忍者ブログ

日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

現在、新しいコメントを受け付けない設定になっています。

そうですか

77日 晴。
 日々の天気は書いている当人も面倒ゆえ、今後は書かないことにする。
北京は幸い大抵晴れの日が多い。もし梅雨時なら、午前晴れ、昼過ぎ曇り、午後一時大雨、泥壁の崩れる音、聞こゆ。となるが書かないことにしよう。私の日記は将来気象学者が参考にすることはありえないから。
 午前、素園を訪問、閑談す。彼の話では、ロシアの有名な文学者Piliniakが先月北京に来たが、もう去った由。
 彼が日本を訪問したのは知っていたが、中国に来たのは知らなかった。
 この2年で、中国に来た有名な文学者は、私の知っているのは4人で、一人は勿論有名なタゴール、即ち漢字名「竺震旦」(竺はインド、震旦は古代インドが中国を指した言葉:出版社注)だが、インド帽をかぶった震旦人(徐志摩)に引っ張り回され、訳も分からないうちに去った。その後、イタリアで病に倒れ、震旦の「詩哲(徐志摩)」を電報で呼び寄せたが、「その後はどうなったか」知らぬ。
 今度はガンジーを中国に呼ぼうとしていると聞くが、この忍耐力卓越の偉大な人は、インドで生まれ、英国支配下のインドでこそ活動できる偉人に、中国に足跡を印させようとしている。だが、彼のはだしが華土を踏む前に、山影から暗雲が垂れ込めようとしている。
 次はスペインのIbanezで、中国には早くから紹介されてきたが、欧洲大戦時に人類愛と世界主義を強く提唱した人で、今年の全国教育連合会の議案からすると、彼は中国にふさわしくないので、誰も見向きもしなかった。というのも我々の教育家は民族主義を掲げているから。
 あとの二人はロシア人。一人はSkitalez,もう一人がPiliniakだ。二人ともペンネームでSkitalezは国外亡命中、Piliniakはソ連の作家で、自伝では革命初年からパン粉を買うために一年余忙しかった。それから小説を書き出したが、魚油をすすりながらで、こんな生活は中国では、一日中窮乏を訴えている文学家もきっと夢にも想像できないだろう。
 彼の名は任国楨君編訳の「ソビエトロシアの文芸論戦」に出ているが、訳は一冊も無い。日本では「IvanMaria」が訳されているが文体も特異で、この点だけでも中国人の目から―中庸の目―すると新奇に映る。文法は欧化され一部の人には目にガラス片がついたように見えるし、ましてや文体も欧化以上に奇抜である。そっときてそっと去ったのは実に幸いだった。
 それに中国では「ソビエトロシアの文芸論戦」に名前が出ているだけだが、
Libedinskyは、日本では「一週間」という小説も訳されている。彼らの紹介の早さと量は実に驚くほどだ。我々の武道家は彼らを祖師と仰ぐが、文人は彼らの文人の良さを少しも学ぼうとしない。このことから言えるのは、中国の将来は日本より必ずや泰平楽でいられるというものだ。
IvanMaria」の訳者、尾瀬敬止氏は言う。作者の考えは「リンゴの花は、古い中庭にも咲く、土があるかぎり、きっと咲く」と。そうであれば、彼はやはり懐旧の念から脱しきれていないことになる。しかし彼の目は革命を自らの体で感じ、そこには破壊があり、流血があり、矛盾があるが、創造が無いということではないと知っていて、決して絶望することは無かった。これこそまさに革命の時代に生きた人のこころだ。詩人Blockもそうである。彼らは勿論ソ連の詩人だが、純粋マルクス的な目から見ると、議論すべき対象が多いのも当然だ。だがトルストイ的文芸批評ならそんなにきびしい評価にはならぬと思う。
 惜しいかな、彼ら最新の作者の作品「一週間」をまだ見てない。
 革命の時代は多くの文芸家が委縮し、多くの文芸家は新しい疾風怒濤の大波に突き進んで行くが、のみ込まるか、或いは負傷してしまう。のみ込まれた者は消滅してしまうが、負傷した者は生きて自分の生活を切り開き、苦痛と愉悦の歌をうたう。それらが逝き去った後、次の新しい時代が現われ、より新しい文芸が生み出される。
 中国は民国元年の革命以来、所謂文芸家は委縮せず、負傷もせず、勿論消滅もせず、苦痛と愉悦の歌も無かった。それは新たな疾風怒濤の大波が無かったからであり、そしてまた革命が無かったからである。
 
訳者雑感:
 飛行機が無かったころ、タゴールやガンジーなどは船に乗って、いろんな国を訪れている。一生のうちに一度しか足を踏めないという思いからか、訪れた先での話も大変貴重で、大切に記録されている。活字に翻訳された本人の言葉を、肉声で直接聞きたいという外国の支持者、応援者を前にしての話は、舞台の役者と観客のように、時と共に去って戻らぬ音楽、芝居と同じである。
 孫文の大アジア主義も、神戸での演説が出発点であり、国内だけでの活動からは、出てきにくい性質のものだったろう。言葉を発する人が、自分を呼び、応援してくれる外国人を前にしての昂揚がなさしめたとも言える。
 魯迅は中国内のいろいろな所に出かけて講演していて、それが残されている。その講演の人を魅了する力は、書かれた雑文の数倍もあろうかと思う。
 惜しいことに彼は日本から帰国後、日本を再訪したことが無い。日本の文芸出版社などから何回も招かれたのだが、彼は日本に出かけなかった。
もし元気なうちに東京か仙台で日本人に何か語ってくれたらきっと素晴らしい話を聞けたろうに、と思う。
  2010/12/23

拍手[0回]

PR

コメント

お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

カレンダー

06 2024/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

フリーエリア

最新CM

[09/21 佐々木淳]
[09/21 サンディ]
[09/20 佐々木淳]
[08/05 サンディ]
[07/21 岩田 茂雄]

最新TB

プロフィール

HN:
山善
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R