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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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7月8日

 午前、伊東医師の所に歯の治療に行く。客間で待つ間、無聊だった。壁には織物の絵と2対の聯が掛っているだけ。一つは江朝宗ので、もう一つは王芝祥
の。署名の下にそれぞれ二つの印があり、一つは名前でもう一つは称号:江のは「迪威将軍」王のは「仏門弟子」とある。
午後Miss高来訪。おやつが切れていたので、大事に取っておいた「口角のおできに効く柿霜糖を皿に盛って出す他なし。普段はおやつがあり、客にはそれを出すのだが:当初はMissMr.は一視同仁だったので、Mr.はややもすると出したおやつを一つ残らず平らげてしまうので、私の方が少し不満に感じ、自分も食べたいなら又買いに行かねばならぬ。そこで戒めとして方針変更し、やむをえないときは落花生に代えた。これは大変有効で、そうは沢山食べられぬし、あまり手を出さない人には丁寧に勧め、落花生の嫌いな織芳などは逡巡して逃げ去った。去年の夏にこの落花生政策を発明してからは今も継続中。しかし
Missはこの限りに非ずで、彼女らの胃は彼らより五分の四ほど小さく、消化力も十分の八ほど弱いので、小さなおやつでも大抵半分は残すし、砂糖菓子でも少しは残す。いくつか並べても少し食べるだけで、私の損失は極わずかだから「なんぞ改めんや」。
 Miss高はたまにしか来ない客ゆえ、落花生政策は取り難い。他におやつはなかったので、柿霜糖を出すしかなかった。これは遠方からのお土産の名菓で、勿論見栄えも立派だ。
 これはそんじょそこらの物とは違うから、まず來源と効用を説明せねばと思ったが、Miss高は一目瞭然。彼女はこれは河南の汜水県の銘菓で柿霜から作ったものと言う。最上品は濃い黄色で、淡い黄色は純粋の柿霜じゃない。これを舐めるとす―っとして、もし口角におできができたらこれを含むと徐々に口角から流れ出てすぐ治る、と。
 彼女は私の耳学問よりずっと詳しく、もう何も言えなくなった。この時になって、彼女が河南人だったことを思い出した。河南人に柿霜糖を勧めたのは、私に紹興酒を勧めるようなもので、まさに「その愚や、及ぶべからず」だ。
「茭白(マコモ)」の芯が少し黒いのを我々は灰茭といい、田舎の人間すら食べないが、北京では大宴会にもこれが出る。白菜は北京では一斤いくら、一車いくらで売られるが、南方に行くと根元を縄でしばり、八百屋の前に架け、買う時は一両(1/10斤)いくら、半株いくらで買い、火鍋の煮えたぎったところに入れたり、フカヒレの下に敷く。だがもし北京で私に灰茭を勧める人がいたり、
あるいは北京人が南方に行った時、白菜の煮たのを勧められたら、「おバカさん」とまでは言われないとしても、間の抜けたことを、と言われるだろう。
 しかるに、Miss高は一切れ食べて主の面子を立てて呉れたのだった。
 夕方ぼんやり坐りながら、これは河南以外の人に勧めるべきだったと考えながら食べている内に、平らげてしまった。
 凡そ物は希なるを以て貴しとす。欧米留学生の卒論は李白や楊朱、張三がいい。バーナード・ショーやウェルズなどはよくない。ましてやダンテなどは、「ダンテ伝」の作者バトラーもダンテの文献についても実際は読み終えてないと言っているくらいだ。中国に帰ってからバーナード・ショーやウエルズ、更にはシェークスピアなどどしどし講じたらよい。某年某月、私はマンスフィールドの墓前で痛哭した云々とか、某年某月、某所でAフランスと会った時、彼は私の肩を叩いて:君は将来私のようになる!と言った云々、と言えば良い。
「四書」「五経」の類に至っては、本国ではなるべく語らぬ方が良い。「流言」をそこに混ぜこんでも、「学理と事実」の妨げになることはなかろう。
 
訳者雑感:
 魯迅が役人になりそうな友人からもらった柿霜糖の黄色は濃かったかどうか。
私は濃くなかったのではないかと思う。
Miss高の言によれば、濃くないのは純粋の干し柿の霜から作ったのではない由。それでも彼女は魯迅の面子を立てて一切れ食べて呉れた。だから魯迅は、芯の白くないマコモが北京の宴席で重宝されることや北京の白菜が南方で貴重にされることを書いた後に、凡そ物は希なるを以て貴しとすると論じている。
 欧米留学帰国組が、彼の地でちょっと12度会った著名な文学者たちを引用して、自分の箔をつけたりしていながら、実際は薄っぺらな思想しか持ち合わせていないこと、生半可な理解認識しかない「四書」「五経」を持ち出したりして、古文古典を間違って使っていることすら自覚せずに、魯迅の「口語文」を攻撃してくる論敵への反撃である、と思う。
 当時の欧米文化の中国への紹介はまだまだ遅れていて、口語での翻訳もいまだしの感があったのだろう。彼は友人たちと共にせっせと翻訳に精をだした。
彼はそれらの文学を中国の青年たちに紹介することに情熱を傾けていた。特に
青年たちに勇気を与える作品。感動させる作品を。その前に彼自身がそう感じたものであること、言うまでも無い。
  2010/12/25
 
 

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