忍者ブログ

日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

現在、新しいコメントを受け付けない設定になっています。

徐懋庸に答え併せ抗日統一戦線問題について

徐懋庸に答え併せ抗日統一戦線問題について
魯迅様:
 御病気は快癒されたでしょうか?心配しております。先生がご病気されてから、文芸界のもめごとが加わり、私は先生から親しくお話を伺う事ができなくなり、いつもそれを思うと悲しくなります。
 私は今、生活が苦しく、体調も悪く、上海を離れざるを得ず、田舎で少しお金になる編訳などして、また戻ってこようと考えております。この機会に暫く上海「文壇」の局外者となり、いろんな問題を仔細に考えたら、或いは良く分かる様になるかもしれません。
 最近、先生のこの半年の言動が、無意識に悪い傾向を助長しているように感じます。胡風のまやかしや、黄源のへつらいなどについて、先生は細かく観察されず、永遠に彼らの私物とされ、群衆を幻惑し、偶像のようにされ、彼らの野心から起きた分離運動は遂に達せられると、収拾がつかなくなってしまいます。胡風たちの行動は明らかに私心から出た物で、極端なセクト活動で、彼らの理論は前後矛盾し、間違いだらけです。「民族革命戦争の大衆文学」のスローガンのように、当初は元来、胡風の提示した「国防文学」と対立関係だったのですが、後に一つは総合的であり、もう一つは付属的だとし、その後もう一つは左翼文学の発展が現段階とのスローガンでぐらついており、先生も又彼らに替ってその説を整合させられないでしょう。彼らの言動に打撃を加えるのは元々極めて容易ですが、いたずらに先生を彼らの後ろ盾にしてしまうと、先生を尊敬せぬ人はいないから、実際に文で闘争して解決しようとすると大変困難だと感じます。
 先生の本意は十分理解しております。先生は只、統一戦線に参加する左翼の戦友が、元来の立場を放棄するのを心配しておられ、胡風たちが格好だけ左翼のようにふるまっているのを良いと思われているのです:だから彼らに賛同しているのです。しかし先生に申し上げたいのは、先生が現在の基本的政策に着いてご理解されていないからです。現在の統一戦線――中国のと全世界のは同じで――固よりプロレタリアが主体ですが、その主体になるのは、名義上のものではなく、特殊な地位と歴史的なものではなく、現実を正確に把握することと、闘争能力の大きさによるのです。従って客観的にプロレタリアが主体になるのは当然です。但し、主観的にプロレタリアはあからさまな徽章を掲げるべきではなく、只、特殊な資格を以て指導権を要求して、他の階層の戦友を逃げ出させてはいけません。だから今、聯合戦線で左翼のスローガンを出すのは間違いで、聯合戦線を危くさせます。先生が最近発表した「病中客に答える」は(民族革命戦争の大衆文学)はプロレタリア文学が今日に至る一つの発展だと説明されていますが、又これは統一戦線の総合的なスローガンにすべきだとされていますが、それは間違っています。
 再度「文芸家協会」に参加する「戦友」について、先生の心配されているように必ずしも個々に右傾堕落しているとは限りません:況や先生の左右に集っている「戦友」は巴金と黄源のような連中もいるわけですが、まさか「文芸家協会」に参加している人達が、個々には巴金や黄源に如かずとのお考えでしょうか?新聞雑誌でフランス・スペイン両国の「無政府主義者」の反動が、聯合戦線を破壊しているのは、トロツキー派と変わらないことを知っています。中国の「無政府主義者」の行為は更に卑劣だということを知っています。黄源は根本は無思想で、ただ、著名人の太鼓持ちです。以前彼は傅や鄭の門下で奔走していた頃のへつらいようときては、現在、先生に対する忠義と敬意と何ら変わりません。先生はこんな輩と一緒に多数の人と協力するのをいさぎよし、としないのは私には分かりません。
 かれらのしている事を見ずに、ただ人物だけを見るのは、この半年来の先生の間違いの原因だと思います。先生の人を見る目も正確ではありません。例えば私は個人的に多くの欠点がありますし、先生は私の文章がいい加減だとして大きな欠点だとされますが、これはおかしいと思います。(私がなぜ故意に「邱韻鐸」の三字を鄭振鐸と書きましょうか?まさか鄭振鐸は先生のお気に入りではないでしょうに)こんな小さなことで、一人の人間を千里の彼方に遠ざけるのは、本当に間違っていると思います。
 今日上海を離れるので、いろいろ忙しく長い手紙は書けませんが、もう書きすぎたでしょう。以上、先生を攻撃する意図など毛頭なく、実際、先生に細部に渡って各事情をお考えいただくことを希望しております。
摂訳「スターリン伝」はもうじき出版予定で、出ましたら一冊送りますのでご
覧いただき、原意と訳文について、御批評くださいますようお願いします。
 全快を祈っております。
       懋庸より   8月1日

 以上が徐懋庸からの手紙だが、彼の同意を得ずにここに公表す。文章は全て私への教訓と他人への攻撃で、公表しても彼の威厳を損なわぬし、又彼もきっとこれを公表するように書いたものだろうからだ。勿論、これから見てとれるのは:この発信者はいささか「悪劣」な青年だということ!
 が、私は要求があり:巴金、黄源、胡風の諸氏が徐懋庸を真似ないように望む。この手紙の中に彼らを攻撃する文章があるが、牙と眼で以て応じると、彼の詭計にはまってしまうからだ。今、国難の際に、昼には格好のいい話をして、夜に籬間行為をし、挑発分裂のペテンを弄するのはまさしくこうした輩ではないか?この手紙は計画的で、彼らは「文芸家協会」に加入せぬ人に新たな挑発をして、彼らの応戦を狙い、その時君たちに「聯合戦線の破壊者」の罪名を被せ、「漢奸」の罪名を着せる。しかし我々は違う。我々は決して筆峰を専ら彼ら数人の個人に向けるのではないし、「先に内を安んじ、後に外を攘う」というのは我々のやり方ではない。
 だが、ここで一言言いたい。まず抗日統一戦線への私の態度だ。私はこれまで色んな所で述べているが、徐懋庸等は読もうともしないようで、逆に咬みついてきて、私をどうしても「統一戦線破壊者」にしようとし、「現在の基本政策が分かっていない」と教戒する。徐懋庸たちがどんな「基本政策」を持っているのか、私は知らない。(彼らの基本政策とは私に何度も咬みつくことではないか?)然し中国は今、革命政党が『全国人民向けに提出した抗日統一戦線の政策は、私はそれを読んだが、それを擁護するものだ。私は無条件でこの戦線に参加する。理由は私が単に作家であるだけでなく、一個の中国人だからだ』
(訳者注:『 』内の字は○印つき。以下同じ)この政策はたいへん正しいから私はこの統一戦線に参加する。無論わたしが使うのはペンで、文章を書くこと、翻訳で、このペンが使い物にならなくなったら、私自身、自信を持って他の武器を使うのは、徐懋庸等の輩には劣らないと言える!
 その次は文芸界の統一戦線に対する態度だ。『私は全ての文学家、如何なる派の文学家でも抗日スローガンの下で統一をという主張に賛成する』私もかつてこういう統一団体を組織することへの意見を述べたが、それは当然ながら所謂「リーダー」たちに切り捨てられ、逆に天上から落ちて来たように、「統一戦線破壊」の罪を着せられた。それで私を暫時「文芸家協会」に参加させなかった。私は彼らがどんな芸当を見せてくれるか少し待ってみることにした:当時実際そのような「リーダー」自称者及び徐懋庸的青年に疑念を覚え、私の経験では、表づらは「革命」の顔をしながら、他の人を「内奸」とか「反革命」「トロツキー」「漢奸」と陥れるまっとうでない連中だからだ:彼らは巧妙に革命的な民族の力を切り捨て、革命的大衆の利益を顧みず、ただ革命の名を借りて私利を営み、正直私は彼らが敵から派遣されたのではないかと疑いもした。思うに私は無益なリスクは避け、彼らの指揮には従わぬようにした。無論結局は事実が彼等の正体を証明するから、彼らがどんな連中か断言したくないが、彼らが真に革命と民族に志があるなら、目論見が正しくなく、観念が正確でなく、やり方がへただというに過ぎぬなら、彼等は実際自ら改める必要があると思った。私は「文芸家協会」への態度は、それが抗日作家団体を考え、その中に徐懋庸的な人がいても、新しい人もいるが:「文芸家協会」があるから文芸界の統一戦線が成立したとは考えられぬ。全ての会派の文芸家が一丸となるには、まだまだ時間がかかると思う。理由は「文芸家協会」がまだ非常に濃厚なセクト主義と同業組合的な状態だからだ。他は見なくても、只その規定を見ただけで、加入者の資格も大変厳しく制限し:会員は入会金1元、年会費2元で「作家閥」を示そうという傾向があり、抗日「人民式」ではない。理論上「文学界」の創刊号に発表された「聯合問題」と「国防文学」の文章は基本的にセクト主義的で:一人の作者が私が1930年に話した事を引用し、そういう話を出発点とし、その為、口では如何なる会派の作家も聯合云々と言いながら、やはり自ら加入制限と条件の設定を願っている。これは作者が時代を忘れたためだ。私は文芸家は抗日問題で聯合するのは無条件で良いと思うし、漢奸でなくて抗日を願い賛成するなら、恋愛ものや、古典派或いは才子佳人小説の作者も構わないと思う。但し、文学問題で我々はやはり互いに批判はできる。この作者は又、フランスの人民戦線を引用しているが、それは作者が国度を忘れていると思う。我々の抗日統一戦線はフランスの人民戦線よりずっと広範なのだから。別の作者は「国防文学」を解釈して「国防文学」は正確な制作方法を持たねばならず、又現在「国防文学」でなければ「漢奸文学」だと言い、「国防文学」というスローガンで、作家を統一しようとし、まず「漢奸文学」の名を準備し、後に他の人を批判する為に使っている。これは実に出色のセクト主義の理論だ。私は:作家は「抗日」の旗の下、或いは「国防」の旗の下で聯合しようというべきで:作家は「国防文学」のスローガンで聯合しようとは言えぬと思う。何名かの作家は「国防を主題」とした作品を書けず、やはり各方面から抗日の聯合戦線に参加するので:たとえ彼が私と同じように「文芸家協会」に加入せずとも、「漢奸」とは限らぬからだ。「国防文学」は全ての文学を包括できない。理由は「国防文学」と「漢奸文学」以外に、前者でも後者でもない文学があるからで、彼等の本領で「紅楼夢」「子夜」「阿Q正伝」が「国防文学」か「漢奸文学」か証明できるなら別だが。こうした文学は存在し、ただそれが杜衡、韓侍桁、楊邨人達のような「第3種文学」ではない。この為郭沫若氏の「国防文芸は広義の愛国主義文学」で「国防文芸は作家関係間の標識で、作品は原則上、その標識ではない」という意見に同意する。私は「文芸家協会」は理論面と行動面のセクト主義と同業組合の現象を克服すべきで、制限を緩くして、同時に所謂「リーダーシップ」を本当に真剣に仕事をしている作家と青年の手に移し、徐懋庸のような連中が一手に請け負うことのないようにと提案する。私個人が加入するかどうかは大した問題ではない。
 次に私と「民族革命戦争の大衆文学」というスローガンとの関係について。徐懋庸たちのセクト主義はこのスローガンに対する態度にも現れている。実に彼等のセクトがこんな風にまでなってしまったのは理解できない。「民族革命戦争の大衆文学」というスローガンは「漢奸」のそれではないし、抗日の力であるのに:なぜこれが「標新立異」(新しいことを標榜して異を立てる)なのか?諸兄はどうしてこれが「国防文学」と対立すると思うのか。友軍の新たな力を拒み、こっそり抗日の力を謀殺するのは、諸兄自身この種の「白衣秀士」(水滸伝中の人物)の王倫よりも気量が狭いのだ。抗日戦線ではどの様な抗日の力も歓迎すべきで、同時に文学でも各人が新しい意見を出して討論すれば、「標新立異」など恐ろしくも無いと思う:これは商人の専売とは異なり、且つ又事実上諸兄が先に提出した「国防文学」のスローガンも、南京政府や「ソビエト」政府に登録していない。但し今の文壇はどうやら「国防文学」牌と「民族革命戦争大衆文学」牌の二つがあるようで、この責任は徐懋庸が負うべきで、私が病気中に来訪者に答えた一文では彼等をふたつとは考えていなかった。当然私は「民族革命戦争大衆文学」というスローガンに誤りのないことと「国防文学」との関係について述べねばならぬ。まず先に前者のスローガンは胡風が出したものではなく、胡風が文章を書いたのは事実だが、それは私が彼に頼んだ物で、彼の文章の解釈が曖昧なのも事実だ。このスローガンも私一人の「標新立異」ではなく、数名の人達で相談した物で、茅盾氏も参加した一人だ。郭沫若氏は遠い日本で監視されており、手紙での相談もできなかった。残念ながら徐懋庸
に参加要請しなかった。が、問題はこのスローガンが誰から出されたかではなく、それが間違っているか否かにある。それがプロレタリア革命文学の左翼作家たちが抗日の民族革命戦争の前線に向かうように推進し、それが「国防文学」という名の本体の文学思想的意義の不明確さを救い、以て「国防文学」と言う名の不正確な意見を糾正しようとし、又そうした理由から提出されたのなら、それは正当で正確だ。人が地に足を付けて考えず、少し頭をひねって、任意に
「標新立異」だと片づけられぬのである。「民族革命戦争大衆文学」という名詞は本来「国防文学」という名詞より意義が明確で、より深い内容を持っている。「民族革命戦争大衆文学」は、主に前進的な左翼作家に対して提唱されたもので、これらの作家たちが努力して前進し、この意味から聯合戦線を推進している現在、徐懋庸がこういうスローガンを提出できぬというのはおかしな事だ!「民族革命戦争大衆文学」も一般の或いは各派の作家に対して提唱できるし、希望できる。彼等も努力して前進するよう希望する。この意味から一般の或いは各派の作家に対してこの様なスローガンを提起できぬというのもおかしな話だ!但しこれは抗日統一戦線の基準ではないし、徐懋庸が私に言うように「これを統一戦線の総スローガンとすべきだ」などというのか更におかしな事だ!徐懋庸に対して本当に私の文章を読んだか否か訊きたい! 人々は私の文章を読んで、もし徐懋庸たちの「国防文学」のようなセクト的にこのスローガンを解釈しないで、聶紺弩等のような間違いをしなければ、このスローガンとセクト主義や排他主義とは何の関係も無い。ここでの「大衆」は「群衆」「民衆」の意味に解釈するのも可で、況や現在では当然「人民大衆」の意味があり、私はこの「国防文学」は我々の目下の文学運動の具体的なスローガンの一つで「国防文学」と言うスローガンは頗る通俗的で、すでに大変多くの人が聞き慣れており、それは我々の政治的・文学的な影響を拡大できる。更に作家が国防の旗の下で聯合でき、広義の愛国主義的文学となれるためだ。それ故、かつてそれは不正確に解釈されたとはいえ、それ自身の含意に欠陥はあるが、やはり存在すべきで、その存在が抗日運動に有益だからだ。この2つのスローガンの併存は辛人氏のように「時期性」と「時候性」などと言わなくてもいいと思う。人々が各種の制限を「民族革命戦争大衆文学」に加えるのに賛成しない。「国防文学」の提起が先だとするなら、それが正統だとするなら、正統権を正統な人達に譲って構わない。問題はスローガンにはない。実際に行う事だから:スローガンをどんなに叫び、正統性を争っても、固より「文章」を書き、原稿料を取り、生計をたてるのだが、それはいずれにせよ長く続けることはできない。
 最期に私個人の事を少し書きたい。徐懋庸は私のこの半年の言行が劣悪な傾向を助長しているという。私はこの半年の言行を検査した。言としては、4-5篇の文章を発表し、その他はせいぜい来訪者と少し閑談したのと、医者に病状を報告した程度で、行は多少あり、版画集を2冊、雑感集1冊を出し、「死せる魂」の数章を翻訳し、3か月の病中に署名1回したのみで、これ以外、下等妓楼や賭博場に行ったことも無く、何の会議にも出ていない。私がどの様に助長したのか、どんな劣悪な傾向を助長したのか訳が分からない。まさか私が病気をしたせいなのか?私が病気になって死ななかったこと以外、思いつくのは只一つ:私が病気の為に徐懋庸のような劣悪な傾向の連中と戦わなかったことか? 
 その次は、私と胡風、巴金、黄源諸氏との関係だ。彼等とは最近知り合ったばかりで、皆文学の仕事での関係で、交友関係と称す迄には至っていないが、友人とは言える。何ら確固とした証拠も出せないのに、むやみやたらに私の友人を「内通者」とか「卑劣」者との中傷に対して、反駁せねばならない。これは私の交友の道義というだけでなく、人を見、事を見た上の結果だ。徐懋庸は私が人を見ただけで、物事を見ていないというのは、無罪の人を中傷して、罪をかぶせるもので、私は些か物事を見、しかる後、徐懋庸らの類の人物を見るのだ。胡風はこれまで余り知らなかったが、去年のある日、ある名士が私と話したいというのでそこに着いたら、自動車がやって来て、中から4人の男が飛びだしてきた:田漢、周起応と他の2人で皆洋服を着て、尊大な態度で、特に私に通知する為に来たと言った:胡風は「内通者」で官憲の犬だ、と。証拠はと訊くと、転向した後の穆木天の口から聞いた、という。転向者の言葉は左聯に来ると、聖旨になるのかと私は開いた口がふさがらなかった。何度か押し問答の末、私の答えは:証拠が極めて薄弱故、私は信じない!で、その時は不愉快な状態で分かれたが、後に又胡風は「内通者」だと聞いた。が、奇妙なのはその後のタブロイド紙で、胡風を攻撃するたびに、往々私を引き合いに出し、或いは私のことから胡風に及ぶようになった。最近は「現実文学」がO.V.筆録の私の主張を発表して以降、「社会日報」はO.V.は胡風で、筆録も私の本意とは合致していないと言ったり、少し前には周文のように、傅東華に対し私の小説を改削したことに抗議した時、同紙もまた背後にいるのは私と胡風だと言った。最も陰険なのは同紙が去年冬から今年の春に、ギザギザで囲んだ重要記事で、私が南京に投降しようとしているとして、間で動いているのは胡風で、早まるか遅れるかは彼の腕しだいだ、と。又自分以外のことも見た:ある青年が「内通者」と言われ、その為に全ての友人が彼から離れて行き、ついに街で流浪し、帰るところも無くなって、逮捕され毒殺されたではないか?またある青年も同じく「内通者」と中傷されたにも拘わらず、英雄は戦闘に参加した為に蘇州の獄中で生死不明の状態ではないか?この二人の青年は、穆木天などのように、立派な懺悔文も無く、田漢のように南京で大きな芝居を演じたことも無いのを事実で以て証明している。それと同時に私は人をも見ている;よしんば胡風が信用ならないとしても、私という人間に対して私自身は信用できるから、私は決して胡風を間にして南京と条件を講じたことなど無い。それ故、私は胡風が剛直で人の怨みを招きやすいが、近づきになっても良い人間だと分かった。
周起応のような連中は軽がるしく人を中傷する青年で、逆に懐疑し憎悪するようになった。無論周起応にも彼なりの長所もあるだろう。将来はきっともうこんな事はせずに、真の革命者になりだろう:胡風も短所があり、神経質で細かすぎ、理論的に些か拘泥する傾向もあり、文字の大衆化を受け入れないが、彼は明らかに有為の青年だ。彼は如何なる抗日運動や統一戦線にも反対したことは無い。これはたとえ徐懋庸の輩が智恵を絞っても抹殺することはできない。
 黄源は向上心のある真面目な訳述者で「訳文」という確かな雑誌と他の数種の訳書がその証だ。巴金は情熱的進歩的な作家で、好作家と数えられる人で、固より「アナーキー」の称もあるが、我々の運動には反対せず、かつて文芸関係者の連名の戦闘宣言に名を連ねたことがある。黄源も署名した。この様な訳者と作家が抗日統一戦線に参加しようとするのは歓迎だ。私は本当に徐懋庸の類がなぜ彼等を「卑劣」というのか分からない。まさか「訳文」の存在が目ざわりなのか?スペインの「アナーキー」が革命を破壊したことすら巴金が責任を取るべきだとでもいうのか?
 また中国は近来すでに普通にあることだが、実は「助長」するだけでなく、却って正に「劣悪な傾向」だが、何の証拠も無く、とてもひどい悪名を加える。
例えば、徐懋庸が胡風は「ペテン師」とか黄源は「おべっか」という。田漢・周起応たちは胡風を「内通者」というが、実際はそうではない。彼等の頭がどうかしているのだ:また胡風が「内通者」のふりをして、彼等にデタラメを言われたわけではない。「社会日報」は胡風が私を転向させようとしていると言ったが、私は今もって転向していないし、投稿者が故意に陥れようとしているからで、胡風は決して私を騙して引っぱろうともしていないし、実際引っぱってもいないが、それで以て記者にデマを書かせたのでもない。胡風は決して「愛すべき左翼」でもないが、私は彼の私敵にとっては実に「左でおそろしい」存在だと思う。黄源は私を持ちあげる文章を書いた事も無く。私の伝記を書いたことも無い。専ら月刊誌を出しているだけだが、責任感が頗る強く、世評も悪くないのに、どうして「おべっか」で、また私に「忠節をつくす」などといえようか?まさか「訳文」が私の物だとでもいうのか?黄源が「傅・鄭たちの下で奔走していた時、おべっかの顔たったというが、徐懋庸は多分御託宣を受けたのだろうか、私は知らないし、見たことも無い。私と往還していた時も「おべっか顔」は見たことが無い。徐懋庸は一度も一緒にいたことも無いのに、何を根拠に彼が傅・鄭たちの下でおべっかだった時と「変わらぬ」と断定するのか知らない。これについては私は証人となれる。実際に何も見ていない徐懋庸が、その場にいた私に対してどうしてこんな出まかせを言い、血を人に噴きつけるとは、横暴のやり放題もここに極まれりだ。これは「現在の基本政策」を「理解」している由縁だろうか?「世界中皆同じ」なのか?全く人を驚かせるのにも程がある。
 その実「現在の基本政策」は決してがんじがらめのような網ではない。「抗日」であれば戦友ではないか?「ごまかし」でも「おべっか」でも構わない。胡風の文字を撃滅する必要も無いし、黄源の「訳文」を打倒する必要も無い。まさかこれらがすべて「21カ条」と「文化侵略」とでもいうのか?まず最初に掃蕩すべきは、大旗を虎の皮のようにかぶって、人を驚かす輩だ;少しでも意の如くにならぬと、勢いに乗じて人に罪を着せ、それも大変厳しく横暴な連中だ。無論、戦線は成立させるべきだが、それは脅してできたに過ぎず、それでは戦えない。まずすでにこんな前車があるので、転覆の鬼は死ぬまで悟らず、今私の面前にいて、徐懋庸の肉体にまといついて現れた。
 左聯結成前後、所謂革命作家の一部は、没落した家のどら息子だった。彼も不満を抱き、反抗し戦ったが、往々、没落家族の嫁姑のいがみ合い、弟の兄嫁のいさかいを文壇に持ち込んだ物で、ぺちゃくちゃああでもないこうでもないと言うだけで、大局に着眼しなかった。この衣鉢は伝えられ絶えなかった。私と茅盾・郭沫若の二人については、一人は知っており、もう一人は面識はないし、また衝突もしていないし、かつて筆でそしりあったが、大きな戦いについては、同じ目標のために、決して四六時中怨念を抱くような事は無かった。然し、タブロイド紙は、魯は茅に比べてどうこうとか、郭は魯に対してどうとか、我々がその位置を宝のように争っていると書くのが好きなようである。例えば「死せる魂」は「訳文」停刊後、「世界文学」にも第一部が載ったが、タブロイド紙は「鄭振鐸が<死せる魂>を腰折させたとか、魯迅は怒って翻訳を辞めたとか書いた。その実、これは正に劣悪な傾向で、デマで文芸界の力を分散させ、「内通者」のやることだ。これも正に没落文学家の末路だ。
 徐懋庸もまさにぺちゃくちゃの作家で、タブロイド紙と関係あるが、末路にはまだ陥っていない。だが、すでにデタラメにすぎぬことがわかる。(でなければ横柄だ)例えば、手紙に:「彼等の言行に対し、打撃を与えるのは容易だが、先生を盾としておるので…実際にそれを解決する為の文章での戦いは大きな困難を感じる」という。そういうのは、修身面で、胡風ごまかしとか、彼の論文や黄源の「訳文」に打撃を与えようとするのか。――こんな事は何も急いで知る必要もないが:私の訊きたいのは何故私が彼等の友人であるということが、「打撃」に対して「大きな困難と感じる」のか?だ。デマで事を起こそうとするのに対して、私は決して巻き添えにはならない。だが、もし徐懋庸たちが、道理のある正論をいうなら、私は彼等を天下の目から覆い隠すことなど出来るわけが無い。しかも何が「実際の解決」なのか、流刑か首切りか?「統一戦線」の大名義の下、こんな風に人に罪をでっちあげ、威力権勢をほしいままにするのか?私は本当に「国防文学」が大きな作品を出すのを心から祈る。さもないとまたこの半年のように「劣悪な傾向を助長する」罪を着せられるから。
 最後に徐は私に「スターリン伝」をしっかり読んでくれと言っている。私はもし生きていたら確かにしっかり読んで勉強する。だが最後に彼自身もう一度しっかり読んでもらいたい。というのは、彼はこれを翻訳した時に何も会得していないようで、実に改めて精読の必要がある。でないと、一つの旗を掲げて、自分では人より先んじていると思っているようだが、奴隷の総監督にすぎず、鞭を鳴らすのが唯一のとりえで、――これを治す薬はないが、中国にとって、なんの役にも立たず、有害であるから。
      8月3日―6日

訳者雑感:魯迅ですらこのやっかいな文章を8月の暑い日に3日かけて書いた。人を罵り、人からも罵り返されたら、更に推敲をこらして反駁・罵しった。
それが晩年に至るまで、死に至るまで止むことは無かった。
 私はこの翻訳とタイプに10日以上費やした。(途中不在なためでもあったが)
ここに名があがっている、胡風とか田漢、それに巴金などは文革で問題にされた。いずれ彼等のことが、別の雑文にも登場するだろう。
     2014/11/18記
 

 

拍手[0回]

PR

コメント

お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

カレンダー

06 2024/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

フリーエリア

最新CM

[09/21 佐々木淳]
[09/21 サンディ]
[09/20 佐々木淳]
[08/05 サンディ]
[07/21 岩田 茂雄]

最新TB

プロフィール

HN:
山善
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R