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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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「阿Q」を書いたころの魯迅

古い本を整理していたら、大学3年のころの語劇に「阿Q正伝」をやった時の学園祭のパンフレットに投稿した原稿がでてきた。竹内好の文章を参考にしたようだ。 1968年秋ごろ書いたものだが、ここに書き出してみる。その年の夏に1か月ほど
広州、長沙、韶山、井岡山、南昌、上海、北京、天津などを訪れた。まさに文革華やかなりし時で、公園の植木の横には、「眉を横たえて冷やかに対す千夫の指…という魯迅の詩文があちこちに立っていた」
昭和43年11月21日の語劇のパンフレットには「魯迅の素顔」と題している。
 崇高な理想をかかげた孫文の辛亥革命も、いたずらに清朝政府を倒したまでのことに過ぎず、
革命に大きな期待を寄せていた魯迅(当時31才)のはかない希望はことごとくうちくだかれていった。
1918年(すなわち彼38才の時)「狂人日記」を新青年に発表し、つづいて41才の時「晨報」に
「阿Q正伝」を発表した。
 辛亥革命前後、全中国に存在した阿Qとそのとりまき連中、彼らのふるまいを紹興の一中学教師として
ながめ、また革命成立以後も、南京、北京と政府に出仕して、政府の役人として日々の生活を送り、
そうすることによって、体験的に余りにも身辺的すぎる原体験として、革命をうけとめ、その失敗(即ち絶望)
をなめつくした。
 小説を書きだすまでは、古い石刻の拓本を集めたり、中国小説史に関する資料を集めたり校訂したりして
やや逃避的とも思われる生活を送っていた。
 革命の理想(希望)があまりにもみごとに、あっけなくくずれ去るのに耐えられず、かといって力になる
ことは果しえず、小説を書き出して、はっきりと自己を確立するまで、彼は悩み続けたに違いない。
 当時彼は「阿Q的現実」の中国を憂い、革命の首都北京で、石刻の拓本をしている自分を恥じのろった。
そうした思いにかられるとき、たまらなく「寂莫」を感じ、ものを―即ち「阿Q」を―書かずにはおられなくなった
のであろう。
 革命に対する希望が絶望への変わり、その絶望も日常茶飯事となってみれば、希望を信じることが
できないのと同様、自分自身に対する絶望さえも信じることはできなくなったのである。
絶望が信じられなくなったら――どうなるか。もともと希望が信じられなのだから。
絶望が信じられないからと言って、さわぐにはあたらない。
 しかしそれでもなお彼は「人は生きなければならない」ということを信じ、「次代が自分に似ぬ」ことを
希望し、「二度と阿Qの悲劇がくりかえされない」ことを願わずにはいられなかったのである。
 原稿料のためなどでないことはいうまでもなく、彼はこの「阿Q」を書いたとき、中国人のためとか
革命のためとかいうことより以上に、自分自身のため、即ち自分自身を「阿Q」の世界から脱出
させるために、自分自身をより強くするために、自分の弱さを、あらいざらい、ことごとくしぼり出すために
「阿Q」を書かずにはおれなかったのであろう。
 ロマン ロランはこういったそうだ。「この風刺的な写実小説は世界的なものだ。フランス大革命の
時にも阿Qはいた。私は阿Qの苦しそうな顔を永久に忘れることはできない」と。
 絶望之為虚望、正与希望相同。絶望の虚望なること、正に希望に相同じい。









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