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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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松島へ

松島へ
1.
 7月30日と31日の両日、JR東日本のウイークエンドパスで、今回の大津波にも屈せず、しばらくしたら観光産業も復活した松島をたずねることにした。本来もっと早く出かけたかったのだが、気分的にも憂鬱な状態で整理がつかず、伸ばしのばしになってもいた。今回やっと実現に漕ぎつけた。
 30日7時過ぎに家を出、パスを買った。8,700円で東日本の半分以上の地域を乗り放題。しかも特急券を買えば新幹線にも乗れる。8時台のやまびこに乗り、2時間で仙台着。かねて何度も乗ったことのある仙石線のホームを目指す。遼東の豕さんのブログで2カ月以上前にも東塩釜まで通じているとの情報を得ていたが、今や本数は少ないが、松島海岸の一つ先の高城町まで伸びている。多賀城の高架工事も右車線は完成、左はまだ踏切のある路線を通る。
 本塩釜で下車。歩いてマリンゲート塩釜に向かう。まだ津波で陸に押しあげられた船がそのままになっている。大きな穴が空いているので、処分するしかないが、所有者が処理に来ないのだろう。道路も段差が残ったままで歩行も注意を要する。
 13時発の島めぐり芭蕉コースの切符を1,400円で買ってから周囲を見学した。
売店も半分ほどは閉鎖中であるが、おいしいパンとコーヒーにありつけた。
 遊覧船会社は2社がそれぞれ同じ時刻に大きな船を運航している。私が乗ったのは、丸文松島汽船のだが、下船してきた人の数は8人。乗船したのは5人だった。中に数名往復する人がいた。空気を運んでいるようなものだが、若い従業員はけなげに働いている。
 出航するとカモメの群れが船側に並行して舞う。2人連れが餌を投げると、争って近寄ってくる。しかし今日の乗客はその2人以外誰も餌を持っていないことを知って、数分したら大半は岸壁の方に去っていった。現金なものである。
 左に東北ドックの大きな修理用のクレーンが数本ある。今では新造は止めて、修理専門の由。右手の岸壁に処理済みのスクラップの山がいくつか船積みを待つかのように置かれている。20年以上も昔になるが、仙台新港にあった吾嬬製鋼(その後→JFE)の新鋭工場にアメリカからの3万トン級の船で、スクラップを納入していたことを思い出した。スクラップの中に銃弾が混入していて、大クレームを受けたことが頭をよぎった。今回の大津波の被害を受け、本社は工場閉鎖を発表した。震災前なら当然、その工場に運ばれていたはずのスクラップが、いまやこうして船に積まれてよそに向かうのだ。
 船内の放送で、両側に次々に現れる松を戴いた島々の名称といわれを聞く。
260もの島に名前がついているという。遊牧民族は動物たちの名をたくさん持っている。大切な家畜の名は、我々日本人の及びもつかないほどたくさんあるそうだ。ここ松島には、永い年月をかけて大切にしてきた人々が、伊達の殿様はじめいろいろな歴史上の人々との関係をつけながら、一つ一つの島を我が子のようにいとおしんで名付けたのだろう。その島々の御蔭で今回の災害は比較的小さく抑えられたという。
2.
 桂島という細長い島に400人ほどが住んでいて、一番高い所に学校の建物が見えた。水や電気は本土から海底のパイプで運んでいるが、今回の津波でも、
大きな損害は無かった由。中には過去の地震で一つの島が二つに割れてしまったのもあるそうだが、千数百年以上も住み続けていられるのは、ここが、島の自然の防波堤で保護されているからだろう。
 湾の右側にはカキの養殖場があり、左には海苔の養殖場があるという。右側には豊かな森の滋養を含んだ川の水が流れ込み、カキの稚貝が大量の海水を浄化しつつ、それらの滋養を取り入れて育つという。諫早干拓の問題を思い出していた。大連の黄海側沿岸に広がる広大な昆布の養殖は、三陸からもたらされたれた由。戦前は日本から輸入していた昆布は今や輸出に転じたという。大連市が懸命になって、禿げかけていた丘陵地帯に松を何万本、何十万本も植えたのはそういうことだったのか。
 50分で松島到着。歩いて五大堂に向かった。海岸沿いの道の防波堤の上部の石は何個かはぎ取られていたが、本体は大丈夫だ。五大堂の海側に面した灯篭は、無残にもなぎ倒されて、左側に積まれてあった。この程度で済んだというのは、僥倖であろう。本堂は無傷のように感じた。
 五大堂から瑞巌寺に向かう途中の観光名物売り場や食堂は、半分以上営業していたが、まだ手の付けられていない店の中は、ガラーンと放置されたまま。瑞巌寺の右側の洞の前に建てられた仏像の何個かは、台座から落ちたまま。
この洞の中で座禅を組んで修業した僧たちが早く戻せと訴えているようだが、
まだここまで手が回らないのだろう。本殿は今改築中で白いテントに覆われていた。昨年来た時に庫裏から右側の秘宝を見学に来たとき、こんなに海に近い御寺が、永い年月自然災害に破壊されることなく今日まであるのを、なんの不思議にも感じなかったが、古人はそうしたものに耐えられる場所を選んだのだろう。
参道の両側の巨木が一本も倒れているものが無いのは、不思議な気がした。大したことのない台風などでも根こそぎやられてしまうのだが、ここは海岸から30Mほどしかない土地なのに倒れていない。巨木はその丈の高さと同じだ
け深い根を、土中に張り巡らせているのだろう。冬の寒い地方では年輪がしっ
かり刻まれ、丈夫な根が地中深くまで伸びるのだろう。
3.
 そんなことに感心しながら、松島海岸駅に向かい、仙台に戻った。瓦屋根の多くは、雨洩り防止の青いビニールシートで覆われている。東北ドックの古い建屋はぺしゃんこに崩れたまま。そこまでまだ手が回らないのだ。
 瓦礫の処理がすんで、余裕ができたら屋根の張り替えに着手するだろう。今度は関東大震災後のようにきっとトタン屋根が増えることだろう。
 七夕祭りを来週に控えて、駅舎のすべてが大きな七夕飾りで満艦飾であった。
定宿のホテルに電話したら、「本日は満室になっております」との答。
ぎゃふんとして、その姉妹店などにあたってもらったが、すべて満室という。
手頃な値段なので、ヴォランティアの人たちが大勢予約しているようだ。仙台から少し足を延ばして郊外のホテルにあたったが全て満室。困り果てて、山形、米沢などにもあたったがダメ。途方にくれていっそ宇都宮まで戻ればなんとかなるだろうと、途方にくれて歩いていたら、観光旅館案内所の看板が目に入った。さっそく聞いてみたが、郊外の温泉地しか無いという。えい、仕方が無い1万円超えてもやむなしと決め、やっと泊る所が確保できた。これだけホテルが一杯ということなら、仙台はもうだいぶ回復しつつあって、駅前の繁華街は去年より活気に満ちているほどにも感じた。
 牛タンや海鮮料理、寿司店それに中華料理など満席で盛況であった。食は民の元気のもと。旅行者も結構多いには違いないが、地元の人が平日にちょくちょく利用しない限り、飲食店はもうからない。行列のできている店まであった。
よほどおいしい牛タンを出すのだろう。
4.
 翌朝、今回のもう一つの目的である東北大学の魯迅像を見に出かけた。
バスの案内所に聞いたが要領を得ないので2か所行くことにした。
最初は現在の医学部のキャンパス。正門を入って左側に「献体」の石碑があり、そのもうひとつ先に、山形伸藝の石碑がある。福井の人で明治34年(1902)に仙台医専の学長として多大の功績を称えられていた。藤野先生も福井の人だから、ひょっとしてこの学長に創立されたばかりの仙台医専に、招かれたのかもしれない。小雨降るキャンパスを歩きながらひとめぐりして、バスに乗り目指す片平キャンパスに向かった。
 以前東北大に来た時に果たせなかった魯迅像との対面のためである。正門の方から入って、資料室を目指したが、震災の影響で現在は閉館中とある。残念。だがその先に少し顎を上向きにした魯迅の横顔が見えてきた。ゆっくり、
おもむろに近づいた。北京や上海で見た像とはすこし趣が異なるように感じた。
作成された年代の差であろう。この像は東北大学の西澤潤一学長の題字で、中国美術協会の曹崇恩氏が作ったとある。碑文にはこの片平の地に1901-1912年の間、仙台医専があり、魯迅は1904年秋から1906年の春までこの地で学んだが、医学は中国人の精神変革の助けにならぬと考え文学に転じた、という言葉が彫られていた。この像は1992年10月19日に建てられている。いつ頃誰が発起人として提案したのだろう。天安門事件を経た中国との合作が実を結んだのは、やはり何といっても、西澤さんのしっかりした考えに周囲の人々が賛同したからに違いなかろう。




5.
 今回の旅行中、津波のことと中国温州で起きた衝突のことを考えていた。その余りにも性急な先頭車の破壊埋殺しから掘り出しまでのこと。救助停止後の2才の幼児発見のことなど。世界中から非難を浴びても、頼りない鉄道部の発言者の虚しい言葉を聞きながら、あいた口がふさがらなかった。原発保安院の発言者の頼りなさがダブって聞こえた。
 それでも1日半で復旧再開した列車に大勢の乗客が乗り込んで、事故の現場を見ながら通過してゆく。どういうことになっているのだろう彼らの精神は!
そんな疑問を抱きながら、鳳凰テレビの何亮亮氏のコメントが何がしかの疑問を解いてくれたような気になった。
 彼のコメントの要旨は:
 今回のとんでもない事故後の対応に対する世界各国からの非難、軽蔑、警鐘ならびに「ざまーみろ」的な批判などすべて真剣に受けとめ、事故の原因究明に努め、同じ事故が二度と起こらないようにすれば、中国は再び信用を取り戻せるだろう、とあくまで前向きであった。
 その楽観的見方の根拠として、75年前に死んだ魯迅は、(日清戦争で日本に負け、世界から見下され、とりわけ日露戦争で勝った日本に生活していて)彼は日本人が当時の中国人(清国人:チャンころと呼ばれていた)をどのように見ていたかを肌身で感じていた。今回日本のメディアには「幸災楽禍」(いい気味だ)という面も見られるが、そんなことは気にしなくてよい、時が経てば忘れ去ってしまうことだ。
彼は言う。(世界の中で、生き延びてゆくには)魯迅が言ったように、中国人の考え方を変革しなければならない。人に自分の失敗を許してもらおうとか、人から褒められようとか考えないで、自分で自分の国をしっかり変革して、事故の原因を徹底的に調べて、二度と起こさぬという方に意識を変えるのだ。
彼の気骨ある言葉が、その後の中国の変革に大きな影響を与え、新しい中国建国に繋がった、として引用している。
変革の為にあらがう。どんなにけなされ、さげすまれても、気にせず、自分を変革するためにひとつずつ変革してゆくしかない。
これは百年前に魯迅が吶喊したことである。あいまいなまま、いいかげんに
ものごとをすませてしまってきた中国人も、きっと変革できるのだ、というのが何亮亮氏の言葉だ。意識を変革しなければ、世界中から見下される、と。
 
6.
 仙台から横浜の自宅まで、在来線を乗りついで帰った。
途中、空港線に乗ってみたが、まだ修理未完で一つ前の駅でバス輸送であった。
車窓から緑濃い田んぼの稲を飽くことなく見続けた。福島県は在来線で通ると、南北にも結構距離があるのが分かる。横長い県だとばかり考えてきたが、伊達市から福島市、郡山市、須賀川市、白河市と大きな市が続き、今朝3時ごろの地震の影響で、快速が運休となり計3回乗り換えた。その間、東京方面からの貨物列車が、つぎつぎにすれ違う。地震で夜間から早朝の便が止まっていた影響だろうか。いずれにせよ、これだけの貨物列車が仙台方面に向かうということは、それだけ物流が回復してきた証拠でうれしいかぎりだ。
 途中に休耕田も散見したが、休耕田に大型ソーラーパネルを設置するというのは、いかがなものかと思う。一旦設置したら、撤去費も馬鹿にならぬし、いつ何時また他の作物を植えられるようになるかもしれぬ。
 ソーラーパネルは、鉄道の駅舎周辺の屋根から線路の上に設置してはどうであろうか。車窓からの景色を見えるようにトタンぶきの屋根のような格好で、
鉄道上に設置し、その電力で運行できるようにしてはどうか。送電線は従来の電車用の線と併用とか送電用の複線にする方がコストも安くなろうと考えた。
或いは、国が買い上げることになる原発周辺の土地に敷設するがよかろう。その発電で得られたお金は、移住を余儀なくされた人々への補償費に充てるべきだと思う。
    2011/08/04記 
 

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