忍者ブログ

日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

現在、新しいコメントを受け付けない設定になっています。

「(未払い)給与支給」の記

 午後、中央公園でC君と(翻訳)作業をしていたら、突然昔の親しい仲間が知らせて呉れた。(教育)部で今日から給与の三割を支給するが、本人が三日以内に受け取りに出頭のこと、と。
「さもないと?」
どうなるか何も言わないが、それは火を見るより明らか。行かねば呉れない。
 お金が自分の手を通るとなると、檀家のお布施ではないが、人はどうも威張りたがるようだ。さもないと自分がつまらぬ人物だと思うのかもしれぬ。
確かな物品を質に入れるのでも、質屋は偉そうにふんぞり返って、高いカウンター越しだし、銀貨を銅銭に換えるのも両替屋は「銀貨買入」の張り紙で隠然と自分が「買主」だということを示したがる。手形も交換所に持参して換金しなければならぬが、ごく短い期間を設定し、受領書にサインしてから順番待ちの列に並べとどなられ、国粋のムチを手にした巡警に睨まれる。
 言う事を聞かないと、銭を貰えないだけでなく、ムチで打たれる!
 前にも書いたが、中華民国の役人はみな平民出身で、特殊な人種ではない。
高尚な文人学者或いは新聞記者たちは、彼らを異人種のようにみなし、自分たちより奇妙な田舎者で、おかしな連中と考えている。だがここ数年の私の経験では、何も特におかしな所は無く、すべて性癖も普通の同胞と同じだが、金が手を通るとなると、例の通りちょっと威張ってみたくなるのだ。
「本人受領」問題の歴史的起源はだいぶ古く、民国11年にはこの件で、
方玄綽(魯迅の小説中の主人公)の騒ぎが起こり、私はそれを「端午の節句」に書いた。だが歴史は繰り返すというが、印刷版木ではないから、今回と昔とは少し違う。往時「本人受領」を言い出したのは「給与要求会」――嗚呼、この専門用語を解説する暇のないことを諒とされよ、そして紙幅も惜しい――のモサが、昼夜奔走、国務院に陳情し、財政部前で坐り込み、それで入手するや、一緒に要求に行かなかった人には、功なくして禄をはむ者として、心にわだかまりを感じ、本人受領にして少し苦労を舐めさせようとした。
その意味はこの金は我々が取って来たもので、自分たちのものだと言いたいらしい。欲しければここに来て布施を受けるべし、と。衣や粥を施すのに、施主の方から施しを受ける者の家まで届けに行くかい?
 しかしそれは盛時の話。今やどんなやり方で「要求」しても一文も呉れない。
もし偶々「支給」するとしても、お上からの思いがけないお恵みで、「要求」とは何の関係も無い。だが時に「本人受領」の触れを出す施主はまだいるようで、
ただそれは給料要求の上手いモサではなく、毎日「出勤簿に判を押して」他に生計を立てようとせず、そして「二朝に出仕しなかった臣」なのだ。だから
以前の「本人受領」は一緒に要求に行かなかった者への罰だったが、今回は、空腹のために役所に来られなかった者への罰なのである。
 だがこれは大枠のことで、これ以上は身を以て臨まなければ分からない。
酸辣湯(酸っぱくて辛いスープ)一つとっても、話を聞くより、自分で飲んだ方がずっとよくわかるのと同じである。
最近わけの分からない名人たち数人が、間接的に私に忠告をする。去年私の書いた文章は、専ら数人と意見衝突を起しただけで、文学芸術と天下国家を論じることがなくなってしまったのは残念だ、と。
 何のことか分からなかったが、近頃なんとなく分かって来た。身をその境の小事の中においていても、尚且つ明らかにすることはできず、はっきりしたことも言えない。況や、あのような高尚で大事なこととはいえ、自分があまり分かってもいない事業については何も言えない。今私が言えるのは、比較的身近な私事だけで、立派な、所謂「公理」の類は、公理の専門家に任せよう。
 要するに、今回の「本人受領」を主張するものは、前回とはだいぶ違うと思うし、即ち「孤桐先生」の所謂「事態はいよいよ悪くなる」で、更には大騒ぎする方玄綽のような男も数えるほどしかいない。
 
「さあ行こう!」知らせを聞いてすぐ公園を出、俥に乗り、役所に奔った。
中に入ると巡警が直立敬礼したから、役人やるなら出世しなきゃいけないということが分かる。辞めてもうだいぶ経ったが、彼らはまだ私の顔を知っていた。
だが中に入っても誰もいない。勤務時間を午前に改めたので、多分みな受け取って帰ってしまったのだ。小使いを探して「本人受領」の要領を聞くと、まず会計科で伝票をもらいそれを持って窓口でお金を貰う。
 すぐ会計に行くと、職員がジロッと顔を見て、伝票を取りだした。彼は古い職員で、同僚をよく知っていて「本人確認」の重大任務を負っているのだと分かった。伝票を貰ってから私は特に二回頭を下げ、告別と感謝の意を表した。
 次は窓口。まず横の門を通り、上に「丙組」の張り紙と小さい字で注意書が
「百元未満」とある。手にした伝票には九十九元とあり、心中、これは正しく
「人生百に満たぬも、常に千歳の憂いを懐く。…」と思った。と同時にまっすぐそこに入った。私と同年輩の役人が「この百元未満」は給与全額のことで、
私のはここではなく奥の方だ、という。
 奥に入ると、大きな卓が二つあり、その周りに何名かが坐っていて、よく知
っている顔が私を呼んだので、伝票を出し、サインして銭票を貰った。順風と
いうべし。この組の傍らにとても太った役人がいて、多分監督官で官紗(絹の
薄物――或いは緞子だろうが、衣服に詳しくないので分からないが――シャツ
をはだけており、ぶよぶよの胸から三段腹に玉の汗がたらたらしたたっていた。
 それを見て端無くもある感慨に打たれた。現在皆が「役人の災難」「役人の窮
乏」と叫んでいるが、どっこい「心も広く体もでっぷり」したのはまだ少なく
ないと思った。23年前、教員が給料支払い要求で騒いだ時、学校の教員控え
室に飽食の者がいて、ゲップをすると胃の中のガスが口から出てきた。
 外に出ると同年輩の男がまだいたので、彼に不満をもらした。
「なんでこんなことをするの?」
「これは彼の意思で…」穏やかにニコニコしながら答えた。
「病人はどうするの?戸板に乗せて来るの?」
「彼はそういうケースには別な方法で処理する…」
 そこまで聞いて分かった。只「門――役所の―外漢」には解らぬだろうから、
注釈がいる。この彼とは総長か次官のこと。この時誰を指すかははっきりしなかったが、もっと掘り下げれば誰を指すかは分かるが、更に追求すれば分からなくなろう。要するに給料が入ったから、そんなことは「これ以上詮索せぬが
良い」さもないと、危うい目に会うことになる。今私が口外したのも既に穏当ではないのだから。
 それで窓口から出、昔の同僚たちに会い閑談した。まだ「戊組」まであって、すでに死んだ人の給料を払うのだが、この組には「本人受領」はないだろう。
今回の「本人受領」を言い出したのは「彼」だけでなく「彼ら」も含む。彼らとは「給料要求会」のボスたちのようだが、そうでもないらしく、役所にはとうに「要求会」は無くなっており、今回は別の一派を率いる新人物の由。
 今回「本人受領」の給与は、中華民国13年の2月分。それで事前に二つの学説があり、一つは132月の給与として払う。しかしそれだと新しく入省した者や新たに増額した者は、隅に追いやられた感を免れぬ。それで第二の学説が出て来て:往時のことは構わず、今年の6月分として支給する。しかしこれだと大いに不当で、「往時は構わぬ」の一言が問題なのである。
 この方法は以前もその処理に苦心した。去年章士釗が私を解任した後、官位を失って大打撃を受けたと思い、数名の文人学者が欣喜雀躍した。が、彼らは利口な人たちで、「部屋中すべてがドイツ語の本」に囲まれている人だから、すぐ私が単に官位を失っただけでは、一敗地に塗えるまでに至っていないことを悟った。私は未支給だった給与の支払いを得て、北京で生活できるのだから。そこで彼らの局長劉百昭は教育部の会議の席で、未支給分は支給せず、その月に支払うのはその月の分にしようと提案した。もしそれが実行されたら私は被害甚大で、即、経済的圧迫を受けることになる。
しかしその案は最終的には通らなかった。
 その提案の致命傷は「往時は構わず」にあり、それゆえ劉百昭は革命党だからといって、全てを一からやり直すという主張を押し通すわけにはゆかなくなった。だから今政府から出た金は、以前の分に充当し、たとえ今年北京にいなくても、132月にいたなら、実際に今いないからといってそれをカウントしないというのは難しい。しかし新しい学説が出た以上、少しはそれを考慮せねばならず、その結果は調整ということになる。このため我々の今回の伝票上の年月は132月とあるが、金額は156月分となる。
 かくして「往時のことは構わぬ」のではなく、新人や昇進、増額した者も少しは入金でき、多少ましになった。私には益無く損無しで、ただ今はまだ北京にいるから「正身」を示せる。
 私の簡単な方の日記を見ると、今年は4回支給あり:1回目は3元。2回目は6元。3回目は8250銭。即ち25%で端午の節句の夜に受け取った。4回目は3割で99元即ち今回。(魯迅の給与は月3百元弱と分かる、高給か)
私の未払い分累計は約9,240元(30カ月分)これには7月分は含まず。
 私は精神上の金持ちになった気分。惜しいかなこの「精神文明」ははなはだ頼りなく、劉司昭がこれを脅かしに来る。将来理財に長けた者が「未払い給与整理会」を設立して、事務所に何名かが坐り、外には看板をかけ、未払い分のある人たちはそこで相談することになるかもしれぬ。数日後または数か月後、人はいなくなり、看板も無くなり、精神的金持ちは物質的貧乏人に変じる。
 なにはともあれ、今確かに99元が手に入ったので、生活はちょっと安心できるようになったから、閑にまかせてまた議論をしよう。
           721
 
訳者雑感:
 30カ月分の給与が未払いでも生活できたのは、もともと高給で蓄えがあったのか、兼任の講師料や原稿料などで凌いできたのだろう。それにしても1回目は3元、2回目は6元、というのは給与の1%とか2%で、これでもなにがしかの足になったのであろうか。
 魯迅を北京から追い出そうとした章、劉たちの目論見は、官位的には彼を追い詰めたが、経済的には未払い給与支給が助けとなり、北京からの追放は果たせなかった。だが彼は翌8月北京を去ることになった。これにはいろいろな事情があるようで、これからおいおい翻訳してゆくことで明らかになろう。
 この当時まだ現在のような「銀行」が整備されておらず、「銭票」という名の
「手形」を発行する金融業者が中国各地に支店を開き、そこが発行する「票」で、大きな金額の支払いに充てていた。山西省の平遥には当時全国一の金融街があり、中国の「Wall Street」と呼ばれていた。訳者が前に訪問したとき、90年ほど前の町並みが保存されていて、大勢の中国人が観光に訪れていた。なぜこんな(日本人的には)内陸の奥地に金融街ができたのだろうかと不思議に思った。説明に依れば、南方のお茶を大量に内蒙古、モンゴルなど北方へ(モンゴル経由ロシアとか)販売する商取引が大変盛んで、その代金の支払いに「銭票」が不可欠であった由。富山の薬売りと同じで、多額の商品代金を現金(銅銭)で国元に持ち帰るのは、物理的にも重くて大変だし、途中強盗に奪われる危険が高い。それで「銭票」という手形を介して安全な取引にしたのが、この奥地に金融街が出来上がった由縁であった。
因みに、日露戦争の取材に満州奥地に入る外国人記者の必要物資を運ぶ大八車の写真には、車一杯に千枚ずつ紐を通した銅銭の山が積みこまれている。説明に奥地で食糧を調達するには、これでないと何も買えないからとある。
 魯迅が教育部に奉職して「高官」として勤務していたころ、月給三百元というのは、どれくらいのものだったか知りようもないが、3元とか6元の支給が意味を持っていたということから判断すると、相当なものであったことは、間違いないだろう。
 それが論敵、章士釗により解任されたということは、彼にとっても大きな痛手で、一家を養うために苦労した。それ以外もろもろの事情によって、北京を離れざるを得なくなった。この年は彼にとって大きな節目の年であった。
 2010/12/31
 

拍手[0回]

PR

コメント

お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

カレンダー

06 2024/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

フリーエリア

最新CM

[09/21 佐々木淳]
[09/21 サンディ]
[09/20 佐々木淳]
[08/05 サンディ]
[07/21 岩田 茂雄]

最新TB

プロフィール

HN:
山善
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R