上海の新聞に日本の湯島に孔子聖廟が落成したので、湖南省主席何健将軍が珍蔵の孔子画像一幅を寄贈したと報じている。正直言って、中国の一般の人は、孔子がどんな容貌だったか殆ど知らない。古くから各県に必ず聖廟、即ち文廟はあるが、聖像はたいてい無い。凡そ崇敬すべき人を絵に画く、あるいは彫塑する時は、一般に常人より大きくするのが原則だが、最も崇敬すべき人、例えば孔子のような聖人は却って、形象すら冒涜するものだとされ、無い方が良いとされてきた。これも道理が無いわけでは無い。
孔夫子は写真を残さなかったから、本当の容貌は知る由もなく、文献に偶に記載があるが、正しいかどうか分からない。新たに彫塑するとなると、彫塑者の空想に頼るより他なく、さらに安心できない。そこで儒者は(イプセンの)「ボラント」方式で、「All or Nothing」を採るしかなかっただろう。
 だが画像なら時に目にする。私はかつて3回見た。一回目は「孔子家語」の挿絵:次は梁啓超氏が日本亡命時、横浜で出版した「清議報」の口絵を日本から中国へ逆輸入した物:もう一度は、漢代の墓石に刻された孔子が老子に会っている画像だ。これら画像の孔夫子の相貌についての印象は、とても痩せた老人で、大きな袖口の長い袍子を着て、腰に剣を挿し、或いは腋下に杖を挟み、常に笑うことなく、威風凛凛としている。彼の傍らに侍して坐っていると、きっと腰骨を真っすぐにしてなければならず、2-3時間もすると骨節が痛くてたまらなくなり、普通の人は多分一刻も早く逃げ出したくなるだろう。
 私はその後山東へ旅をしたことがあった。でこぼこ路に苦しんだ時、忽然我々の孔子を思い出した。厳然と道徳家然とした風貌の聖人も、そのころ粗末な車に乗り、ぐらぐらと揺られながらこの辺りをあわただしく奔走したことに思い到って、とても滑稽に感じた。この様に感じるのは無論良くない。要するに不敬に頗る近いから、孔子の徒ならそんな気持ちを持ってはいけない。だが当時、私の様な不謹慎な心情の青年はとても多かった。
 私が生まれたのは清朝末年で、孔夫子はすでに「大成至聖文宣王」というとても厳めしい位を持ち、言うまでもなく正に聖道が全国を支配していた。政府は読書人に一定の書、即ち四書と五経を読ませ:一定の解釈を守らせ:一定の文章、即ち「八股文」を書かせ:一定の議論をさせた。而して、これら千篇一律の儒者たちは、大地が四角いのは知っていたが、地球が丸いのは知らず、それで四書には記載されていないフランスやイギリスと戦って失敗した。孔子を拝んで死ぬよりは、自分を守る為の計画をたてた方が重要だと思ったのかどうか知らないが、要するに今度ばかりは、一生懸命に孔子を尊嵩してきた政府と官僚がまっさきに動揺し、国費を使って外国書物の大量翻訳を始めた。科学的な古典作品、Herschelの「天文学綱要」Lyellの「地質学原理」Danaの「鉱物学手冊」等は今でも当時の遺物として、時に古本屋の棚に見かける。
 しかしものごとには必ず反動がある。清末の所謂儒者の結晶で、代表的な大学士徐桐氏が登場した。彼は数学すら毛唐の学問として排斥したのみでなく:世界にはフランスやイギリスという国があるのは承知しているが、スペインやポルトガルの存在は全く信じないで、フランスとイギリスは何回も貿易でもうけようとやってくるが、自分も決まりが悪いので、出まかせの国名をつけているのだ、と言った。彼は又1900年の有名な義和団の幕後の主導者で、指揮官だった。だが義和団は完全に失敗し、徐桐氏も自殺した。政府も外国の政治法律と学問技術は取り入れるべきところが多いと考えた。
私が日本に留学しようと渇望したのもその頃だ。目的を達成し入学したのは、加納先生の設立した東京弘文学院で:三澤力太郎先生が私に水は酸素と水素からできていると教えてくれ、山内繁雄先生は貝殻の中のある部位の名を「外套」というと教えてくれた。以下はある日のことだ。学監の大久保先生は我々を集め:諸君はみな孔子の徒だから、今日はお茶の水の孔子廟にお参りに行こう!といった。私は大変びっくりした。今も当時の気持ちを覚えているが、まさしく孔夫子と彼の徒に絶望したから日本にやって来たのに、なんで又拝みに行くのだ?いっとき、とても奇妙に思った。しかもこういう感じを抱いたのは決して私一人ではなかったと思う。
 だが孔夫子の本国における不遇は20世紀に始まったものではない。孟子は彼を評して、「聖の時なる者」と批評した。(時の政権の求めに対応して物ごとに対処することに長けた聖人)現代語に訳すなら(時流にあわせた)「モダ―ン聖人」とする他ない。彼自身にとってこれはあまりリスクのない尊号だったが、あまりありがたい肩書ではない。だが実際は決してそうでもなかったようだ。孔夫子が「モダ―ン聖人」とされたのは死後のことで、生きている時は大変苦労した。四方八方かけずり回って魯国の警視総監にまでなったが、すぐ下野し、失職した:且つまた権臣に軽蔑され、庶民にも嘲弄され、甚だしきは暴民に取り囲まれて、腹ペコに餓えた。弟子は3千人集めたが、役に立ったのは僅か72人、しかも本当に信用できたのは只一人のみ。ある日孔夫子は憤慨して:「道が行われないなら、桴に乗って海に浮かぼう。我に従う者は其れ由か?」と。こんな消極姿勢からその苦境を窺がい見ることができる。しかしその由すら、後に敵との戦闘で、冠の纓(エイ)を断たれたが、真に由たるに愧じず、この時も夫子の教訓を忘れず、「君子は死すとも冠ははずさぬ」として、冠の纓を結びなおし、体は切り刻まれてミンチ状にされた。唯一人の信じていた弟子を失い、孔子は無論大変悲しみ、この知らせを聞くや、厨房にあった肉のミンチを棄てるよう命じた。
 孔夫子の死後の運は比較的良かったと言えると。彼はもう文句を言わなくなったから、いろいろの権勢者が色んなおしろいで化粧して、人を嚇かすほどの高みに担ぎあげた。
しかしその後に輸入された釈迦牟尼に比べ、とてもみじめなものだった。確かに各県ごとに聖廟すなわち文廟があるが、さびしく落ちぶれた様で、一般庶民はお参りに行かない。行くのはお寺や神廟だ。庶民に孔夫子とはどんな人かと尋ねると、聖人だと答えるが、これは権勢者の声を繰り返す蓄音機にすぎない。彼らも文字の書かれた紙を大切にするが、それはそうしないと、雷に打たれて死ぬと言う迷信のせいだ:南京の夫子廟は賑やかだが、それは他にいろいろの面白い見世物や茶店があるからだ。孔子は「春秋」を作り、乱臣や賊どもが怖れたというが、現代人は殆ど誰も筆伐された乱臣賊の名を知らない。乱臣賊と言えば、大概曹操というのだが、それは聖人の教えたものではなく、小説や劇本を書いた無名の作家がそう書いたからだ。
 要するに、孔夫子の中国にあるは、権勢者たちが担ぎ出したからで、それらの権勢者、或いは権勢者になろうとする者たちにとっての聖人であって、一般庶民とは何の関係もない。然るに聖廟についてはそれらの権勢者もいっとき熱心になるにすぎず、尊孔している時も、すでに他に目的を持っていたから、その目的が達成されるや、この器具はもはや無用となり、また達成できなかったならもう用無しになってしまう。3-40年前、権勢を得ようとした人は、官につこうとし、「四書」「五経」を読み「八股」を作り、こうした書籍と文章をすべて「門を叩くレンガ」と名付けた。これは文官試験に合格したら、同時に忘れ去られ、丁度門を叩く時のレンガと同じで、門が開けばレンガは不要だからだ。孔子は実は死後もずっと「門をたたくレンガ」の役目を担ったわけだ。
 最近の例をみればもっとはっきりする。20世紀以来、孔夫子の運はとても悪かったが、袁世凱の時、また新たな典礼が復活しただけでなく、新たに奇妙な装束が作られ、奉祀する人に着させたのを覚えている。この次に現れたのが帝政だ。だがその門はついに開かず、袁氏は門の外で死んだ。その残渣は北洋軍閥で、彼らも末路に近づいたと感じた時、またこれを使って別の幸福の門を叩いた。江蘇と浙江に盤居し、路上で勝手に人々を殺した孫伝芳将軍は、投壺の礼を復興させて:山東に攻め入り、自身も数え切れぬほどの金と兵隊と妾を蓄えた張宗昌将軍は「十三経」を重刻し、更に聖道を肉体関係で伝染する花柳病のようなものと考え、孔子の後裔の誰かを自分の婿にした。しかし幸福の門は誰に対しても開かなかった。
 この3人は孔夫子をレンガとして使ったが、すべて明らかな失敗だった。自分が失敗しただけでなく、それと同時に孔子をも更なる悲境に陥れた。彼らは文字すらあまり識らぬ連中だが、盛んに「十三経」の類を談じたので、人々はとても滑稽に感じた;言行も不一致だったから、さらに人々に嫌われた。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いで、孔夫子が利用され、或いは一つの目的の為の器具だったことがますます明確になって来たので、彼を打倒しようとする欲求もさらに盛になった。だから孔子を立派に飾り付け尊厳を保とうとすると、必ず彼の欠点を探す論文と作品が現れた。孔子と雖も欠点はあるもので、平時は誰も黙っているのは、聖人も人だとして本来は許容できるからだ。しかし聖人の徒が現れて、聖人はこうだった、ああだったとデタラメを宣伝し、お前たちもこうでなくてはならない等というから、人々は笑わずにはいられない。5-6年前「子見南子」(孔子が南子に会うという孔氏を茶化した劇)を公演した時、問題を引き起こした。劇に孔子が登場し、聖人としていうなら、いささか色気を出し、間の抜けた所があるは免れぬが、人としては愛すべき好人物だった。だが、聖人の後裔たちは大憤慨し、大問題だとして役所に訴えた。公演した所が孔夫子の故郷で、そこには聖人の子孫が沢山増えていて、釈迦牟尼やソクラテスが羨むほどの特権階級になっていた。しかしそれも多分まさにその他の彼の後裔でない青年達がそこで「子見南子」を特に上演したかった理由であろう。
 中国の一般民衆、特に愚民といわれる人達は、孔子を聖人とはいうが、聖人とは思っていない:彼に対しては恭順で謹厳だが親しくは思っていない。ただ私は、中国の愚民ほど孔夫子のことを分かっているのは世界でも他にないと思う。確かに孔夫子はとても素晴らしい国を治める方法を作ったが、それは民衆を治める為であり、即ち権勢者の為に考え出した方法で、民衆の為に考えたものではない。これが即ち「礼は庶人に下さず」の意味だ。権勢者たちの聖人となって、「門叩きのレンガ」になったのは、冤罪とはいいきれない。
民衆とは関係ないとまでは言えないが、親しいとは言えないというのは、とても遠慮した言い方だと思う。そのまったく親しくない聖人に親近せぬのはまさしく当然のことである。いつでもいいから試みに、ぼろ服を着て裸足で(孔子の)大成殿に上がってみるといい。上海の上等な映画館や一等車に間違って入った時のように、即、追い出される。この建物は大人老爺たちのものだと承知しており「愚民」といえどもそんなばかげたことをするほど愚ではない。    4月29日

訳者雑感:原題は孔夫子とあり、以前は「孔子様」と訳されていた例もあったが、これは元々日本の雑誌「改造」へ寄稿された時の題なのだろう。夫子は辞書には4つの意味があり、男子、官に昇った貴人、迂腐な人、旧時学者への尊称で、ここでは3番目の意味合いも持たされているようだ。同時代の中国人の友人たちに発音してもらうと「こんふーず」と少し揶揄する様な響きを感じる。尊敬の気持ちは感じられなかった。五四運動の頃は彼が次男だったから、孔二先生とか孔二店と更に手ひどい呼称で、それを打倒せよ、とのスローガンが叫ばれていたと聞いた。
 先日湯島の聖堂へ出かけて眼にしたのは台湾から寄贈された大きな塑像であった。魯迅のいうように絵では痩せているようだが、塑像にするには常人より大きく、でっかく太っていないと「尊崇」の対象にはならないようだ。先日、日経新聞の湯島案内に高さ4.75Mで重さは何と1.5トンと世界最大だと写真が紹介されていた。
 共産主義の理念が失われ、13億人を束ねて行くのに、マルクス・レーニンなどではもはや役に立たぬと悟ったのか、2年ほど前に北京の天安門広場に大きなでっぷりとした孔子の像が建てられたが、写真で見た限り、なんとも戴けない代物だった。その後暫くして、その像が撤去された。門上の毛沢東の肖像と孔子の塑像はなんとも釣り合わない気がした。
 英仏などに攻め込まれて、半植民地になり、これはいかんと、欧州の文化文明を採り入れて、洋務運動を展開したが、旧勢力の根強い抵抗にあって百日で終わった。後、魯迅の言うように欧米や日本に大量の留学生を派遣して、彼らが帰国して、黄興・孫文たちの旗の下で、辛亥革命を実現させた。だがその後、袁世凱などが共和制はまだその程度にあらず、として帝政に戻すようにした結果、軍閥割拠の泥沼に転じた。帝政の器具として3人がまたこれを担ごうとしたのだと聞くと、今又これを担ごうとしているのは3人のDNA
が引き継がれているのかと、不思議に思う。
 最近、中国共産党政府は、西欧の築いてきた三権分立で代表される政治形態は必ずしも中国の実情にそぐわない。中国は独自の政治体制を作りあげ、西欧社会のマネはしない、と言い始めた。習主席が欧州訪問時に、中国は多党政治の手法は採らない、と発言したのは、とても気になる。袁世凱が共和制はまだその程度にあらず、と公言した時と同じように、21世紀の初頭の中国は、多党政治を行う程度にあらず、と認識しているようだ。一党独裁で、司法権は共産党という党の政権の下にあり、軍隊も共産党の指揮下にあり、国民を解放するための軍であり、国軍ではない、と主張しているのも心配だ。
 安倍首相が靖国参拝し戦前中国を蹂躙した「鬼たち」を拝んだから、それに対するには言葉だけでは効力無いと判断したためか、強制連行された人の訴訟を認め、戦争直前の商行為としての租船契約に関わる問題で21日に商船三井の「BAO STEEL EMOTION」号を差し押さえた。司法は党の指示を受けて、オバマ訪日に照準を合わせて行ったのだろう。
 どういうふうに対応してゆけば良いか?粛々と静かに慌てふかめないことだ。
    2014/04/22記  2014/05/10修正

 

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弄堂(上海の横丁)の物売り昨今

弄堂(上海の横丁)の物売り昨今
 「鳩麦杏仁蓮の実粥!」(ハトムギや杏と蓮の実の粥)
 「薔薇白糖倫教糕!」
 「海老ワンタン麺!」
 「五香茶葉蛋(卵)!」
 これは4-5年前、閘北一帯の弄堂のあちこちの物売りの声で、当時記録していたら朝から晩まできっと2-30種はあったろう。住民は本当に小銭を使うのがうまく、おやつを買って彼らに少しの商売をさせていた。売り声がやむのは、彼らがお客にサービスの最中だと分かる。その売り声はとてもみごとで、彼が「昭明文選」或いは「晩明小品」や他のものから見つけて来た言葉かどうか知らぬが、初めて上海に来た田舎者は、それを聞いたらすぐ涎がでてきて、「ハトムギ杏仁」の「蓮の実粥」は新鮮な響きで、それまで夢にも思わなかったものだ。だが、物書きで暮らしている者にとってはいささか害があり、「心は古井戸のごとく」の域に達していないと、やかましくて昼も夜も何も書けなくなるほどである。
 最近はだいぶ違ってきた。路上には小さな食堂ができ、以前は正午と夕方には長い上着を着た(上流階級の)人が占領していたが、彼らも今や大抵「沈痛を幽閉に寄す」(林語堂の言:)となり:目下の主要な客は、人力車夫の古巣の粗雑な点心屋(スナック)に行く。
車夫は、いうまでもなく道路際で腹をすかせているが、幸いまだ餅(おやき)は食べられる。弄堂の物売りの声は、奇妙なことだが、昔とは天と地の差あり、食物の物売りはまだいるが、それもオリーブやワンタンなどで、あの「情緒があり肉感のある」、「芸術」的な面白いものは無くなった。売り声はむろん昔通りあるし、上海市民がいる限り、かしましさが止むことは決してなくならないだろう。だが現在では実に減って来て、麻油、豆腐、潤髪用の楡のかんな屑、物干しざお等だ:売り方も進歩し、靴下売りは一人でその丈夫さを宣伝する歌を作り、或いは2人の布売りは、交互にその安さを掛け合いで唄う。しかし、大抵はずっと唄いながら入ってきて、突きあたりまできて引き返し、外に出て行き、立ち止まって商売する者はたいへん少ない。
 だが又高雅なものもあり:果物と花売りだ。しかしこれは中国人向けでないから外国語である:
 「Ringo, Banana, Appulu-u, Appulu-u-u!」
 「Hana Ya, Hana-a-a! Ha-a-a-a!」
 外人もあまり買わない。
 偶に、盲目の占い師、托鉢の坊主も入ってくる。専ら主婦向けの様だが、彼らは割合良い商売になり、運命占いや、黄色の紙の鬼画符を売る。ただ今年は少し不景気なようで、一昨日はついに大仕掛けの坊主が現れた。最初、鼓とシンバルと鉄索の音だけが聞こえた時、私はまさに「超現実主義」の語録体の詩を作ろうと思っていたのだが、この為に、詩の思いはかく乱されてしまった。音のする方をみると、一人の坊主が鉄のフックを胸の皮に吊り、フックの柄は一丈余の鉄索がかけられ、地上を曳きづりながら、弄堂に入ってくる。他の2人がシンバルを叩いている。だが主婦たちは門を閉め、身をひそめて誰も出て来ない。この苦行の高僧はびた一文も貰えなかった。
 後で彼女等に聞くと、答えは:「あの様子じゃ、2角(0,2元)ぐらいでは承知しないからさ」であった。
 独唱、二人唱、大仕掛け、苦肉の計、上海ではもう大銭は稼げない。一つには固より、租界の「人心の薄情さ」のためだが、もう一つには「農村復興」に向うしかない(国民党の復興運動のスローガン)ことが分かる。
               4月23日

訳者雑感:
 中国の有名な作家茅盾が戦前京都に下宿していて、寒くなり始めた初冬の夕暮れに下宿の2階で、ラッパを吹きながらリヤカーを引く豆腐売りの音を聞いて、故郷の豆腐売りと同じ音色だと感じ、郷愁を募らせた描写があった。自動車がわがもの顔で通るようになる前の上海の弄堂と彼が下宿していた当時の京都の小路は同じような情景だったのだろう。
 ラッパの音が止む時は、彼がラッパを放し、豆腐を客が持参の容器に入れているのだろう。それが止むとまたラッパを吹き始める。この辺の描写はよく観察していると思う。
 京都も阪急電車が四条通を東西に走る地下鉄工事を始めたころから、南北に流れる地下水脈が切断され、町なかでの豆腐作りが困難になり、スーパーなどで大量生産された豆腐に攻められた。だが最近青年が旗をつけたリヤカーを引いてラッパを吹きながら顧客向けに地下水で作った豆腐を売りだしたのはうれしいことだ。つぶれない所をみると、商売が成り立っているようだ。
 それと京都の小路にも禅宗のお坊さんが冬でもわらじに素足で「おおおー。おおー」と声張り上げて各路地を5-6名で巡る姿をよくみた。数戸に一戸ずつだが、主婦たちは托鉢僧にお布施をする。平和なればこそみることのできる風物詩だろう。
 1935年の上海租界の庶民生活を彷彿とさせるスケッチだが、日中戦争直前の上海で、外人として日本人が中国庶民と一緒の小路で暮らしていたことが分かる。ローマ字つづりのアップルとかバナナなど、北方の果物と南方のものが同時に売られていたとは、上海がいかに当時の東アジアの最先端の都会であったかが分かる。日本でもバナナと林檎が同時に店に並びだしたのは20年ほど前だろうか。それが80年前に物売りが売っていたのだ。
    2014/04/15記

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「京派」と「海派」

「京派」と「海派」
 昨春、京派の大師が海派の小丑(道化)を大いにけなし、海派の小丑も少しばかり反撃したことがあったが、暫くしておさまった。文壇の風波も起こってはすぐ終わるが、すぐ終わらぬと実に厄介なことになる。私もかつて聊か騒がれ、多くの唇の槍と舌の剣の攻撃を受け、その頃私が発表した説もなんら分析間違いではなかったと思った。その中に次のような一段がある――
 『……北京は明清の都で、上海は各国の租界である。都は官が多く、租界は商が多いから、文人で北京にいる者は官に近く、上海に住む者は商に近い。官に近い者は官によって名を得、商に近い者は商によって利を得、自ら亦それで糊口する。要するに:「京派」は官の太鼓持ちで、「海派」は商の手伝いに過ぎない。… 而して、官の商を見下すは固より中国の旧習で、更に言えば「海派」は「京派」の眼中にはない。…』
 しかし、今春末になって、丁度1年ちょっと経ったが、私が先に述べたことが欠陥の無いものではないと悟った。現在の事実関係は、京派がすでに自分たちの評価を下げ、又、海派を自分たちの目線の中で高め、単に自分のことだけをいうのでなく、派の区別はけっして専らその地域と相関関係にあるのではない、とした。さらに「彼を愛すがために彼を恨む」の妙語を実践した。当初、京海の争いは「龍虎の闘い」と看做したのは固より誤りで、官商の間に一本の界あり、というのも明白さを欠き、今はっきりしたことは、田ウナギとトノサマガエルのような物を一緒に炒める蘇州料理――「京海チャプソイ」を持ち出してきたのだ。
 実例は小さな物で、重大な例はありえないが、少し挙げると、1.明代の小品選集の発行権を海派に与えた:上海もかつて明代の小品を印刷した人はいたが、それは盗牌もので、今回は真正の老京派の題簽(表紙に貼る書名冊)付きゆえ、確かに正統の衣鉢だ。2.ある新刊行物は真の老京派が先頭で、真の海派がしんがりを務める:以前は京派が刊行物の路を開いたが、半京半海派の主宰する物と、純粋海派が自ら手弁当で始めた物とは大きな違いがあった。要するに:今は以前と異なり京海両派中の一本の路が一つのどんぶりとなったのである。
 ここで一言声明しておくと:私は故意に刊行物の名を挙げない。以前、「某」と言う字を使った人がいたが、何故かは知らない。しかし当該誌の作者の一人が言った:彼は「商情に詳しい」友人で、これは彼のために宣伝しているのだ、と。これに啓示を受け、良く考えてみると、彼の言葉はその通りで:褒めるのは固より良い宣伝だし、けなすのも宣伝となり、大いに褒めるのも宣伝なら、辱めるのも宣伝でないとは言えない。
例えば、甲乙が決闘し、甲が勝ち乙が死ぬと、人々はもとより殺人の凶手を見ようとするが、それと同様、もう何の役にもたたなくなった死屍をムシロに巻いて、2枚の銅貨で見世物にし、少し銭稼ぎする。私は今回出版物の名前を言わぬが、主意はその宣伝をしたくないからで、時に陰徳を講じることはせず、あたかも他人の屍で銭儲けするのを防ごうとするかの如し。しかし真面目な読者が私の刻薄を責めたりしないようお願いする。
彼らはこの機会を放ってはおかず、自ら銅鑼や太鼓を敲いて認めるからだ。
 声明が長すぎた。もとに戻すと、私の言いたいのはこれまでの事実の証明で、去年海派をけなしたのは、元来、根っこの所では、けなしていたのは遥か彼方から秋波を送ってきたのだということがやっと分かったことだ。
 文豪はやはり本当の本領を有し、アナトール・フランス著「タイス」は中国で2種の訳があり、その中にこんな物語がある。ある高僧が砂漠で修業中、アレキサンダー府の名妓タイスは、世道人心を害する人間だと思い到り、彼女を感化して出家させようとした。彼女自身を救い、彼女に惑わされた青年たちを救い、無量の功徳を積もうとした。ことは順調にゆき、テスは出家し、彼は彼女の以前の衣飾を、恨みをこめて毀損した。だが奇怪なことに、この高僧は自分の独房に戻り、修業を続けて行くうちにもう落ちついて続けることができず、妖怪を見、裸体の女を見た。彼は急いで遁れ、遠くへ行こうとしたが効き目は無かった。彼自身テスを愛してしまったことを知ったから、神魂が顛倒してしまった。
だが、多くの愚民は彼を聖僧として、至る所で彼に祈求、礼拝し、彼を敬うので「唖が苦瓜を食べた」ように苦くても物も言えにようになった。彼はついに自白することを決め、テスの所へ行き、言った。「君を愛している!」と。しかしこの時、テスの死期は近く、自ら天国を見たとしって、暫くして息絶えた。
 しかし京海の争いの目下の結論は、この本と異なり、上海のタイスは死なず、両手を広げ「いらっしゃい」で大団円となる。
 「タイス」の構想は多くはフロイトの精神分析学説を応用しており、厳正な評論家なら「何ら本当の本領」とは言えぬと考えぬし、私も争弁しようなどとは思わない。だが私は自分もあの本の愚民と同様、「君を愛している」「いらっしゃい」を聞く迄は、けなすのは単なるけなしだと思ったし、卑しむのも単なる卑しめで、今すでに世に出ているフロイト学説すら、想いもつかなかった。
 ここで又声明を付す:私は「タイス」を例に挙げたが、その物語を例にしたに過ぎぬ。私の昔からの考えは、妓女を海派の文人に比そうとするものではない。この種小説の人物は自由に変えること可能で、隠士、侠客、人格者、内親王、若旦那、若社長の類、全て可である。況やタイスも実は何も咎めることは無い。在俗の時は、溌剌として暮らし、出家後は刻苦修業しており、我々の所謂「文人」と比べれば、中年になったばかりなのに、自ら嘆じて「私は意気消沈して」と死んだも同然なのよりずっと人間らしい。自白するが:私の気持ちとして、むしろ溌剌とした妓女に敬意を表したく、死んだも同然のような文人との冗談の言いあい等したくもない。
 なぜ去年北京が秋波を送り、今年上海が「いらっしゃい」と言ったかに至っては、事前の推測となって、正しいかどうか分からないが。思うに:多分頼まれもしないのに、手伝おうとしたので、最近「不景気」だから、両方が一緒になるしかなく、割れたレンガ、古い靴下、鞄、洋服、チョコ、梅ナンとかを一緒にし、もう一度勘定書きを作って新会社とし、それで主要顧客の耳目を一新しようとでもするのだろう。
      4月14日
訳者雑感:北京で文芸活動をしてきて上海など眼中にもなかった北京派の連中が、日本の進攻などで立ち行かなくなったのか、上海をけなす事が秋波を送るという事に繋がるという魯迅の展開は、最後になって、上海がそれを受け入れるかどうか疑問であるということで落ちがつく。それまで官のいた都北京が北平と改称されたように、もはや都でもなくなった北京で文芸が成り立たなくなって、上海と同じどんぶりでメシにありつこうとしているのだ、との喝破である。事前の推測で正しいかどうかは分からぬが、としながらも。
 国が平和な時は、北京も上海もそれぞれに官と商に近い関係を活かしてメシにありついてきたが、乱世になってそれもままならぬようになった。亡国一歩手前であった。
       2014/04/13記
 

 

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「文人相軽んず」

「文人相軽んず」
 いつも同じことを言うと厭きられる。だから文壇では一昨年「文人は品行なし」と言われ、昨年は「京派と海派」でひと騒ぎし、今年は新スローガンの「文人相軽んず」が出てきた。
 この気風について、スローガン派はとても憤慨し、彼の「真理が哭いている」として、大きな声を張り上げ、あわただしく全「文人」に軽蔑の辞を投げつけた。「軽蔑」を最も憎むが、彼らは「相軽んず」ゆえ、彼の理想と同じ風習の社会を損傷し、彼自身を害して、軽蔑の術を施すしかない、と。これは勿論「即その人の道で以て、その人の身を治む」であり、古怪な人の決まったやり方だが、「相軽んず」の悪弊は容易には根絶できない。
 「文選」から言葉を探すと、大抵「文人相軽んず」の4文字を目にするから、拾い出して使ってみるとぴったりする。しかし、曹聚仁氏は「自由談」(4月9日―11日)で既にそれを指摘し、曹丕の所謂「文人相軽んず」は、文は一体に非ず、よく善を備えるは鮮(すくなく)、各々長所を以て短所を相軽んず」凡そ、指摘する所は、僅かに文章作成の範囲に限っている。他の一切の攻撃は姿かたちや貫籍、中傷、デマ及び施墊存氏式の「彼等自身も同じだ」或いは、魏金枝氏式の「彼の親戚も私と同じだ」の類は全て、この中に入っていない。もしこれらを曹丕の言う「文人相軽んず」と一緒にすると黒白混淆で真理は大いに哭くが、文壇の暗黒を増すことになる。
 もし「荘子」から言葉を探すと、大概また2つの貴重な教訓に出会う。「彼亦一是非、此れ亦一是非」で覚えておいて危急時の護身符とするのも気がきいているようだ。しかしこれは暫時口で言うのは構わぬが、永遠に実行するのは難しい。この種の格言引用が好きな人は、その精神と相離れることはるかに遠く、狆と老耼(老子)の差より甚だしいこと、今さら言うまでもない。荘子自身「天下篇」で、他の人の欠点を列挙し、彼の「是非無し」を以て、一切の「是非とする所あり」の言行を軽んじているではないか。さもなければ、「荘子」は只単に「今日の天気はハハハ」の7字で済むだろう。
 但し、我々は今や漢や魏の時代に非ず、また当時の文人の様に必ず「各々長所を以て、短所を軽んず」必要もない。凡そ、評論家の文人に対する、或いは文人たちが互いに論評し、各々「短所を指摘し、長所を揚げる」は固より可だが「短所を掩飾し、長所を称賛」するのも不可ではない。しかし、それには必ずあちらに「長所」がなければならず、こちらには明確な是非が無ければならず、熱烈な好意がなければならぬ。今年新たに出た「文人相軽んず」という曖昧模糊とした悪名が驚くほど人の目をくらますのは、風流を気取った金持ちや、古雅を装った不良息子、淫書を売るヤクザで、「彼亦一是非、此れ亦一是非」に違いなく、一律拱手し眉を垂れ、敢えて言わず、取り上げるまでもない、というのでは、
どういう類の評論家か文人か?――彼こそまず「軽んじ」られなければならない!
 4月14日

訳者雑感:シンガポールの学校で馬さんという女性の先生が、「文章は自分のが一番」
「女房はヒトのが一番」という句を教えてくれた。「文章是自己的好、老婆是人家的好」
これが「文人相軽んず」の伝統だろう。魯迅も胡適や林語堂をとても軽んじている。
彼女は中国の南方で馬という姓はマホメットの馬から来ているのが多いとも語った。
南方人としては響きの美しい北京語であった。
   2014.4.4.記


 

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