魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
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湯野上駅の野口母子の写真の車両
1.
2009年に釜澤さんの書かれた「イザベラ・バードを歩く」を鞄に入れて、
新幹線の郡山から磐越西線で会津に向った。磐梯山を右に見ながら、数名の人が遠くの雪をかぶった飯豊山に向けてシャッターをきっていた。バードが7月4日の津川から新潟への途中で、
「平野の背後には、ところどころ雪の山が迫っている」と記したのはこの山だろう。
会津とは4本の川が集る所だそうで、四川省の小型版だが、四川省は天府と言われる程
豊かな土地で、1億以上の人口を養う大盆地だ。会津も豊かな盆地である。
会津若松から会津鉄道の古い車両に乗り、強風が吹いたら転落しそうな欄干の低い橋を
ゆっくりゆっくり進み、大内への最寄り駅・湯野上温泉に到着。バスは40分以上待つので、
タクシーで向った。運転手はなぜ大内宿がこういう形で残ったかとよく聞かれますが、
昔の街道はできるだけ峠の上り下りの難儀を減らす為、今のような川沿いの低い道でなく、
少し高い所を保つように作ったので、二百メートル以上も低い所に新しい道ができた結果、
誰も通らなくなって、昔のままの宿場が残った由縁を教えてくれた。6KM 弱だから、歩いて行けぬことも無いが、高度差と歩道が整備されていないので、タクシーを利用する人が多いので助かる由。途中のせせらぎは青森の奥入瀬渓谷の雰囲気に似ている。
私が最初にバードの「日本奥地紀行」を読んだのは、1973年版の山形生まれの高梨さんの訳であった。彼の名訳にすっかりとりこになったと思う。日本の汚いところ、不潔な点もしっかり指摘しながら、そして食材の貧弱さに閉口しながら、日本の良さ、すばらしさを妹あての手紙の形をとって、英国民及び英語を理解できる世界の全ての人に伝えようとしている。
2.
1878年(西郷の西南の役の年)、47歳の彼女は一人で外国人が足を踏み入れていない所を選び、通訳の男と2人で(馬子は別)6月から9月にかけ、江戸東京から北海道まで旅をしている。芭蕉の奥の細道の旅の期間と似ており、東北を旅するにはこの時期が比較的移動し易いということも考慮に入れたのだろう。
旅の途中、芭蕉が最上川下りで、体を休めたように、彼女も阿賀野川で新潟に向い、
体を休め、新潟に届いていた英国からの便りに心はずませ、函館へ向けて、物資調達をしたのだろう。荷物を今の宅急便のように、函館向けに送っている。通訳の男名義で。
「奥の細道」には幾つかの写本があり、曾良の日記の日付と異なる記述がしばしば出てきて、いろいろな説があるように、バードの「日本奥地紀行」も最初に出されたものから、出版社がいろいろ手を加えて「簡略版」を発行して、手軽に読めるようにしたためと、
彼女自身も実際の日時と、手紙を書いた時の日付などが一部異なっていたりしたため、
時として我々読者も「奥の細道」の脚色に惑わされる如くに、頭が混乱することがある。
我々としては、これは「紀行文」として読めば良いのであって、何月何日彼女が本当に
大内に着いたとか、そこに何泊したかは問題ではなく、彼女がどういう旅をして、どういう感動を覚えたかの記述に、読者として「共感」するか「おかしいな」「面白い観測だな」
と心を動かされながら、共に旅ができるのが最も大事なことだと思う。
今回、2012年に出た、金坂さんの「完訳 日本奥地紀行」という原本を忠実に「完訳」したものと照らし合わせながら読んでもみたが、若い頃に感動しながら読んだ高梨さんの
「簡略版」の方が、平凡な旅することと紀行文好きの私には、大切に感じられる。
芭蕉の「奥の細道」にもいろいろな写本があるように、バードの「奥地紀行」にも色々な
版があって、それぞれに愛読者がいても不思議はない。
高梨さんの版の127頁に、「ぱっと赤らんだ裸岩の尖った先端が現れて来る。露骨さのないキレーン(不詳)であり、廃墟のないライン川である。しかしそのいずれにもまさって
美しい。…略」とあり、キレーンとは何だろうなと思いながら、廃墟のないライン川と言う句から、自分なりにどこか欧州の景勝地の名だろうかと想像しながらイメージを膨らませて、次に読み進んでゆく。
問屋本陣:問屋本陣は、大名の泊まる本陣の中継地点に置かれたもの。江戸時代の物は残っていないので、川島本陣と糸沢本陣を参考にして復元した由。
3.
今回金坂さんの版で該当箇所を見たら、第一巻の242頁に、「まるで裸地なき{緑豊かな}
キレーン(7)、廃墟なきライン川…略」とあり、(7)の注にスコットランドのアウター
ヘブリディーズ諸島のスカイ島東北端スタッフィンの南三・五マイル{5.5キロ}にある山。
1779フィート(540メートル)のこの山は回りを玄武岩の崖と幻想的な峰で囲まれた山で
…略。と10行くらいの注が付されている。
この注は確かにバードの読者の多くが英国民なのだから、彼女がキレーンという山と、
ライン川の名を出して、彼女の目にした阿賀野川の支流の景観の素晴らしさを説く際に、
「しかしそのいずれにもまさって美しい」としている。
キレーンを見たことも無い日本人もライン川の美しさは写真などで知っている。それで、
一般読者としては、高梨さんのキレーン(不詳)でもイメージはふくらますことはできる。
「奥の細道」にも、平安時代の歌枕や、中国の唐宋の詩を踏まえたものがたくさんあり、
それを知って読むのと、知らずに読むのとは雲泥の差がある、云々と説く人も多い。
しかし、中学生や高校生でも、その出典を知らずに読んでも、「荒海や佐渡によこたふ…」とか、「しずかさや岩にしみいる…」などの句や文章を面白いと感じながら読んで行ける。
学術的に正確で詳細な注のついた「書物」にすることも大事なことだが、芭蕉が何回も
推敲を重ねながら、とうとう生前にはその出版を許さず、その後に版元が出したものは、各地に残っていた「すこしずつ異なる」写本を元にしたように、バードの「奥地紀行」も、
彼女の妹への手紙を基本にしながら、出版社が廉価で読者に読み易いように「簡略化」
したものが、文章的にもこなれてきて、すっかり「とりこ」にされてしまったようだ。
2013年7月4日訪問
団体客のいない一瞬(忍耐強く待った甲斐あり)
駐車場には10台以上の観光バスと2-30台の乗用車・バンなどが大勢の客を運んできていた。交通整理の人が4-5人道路横断時に自動車を止めていた。
平日のせいか多くは老人男女であった。
しかし若い人たちも何組かは見かけたし、アベックがアイスとか甘い物を食べていた。
売っている人もほとんど老人で、並べている商品もワラジの御守りとか、足腰がいつまでも元気で健康にくらせるように、というものが多かった。
少し曲がったネギ一本で食べる蕎麦が有名だそうだ。
今日の客に有資格者はいないのかな。
2013/07/11記
寒中の旅
1.雪の象潟
1月22日から4日間、会員限定で北は青森から、西は福井まで新幹線を含む全線乗り放題という切符を購入し、去年訪れた象潟と八尾の寒中の暮らしと雪中の景観を、見に出かけた。
実際に住んで「北越雪譜」を残した先人にはとてもかなわない。
「走車看雪」というたわいの無い物である。
象潟は道が雪で覆われ、歩くのに難儀したが、芭蕉たちが歩いた17世紀の道は、海と潟湖の間に伸びた、象の鼻のような格好の、細い半島の尾根の上にあり、海面からも3-5Mほどしかなく、海岸近くには、3.11後に建てられたとみられる「津波の絵」の警報版が建てられ、一目散に駆けだす方向が示されていた。
今、潟湖は200年ほど前、湖底が2Mほど上昇したため、陸地になり、国道7号の通る市街地からも2-3M高くなっている。
雪のため坂道が歩きにくいからそれがよく実感できる。
日本海と陸地化した潟湖の間の尾根道に、沢山の商店が並ぶ。
眼鏡屋、自転車屋、お菓子屋、鮮魚店、モダンなパティスリー、そして葬儀屋さんなど、人々の生活を支えて来た店が並んでいる。
シャッターを閉めたような店が無いのは、この地区の人たちがここで買い物し、用を足すのであろうが、少し不思議に思った。
暫く歩いていると、立派な建物があり、今は地区の公会堂として、使われているが、もとは象潟の役場であった由。
今では北隣のにかほ市と合併し、支所も工場や住宅地のある、潟湖だった地域に移った。
しかし昔からの商店はここから移らずに元気にやっている。
この地区に元から住んでいた人々が支え合っているのだろう。
鳥海山は稲田に映えていた昨夏と異なり、噴火したあとにできた、巨大なお碗に雪があたかも綿菓子のようにでこぼこと積もっている。
あの綿菓子に相当するような巨大な岩石が、溶岩とともにこの象潟に飛んできて、今松の生えている、昔の島を作ったのだそうだ。
雪の鳥海山の写真は光線の加減でうまくとれなかった。残念。
駅舎の周囲は深い雪で覆われていたが、歩行者のために、雪掻きがなされ、2時間ほど芭蕉たちの尋ねたところを、再訪するに問題は無かった。それだけ融雪剤をまいたり、雪掻きをして、地域の人たちがイヌをつれての散歩する光景も目にすることができた。
2.
象潟を後に、古い車両で頑張る「稲穂」に乗って、新潟に向かった。
お目当ては酒田から村上までの日本海の海岸の景色を堪能すること。
夕日が沈むころに、お酒をちびりちびりとやりながら、笹川流れとかよく似た「立石」が海からにょっきと頭を出し、その頂に松がしっかりと根を張っているのを見る。
そこに赤い鳥居と社が建てられている。
この車窓の景色は、五能線の車窓からのと甲乙つけがたい。
今、五能線はリゾート列車が運行され、それはそれで結構なのだが、25年ほど前に、凸型のジーゼル機関車にけん引された2両ほどの列車で、途中深浦で乗り継ぎの列車を待つ間に、和船の展示を見、土地の食べ物で腹ごしらえしたような風情は無くなった。
「稲穂」も新幹線が新潟、山形、秋田、青森が東京と直結された結果、それぞれを結ぶ形で日本海岸を縦断しているのだが、新潟―秋田間の利用客は減少しているから、新しい車両を投入できないのだろう。
ノスタルジックな旅にはとてもふさわしい車両である。
3.
新潟市はやはり海から近く、積雪量も他の土地より少ないのと除雪の仕組みがよく整備されていて、街には雪も除去され、歩行に何の問題もなかった。
仙台や新潟がその地区の中心になってきたのには、降雪の少なさが影響しているのだろう。
掻いても掻いても、次々に雪が降ってきては、どんな仕組みで対応しても、道は雪だらけで、泥んこの雪を付けた自動車が雪を撥ね飛ばして、歩行者の服を汚す。
そんな昔の光景は見ることも無くなった。
路面から水を撒いて融雪し、アスファルトの車道が確保されている。
その後、去年「風の盆」に魅せられた富山・八尾に向かった。
富山市も新潟以上に除雪がうまくなされていて、屋根の上には雪が一杯残っているが、路上には雪は無い。
駅前は新幹線の駅舎建設で、すっかり昔の面影は無くなったが、大通りの前に、水色の車輪カバーをつけた貸自転車が2-30台スタンドに並んでいる。
雪の降る土地で、貸自転車を使う人がいるのかといぶかしく思い、自転車を配置換えしている30代の男性に尋ねた。
彼の答えは「真冬でも自転車が通行できるように除雪した道が確保できているので、大丈夫です」との答え。
どういう仕組かと訊いたら、「1回30分までの基本条件で市内各所にあるスタンドからスタンドまで月額5百円のパスを購入すれば、何回でも利用できるし、30分を越えたら、百円単位の超過料金を電子マネーで払う」由。
この青年はこれを運営している会社に勤務しているのだそうだ。
富山市は海岸への昔のJR線路を利用して、LRTを走らせており、今、こんな雪の降る街にも、貸自転車を普及させている。
4.
そんなことに感動しながら、高山線で八尾に向かった。
30分弱で到着。屋根の上には雪が残っているが、自動車と歩行者が通る所は、すべて除雪されている。
歩くこと15分、何の支障もなく、前回の成人の日のどか雪で、自動車が渋滞し、歩行にも難儀した横浜より、ずっと歩きやすかった。
今回は「風の盆」の時のように観光客はいず、土地の中高校生以外は、ほとんど歩いている人はいなかった。
それにしても、この坂道ばかりの八尾の街の通りには雪が無いのは、なぜだろう。屋根には沢山雪が積もっているのに!
2間或いは4間幅の民家の前には、大きな雪掻き用のスコップと雪を運ぶためのソリが置いてある。それで毎日家の前の雪を側溝に流し、道に雪が残らないようにしている。
その側溝には上流の川から大量の水が流され、融雪している。
この仕組みはきっとこの街ができた時から行われて来たのだろう。
この街が紙や蚕の卵の取引で始まり、聞名寺の門前町として繁栄し、花街も栄えてきたのは、長い冬の間も人々の往来が途絶えることが無かったのだろう。
聞名寺の本堂の大屋根に雪は一切ない。すべて下ろされていた。
その雪は、本堂の前に3M程の板で三角形のテントのように組み立てられた雪囲いの外に山のように積み上げられていた。
この寺にお参りにくる人のために、この除雪は昔から行われてきたのだろう。
他のいくつかの神社やお寺も同じ仕組みであった。
この街は両側に川が流れている。その川の間の尾根に街を造った。
八尾というのはそういう尾根が八つあったからだろうか?
大阪の八尾というのは、生駒山から伸び出た尾根だろうか。
嵯峨の高尾・栂ノ尾・松尾などと同じような地勢なのだろうか。
少し坂道を登って行くと、北面に積み上げられていた雪を、せっせとソリに乗せて、側溝の穴に流しこんでいる夫婦がいた。
声をかけてみた。彼らは家の前の雪はその日の内に除雪するのだが、北側までは手が回らず、今日のような晴れた日にやるのだという。
白山を背に、富山湾を遥かに望む八尾の坂街は、川岸から丸い石で10M程の高さの石垣を造り、洪水を防ぐとともに、坂の傾斜を除雪用に上流の水を上手く使いこなしてきたのだ。
今年の「風の盆」にまた来たくなった。
2013年2月7日
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