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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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逃名

逃名(名声を嫌って逃れる)
 数日前、上海の新聞に広告があり、見出しは一寸角の大きな4文字で――
 『救命、見に行こう!』
 見出しだけだと、外科医の重病人手術、おぼれ死にそうな人に人工呼吸を、座礁した船に乗っている人を救助せよ、鉱山の崩落で生き埋めになった坑夫を救出せよと呼びかけている様に思わせる。実はそうではない。例の通り「水害救援の為の演芸大会」で陳皮梅・沈一呆の独り芝居を見、月光歌舞団の歌舞を見る類だ。広告通り「五角(0.5元)払って、一命を救助し… 一挙両得、こんな楽しいことをなぜしないのか」
お金は救命に使われるが、「見る」のは演芸で「救命」ではない。
 中国は「文字の国」といわれ、そうらしいが、本当にそうだとも言えない。言うなれば、文字を重んじない「文字遊戯の国」で、実態とかけ離れた手法を弄び、文字と言葉の定義をごっちゃにし、しばらくは「解放」を「孥戮」(殺す意)と解し、「舞踊」を「救命」と解さないといけないようだ。小さな乱を起こせば偉人になり、教科書を編纂すると学者で、文壇のゴシップを書くと作家になる。それで、少し自分を大事にする人は、そういう堂々たる名を目にすると、心配になり、できるだけそこから逃れようとする。逃名とは実は名を大事にすることで、逃れるのはこうした名からで、そこに漬けられたくないからだ。
 天津の「大公報」の副刊の「小公園」は近頃文章を大切にし、名を重んじない事を標榜してきた。この見識はとても正しい。だが偶々「老作家」の作品が出ていたが、それは作品が良いのであって、名前のせいではない。しかし8月16日の紙面に大変面白い「多くの先輩作家が、寄稿の後で、よろしく頼むとの依頼を附している」のを載せている:
 『私の文章を平日版に載せて欲しい。そうなったら大変うれしい。私と著名な人が一緒に並べられるのは厭きて嫌になってきた。勇敢な新人達の中に入れて欲しい。多くの場合、彼らの作品はより新鮮だから』
 こういう「先輩作家」たちはウソを言っているようだ。「著名人」には厭きるほど嫌になっているのではない。我々は離乳してすぐご飯やパンを食べるが、これまでずっと、慣れてきているが、厭きるほど嫌にはなっていない。編集者となれあいでなければ、先輩作家がこれを頼んで、「老人ぽさを返還して童年に戻る」手法を弄んでいるのでなければ、これが証明しているのは:所謂「先輩作家」も一群の人達は名を盗んでおり、そのため他の一群と一緒に扱われるのを羞じ「著名なひとと一緒にされるのに厭きて嫌になった」と感じ、逃げ出す事に決したのだ。
 この後、彼らは「勇敢な新人群にまじって」気持ちよくやりたいのだが、作品は「より新鮮になる」であろうか。今とても測りがたい。逃名は固より闊達とは言えないが、去就はあり、愛憎あり、畢竟やはり身を潔くし、孤高の士たらんとするのである。「小公園」にはすでに現実に身を以て法を説く人がおり、上海バンドには依然として「自費出版」でニュースを造り、或いは「言行一致」と自称し、又は「冤罪」だと大声で叫び、或いは明朝の死屍を引っぱりだして台にのせ、現存の古人に喝をいれてもらい、更に自分で自分の名を人名事典に挿入して「中国の作家」としたり、或いは自分の作品を画集に入れて「現代傑作集」と名付け――忙しそうに立ち回っては、陰でこそこそしながら格好をつける。
 作家は一列に坐り、将来人を笑わせたりこわがらせたり、「厭きて嫌にさせるか」――
今はとても測り難い。但、もし「前年の鑑」によれば「後から今を見れば、亦猶、今昔を見る如し」で、多分きっと「悲夫」となるを免れまい!
               8月23日
 
訳者雑感:この作品から推測するに、上海の出版界では「自費出版」で自分の名前を有名にしようとする「作家」たちが沢山いて、又老作家たちも実は名前を貸していただけの連中もいて、週末に出る娯楽版的な「副刊」で読者の目を欺いていたようだ。
 そんな連中と一緒にされたくない、という動機が「逃名」という題名になったのか。
 文章を一番大切にし、名前で判断しないというが、現実は作家の名前で本を買う人が多い。「カモメのジョナサン」の訳は、新人が出しても、余り買う人がいないというのが問題である。名前で本を買うのは今も昔も、変わらないのだろう。
     2014/07/11記

 

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毛筆論の類

毛筆論の類
 国産品愛用が提唱されて久しいが、上海の国産品公司もたいして発展せず、「国産品市場」も閉鎖され、建屋も撤去されたが、新聞にはまだ国産品特集をよく見る。そこで勧告され、罵倒されている人達は例によって学生・児童と婦女子だ。
 数日前、筆墨についての文章を見て、中学生たちが訓斥されていて、彼らの9割はペンとインクを使っており、これが中国の筆墨の出路を妨げているという。無論こういう学生たちを何とか奸とかまでは言わないが、少なくともモダンガールが外国の白粉や香水を愛用するのと同じで「入超」に対する若干の責任を負うべきだとされている。
 それはそうかもしれないが、思うに、西洋のペンとインクを使うか否かは、時間の余裕があるかどうかに関係している。私自身は先ず私塾で毛筆を使い、後に学校でペンを使ったが、その後田舎に帰って毛筆を使う人は、私が悠然と硯を置いて、紙を広げ、墨をすって揮毫できるなら、羊毫と松煙(の墨)は良いものだと思う事だろう。だが、速く大量の字を書くのはむつかしく、言い換えればペンとインクには勝てないとなる。学校で講義を筆記する時に、たとえ墨汁にし、都度墨をする煩わしさはなくせても、すこし経つと筆先が墨汁の膠で固まってしまって書けなくなる。やはり筆洗いの水壺を持参せねばならず、ついには小さな卓上に「文房四宝」を置くことになる。ましてや筆先が紙にどれだけ接するか、即ち字の粗細だが、これを全て手に任せるとすぐ疲れてしまい、段々遅くなる。閑人は構わぬが、忙しくなると、どうしたってペンとインクの方が便利となる。
 青年は当然、洋服に万年筆を差すようになり、そうする人が増えるのは便利だからだ。便利な器具の力は勧告や諭すこと、そしることや痛罵の類の空言で止められない。信じなければ、自動車に乗る人に、北方ならラバの車、南方なら緑のラシャの駕籠に乗るように勧めてみるが良い。これを笑い話というなら、学生に筆を使えというのはどうなのか?現在の青年はすでに「廟頭の鼓」となっており、誰が叩いても構わない。一方では学科も沢山増えているのに、古書を提唱し、一方で教育家はため息をついて、彼らの成績は悪く、新聞も読まず、世界の大勢に疎いと嘆いている。
 だが筆墨すら外国に依存するのは論外だ。この点は前の清朝官僚の聡明さを支持する。彼らは上海に製造局を作り、筆墨より大事な器械を造ろうとした。――結果は「積弊は改め難し」でなにも造れなかったが。現代の人も聡明で「Cinchona」というのは元来アフリカの植物だが、ついに入手し、自分で植えて、コレラが発生してもすぐ対応でき、Cinchonaの丸薬を飲めるし、「糖衣」もあり、薬嫌いの可愛いお嬢さんたちも甘い甘いと飲むことができる。インクとペンの製法を入手するのはCinchonaを偸むようなリスクは無い。だから人にインクとペンを使うなというより、自分でそれらを造ったが良い:ただし、良い物を造るべきで「羊頭狗肉」にならぬようにしなければならない。さもないと、これまた無駄使いになってしまう。
 しかし私は信じているが、毛筆擁護者も大抵は私の提案を空談とは言わないだろう。これも事実で:質屋にも奇妙な装束や異様な服を受けぬように公告して、筆墨業も墨をすすり、筆を舐めなどと主張するような国粋は徐々に無くなるのは免れまい。自己改造は人に対して禁じるより難しいことだ。しかしこの方法で良い結果と効果がでないと、青年達の一部は旧式の文人儒者になってしまう。    8月23日

訳者雑感:1970年代に上海に半年ほどいた頃、友諠商店という外国人向け主体の商店で色々なものを買った。工芸品とか玄関マットの絨毯などが好評だった。そしてもう一つ「英雄」というブランドの万年筆が超安価で人気があった。というのは、戦前アメリカ資本のパーカーの工場が上海にあり、戦後それをそのまま引き継いだからだということだった。当時の1元は150円で、もともと給与が低く抑えられていたので、定価もとても安くて、日本へのお土産にちょうど良かった。ただ、書き味はいまいちで、暫く使うとインクがでにくくなったりしたので、引出しに放置されがちであった。
 1935年の魯迅が書いた本文をみると、国粋者たちはやはり筆と墨を使うよう勧告し、ペンとインクを使う青年たちを罵倒していたという。それほど国粋が染みついていたのだ。
魯迅は「国産品愛用」運動を展開するなら、羊頭狗肉ではないしっかりしたペンを造れと呼びかけているが、やはり国産品の良いものは造れなかったようだ。文化大革命の嵐が過ぎさると、やはり元々はアメリカ資本のパーカーの工場から「英雄」ブランドで出荷している。
 30年の改革開放で、衣料品とか靴は生活用品はだいぶ国産品の品質も向上したが、自動車とか精密機器などはやはりまだ国産品を愛用しようにも術が無いようだ。自分で創意工夫していい物を造ろうとするより、ちょっと品質は劣るがよりコストの安い物で「儲けよう」という発想が改められないようだ。長持ちする良い製品を造って国民に喜んでもらって、結果自然に収益が増えるという考え方をする人はまだまだ少ない。嗚呼!
    2014/07/08記

 

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殆ど何事もない悲劇

殆ど何事もない悲劇
 ゴーゴリはやっと中国の読者にも知られるようになり、彼の名著「死せる魂」の訳も第一部の半分が発表された。(魯迅)訳は満足できるものではないが、第2から第6章で計5人の典型的地主が描かれ、諷刺も多く、実際に老婦人と守銭奴のプリーシキンを除けば、皆夫々愛すべき点があることが分かる。農奴の描写は何も取り上げるべき所も無く、彼らは誠心的に紳士のために働いているが、何の役にも立たぬだけでなく、有害であるとさえ書かれている。ゴーゴリ自身地主なのである。
 しかし当時の紳士たちはこれに対して大変不満で、例によって反撃し、作品中の典型の多くはゴーゴリ自身だと言い、彼は大ロシアの地主について何も分かっていないと攻撃。それはその通りで、作者はウクライナ人で、彼の家人への手紙は全く作中の地主のことばと似ている。たとえ彼が大ロシアの地主の状況を知らなかったとしても、創作中の人物は生き生きとしており、今、時代が変わり、国が違っても我々は確かにどこかでよく見かけた人物のように感じる。諷刺の手腕についてはここでは触れぬが、単にあの独特な点、特に日常の事を普通の言葉で、当時の地主の無聊な生活をするどく描いた。例えば、第4章のロシトリエフは地主のドラ息子で、祭り好きで、博打好きのほら吹きで、見栄っ張りだが、――殴られても平気だ。酒場でチチコフに会い、自分の可愛い子犬を自慢し、チチコフに犬の耳をさわらせ、さらに鼻もさわらせ――
 『チチコフはロシトリエフに好意を示そうと、その犬の耳をさわり「こりゃとってもいい犬になるよ!」と言った』
 『次にそのひんやりした鼻の頭をさわってみな、と言われ、チチコフは彼の機嫌を損なわぬように、鼻をさわって:「そんじょそこらの鼻とは大違いだ!」 と言った』
 こういうことが自慢の主人と世故にたけた客の応酬は我々も今でも随時耳にする。だがある人達はこれを交際術とみる。「そんじょそこらの鼻とは大違いだ!」とはどんな鼻なのか。しかし聞く人はそれだけで十分。後にロシトリエフの荘園に来て、彼が所有する田野と資産を見せた。――
 『次にクリミヤの雌犬を見に行ったが、犬はもう眼が見えなくなっており、ロシトリエフはもうじきお陀仏だと言った。2年前まではとても素晴らしい犬だった、と。皆もいっしょに見たが、雌犬は確かに眼が見えなくなっていた』
 この時、ロシトリエフは本心から眼の見えなくなった犬を褒めていたが、確かに見えないようだった。だがこの事が皆に何の関係があるというのか、そして世間の人は確かにこんなことを話題にし、自慢したり、それを証明しようとする。そして忙しく、真面目に生きていることを証明しようとするのもいる。
 こうした極めて平凡で、或いは全く何事もないような悲劇を、まさしく声なき言葉のように、詩人によってその情景を描き出されなければ、容易には感じ取れない。しかし人は英雄的で、特に悲劇的なことで亡ぶことは少なく、ごく平常に或いはまったく何事もない様な悲劇で亡ぶことが多い。
 ゴーリキーの「涙を湛えた微笑」は今、本国では必要なくなり、それに代わって健康な笑いが生まれた。だが他の場所では依然必要で、そこに多くの人々の影が蔵されている。況や健康な笑いは、笑われる方にとっては悲哀であり、従ってゴーリキーの「涙を湛えた微笑」が作者と立場のことなる読者に伝われば、健康になる:これが「死せる魂」の偉大な所であり、正に作者の悲哀である。   7月14日

訳者雑感:本品はどうも分からない。私自身「死せる魂」を読んだことが無いからだろう。魯迅はこの作品を訳しており、その訳語感がこれだが、地主の生活を描いてどうしようと考えたのだろう。こうした人間はもはやこの地上に居る必要は無いということだろうか。
ゴーゴリがウクライナ人であり、大ロシアの大地主のことはウクライナ人には分からぬと批判された云々という点は、どういうことだろう。それにしてもクリミヤ産の犬が登場するが、今年のロシアのクリミヤ併合はロシアにとって吉と出るか凶と出るか?その影響はEUや新疆ウイグル問題などを抱える中国にどのような影響を及ぼすだろう。
集団的自衛権を閣内で通過させたのは、安倍氏の祖父以来の念願で、これでやっと米国と『対等』になれる方向に一歩踏み出したと思っているようだ。靖国神社に祭られているのは、戊辰戦争以来、明治政府のために犠牲になった「軍人」だが、先の大戦で犠牲になった軍人の殆どは「米国」によってであり、中韓両国によって死んだのは少ない。
 きな臭くなってきたことは間違いない。
     2014/07/03記

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「天のお陰」

「天のお陰」
「天のお陰説」は我々中国の国宝である。清朝中葉にはすでに「天のお陰の絵図」の碑が建てられ、民国初年、状元陸潤庠(ショウ)氏も一枚の絵を描いた:大きな「天」の字の最後の一筆の尖端に老人が腰かけ、碗を手に飯を食らう。この図は石印され、信天派や嗜奇派の人達がまだ収蔵している。
 みんながこの学説を信じており、図と違うのは碗を手にしていない点だけだ。この学説はどうも半分程は生き残っているようである。
 一月前、「旱魃の象がある」と大騒ぎしたことがあったが、今は梅雨で雨が十数日続いたが、毎年必ず起こり、台風や暴雨だと到るところで水害が出る。植樹祭に数株植えても、天の意を挽回するには足りない。「五日に一風、十日に一雨」の唐虞(堯舜の意)の世は今や遠い昔。天に頼っても飯を食い損ねる。これは多分信天派の料り及ばぬ所だ。やはり「幼学瓊林」(明末の天文書)の聡明を学ばせ、曰く:「軽清なるものは浮上して天となる」。
「軽清」で又「浮上」するにはどんな法に「頼れば」良いのか。
 昔、真の言葉だったものは、今少しホラに変わった。多分西洋人が言いだしたことだろうが、世の中に貧乏人にも日光と空気と水は取り分がある、と。しかし今の上海にはこれは適用されず、朝から夜まで心身ともにくたくたになるまで働かされて、日光も浴びられず、良い空気も吸えず:水道も引けぬから、清潔な水も飲めぬ。新聞には往々:「最近天候不順で疫病流行」と出ているが、これはただ「天候不順」だけのせいとは言えまい。「天なにをかいわんや」只黙して冤罪を受けるのみ。
 だが「天」の下で「人」になれぬとなると、砂漠の民は水飲み場の争奪の為に命がけで闘い、彼らはけっして「嗚呼…などの詩」で事を終わらせたりしない。スタイン博士は甘粛省敦煌の沙地から大量の骨董を掘り出したというではないか?あの地方は元来繁栄していた所だったが、天のおかげか、天風により沙によって埋没させられた。将来の骨董製造のため、天によるのも良い方法だが、生きている人にとって価値は無い。
 ここまでくると、自然を征服しようと言いたいが、今そんなことは言えないから、「ここに留まって住む」しかないか。  7月1日

訳者雑感:PM2.5で肺炎にかかり、大量の豚の死骸が浮かぶ河の水は飲めず、日光の射さない地下豪に鼠のように住むしかない。これが北京の大卒生の現実である。上海や北京で貧乏人でもきれいな水を飲めた時代は遠い昔となった。金持ちは海南島までしばしば出かけて、上手い空気で肺を洗っているそうだ。これを洗肺というそうだが、拝金主義の頭を洗脳することが肝要であると思う。60年前に理想だった共産主義という思想で洗われた脳はわずか30年の繁栄がもたらした腐敗という富を占有しようとする煩悩に汚されてしまったから。
 天のお陰を感謝せぬたたりか? 30年の腐敗の天罰か。敦煌のように沙地に埋没する他ないか。         2014/06/19記

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名人と名言

  「太白」第2巻7期に南山氏が「文語文を守る第三の方策」として挙げている:第一は「口語文を書こうとするなら文語文から始めなければ通じない」第二は「口語文を上手に書こうとするなら、まず文語によく通じねばならない」と。十年後に(章)太炎氏の第三がやっと登場し「諸君は、文語文は難しいと思っているが、口語文の方がよほど難しい。理由は現在の口頭語は多くは古語で、小学(旧時、文字の訓詁、音韻研究の学問)に精通していなければ、現在の口頭語の某音が古代の某音だとわからず、古代の某字を知らなければ、書き間違える。…」
 太炎氏の言うのはその通りである。現在の口頭語は、一朝一夕に天から降って来たのではなく、中には当然多くの古語があり、古語がある以上、当然、古書にその多くを見ることができるから、口語文を書こうとする人は、文字ごとに「説文解字」で調べねばならず、それは確かに任意に字を借りた文章を書くのに比べ、どれほど難しいか分からない。だが、口語提唱以来、主張者は誰も口語を書く主旨が「小学」から本字を探し出そうと考えてもいないし、我々は広く一般に知られた借字を使っている。誠に太炎氏の言うように:『知人に会って挨拶する時「こんにちは」の「呀」(語尾音)すなわち「乎」の字は:人に答えて:「はい」という意味で使う「呀」すなわち「乎」の字である』だが、我々はたとえこの両方を知っていても「こんにち乎」とか「はい也」とは言わず、「こんにち呀」「はい呀」という。口語文は現代人が読む為に書くのであり、商周秦漢の死者の為ではなく、地下の古人を起こしてみても分からないし、我々も豪もひるんだりしない。だから太炎氏の第三の方策は実は文が題に対応していない。これは氏が得意とする小学の範囲を広げすぎた為だ。
 我々の知識は有限だから、みんな名人の意見を聞こうとするが、問題がある:博識者の意見を聞くのが良いか、専門家のが良いか?答えはいとも簡単で:全て良い。無論両方とも良いが:両者の色んな意見を聞いてから、相応の注意を採るべきだ。なぜなら:博識者の話は大抵浅く、専門家のはとても精力的だからだ。
 博識者の話は浅くて、分かりやすいが、専門家のはとても精力的な上に、説明が加わる。彼らが精力的なのは自分の專門を講じることを専らとするより、専門家という名によって専門外の事を論じることに精力的だということだ。社会は名人を崇敬するから、名人の話は名言と思い、彼が名を得たその学問や事業が何であったかを忘れる。名人はその誘惑によって、自分が名を得たのがどの学問や事業だったかを忘れ、徐々に全ての人より勝っているから、談ぜぬ所なし、ということで道理から外れてしまう。その実、専門家は彼の得意分野を除けば、多くの見識は往々、博識者や常識家に及ばない。太炎氏は革命の先覚者で、「小学」の大師で、文献を談じ「説文」を講じると、当然聞くべき所は多いが、現在の口語文を攻撃すると、牛の頭が馬の口に対応せぬことになる例だ。また江亢虎博士は以前、社会主義を講じて名を売った名人だが、彼の社会主義はどんなものだったか、私は知らぬ。ただ、今年、彼はその所以を忘れ、「小学」を講じ、「徳」の古字を「悳」として、「直」と「心」から、「直」は「直覚の意」と言いだしたが、実際、精力的さは一体どこまで行くのか知らないが、その上の半分の曲直の直の字ということすら明白ではなく、この種解釈はやはり太炎先生にお伺いすべきだろう。
 だが社会ではどうやら名人の話は名言と思い、名人なら通じない所は無く、知らぬ事は無いと考える。それで欧州史を訳すと、英語の上手い名人に校閲を依頼し、経済学の本なら、古文の上手い名人に「題簽」(本の表紙に張る短冊状の紙に書名を書いたもの)を頼む(経済学など無縁な書の名人に依頼するという諷刺:訳者):学界の名人が医者を紹介して「医術界の名医」だと言い、商業界の名人が画家を称賛して「六法(画の方法)に精通」という。…
 これも現在多く見られる欠陥だ。独の細胞病理学者Virchowは医学界の泰頭で、国民すべて知る名人で、医学史上での地位は極めて重要だが、彼は進化論を信じず、教徒に利用されて何回も講演しHaeckelの言によれば、大衆に大変悪い影響を与えた由。彼の学問はとても深く有名だったので、自分でもそう思い、自分が理解できぬ物は誰も理解できぬと考え、進化論を真剣に研究せず、たった一言だけを述べ、全ての功を上帝に帰した。現在中国でよく紹介されている仏の昆虫学の大家ファーブルもこの傾向が強かった。彼の著作もやはり2つの欠陥があり:一つは解剖学を嘲笑い、二つは人類の道徳観念を昆虫界に用いたことだ。解剖が無ければ彼の様な精しい観察はできず、観察の基礎はやはり解剖学だからだ:昆虫学者は人類に対する利害を基準に、益虫と害虫に分けたのは確かに理に適ったことで、当時は人類の道徳と法律によって昆虫を善虫と悪虫に定めたのは余計な事だ。厳正な科学者がファーブルに対し婉曲に批判するのも実に故なしとしない。但し、この2点に注意すれば、彼の大作「昆虫記」十巻は大変興趣に富み、有益な本である。
 しかし名人の流す毒は、中国ではとてもすさまじいものがあり、これはやはり科挙の余波である。当時は儒生は私塾では、天下国家と如何に関わるかに、物事を推し量り、頭を振りしぼって文章をつくるが、一旦合格すると真に「一挙に名を成し、天下知る」で修史もできるし、文章の値打ちを衡り、民に臨み、河を治める:清末には学校も開き、炭鉱を始め、新軍を練兵し戦艦を造り、新政を条理に従って陳べ、海外視察したが、その成果はどうだったか、私がとやかく言うことではない。
 この病根は今も除去されておらず、一旦名を成せば「満天に舞い上がる」の感あり。私は思うのだが、これからは、「名人の言葉」と「名言」を明確に分けるべきで、名人の言葉がすべて名言とは限らず:実は名言は田夫や野老の口から出た物が多い。言うなれば、名人の名たる所以はその専門についてであって、専門外の気ままな放談は警戒した方が良い。蘇州の学生は聡明で彼らが太炎氏には国学を講じて貰ったのであって、簿記や兵練を講じて貰ったりしなかった。――残念ながら人々はもう少し注意深く考えなかった。
 私は今回、何回か太炎氏に触れたが、自分としては大変すまないと思う。だが、「智者の千慮も必ず一失あり」で、これもきっと先生の「日月の明」を傷つけることは無いであろう。私の説については、「愚者の千慮、必ず一得あり」で蓋し亦「諸を日月にかけても磨滅せぬ」論であると思う。     7月1日
訳者雑感:ファーブルの人類の道徳観で昆虫を善悪に分けることの非、魯迅の東京時代の恩師であった太炎氏の口語文への頑なな姿勢に対する反駁など、名人が専門外の事を放談して大きな害悪を流すのに大反対の主張を展開している。
 それにしても、恩師だったにせよ、太炎氏に対する批判は手厳しいものである。これは林語堂とか他の「名人」と世が看做している者たちへの徹底した反撃である。これが中国の科挙の弊害の余波であって、名だけがまかり通る「いんちきな制度」である。これを否定し改めなければ、将来は無いというのだ。
      2014/06/17記


 

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「題未定原稿」3

「題未定原稿」3
三。
 前述の通り「ボーイ相」は彼の職業と関係ありというべきだが、全てそうとも限らぬし、一部はボーイが出て来る前からの伝統である。だからこの種の相は時には、清廉な士大夫も免れぬ。「事大」は歴史的に存在したし、「自大」も事実上、つねに存在した:「事大」と「自大」は相容れぬが、「事大」であることで「自大」になるのも実際よく見かける――彼は「事大」するに値しない相手を見下すのに十分な理由を持っている。ある人(林語堂を指す:出版社注)が五体投地するほど敬服する「野叟(翁)曝言」(清代小説)の(主人公)の「一人の人(皇帝)の下にいて、衆人の上に在す」文素臣がまさにこの標本だ。彼は華を崇し、夷を抑えたが、実は「満州人のボーイ」で:古(いにしえ)の「満州人のボーイ」はまさに今日の「西洋人のボーイ」である。
 従って、我々読書人は自分は西洋人のボーイよりはるかに勝っていると思っているが、まだすっかりと垢を洗いきっていないから、少し余計なおしゃべりをすると、常々尻尾を出してしまう。再び名文を以下に引用する――
 『…それは文学にあり、今日はポーランドの詩人を紹介、明日はチェコの文豪を紹介し、そして著名な英米仏独の文人については、陳腐だとして嫌い、深く観察して究極を求めぬ。これは女性が流行の服を欲しがるのと同じで、どうも何かに媚びているのだ。自ら女であることを嘆じ、顔色を以て人につかえねばならぬ辛さは言葉にできない、と。この種の流れの弊は浮にあり、これを救う道は学にある』(「今文八弊」より)
 ただ、この種「新装」の始まったのは、思い起こせば大変古く、「ポーランド詩人紹介」は30年も前で、私の「摩羅詩力説」に始まる。その頃は、満族の清が中華を主宰し、漢族は支配されていて、中国の境遇はポーランドにとても似ていて、その詩歌を読むと心に深く刻まれやすく、単に事大の意図など無かったのみならず、媚を献じる心も無かった。後に上海の「小説月報」はかつて、弱小民族作品の特集号を出したが、この種気風は今では衰退し、たまたま有っても余波にすぎない。但し、民国で育った幸福な青年は知らぬし、権勢におもねる奴才:拝金分子は勿論知らない。だがたとえ今ポーランド詩人やチェコの文豪を紹介したとして、それがどうして「媚」になるのか?彼らに「すでに著名な」文人などおらぬではないか?況や「すでに著名」なら誰がその「名」を聞き、またどこから「聞いた」のか?まことに「英米仏独」は中国に宣教師がおり、中国に今も又はかつて租界を有し、何か所かに駐軍し、軍艦もおり、商人も多くいて、彼ら用のボーイを使う者も多く、一般人はただ「大英(帝国)」「花旗(アメリカ)」「フランコ」「ゲルマン」を知るだけで、世界にポーランドやチェコがあることさえ知らない。しかし世界文学史では、文学の目で見るわけで、勢力利害の目で見るわけではないから、文学は金と鉄砲で掩護の必要もなく、ポーランドやチェコは(義和団の時の)八国聯軍に参加して北京を攻撃することもなかったし、その文学は一部の人しか知らず「すでに著名」でないだけだ。外国の文人が中国で有名になろうとするなら、作品に頼っているだけでは不十分なようで、それは逆に軽薄さを得るだけとなるようだ。
 従って、同じく中国に攻めてきた事の無い、ギリシャの史詩、インドの寓話、アラブの「千夜一夜物語」スペインの「ドンキホーテ」のように、たとえ他国ではすでに有名で、「英米仏独の文人」より下位でない作品も、中国では忘れられており、彼らは或いは国家がすでに滅びていて、無能とされ、もはや「媚」の字を使う必要もないわけだ。
 この状況に対し、まず先に前に引用した林語堂氏の訓詞を下記する――
 『この種気風、その弊は奴にあり、これを救う道は、思にある』
 しかし後の2句はうまく使えない。「奴であるなら、「思」しても亦何の益ありや。いろいろ思いめぐらせたが、「奴」になっては、少しばかり巧妙を得るのみ。中国にはむしろ「思」をめぐらして事の無い西洋人向けのボーイの方が、将来の文学にとって却って望みがある。
 だが「すでに著名な英米仏独の文人」は中国では確かに不遇である。中国で学校をつくり、この4カ国語を学んですでに久しいが、最初は使館の通訳養成をもくろんだだけだったが、後に展開して盛大となった。独語学習は清末の軍事操練改革で盛んとなり、仏語は民国時の「勤工倹学」(働きながら学ぶ制度:周恩来、トウ小平などが渡仏した)で盛んになり、英語は最も早く、一にビジネス、二に海軍で、英語学習者は最多で、英語学習用の教科書と参考書も最多で、英語で身を立てた学士文人も多い。だが、海軍は軍艦で人を運ぶに過ぎず、「すでに著名な」スコット、ディケンズ、デフォー、スウイフト、…等を紹介したが、漢文しか知らぬ林紓(翻訳家)は一番有名なシェークスピアの数編の戯曲すら、英語専攻ではなかった田漢が翻訳するまで待たされた。この理由は、正に「思」しなければならないことだ。
 しかし今また「今日はポーランド詩人、明日はチェコの文豪を紹介」する危機が来て、弱国の文人は中国で著名な英米仏独の文学の風格はついに彼らの財力武力で「現在の文林」に深く入ることはできず、「尻尾を追いかける犬」が恒心も無いくせに、志は高山にあり、身を起こそうとせず、山林に電灯を見て、語録に外国語を挟み「すでに著名な英米仏独の文人について」「究極を求めるために」どんな人をいつまで待てばよいのか知らない。それらの文人の作品はむろん素晴らしいが、甲が私などは洋を望んで、嘆じるのみです、と言えば、乙は諸君、どうして一生懸命に探求しないのか、という状況だ。古い笑い話にある:
昔、孝行息子がおり、父の病気を治すには、股の肉が良いと聞いたが、痛いのを恐れ、刀を手にして門を出、途中で他人の腕をつかみ、凶暴にこれを割こうとし、相手は驚いて拒んだが、孝子曰く、股を割き父を治すは即ち大孝、汝、驚き拒むは、豈、人ならんか!と。
これはうまいたとえ話で:林氏云う:「言い方はよくないが、効力は実に同じ」うまい弁解ではある。       6月10日

訳者雑感:洋務運動で、日本は「和魂洋才」というスローガンで、和魂は保持したいと思いながら、実際は魂の部分も幾分かは血肉にしたと思うが、中国では魯迅が記すように、英米仏独からの洋才の採用は、ドイツの軍事操練(の方法)、フランスの勤労しながら勉強、イギリスに至っては海軍中心で人を運ぶ為の軍艦のことは学んだし、海事関係の文学は翻訳したが、シェークスピアすらずっと後になって英語専攻でもない田漢が訳すまで待たねばならなかった、というのは、「魂」に関しては、一切これを拒否してきたことを示している。法の精神とか三権分立とかをフランスから「考え方として」受け入れようともしなかったようだ。フランスで共産主義を学び、それで政権を取ることが最優先され、その結果一党独裁という政治形態が、「国度として民主や三権分立を受け入れる程度に至っていない」
ということを示しているようだ。
    2014/06/11記
 

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「題未定」原稿2

「題未定」原稿
二。
 やはり「死せる魂」翻訳の件。書斎にいるとこれしかない。筆を動かす前にまず一つ決めねばならぬ:できる限り帰化させるか、洋風を保つか?日本語訳者の上田進君は前者だ。風刺作品の翻訳は分かりやすさが第一と考え、分かり易ければ効力はより大きくなと考える。だから彼の訳文は時に一句が数句になり、解釈に近い。私は反対だ。只分かりやすさを求めるなら、創作に及ばない。或いは改作し、ものごとを中国の事にし、人間も中国人にする。訳すならやはりまず第一目的は外国の作品を博覧することで、情を移すのみならず、智を益し、少なくともどこで何時こう言う事が起こったかを知ることで、外国旅行をするのとよく似ている。異国情緒がなければならず、所謂外国のという感じだ。
その実、世界には完全に帰化した訳はありえぬ。もしあっても、顔は似ていても心は離れ、厳密にいえば翻訳とは言えぬ。凡そ、翻訳とは両面を兼ね顧み、一つは分かりやすくし、もう一つは原作の雰囲気を保つことだが、この保つということはしばしば、分かりやすさと相矛盾する:見慣れぬ物だからである。だが元来、西洋人だから、当然見慣れておらず、目になじませるべく、彼らの衣装を換える事は可能だが、鼻を低くし、目をえぐったりすべきではない。私は鼻を削り、目をえぐれと主張はしないから、ある部分はむしろ口調が良くなくても構わぬ方だ。ただ、字句文章の構成は科学理論のように精密でなくてもよく、自由自在で良いが、副詞の「~地」の字を使ってもいいし、この字は今では多くの読者が見慣れてきたと思う。
 「幸か不幸か」私はこの為に、新しい職業「西洋人のボーイになる」ことを発見した。やはり休憩して雑誌をめくっていると、今回は「人間世」28期に林語堂氏の文を目にした。
摘録ではその精神を損なうから、一段すべて引用すると――
 『… 今どきの人はちょっと西洋の真似をして、モダンと自称し、甚だしきは中国の文法を放り出し、英語に倣おうとし、「歴史地」を形容詞「歴史地的」を副詞とし、英語のHistoric-al-lyを模倣し、西洋の弁髪(旧習)を垂らしたが、そうであれば「快来」(早く)は「快」の字が副詞ではないからどうして「快地的来」とならないのか?この類の手法は只、租界の混血児(アイノコ)の怪相で、文字を談じるには物足りぬが、西洋人のボーイとなる才はある。この種の気風の弊は奴にあり、これを救う道は思いにある』(「今文八弊」)
 しかし「地」の字の類の採用は高等華人の得意な英語から来たものではない。英語英語というのは笑止千万だ。況や、上記の文章の反語的な語気からみると、「西洋の真似をしたがる」「今どきの人」のようで、実際も「快来」を「快地的来」とはせず、これは単に作者の虚構だから、その名文を助けるためで、殆ど所謂「自己保身が主で、そうすれば自在に通じ、痛快無比になる」という例である。それは本物ではなく、「モダンを自称する」「今どきの人」が言う事なら、「其の弊は浮にあり」だ。
 私が今も故郷に住んでいてこの一段の文を見たら、よく分かり信用するだろう。我々の所にも西洋の教会は数か所あり、何人かのボーイはいるが、会う事はめったに無い。ボーイの研究をしようとすれば、自分を標本にするしかないが、顔付きは「だいぶ」違うが、何とか使えるかもしれない。その後、「幸か不幸か」上海に出てきて、西洋人が沢山いるから、ボーイもたくさんいて、目にする機会も多く:目にするだけでなく、何人かと話す光栄も得た。確かに外国語が話せ、話すのは大抵「英語」で、「英語」だが、これは彼らの生計の為に専ら西洋の主人の為に奉公しているせいで、彼らは西洋の弁髪を中国に持ちこんだりしないし、無論中国語文法を乱そうとの考えも無いが、時に幾つか音訳で「ナンバーワン」「トースト」等というが、これまですでに使い古された言葉で、新たに違う言葉を話して、自分のモダンさを示そうとすることは無い。彼らはどちらかと言えば国粋的で、余暇さえあれば、胡弓をひき、「探母」(京劇の唱)を唄う:制服で働くが、仕事が終われば、中国服に着替え、時々休暇で遊びに行く時は、金のある者は緞子の靴に絹の上衣だ。だが麦わら帽をかぶり、眼鏡もべっ甲の旧式はかけないのは、中華と西洋のセクト主義からすると欠陥である。
 私に他の職業を見つけさせようとするなら、英語が話せるなら、西洋人のボーイになるのはやぶさかではない。というのも、仕事でお金をもらえるなら、西洋人のボーイになるのと、華人の下僕になるのは、人格上何ら高低差は無いし、まさに外資の工場と華資の工場で得る賃金、或いは学費を払って、外国の大学或いは中国の大学で資格を取るのは、いずれも卑賤と高潔の区別は無いのと同じだ。ボーイを厭うべきは、その職業にあるのではなく、「ボーイ相(づら)」にある。ここでいう「相」は容貌ではなく「中、誠ならば、形、外にでる」で、「形式」と「内容」を包括しての言である。この「相」は西洋人の威勢が、華人たちより高いと感じ、自分も西洋語ができ、西洋人に近いから、華人たちより高いと感じる:但、自分もまた黄帝の子孫で、古い文明を有し、華の事情に深く通じ、毛唐より勝っていると考えているから、華人たちより威勢のいい西洋人より勝っていると思い、又更には西洋人の下にいる華人より上だと思っている。租界の中国人巡査もつねづね、この種の「相」を持っている。華洋の間を股にかけ、主と奴との間を往来するというのが今の租界の「ボーイ相」である。但し、二股膏薬ではなく、流動的でわりあい「融通無碍」で、彼は自らそれを楽しんでいる。君が彼の興をそがぬ限り。

訳者雑感:魯迅は「死せる魂」を訳すにあたって、以前ざあっと読んだというのは、何語の訳だろう。ドイツ語か日本語か?ロシア語を翻訳する力は無かっただろう。それにしても、英語が喋れるからということで租界の西洋人のボーイをしていながら、自らは黄帝の子孫で中華の古い文明に深く通じ、この点では威勢のいい西洋人より上にあり、またその西洋人の下で奴として使われていながら、一般の華人より上だと思っている。まさに阿Qの精神勝利法である。そんなボーイと五十歩百歩の英語が喋れるというだけの人間が英語の翻訳をして、チェコやポーランドの文学を見下している。「死せる魂」を読んでみなければ、と思う。     2014/06/08記

 

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「題未定」原稿

「題未定」原稿
 ごく常識的な考えも、往々、実験によってくつがえされる。これまで、翻訳は創作よりやさしいと思われてきたのは、少なくとも構想を練る必要が無いからということであった。だが本当に訳すとなると、難関にぶつかる。例えば、一つの名詞、一つの動詞が思い浮かばぬが、創作ならそれを回避できるが、翻訳ではそうはゆかぬから考えなければならず、頭はくらくら、目もしょぼしょぼとなり、急いで脳内の箱を開ける鍵を探しても見つからない。厳復(清末の翻訳家)が「名詞一つに旬月も考えあぐねた」というのも、彼の経験からでた言葉で、確かにその通りだと思う。
 最近もこの考えが外れ、自ら苦しむこととなった。「世界文庫」の編者からゴーゴリ作「死せる魂」の翻訳を依頼され、よく考えもせずに承諾した。この作品は以前ざあっと読んだことがあり、書き方も率直で分かりやすく、現代作品のように希奇古怪な点もなく、その当時の人はローソクの灯の下で踊り、何もモダ―ンな名詞もないし、中国に無い物も無く、訳者が部屋にこもって、懸命に造語せねばならぬような物は無いと思っていた。最も懸念したのは新しい名詞で、例えば電灯とか、これはもう新しくもないが、電灯の部品を私は6個の名前を使ったが、ランプのコード、電球、カバー、高さ調節用の砂袋、プラグ、スイッチの6個だが、これは上海語で、後の3個は他所では通じない。「一日の仕事」の中の短編の一つは、鉄工所の話で、後に北方の鉄工所の読者から、機械の名前は何も分からないという手紙をもらった。嗚呼――これは嗚呼しかない――実はそれらの名前の大半は19世紀末、私が江南で、鉱業を勉強していた時、先生に教わったものなのだ。今は昔とどう違うか、南北の地域差で、異なっているのか知らぬ。青年文学家が修養の根拠としている「荘子」や「文選」にもそのような名前は見つけられぬ。致し方ない。「36計、逃げるに如かず」最も弊害の無いのは、手をつけぬに如かず。
 恨むべきは、私はまだとても自大で、ついに「死せる魂」を容易だと思い、たいしたことはないと考えて引き受けてしまい、本当に訳しにかかった。そこで「苦」の字がまず来た。細かく読みだすと、確かに書き方は坦々とそのまま表現しているのだが、至るところに棘があり、ある物は、あから様に、ある物は隠されているのが分かる:重訳といえども、やはりできる限りその筆の勢いを保たねばならぬ。電灯や自動車は出てこないが、19世紀前半のメニュー、賭具、服装なども見たことの無い物ばかり、これではどうしても字典を手ばなせず、冷や汗タラタラ、勿論自分の語学水準の低さを怪しむしかない。但し、この偶然、自身の自大の為に、飲まざるを得なくなった罰杯は干さねばならぬ:やむなく訳していった。だが煩わしくて疲れた時は、新しい雑誌を取り出してきて頁をめくり休憩した。
これが私の昔からのクセで、休憩中も災を幸いとし、禍を楽しむ意を含み、その意味は:今度はみんながどのような問題で困っているかを眺める番が私に来たぞ、ということだ。
 華蓋の運がまだ終わらぬようで、依然として気分が晴れない。手にしたのは「文学」4巻6号で、めくると巻頭に赤い大きな広告があり、次号に亘氏の散文が載るようで、題「未定」とある。思い出せば、編集者は確かに手紙に何か書けと言ってよこしたが、私が最も恐れるのは、正しく文を書くことで、返事は出さずにおいた。文は書こうとすると、辛さを舐めることになり、返事を出さなかったのは、書かぬという答えだった。が、一方で又広告が出て、人さらいにあったも同然で困った。しかし同時にこれは多分自分も間違っていると思い到って、以前公表したように、私の文は湧きだしてくるのではなく、絞りだすのだ。彼は多分この弱点をしっかりつかみ、絞りだす方法を使って:私が編集者にあった時も、偶々彼らが絞り出そうとしているのを感じて、ぞーっとした。以前もし:「私の文は絞り出そうにも、出てこないのです」と言っておれば、きっと安全だっただろうが、私はドストエフスキーが自分の事を少ししか語らず、数名の文豪は専ら他人のことを講じるのを敬服していた。
 だが、積習はまだ尽くは除去しきれておらず、原稿料も畢竟は米に換えられるという事で、少しばかり書いても「海底に冤を沈める」ことにはならぬだろう。筆は不思議なもので、編集者先生と同様、「絞り出す」本領を有すらしい。袖手して坐していると居眠りしたくもなるが、筆を手に原稿用紙を面前にすると往々、何やら不思議なもので書き始める。勿論好い物をと思うが、かならずしもそうはゆかない。

訳者雑感:編集者から何か書けと言われて、雑誌に次号の広告に出されると、「人さらい」にあったも同然、というのは、日本の作家もホテルに缶詰めにされて云々というのと似ている。然し文士気質とは不思議なもので、手を袖にし、坐っていると居眠りしたくなるし、実際眠ってしまうが、筆を手に、原稿用紙を前に置くと、何か書きだすものらしい。
 画家や漫画化家も似たようなもので、登山家が山を前に登りたくなる気持ちに通じるか。
    2014/06/04 天安門25周年の日に、記す。
 あの日以来、一党独裁の政権は、開発独裁で自転車さえ切符がないと買えなかった時代から、北京市内の道路と言う道路は半分以上が車の駐車場になってしまって、身動き取れない状態になり、PM2.5で人々の体をむしばみ、腐敗汚職でとてつもない金額を私し、
国外にその金を持ちだして、本来豊かであった広大な国土を滅茶苦茶にしつつある。
 国のために身を捧げようと心から願う青年はどこを探しても見つからない。
 みな、役人になりそのポストで得られるうまい汁を最大限懐にして、この国から逃げ出そうと計画している輩ばかりだ。 
    2014/06/04追記
 


 

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「中国小説史略」日本語訳序文

「中国小説史略」日本語訳序文
 拙著「中国小説史略」の日語訳「支那小説史」が出版の運びの由、非常にうれしいことだが、またそれで自身の衰退を感じたしだいだ。
 思えば4-5年前、増田渉君が殆ど毎日、寓斎にこの本の打ち合わせに来て、時に当時の文壇の情勢を気ままに談じ、とても愉快だった。あの頃、私にはそんな余裕もあり、且つまた更に研究しようとの野心もあった。だが、光陰矢のごとし、今や妻と子も累となり、書籍収集のたぐいも身外の長物となった。「小説史略」改訂の機縁も多分もうないだろう。
それであたかも丁度筆を置こうとする老人が自分の全集の印刷されるのを見るように、私もそれがうれしいのだろう。
 然るに、積習は忘れがたきようだ。小説史に関する事はまだ時々注意してきて、比較的大きな問題として言えば、今年故人となった馬廉教授が去年、「清平山堂」残本を翻印し、宋人の話本の材料を更に豊かにした:鄭振鐸教授は「四遊記」の中の「西遊記」は呉承恩の「西遊記」の摘録で、祖本ではないことを証明した。これは拙著第16篇のその部分を訂正でき、その精確な論文は「痀僂集」(背の曲がった人:老人)に収録された。
 もう一つ「金瓶梅詞話」が北平で発見され、これまで通用してきた同書の祖本は、文は現行のより粗率だが、対話はすべて山東方言で書かれ、これは江蘇人王世貞の書いたものではない事を証明した。
 だが私が改訂していないのは、それが完備されてないのを不問に付したまま、日本語訳出版に対し、自ら喜ぶしかない。但し、いつかこの懶惰の誤りを補う時が来るのを願う。
 この書は言うまでもないが、寂莫の運命を有するものである。(魯迅が北京で寂莫の中で生活していた時に書いたものの意か)しかし増田君は困難を排して翻訳し、サイレン社主、三上於莵吉氏は利害を顧みず出版してくれた。これは、この寂莫の書を書斎に持ちこんでくれる読者諸君とともに、心から感謝します。
     1936年6月9日灯下、魯迅


訳者雑感:手元に、昭和16年(1941)岩波書店発行の右から「支那小説史」上下583頁
各60銭がある。大阪の阪神地下街の萬字屋書店のラベルがある。学生時代にこれを買うお金は無かったろうから、勤め出してから一杯飲んだあとに立ちよって買ったのだろう。ピンク色の帯びに星三つで60銭だから、当時は星一つが20銭だったと分かる。
 訳者の言葉に、「今年故人になった馬廉教授は(…略)以下が上記と同じ趣旨で記されている」1923年に魯迅が「序言」で「これまで支那の小説史は無かった」と記している。
「あったとしても、まず外国人の作ったものを…支那人が取り入れたのであり…」として、
中国人自らがこれを作らねばならぬという使命感がこれを世に出したものだ。学校の講義に使用したものだが、講義が拙くて聴講者が或いはよく了解し難いかもしれない事を慮り、その大要を書き、謄写にして聴講者に分けた。と続いている。昔の先生は手ずから鉄筆でガリ版刷りして、学生に配ったのだ。先生もそれでしっかり脳内に叩きこみ、学生もその先生の労に報いるべく、勉強に励んだ。今はパソコンで印刷、コピペして済ましてしまい、先生も学生も脳内にほんの少ししか残らないのを気にもしない。試験に通ればよいだけの作業をこなしているだけで、自分の血肉にしようとしてはいないようだ。
 なお、最後の行は、これを(利益が期待できるとは思えない出版を)出してくれることを承諾してくれたサイレン社の社主に心から感謝しているのだが、彼の「日本語の原文」
には『これを書斎にもたらされる読者諸君へとともに』とあり、社主と読者諸君への感謝の言葉と理解されるが、私は、どちらかといえば、この本の出版を引き受けてくれた社主に対して、それを読むことができる読者とともに感謝したい、という気持ちに訳した。
中国語原文は「社主三上於兎吉氏不顧利害、給它出版、這是和将這寂莫的書帯到書斎里去的読者諸君、我都真心感謝的」とある。「和」と「都」の理解が難しいが、出版社主に対して、読者と共に感謝するのか、社主と読者に対して感謝するのか? どう思いますか?
     2014/05/29記

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「助言から無駄話」

「助言から無駄話」
 「幇閑文学」(太鼓もち)はかつて害毒だと批難されて来た――が実は誤解である。
 「詩経」は後に経典になったが、春秋時代にはその中の数編は酒を勧めるのに使われ:屈原は「楚辞」を始めた老祖だが、彼の「離騒」は助言しようとして果たせなかったことの只の不平にすぎない。宋玉(屈原と同時代の詩人)は、現存する作品を見る限り、何の不満もなく、純粋の食客である。しかし「詩経」は経典で偉大な文学作品でもあり:屈原と宋玉は文学史上重要な作家である。なぜか?――畢竟、文才があったからだ。
 中国開国の雄才主君は、「助言者」と「幇閑者」を分けていて、前者は国家の大事に参与させる重臣とし、後者は彼の詩を献じさせ、賦を作らせ「俳優これを畜(やしない)」只、寵臣に列した。後者の待遇に不満な司馬相如は常に病いと称し、武帝の機嫌伺いに出ず、ひそかに封禅の文を書き、家に蔵し、以て彼も大典の計画があると――手助けの本領があることが分かるが、惜しいかな人々がそれを知る様になった時には、彼は「寿を全うしていた」しかし、実際には封禅大典には参与できなかったが、司馬相如は文学史上大変重要な作家である。なぜか?畢竟文才があったからだ。
 しかし、文雅な凡君の時には「助言者」と「幇閑」がごっちゃになり、所謂国家の柱石も常に、媚を売る詞の臣となってしまい、我々は南朝の数人の末代時に、この実例を見ることができる。だが主君は「凡」といえども「野暮」ではないから、それらの幇閑も文才は有しており、彼らの作品は今も滅していない。
「幇閑文学」は害毒という批難は誰が言ったのか?
権門の食客は碁も将棋も打ち、字もうまく、絵も描け、骨董も品評でき、猜拳(拳を当てる遊び)で酒宴を盛り上げるのもうまく、洒落もうまくてはじめて食客の資格を失わなかった。食客は食客の本領を有し、気骨がある者はクズだと看做したが、見せかけはとてもそれに及ぶことはできなかった。例えば、李漁の「一家言」袁枚の「随園詩話」などは、幇閑の誰でもできるというものではなかった。幇閑の志と才を有す者のみが、真正の幇閑であった。志はあっても才無く、デタラメに古書に句読点をつけ、何度も同じ笑い話をし、名士におべっかを使い、下らぬ噂話を吹聴し、厚顔でええかっこしいで、自から得意がる――無論中には趣もありと思う人もいようが――実態は単なる「無駄話」に過ぎぬ。
幇閑の盛んな時代は助言できたが、末代になると単なる無駄話となった。
             6月6日


訳者雑感:中国三千年の文学史に残る「詩経」や「唐詩」から「随園詩話」に至るまで、文才のある者が書いたものは、彼が幇閑であるか否かに拘わらず、古典として伝わった。
 開国の英君は助言者と幇閑を分けていたが、2代目3代目となり世の中が治まってくると、助言者より幇閑がはびこることになる。「狡兎死して良狗煮らる」という世の中となる。
 しかし単なる無駄話しかできぬ者はそれまでで、三千年の篩にかけられて残った作品は、助言者のものだろうと幇閑のものだろうと、文才があったものだけが残されて来た。
 1930年代の中国では、助言しようにもそれを受け止める「英君」もおらず、無駄話しかできぬ幇閑しかいない。幇閑の盛んな時代は助言できたが、末代になると単なる無駄話のみとなったというのは、彼の嘆きである。
嗚呼。
      2014/05/23記

 

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