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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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青蔵鉄道でラサへ


4月30日朝、大連を立ち北京経由で青海省西寧に飛んだ。北京始発のT27寝台特急に乗るためである。2昼夜かけて北京からラサまで鉄道の旅を満喫しようと考えてもみたが、ラサについてからの高山病対策と、休暇の都合で、青海省から西蔵までの25時間、いわゆる青蔵鉄道部分だけで満足することとした。
 3年前に貫通した部分はゴルムドからラサまでの区間で、西寧からゴルムドまでは、以前に開通している。高さ4千メートルの高原、長さ960KMの鉄路を走る、世界で最も高くて長い高山鉄道だ。永久凍土の上に高架橋を架けて、動物の移動ができるようにしている。地球温暖化が進んで、永久凍土が溶けだしたらどうなるのであろうか。杞憂であればと願う。天に飛ぶ鳥無く、地に草木一本も無い白っぽい土漠の高原である。
 
 列車の出発まで4時間ほどあるので、ラマ教の塔尓寺に出かけた。青海省5百万人口の内、2百万が省都西寧に住み、その1%がチベット族という。金葺き屋根の寺には、チベット族の学僧が1年中、右腕を露出し、読経しているというが、私が訪ねたときは、お堂の前で体をゆすりながら、必ずしもお行儀が良いとはいえないような、くつろいだ格好で経を唱えていた。その音は、日本のある宗派のものと同じように聞こえた。
ヤク羊のバターから取り出した油の灯明が何百個と灯されている。その燃えるにおいが鼻を強く刺激した。日本人は菜種油の灯明に慣れているので、バター油のものは、すえたようなにおいに感じる。これも慣れれば、気にならなくなるであろう。
 予定より1時間遅れて19時に西寧を出たが、北京時間で全国が律されているため、21時ごろまで、暗くならない。時差は2時間以上あるようだ。同室になった50歳代の李夫妻は、石家庄から乗ったという。列車内は酸素が供給されているのだが、李さんは少し高山病にかかりかけていた。中国語で悪心といい、胸焼けとか吐き気を催すようだ。
 とうとう添乗の医者に診てもらうことになってしまった。血圧を測り、薬をのんで、鼻から酸素を吸入し、数時間したらやっと落ち着きを取り戻した。
 私も20年ほど前、ヨハネスブルグに滞在したとき、2日目から夜に何度も目覚めた苦い経験があるので、高山病にかからないように何事もゆっくりと動くようにつとめた。もちろんアルコールもご法度だ。
 終日、緑の殆どない白っぽい高原地帯を列車は進む。ラサまで残り4時間くらいという所までくると、線路に平行して河が流れている。やっと人の住んでいる気配が感じられるようになってきた。五色の旗をたなびかせた人家が車窓から点々と見えるようになった。
 農業用水も敷かれ、麦の一種、青稞という穀物を植える畑が現れてきた。これは、チベット族の主食、チャンバというパンの原料となる。かつては、ポタラ宮にある上納所に、チベット黒牛の肉を取り去った後の皮を俵のようにして皮袋とし、中にこの青稞を満杯に詰めて、一人一頭分納めねばならなかったそうだ。どれくらい入ったのだろうか、まさしく人頭税である。
 今は、そんな農奴制から解放され、ラサに近づくと、下壁は石灰で白く塗りこめられ、屋根の近くはポタラ宮と同じ趣向で、赤い植物繊維で普請され、豊かさを感じさせる家が増えてきた。
 18時半、ラサ河の鉄橋を越え、ラサ駅に到着。ポタラ宮をイメージさせる大きな駅舎を出ると、猛烈な砂吹雪に見舞われた。乗客たちは一斉に逆向きになって耐える。ラサ河の河原にまだ草が芽吹いていないので、突風が吹くごとに、砂嵐が駅舎の方に吹き付ける。町はラサ河の北、山を背にしてあり、山の風が南の河に吹き降ろしてくる。
 19時になっても、昼のように明るい町中を進む。ポタラ宮を過ぎて北京路に入ると、ガイドの人が、昨年暴動が起きたのはこの辺りですと教えてくれた。
120万M2という中国第2の広さをもつ西蔵の人口は260万人余。その内、40万前後がラサに住んでいるという。本来は殆どがチベット族であった。だが、このところ多くの漢族が移住してきている。どれぐらいだろうか。私の乗った車の運転手は数年前、吉林から観光に来て、住みやすさに惚れて、そのまま居ついてしまったという。空気もきれいで、家族も引き寄せた、と。ガイドの女性も親がラサに住み着いていて、彼女は甘粛省の大学を出て、大都会への誘惑もあったが、やはり両親の住むラサに戻ったという。ラサの公務員の給与は新卒で4,000元と高水準にある。内地の公務員は一般的には1,200元という。差額は種々の手当てだそうだ。
この北京路はラサ一番の繁華街で、レンガではなくて、その3倍くらい大きい石を積み上げた3階建ての建物が、通りの両側に櫛比する。元来の所有者はチベット族だが、1階はすべて商店街となっており、2-3階が住居である。
 商店街の間口は、基本的にはすべて約3メートルで、まるでかつての京都の町のように、間口の広さで納税させられてきたかのようだ。違うのは、京都のような、うなぎの寝床ではなく、奥行きは無く、10軒か15軒ほどの間隔で、バスの通れるほどの空洞の入り口がしつらえてあり、奥には役所や学校、ホテルや食品市場や公共の建物があり、3階建ての商店街は、そうした内庭の冬の風よけの役目も果たしているかのようだ。
この商店街に、どうしたわけか貴金属を売る店が何軒かある。西洋人観光客目当てとは思えない。彼らの多くはバックパッカーだ。内地から来た観光客が買うのかもしれない。でもそれならわざわざラサで買う必要もなかろう。
 昨年の暴動は、この商店街のすぐ近くにある若いチベット僧が学ぶ僧院である小昭寺から発火したそうだ。テレビで何度も放映された、店のシャッターが
足でけり破られ、はがされた光景が思い出される。なぜポタラ宮と大昭寺、小昭寺に挟まれた、この一角に貴金属店が店を構えているのであろうか。
私には理解しづらい。外人観光客や漢族の観光客が、ポタラ宮にお参りした記念に買うのも中にはあろう。しかし、多くはチベットの各地からポタラ宮にお参りに来たチベット族の人たちが、なけなしの金を使ってこの貴金属の宝飾品を買うのではなかろうか。チベット族のお金を漢族が吸い上げている図になるのであろう。
 夕刻、ガイドの人から解放され、外人らしくない格好で、小昭寺の門前町を歩いた。入り口のところに14名ほどの武装警官が並び、鉄のパイプにトゲ状の鉄の棒を溶接した、バリケードが3本ほど並べられていた。門前町の中にも、武装警官が3-4組、6-7名で隊を組んで、巡邏しながら不審者の動きを牽制している。昨年のようなことを繰りかえさせてはならないとの示威のようだ。
 
 朝8時宿舎を出て、ポタラ宮に向かった。通りの歩道と車道の端は、例のくるくる回るものを右手にした老婦たちが何十人と整列しながらポタラ宮を目指して歩く。ガイドの人に尋ねたら、仕事をしなくても良くなった人たちが、毎朝、毎夕、こうして家々から集まっては、ポタラ宮の周囲の転経を回しに来るのだそうだ。こうすることで、生きていくことのプレッシャーを弱め、物理的な健康増進にもつながる。それでチベットの老人はとても長寿で健康を保つことができるのだという。こんな冬の寒い高地で80歳以上まで生きる。
 ガイドに案内されて、ポタラ宮に登った。中年の婦人たちが、声を張り上げて労働歌を歌いながら、餅をつく様な動きで踊っている。歴代のラマを祭る、
沢山の塔を拝観した。その前にお賽銭が、多くは50銭札なのだが、たくさんたくさん散らばっている。それを一枚ずつ集めて、数えたあとで十元札や五元札を置いてゆく。ガイドさんが教えてくれた。あの人たちは、遠くからお参りに来ていて、ポタラ宮の仏さんに供えられた50銭札は、ありがたいご利益があるので、それを等価のお札に替えて、自分の村に持ち帰り、村のみんなに、お土産にするのだという。
 チベットでは、漢族のお墓参りをする「清明節」は無いという。紙のお金を
燃やして、あの世で使ってもらおうというようなことはしない。チベットでは人は死んだら、天葬されるという。漢族は絶対立ち入り禁止の地域があって、
そこに死体を運び込む。善人はみなこうして天に昇る。悪いことをした人間は、
天葬にはされず、土葬されるという。
 便意を催したので、手洗いの場所を教えてもらった。すると、ここのトイレは、標高も高いが、落差は世界一だという。おそるおそる下を眺めたら、数十メートルはありそうだ。ポタラ宮の中間あたりから、まっすぐに入り口の階段下あたりまでの落差があり、そこで麦畑に戻すべく、毎日処理されている。
 2時間の拝観を終えて、外に出ると、大勢のチベットの老女老人が、時計回りに、ポタラ宮の壁に取り付けられた転経を回して廻っている。その機械油も、灯明に使うバターと同じものだそうだ。石油とか菜種油とかここで入手できないものは使わない。
 鉄道ができるまでは、誰でもポタラ宮に入れたのが、私のような観光客が増えたために、1日の入場者は3千人に制限された。チベット族の人も、それまで自由に入れたのが、1日数百人に制限されたそうだ。外国人はこの4月にやっとラサに入れることになった。それで私の泊まった宿舎は、夕食を提供できる状態ではなく、外部の四川料理店に足を運ばねばならなかった。
 店は入ってすぐ左のカウンターに調理済みの料理が、鍋のなかで温められており、それを指で2-3個選んで、12元という大衆的な店だった。それにタンタン麺を頼み、併せて20元しない。とてもいい味であった。30歳代の店主も最近、四川から移って来たという。
  満州族の建てた清朝政府は、チベット族の人口が増えるのを恐れたため、跡継ぎの一人以外は、男はすべて出家させ、妻帯させずに生涯を独身ですごさせ、人口を抑制したという。それで、4百年前の人口も2百万人台だったそうだが、今日でも西蔵の全人口は260万人に過ぎない。自給自足の生活で、お金をためようとか、人より優越した暮らしをしようとか思わない。そこに鉄道が敷設され、今までは、ほんの少数の観光客しか訪れなかったラサの聖地が、私のような、鉄道に乗りたいという興味が中心の人間まで押し寄せてくるようになった。
 ポタラ宮の坂道を下りてきて、魚が沢山泳ぐ放生池のほとりで、息を整えながら、ガイドさんと話していたとき、急にチベット族の聖なる山「カイラス山」のことを思い出し、ラサからあの聖なる山までどれくらい日数がかかるのか、と聞いてみた。中国語的な発音で、「カイラス山」と何度言っても通じなかった。地図を取り出して、ここだよと指差したら、「ああ剛仁波斉」ね、という。発音は「ガンレンボーチ」。エベレストをチョモランマというがごとしである。
チベットでどういう意味かと聞いたら、神の山という。我々の前で、子供をあやしていたチベット族の中年の男性が、二人の会話を耳にして、私のノートに書いてくれた。できたら記念にチベット語でも書いてくれないかと頼んだが、
彼は、手を振って断るしぐさをし、私に日本人かと聞いてきた。漢語を話す日本人が珍しいようであった。
 彼が、子供の手を引いて立ち去ったあと、ガイドの女性が私にひとこと、「ここのチベット族の人は漢族に対して防備しながら生きているので、交際なども深入りは出来ない。漢族の人と、一定の線を越えて親しくしていると、どこかで指弾されるおそれがあるので、簡単な話はできるが、ノートに何かチベット語で書いたりしない」と教えてくれた。証拠になるようなものは残してはならないのだろう。
 そうだった。ポタラ宮に入るときの注意として、この中では、チベット仏教の話はしても好いが、政治がらみの話はせぬようにといわれたことを思い出していた。ラマ経というのはチベット仏教と言うのが正しい、と。
ラマというのは、日本語では和尚さんの偉い人、上人という意味で、チベット仏教をラマ教と呼ぶのは、蔑視の意味がある俗称だと教えられた。
 ただ高山鉄道に乗ってみたいということで、ラサまでやってきたが、自分がいかにチベットのこと、チベット仏教のことを知らないかを、思い知らされた。
人口も増えず、産業らしい産業も興さず、数百年間同じ日常を受け継いできた。
チベット仏教をひたすら信じて、あのくるくるまわるものを、かたときも離さず、天からお迎えがくるまで、歩きつづける。チベット文字のお経は読めなくても、くるくるまわしていれば、お経を読んだことになる。そこに救いがある。
救いは他者から与えられることはない。自分が信じ、歩み、回すだけである。
天に一番近いところに住み、薄い酸素に耐えられる体力が支えてくれるのだ。
  (完)  2009年

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