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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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徐懋庸に答え併せ抗日統一戦線問題について

徐懋庸に答え併せ抗日統一戦線問題について
魯迅様:
 御病気は快癒されたでしょうか?心配しております。先生がご病気されてから、文芸界のもめごとが加わり、私は先生から親しくお話を伺う事ができなくなり、いつもそれを思うと悲しくなります。
 私は今、生活が苦しく、体調も悪く、上海を離れざるを得ず、田舎で少しお金になる編訳などして、また戻ってこようと考えております。この機会に暫く上海「文壇」の局外者となり、いろんな問題を仔細に考えたら、或いは良く分かる様になるかもしれません。
 最近、先生のこの半年の言動が、無意識に悪い傾向を助長しているように感じます。胡風のまやかしや、黄源のへつらいなどについて、先生は細かく観察されず、永遠に彼らの私物とされ、群衆を幻惑し、偶像のようにされ、彼らの野心から起きた分離運動は遂に達せられると、収拾がつかなくなってしまいます。胡風たちの行動は明らかに私心から出た物で、極端なセクト活動で、彼らの理論は前後矛盾し、間違いだらけです。「民族革命戦争の大衆文学」のスローガンのように、当初は元来、胡風の提示した「国防文学」と対立関係だったのですが、後に一つは総合的であり、もう一つは付属的だとし、その後もう一つは左翼文学の発展が現段階とのスローガンでぐらついており、先生も又彼らに替ってその説を整合させられないでしょう。彼らの言動に打撃を加えるのは元々極めて容易ですが、いたずらに先生を彼らの後ろ盾にしてしまうと、先生を尊敬せぬ人はいないから、実際に文で闘争して解決しようとすると大変困難だと感じます。
 先生の本意は十分理解しております。先生は只、統一戦線に参加する左翼の戦友が、元来の立場を放棄するのを心配しておられ、胡風たちが格好だけ左翼のようにふるまっているのを良いと思われているのです:だから彼らに賛同しているのです。しかし先生に申し上げたいのは、先生が現在の基本的政策に着いてご理解されていないからです。現在の統一戦線――中国のと全世界のは同じで――固よりプロレタリアが主体ですが、その主体になるのは、名義上のものではなく、特殊な地位と歴史的なものではなく、現実を正確に把握することと、闘争能力の大きさによるのです。従って客観的にプロレタリアが主体になるのは当然です。但し、主観的にプロレタリアはあからさまな徽章を掲げるべきではなく、只、特殊な資格を以て指導権を要求して、他の階層の戦友を逃げ出させてはいけません。だから今、聯合戦線で左翼のスローガンを出すのは間違いで、聯合戦線を危くさせます。先生が最近発表した「病中客に答える」は(民族革命戦争の大衆文学)はプロレタリア文学が今日に至る一つの発展だと説明されていますが、又これは統一戦線の総合的なスローガンにすべきだとされていますが、それは間違っています。
 再度「文芸家協会」に参加する「戦友」について、先生の心配されているように必ずしも個々に右傾堕落しているとは限りません:況や先生の左右に集っている「戦友」は巴金と黄源のような連中もいるわけですが、まさか「文芸家協会」に参加している人達が、個々には巴金や黄源に如かずとのお考えでしょうか?新聞雑誌でフランス・スペイン両国の「無政府主義者」の反動が、聯合戦線を破壊しているのは、トロツキー派と変わらないことを知っています。中国の「無政府主義者」の行為は更に卑劣だということを知っています。黄源は根本は無思想で、ただ、著名人の太鼓持ちです。以前彼は傅や鄭の門下で奔走していた頃のへつらいようときては、現在、先生に対する忠義と敬意と何ら変わりません。先生はこんな輩と一緒に多数の人と協力するのをいさぎよし、としないのは私には分かりません。
 かれらのしている事を見ずに、ただ人物だけを見るのは、この半年来の先生の間違いの原因だと思います。先生の人を見る目も正確ではありません。例えば私は個人的に多くの欠点がありますし、先生は私の文章がいい加減だとして大きな欠点だとされますが、これはおかしいと思います。(私がなぜ故意に「邱韻鐸」の三字を鄭振鐸と書きましょうか?まさか鄭振鐸は先生のお気に入りではないでしょうに)こんな小さなことで、一人の人間を千里の彼方に遠ざけるのは、本当に間違っていると思います。
 今日上海を離れるので、いろいろ忙しく長い手紙は書けませんが、もう書きすぎたでしょう。以上、先生を攻撃する意図など毛頭なく、実際、先生に細部に渡って各事情をお考えいただくことを希望しております。
摂訳「スターリン伝」はもうじき出版予定で、出ましたら一冊送りますのでご
覧いただき、原意と訳文について、御批評くださいますようお願いします。
 全快を祈っております。
       懋庸より   8月1日

 以上が徐懋庸からの手紙だが、彼の同意を得ずにここに公表す。文章は全て私への教訓と他人への攻撃で、公表しても彼の威厳を損なわぬし、又彼もきっとこれを公表するように書いたものだろうからだ。勿論、これから見てとれるのは:この発信者はいささか「悪劣」な青年だということ!
 が、私は要求があり:巴金、黄源、胡風の諸氏が徐懋庸を真似ないように望む。この手紙の中に彼らを攻撃する文章があるが、牙と眼で以て応じると、彼の詭計にはまってしまうからだ。今、国難の際に、昼には格好のいい話をして、夜に籬間行為をし、挑発分裂のペテンを弄するのはまさしくこうした輩ではないか?この手紙は計画的で、彼らは「文芸家協会」に加入せぬ人に新たな挑発をして、彼らの応戦を狙い、その時君たちに「聯合戦線の破壊者」の罪名を被せ、「漢奸」の罪名を着せる。しかし我々は違う。我々は決して筆峰を専ら彼ら数人の個人に向けるのではないし、「先に内を安んじ、後に外を攘う」というのは我々のやり方ではない。
 だが、ここで一言言いたい。まず抗日統一戦線への私の態度だ。私はこれまで色んな所で述べているが、徐懋庸等は読もうともしないようで、逆に咬みついてきて、私をどうしても「統一戦線破壊者」にしようとし、「現在の基本政策が分かっていない」と教戒する。徐懋庸たちがどんな「基本政策」を持っているのか、私は知らない。(彼らの基本政策とは私に何度も咬みつくことではないか?)然し中国は今、革命政党が『全国人民向けに提出した抗日統一戦線の政策は、私はそれを読んだが、それを擁護するものだ。私は無条件でこの戦線に参加する。理由は私が単に作家であるだけでなく、一個の中国人だからだ』
(訳者注:『 』内の字は○印つき。以下同じ)この政策はたいへん正しいから私はこの統一戦線に参加する。無論わたしが使うのはペンで、文章を書くこと、翻訳で、このペンが使い物にならなくなったら、私自身、自信を持って他の武器を使うのは、徐懋庸等の輩には劣らないと言える!
 その次は文芸界の統一戦線に対する態度だ。『私は全ての文学家、如何なる派の文学家でも抗日スローガンの下で統一をという主張に賛成する』私もかつてこういう統一団体を組織することへの意見を述べたが、それは当然ながら所謂「リーダー」たちに切り捨てられ、逆に天上から落ちて来たように、「統一戦線破壊」の罪を着せられた。それで私を暫時「文芸家協会」に参加させなかった。私は彼らがどんな芸当を見せてくれるか少し待ってみることにした:当時実際そのような「リーダー」自称者及び徐懋庸的青年に疑念を覚え、私の経験では、表づらは「革命」の顔をしながら、他の人を「内奸」とか「反革命」「トロツキー」「漢奸」と陥れるまっとうでない連中だからだ:彼らは巧妙に革命的な民族の力を切り捨て、革命的大衆の利益を顧みず、ただ革命の名を借りて私利を営み、正直私は彼らが敵から派遣されたのではないかと疑いもした。思うに私は無益なリスクは避け、彼らの指揮には従わぬようにした。無論結局は事実が彼等の正体を証明するから、彼らがどんな連中か断言したくないが、彼らが真に革命と民族に志があるなら、目論見が正しくなく、観念が正確でなく、やり方がへただというに過ぎぬなら、彼等は実際自ら改める必要があると思った。私は「文芸家協会」への態度は、それが抗日作家団体を考え、その中に徐懋庸的な人がいても、新しい人もいるが:「文芸家協会」があるから文芸界の統一戦線が成立したとは考えられぬ。全ての会派の文芸家が一丸となるには、まだまだ時間がかかると思う。理由は「文芸家協会」がまだ非常に濃厚なセクト主義と同業組合的な状態だからだ。他は見なくても、只その規定を見ただけで、加入者の資格も大変厳しく制限し:会員は入会金1元、年会費2元で「作家閥」を示そうという傾向があり、抗日「人民式」ではない。理論上「文学界」の創刊号に発表された「聯合問題」と「国防文学」の文章は基本的にセクト主義的で:一人の作者が私が1930年に話した事を引用し、そういう話を出発点とし、その為、口では如何なる会派の作家も聯合云々と言いながら、やはり自ら加入制限と条件の設定を願っている。これは作者が時代を忘れたためだ。私は文芸家は抗日問題で聯合するのは無条件で良いと思うし、漢奸でなくて抗日を願い賛成するなら、恋愛ものや、古典派或いは才子佳人小説の作者も構わないと思う。但し、文学問題で我々はやはり互いに批判はできる。この作者は又、フランスの人民戦線を引用しているが、それは作者が国度を忘れていると思う。我々の抗日統一戦線はフランスの人民戦線よりずっと広範なのだから。別の作者は「国防文学」を解釈して「国防文学」は正確な制作方法を持たねばならず、又現在「国防文学」でなければ「漢奸文学」だと言い、「国防文学」というスローガンで、作家を統一しようとし、まず「漢奸文学」の名を準備し、後に他の人を批判する為に使っている。これは実に出色のセクト主義の理論だ。私は:作家は「抗日」の旗の下、或いは「国防」の旗の下で聯合しようというべきで:作家は「国防文学」のスローガンで聯合しようとは言えぬと思う。何名かの作家は「国防を主題」とした作品を書けず、やはり各方面から抗日の聯合戦線に参加するので:たとえ彼が私と同じように「文芸家協会」に加入せずとも、「漢奸」とは限らぬからだ。「国防文学」は全ての文学を包括できない。理由は「国防文学」と「漢奸文学」以外に、前者でも後者でもない文学があるからで、彼等の本領で「紅楼夢」「子夜」「阿Q正伝」が「国防文学」か「漢奸文学」か証明できるなら別だが。こうした文学は存在し、ただそれが杜衡、韓侍桁、楊邨人達のような「第3種文学」ではない。この為郭沫若氏の「国防文芸は広義の愛国主義文学」で「国防文芸は作家関係間の標識で、作品は原則上、その標識ではない」という意見に同意する。私は「文芸家協会」は理論面と行動面のセクト主義と同業組合の現象を克服すべきで、制限を緩くして、同時に所謂「リーダーシップ」を本当に真剣に仕事をしている作家と青年の手に移し、徐懋庸のような連中が一手に請け負うことのないようにと提案する。私個人が加入するかどうかは大した問題ではない。
 次に私と「民族革命戦争の大衆文学」というスローガンとの関係について。徐懋庸たちのセクト主義はこのスローガンに対する態度にも現れている。実に彼等のセクトがこんな風にまでなってしまったのは理解できない。「民族革命戦争の大衆文学」というスローガンは「漢奸」のそれではないし、抗日の力であるのに:なぜこれが「標新立異」(新しいことを標榜して異を立てる)なのか?諸兄はどうしてこれが「国防文学」と対立すると思うのか。友軍の新たな力を拒み、こっそり抗日の力を謀殺するのは、諸兄自身この種の「白衣秀士」(水滸伝中の人物)の王倫よりも気量が狭いのだ。抗日戦線ではどの様な抗日の力も歓迎すべきで、同時に文学でも各人が新しい意見を出して討論すれば、「標新立異」など恐ろしくも無いと思う:これは商人の専売とは異なり、且つ又事実上諸兄が先に提出した「国防文学」のスローガンも、南京政府や「ソビエト」政府に登録していない。但し今の文壇はどうやら「国防文学」牌と「民族革命戦争大衆文学」牌の二つがあるようで、この責任は徐懋庸が負うべきで、私が病気中に来訪者に答えた一文では彼等をふたつとは考えていなかった。当然私は「民族革命戦争大衆文学」というスローガンに誤りのないことと「国防文学」との関係について述べねばならぬ。まず先に前者のスローガンは胡風が出したものではなく、胡風が文章を書いたのは事実だが、それは私が彼に頼んだ物で、彼の文章の解釈が曖昧なのも事実だ。このスローガンも私一人の「標新立異」ではなく、数名の人達で相談した物で、茅盾氏も参加した一人だ。郭沫若氏は遠い日本で監視されており、手紙での相談もできなかった。残念ながら徐懋庸
に参加要請しなかった。が、問題はこのスローガンが誰から出されたかではなく、それが間違っているか否かにある。それがプロレタリア革命文学の左翼作家たちが抗日の民族革命戦争の前線に向かうように推進し、それが「国防文学」という名の本体の文学思想的意義の不明確さを救い、以て「国防文学」と言う名の不正確な意見を糾正しようとし、又そうした理由から提出されたのなら、それは正当で正確だ。人が地に足を付けて考えず、少し頭をひねって、任意に
「標新立異」だと片づけられぬのである。「民族革命戦争大衆文学」という名詞は本来「国防文学」という名詞より意義が明確で、より深い内容を持っている。「民族革命戦争大衆文学」は、主に前進的な左翼作家に対して提唱されたもので、これらの作家たちが努力して前進し、この意味から聯合戦線を推進している現在、徐懋庸がこういうスローガンを提出できぬというのはおかしな事だ!「民族革命戦争大衆文学」も一般の或いは各派の作家に対して提唱できるし、希望できる。彼等も努力して前進するよう希望する。この意味から一般の或いは各派の作家に対してこの様なスローガンを提起できぬというのもおかしな話だ!但しこれは抗日統一戦線の基準ではないし、徐懋庸が私に言うように「これを統一戦線の総スローガンとすべきだ」などというのか更におかしな事だ!徐懋庸に対して本当に私の文章を読んだか否か訊きたい! 人々は私の文章を読んで、もし徐懋庸たちの「国防文学」のようなセクト的にこのスローガンを解釈しないで、聶紺弩等のような間違いをしなければ、このスローガンとセクト主義や排他主義とは何の関係も無い。ここでの「大衆」は「群衆」「民衆」の意味に解釈するのも可で、況や現在では当然「人民大衆」の意味があり、私はこの「国防文学」は我々の目下の文学運動の具体的なスローガンの一つで「国防文学」と言うスローガンは頗る通俗的で、すでに大変多くの人が聞き慣れており、それは我々の政治的・文学的な影響を拡大できる。更に作家が国防の旗の下で聯合でき、広義の愛国主義的文学となれるためだ。それ故、かつてそれは不正確に解釈されたとはいえ、それ自身の含意に欠陥はあるが、やはり存在すべきで、その存在が抗日運動に有益だからだ。この2つのスローガンの併存は辛人氏のように「時期性」と「時候性」などと言わなくてもいいと思う。人々が各種の制限を「民族革命戦争大衆文学」に加えるのに賛成しない。「国防文学」の提起が先だとするなら、それが正統だとするなら、正統権を正統な人達に譲って構わない。問題はスローガンにはない。実際に行う事だから:スローガンをどんなに叫び、正統性を争っても、固より「文章」を書き、原稿料を取り、生計をたてるのだが、それはいずれにせよ長く続けることはできない。
 最期に私個人の事を少し書きたい。徐懋庸は私のこの半年の言行が劣悪な傾向を助長しているという。私はこの半年の言行を検査した。言としては、4-5篇の文章を発表し、その他はせいぜい来訪者と少し閑談したのと、医者に病状を報告した程度で、行は多少あり、版画集を2冊、雑感集1冊を出し、「死せる魂」の数章を翻訳し、3か月の病中に署名1回したのみで、これ以外、下等妓楼や賭博場に行ったことも無く、何の会議にも出ていない。私がどの様に助長したのか、どんな劣悪な傾向を助長したのか訳が分からない。まさか私が病気をしたせいなのか?私が病気になって死ななかったこと以外、思いつくのは只一つ:私が病気の為に徐懋庸のような劣悪な傾向の連中と戦わなかったことか? 
 その次は、私と胡風、巴金、黄源諸氏との関係だ。彼等とは最近知り合ったばかりで、皆文学の仕事での関係で、交友関係と称す迄には至っていないが、友人とは言える。何ら確固とした証拠も出せないのに、むやみやたらに私の友人を「内通者」とか「卑劣」者との中傷に対して、反駁せねばならない。これは私の交友の道義というだけでなく、人を見、事を見た上の結果だ。徐懋庸は私が人を見ただけで、物事を見ていないというのは、無罪の人を中傷して、罪をかぶせるもので、私は些か物事を見、しかる後、徐懋庸らの類の人物を見るのだ。胡風はこれまで余り知らなかったが、去年のある日、ある名士が私と話したいというのでそこに着いたら、自動車がやって来て、中から4人の男が飛びだしてきた:田漢、周起応と他の2人で皆洋服を着て、尊大な態度で、特に私に通知する為に来たと言った:胡風は「内通者」で官憲の犬だ、と。証拠はと訊くと、転向した後の穆木天の口から聞いた、という。転向者の言葉は左聯に来ると、聖旨になるのかと私は開いた口がふさがらなかった。何度か押し問答の末、私の答えは:証拠が極めて薄弱故、私は信じない!で、その時は不愉快な状態で分かれたが、後に又胡風は「内通者」だと聞いた。が、奇妙なのはその後のタブロイド紙で、胡風を攻撃するたびに、往々私を引き合いに出し、或いは私のことから胡風に及ぶようになった。最近は「現実文学」がO.V.筆録の私の主張を発表して以降、「社会日報」はO.V.は胡風で、筆録も私の本意とは合致していないと言ったり、少し前には周文のように、傅東華に対し私の小説を改削したことに抗議した時、同紙もまた背後にいるのは私と胡風だと言った。最も陰険なのは同紙が去年冬から今年の春に、ギザギザで囲んだ重要記事で、私が南京に投降しようとしているとして、間で動いているのは胡風で、早まるか遅れるかは彼の腕しだいだ、と。又自分以外のことも見た:ある青年が「内通者」と言われ、その為に全ての友人が彼から離れて行き、ついに街で流浪し、帰るところも無くなって、逮捕され毒殺されたではないか?またある青年も同じく「内通者」と中傷されたにも拘わらず、英雄は戦闘に参加した為に蘇州の獄中で生死不明の状態ではないか?この二人の青年は、穆木天などのように、立派な懺悔文も無く、田漢のように南京で大きな芝居を演じたことも無いのを事実で以て証明している。それと同時に私は人をも見ている;よしんば胡風が信用ならないとしても、私という人間に対して私自身は信用できるから、私は決して胡風を間にして南京と条件を講じたことなど無い。それ故、私は胡風が剛直で人の怨みを招きやすいが、近づきになっても良い人間だと分かった。
周起応のような連中は軽がるしく人を中傷する青年で、逆に懐疑し憎悪するようになった。無論周起応にも彼なりの長所もあるだろう。将来はきっともうこんな事はせずに、真の革命者になりだろう:胡風も短所があり、神経質で細かすぎ、理論的に些か拘泥する傾向もあり、文字の大衆化を受け入れないが、彼は明らかに有為の青年だ。彼は如何なる抗日運動や統一戦線にも反対したことは無い。これはたとえ徐懋庸の輩が智恵を絞っても抹殺することはできない。
 黄源は向上心のある真面目な訳述者で「訳文」という確かな雑誌と他の数種の訳書がその証だ。巴金は情熱的進歩的な作家で、好作家と数えられる人で、固より「アナーキー」の称もあるが、我々の運動には反対せず、かつて文芸関係者の連名の戦闘宣言に名を連ねたことがある。黄源も署名した。この様な訳者と作家が抗日統一戦線に参加しようとするのは歓迎だ。私は本当に徐懋庸の類がなぜ彼等を「卑劣」というのか分からない。まさか「訳文」の存在が目ざわりなのか?スペインの「アナーキー」が革命を破壊したことすら巴金が責任を取るべきだとでもいうのか?
 また中国は近来すでに普通にあることだが、実は「助長」するだけでなく、却って正に「劣悪な傾向」だが、何の証拠も無く、とてもひどい悪名を加える。
例えば、徐懋庸が胡風は「ペテン師」とか黄源は「おべっか」という。田漢・周起応たちは胡風を「内通者」というが、実際はそうではない。彼等の頭がどうかしているのだ:また胡風が「内通者」のふりをして、彼等にデタラメを言われたわけではない。「社会日報」は胡風が私を転向させようとしていると言ったが、私は今もって転向していないし、投稿者が故意に陥れようとしているからで、胡風は決して私を騙して引っぱろうともしていないし、実際引っぱってもいないが、それで以て記者にデマを書かせたのでもない。胡風は決して「愛すべき左翼」でもないが、私は彼の私敵にとっては実に「左でおそろしい」存在だと思う。黄源は私を持ちあげる文章を書いた事も無く。私の伝記を書いたことも無い。専ら月刊誌を出しているだけだが、責任感が頗る強く、世評も悪くないのに、どうして「おべっか」で、また私に「忠節をつくす」などといえようか?まさか「訳文」が私の物だとでもいうのか?黄源が「傅・鄭たちの下で奔走していた時、おべっかの顔たったというが、徐懋庸は多分御託宣を受けたのだろうか、私は知らないし、見たことも無い。私と往還していた時も「おべっか顔」は見たことが無い。徐懋庸は一度も一緒にいたことも無いのに、何を根拠に彼が傅・鄭たちの下でおべっかだった時と「変わらぬ」と断定するのか知らない。これについては私は証人となれる。実際に何も見ていない徐懋庸が、その場にいた私に対してどうしてこんな出まかせを言い、血を人に噴きつけるとは、横暴のやり放題もここに極まれりだ。これは「現在の基本政策」を「理解」している由縁だろうか?「世界中皆同じ」なのか?全く人を驚かせるのにも程がある。
 その実「現在の基本政策」は決してがんじがらめのような網ではない。「抗日」であれば戦友ではないか?「ごまかし」でも「おべっか」でも構わない。胡風の文字を撃滅する必要も無いし、黄源の「訳文」を打倒する必要も無い。まさかこれらがすべて「21カ条」と「文化侵略」とでもいうのか?まず最初に掃蕩すべきは、大旗を虎の皮のようにかぶって、人を驚かす輩だ;少しでも意の如くにならぬと、勢いに乗じて人に罪を着せ、それも大変厳しく横暴な連中だ。無論、戦線は成立させるべきだが、それは脅してできたに過ぎず、それでは戦えない。まずすでにこんな前車があるので、転覆の鬼は死ぬまで悟らず、今私の面前にいて、徐懋庸の肉体にまといついて現れた。
 左聯結成前後、所謂革命作家の一部は、没落した家のどら息子だった。彼も不満を抱き、反抗し戦ったが、往々、没落家族の嫁姑のいがみ合い、弟の兄嫁のいさかいを文壇に持ち込んだ物で、ぺちゃくちゃああでもないこうでもないと言うだけで、大局に着眼しなかった。この衣鉢は伝えられ絶えなかった。私と茅盾・郭沫若の二人については、一人は知っており、もう一人は面識はないし、また衝突もしていないし、かつて筆でそしりあったが、大きな戦いについては、同じ目標のために、決して四六時中怨念を抱くような事は無かった。然し、タブロイド紙は、魯は茅に比べてどうこうとか、郭は魯に対してどうとか、我々がその位置を宝のように争っていると書くのが好きなようである。例えば「死せる魂」は「訳文」停刊後、「世界文学」にも第一部が載ったが、タブロイド紙は「鄭振鐸が<死せる魂>を腰折させたとか、魯迅は怒って翻訳を辞めたとか書いた。その実、これは正に劣悪な傾向で、デマで文芸界の力を分散させ、「内通者」のやることだ。これも正に没落文学家の末路だ。
 徐懋庸もまさにぺちゃくちゃの作家で、タブロイド紙と関係あるが、末路にはまだ陥っていない。だが、すでにデタラメにすぎぬことがわかる。(でなければ横柄だ)例えば、手紙に:「彼等の言行に対し、打撃を与えるのは容易だが、先生を盾としておるので…実際にそれを解決する為の文章での戦いは大きな困難を感じる」という。そういうのは、修身面で、胡風ごまかしとか、彼の論文や黄源の「訳文」に打撃を与えようとするのか。――こんな事は何も急いで知る必要もないが:私の訊きたいのは何故私が彼等の友人であるということが、「打撃」に対して「大きな困難と感じる」のか?だ。デマで事を起こそうとするのに対して、私は決して巻き添えにはならない。だが、もし徐懋庸たちが、道理のある正論をいうなら、私は彼等を天下の目から覆い隠すことなど出来るわけが無い。しかも何が「実際の解決」なのか、流刑か首切りか?「統一戦線」の大名義の下、こんな風に人に罪をでっちあげ、威力権勢をほしいままにするのか?私は本当に「国防文学」が大きな作品を出すのを心から祈る。さもないとまたこの半年のように「劣悪な傾向を助長する」罪を着せられるから。
 最後に徐は私に「スターリン伝」をしっかり読んでくれと言っている。私はもし生きていたら確かにしっかり読んで勉強する。だが最後に彼自身もう一度しっかり読んでもらいたい。というのは、彼はこれを翻訳した時に何も会得していないようで、実に改めて精読の必要がある。でないと、一つの旗を掲げて、自分では人より先んじていると思っているようだが、奴隷の総監督にすぎず、鞭を鳴らすのが唯一のとりえで、――これを治す薬はないが、中国にとって、なんの役にも立たず、有害であるから。
      8月3日―6日

訳者雑感:魯迅ですらこのやっかいな文章を8月の暑い日に3日かけて書いた。人を罵り、人からも罵り返されたら、更に推敲をこらして反駁・罵しった。
それが晩年に至るまで、死に至るまで止むことは無かった。
 私はこの翻訳とタイプに10日以上費やした。(途中不在なためでもあったが)
ここに名があがっている、胡風とか田漢、それに巴金などは文革で問題にされた。いずれ彼等のことが、別の雑文にも登場するだろう。
     2014/11/18記
 

 

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附記

附記
 第一篇「中国に関する2-3の事」は日本の改造社の求めに応じたもので、元来日本語で同年3月の「改造」に「火、王道、監獄」と改題されて載った。中国の北方ではある雑誌がこの3篇を翻訳掲載したと記憶するが、南方では林語堂、邵洵美、章克標の3人が主編する雑誌「人言」に作者への攻撃の具として使われただけで、詳しくは「准風月談」の後記に書いたが、これ以上触れない。
 「草鞋脚」は現代中国作家の短編小説集で、H.Isaacs氏の求めに応じ、私と茅盾氏が選び、彼が更に選択英訳したもの。だがこれまでまだ出版されていないようだ。
 「曹聚仁氏への返信」は元々我々の私信だったのが、なぜか「社会月報」に載ってしまい、お陰で禍が大きくなり、私は「楊邨人氏の為に銅鑼や太鼓をたたくはめになり、誰が魯迅氏は狭量だというのか」ということになった。8月31日「大晩報」副刊「火炬」の文章が証となった――
   妥協      紹伯
――「社会月報」8月号を読んで。
 「中国人は妥協にたけた民族」――これは以前あまり信じていなかった。というのも私自身まだ若くて経験不足で、妥協を肯定しなかったし、他の人も私と同様協調を肯定しないと考えていたからだ。
 この考え後に徐々に変わった。それは私の親戚が故郷の2つの軍閥の政権争奪戦で犠牲となり、私は当時、某軍閥に好感を持てず、親戚の為に敵愾心を懐いたが、後にその両軍閥が上海に来てすぐ妥協し、頗る緊密な関係となり、私はそれをみて呆然としたのではなく、我々の親戚がもしたんたんと彼の「政友」の為に死んだとしたら、全く犬死にだと思った。
 後に広東のA君が両広戦争後、戦士たちの白骨が義の為に流した碧血がまだ腥い野にあるのに、両軍のボスの夫人連中が香港のマンションでしょっちゅう牌を並べて遊んでいた昵懇さは尋常では無かったと語った時、私はさらに深く悟った。
 今我々はよく分かって来、これは当然のことで、軍閥戦争がそうだというだけでなく、帝国主義の分捕り合戦も同じだ。人々は数千数万と大砲の灰となり、各国の資本家は一堂に会してシャンパンを手に、顔をほころばせて笑っているのだ。「軍閥主義」や「民主主義」など皆、人騙しの言葉だ。
 然るに、これはそうした軍閥資本家達が「無原則に戦」っていると指摘しているのではない。真理を追究する者の「原則を大事にする戦」はそうであってはならない!
 この数年、青年達は思想界のリーダー達の後に従って大変な努力をしてきたが、ある人達はその為に大切な命を犠牲にした。一個人の命は大切だが、一代の真理は更に大切で、命の犠牲によって真理が天下に明らかになれば、その死は価値がある。それなのに水をかき混ぜ濁らせて、訳のわからないようにさせてはいけない。
 後者の例は「社会月報」に求められる。この月刊は今、最も完備した「雑」誌といえる。
そして最も面白いのは「大衆語特集」と題した8月号だ。読者はこの期の目録を見てみれば、最初に開幕の銅鑼太鼓をたたくのは魯迅氏の(大衆語に関する意見)で、切り札は「赤区からの帰還記」の作者楊邨人氏だ。健忘な読者でも魯迅氏と楊邨人さんは「原則上」大きな確執があったことは覚えていると思う。魯迅氏は楊邨人さんを「嘆」じたことがあったが、彼はなんと楊邨人さんの為に、開幕の銅鑼太鼓を叩けるほどで、誰が魯迅氏は狭量だなどといったのか?
 苦しむのはただ読者だけで、魯迅氏の手紙を読むと「漢字と大衆は両立しない」ということが分かり「交通が盛んで、言語が混じり合う場所」の「大衆語」のひな型とその語彙と文法を貧乏で辺鄙な所へもたらすべきだということがわかる。我々は「先駆者の任務」は大衆に多くの言葉を与え「より明確な意見を発表」させ同時に「より正しい意味を理解する」ようにさせ:我々が今実行可能なのは「進歩的」な思想で「大衆語の中に入る作品」を書くことだ。但し、切り札の楊邨人さんの文書を読むと、大衆の中に入ってゆくのは、根本的には死路(行きどまり)で、そこは水害と敵の包囲攻撃で破産状態で、…「維持すらも困難で、建設などという空談はせぬが良い」やはり都会に「帰って来て」プチブルの文学旗揚げのほうが頼りになる。
 それで我々の得た知識は、前と後ろで違っていて、訳が分からなくなってしまう。
 これは中国民族が妥協にたけていることを示しているが、余りに妥協的で、思想闘争も原則がなくなってしまうと疑わせる。「戟門壩上の児戯」になってしまった。この陣容に照らしてみると、人々が死んだのは本当に何のためだったかわからなくなる。

 銅鑼を叩いた後、「切り札」までのあの「中間作家」の文章、とくに大衆語問題の幾つかの広範な論議に関して、もともと簡略に弊見を述べようと思っていたが、日を改めて再度談じるしかない。
 この件に就いて私は11月に「<戯>週刊編者への書簡」で幾つか回答した。
 「門外漢の文談」は「華圉」の筆名で「自由談」に投稿、毎日一節ずつ載った。但し、なぜか第一節の末尾は削られ、第十節の始めの2百余字削られ、今回補足し黒点を付した。
 「肉の味を知らずと水の味を知らぬ」は「太白」に寄稿、掲載時、後半部は無く、これは「中央宣伝部書報検査部」の功績と思う。当時「太白」のこの文を見て、私に「何が言いたいの?」と言う人がいた。今回、補足し何が言いたいかを分かってもらうため、黒点を付した。
 「中国人は自信力を失ったか」も「太白」で、凡そ神に求め、仏を拝すについて、不敬の個所はみな削除されたが、あの頃、我々の「上峰」はまさに神に求め仏を拝せと主張していた。今回補足し、少しは一時の風尚として残す為、黒点を付した。
 「隈取りの憶測」は「生生月刊」で、お上に奉じた後の諭告:発表不可だった。当初とてもおかしいと思い、原稿回収後、赤鉛筆で下線を引かれた所を見て、「第3種人」の爺さんたちを怒らせたのだということが分かった。今回、新しい作家たちに警戒してもらうために赤線の所を黒線に代えた。
 「<戯>週刊編者への回答」の末尾は紹伯氏の例の「妥協」への返信で、当時我々の沈という姓の「戦友」が見てすぐ呵々大笑し:「この爺じいは又不満たらたら」と言ったが「奴」と「不満」と「又」は大変滑稽だが、私自身は真面目である。
 だが<戯>週刊編者に「不満たらたら」なのは、他の人はきっと奇妙に思うだろう。だがそうではない。と言うのも編者の一人は田漢同志で、田漢同志は紹伯氏なのだ。
 「中国文壇の魑魅」は「現代中国」(China Today)で、誰が訳したか知らぬが、一巻5期に載り、後に英文から独文と仏文の「国際文芸」に転訳された。
 「病後雑談」は「文学」への投稿で全5段:4巻2号に載り、残るは第一段。後にある作家がこの一段をもとに、論じて曰く:魯迅は病気になるのに賛成している、と。彼は検査官が削除したことなど思い到らぬようだ。文芸上の暗殺政策も時に効力あるのが分かる。
 「病後雑談の余」も「文学」への投稿だが、なぜか検査官は古怪で、不許可とも許可ともいわず、手ずから削除もせず、ぶつぶつ言うのみ。発行人はやむなく私に自主削除を求め、それでもやはりダメで、ついに発行人が筆をとり、検査官が口を開き、もう一度すりなおして、やっと4巻3号に載った。題は「病後余談」とされ、小注の「憤懣をはらす」という句も不許可:変更された個所は本文の下に注をつけ、削られた5か所は黒点を付して、読者がこれらの禁忌をみて面白いと感じられるようにした。ただ「言行不一致」を不許可とされたのも訳の分からぬことで、今、明記せねばならぬは、これも「第3種人」に抵触した為ということ。
 「おきん」は「漫画生活」に投稿:不許可だけでなく、南京中央宣伝委員会に送られた由。まさに漫談にすぎず、深い意味は何もないのに、どうしてこんな大問題となるのか、自分でも分からない。後で原稿を返して貰ったら、第一頁に紫色の印があり、大きいのと小さいのがあって、文字は「抜きだせ」とあり、小は上海印で大は首都印だろうが、「抜きだせ」は疑義のないようで、さらに見て行くと沢山の赤線が引かれており、今回本文の傍らに黒線に改めた。
 線の個所を見ると何か所かは道理が分かる。例えば、「主人は外人」「爆弾」「巷の戦」の類で、当然それに触れぬが適切だ。しかしどうしても分からないのが、なぜか私が死んでも「同郷会を開けるとは限らぬ」の理由で、まさかお上の考えとして私が死んだら同郷会が開けるとでも思っているのだろうか?
 我々はこのような所に住み、このような時代に生きている。
   1935年12月30日 編集後記す。 

訳者雑感:本附記では、発表当時削除、改訂させられた個所を復元した所を黒点や下線で明示したとの説明が多いのに驚く。それらを編集しなおして「且介亭雑文」として公表できたのは不思議に思う。新聞や雑誌でなければ、検査を受けずにだせたのだろうか?
 NHKの朝のラジオで、中北さんが「原発問題」に触れる内容の放送をしようと原稿を出したら、NHKから削除を求められ、(都知事選挙中だからとか云々で?)結局彼は番組出演を辞退したという。80年前の上海と何ら変わりはないようだ。
「政府が右へというのを左とは言わない」というのが新会長のコメントにあったので、職員がそれに過剰反応したのだろうか?
 国民の視聴料で運営している公共放送が、南京中央宣伝部と同じことをするとは!
   2014/01/31記
 
 

 

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俗人は雅人をさけるべし


 雑誌を見ていて偶然思ったのだが――
 濁世では「雅な人」は少なく、「風流」も少ない。だが濁りきってしまうまでは、雅な人が一人もいなくなるわけではなく、「雅を損なう」人が多いので、その結果「雅さ」を保つのが難しくなるのだ。
 道学先生は身を以て「仁恕」を行うが、仁や恕でない人に出会うと、彼も仁恕でいられなくなる。朱子は大賢だが、役人の時、無実の罪を訴えることのできない官妓を板打ちせざるを得なかった。新月社の作家たちは他人を罵る人を最も嫌悪したが、罵る人に出会うと、彼らも我慢できなくなって相手を罵った。林語堂氏は「フェア―プレー」を大切にしていたが、杭州で菊を鑑賞している時「ソ連のタバコをくわえ、何とかスキーの訳本を手にした」青年に出会うやいなや「精彩を失って、愁眉を開けず、憂国のふり」をせざるを得なかった(詳しくは「論語」55期参照)様子で、面目丸つぶれだった。
 優良な人は時に他の人と比べることで、際立とうとし、例えば、上等と下等、善と悪、雅と俗、度量の大小などだ。比べる対象がいないと、その優良さを明確にできない。所謂「相反して、相成る」がそれだ。ただ、他の人と調子をあわせねばならず、少なくとも分をわきまえて、太鼓持ちはできなくとも、ケチをつけてはダメで、善良な人を責めてしまっては、彼らは善良を保てなくなってしまう。例えば、曹操は「小事にはこだわらないことを旨とした」が正平(曹操を非難した文学家)が毎日、門前で罵るので、怒らざるを得なくなってしまい、黄祖の所へ送って(彼の)「刀を借りて殺した」が、正平は正しく「自ら咎めをくった」のだ。
 所謂「雅人」も元々一日中雅と言う訳ではなく、たとえ珠の羅帳で寝、香ばしい米を食べても、睡眠と食事は本質的には俗人と同じであり:腹で銭儲けや地位固めの目論見をしていても、それをしてないとは言わせない。彼らが衆に抜きんでているのは、時にまた忽然と「雅」になれる点だ。その謎の秘密を暴いたら所謂「殺風景」になってしまい、俗人になり、他の雅人にも累を及ぼし、もう彼を雅人とはいえず、「俗を免れぬ」。もしそんな輩がいなければ、こんな事にはならず、従って、間違いはすべて俗人に帰せてしまう。
 例えば、2人の知県(役人)がいて、彼らは終日任務を遂行し、案件を審議するが、その一人が偶然梅を見に行けるとしたら、雅官と呼べるし、恭賀されるべきで、世の中にそれこそ雅人がいて、風流だといえる。恭賀したくないならそれもいい:眉をひそめるとなると俗である:冗談でからかうのは良いことをぶっ壊すものだ。しかし世間ではどうも狂夫と俗人が偏在していて:中国の何とかいう古い「ユーモア」の本に「軽薄子」という一首があり、知県老爺が公務の余に探梅の七絶を詠じ――
  紅帽は鼻歌、黒帽は笑い、風流な大守は梅花を看る。
  梅花は首を垂れて言う:小さな梅花は老爺を迎える。
 これはまったくふざけたもので、風流をぶち壊した。梅に替って話すのも不自然で、この時は何も発せずにしておくべきで、一度口を開けば「雅を損ない」「老爺」にまで累が及び、もう雅にはなり難い。俗に還る他なく、板叩きに会うか、少なくとも何らかの罪を得る。なぜか、俗ゆえに再び雅と相容れないからだ。
 用心深く謹慎な人が、たまたま仁人君子や雅人学者に会うときは、調子をあわせられないなら、遠くに避けるべきで、遠いほど良い。さもないと、彼らの口先とは程遠い顔と手段で痛い目に会うこと請け合いだ。運が悪いと、ルーブル説の例の手で、大損する。「ソ連のタバコをくわえ、何とかスキーの訳本を手に」程度なら大したことはないが、――危険である。
 皆は「賢者は世を避ける」ということを知っている。私は今の俗人は雅を避けるべきだと思う。これもある種の「明哲保身」である。     12月26日

訳者雑感:ここでいう俗人は魯迅で、雅なのは林語堂たちを指すのだろう。俗人が雅な人に出会って、不注意なことを言ったり、ソ連のタバコを口にして、何とかスキ―の訳本をもっていると、すぐ「ルーブルで買収された」という彼らの常套手段で痛い目に会う。
それで俗人は雅な人を避けるべきだというのか。避けて攻撃せよ、と。
            2014/01/27記

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阿金(おきん)

阿金(おきん)
 最近私はおきんに大変悩まされている。
 彼女は女中(お手伝いさん)で、上海では娘姨(にやんい)と呼び、外人はアマといい、彼女の主人は正に外人だ。彼女は沢山の女友だちがいて、日が暮れるとぞくぞくと彼女の部屋の窓の下に来て「おきん、おきん!」と大声で呼び、これが夜じゅう続く。彼女は又何人かの愛人がいるらしく:いつぞや裏門で彼女の言い分を宣言して:男を見つけなきゃ何のために上海にきたのさ?……。
 しかしそれは私と関係ないが、不運なことに彼女の主人の家の裏門は我が家の前門の斜め向えだから「おきん、おきん!」と呼ぶ声が聞こえてきて、時に文章も書けなくなり、ひどい時は原稿に「金」の字を書いてしまうほどだ。更にまずいことに、私が出這入りする時は、必ず彼女の所の物干し台の下を通らねばならず、彼女は梯子段を上り下りするのがいやで、竹竿や板とか他の物もしょっちゅう物干し台から下に放るので、通る時は良く注意しなければならぬし、まずおきんが物干し台にいるかどうかを見て、いたら少し遠回りせねばならぬ。これは私の肝が小さく、命が惜しいからだが:「彼女の主人が外人だと言うことを考え」(「 」内は下線つき)殴られて頭から出血しても問題にもならぬし、たとえ死んでも、同郷会を開いて「電報を打っても役に立たず、――といっても私はもう同郷会を開けるとは限らぬが」(「 」内は下線付き)
 夜半以後はまた別の世界だが、昼の気分を持てあましていてはダメである。ある夜、もう3時半で、ある作品を訳して起きていた。忽然、外で誰かが低い声で呼ぶのが聞こえた。はっきりとは聞き取れぬが、おきんではなく、勿論私を呼んでいるのではない。こんな遅くに一体誰が誰を呼ぶのか?と思った。それで立って窓を開けてみたら男がいて、おきんの部屋の窓を見上げている。彼は私に気付かなかった。私は我ながら馬鹿なことをしたなと後悔し、まさに窓を閉めようとした時、斜前の小窓が開いて、おきんの上半身が現れ、直ぐ私に気付き、男に何やら言って、手で私の方を指して、手を振った。男は大股で走り去った。私はとても不愉快になり、何か間違ったことをしたようで、翻訳も続けられなくなり、心で思った:「以後つまらぬ事に首を突っ込まぬようにし、泰山が崩れてきても顔色を変えず、爆弾がそばに落ちても身をさけるな!…」(「 」内は傍点付き)
 だがおきんの方は何の影響も無いようで、相変らずきゃあきゃあと笑いこけていた。しかしこれは夜近くなってやっと得た結論で、従って私は本当に夜の半分と昼の丸一日じくじくしていた。その時私はおきんは度量が大きいなと思ったが、同時に彼女が大きな声でペラペラしゃべって笑うのを嫌悪した。おきんが現れると周囲の空気が騒がしくなり、彼女はそんなにも力があったのだ。この騒ぎに対して、私の警告は何の効力も無く、彼女等は私の方を見向きもしなかった。ある時、近くの外人が外国語で何か言ったが、彼女等は相手にしなかった:ただ、その外人が走って来て足で各人を蹴ったので、彼女等は逃げ出して、騒ぎも終わった。この蹴りの効力は5-6夜位あった。
 その後は、例のようにワイワイ騒ぎ:しかもそれが拡大して行き、おきんと道の対面のタバコ屋の婆さんとの闘いが始まった。男も手助けに入った。彼女の声はもともと高かったが、今回はそれに輪をかけた大きさで、20間先まで聞こえるほどだった。暫くして大勢の見物が集った。論戦が終わり近くなって、当然「男を盗んだ」の類が出てきて、婆さんの声ははっきり聞こえなかったが、おきんの反論は:
 「お前の老Xなど、欲しがる男はいない!私のを欲しがる男はいるのさ!」
 これは多分その通りで、見物人はどうやら大半は彼女に味方し「誰も欲しがらない」古Xは負けた。この時外人の巡査が来て、後ろ手にして見ていたが、見物人を追い払った:おきんはつかつかと歩み寄り、外国語で話しだした。巡査は聞き終えて笑いながら言った:「お前もなかなかなもんだな!」と。
 彼は古Xを捕まえにはゆかず、悠然と後ろ手で去って行った。「こうして巷の戦は終わった」が「世の中のもめごとはけっしてこんなにあっさり解決されることはなく、古Xもきっと相当な力を保っていた。翌朝、おきんの家からそう遠くない外人の家のボーイが突然おきんの所に逃げ込んできた。後から3人のこわそうな大漢が追っかけてきた。ボーイのシャツはすでに破れ、多分かれは外におびき出されて、後の門を閉められて戻れないから、
愛人の所に逃げるしかなかった。愛人の脇の下は元来とても安全な所で、イプセンの劇でペール・ギュントは失敗後、愛人のスカートの中に隠れ、子守唄を聞いた大人物だ。だが、おきんはノルウエーの女性に比すべくも無く、無情で魅力も無かった。ただ直感が閃くのは早くて、男が走り込んでこようとした時、彼女はさっと裏門を閉めた。男はどうしようもなく、立っている他なかった。これはこわそうな大漢たちの予想外のことで、明らかにと
惑ったようだが:拳骨をふりあげ2人は彼の背中と胸に3発みまったが、あまりきつくはなかったようで、一人は顔を殴り、顔はたちまち赤くなった。この巷の戦は電撃的で、
早朝でもあり、見物人も少なく、勝敗の両者は各自に散って行き、世界はまた暫くは平和になった。
だが安心はできなかった。というのもかつて人がこう言うのを聞いた事があるから:所謂「平和」は2つの戦争の間の時間にすぎぬ、と。 数日後、おきんは姿を消し、彼女は主人に追い出されたと思った。後釜は、太って顔は福相で、品のいい女中で、20数日経ったが、とても静かだった。ただ2人の貧乏歌手に「チカドンドンチャーン」の「十八摸」の類(旧時流行した猥雑なメロディ)を歌わせたくらいで、それは彼女が「自分で貯めたお金」の余閑だから、少しばかりそのおこぼれを享受するのは誰も文句はつけない。心配なのは一群の男女を集めたので、その中におきんの愛人もいて、いつ何時また巷の戦が起きるかも知れない事だった。だが私もお陰で男声の上低音(バリトン)を聞き、とてものびのびとしていて、死んだ猫のような「毛毛雨」(1930年頃の流行歌)とは天地ほどの差があると思った。
 おきんの容貌はしごく平凡だった。所謂平凡とはたいへん月並みで、覚えにくく、1か月もしないのに、どんな顔だったか忘れてしまった。だがやはり嫌いで「おきん」という2字(漢字は阿金)を思いだすと気分が悪くなり:近くで騒ぎが起こっても、こんな深い仇や怨みにはならぬが、私が嫌なのは、わずか数日で私の30年来の信念と考えを揺るがした事である。
 私はこれまで、昭君が出塞して漢の安寧を保ったとか、木蘭が従軍して隋を守った等は信じなかったし:また妲己が殷を滅ぼしたとか、西施が呉を沼にしたとか、楊貴が唐を乱したなどの古い物語は信じたことはなかった。男権社会で女がそんな力を発揮できることはありえず、興亡の責めはすべて男が負うべきと考えて来た。ただ、これまでの男性作者は、大抵敗亡の大罪を女に押し付けてきたのであって、それは本当に何の値打も無いダメ男だった。だが思いがけずも今、おきんの容貌も並みでこれといって驚くような才も無い女中だが、1カ月もせぬうちに、私の面前で4分の1里四方をかきまわしたことからして、もし彼女が女王や皇后、皇太后だったら、その影響は推して知るべし:大変な大乱を引き起こすことができる。
 昔孔子は「五十にして天命を知」ったが。私といえばたかだか一人のおきんに人間世界のことどもにも疑惑を懐かせられ、聖人と凡人とは比較にならぬと雖も、おきんの威力たるや、私には手も及ばぬことが分かる。私は自分の文章が退歩したのをお金の騒ぎのせいに帰そうとは思わぬし、以上の話も怒りを転じるに近いが、近頃はおきんが一番嫌いで、彼女が私の道を塞いでいるのは確かだ。
 おきんが中国女性の標本とかんがえられぬように望む。   12月21日


訳者雑感:近年の高層マンション林立で、かつての風景はだいぶ変わったが、1970年代の上海の旧租界地は、2-3階建ての欧式住宅に数家族が混住していて、物干し台なども狭いために、竹竿を通りに就きだして、地面一杯を蔽うように干していた。
魯迅の指摘するように、中国史に登場する女性は国を救うとか乱すとか傾国の美女とか、いずれもロクでもない男が話を面白くするために書いたものだというのは面白い指摘だ。
2014・1・24記

 

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病後余談の余4

病後余談の余4
4.
 だが弁髪にはもう一度風波が起こった。即ち張勛(クン)の「復辟」でうっかりすると又弁髪をはやせ、ということになりかねなかった。私は彼の弁髪兵が北京の城外で防備を固め、弁髪の無い人間に対して、すごい剣幕で気炎を上げるのを見た。幸い数日で失敗し、いまでは、短髪や分髪、オールバックやカールもできるようになった、
 張勛の名はもう影も薄くなり「復辟」事件も徐々に忘れられ、私がかつて「風波」で触れたが、他の作品ではもう目にせぬようで、とっくに注意を引かなくなったことが分かる。
今では辮髪もごく稀で、周の鼎や商の彝(イ:銅器)と同列となり、外国への販売資格がとれるだろう。
 私は絵を見るのも好きで、とりわけ人物画が好きで、国画といえば方巾に長い着物、或いは短衣にさいづち髷の人などだが、見覚えのある弁髪は一本も見たことが無い:洋画でも顔がゆがんだ男や、足の太い女ばかりで、私の記憶にある弁髪は一本も目にしない。
今回何枚かのペン画と木版の阿Q像を見たが、これが初めて美術として目にした弁髪だが、全く精彩がなかった。それも無理の無いことで、今20歳前後の青年が生まれた時はすでに民国で、今30歳でも弁髪があったころは4-5才で、当然ながら弁髪の詳細は知らない。
 『では私が「憤懣を晴らす」のを人に伝えるのはきっと難しく、人に同じ憤激、感慨、歓喜、悠愁を感じてもらうのは難しいだろう』     12月17日

 一週間前、「病後雑談」で鉄氏の二人の娘の詩をとりあげた。杭世駿によれば、銭謙益編の「列朝詩集」にあるのだが、私はこの本が無いから「訂訛類編」から引くしかなかった。
今日「四部叢刊続編」の明遺民彭孫貽の「茗斎集」が出版され、後附の「明詩鈔」に鉄氏長女の詩がある。下に写し、範昌期の原作といわゆる鉄氏の娘の詩と異なる点を( )内に注して比較し易くした。これでみると、偽作者は一句を改めたに過ぎず、各句も1-2字を変えただけだ――

   教坊の献詩
 教坊脂粉(落籍)鉛華を洗い、  …(省略)

 ただ、兪正燮の「葵巳類稿」また茅大芳の「希薫集」によると「鉄公の妻女は死をもって殉ず」と言うが:併記して一説に云う「鉄は二子あり、女は無し」と。そうであるなら、
鉄絃の女児の有無すらすべて疑わしくなる。2人の近眼が扁額の字を論じて大弁論をするが、実は扁額など懸かっていなかったというのも元々有りうることだ。だが鉄の妻の殉死説も粉飾だと思う。「弇州史料」には奏文と上諭はともにあり、王世貞は明人で敢えて捏造しようとはしないから。
 鉄絃に女児がいないとしたら、或いはいたけれど実はすでに自殺していたら、この虚構の故事から社会心理の一斑をうかがい知ることができる。即ち:受難者の家族に女がいないというのは、いるという趣に如かず、自殺もまた教坊に落ちる趣に如かぬ:但し、鉄絃は畢竟忠臣であり、その娘を永久に教坊に淪落させて置くのは、心に不安を覚えるから、やはり尋常の女士と違って、献詩することで、士子と結ばれるのだ。これは書生が禍に巻き込まれ、獄に繋がれ、体罰を受け苦しむが、最後には状元に合格するというパターンと完全に一致する。    
 23日の夜 付記す。


訳者雑感:魯迅は子供の頃、絵入りの故事を読むのが好きだったが、特にその中の登場人物の絵をうまく書き写すのが好きだったようで、一冊の本にして、金持ちの子供が欲しがるので、それを売ってお金に換えたというくらいだ。その彼が阿Qの劇本に挿入する絵を何枚か見ることになったのが、久しぶりの「辮髪」だったが、現物を見たことの無い若い世代の画いたものは精彩に欠けていたのだろう。今の日本人は相撲取りのちょん髷くらいは見ているが、時代劇に出て来る信長や家康の格式と、小侍のとは違っていよう。阿Qのはどんな具合だったか?そもそも魯迅が彼を「阿Q」と名付けたのは英語のQ(kju)の発音はCueと同じで、玉突きの棒と弁髪という2つの意味を持つが、阿Qとは弁髪兄貴とか
弁髪野郎という意味を持たせたものだという説もある。又Qの字そのものが清国人の頭を後ろから見たときの姿に似ている。
     2014/01/21記

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病後雑談の余3

病後雑談の余3
3.
 清朝に対する新たな憤懣の発作は、光緒帝のころに始まったようだが、文学界では誰が「主謀者」か調べていない。太炎先生は文章で排満の驍将として有名だが、彼の「訄書」の未改定本は、まだ満州人が中国の主たることを認めており、「客帝」と称して,嬴秦(嬴は始皇帝の姓)を「客卿」(帝ではない:訳者注)と比している。だが要するに光緒末年になって、翻印された清朝に不利な古書が陸続と現れた:太炎先生も自ら「客帝」説を改訂し、再版された「訄書」には「刪(けずる)してこの篇を残す」とし:後に本書を「検論」と改名したが、その方法に依ったかどうか知らない。日本へ留学した学生たちの中にも、図書館で革命を鼓吹できる明末清初の文献を探し出す者がいた。当時印刷された大部の「漢声」は「湖北学生界」の増刊で、表紙には「文選」の句の4句を題とし:古い積念を葉らし、思古の幽情を発し、とあり第3句は思いだせぬが第4句は「大漢を振興する天声」だ。
古今を問わず、この種文献はどうも外国の図書館で写すことができるようだ。
 私は辺鄙な地方で成長したので、何が満漢か少しも知らなかったが、飯店の看板に「満漢酒席」と言う字を見ても何の疑問も起こらなかった。人が「本朝」の故事を語るのを聞くのはしょっちゅうのことだったが、『文字獄の事は一向に耳にしたことはなく』(『』内は傍点つき)、乾隆皇帝南巡の盛事も聞いたことが無かったが、一番よく聞いたのは(太平天国の)「長毛賊を打て」だった。我が家に年老いた女中がいて、彼女が長毛の事を話す時、当時彼女は十数歳だったが、彼女が私に話してくれた最も多い話で、彼女には邪正の別はなく、最も恐ろしいことは3つあり、一つは勿論「長毛」で、もう一つは「短毛」で最後は「花緑頭」(毛唐軍で頭に緑などの布を巻いていた:出版社注)だった。その後私も後の2つがお上の軍だと分かったが、愚民の経験では、長毛と区別ができなかった。私に長毛が憎むべき対象だと教えたのは数人の読書人で:私の家に数冊の県志があり、偶然めくっていたら、当時殉難した烈士烈女の名が1-2巻あり、同族の人も何人か殺され、後に「世襲の雲騎尉」に封ぜられたから、それで長毛の憎むべき事が判った。しかし本当に所謂「心事は波涛の如し」で、日が経つにつれ、自分も閲暦し、女中の話から、それらの烈士烈女を凶殺したのが長毛なのか「短毛」「花緑頭」なのか決められなくなった。私は「四十にして惑わず」といった聖人の幸福をとてもうらやましいと思う。
 私が最初に満漢の境に目覚めたのは、本ではなく弁髪だった。この弁髪は我々の古人のたくさんの頭を切り落として、やっと根付いたもので、私が知識を持ちだした頃、みんなはとっくに血の歴史を忘れてしまい、却って髪をすべて残すのを長毛と思うようになり、すべて剃るのは和尚のようで、少し残してこそ全うな人間だと考えるようになっていた。
そして更には弁髪に色々趣向を凝らした:道化役者はそれを結んでそこに紙の花をさした:
武劇の道化は弁髪を鉄棒に絡めて、ぶら下がってタバコをぷかぷか吸って技をひけらかし:
手品師は手を動かさずに、頭をくねらせ、ポンと手を打つと弁髪はひとりでに跳ね上がって頭上にとぐろを巻き、そこで関羽の大刀を振り回すのだ。更に実用的でもあり:ケンカの時は、それをしっかりつかめば、引っぱることもでき、縄は不要で、大勢を捕えるなら、弁髪の先をつかみさえすれば、一人で何人でもしょっ引ける。呉友如が描いた「申江勝景図」に裁判所の絵があり、巡査が犯人の弁髪をひっぱっている図があるが、これが
勝景とされていた。
 辺鄙な所にいたときはまだよかったが、上海に来ると、時に英語のPigtail-豚の尻尾といわれた。これは今ではもう耳にしなくなったが、その意味は頭に豚の尻尾を付けたということに過ぎぬが、現在の上海で中国人が互いに「豚野郎」と罵るよりはやや控えめだが、当時の青年は涵養が足りず、また「ユーモア」の意味を知らぬから、それを言われると大変こたえた。そして二百余年の歴史を擁す弁髪の姿もだんだん雅さを感じなくなり、すべて留めるでもなく、剃るでもなく、まわりを剃って一つかみだけ留め、それを編んで背中に垂らし、あたかも他人につかまれ、引っぱられる為の柄のようになった。それに対し、遂に嫌悪を懐いたのは、人情の常で『誰かから物品をもらって、何とかスキーの理論に迷った為ではない』(この2句はお上の命令で「怪しむに足りぬ」と改めた)
 ( 『 』内は傍点付き。 )
 私の弁髪は日本に置いてきた。半分は下宿の女中のかもじに、残りは散髪屋にやり、身は宣統初年に故郷に戻った。上海に着くと偽の弁髪をつけなければならなかった。その頃上海にその専門店があり、定価は一本洋銀で4元。一切値引きせず、その有名な名は大抵当時の留学生はみな知っていた。実に上手にできていて、余り注意しなければ、他の人にばれることはなかった。だが留学生帰りだと知ると、じろじろ眺められてボロが百出した。
夏には帽子をかぶれずグワイが悪かった:人ごみでもまれて落ちたり、曲がったりせぬようにするのも大変苦労した。一カ月余りつけたが、もし路上に落としたり、人に引っぱられたら、元来弁髪の無いのよりさらにひどいことになるのでは、と思った。いっそのこと止めよう、賢人も言うではないか:人間は真実でなければいけない、と。
 だがこの真実の代価は本当に安くなかった。外出時、路上で受けた待遇は以前と全く違った。私はそれまで、友人を訪ねた時は客として遇されると思っていたが、この時始めて路上でも、遇されることがあるのを知った。一番ましなのは、呆然と眺めているのだが、大抵は冷笑され、ひどく罵られる。小では、人の女を盗んだんだと言われ、当時は奸夫を捉えたら、まず弁髪を切ると言うのだが、今でも私にはその理由が分からない:大は『外国に内通している』と指弾する。現在の「漢奸」のことだ。思うに、もし鼻を失った人が街を歩いても必ずしもこんな苦労を受けるとは限らぬが、影を失くしたら多分この様な社会的責苦を負わされるだろう。(ゴーゴリの「鼻」とシャミッソーの「影の無い男」の事)
 帰国して1年目は杭州で教員をしたが、洋服を着たので洋鬼子(毛唐)とみなされ:2年目に故郷紹興に戻り、中学で学監をしたら、洋服もだめで、多くの人が私を知っているので、どんな服を着ても「外国に内通している」と言われ、私が弁髪の無い為の禍を受けたのは故郷が最初だった。特に注意せねばならぬのは、満州人の紹興知府の目で、彼が学校に来るごとに私の弁髪をじろじろ見ながら長く話し込むのが好きだった。
 学生たちの中に忽然弁髪を切る風潮が起こり、多くの者が切り落とそうとした。私はあわてて止めた。彼らは代表を選んで詰問に来た:畢竟、弁髪を残すが良いか、ない方が良いか?私の即答は:弁髪はないのが良いが、諸君は切らぬようにであった。学生たちはこれまで誰も私を「外国に内通」と言わなかったが、この時から「言行不一致」と見下した。
『「言行一致」は当然価値が高く、現在の所謂文学家にもこの点を自慢しているのがいるが、彼らは弁髪を切ると、価値は頭に集中するということを知らない。軒亭口は紹興中学の近くで、そこは秋瑾小姐(革命に失敗して処刑された)が義に就いたところで、いつもそこを通っていながら、忘れてしまっている』( 『』内は傍点付き )
 「亦快ならんや」――1911年の双十節後、紹興にも白旗が掛けられ、革命となったが、革命が私に与えた良いことは、最大で最も忘れ難いのは、この時から昂然と頭に何もつけず、悠然と街を歩いても何の罵りを浴びることは無くなったことだ。弁髪の無い旧友も何名か田舎から出てきて、会うや否や毛の無い頭をなぜ、心底から笑いだし:ははは遂にこの日がやってきた、と言いあった。
 『誰かが私に革命の功徳を頌し「憤懣をはらせ」と求めるなら、何はともあれ、弁髪を切ったことだ、と言いたい』

訳者雑感:習近平主席の南巡は、乾隆南巡とトウ小平南巡が念頭にあったのだろうか。
乾隆・トウ小平の南巡に習い、それに近づこうとしたものか。江沢民氏や胡錦濤氏が南巡したことはあまり聞かない。トウ小平氏の南巡から余り時間が経っていないためか、或いは師をまねるのを遠慮したためか。習氏は後ろ盾が無いといわれているから、それを求めて南巡という先例に習ったものだろうか? 
 魯迅はこの文章で、学生に早まって弁髪を切るなと諭している。秋瑾を尊敬して「薬」などの作品に彼女をモデルにしているが、ここでは秋瑾小姐と呼んでいるのはどうしてだろう。彼女は結婚2人の子をもうけたが、その後離婚して日本に留学し、革命運動に身を投じたが、時機に会わず、捕えられて処刑された。魯迅は尊敬をしながらも、機を誤ってつかまって頭を切られてはどうしようもないとして、学生たちに弁髪を切るのを断念させたのだ。秋瑾女士と言わずに小姐と呼ぶのは唐突にみえるが、意味する所があるのだろう。
      2014/01/18記

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病後雑談の余2

病後雑談の余2
2.
 だが兪正燮の頌した清朝の功徳は、当然のことといわねばならない。彼は乾隆40年に生まれ、壮年から晩年に至る頃は文字の獄の血の跡はすでに消え失せ、満州人の残酷な炎はもう緩和し、愚民政策は早々に集大成され、剰じたのは「功徳」だけだった。当時の禁書は、彼は必ずしも見ていないと思う。今、ほかの事はいわず、単に雍正乾隆両朝の中国人の著作への手口を見れば、驚天動地、魂を揺さぶるに十分だ。(版木を)すべて焼却し、一部を選んで焼却、抉る・けずるのたぐいは今触れない。最も陰険なのは古書の内容を改ざんしたことだ。乾隆朝の編纂した「四庫全書」は多くの人が一代の盛業と頌すが、彼らは古書の格式をむちゃくちゃにしたのみならず、古人の文章も修正し:これを内廷に蔵しただけでなく、文風が比較的盛んな地域に頒布し、天下の士子に閲読させ、我々中国の作者の中に大変気骨のある人がいたことを永遠に感じさせなくしたことだ。(この2句はお上の命令で「永遠にその底細を見いだせなくさせた」に改めた)
 嘉慶道光以来、宋元版珍重の気風が徐々に盛んになり、乾隆帝の「聖慮」も悟りだされることなく、宋元本の影印本や校訂版の書が大量に出版され、これが当時の陰謀の馬脚を露わさせた。最初私を啓示したのは「琳琅秘室叢書」の2部の「茅亭客話」で、一つは宋の校訂本で、もう一つは四庫本だった。同じ本なのに、2冊の文章に常に違いがあり、且つまた必ず「華夷」に関した所だった。これはきっと四庫本が改ざんしたので:今宋の影本の「茅亭客話」も出されて鉄の証とするに十分だが、四庫本と対比しないと当時の陰謀を知るすべもない。「琳琅秘室叢書」は図書館で見たが、手元にはない。今買おうにも高すぎて実例を挙げられない。だが少し簡単な方法はある。
 最近続々出た「四部叢書続編」は新たな骨董書と言うべきだが、この中に満州の清朝が中国の著作を抹殺した案巻がある。例えば、宋洪邁の「客斎随筆」から「五筆」まで、宋刊本の影本と明活字本の影本で、張元済の跋では、その中の三条は清代の刻本にはない。
改ざんされたのはどんな内容の文章だったか?紙墨の浪費を惜しむから、ここでは一条だけ「客斎随筆」巻3の「北狄俘虜の苦」を摘録す。――
 『元魏が江陵を破り、全ての俘士民を奴隷とし、貴賤を問わず、蓋し北方の夷俗はみなこうなのだろう。靖康の後、金の捕虜になったものは、帝子王孫、官僚士族の家も尽く没して、奴婢となり、作務を供させられた。一人当たり月5斗の稗子を支給され、自ら舂いて米とし、一斗八升を得、それを干し飯とさせた:年に麻5把を支給し、それを紡いで衣服とさせた。この外には一銭一帛も得られず、男で紡ぐことができなければ、年中裸だった。虜はこれを哀れみ、炊事を担当させ、火をくべて暖をとることもさせたが、外に柴刈にでかけ、火辺に坐すと皮肉はすぐに脱落し、日ならずして死んでしまうのだ。唯、手に芸ある者、医者、刺繍工の類を喜び、普段は地上に車座にさせ、破れた蓆や蘆を下に敷かせ、客があると開宴し、音楽のうまいものに演奏させたが、酒が尽き、客が散じると、夫々元に戻り、旧に戻って車座で刺繍させ、その生死にまかせ、草芥の如くに扱った』
 清朝は只自分の残酷さを蔽うのにならず、金人に替って彼らの残酷さまでも掩飾した。
この一事からみても、兪正燮が金朝を仁君の列に入れるのは正しくないのが分かるし、彼らは宋朝の主と奴隷の区別を一掃し、一律に奴隷とし、自分が主になったに過ぎぬ事が分かる。但し、この校訂は清朝の書房の刻本を使ったもので、四庫本がこうなのかどうかは知らぬ。更に詮索しようとすれば、「四部叢刊続編」の旧抄本、宋の晁説之の「嵩山文集」の影印本がここにある。巻末の「負薪対」一篇と四庫本を対比すれば、一斑の実証が得られるゆえ、ここに数条摘録する。大抵は、削除してなければ、改訂されており、語意は全く異なり、まるで宋臣の晁説之がすでに、金人に戦慄してしまって、何も言えずに深く罪を得てはならぬと怖れているかのようである。(宋は金と戦争中であった:訳者注)
 旧抄本                  四庫本
 金賊は我が辺境の臣がだらしなく、      金人は我が辺境の地を騒がし、辺城の
  斥候も明ならず、遂に河北を突破し、     斥候は明ならず、遂に河北を長駆し、
  河東を占領せり。              河東に盤居す。
 孔子の春秋の大禁を犯し、          上下臣民の大恥なり。
   百騎を以て、虜の梟将をしりぞけ、     百騎を以て遼の梟将をしりぞけ、
  彼金賊は人の類に非ずといえども、       彼金人は強盛といえども、
  犬豚亦、瓦をふるえば、怖れるといい、    明確に威令を以て厳格に対応すれば、
  顧みてこれを恐れんや。          顧みてこれを恐れんや。
  (中略)

 この数条ですでに「賊」「虜」「犬羊」が忌避されているのが分かる:金人は淫掠というのも忌避:「夷狄」も忌避。但「中国」の2字も見られないのは、それが「夷狄」と対立するから、それが容易に種族思想を惹起するためか。
 ただ、この「嵩山文集」の抄本を作った人は、自分は改めず、読んだ人も改めず、旧文を残してくれたので、今日我々に晁氏の真面目を見せてくれ、今から言えば、大いに「憤懣をはら」させてくれる。
 清朝の考証学者は言った:「明人は古書を刻すのを好み、古書は亡んだ」と。彼らは妄りに校訂したためだ。この句をみて、私は思うのだが、清人は「四庫全書」を編纂して古書は亡んだ、と。彼らは旧式を妄りに変え、原文を改ざんしたから:今の人は古書に標点をつけ、古書は亡んだ。彼らは妄りに句点を付け、仏頭に糞を塗った:これは古書に対して、水火兵虫以外の三大厄である。

訳者雑感:清朝が自分と同じ民族といわれる女真の金が北宋を侵略したことを掩飾したというのは、興味深いことである。元が金を滅ぼし、南宋まで滅ぼした時の記述はどう変化したのだろうか。この点も魯迅が野史を読んで、紹介してくれていたらと思う。
 元が明に負けて、北に追い返された時の明の皇帝永楽帝は、万里長城を越えて蒙古に攻め込んだ最初の皇帝だと言われる。だが、もし明が衰退したときに、満州族ではなくて、モンゴル族がまた攻め込んできて、中国を支配したら、どうなっていただろうか?
金の悪口はそのまま残り、元のことを掩飾したに違いない。
 中国の古書は魯迅の指摘する様に、「水(洪水)火(焚書)兵(戦乱)虫(虫喰い)」の被害を受けて、多くの書物は散逸したが、仏僧によって日本に持ち出された物は大切に扱われ、4つの被害を蒙らずに残った。但し、中国の本体は、上記の天敵以外に、三大厄に会ったという。最初は水火・兵虫・につぐ三番目の厄かと思ったが、どうやら明人の刻本と、清人の「四庫全書」の編纂及び、今の人の「妄りにつけた句読点」を指すようだ。
 上海の有名な女優が戦前残した句読点はこうだ。「飲食男女人之性」と一切句点が無いのを「飲食男、女人之性也」とした。孟子の言葉だそうで、孟子の原文は「食色、性也」で、今の印刷本には点があるが、元々は無かっただろう。これの「現代文訳は飲食男女是人的本性」とあり英訳はEating and sex are human nature.だ。
女優の句点はEating and man are woman’s nature.となるようだ。
縦書きの積み木を重ねたような漢字文の面白さだ。
     2014/01/10記

 

 

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病後の雑談4


4.病中にこんな本を読むのはやはり気がめいる。だが数名の聡明な士大夫が、血溜まりの中から閑適を探しだしていることを知ることができた。例えば「蜀碧」は大変悲惨な本だが、序文の後に楽斎氏の批語に曰く:「古穆で魏晋間の人の筆意あり」と。
 これは真に大いなる本領である!その死のような鎮静は、また私の悶もんとした気持ちを明るくしてくれた。(古穆とは死の様な鎮静の意か、世説新語の如くに:訳者)
 私は本を置き、目を閉じ横になってこの本領を学ぶ法を考え、これと「君子厨房を遠ざく」の法とはまったく別で、この時、君子自身自ら厨房に入った為だと考えた。
瞑想の結果、二つの太極拳の技をあみだした。一つは、世事に対し「光を浮かべ、影を掠める」法で、随時忘却し、あまり了然とさせず、関心があるようで、余り深入りしない:
二つ目は現実に対し「聡を蔽い、明を塞ぐ」ようにし、麻痺した如く冷静で、感動や触発されぬようにし、まず努力して後に自然とそうなるようにする。一つ目は外聞がよくないが、二つ目は病を去り、延年長寿の秘訣で、古の儒者も忌まなかった。これは全て大道である。もう一つ軽快な小径があり:双方でウソをつきあい、自ら欺き、人を欺く法だ。
 いくつかの事は、言い換えれば余り適切でないから、君子は俗人がそれを「見破る」のを嫌い憎む。だが「君子厨房を遠ざく」は自ら欺き、人を欺く法で:君子は牛の肉を食わずにはおられぬのに、慈悲心から、牛の死を見るのに怖れおののき、見るに忍びないから、そこを去り、ビーフステーキが焼き上がるのを待ち、その後おもむろに咀嚼するのだ。
ビーフステーキに対しては決して「怖れおののく」ことはなく、彼の慈悲とも衝突しないので、安心して味わう。天性の趣に満ち、歯間に楊枝を使い、腹をさする。「万物はみな我が為に備われり」とする。互いにウソをつくのは決して雅を傷つけることではない。蘇軾先生は黄州で、客に鬼(幽霊)の話しをするよう求め、客ができないというと彼曰く:「妄言でもいいから」との言葉が今に至るも風雅な逸話として伝わっている。
 小さなウソをつくのは無聊解消と悶もんとした気持ちを晴らすことができ:後になると真実を忘れ、ウソを信じるようになるのも心安らぐ醍醐味で、天性の趣が満ちてくる。
永楽帝が強硬に皇帝になろうとしたのを、一部の士大夫はとても良くないと思った。特に彼が建文帝の忠臣を惨殺したことだ。景清と一緒に殺された中に、鉄鉉がいた。景清は皮剥ぎにされたが、鉄鉉は油で揚げられた。彼の二人の娘を教坊送りとし、娼婦にした。これが更に士大夫を不愉快にさせた。しかし後に二人は元の裁判官に詩を献じ、永楽帝の知るところとなり、赦免され、士人に嫁した。
 これは真に「曲終わり、雅を奏ず」で重い負坦を解き、天皇はさすが聖明と感じさせ、善人は最後には救われたとされた。彼女は官妓になったが、究極的には詩の上手な才女で、彼女の父親はまた大忠臣となり、夫になった士人も当然肩身が狭くなかった。但し、これは「光を浮かべ、影を掠める」を必ず守り、これ以上詮索してはいけない。詮索すると、永楽帝の上諭(詔勅)に想い到り、残虐猥雑となり、張献忠が梓潼神(道教の神)を祀った時の「私たちは張姓で、貴方も張姓だ。私たちの先祖と貴方の先祖は同宗である。
この饗(お供え)を受けよ!」という名文は、それに比べると真に高雅で西洋の一流雑誌に十分載せることができる。そうなると永楽帝はけっして才を愛し、弱者を憐れむ名君ではなくなる。況や、当時の教坊はどんな所だったか。罪人の妻女はそこでただ嫖客を待つだけでなく、永楽の定めた法に依れば、彼女等を「転営」させている。これは各兵営に何日間か行かせるのだ。目的は彼女等に大勢の男の凌辱を受けさせるためで、そして「女郎屋の小僧」や「女郎の予備軍」を産ませるためだ。従って現在問題になっている「守節」は、当時実は「良民」のみに与えた特典だった。このような治世の下で、またこんな地獄で、詩を作ることで生まれ変わることができたであろうか?
 私は今回、杭世駿の「訂訛類編」(続補巻上)で、この話が明らかな欺騙だと知った。

『呉人の範昌期の書いた「老妓の巻に題す」で、詩に云う:教坊に落籍し、鉛華を洗い、一片の春心、落花に対す。旧曲を聴けば、空しく恨みあり。故園帰りゆくも家無し。雲鬟(びん)半ば垂れて、青鏡に臨めば、雨のような涙はしきりに弾み、絳紗を湿らす。安んぞ、江州の司馬(白楽天)ありて、尊前に琵琶(行)を賦さん。
昌期、字は鳴鳳:詩は張士澮の「国朝文纂」にあり。同時代の杜瓊、字は用嘉に亦次女の韻詩あり、「無題」と題すが、鉄氏の作でないのは明らかだ。次女の詩に云う所の「春来たりて、雨露ふかきこと海の如く、劉郎に嫁し得たは、阮郎に勝り」はその論、不倫というべく。宗正睦欅は(2代目建文帝)廃立事件を論じた中で、建文帝が西南に流亡した際の諸々の詩はみな好事家の偽作といい、そうであれば、鉄の娘の詩もそうだと知れる…』

 私は「国朝文纂」を見ていないし、鉄氏の次女の詩は杭世駿もまだ出所を捜し出せていないが、彼の話は信じられる……彼は口伝の風流をぶち壊してしまったが。一つには彼は真面目な考証学者で、二つには凡そ大変味気の無い結果となってしまった考証は、往々にして、表面的に聞こえが良く、面白いものより真に近いと思うからである。
 範昌期の詩を最初に鉄氏の長女の作としてなぐさめに自ら欺き、人を欺いたのは誰か?私は知らない。だが、「光を浮かべ、影を掠む」でいいかげんにあしらうということであれば、それもそれで良いのだが。杭世駿に見破られたが最後、もう一度見ると、確かに老妓を詠んだ作であることは明らかだが、第一句は現役の官妓の口吻らしくない。だが中国の一部の士大夫はどうも無から有を生ずるのを愛し、花を接ぎ、木を接いで、物語を造り出すのが好きで、彼らは泰平な世を頌すのみではなく、暗黒を粉飾する。鉄氏の二女のデタラメなことは小さな事だが、大は胡元(蒙古族)が殺掠し、満清(満族)が屠殺した際にも、一部の人達は、単単と何某の烈女が自ら命を絶ったのを称賛し、殉難婦人のことを壁に題した詩句を持ちあげ、こちらで艶伝を作り、あちらで韻に和した詩を作り、華麗な邸宅が廃墟と化したこと、人々が塗炭の苦しみをなめた大事件よりも、ずっと熱を込めて書いている。結局この詩文集を刻したのも、自分たちも全員その中に入れ、風雅もこれにて決まり、という次第だ。
 こんなことを書いている中、私の病もすでに良くなり、遺書を書く必要も無くなった。だが、この際私は親しい友人に託し、将来私が死んだ後、たとえ中国でまだ追悼などを行える状態だとしても、絶対私の追悼会や何とか記念出版をしないように頼む。というのも、それは生きている人の講演や挽聯の競演会になるに過ぎず、人を驚かす為に新たに造語して、対聯をひねりだすために、嘘八百を平気で並べたてる文豪がいるからである。結果はせいぜい、一冊の本を印刷するだけで、たとえ誰かが読むとしても、死んだ私と生きている諸君にとって何の益もない。作者にとっても実は何の益もなく、挽聯はうまくできたとしても、うまくできたというだけのことだ。
 現在の意見として、私はもしそうした紙墨や白布(挽聯用の)を買うくらいなら、数部の明人、清人、或いは現代人の野史や筆記本を印刷するに如かずと思う。但し、真面目に取り組み、工夫をこらし、句読点を間違えないようにしてもらいたい。12月11日

訳者雑感:
 罪人の妻女は教坊に入れられた。教坊というのは広辞苑にも「唐代以降、朝廷の音楽・
歌舞の教習をつかさどった機関」とあるが、その後これが芸者屋、遊里に変じて行く。
明の永楽のころには、魯迅の指摘する様に、各所の兵営に出向いて多数の兵士に凌辱させることにあったという。それを「転営」という由。先の大戦で日本兵の兵営を「転営」させられた日本・韓国朝鮮の婦女たちはおびただしい数にのぼったし、中国の婦人も狩りだされた。日本でもアメリカ軍が進駐してきて、おびただしい数の婦女がそうさせられた。
 日本や中国では、占領支配されたら、婦女がそうされるという運命にあることを暗黙のうちに認めて来たようだが、韓国は少し事情が異なるかもしれない。強制連行という事。
親が売ったというのでなく、軍隊に非人道的に拉致されたというのだろう。日本軍はその筋の業者経由だった、としているが、どうだろうか。
 魯迅は死後、もし追悼会などという(平和時にしかできないことが)ものが開けるような状態であっても、そんなものは文豪たちの「競演会」にすぎぬから、やらないでくれ。
その代わりにその金で「野史」を印刷してくれと頼んでいる。だが実際はそうならなかった。やはり盛大な記念会が何回も開催され、全集が何回もだされ、ついには元の墓から遺体を掘り出して、現在の魯迅公園にある「魯迅の墓」に改葬された。遺体の昇格である。
   2013/12/30記

 

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病後の雑談3

3.
 清朝は一族皆殺しや、凌遅(手足など切り刻んで最後に喉で留めを指す)をしたが、皮を剥ぐ刑はせず、これは漢人が恥じるべきことだが、後に人口に膾炙した虐政は文字の獄だ。文字獄とはいえ、その実やはり多くの複雑な原因を含んでおり、ここで細説できない:我々は、今なおそれが流した害毒を受けており、それがたくさんの古人の著作の字句を削除改竄し、明清人の多くの本を発禁した。
「安龍逸史」も多分一種の禁書で、私が入手したのは呉興劉氏の嘉業堂の新刻本だ。彼が刻した前清(辛亥革命後の清の呼称)の禁書はこれのみに留まらず、屈大均の「翁山文外」も有り:更には蔡顕の「閑漁閑閑録」も有る。作者はこの為「斬(首切)即決」され、門下生にも累が及び、私が丹念に調べたところ、何ら忌諱(忌むべきこと)に触れる物は見いだせなかった。こうした刻書家には、私は大変感激している。彼が私に多くの知識を与えてくれるからだ――雅人から見たら只の凡俗な知識にすぎないだろう。しかし嘉業堂で本を買うのは真に難しい。まだ覚えているが、今年の春の午後、やっと愛文路で見つけて、大きな鉄の両開きの門を数回叩くと、小さな四角い小窓が開き、中国人の門番と中国人の巡査と白系ロシア人の用心棒がいた。巡査は何の用だと言った。本を買いに来たのだと答えたら、番頭が外出中で、誰もいないから明日出直して来いと。遠くから来たので、待っていたいがというと、彼はダメだと言った。と同時にその小窓を閉じた。二日後また行った。午前中なら番頭もいるだろうと思った。が、今度の答えは更に絶望的で、巡査曰く:「本はもう無い。売り切れた。売り切れだ!」私はもう三度目はあきらめた。とりつく島も無い応対だったからだ。今手元にあるのは、友だちに託して買ったものだ。よく知っている人か、常連以外は買えぬようだ。
 どの本の末尾にも嘉業堂主人劉承干氏の跋があり、彼は明末の遺老にとても同情し、清初の文字の禍に頗る不満である。しかし奇怪なのは、彼自身の文章は前清の遺老の口吻に満ちていて:本は民国になってから刻したのだが、「儀」の字は最後を欠いている。(溥儀)
思うに、明の遺老の著作を試しに読んでみると、清朝への反抗の趣旨は、異民族が中華の主になったことで、朝代が交代したのは二の次であった。従って、明末の遺老を尊嵩しようとするなら、彼らの民族思想を受け入れてこそ、心から通じ合えるものだ。今明の遺老の仇である満州族の清の遺老と自認するのは、却って明の遺老を引き合いに同調するのは、只単に「遺老」の2字に重点を置くだけのことで、何族の遺で、何時どんな時に遺になったかも問わぬのは、真に「遺老を以て遺老」だと称しているだけだと言え、今日の文壇の「芸術の為の芸術」と絶好の対になっている。
 これを以て「古を食し、化さず」のためだとみなすのは間違っている。中国の士大夫は化すべき時に、かならずしも化さないのだ。上述の「蜀亀鑑」の如く、元々一部の筆法歯「春秋」を摸したようだが、「聖祖仁皇帝、康熙元年正月」と書いて、続けて「賛じて」言うに、『… 明末の乱甚だしき矣!風は<豳(ひん)>に終わり、雅は<召旻(びん)>に終わり、乱極まりて、隠憂に託すが、その実事なく、臣の祖が親しく観ると、臣が自らこれを蒙りたると、いずれぞや?是元年正月を以て終わる。終わるにおいて、いたずらに体は元(気)、表は(万邦を)正し、蔑してこれに加えるにあらず。生きて盛世にあい、蕩蕩として名をつけがたく、一に以て世を没するまで忘れる事なき恩を寄せ、一に以て太平の業の由りて始まるを見る!』と。
 「春秋」にこんな筆法はない。満州族の粛親王の一箭(矢)は、張献忠を射殺しただけでなく、多くの読書人を感化し、さらには「春秋の筆法」まで変えてしまった。

訳者雑感:禁書を新たに刻した書店は、中国人の巡査と白系ロシア人の用心棒を雇わねばならなかったのであろう。一つには中国人の「ごろつき」がいちゃもんをつけにくるのは、中国人の巡査が追い返し、租界の警官などが手入れに来たら、白系ロシア人が阻止する。そこまで用心しないと、滅茶苦茶にされてしまったのだろう。
 それにつけても、明の遺老の残した文章を刻した主人も、自らは清の遺老の口吻というのは、満州族に強制された辮髪を最後まで切らず、それにしがみつきながら、明清の禁書を出す、という矛盾に満ちたものであったに違いない。そこには、民国はダメで、やはり元の清朝が良かったとする、ノスタルジーに過ぎない。遺老は「昔は良かった」と言いながら世を没するのである。
   2013/12/24記
    

 

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病後の雑談2

2.
 「雅」の為、もともとこんな話はしたくなかった。後で考えたら、これでは「雅」は無傷で、自分の「俗」を証明したに過ぎない。王夷甫(晋人)は金のことを口にしなかったが、やはり薄汚れた人物で、雅な人は算盤をはじいてもその雅さを損なわない。だが時には算盤をしまい、或いは暫時それを忘れるのが一番で、それならその時の一言一笑は全て霊機天成(インスピレーション)であり、世間的な利害を忘れられないなら、それは「ヨイショヨイショ派」になってしまう。この重要な鍵は、一つには放るだすことができるか、もう一つはいつまでも執着するかで、雅俗の高低が区分できる。思うに、これは「敦倫」(旧時、夫婦間の性交)は聖賢たるを失わぬが、白昼も女人を想うは「登徒子」(好色)と称す、というのと大体同じだ。
 従って私は多分自分が「俗」だと認めるしかなく、気ままに「世説新語」をめくり、「娵隅躍清池」(蛮語で魚を娵隅といい、魚が跳びはねた句)を見た時、「療養」の最中に絶対「療養費」のことを考えるべきではないのに、すっくと起き上がり、印税と原稿料催促の手紙を書いた。書き終えて魏晋の人との隔たりを感じ、もしも今、阮嗣宗や陶淵明が目の前に現れたら、我々は話しがかみあわないだろうなと思った。それで他の本を取り出して、大抵は明末清初の野史で、時代が近く興趣もあると思った。手にした1冊目は「蜀碧」だ。
 これは蜀賓(許欽文の筆名)が成都から送ってくれた本で、もう1冊は「蜀亀鑑」で、いずれも張献忠が蜀に禍をもたらしたことを講じているが、四川人のみならず、凡そ中国人たるもの、読むべき作品だが、印刻がとても悪く、誤植も多い。一読して3巻目にこんなくだりがある――
 『また、皮を剥ぐのは頭から尻へ一裂きにし、前に張り広げ、鳥が羽を広げたようにし、大抵は翌日になって息絶えた。即死すると獄吏が死刑にされた』
 この時、自分も病気のせいか、人体解剖を思い浮かべた。医術と残虐な刑は生理学と解剖学の知識が要る。中国は実に奇怪な国で、固有の医書に人身五臓図があるが、真にデタラメな間違いが多く、みられた代物ではないが、残虐刑の方法となると、往々古人は早くから現代的科学を理解していいたかの如くだ。例えば、誰もが知っている周から漢にかけて、男に施された「宮刑」また「腐刑」ともいうが、「大辟」(死刑)の一つ下である。
女には「幽閉」(槌で女性器を叩いて塞ぐ)があり、これまで余りその方法を示した者はいないが、要するに彼女を閉じ込めるとか、そこを縫うのでもない。近時、私によってその大まかな状況が調べ出されたようだが、その方法の凶悪さと妥当性は、殆ど解剖学に合致しており、真に私もびっくり驚愕させられた。だが、婦人科の医書はどうか?女性の下半身の解剖学的構造は殆ど分かっておらず、彼らはただ腹部を一つの大きな袋のようにして、中にとても奇妙なものを内装している。
 皮剥ぎ法一つとっても、中国には色々のやり方がある。上述のは、張献忠式で:孫可望式もあり、屈大均の「安龍逸史」にあり、これも今回の病中に読んだ。それは永暦6年、即ち、清の順治9年で、永暦帝はもう安隆(その時に安龍に改名)に身を逃れていたが、秦王の孫可望は陳邦伝父子を殺すと、御史李如月は彼をすぐ弾劾して「勲ある将をほしいままに殺し、人臣の礼にもとる」としたが、皇帝は却って如月を40回の板叩きの刑にした。
しかし事はこれで終わらず、孫党の張応科にこれを知らせ、彼は孫可望に報告した。
  『可望は応科の報告を得、即、如月を殺すよう応科に命じ、皮を剥いで衆に示せと。
それで、俄かに如月を縛り、朝門に到り、石灰一籠と稲草一梱を負う者がその前に置いた。如月は問うた「これは何に使うのか」その人答えて「お前に詰める草だ!」如月は叱咤して曰く:「節穴め!この一株一株が文章で、一節一節は忠の腸だ!」すでに応科は右角の門の階段に立ち、可望の令旨を手にし、如月に跪くように怒鳴った。如月、叱咤して曰く:「私は朝廷から任命された官ぞ。あに賊の令に跪かんや!」と言って中間まで歩いてゆき、闕に向って再拝。……応科は令を促し、地にうつ伏せにさせ、背を剥ぎ、尻に及び、如月は大声をあげて叫び「死ねばすっきりし、全身は清涼な気持ちになる!」また可望を名指しし、大いに罵って息絶えることはなかった。手足切断に及び、前胸に転じたが、猶微声にて罵倒し続けた:首まできて、息絶えて死んだ。ついで石灰に漬け、糸で縫って、草を入れ、北の城門通衢閣に移し、これを懸け…… 』
 張献忠のは、無論「流賊」式で:孫可望も流賊の出とはいえ、この時すでに明を保ち、清に抗する柱石として秦王に封ぜられ、後に満州に降じたが、また義王に封じられたから、彼の使った方法は、実は官式だ。明初、永楽帝が建文帝に忠義を尽くしたあの景清の皮を剥いだのもこの方法だった。大明朝は、皮剥ぎに始まり、皮剥ぎで終わったが、始終不変で:今でも紹興の戯文や田舎の人の口からまだ偶然に「皮を剥いで草を詰める」という話しを聞くことがあるが、皇帝の恵みの大きさを伺い知ることができる。
 真に慈悲心のある人は、野史を見たくない、故事を聞きたくないのも何の不思議もない:
ああした事件は人の世の事とも思えず、身の毛がよだち、心が傷つき、長いこと癒えない。
残酷な事実が尽きることが無いから。聞かぬが一番で、それで精神が保全できる。これは「君子厨房を遠避く」の意味と同じだ。滅亡より少し前の晩明の名家のしゃれた小品は今盛んで、実に縁も故もなしとは言えぬ。だがこの種の心地よい雅の致はまた良好な境遇を持っていなければならず、李如月が地にうつ伏せになり、「背を剥がれ」、顔は下を向いて、読書しているごとき良い姿勢だが、この時、彼に袁中郎の「広荘」を読ませたら、彼はきっと読みたくなかったと思う。この時、彼の性霊は抜け殻となっていて、真の文芸は分からなくなっていたと思う。
 しかし、中国の士大夫は、何と言っても最後のところでは雅気があり、例えば李如月の言う「一株一株は文章、一節一節は忠の腸」とは、大変詩趣に富む。死に臨んで詩を作るのは、古今来、どれほどあるか知らぬ。近代には潭嗣同が刑に臨む前「閉門し轄(くさび)を投じ、張の顔を思う」という一絶を作り、秋瑾女士も「秋風秋雨、人を愁殺す」の句あるが、雅の点で格に会わず、詩選集に入れられず、売れることはなかった。

訳者雑感:明の時代の初めの永楽帝が甥の第2代皇帝建文帝を殺し、第3代皇帝となる際、
前帝に忠義を尽くした景清を「皮剥ぎ」の刑にし、滅亡時の時も同じ方法で忠臣を殺した。
この辺の残虐な刑は衆に示す為のもので、これをしないと衆は恩義ある皇帝とその取り巻きがまだ生きていて、復活してきて、今の残虐な皇帝に復讐してくれると信じることの無いように、との懸念を払しょくする為だろう。
 今月、北朝鮮で起こった第3代目の金氏が、叔母の夫を「ありとあらゆる罪状をつけて」テレビで放映する中、手錠をかけて、大きな男にひきずり出し、裁判の翌日機関銃で死刑にした、と報じた。張氏は2代目の姉の夫で、血のつながりはないが、彼は2代目の長男金正男を担いで、今の3代目の首を挿げ替えようとした、と報じられている。
永楽帝のは、1402年のこと、600年後の2013年も同じ恐怖残虐政治が起こるのは何故だろう?進歩が無い。テレビで放映するのは、城門に曝し首するより残虐だ。
    2013/12/21記

 

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