忍者ブログ

日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

魯迅の墓

上海の魯迅公園を訪問した。 百人近い老壮男女が文化大革命のころに国中で謡われた歌を大きな声を はりあげて元気に歌っていた。 民俗魂と書かれた布に巻かれて万国公墓に埋葬されたのを、新中国建国後 こちらに移され、以前の顔写真の墓から大き銅像に代えられた。 墓の中の魯迅は60年代の紅歌をどう聞いているだろう。そしてどんな雑文を 書いただろうか。 2012.3.11.

拍手[1回]

PR

旅順の桜

旅順の桜
旅順の龍王塘に桜を見に出かけた。26日から桜祭りなのだが、今年は例年より早く咲き始め、初日にはもう一部で葉桜になっていた。
数年前にも来たのだが、その時の印象に比べて、大連の人たちが家族づれや、恋人同士、或は仲間とともに、春の楽しみ方のひとつとして花見が定着しつつあるように見受けた。日本の花見と異なるのは、酒を飲んで歌を歌ったりするのではなく、4-5人でトランプをしたり、羽けりをしたりして、健康的な春風浴をしている点だ。
1920年に造り始めて4年で完成した龍王塘ダムの石造りの見事な景観は、今日、見るものに畏敬の念を抱かせる。堤の中央に記念碑があり、長さや費用や貯水量などが記されている。もうひとつの碑には
それに従事した人たちの名が連なる。それらの碑を眺めながら、満々と水を蓄えた湖面から渡ってくる風が心地よかった。6年前は旱害で湖水は干上がり、地肌をむき出しにしていた。が昨年は雨が多く、岸の木立が、水面下に沈んでいた。
技師の一人の名は山田亀之助とあり、通り過ぎる大連の人たちが、彼の名前だけ、声に出して面白そうに相手に向かって笑っている。何組かが、同じように彼の名だけを声に出すので、なぜだろうと考えた。
山田という姓は田中と同様、日本人とすぐ分かる姓で、このダムを作ったのは、その名の示すとおり、亀の助けを得て完成したのだとの、
寓意をおかしがっているのかと思ったことだ。干天の慈雨は天の助け、中国の歴史的建造物の基礎には、亀が据えられている。ダムの建造には間違いなく、亀の助けが欠かせないのだ。
88年前に彼の後輩たちが植えた桜の古木が花を咲かせ、辛夷や銀杏などの古木に銘板が付けられていた。
周恩来や朱徳たちもこの桜の花を見たと書いてある。
戦後の混乱や、文革などの路線闘争などで多くの日本人の名の刻まれた碑は削られたり、倒されたりしただろうが、旅順の市民に水を供給してくれるこのダムを造った人たちの名はこうして元のまま残されている。彼らが日本から持ち来たった古木とともに。
只、変電所の正面にあった昔の印は剥ぎ取られた形跡があった。
       2008年4月
 
 

拍手[0回]

青蔵鉄道でラサへ


4月30日朝、大連を立ち北京経由で青海省西寧に飛んだ。北京始発のT27寝台特急に乗るためである。2昼夜かけて北京からラサまで鉄道の旅を満喫しようと考えてもみたが、ラサについてからの高山病対策と、休暇の都合で、青海省から西蔵までの25時間、いわゆる青蔵鉄道部分だけで満足することとした。
 3年前に貫通した部分はゴルムドからラサまでの区間で、西寧からゴルムドまでは、以前に開通している。高さ4千メートルの高原、長さ960KMの鉄路を走る、世界で最も高くて長い高山鉄道だ。永久凍土の上に高架橋を架けて、動物の移動ができるようにしている。地球温暖化が進んで、永久凍土が溶けだしたらどうなるのであろうか。杞憂であればと願う。天に飛ぶ鳥無く、地に草木一本も無い白っぽい土漠の高原である。
 
 列車の出発まで4時間ほどあるので、ラマ教の塔尓寺に出かけた。青海省5百万人口の内、2百万が省都西寧に住み、その1%がチベット族という。金葺き屋根の寺には、チベット族の学僧が1年中、右腕を露出し、読経しているというが、私が訪ねたときは、お堂の前で体をゆすりながら、必ずしもお行儀が良いとはいえないような、くつろいだ格好で経を唱えていた。その音は、日本のある宗派のものと同じように聞こえた。
ヤク羊のバターから取り出した油の灯明が何百個と灯されている。その燃えるにおいが鼻を強く刺激した。日本人は菜種油の灯明に慣れているので、バター油のものは、すえたようなにおいに感じる。これも慣れれば、気にならなくなるであろう。
 予定より1時間遅れて19時に西寧を出たが、北京時間で全国が律されているため、21時ごろまで、暗くならない。時差は2時間以上あるようだ。同室になった50歳代の李夫妻は、石家庄から乗ったという。列車内は酸素が供給されているのだが、李さんは少し高山病にかかりかけていた。中国語で悪心といい、胸焼けとか吐き気を催すようだ。
 とうとう添乗の医者に診てもらうことになってしまった。血圧を測り、薬をのんで、鼻から酸素を吸入し、数時間したらやっと落ち着きを取り戻した。
 私も20年ほど前、ヨハネスブルグに滞在したとき、2日目から夜に何度も目覚めた苦い経験があるので、高山病にかからないように何事もゆっくりと動くようにつとめた。もちろんアルコールもご法度だ。
 終日、緑の殆どない白っぽい高原地帯を列車は進む。ラサまで残り4時間くらいという所までくると、線路に平行して河が流れている。やっと人の住んでいる気配が感じられるようになってきた。五色の旗をたなびかせた人家が車窓から点々と見えるようになった。
 農業用水も敷かれ、麦の一種、青稞という穀物を植える畑が現れてきた。これは、チベット族の主食、チャンバというパンの原料となる。かつては、ポタラ宮にある上納所に、チベット黒牛の肉を取り去った後の皮を俵のようにして皮袋とし、中にこの青稞を満杯に詰めて、一人一頭分納めねばならなかったそうだ。どれくらい入ったのだろうか、まさしく人頭税である。
 今は、そんな農奴制から解放され、ラサに近づくと、下壁は石灰で白く塗りこめられ、屋根の近くはポタラ宮と同じ趣向で、赤い植物繊維で普請され、豊かさを感じさせる家が増えてきた。
 18時半、ラサ河の鉄橋を越え、ラサ駅に到着。ポタラ宮をイメージさせる大きな駅舎を出ると、猛烈な砂吹雪に見舞われた。乗客たちは一斉に逆向きになって耐える。ラサ河の河原にまだ草が芽吹いていないので、突風が吹くごとに、砂嵐が駅舎の方に吹き付ける。町はラサ河の北、山を背にしてあり、山の風が南の河に吹き降ろしてくる。
 19時になっても、昼のように明るい町中を進む。ポタラ宮を過ぎて北京路に入ると、ガイドの人が、昨年暴動が起きたのはこの辺りですと教えてくれた。
120万M2という中国第2の広さをもつ西蔵の人口は260万人余。その内、40万前後がラサに住んでいるという。本来は殆どがチベット族であった。だが、このところ多くの漢族が移住してきている。どれぐらいだろうか。私の乗った車の運転手は数年前、吉林から観光に来て、住みやすさに惚れて、そのまま居ついてしまったという。空気もきれいで、家族も引き寄せた、と。ガイドの女性も親がラサに住み着いていて、彼女は甘粛省の大学を出て、大都会への誘惑もあったが、やはり両親の住むラサに戻ったという。ラサの公務員の給与は新卒で4,000元と高水準にある。内地の公務員は一般的には1,200元という。差額は種々の手当てだそうだ。
この北京路はラサ一番の繁華街で、レンガではなくて、その3倍くらい大きい石を積み上げた3階建ての建物が、通りの両側に櫛比する。元来の所有者はチベット族だが、1階はすべて商店街となっており、2-3階が住居である。
 商店街の間口は、基本的にはすべて約3メートルで、まるでかつての京都の町のように、間口の広さで納税させられてきたかのようだ。違うのは、京都のような、うなぎの寝床ではなく、奥行きは無く、10軒か15軒ほどの間隔で、バスの通れるほどの空洞の入り口がしつらえてあり、奥には役所や学校、ホテルや食品市場や公共の建物があり、3階建ての商店街は、そうした内庭の冬の風よけの役目も果たしているかのようだ。
この商店街に、どうしたわけか貴金属を売る店が何軒かある。西洋人観光客目当てとは思えない。彼らの多くはバックパッカーだ。内地から来た観光客が買うのかもしれない。でもそれならわざわざラサで買う必要もなかろう。
 昨年の暴動は、この商店街のすぐ近くにある若いチベット僧が学ぶ僧院である小昭寺から発火したそうだ。テレビで何度も放映された、店のシャッターが
足でけり破られ、はがされた光景が思い出される。なぜポタラ宮と大昭寺、小昭寺に挟まれた、この一角に貴金属店が店を構えているのであろうか。
私には理解しづらい。外人観光客や漢族の観光客が、ポタラ宮にお参りした記念に買うのも中にはあろう。しかし、多くはチベットの各地からポタラ宮にお参りに来たチベット族の人たちが、なけなしの金を使ってこの貴金属の宝飾品を買うのではなかろうか。チベット族のお金を漢族が吸い上げている図になるのであろう。
 夕刻、ガイドの人から解放され、外人らしくない格好で、小昭寺の門前町を歩いた。入り口のところに14名ほどの武装警官が並び、鉄のパイプにトゲ状の鉄の棒を溶接した、バリケードが3本ほど並べられていた。門前町の中にも、武装警官が3-4組、6-7名で隊を組んで、巡邏しながら不審者の動きを牽制している。昨年のようなことを繰りかえさせてはならないとの示威のようだ。
 
 朝8時宿舎を出て、ポタラ宮に向かった。通りの歩道と車道の端は、例のくるくる回るものを右手にした老婦たちが何十人と整列しながらポタラ宮を目指して歩く。ガイドの人に尋ねたら、仕事をしなくても良くなった人たちが、毎朝、毎夕、こうして家々から集まっては、ポタラ宮の周囲の転経を回しに来るのだそうだ。こうすることで、生きていくことのプレッシャーを弱め、物理的な健康増進にもつながる。それでチベットの老人はとても長寿で健康を保つことができるのだという。こんな冬の寒い高地で80歳以上まで生きる。
 ガイドに案内されて、ポタラ宮に登った。中年の婦人たちが、声を張り上げて労働歌を歌いながら、餅をつく様な動きで踊っている。歴代のラマを祭る、
沢山の塔を拝観した。その前にお賽銭が、多くは50銭札なのだが、たくさんたくさん散らばっている。それを一枚ずつ集めて、数えたあとで十元札や五元札を置いてゆく。ガイドさんが教えてくれた。あの人たちは、遠くからお参りに来ていて、ポタラ宮の仏さんに供えられた50銭札は、ありがたいご利益があるので、それを等価のお札に替えて、自分の村に持ち帰り、村のみんなに、お土産にするのだという。
 チベットでは、漢族のお墓参りをする「清明節」は無いという。紙のお金を
燃やして、あの世で使ってもらおうというようなことはしない。チベットでは人は死んだら、天葬されるという。漢族は絶対立ち入り禁止の地域があって、
そこに死体を運び込む。善人はみなこうして天に昇る。悪いことをした人間は、
天葬にはされず、土葬されるという。
 便意を催したので、手洗いの場所を教えてもらった。すると、ここのトイレは、標高も高いが、落差は世界一だという。おそるおそる下を眺めたら、数十メートルはありそうだ。ポタラ宮の中間あたりから、まっすぐに入り口の階段下あたりまでの落差があり、そこで麦畑に戻すべく、毎日処理されている。
 2時間の拝観を終えて、外に出ると、大勢のチベットの老女老人が、時計回りに、ポタラ宮の壁に取り付けられた転経を回して廻っている。その機械油も、灯明に使うバターと同じものだそうだ。石油とか菜種油とかここで入手できないものは使わない。
 鉄道ができるまでは、誰でもポタラ宮に入れたのが、私のような観光客が増えたために、1日の入場者は3千人に制限された。チベット族の人も、それまで自由に入れたのが、1日数百人に制限されたそうだ。外国人はこの4月にやっとラサに入れることになった。それで私の泊まった宿舎は、夕食を提供できる状態ではなく、外部の四川料理店に足を運ばねばならなかった。
 店は入ってすぐ左のカウンターに調理済みの料理が、鍋のなかで温められており、それを指で2-3個選んで、12元という大衆的な店だった。それにタンタン麺を頼み、併せて20元しない。とてもいい味であった。30歳代の店主も最近、四川から移って来たという。
  満州族の建てた清朝政府は、チベット族の人口が増えるのを恐れたため、跡継ぎの一人以外は、男はすべて出家させ、妻帯させずに生涯を独身ですごさせ、人口を抑制したという。それで、4百年前の人口も2百万人台だったそうだが、今日でも西蔵の全人口は260万人に過ぎない。自給自足の生活で、お金をためようとか、人より優越した暮らしをしようとか思わない。そこに鉄道が敷設され、今までは、ほんの少数の観光客しか訪れなかったラサの聖地が、私のような、鉄道に乗りたいという興味が中心の人間まで押し寄せてくるようになった。
 ポタラ宮の坂道を下りてきて、魚が沢山泳ぐ放生池のほとりで、息を整えながら、ガイドさんと話していたとき、急にチベット族の聖なる山「カイラス山」のことを思い出し、ラサからあの聖なる山までどれくらい日数がかかるのか、と聞いてみた。中国語的な発音で、「カイラス山」と何度言っても通じなかった。地図を取り出して、ここだよと指差したら、「ああ剛仁波斉」ね、という。発音は「ガンレンボーチ」。エベレストをチョモランマというがごとしである。
チベットでどういう意味かと聞いたら、神の山という。我々の前で、子供をあやしていたチベット族の中年の男性が、二人の会話を耳にして、私のノートに書いてくれた。できたら記念にチベット語でも書いてくれないかと頼んだが、
彼は、手を振って断るしぐさをし、私に日本人かと聞いてきた。漢語を話す日本人が珍しいようであった。
 彼が、子供の手を引いて立ち去ったあと、ガイドの女性が私にひとこと、「ここのチベット族の人は漢族に対して防備しながら生きているので、交際なども深入りは出来ない。漢族の人と、一定の線を越えて親しくしていると、どこかで指弾されるおそれがあるので、簡単な話はできるが、ノートに何かチベット語で書いたりしない」と教えてくれた。証拠になるようなものは残してはならないのだろう。
 そうだった。ポタラ宮に入るときの注意として、この中では、チベット仏教の話はしても好いが、政治がらみの話はせぬようにといわれたことを思い出していた。ラマ経というのはチベット仏教と言うのが正しい、と。
ラマというのは、日本語では和尚さんの偉い人、上人という意味で、チベット仏教をラマ教と呼ぶのは、蔑視の意味がある俗称だと教えられた。
 ただ高山鉄道に乗ってみたいということで、ラサまでやってきたが、自分がいかにチベットのこと、チベット仏教のことを知らないかを、思い知らされた。
人口も増えず、産業らしい産業も興さず、数百年間同じ日常を受け継いできた。
チベット仏教をひたすら信じて、あのくるくるまわるものを、かたときも離さず、天からお迎えがくるまで、歩きつづける。チベット文字のお経は読めなくても、くるくるまわしていれば、お経を読んだことになる。そこに救いがある。
救いは他者から与えられることはない。自分が信じ、歩み、回すだけである。
天に一番近いところに住み、薄い酸素に耐えられる体力が支えてくれるのだ。
  (完)  2009年

拍手[0回]

山西文化の旅

1.五台山のご利益寺

 9月30日の朝7時半、香華最旺といわれる五爺故里に参詣した。早朝というのにバスが何台も連なり、駐車場は満杯であった。庶民の願い事をかなえてくれるというので中国全土からお参りにくるそうだ。そしてその願い事がかなったら、必ずお礼参りに来なければならない、とも云われている。そもそもは高い山の上にあったのだが、庶民がお参りに来易いようにと、民家の軒下まで下りてきてくれたそうだ。どこかで聞いた話を思い出した。そうだ、京都でも本来、山深いところにあった霊験新たかなお寺が、街中に別院というか小さな祠を建てて、お参りしやすくして、便宜をはかってくれている。
京都の下町の角々や、家々の軒の下にたくさんある地蔵菩薩の祠も、本来はとても一日では行けないような遠いところのお寺さんから、下町に下りてきてもらったものだそうだ。そういえば、太原からバスで4時間ほど田舎道を走っていたとき、道端に京都の地蔵尊を納めた祠よりすこし雑だが、大きめの祠を何箇所か見つけた。同乗の人に尋ねたら、土廟(トウミャオ)だと教えてくれた。
病気快癒とか大願成就とか願い事を、ご利益のあるお寺さんに願かけて、かなったならば、そこのちいさな祠に魂を入れてもらって、毎日お参りできるように家のそばに建ててもらう。そんな庶民の切ない願いをかなえてくれる五爺さんなのだ。ここではお礼の印に廟の正面で京劇のような地方劇を奉納していて、
この日も朝早くから、奉納されていた。心を形で表したのだろう。

2.平遥県衙の朱鎔基元首相

 10月2日平遥の古城めぐりをした。水が大切にされている伝統から、城壁の上に降った雨は、城内の方に落として、利用するようになっている。雨の多い地域では、排水というのは城外へ出すのだから、降水量不足に悩むここでは180度異なるわけだ。
30分ほど城壁の道を歩いて、かつての県庁である平遥県衙を参観した。すべての役所の仕事がついこの間までなされていたそうで、‘計画出産’の任務以外は、数百年まえからずっとこの役所で行われていたとはガイドの言。裁判所の役割もこなしており、宮刑もここで行われたとして、男根をそぎ落とされた男の下半身の実物大の写真が生々しかった。当時使用されていた刑具の実物や、フランス人が百年前に撮った写真が当時の状況を、如実に伝えてくれる。
裁判の模擬演劇を見たあと、少し歩いてゆくと、「平遥県衙」の大きな四文字が目の中に飛び込んできた。その揮毫した人の名がなんと朱鎔基とある。肩書きなしだ。
2002年4月に夫人同伴で訪れたと横の写真に説明があった。
一線から退いたあと、政治場面にはほとんど顔を出さないで、潔い人だと尊敬している。首相時代、日本に来ての話しぶりも非常に率直で好感がもてた。
ほとんど揮毫をしたことの無い彼が、この司法執行を厳粛に行ってきた県庁の役所に感じるものがあったのか。ただ四文字のみ筆にした。
しばらく考えていた。貪官汚吏を厳しく取り締まったこの役所の先輩たちに敬意を表したのだろう。

3.山西商人

 9月29日朝、太原を出発、五台山へ向かうバスの中で、ガイドの王さんが
一行にわかりやすく山西省の紹介をしてくれた。山西省を訪れる人は自然の美とか、リゾートなどの一般的な観光目的の人はほとんどいない。山西を6日かけて巡る人は、文化に興味を持っている人に違いないと、人の気持ちをうれしくくすぐる。確かに雲岡石窟や五台山などを見て回る人は、敬虔な仏教徒でもないかぎり、歴史文化を知る楽しみを求めてくるのであろう。
旅の終わりに、百年前まで大変栄えた山西商人の街に泊まった。昔の大商人の館を宿泊施設に変え、「客桟」と呼んでいる。私もそうしたところに泊まった。
道を隔てた客桟はユースホステルで、部屋には4つの2段ベッドがあり、手洗いは中庭を挟んだ別棟にあった。欧州人も含めたバックパッカーが中心だった。
一泊150-200元くらい。
 さて翌日、県庁などを参観した後、百年前に最盛期を誇った民間銀行というべき、自家手形を発行して流通させていた「票号」が、ずらっと軒を並べた、山西のウオール街を歩いた。その中で今は博物館となっている、「日昇昌」という処に入って、1823年から1931年の108年間で彗星の如く登場し、今や跡形も無く消え去った、中国最大の票号の生い立ちから、衰退までの解説をじっくり見学した。
 もともとは染物という製造業から身を起こしたのに、金融業で隆盛を誇ったのち、すべては配当とかボーナスで分配してしまって、後世に残るような産業に何ら投資しなかったのは、どうしてだろうとの疑問が沸いてきた。
渋沢栄一のいた日本と、彼のような人間が現れてこなかった山西、中国。
商業資本のみを尊いとし、手を汚す製造業をやや見下してきた伝統的なものが
背後に控えていそうだ。21世紀の今でもなお、物は人に作らせて、自らは上海の金融街で、金融か商業に徹する、そんなことでよいのだろうか。
         2008年10月

拍手[0回]

松島へ

松島へ
1.
 7月30日と31日の両日、JR東日本のウイークエンドパスで、今回の大津波にも屈せず、しばらくしたら観光産業も復活した松島をたずねることにした。本来もっと早く出かけたかったのだが、気分的にも憂鬱な状態で整理がつかず、伸ばしのばしになってもいた。今回やっと実現に漕ぎつけた。
 30日7時過ぎに家を出、パスを買った。8,700円で東日本の半分以上の地域を乗り放題。しかも特急券を買えば新幹線にも乗れる。8時台のやまびこに乗り、2時間で仙台着。かねて何度も乗ったことのある仙石線のホームを目指す。遼東の豕さんのブログで2カ月以上前にも東塩釜まで通じているとの情報を得ていたが、今や本数は少ないが、松島海岸の一つ先の高城町まで伸びている。多賀城の高架工事も右車線は完成、左はまだ踏切のある路線を通る。
 本塩釜で下車。歩いてマリンゲート塩釜に向かう。まだ津波で陸に押しあげられた船がそのままになっている。大きな穴が空いているので、処分するしかないが、所有者が処理に来ないのだろう。道路も段差が残ったままで歩行も注意を要する。
 13時発の島めぐり芭蕉コースの切符を1,400円で買ってから周囲を見学した。
売店も半分ほどは閉鎖中であるが、おいしいパンとコーヒーにありつけた。
 遊覧船会社は2社がそれぞれ同じ時刻に大きな船を運航している。私が乗ったのは、丸文松島汽船のだが、下船してきた人の数は8人。乗船したのは5人だった。中に数名往復する人がいた。空気を運んでいるようなものだが、若い従業員はけなげに働いている。
 出航するとカモメの群れが船側に並行して舞う。2人連れが餌を投げると、争って近寄ってくる。しかし今日の乗客はその2人以外誰も餌を持っていないことを知って、数分したら大半は岸壁の方に去っていった。現金なものである。
 左に東北ドックの大きな修理用のクレーンが数本ある。今では新造は止めて、修理専門の由。右手の岸壁に処理済みのスクラップの山がいくつか船積みを待つかのように置かれている。20年以上も昔になるが、仙台新港にあった吾嬬製鋼(その後→JFE)の新鋭工場にアメリカからの3万トン級の船で、スクラップを納入していたことを思い出した。スクラップの中に銃弾が混入していて、大クレームを受けたことが頭をよぎった。今回の大津波の被害を受け、本社は工場閉鎖を発表した。震災前なら当然、その工場に運ばれていたはずのスクラップが、いまやこうして船に積まれてよそに向かうのだ。
 船内の放送で、両側に次々に現れる松を戴いた島々の名称といわれを聞く。
260もの島に名前がついているという。遊牧民族は動物たちの名をたくさん持っている。大切な家畜の名は、我々日本人の及びもつかないほどたくさんあるそうだ。ここ松島には、永い年月をかけて大切にしてきた人々が、伊達の殿様はじめいろいろな歴史上の人々との関係をつけながら、一つ一つの島を我が子のようにいとおしんで名付けたのだろう。その島々の御蔭で今回の災害は比較的小さく抑えられたという。
2.
 桂島という細長い島に400人ほどが住んでいて、一番高い所に学校の建物が見えた。水や電気は本土から海底のパイプで運んでいるが、今回の津波でも、
大きな損害は無かった由。中には過去の地震で一つの島が二つに割れてしまったのもあるそうだが、千数百年以上も住み続けていられるのは、ここが、島の自然の防波堤で保護されているからだろう。
 湾の右側にはカキの養殖場があり、左には海苔の養殖場があるという。右側には豊かな森の滋養を含んだ川の水が流れ込み、カキの稚貝が大量の海水を浄化しつつ、それらの滋養を取り入れて育つという。諫早干拓の問題を思い出していた。大連の黄海側沿岸に広がる広大な昆布の養殖は、三陸からもたらされたれた由。戦前は日本から輸入していた昆布は今や輸出に転じたという。大連市が懸命になって、禿げかけていた丘陵地帯に松を何万本、何十万本も植えたのはそういうことだったのか。
 50分で松島到着。歩いて五大堂に向かった。海岸沿いの道の防波堤の上部の石は何個かはぎ取られていたが、本体は大丈夫だ。五大堂の海側に面した灯篭は、無残にもなぎ倒されて、左側に積まれてあった。この程度で済んだというのは、僥倖であろう。本堂は無傷のように感じた。
 五大堂から瑞巌寺に向かう途中の観光名物売り場や食堂は、半分以上営業していたが、まだ手の付けられていない店の中は、ガラーンと放置されたまま。瑞巌寺の右側の洞の前に建てられた仏像の何個かは、台座から落ちたまま。
この洞の中で座禅を組んで修業した僧たちが早く戻せと訴えているようだが、
まだここまで手が回らないのだろう。本殿は今改築中で白いテントに覆われていた。昨年来た時に庫裏から右側の秘宝を見学に来たとき、こんなに海に近い御寺が、永い年月自然災害に破壊されることなく今日まであるのを、なんの不思議にも感じなかったが、古人はそうしたものに耐えられる場所を選んだのだろう。
参道の両側の巨木が一本も倒れているものが無いのは、不思議な気がした。大したことのない台風などでも根こそぎやられてしまうのだが、ここは海岸から30Mほどしかない土地なのに倒れていない。巨木はその丈の高さと同じだ
け深い根を、土中に張り巡らせているのだろう。冬の寒い地方では年輪がしっ
かり刻まれ、丈夫な根が地中深くまで伸びるのだろう。
3.
 そんなことに感心しながら、松島海岸駅に向かい、仙台に戻った。瓦屋根の多くは、雨洩り防止の青いビニールシートで覆われている。東北ドックの古い建屋はぺしゃんこに崩れたまま。そこまでまだ手が回らないのだ。
 瓦礫の処理がすんで、余裕ができたら屋根の張り替えに着手するだろう。今度は関東大震災後のようにきっとトタン屋根が増えることだろう。
 七夕祭りを来週に控えて、駅舎のすべてが大きな七夕飾りで満艦飾であった。
定宿のホテルに電話したら、「本日は満室になっております」との答。
ぎゃふんとして、その姉妹店などにあたってもらったが、すべて満室という。
手頃な値段なので、ヴォランティアの人たちが大勢予約しているようだ。仙台から少し足を延ばして郊外のホテルにあたったが全て満室。困り果てて、山形、米沢などにもあたったがダメ。途方にくれていっそ宇都宮まで戻ればなんとかなるだろうと、途方にくれて歩いていたら、観光旅館案内所の看板が目に入った。さっそく聞いてみたが、郊外の温泉地しか無いという。えい、仕方が無い1万円超えてもやむなしと決め、やっと泊る所が確保できた。これだけホテルが一杯ということなら、仙台はもうだいぶ回復しつつあって、駅前の繁華街は去年より活気に満ちているほどにも感じた。
 牛タンや海鮮料理、寿司店それに中華料理など満席で盛況であった。食は民の元気のもと。旅行者も結構多いには違いないが、地元の人が平日にちょくちょく利用しない限り、飲食店はもうからない。行列のできている店まであった。
よほどおいしい牛タンを出すのだろう。
4.
 翌朝、今回のもう一つの目的である東北大学の魯迅像を見に出かけた。
バスの案内所に聞いたが要領を得ないので2か所行くことにした。
最初は現在の医学部のキャンパス。正門を入って左側に「献体」の石碑があり、そのもうひとつ先に、山形伸藝の石碑がある。福井の人で明治34年(1902)に仙台医専の学長として多大の功績を称えられていた。藤野先生も福井の人だから、ひょっとしてこの学長に創立されたばかりの仙台医専に、招かれたのかもしれない。小雨降るキャンパスを歩きながらひとめぐりして、バスに乗り目指す片平キャンパスに向かった。
 以前東北大に来た時に果たせなかった魯迅像との対面のためである。正門の方から入って、資料室を目指したが、震災の影響で現在は閉館中とある。残念。だがその先に少し顎を上向きにした魯迅の横顔が見えてきた。ゆっくり、
おもむろに近づいた。北京や上海で見た像とはすこし趣が異なるように感じた。
作成された年代の差であろう。この像は東北大学の西澤潤一学長の題字で、中国美術協会の曹崇恩氏が作ったとある。碑文にはこの片平の地に1901-1912年の間、仙台医専があり、魯迅は1904年秋から1906年の春までこの地で学んだが、医学は中国人の精神変革の助けにならぬと考え文学に転じた、という言葉が彫られていた。この像は1992年10月19日に建てられている。いつ頃誰が発起人として提案したのだろう。天安門事件を経た中国との合作が実を結んだのは、やはり何といっても、西澤さんのしっかりした考えに周囲の人々が賛同したからに違いなかろう。




5.
 今回の旅行中、津波のことと中国温州で起きた衝突のことを考えていた。その余りにも性急な先頭車の破壊埋殺しから掘り出しまでのこと。救助停止後の2才の幼児発見のことなど。世界中から非難を浴びても、頼りない鉄道部の発言者の虚しい言葉を聞きながら、あいた口がふさがらなかった。原発保安院の発言者の頼りなさがダブって聞こえた。
 それでも1日半で復旧再開した列車に大勢の乗客が乗り込んで、事故の現場を見ながら通過してゆく。どういうことになっているのだろう彼らの精神は!
そんな疑問を抱きながら、鳳凰テレビの何亮亮氏のコメントが何がしかの疑問を解いてくれたような気になった。
 彼のコメントの要旨は:
 今回のとんでもない事故後の対応に対する世界各国からの非難、軽蔑、警鐘ならびに「ざまーみろ」的な批判などすべて真剣に受けとめ、事故の原因究明に努め、同じ事故が二度と起こらないようにすれば、中国は再び信用を取り戻せるだろう、とあくまで前向きであった。
 その楽観的見方の根拠として、75年前に死んだ魯迅は、(日清戦争で日本に負け、世界から見下され、とりわけ日露戦争で勝った日本に生活していて)彼は日本人が当時の中国人(清国人:チャンころと呼ばれていた)をどのように見ていたかを肌身で感じていた。今回日本のメディアには「幸災楽禍」(いい気味だ)という面も見られるが、そんなことは気にしなくてよい、時が経てば忘れ去ってしまうことだ。
彼は言う。(世界の中で、生き延びてゆくには)魯迅が言ったように、中国人の考え方を変革しなければならない。人に自分の失敗を許してもらおうとか、人から褒められようとか考えないで、自分で自分の国をしっかり変革して、事故の原因を徹底的に調べて、二度と起こさぬという方に意識を変えるのだ。
彼の気骨ある言葉が、その後の中国の変革に大きな影響を与え、新しい中国建国に繋がった、として引用している。
変革の為にあらがう。どんなにけなされ、さげすまれても、気にせず、自分を変革するためにひとつずつ変革してゆくしかない。
これは百年前に魯迅が吶喊したことである。あいまいなまま、いいかげんに
ものごとをすませてしまってきた中国人も、きっと変革できるのだ、というのが何亮亮氏の言葉だ。意識を変革しなければ、世界中から見下される、と。
 
6.
 仙台から横浜の自宅まで、在来線を乗りついで帰った。
途中、空港線に乗ってみたが、まだ修理未完で一つ前の駅でバス輸送であった。
車窓から緑濃い田んぼの稲を飽くことなく見続けた。福島県は在来線で通ると、南北にも結構距離があるのが分かる。横長い県だとばかり考えてきたが、伊達市から福島市、郡山市、須賀川市、白河市と大きな市が続き、今朝3時ごろの地震の影響で、快速が運休となり計3回乗り換えた。その間、東京方面からの貨物列車が、つぎつぎにすれ違う。地震で夜間から早朝の便が止まっていた影響だろうか。いずれにせよ、これだけの貨物列車が仙台方面に向かうということは、それだけ物流が回復してきた証拠でうれしいかぎりだ。
 途中に休耕田も散見したが、休耕田に大型ソーラーパネルを設置するというのは、いかがなものかと思う。一旦設置したら、撤去費も馬鹿にならぬし、いつ何時また他の作物を植えられるようになるかもしれぬ。
 ソーラーパネルは、鉄道の駅舎周辺の屋根から線路の上に設置してはどうであろうか。車窓からの景色を見えるようにトタンぶきの屋根のような格好で、
鉄道上に設置し、その電力で運行できるようにしてはどうか。送電線は従来の電車用の線と併用とか送電用の複線にする方がコストも安くなろうと考えた。
或いは、国が買い上げることになる原発周辺の土地に敷設するがよかろう。その発電で得られたお金は、移住を余儀なくされた人々への補償費に充てるべきだと思う。
    2011/08/04記 
 

拍手[0回]

厳復と魯迅

天津の旧租界地が改革開放後に整理され、復旧保存されて観光名所的なスポットも
たくさん造られた。
そんな中で、厳復の旧居跡に彼の像が建てられていたので感心した。
福建出身の彼が14歳で父を失い、西洋の学問への道を歩みだしたのが、彼がその後
「天演論」など進化論を中国に紹介する踏み台となった。彼はその後天津の租界で暮らした。
紹興で生まれ、16歳の時、父の病死で南京の新しい学校に入った魯迅も、父親が存命だったら
多分そのまま科挙の勉強を続けて、医学や西洋の学問を学ぶことは無かったかもしれない。
彼はその晩年を上海の租界で暮らして一生を終えた。
清朝末期に福建や浙江という南方で青春を過ごした二人は、14-16歳という多感な時に
父を亡くして、旧来の儒教ー科挙の出世コースを歩むことを諦め、新しい学問に身を投じた。
時代がそうであったのと、家庭環境がそうしからしめた、という二つの要因が彼ら二人に
新しい選択をさせたと言えよう。
厳復の遺した言葉に、「尊民叛君、尊今叛古」という8字がある。民と今を尊び、王君や古くからの
ものに叛くのだ、との考えで、これは魯迅にもつながっている。

拍手[0回]

上海特急

昨日北京ー上海間に新幹線(中国では高鉄という)が開通した。
温首相が北京南駅での開通式に参列し、1番列車に乗って21分後に北京と天津の間の駅で下車した。今朝のインターネットに彼が操縦席で運転士
とやりとりしている写真や、車内で乗客との会話している写真が掲載された。
天津で育った彼としても感慨ひとしおであろう。
彼がこれほど鉄道好きとは知らなかったが、勤務地であった甘粛省での
地質調査などでは、鉄道で何度も往復していたかもしれない。
突然戦争中にアメリカでつくられた「上海特急」という映画を思いだした。セットながら(アメリカでの)北京の市街地を出発した列車は、
両側に漢字の大看板や旗が掛った商業地に敷かれた、路面電車用のごとき
レールの上をゆっくり走る。線路を傍若無人に牛車が横切る。それが
通り過ぎるまで我慢づよく待つしかない。
上海に辿り着くまでに、軍閥間の抗争に巻き込まれて、列車強盗にあったような状態になる。主演はマレーネ・デートリッヒ。
70年で大変な変化である。
温首相は先のイギリスでの講演で、未来の中国の理想を語っている。
経済発展による豊かな生活、民主法治、文明発展、平等で平和な社会
香港のテレビの解説では、これらの西洋起源の理想は、何も西洋の専売
ではなく、人類の共通の知恵であるという。その未来に向かっての交通の
便として上海特急が十分機能することを願う。

拍手[0回]

魯迅の無菌化

チュニジアに端を発した独裁政権打倒の動きはエジプト、リビアにまで星火燎原
のごとく広がりつつある。その速さは火の速さより速い光の速さのようだ。
中国も自らを独裁政権と認識している。かつては無産階級(プロレタリア)専政
という言葉を使っていた。専制政治を短縮して専政という。日本語訳は独裁となる。
今は共産党の一党専政と標榜し、他の会派、党派は国政への参加を認めず、
ただ参考までに意見を聞きましょうという「政治協商会議」でガス抜きをしている。

 2月23日の朝日新聞の天声人語に、マーク トウエインの「ハックルベリー フィン
の冒険」のニガーという言葉が2百も出てくるのをスレーブという言葉にして
子供たちにも読んでもらおうとしていることに対して、NY タイムズが
「無菌化」と批判していることを紹介している。
この本は発売当時から「若草物語」の作者オルコットが、粗野で無教養だとして
発売禁止を働きかけていた由。
天声人語は この作品が子供たちにどういう影響を与えるか、ニガー派と
スレーブ派の双方が侃侃諤々議論を戦わせることが大事だと結んでいる。

 昨年、魯迅の全身にすっぽりとコンドームを被せてしまっている図柄が
インターネットにも表れた。
趙無眠のホームページより。 意味するところは、政権批判、あるいは1920年代で譬えれば、
オルコットに代表されるような中国の文人学者(正人君子)の猛烈な否定、
北京から逃れなければならぬほどの身の危険をも顧みず、刺激的な「匕首」
のような鋭い言葉で、論敵を徹底批判した魯迅のような「振る舞い」を、
現代の作家や反政府分子が「再演」することのないように、
すっぽりとコンドームで包んでしまう。
こうすれば、魯迅の言葉のような「スペルマ」も外部に発射されることは無く、
現体制への批判者も
同様に何か発したら「魯迅のコンドーム」を被せるぞよ、と脅している訳だ。

魯迅の無菌化。 
そして魯迅のスペルマを受け継いだ「作家」が誕生することのないように、と。
今の政権にとっては、魯迅の子供たちが、孫悟空の髪から生まれたように
うじゃうじゃでてきてもらっては、迷惑この上ない。
ちなみに岩波版の西田実訳ではニガーを「黒んぼ」と訳した理由を解説している由。
「ちびくろサンボ」という人気絵本が販売自粛?禁止になって久しい。
「阿Q正伝」(大胆に意訳すると「辮髪男はつらいよ」)もひょっとすると中身が
「無菌化」されるか、或いは「ハックルベリー」と同様、学校の生徒には読ませない
ように指導されるかもしれない。
今の中国は その是非をめぐって侃侃諤々議論できる状況にはない。
かえって1920年代の方が、文字の獄で捕えられて斧や鉞で首を切られる心配は
あったが,それでも出版することはなんとかできたそうだ。
それも30年代にはかなわなくなったと魯迅たちも嘆じている。  2011.2.23.

拍手[0回]

「阿Q」を書いたころの魯迅

古い本を整理していたら、大学3年のころの語劇に「阿Q正伝」をやった時の学園祭のパンフレットに投稿した原稿がでてきた。竹内好の文章を参考にしたようだ。 1968年秋ごろ書いたものだが、ここに書き出してみる。その年の夏に1か月ほど
広州、長沙、韶山、井岡山、南昌、上海、北京、天津などを訪れた。まさに文革華やかなりし時で、公園の植木の横には、「眉を横たえて冷やかに対す千夫の指…という魯迅の詩文があちこちに立っていた」
昭和43年11月21日の語劇のパンフレットには「魯迅の素顔」と題している。
 崇高な理想をかかげた孫文の辛亥革命も、いたずらに清朝政府を倒したまでのことに過ぎず、
革命に大きな期待を寄せていた魯迅(当時31才)のはかない希望はことごとくうちくだかれていった。
1918年(すなわち彼38才の時)「狂人日記」を新青年に発表し、つづいて41才の時「晨報」に
「阿Q正伝」を発表した。
 辛亥革命前後、全中国に存在した阿Qとそのとりまき連中、彼らのふるまいを紹興の一中学教師として
ながめ、また革命成立以後も、南京、北京と政府に出仕して、政府の役人として日々の生活を送り、
そうすることによって、体験的に余りにも身辺的すぎる原体験として、革命をうけとめ、その失敗(即ち絶望)
をなめつくした。
 小説を書きだすまでは、古い石刻の拓本を集めたり、中国小説史に関する資料を集めたり校訂したりして
やや逃避的とも思われる生活を送っていた。
 革命の理想(希望)があまりにもみごとに、あっけなくくずれ去るのに耐えられず、かといって力になる
ことは果しえず、小説を書き出して、はっきりと自己を確立するまで、彼は悩み続けたに違いない。
 当時彼は「阿Q的現実」の中国を憂い、革命の首都北京で、石刻の拓本をしている自分を恥じのろった。
そうした思いにかられるとき、たまらなく「寂莫」を感じ、ものを―即ち「阿Q」を―書かずにはおられなくなった
のであろう。
 革命に対する希望が絶望への変わり、その絶望も日常茶飯事となってみれば、希望を信じることが
できないのと同様、自分自身に対する絶望さえも信じることはできなくなったのである。
絶望が信じられなくなったら――どうなるか。もともと希望が信じられなのだから。
絶望が信じられないからと言って、さわぐにはあたらない。
 しかしそれでもなお彼は「人は生きなければならない」ということを信じ、「次代が自分に似ぬ」ことを
希望し、「二度と阿Qの悲劇がくりかえされない」ことを願わずにはいられなかったのである。
 原稿料のためなどでないことはいうまでもなく、彼はこの「阿Q」を書いたとき、中国人のためとか
革命のためとかいうことより以上に、自分自身のため、即ち自分自身を「阿Q」の世界から脱出
させるために、自分自身をより強くするために、自分の弱さを、あらいざらい、ことごとくしぼり出すために
「阿Q」を書かずにはおれなかったのであろう。
 ロマン ロランはこういったそうだ。「この風刺的な写実小説は世界的なものだ。フランス大革命の
時にも阿Qはいた。私は阿Qの苦しそうな顔を永久に忘れることはできない」と。
 絶望之為虚望、正与希望相同。絶望の虚望なること、正に希望に相同じい。









拍手[0回]

 魯迅と進化論

1.
  2年ほど前から魯迅の作品が中国の教科書から削除され始めている。以前の理由は、現代の若者にとって魯迅の作品は「鶏のあばら骨」で、骨ばかりで食べるところが無い、という言葉に代表されていた。魯迅の作品に代わって採用されたのは、武侠小説で有名な香港在住の金庸氏の作品と伝えられた。こちらの方が肉のたっぷりついたKFCのように若者たちに人気があるらしい。
 日本ならさしずめ、漱石の代わりに、誰だろう、井上ひさしとかだろうか。
 
 20101231日のサンケイ新聞、上海の河崎真澄氏の伝えるところでは、
教科書出版元の人民出版社の削除の理由として
 ①作品の内容と現代の時代背景との差が開いた。
 ②中国語の用法が大きく変化した。
 ③作品の扱う内容が深刻すぎる、などを挙げていた。
 そして地元紙は「魯迅の文章は難しすぎる上、その言葉づかいは、現代の中国人のプライドを傷つけている」と削除賛成派の声を紹介した。
一方、魯迅の生地の浙江のネットには、「魯迅による国民性への批判を忘れて祖国の発展はない」と削除反対の論評で、「経済力をバックに国際的発言力を強める一方、内外からの批判を受け入れなくなった中国社会を問題視し、削除反対の立場を明確にした」と記者のコメントを附している。
そして次のように続く。
教育関係者の中には「批判精神が旺盛な魯迅の作品が、若者による中国共産党一党支配体制への批判に飛び火することを懸念したのではないか」との見方も出ている。
そして「祝福」など批判精神より文学性の色濃い作品に移った、と。
ここで気になるのは、記者が引用した言葉を発した「教育関係者」とはどのような人を指すのか?現場で教えている教師か、あるいは教育行政に携わる役人か?いずれにせよ今の中国では国家から給与を得ている公務員に違いない。
もし2010年の今日でも役人である教育関係者がサンケイという外国の新聞社に対して、一党支配体制批判に飛び火することを懸念したのではないか、というコメントを出せるようになったとしたら、冥土の魯迅も喜ぶことだろう。
 
2.地元紙のコメントの中で、「その言葉づかいは、現代の中国人のプライドを
 傷つけている」という一節がある。これは何を意味するのだろうか?
 「熱風」随感録42で、杭州の英国教会の医者が、医書の序に中国人を土人と呼んでいることに対して、魯迅はとても気分を害した、と書き出した。長くなるがなぜ世界に対して経済的な力を誇示して、EUやアメリカ、それにインドまで、その資金をバックにした「購買力」外交を展開して、GDP世界第二位の所まで来た中国人のプライドを傷つけるのか、見てみることにしよう。1920年代のことだ。
(上記の随感録より引用)
つらつら考えてみるに、今は忍受するほかないと思い始めた。土人という言葉は、本来その地に生まれた人を指し、なんら悪意はなかった。後になってその意味が多くは、野蛮民族を指すことになり、新たな意味を持ち出して野蛮人の代名詞になった。
彼らがこれで中国人を指すのは侮辱の意味を免れない。だが私は今、この名を受け入れざる以外に方法は無い。この是非は事実に基づくことで、口頭での争いでは決着しない。中国社会に食人、略奪、惨殺、人身売買、生殖器崇拝、心霊学、一夫多妻など凡そ所謂国粋なるものは、一つとして蛮人文化に合致せぬものは無い。弁髪をたらし、アヘンを吸うのは、まさしく土人の奇怪な編髪と、
インド麻を食うのと同じだ。纏足に至っては、土人の装飾法の中でも第一等の新発明だ。彼らは肉体に種々の装飾を施し、耳朶に穴を開け、栓を嵌める。下唇に大きな孔をあけ、獣骨を差し、鳥のくちばしのようだ。顔には蘭の花を彫り、背に燕の刺青。女の胸にはたくさんの丸くて長いこぶをつける。しかし彼女らは歩けるし、仕事もできる。彼らは今一歩の寸前で、纏足ということにまでは、思い到らなかった。……この世の中にこんなに肉体を痛めつける女性を知らないし、こんな残酷なことを美とする男はいない。
まことに奇事、怪事也。
 夜郎自大と古いものを後生大事にするのも土人の一特性である。英国人George Grey(1812-1898)はニュージーランド総督の頃、「多島海神話(ポリネシア)」を書き、序に著書の目的を記し、まったくの学術目的ではなく、大半は政治的手段だが、彼はNZの土人には、理を説くことは不可能だと書いている。彼らの神話の歴史の中から類似の事例を示して、酋長祭司たちに聞かせれば、うまくゆくという。
 例えば鉄道を敷く時、これがどれほど有益か口をすっぱく説明しても、決して聞く耳を持たない。もし、神話に基づいて、某大仙人がかつて一輪車を推して虹の上を歩いた。いま彼にならって一本の道を造るといえば、ダメだとは言わなくなる。(原文は忘れたが、大意は以上の通り)
 中国の十三経二十五史は、まさに酋長祭司らが一心に崇奉する治国平天下の
譜で、向後、土人と交渉する「西哲」が、もしも一篇手作りすれば、我々の
「東学西漸(東方の学問が、西方に漸進する)」の手助けになり、土人を喜ばせることになろう。
 引用が長くなったが、この文章を読む時、現代中国の若者は、大きなギャップを感じるだろうし、反感を持つかもしれない。過去のことになったのだろうが、聞きたくも無い非人道的なこととして。決して誇れるような過去ではなかった、と感じることだろう。「プライドを傷つけられた」と感じるかもしれない。
 
3.進化論
 魯迅はこれ以外の場所でも、頑迷固陋で古くから守って来た「国粋」を絶対手放さず、一切の改革を拒否する保守派を罵倒し続けてきた。
 その根源は何だったのであろうか?
 「父の病」にも書かれているが、ほとんどペテンだとこっぴどく否定して憚ることのなかった、漢方医否定に典型的に示されるものだろう。中華民族がこのまま、後生大事に古いものに固執し、進化論を受け入れなければ、上記の土人たちと同様、西洋の植民地にされ奴隷にされ、進化どころか退化して滅亡させられる恐れがある、と声を限りに叫び続けた。
 彼の時代には、ダーウインやハックスレーの進化論、自然淘汰説などが一世を風靡した。欧州人が考えたそれらの論や説をそのまま信じるとすると、進化論的に優位な立場にあり、身体能力、智恵に優れた欧州人が未開のままの土人たちを使役し、土地も富も取り上げ、種族は滅亡の危機に瀕する。そのストーリーが中国沿岸各所に徐々に浸透してきているにも関わらず、纏足に代表される「土人的」風習を頑迷に持ち続ける中国人に、一刻も早くそんな古いものは棄て去って、西洋近代化の原動力の一端となった「進化論」を始めとした近代文明を取り入れねばならない、と啓蒙し続けたのが彼の文章であったと思う。
 
4.今西錦司の「進化論」は「ダーウインの進化論」とは違うと言う。
最近、今西錦司の「ダーウイン論」土着思想からのレジスタンス(中公新書)を読んでいる。京都で暮らしていたころ、下宿の2軒北が彼の住まいだった。
煉瓦塀の中にうっそうとヒマラヤ杉のような大木が何本もある中に、洋館があり、その方面に興味のある友人が、有名な学者だと教えて呉れた。先日、近所を尋ねたとき寄ってみたら、我が下宿は3階建てになり、彼の家も数軒に分けられて、奥の方に同姓の新しい家が建っていた。向かいの酒造家の屋敷は45年前の風格そのままであった。
 そんな個人的な思いを抱きながら、彼の著書は読んだことは無かった。彼が
晩年70数歳でダーウインの「種の起源」を原著で読まねば、あの世に行って、
ダーウインとダーウインの論理でダーウインを批判できない、と思って、岐阜大学の友人に原著を拡大コピーしてもらって、2か月かけて読んだ、とある。
ダーウインの進化論は大変なものだが、自然淘汰説と混同してはいけない。
「ダーウイン亡き後の学者は殆ど彼の提灯持ちで、ダーウインの信奉者は誰ひとりダーウインの不利になるようなことは、おくびにも出さない。つまりダーウインの伝記や礼讃がやたらに多くて、一人として「ダーウイン論」をまともにやっているものがいない」(同書9頁)というのが、この本を書く出発点であった。
 今西の論点は自然淘汰ではなく、「定向進化論」にあり、「定向進化論」にもその歴史があり、いつも少数派で、たえず主流派の弾圧を受けながらも、今でもその命脈を絶やさずに、生き続けてきたのである。(同書166頁)
 「定向進化論」については、彼の著書に直接当たってもらう他ないが、彼は「私の書く本は自然科学書とは取り扱われないだろう」(同9頁)としている。
そして進化論に関しては、真理は一つとは限らぬ、とも述べている。
「進化を歴史と見なそうという立場は、もはや生物学の立場ではないかもしれない。(中略)進化を生物学の枠から外して、もっと大きくとらえ直そうとすることが、生物学者にはできない思想家の役目であるならば、かつては生物学を学んだ私ではあるけれども、今の私は一人の思想家であるといわれることを、かならずしもあえて辞退するものではない」(同154頁)
 「私をしてアンティ・ダーウイニズムに傾かせているものがあるとすれば、それはやはり棲み分けに端を発した私の自然観であり、(中略)それは一種の
停戦協定ができたようなものである」と考えている。
 そこには、19世紀から20世紀にかけて殆ど地球を占領しそうになった西洋進化論者たちへのレジスタンスがあり、未開とか遅れていると言われた地域に住んでいた人間と生物が、ダーウインのいうようには絶滅せず棲み分けによって、停戦協定の下、生存し続けてきている、と主張している。
 
5.現代中国人は魯迅を削除せず、読んで批判してこそ将来展望が開けてくる。
 魯迅は、儒教の経典を暗唱できなければ合格できないといわれた科挙受験のための勉強を、途中で止めて洋学に転じた。その当時は、そんなことをする者は魂を外国の鬼に売り渡す者だとさげすまれた。
しかし彼が南京の学校で学んだのは進化論をはじめとする西洋社会進化論で、それに基づけば、眠れる獅子中華民族はこのままでいたら欧米列強に淘汰されるとの恐れに突き動かされた。進化、改革せねば滅んでしまうという恐怖。
英米など西欧文学は優位者の立場を擁護、弁護するものが多く、魯迅の参考にはなりにくい。彼らに圧迫されている少数民族の文学に、その当時の清国の状況に近いものを見た。といって少数民族の言葉を読めない彼は、それらを多く翻訳しているドイツ語に注目して仙台の医学校を辞めて東京に戻ってから帰国までの数年間にせっせとドイツ協会の語学校に通った。
 ダーウインやハックスレーは魯迅にどんな影響を与えたか?
生存競争、適者生存、自然淘汰、これらの言葉が呪文のように、魯迅の頭の中で「改革」「変革」をして西欧の進化に追い付かねば、デクの棒のように西洋人に使役され、ロシア人のスパイとして銃殺されても、それを眺めて喜んでいるだけの中国人は、いずれこの地球から滅びてしまうというのではないかという危惧が、彼におびただしい量の文章を書かせた。
彼の文章は彼が生きていたころの同世代の人々、特に青年たちにどれほどの影響を与えたかは、正直言ってよく分からない。革命政権樹立後に祭り上げられたような大きな影響は無かったのではないかと思う。しかし、少数派として常に叫び続けてきたこと、そして1936年に死んだとき、約6千人の上海市民から贈られた「民族魂」と書かれた布にくるまれて、万国公墓に埋葬されてからじょじょに内外からの評価が高まったのではないかと思う。
 1920年代から30年間全土での内乱と日本の侵略による荒廃と抵抗を経て、なんとか新しい中国を造ることに成功した。そのときに毛沢東が彼を、「骨の硬い」先駆者として祭り上げ、全国各地に魯迅の名を冠する記念館、公園、芸術学院などを作り、大宣伝して「聖人」にしてしまった。彼は決してそうではないし、そうされることを拒絶する部類の人間だと思うが。
 その結果、台湾や米国に逃れた人を除き、殆どの人がダーウインの信奉者と同様、伝記と礼讃がやたら多くて、まともな魯迅論を出せなくなってしまった。これは不幸なことである。魯迅の信じた進化論。それは今そのまま通用しなくなってきている。確かにそれまでの聖書にあるような「地上の生き物はすべて神が創造したもので、生き物が自然に進化することはない」という天動説を引っ繰り返したダーウインは偉大であるが、その後の遺伝学の発展により、突然変異とか、いろいろ新たな発見がなされ、今西氏のような少数派もいくらか出てきた。それがダーウインを批判し、より真理に近いものにしようとしている。ダーウインの偉大な点を認めながらも、真理は一つとは限らないというのが大事である。
6.
 話は飛躍するが、アメリカに住んでいた人が私に語ってくれた話だが、アメリカにいる黒人がアフリカにいる黒人より体格も優れ、たくましいのはなぜかと訊く。答えに窮していると、アメリカ人の言うには、
① そもそもアフリカで頑丈そうなのを奴隷として集めてきた。
② 奴隷船の船倉に丸太棒のように押し込められて大西洋横断中に、死なずに上陸できた生命力の強いものの子孫である。
③ 南部の綿花畑のきびしい環境下、長時間労働に耐える体力を培った。
④ 農園主も労働力商品として生活管理を徹底し、長生きするよう大事にした。
等で、今のような頑強な体力の子孫が生き残った、という。
なんだかダーウインの進化論の亜流の感がする。
 これと似た話は、福建、広東から子豚が母豚の乳を吸うような格好で、船倉に押し込められて、東南アジアに苦力として運ばれてきた豚の子と呼ばれる華人の子孫たちも、輸送途上とか熱帯雨林のゴム園での苛酷な労働にも耐えて生き残った者の子孫だから、つよくてたくましいと言われる。百年もせぬうちに、移民先で政治的経済的な支配階層にもなっている。
話をアメリカに戻すと、華人よりもたくましい大統領が生まれたことは特筆に値する。タイやシンガポールの首相とは歴史的な重みが違うと思う。しかし
去年のオバマ大統領の中間選挙での敗北の一因に、彼が掲げる「Change」に同調できない、ダーウインの進化論を学校で教えない人たちの声が反映されている、と伝えられた。百年、二百年前の移民してきたころと同じ生活を大事に守って暮らす方が、Changeより大切であると信じている人たちが、発展はせずとも、先進科学文明に滅ぼされずに、個体数を減らさずに生きているのだ。これも今西論に近いかもしれない。棲み分けである。
しかしながらアメリカはダーウインの進化論以上に進歩しているのは素晴らしい。アフリカ系の先祖を持つ人間が一国の大統領になれる寛容さがあるのだ。
その一方で、少数派と言わざるを得ない上記のような白人も許容されている。
7.
 魯迅は生きている頃は、大多数の現状肯定派を罵しる少数派であった。
今、彼はまたもとの少数派に戻されようとしているようだ。少なくとも学校の教科書からは。
今の中国は7千万人と言われる翼賛的な共産党員の中から選ばれたエリートが13億人の中国人を統治する体制のなかで、「マルクス主義や毛沢東思想」というバックボーンを喪失した状況にある。そこで先祖がえりともいうべき、儒教的な考え方をより所にしようとする動きが顕著になりつつある。魯迅の否定した「孔子を聖人として崇める」考え方が、復活しつつある。全国各地で破壊され荒廃して放置されていた孔子廟が修復され、論語や儒教関係の本が書店の大きな売り場を占め始めている。子供向けの儒教の教養古典もどっさり並ぶ。
それを学ぶことが、受験にも役に立ち、エリートへの道を歩みだすための、入場券になりつつある。
 70年前まで、進化論に突き動かされて、改革をしなければ民族は滅びると叫びつづけた魯迅の文章を「現代中国人のプライドを傷つける」ものだとして、削除否定してしまうような尊大な「高慢さ」が、はびこってきているなら、夜郎自大と言われてもしかたあるまい。
 人間は物質的にある程度豊かになり、日々の暮らしが安定してくると、変化を嫌うようになるのだろうか。もともとが保守派が常に優勢を占め、新法とか改革派というのが、政治的には追い落とされてきた長い伝統の国であるから。
   2011/01/04記 
 
 

拍手[0回]

カレンダー

06 2024/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

フリーエリア

最新CM

[09/21 佐々木淳]
[09/21 サンディ]
[09/20 佐々木淳]
[08/05 サンディ]
[07/21 岩田 茂雄]

最新TB

プロフィール

HN:
山善
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R