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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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山西文化の旅

1.五台山のご利益寺

 9月30日の朝7時半、香華最旺といわれる五爺故里に参詣した。早朝というのにバスが何台も連なり、駐車場は満杯であった。庶民の願い事をかなえてくれるというので中国全土からお参りにくるそうだ。そしてその願い事がかなったら、必ずお礼参りに来なければならない、とも云われている。そもそもは高い山の上にあったのだが、庶民がお参りに来易いようにと、民家の軒下まで下りてきてくれたそうだ。どこかで聞いた話を思い出した。そうだ、京都でも本来、山深いところにあった霊験新たかなお寺が、街中に別院というか小さな祠を建てて、お参りしやすくして、便宜をはかってくれている。
京都の下町の角々や、家々の軒の下にたくさんある地蔵菩薩の祠も、本来はとても一日では行けないような遠いところのお寺さんから、下町に下りてきてもらったものだそうだ。そういえば、太原からバスで4時間ほど田舎道を走っていたとき、道端に京都の地蔵尊を納めた祠よりすこし雑だが、大きめの祠を何箇所か見つけた。同乗の人に尋ねたら、土廟(トウミャオ)だと教えてくれた。
病気快癒とか大願成就とか願い事を、ご利益のあるお寺さんに願かけて、かなったならば、そこのちいさな祠に魂を入れてもらって、毎日お参りできるように家のそばに建ててもらう。そんな庶民の切ない願いをかなえてくれる五爺さんなのだ。ここではお礼の印に廟の正面で京劇のような地方劇を奉納していて、
この日も朝早くから、奉納されていた。心を形で表したのだろう。

2.平遥県衙の朱鎔基元首相

 10月2日平遥の古城めぐりをした。水が大切にされている伝統から、城壁の上に降った雨は、城内の方に落として、利用するようになっている。雨の多い地域では、排水というのは城外へ出すのだから、降水量不足に悩むここでは180度異なるわけだ。
30分ほど城壁の道を歩いて、かつての県庁である平遥県衙を参観した。すべての役所の仕事がついこの間までなされていたそうで、‘計画出産’の任務以外は、数百年まえからずっとこの役所で行われていたとはガイドの言。裁判所の役割もこなしており、宮刑もここで行われたとして、男根をそぎ落とされた男の下半身の実物大の写真が生々しかった。当時使用されていた刑具の実物や、フランス人が百年前に撮った写真が当時の状況を、如実に伝えてくれる。
裁判の模擬演劇を見たあと、少し歩いてゆくと、「平遥県衙」の大きな四文字が目の中に飛び込んできた。その揮毫した人の名がなんと朱鎔基とある。肩書きなしだ。
2002年4月に夫人同伴で訪れたと横の写真に説明があった。
一線から退いたあと、政治場面にはほとんど顔を出さないで、潔い人だと尊敬している。首相時代、日本に来ての話しぶりも非常に率直で好感がもてた。
ほとんど揮毫をしたことの無い彼が、この司法執行を厳粛に行ってきた県庁の役所に感じるものがあったのか。ただ四文字のみ筆にした。
しばらく考えていた。貪官汚吏を厳しく取り締まったこの役所の先輩たちに敬意を表したのだろう。

3.山西商人

 9月29日朝、太原を出発、五台山へ向かうバスの中で、ガイドの王さんが
一行にわかりやすく山西省の紹介をしてくれた。山西省を訪れる人は自然の美とか、リゾートなどの一般的な観光目的の人はほとんどいない。山西を6日かけて巡る人は、文化に興味を持っている人に違いないと、人の気持ちをうれしくくすぐる。確かに雲岡石窟や五台山などを見て回る人は、敬虔な仏教徒でもないかぎり、歴史文化を知る楽しみを求めてくるのであろう。
旅の終わりに、百年前まで大変栄えた山西商人の街に泊まった。昔の大商人の館を宿泊施設に変え、「客桟」と呼んでいる。私もそうしたところに泊まった。
道を隔てた客桟はユースホステルで、部屋には4つの2段ベッドがあり、手洗いは中庭を挟んだ別棟にあった。欧州人も含めたバックパッカーが中心だった。
一泊150-200元くらい。
 さて翌日、県庁などを参観した後、百年前に最盛期を誇った民間銀行というべき、自家手形を発行して流通させていた「票号」が、ずらっと軒を並べた、山西のウオール街を歩いた。その中で今は博物館となっている、「日昇昌」という処に入って、1823年から1931年の108年間で彗星の如く登場し、今や跡形も無く消え去った、中国最大の票号の生い立ちから、衰退までの解説をじっくり見学した。
 もともとは染物という製造業から身を起こしたのに、金融業で隆盛を誇ったのち、すべては配当とかボーナスで分配してしまって、後世に残るような産業に何ら投資しなかったのは、どうしてだろうとの疑問が沸いてきた。
渋沢栄一のいた日本と、彼のような人間が現れてこなかった山西、中国。
商業資本のみを尊いとし、手を汚す製造業をやや見下してきた伝統的なものが
背後に控えていそうだ。21世紀の今でもなお、物は人に作らせて、自らは上海の金融街で、金融か商業に徹する、そんなことでよいのだろうか。
         2008年10月

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