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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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バードの大内宿へ

  湯野上駅の野口母子の写真の車両

1.

 2009年に釜澤さんの書かれた「イザベラ・バードを歩く」を鞄に入れて、
新幹線の郡山から磐越西線で会津に向った。磐梯山を右に見ながら、数名の人が遠くの雪をかぶった飯豊山に向けてシャッターをきっていた。バードが
74日の津川から新潟への途中で、

「平野の背後には、ところどころ雪の山が迫っている」と記したのはこの山だろう。

 会津とは4本の川が集る所だそうで、四川省の小型版だが、四川省は天府と言われる程

豊かな土地で、1億以上の人口を養う大盆地だ。会津も豊かな盆地である。

 会津若松から会津鉄道の古い車両に乗り、強風が吹いたら転落しそうな欄干の低い橋を

ゆっくりゆっくり進み、大内への最寄り駅・湯野上温泉に到着。バスは40分以上待つので、
タクシーで向った。運転手はなぜ大内宿がこういう形で残ったかとよく聞かれますが、

昔の街道はできるだけ峠の上り下りの難儀を減らす為、今のような川沿いの低い道でなく、

少し高い所を保つように作ったので、二百メートル以上も低い所に新しい道ができた結果、

誰も通らなくなって、昔のままの宿場が残った由縁を教えてくれた。6KM 弱だから、歩いて行けぬことも無いが、高度差と歩道が整備されていないので、タクシーを利用する人が多いので助かる由。途中のせせらぎは青森の奥入瀬渓谷の雰囲気に似ている。

 私が最初にバードの「日本奥地紀行」を読んだのは、1973年版の山形生まれの高梨さんの訳であった。彼の名訳にすっかりとりこになったと思う。日本の汚いところ、不潔な点もしっかり指摘しながら、そして食材の貧弱さに閉口しながら、日本の良さ、すばらしさを妹あての手紙の形をとって、英国民及び英語を理解できる世界の全ての人に伝えようとしている。

2.

 1878年(西郷の西南の役の年)、47歳の彼女は一人で外国人が足を踏み入れていない所を選び、通訳の男と2人で(馬子は別)6月から9月にかけ、江戸東京から北海道まで旅をしている。芭蕉の奥の細道の旅の期間と似ており、東北を旅するにはこの時期が比較的移動し易いということも考慮に入れたのだろう。

 旅の途中、芭蕉が最上川下りで、体を休めたように、彼女も阿賀野川で新潟に向い、

体を休め、新潟に届いていた英国からの便りに心はずませ、函館へ向けて、物資調達をしたのだろう。荷物を今の宅急便のように、函館向けに送っている。通訳の男名義で。

「奥の細道」には幾つかの写本があり、曾良の日記の日付と異なる記述がしばしば出てきて、いろいろな説があるように、バードの「日本奥地紀行」も最初に出されたものから、出版社がいろいろ手を加えて「簡略版」を発行して、手軽に読めるようにしたためと、

彼女自身も実際の日時と、手紙を書いた時の日付などが一部異なっていたりしたため、

時として我々読者も「奥の細道」の脚色に惑わされる如くに、頭が混乱することがある。

 我々としては、これは「紀行文」として読めば良いのであって、何月何日彼女が本当に

大内に着いたとか、そこに何泊したかは問題ではなく、彼女がどういう旅をして、どういう感動を覚えたかの記述に、読者として「共感」するか「おかしいな」「面白い観測だな」

と心を動かされながら、共に旅ができるのが最も大事なことだと思う。

 今回、2012年に出た、金坂さんの「完訳 日本奥地紀行」という原本を忠実に「完訳」したものと照らし合わせながら読んでもみたが、若い頃に感動しながら読んだ高梨さんの

「簡略版」の方が、平凡な旅することと紀行文好きの私には、大切に感じられる。

芭蕉の「奥の細道」にもいろいろな写本があるように、バードの「奥地紀行」にも色々な

版があって、それぞれに愛読者がいても不思議はない。

 高梨さんの版の127頁に、「ぱっと赤らんだ裸岩の尖った先端が現れて来る。露骨さのないキレーン(不詳)であり、廃墟のないライン川である。しかしそのいずれにもまさって

美しい。…略」とあり、キレーンとは何だろうなと思いながら、廃墟のないライン川と言う句から、自分なりにどこか欧州の景勝地の名だろうかと想像しながらイメージを膨らませて、次に読み進んでゆく。

  問屋本陣:問屋本陣は、大名の泊まる本陣の中継地点に置かれたもの。江戸時代の物は残っていないので、川島本陣と糸沢本陣を参考にして復元した由。

3.

 今回金坂さんの版で該当箇所を見たら、第一巻の242頁に、「まるで裸地なき{緑豊かな}

キレーン(7)、廃墟なきライン川…略」とあり、(7)の注にスコットランドのアウター

ヘブリディーズ諸島のスカイ島東北端スタッフィンの南三・五マイル{5.5キロ}にある山。

1779フィート(540メートル)のこの山は回りを玄武岩の崖と幻想的な峰で囲まれた山で

…略。と10行くらいの注が付されている。

 この注は確かにバードの読者の多くが英国民なのだから、彼女がキレーンという山と、

ライン川の名を出して、彼女の目にした阿賀野川の支流の景観の素晴らしさを説く際に、

「しかしそのいずれにもまさって美しい」としている。

 キレーンを見たことも無い日本人もライン川の美しさは写真などで知っている。それで、

一般読者としては、高梨さんのキレーン(不詳)でもイメージはふくらますことはできる。

「奥の細道」にも、平安時代の歌枕や、中国の唐宋の詩を踏まえたものがたくさんあり、

それを知って読むのと、知らずに読むのとは雲泥の差がある、云々と説く人も多い。

しかし、中学生や高校生でも、その出典を知らずに読んでも、「荒海や佐渡によこたふ…」とか、「しずかさや岩にしみいる…」などの句や文章を面白いと感じながら読んで行ける。

 学術的に正確で詳細な注のついた「書物」にすることも大事なことだが、芭蕉が何回も

推敲を重ねながら、とうとう生前にはその出版を許さず、その後に版元が出したものは、各地に残っていた「すこしずつ異なる」写本を元にしたように、バードの「奥地紀行」も、

彼女の妹への手紙を基本にしながら、出版社が廉価で読者に読み易いように「簡略化」

したものが、文章的にもこなれてきて、すっかり「とりこ」にされてしまったようだ。

   201374日訪問

 

 

 

 団体客のいない一瞬(忍耐強く待った甲斐あり)

 

駐車場には10台以上の観光バスと230台の乗用車・バンなどが大勢の客を運んできていた。交通整理の人が45人道路横断時に自動車を止めていた。

平日のせいか多くは老人男女であった。

しかし若い人たちも何組かは見かけたし、アベックがアイスとか甘い物を食べていた。

売っている人もほとんど老人で、並べている商品もワラジの御守りとか、足腰がいつまでも元気で健康にくらせるように、というものが多かった。

少し曲がったネギ一本で食べる蕎麦が有名だそうだ。

 

今日の客に有資格者はいないのかな。

       2013/07/11

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寒中の旅

 寒中の旅

1.雪の象潟

1月22日から4日間、会員限定で北は青森から、西は福井まで新幹線を含む全線乗り放題という切符を購入し、去年訪れた象潟と八尾の寒中の暮らしと雪中の景観を、見に出かけた。

実際に住んで「北越雪譜」を残した先人にはとてもかなわない。

「走車看雪」というたわいの無い物である。

象潟は道が雪で覆われ、歩くのに難儀したが、芭蕉たちが歩いた17世紀の道は、海と潟湖の間に伸びた、象の鼻のような格好の、細い半島の尾根の上にあり、海面からも3-5Mほどしかなく、海岸近くには、3.11後に建てられたとみられる「津波の絵」の警報版が建てられ、一目散に駆けだす方向が示されていた。

今、潟湖は200年ほど前、湖底が2Mほど上昇したため、陸地になり、国道7号の通る市街地からも2-3M高くなっている。

雪のため坂道が歩きにくいからそれがよく実感できる。

日本海と陸地化した潟湖の間の尾根道に、沢山の商店が並ぶ。

眼鏡屋、自転車屋、お菓子屋、鮮魚店、モダンなパティスリー、そして葬儀屋さんなど、人々の生活を支えて来た店が並んでいる。

シャッターを閉めたような店が無いのは、この地区の人たちがここで買い物し、用を足すのであろうが、少し不思議に思った。

 暫く歩いていると、立派な建物があり、今は地区の公会堂として、使われているが、もとは象潟の役場であった由。

今では北隣のにかほ市と合併し、支所も工場や住宅地のある、潟湖だった地域に移った。

しかし昔からの商店はここから移らずに元気にやっている。

この地区に元から住んでいた人々が支え合っているのだろう。

 鳥海山は稲田に映えていた昨夏と異なり、噴火したあとにできた、巨大なお碗に雪があたかも綿菓子のようにでこぼこと積もっている。

あの綿菓子に相当するような巨大な岩石が、溶岩とともにこの象潟に飛んできて、今松の生えている、昔の島を作ったのだそうだ。

雪の鳥海山の写真は光線の加減でうまくとれなかった。残念。

 駅舎の周囲は深い雪で覆われていたが、歩行者のために、雪掻きがなされ、2時間ほど芭蕉たちの尋ねたところを、再訪するに問題は無かった。それだけ融雪剤をまいたり、雪掻きをして、地域の人たちがイヌをつれての散歩する光景も目にすることができた。

2.

象潟を後に、古い車両で頑張る「稲穂」に乗って、新潟に向かった。

お目当ては酒田から村上までの日本海の海岸の景色を堪能すること。

夕日が沈むころに、お酒をちびりちびりとやりながら、笹川流れとかよく似た「立石」が海からにょっきと頭を出し、その頂に松がしっかりと根を張っているのを見る。

そこに赤い鳥居と社が建てられている。

この車窓の景色は、五能線の車窓からのと甲乙つけがたい。

今、五能線はリゾート列車が運行され、それはそれで結構なのだが、25年ほど前に、凸型のジーゼル機関車にけん引された2両ほどの列車で、途中深浦で乗り継ぎの列車を待つ間に、和船の展示を見、土地の食べ物で腹ごしらえしたような風情は無くなった。

「稲穂」も新幹線が新潟、山形、秋田、青森が東京と直結された結果、それぞれを結ぶ形で日本海岸を縦断しているのだが、新潟―秋田間の利用客は減少しているから、新しい車両を投入できないのだろう。

ノスタルジックな旅にはとてもふさわしい車両である。

3.

新潟市はやはり海から近く、積雪量も他の土地より少ないのと除雪の仕組みがよく整備されていて、街には雪も除去され、歩行に何の問題もなかった。

仙台や新潟がその地区の中心になってきたのには、降雪の少なさが影響しているのだろう。

掻いても掻いても、次々に雪が降ってきては、どんな仕組みで対応しても、道は雪だらけで、泥んこの雪を付けた自動車が雪を撥ね飛ばして、歩行者の服を汚す。

そんな昔の光景は見ることも無くなった。

路面から水を撒いて融雪し、アスファルトの車道が確保されている。

 その後、去年「風の盆」に魅せられた富山・八尾に向かった。

富山市も新潟以上に除雪がうまくなされていて、屋根の上には雪が一杯残っているが、路上には雪は無い。

駅前は新幹線の駅舎建設で、すっかり昔の面影は無くなったが、大通りの前に、水色の車輪カバーをつけた貸自転車が2-30台スタンドに並んでいる。

雪の降る土地で、貸自転車を使う人がいるのかといぶかしく思い、自転車を配置換えしている30代の男性に尋ねた。

彼の答えは「真冬でも自転車が通行できるように除雪した道が確保できているので、大丈夫です」との答え。

どういう仕組かと訊いたら、「1回30分までの基本条件で市内各所にあるスタンドからスタンドまで月額5百円のパスを購入すれば、何回でも利用できるし、30分を越えたら、百円単位の超過料金を電子マネーで払う」由。

この青年はこれを運営している会社に勤務しているのだそうだ。

富山市は海岸への昔のJR線路を利用して、LRTを走らせており、今、こんな雪の降る街にも、貸自転車を普及させている。

4.

 そんなことに感動しながら、高山線で八尾に向かった。

30分弱で到着。屋根の上には雪が残っているが、自動車と歩行者が通る所は、すべて除雪されている。

 歩くこと15分、何の支障もなく、前回の成人の日のどか雪で、自動車が渋滞し、歩行にも難儀した横浜より、ずっと歩きやすかった。

今回は「風の盆」の時のように観光客はいず、土地の中高校生以外は、ほとんど歩いている人はいなかった。

それにしても、この坂道ばかりの八尾の街の通りには雪が無いのは、なぜだろう。屋根には沢山雪が積もっているのに!

2間或いは4間幅の民家の前には、大きな雪掻き用のスコップと雪を運ぶためのソリが置いてある。それで毎日家の前の雪を側溝に流し、道に雪が残らないようにしている。

その側溝には上流の川から大量の水が流され、融雪している。

この仕組みはきっとこの街ができた時から行われて来たのだろう。

 この街が紙や蚕の卵の取引で始まり、聞名寺の門前町として繁栄し、花街も栄えてきたのは、長い冬の間も人々の往来が途絶えることが無かったのだろう。

 聞名寺の本堂の大屋根に雪は一切ない。すべて下ろされていた。

その雪は、本堂の前に3M程の板で三角形のテントのように組み立てられた雪囲いの外に山のように積み上げられていた。

この寺にお参りにくる人のために、この除雪は昔から行われてきたのだろう。

他のいくつかの神社やお寺も同じ仕組みであった。

この街は両側に川が流れている。その川の間の尾根に街を造った。

八尾というのはそういう尾根が八つあったからだろうか?

大阪の八尾というのは、生駒山から伸び出た尾根だろうか。

嵯峨の高尾・栂ノ尾・松尾などと同じような地勢なのだろうか。

 少し坂道を登って行くと、北面に積み上げられていた雪を、せっせとソリに乗せて、側溝の穴に流しこんでいる夫婦がいた。

声をかけてみた。彼らは家の前の雪はその日の内に除雪するのだが、北側までは手が回らず、今日のような晴れた日にやるのだという。

 白山を背に、富山湾を遥かに望む八尾の坂街は、川岸から丸い石で10M程の高さの石垣を造り、洪水を防ぐとともに、坂の傾斜を除雪用に上流の水を上手く使いこなしてきたのだ。

 今年の「風の盆」にまた来たくなった。

      2013年2月7日

 

 

 

 

 

 

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明日香へ

明日香へ
1.
 1960年代末、フランスでは5月革命で学生が敷石はがして警官に投げつけ、
中国では文化大革命で(反動派への)「造反有理」(革命無罪)を叫んで、
紅衛兵たちが実権派を吊るしあげ、市中に引き回し、世界を震撼させた。
日本もその影響を受け、安保闘争を旗印に「反米・反ベトナム戦争」を掲げ、
全共闘が大学を根拠地として、机をバリケードにして大学を封鎖した。
ノンポリの私すら御堂筋のデモに参加し、長い棒を持った先頭集団に続いた。
しかし日本には革命は起こらなかった。明治維新や戦後の「農地改革」はあったが、
主権が在民になっても革命とは呼べなかった。ただ占領軍に命じられただけだから。
 歴史の暗記で虫五匹(645年)と覚えた「大化の改新」の新しい政権も、
「革命」とは称さなかった。テロによって4代に渡り政治を専横してきた蘇我氏を
排除して改めただけという整理であった。日本は革命とは縁遠い国である。
 
 話しは60年末に戻す。安田講堂も占拠され、多くの大学は閉鎖された。
学校は授業の無い日が数カ月続いたので、アルバイトや他の事に精を出した。
その頃同級生のI君と明日香の石舞台に出かけ、一日ゆっくり散歩した。
それから40年ほど過ぎ、長い間音信も途絶えていたが、最近連絡を取り始めた。
それで昨年は法隆寺から薬師寺へ、のんびりと斑鳩の秋を半日散歩した。
今年もまた奈良の秋を楽しみたいね、ということになった。
 11月の文化の日が過ぎた頃、京都に住む彼と明日香へ向かった。
西大寺駅で待ち合わせ、明日香の一つ手前の岡寺駅で下車。
地図をたよりに駅前からゆっくり刈り入れの済んだ田の畔道を歩く。
しばらく歩くと、大勢の小学生が地図を手にして5-6名ずつ歩いている。
「どこから来たの?」と尋ねると、松原からとの答え。
5年生のオリエンテーリングで、秋の明日香の石舞台や橘寺など畑中の道を、
ポイントをクリア―しながら歩くのだそうだ。大阪の子供たちは都会にいながら、
すぐ近くに、こうした美しい田園と歴史的な風土を満喫できるのがうらやましい。
2.
 我々が目指すのは石舞台と飛鳥寺だが、急ぐ旅ではないのでいろいろ寄り道した。
橘寺は聖徳太子がここで生まれたとされ、当時はお寺でお産したのかと訝ったが、
訊けば丹後半島の間人(たいざ)から来た太子の母がこの地で用明王の「厩戸の王子」
を産んだのだが、当時は誰かの屋敷か用明王の別邸であったそうで、
後にここに太子を記念して寺ができたのだという。よもやお寺で出産はすまい。
境内に大きな弘法さんの立像があり、天台宗の寺にどうして真言宗の彼がいるのか、
と寺の人に問えば、日本の仏教を広めた祖ともいうべき太子を慕って、
弘法さんもこの寺にお参りしたとの由。確か大阪の四天王寺にも弘法さんの像があり、
日本仏教の宗祖たちがみな名を連ねているのは、太子の徳を慕っての事であろう。
 京都の広隆寺も斑鳩の法隆寺と並んで 太子の徳を慕って、後の人が作ったものとか。
渡来人、秦の河勝などが桂川の分水で灌漑用水を利用し、嵯峨野一帯の農地を開き、
農民が豊かになったのがそれを暗示する。農地が開墾され、鉄製の農具も普及した。
四天王寺や広隆寺など法隆寺に匹敵する程の大伽藍を建立できたのも、
その地の農業の発展と経済発展無しには考えられない。
3.
 これまで明日香という地域は山に囲まれた狭い盆地だと考えていたが、
空高き秋天に、遥かに見える吉野の山までは、けっこうな広がりがあると感じた。
飛鳥川のほとりに実質は蘇我氏4代の飛鳥時代と呼ばれる王朝が、その前後に、
転々と遷都を繰り返した短命政権より「比較的」長かったのはなぜだったろうか?
 朝鮮半島からの使者がここまで使いに来るということから想定すると、
豊かな農産物が取れ、また全国から産物を取りたてるだけの政治力があり、
それらを半島からの使者との外交儀礼に使えるだけの国力を築きあげたのだろう。
大化の改新の前の入鹿暗殺の時、しぶる入鹿をなんとかして誘い出せたのは、
半島からの使節が挨拶に参上したから…ということだったことがそれを暗示する。
(外国からの使節が来た時に、国の内乱をさらけ出すことになるテロは無かったのでは
という説もあるが、ここでは従来の説に従う)
朝鮮からの使節は、大和川を遡上する船で貢物を運んで来たことであろう。
 古代の地図を見ると、今の大阪市内の大半は淀川と大和川に囲まれた湖だった。
そして大和川は今では水量も減ってしまって、船運には使えそうに見えないが、
1400年前は、江戸時代の淀川のように、多くの物資を船で運んでいた事だろう。
そんな想像を巡らしながら、明日香の巨石文化を回ってみると、とてつもない程の
大きな石をどのように切り出して運びだしたか、大阪城の石垣のあのどでかいのが、
瀬戸内の船を使って運ばれたように、石舞台の2,300トンもの石はどこかの採石場から、
船に載せられて、ここまで運ばれたのではないかと思った。
 天皇陵は今も発掘が禁止され、調査もできないが、明日香を実際に牛耳っていたのは、
天皇でなく、蘇我氏だったから、あの巨石の墳墓はほとんどが蘇我氏かその取り巻きで、
中大兄皇子と藤原鎌足が乙巳の変でクーデターを起こし、入鹿の首を刎ねて、
都を難波に移した後は、付近の人々は我先に蘇我氏の墓の盗掘を始めたのであろう。
 地の人は、そうした「俗」「智恵」を持ち合わせていなかったかもしれぬが、
明日香の地にたくさん住みついていた渡来人たちは、大陸・半島ですでにそうしたことを、
たび重なる戦乱・王家の交替のたびに見て来たことだろう。
権力を失った者の墓は、盗掘に曝された。特に外国からの貴重な貢物なども埋葬された
と思われていた豪族の墓は、情け容赦なく盗掘されたと思われる。
明日香の各地に残るいろいろの巨石は、そうした墳墓の守護神とか祭祀用の物で、
盛り土が長い年月の雨水で流されて、露出したものではなかろうか。
 天皇陵の中に入って調査した資料を目にすることができないので、全くの推測だが、
元々の土着の発想では棺を入れる石室は、明日香の様には大きくないかもしれない。
仁徳陵など築山と壕は巨大だが、中は案外、質素なものかもしれない。
或いは、大陸の秦漢時代のような巨大なものに倣っているかもしれないが、その後の
天皇陵は、国力にあわせ薄葬となり、徐々に倹約・質素になってきたようだ。
4.
今回、飛鳥寺を訪ねたら、ちょうど女子学生たちのグループが2組ほどいて、
彼女等に対してわざわざ住職が対応するのに参加でき、面白い話しを聞く事ができた。
住職としても、大勢の若い「歴史ガール」たちを迎えることができてうれしそうだった。
(男の大学生たちがこうしたグループで行動しないのはどうしてだろう?)
彼は話している間、ずっと板の間に正座で、彼の話しで印象に残ったのは、
大きな大仏の顔が少し横向きであること、そして奈良の大仏のように戦乱や火事で
溶けて再建されたのではなく、製造時のものをそのまま何度も修復しているだけで、
日本最古の大仏だという。
 帰ってから調べたら、中国から渡来した鞍作鳥(止利)の作で、この造立のために、
隋から裴世清がきて、黄金を寄贈し、高句麗からも3百両の黄金が寄贈されたとかで、
6世紀には、すでに大陸と半島諸国との交流がそんなにも盛んだったと分かる。
 田中史生著「越境の古代史」(ちくま新書)に依れば、593年に蘇我馬子ら百余人が
百済服を着用して、この寺「法興寺」の刹柱を立てるのに参列している。(240頁)
百済服は、百済から取り寄せたものか、或いは明日香で造ったものか。
明治維新後、横浜に西洋人の為に洋服を仕立てる中国人がたくさん連れてこられた。
鹿鳴館の舞踏会にはそうした仕立て人がいなければ、開催できなかったろう。
6世紀の明日香にも、百着も作れる仕立て人が百済から来た人に学んだのだろう。
 日本人が海の向こうからやってきた「文物」をさっそく自分のものにしてしまう
伝播の速さはすごいものがある。
東大寺にある「聖武天皇」の肖像画は唐の皇帝と同様、冠から例のすだれのような
珠玉を垂らし、服装もほとんど「唐風」であるのは、儀式の時にはこうした服を着用し
外国からの使節にもそれを着て謁見したのであろう。
明治天皇も、維新後すぐ西洋式の元帥のいでたちで、外国使節を謁見している。
この辺の「進取」さは、お隣の国々が、いつまでも伝統的な服装や制度にこだわり、
西洋式近代化に後れをとったのと比較すると、興味深いことである。
21世紀の今日でも、東アジアで新正月を祝うのは日本だけで、中国や韓国は、
いまでも旧正月を最も大切にしている。何回か旧暦をカレンダーから削除したが、
民衆からの強い反対で、新旧併記の状態である。
 
5.
石舞台はたとえて言えば、盗掘の後の石組だけが残る昔の豪族の墓であり、
飛鳥寺はその豪族が祀りごとを専横するための「やんごとない大仏のいまします御寺」
であった。墓は盗掘され、見る影もなくなったが、飛鳥寺だけは残った。
 仏教を排斥した物部氏を除き、仏教流布に貢献した蘇我氏をそれなりに尊んだものか。
古来、反乱を起こした者、謀叛を謀った者、時の政府に異議申し立てをした者などを
その時には征伐し斬首の上、さらし物にしてきたが、何年かたつと、復活してきた。
平将門、西郷隆盛などがその例で、蘇我入鹿も彼らの住んでいた岡は公園になり、
彼の首塚も建てられている。
 これは何を物語るか?
確かに政治を専横して、王家をないがしろにして、政権を牛耳り、富を貪ってきたが、
またその一方では、なにがしかの良いことも行ったから4代も続いたと言える。
物部氏を排除するのに貢献したし、日本に仏教を流布させるのにも大いに預かった。
日本人は、雨水が豊富なため「過去を水に流す」のが上手であり、たたりを怖れて、
過去に罪を得て斬首された「為政者」を祭ることを好むようだ。
 この辺が、中国などでは信じられないことに属する。
中国には三国志で有名な関羽を祀った廟は沢山ある。菅原道真を祀った天満宮の如く。
しかし、西郷や将門に相当するとみられる者を祀るような社はあまり見たことが無い。
 呉三桂や汪兆銘、林彪などを祀るようなことは考えられない。劉少奇は復活したが。
私はA級戦犯を、明治国家建国のために死んでいった戦士たちを祀るために
建てられた神社に、合祀することに反対だ。
しかしそれは戦勝国が一方的な国際裁判でそう決めただけであって、
国の為に死んだことに変わりは無い、と考える人が多いのもこの国の姿なのだろう。
不思議なことだが、処刑後すぐにそれらを運び出し、密かにここへ持ち込んだという。
広田弘毅も他の戦犯と同じく合祀されたが、本人は泉下でどう思っているだろう。
あの連中と一緒にされたくないと思っているのではなかろうか。
私は広田だけなら合祀しても良いと考えている。やはり日本人である。
    2012/11/29記
     
 
 
 

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八尾風の盆







                  八尾風の盆



八尾と城端へ



1.

9月1日朝、新幹線・ほくほく線で直江津から富山に向かった。

目指すは3時から始まる八尾(やつお)風の盆。

富山には黒部・立山をいろんな乗り物で巡る旅とか、城端にも来ている。

しかし9月1日から3日までの八尾の風の盆は、日程的な制約があり、

今まで念願を果たすことができなかった。

今回行くと決めてはみたが、八尾町には旅館は少なく、富山もすべて満室。

泊まる所がなければどうしようもない。

多くの観光客はバスで来て、数時間踊りを見た後、深夜に帰るそうだ。

この前の惨事もあり、深夜のツアーバスは乗りたくない。

いろいろ試した結果、富山から少し離れた高岡駅前のホテルを何とか予約できた。

2時過ぎの電車で富山から八尾に向かい、10分ほどで井田川の十三石橋を渡る。

そこから地図を片手に、11ある支部の踊りを歩きながら見ることにした。

 3時になると、八幡社から胡弓のむせぶような音と三味線にのせた越中おわらの、

これまた喉を絞るような声が聞こえてくる。快晴の炎天だが川風は涼しい。

 紺の法被に笠で顔を隠した男衆の列と、淡い橙色の着物に笠の女衆の間に、

小学生たちが着物に笠無しで、元気な顔を見せて大人の踊りをまねて進む。

 京都の祇園祭では、中高生も鉦や太鼓を鳴らすが、小学生はお稚児さんだけ。

女性はもっぱら裏方で、行列には参加しないが、八尾では町内全員参加で、

就学前の子供から小学生が踊りに参加し、踊らなくなった中年以上の衆が、

三味線胡弓に太鼓を鳴らし、喉に自信のある者が2-3名交代でおわらを唄い、

囃しとかけ合いをする。その間合いが息があって面白い。

それぞれの町内に会館があり、そこで練習し、当日の5時~7時まで夕食をとりながら、

休憩し、7時~深夜まで踊り続ける。なだらかな坂を下りながらの踊りは圧巻である。

 高知から来た2人の80才近い婦人の話しでは、阿波踊りも素晴らしいけど、

八尾のはまたなんとも言えない良さがあり、聞けばなんでも1万円余の交通費で、

明石大橋を渡るツアーバスに揺られて今日、富山に着き、5時間ほど踊りを見て、

深夜のバスで、高知に戻るという。元気なものだ。

ナデシコの応援に往復機中泊で駆けつけるサッカーファンと同じ。

それだけ魅力があるということ。

2.

井田川と山の間の斜面にできた坂の多い町は、昔ながらの町家を保ってきた。

街には農家は少なく、商店が多いが、シャッターは殆ど見かけない。

銀行や信用金庫も町家風で、近在の農家や住民がここまで来るのだろう。

イタリアの古い丘の上の街のような石畳を敷いている通りもある。

この豊かさはどこからくるのだろうか。不思議だ。

 帰宅後、調べてみたら、1500年代に聞名寺がここに移された頃から、

門前町として賑わうようになったとある。

産業としては蚕糸と和紙が有名で、その集散地として栄えたとのことだが、

今、そうした産業は衰退した。だがこの人たちが豊かな暮らしを保っているのは、

昔の蓄積があるにしても、近くの電子企業などで働いているからだろうか。

沿岸地帯の比較的大きな商店街が、郊外のショッピングセンターに客を奪われて、

何とか銀座といわれた街がシャッター通りに変じているのと大きな違いだ。

富山市までは電車で30分の距離があり、合併後もやはり近在の人たちが、

この町を支えているのであろう。

町の支援を得て街の家並みも町家風で、この15年位で建て替えられたという。

土地の人に聞いたら、そりゃ2x4で建てた方がよほど経済的だが、

風の盆のためにこうした街並みを保存しているのだと言う。

 歩いていて気になったのは、通りに面した間口が殆ど2間で、

たまにそれをふたつ合わせた4間の家があるくらいで、昔はこうした家で生活必需品や、

農具などを作りながら、町民の暮らしを支えて来たのだろう。

京都の下京区の一角の本願寺と島原の間のような雰囲気もある。

3.

この小さな町にも昔は「花街」があって、今も鏡町と称している。

そこのおわらの踊りは、芸妓踊りの名残もあり、艶と華やかさがある、という。

それでその会場である「おたや階段下」の広場に出向いた。

 そこには30段ほどの階段一杯に、ちょうど4月の花見の時のように、

名前を書いたビニールシートが両側に敷かれている。予約席だ。

その間の50センチほどの狭い所を下りてゆくと、石畳の広場がある。

今まだ6時になっていないのに大ぜいの人がもう坐り込んで待っている。

 私も暫くそこにいて、その雰囲気を味わっていたが、聞くと9時開演だそうだ。

皆それまで弁当を食べながら待つという。

 とてもそれまで待てないと思い、他の町内を回ることにした。

そうこうしているうちに、雲行きが怪しくなり、ぽつぽつと雨が降り出したので、

今日は一旦宿に戻り、明日、暗くなってから出直そうということにした。

 電車に乗り、暫くしたら雷が鳴り、バケツをひっくり返したような土砂降りとなった。

芭蕉の奥の細道の「名月や北国日和定めなき」を思い出した。

10分ほどしたら、電車が止まってしまった。大雨警報で電車は緊急停止。

1時間ほどしてやっと動き出した。車中泊を覚悟するほどであった。

風の盆は210日に田んぼを荒らす「大風」が吹かぬよう祈ることから始まった由。

近在の米の収穫がダメになれば、この町に与える影響は甚大である。

近在の農民の参拝客が、収穫の後の骨やすめにここに来た。

ここで生活必需品を買い求め、年に何回かお寺参りも兼ね、遊びに来た。

この山と川に挟まれた狭い斜面に寺が移され、門前町になって今日まで栄えたのも、

この斜面が大雨や大風による被害を受けにくい土地だったからと言えるかもしれない。

川の左岸から海側には扇状地が広がり、立山連峰から流れ出す大雨が氾濫しただろう。

しかしそこは農地が多かったから、エジプトがナイルの賜物と言われるように、

この八尾の周辺の農地を潤したのだろう。

今でこそ、コンクリート護岸で洪水を防ぐようにしているが、

江戸時代には一旦洪水が発生したら、それは低地に浸水させるほか術がなかったろう。

それで人々は、こうした山の斜面に間口2間の狭い家を建てて町立てをしたのだろう。

その町立ての許可を得て、町民がそのお祝として踊り始めたのが、

「風の盆」の由来とも言われている。

4.

翌日、暗くなるまでの間、城端(じょうはな)に出かけた。高岡から電車で40分。

地理的な関係は富山市と八尾の関係に似ている。

7年ほど前に訪れたことがある。私の遠い先祖がこの辺りから来た由縁だ。

山田川が町全体をヘアピン状に取り囲む高台に善徳寺という寺がある。

蓮如ゆかりの寺で、やはり門前町として栄えて来た。

八尾の町を歩いたとき、川と山に囲まれた狭い高台に町家がびっしり並ぶ雰囲気が、

この城端にとても似ているのを思い出して、それを確かめるため再訪したくなった。

炎天下、誰も歩いていない。

今回駅から善徳寺を目指してゆっくりと街を観察しながら歩いた。

城端も昔の街並みは、間口2間の家が殆どである。たまに4間のもあるが。

丁度そこから出て来た婦人に聞いてみた。

「この辺りは皆2間の家が多いですが、これは門前町として昔からですか」と。

「そうねえ、最近は引っ越す人のを買って4間にする家も出て来ましたが」との答え。

硝子戸4枚の家で、シャッターはほとんど無い。強盗はいないのだろう。

 善徳寺に着き、本堂に入る前の庫裏の塀に4メートルくらいの板看板が建てられ、

人名がびっしりと並んでいる。

本堂修繕のための奉納金を出した人たちの名である。

何十人かの地名を書いた人名の板札の後に、以上20万円とあり、

これが今後更に増えてゆくのだろう。

その次の立派な門は閉まっているが、中央に皇室の菊の御紋があり、

皇室関係の建物を拝受したものか、皇室との関係の深さを示すことで、

近在の信者たちから崇められているのであろう。

本堂を参拝した後、会館の方に向かうと、おびただしい数の名前が連なっている。

それらの名前を1枚ずつ見てゆくと、ほとんどが女性名であることに気がついた。

最後のところに、以上1,500円とある。

この会館に集まって来る信者たちのほとんどが、年配の女性であること、

そうした女性たちの貧者の一灯の集積がこの寺と門前町を支えていることが分かる。

旦那衆は大金を奉納するが、毎月の例会にはなかなか来られないだろう。

5.

 6時過ぎに八尾に向かい、諏訪町の風情ある坂を下って来る風の盆を堪能した。

7時から再開した風の盆を見ながら、8時過ぎに鏡町に向かい1時間待った。

階段はすでに占領されているので、その左の屋根越しのスペースを見つけた。

数組の男女がそれぞれおわらを舞いながら石畳に登場してくる。

11の支部すべてを見た訳ではないが、踊り手はすべて痩身で法被と着物が

よくにあっている。この町にはメタボの人はいないのかと思うほどだ。

メタボにならないようにこの日の為に節食し、踊りの稽古で体重管理をしているのだろう。

 両の手を斜にピンと伸ばし、左足を挙げて鶴のような格好の男。

両ひじを曲げ、白魚のような指を帯の前にあわせ、足を少し曲げる姿勢がなまめかしい。

これらは芸妓から厳しく仕込まれたしぐさだろうか。

 彼ら彼女らの踊りを眺めながら、その品の良さがどこからくるのか考えた。

踊りを見せてお金をとる訳ではない。210日の風の盆のために、自分たちの町の為に、

一年の間稽古を重ねてきたものを、この3日間、踊り続ける。

自分の為に踊るのだから、媚びたりする必要などさらさら無い。

大阪や京都の花街でみた芸妓や舞妓の踊りよりも品があるほどだ。

この山間ともいえるような坂の多い街の路上で踊る彼女等に気品を感じる。

けがれというものから遠いところにあるように感じる。

 これまでの女子サッカーが、男のより純に感じるのとどこか似ている。

男のサッカーは年収の多寡でその選手の価値が決められるから、ハンドをしたり、

審判の見えないところで汚い手を使うようなことも偶にみる。突き飛ばしすらする。

女子の方は、プロといいながら、低い年収に耐え、スーパーのレジで働いたりしながら

試合に臨む。自分の為にサッカ―をしているからだろう。

 そんなことを感じながら、ほれぼれするほどの風の盆を味わった。

深夜11時過ぎても踊り続け、踊り手と客は意気投合し夜の更けるのも忘れる。

来年も来てみたくなった。八尾の風の盆は天下一品だと思う。眼福、耳福である。

      2012/09/09 日夜浮かぶ記

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雨中嵐山

雨中嵐山
 8月13日、故郷で墓参を済ませ、京都に出かけた。
翌朝京都駅に着いたら、昨夜の大雨で土砂崩れのため、京阪間の鉄道は不通という。
大阪方面への旅客は思案に暮れている。復旧のめどは立っていない。
 幸い私の乗る山陰線(嵯峨線)は動いているので、嵐山に向かった。
小雨が降り続いているので、乗客は少ない。お盆休みだから通勤客もいない。
近年、京都駅から複線になったので、窓外の景色も少し変わって見えた。
 嵯峨嵐山駅で下車し、細い川の畔の道を桂川に向かう。
この桂川左岸の道を渡月橋の方面へゆっくり歩きながら、嵐山の黒々とした緑と、
そこに見え隠れする法輪寺の塔を眺めるのが、京都でいちばん好きな時間だ。
 琴聞橋址にしばらく佇んだ後、左岸を更に上がって、嵐山公園へ向かった。
目指すは周恩来が学生時代に雨の嵐山で作った詩碑だ。
以前数回来たことがあるが、人のいない雨の中を歩くのは初めてだ。
いろいろな訳があるが、雨中の嵐山での彼の心はどうだったのだろう。
90年前の桜のころの嵐山も、雨では人出はすくなかったろう。
彼は日本に来て2年ほど勉強したが、官費の大学に合格できず、私学で学んだ後、
神戸から船で故郷天津に帰る決心をし、その前に京の友人宅でしばらく過ごして、
雨の中を2度目の嵐山に遊んでこの詩を作ったという。
1919年4月5日というから清明節であり、唐詩の「清明時節雨紛紛」の一句、
「路上行人欲断魂」(道行く人は魂を奪われそうだ)の心境に近いものがあったかも知れぬ。
私も今回、雨の嵐山で感じたこと、及び以前京都に住んでいた頃に何回もここに来て、
桜の季節に道の尽きるところまで歩いたこと、右岸の大悲閣まで登った時、
そこから見下ろした桂川の泉のように湧きでる水が、巨石をめぐって流れる様は、
蔡子民氏などの訳とは、少し違うと思い、3番目に私訳を試みる。
 
 雨中嵐山――日本京都
     一九一九年四月五日
 雨中二次遊嵐山,
 両岸蒼松,夾着幾株桜。
 到尽処突見一山高,
 流出泉水緑如許,繞石照人。
 瀟瀟雨,霧濛濃;
 一線陽光穿雲出,愈見[女交]妍。
 人間的万象真理,愈求愈模糊;
 ――模糊中偶然見着一点光明,
 真愈覚[女交]妍。
(女交は一字で美しい意。日夜浮かぶ注)
 

 (訳)
 雨の中を二度嵐山に遊ぶ
 両岸の青き松に いく株かの桜まじる
 道の尽きるや 一きわ高き山見ゆ
 流れ出る泉は緑にはえ 石をめぐりて人を照らす
 雨もうもうとして霧ふかく
 日のひかり雲間よりさして いよいよなまめかし
 世のもろもろの真理は 求めるほどに模糊とするも
 ――模糊の中にたまさかに一点の 光明を見出せば
 真 (まこと) にいよいよなまめかし   
      (蔡子民氏・訳)
 
 雨の中、二度嵐山に遊ぶ。
 両岸の蒼松は、幾株かの桜をはさみ、その尽きる処に一山高く聳える。 流れくる泉水は、かくも緑で、石をめぐりて人影を映す。
 大雨で霧が濛々(もうもう)と立ちこめ、やがて雲の切れ間から一線の陽光がさしこむその景色は一段と美しい。
 人間社会のすべての事物の真理は、求めれば求めるほど曖昧模糊 (あいまいもこ) なもの。しかし、その曖昧さの中に偶然一点の光明を見つけたとき、真の美しさがあると思われる。
 (『嵐山あたりの史跡と伝説と古典文学を訪ねて』 室町書房より)
 
(日夜浮かぶの訳)
 雨の中、二度目の嵐山に遊ぶ
 両岸の蒼蒼とした松のなかに、何本もの桜の花がきれいだ。
 道が尽きると、突如、高い山が目の前に聳える。
 こんこんと流れ来る泉のような水は、かくも美しい緑に映え、
 川中の巨石を繞(めぐ)って、人を照らす。
 雨瀟瀟(しょうしょう)となり、霧立ちのぼる:
 雲間からもれ来る陽光は、見れば見るほど美しい。
 世の中のすべての真理は、求めんとするほど模糊となるが:
――模糊の中に、偶然一点の光明を見つけると、本当に美しいと感じる。
   (2012/08/20訳)
追記:
 この詩を書いた時の周恩来は「詩人」であった。
帰国後これを投稿した。
もし、彼が東京で官費の支給される大学に合格して、卒業証書を持って帰国したら、
同じ日本留学組の蒋介石や汪兆銘などのように、国民党政府のエリート官僚として、
まったく別の道を歩んだかもしれない。
 日本での勉学を断念して帰国する際に作ったこの詩が暗示するのは何か。
雲間からもれくる一筋の光明とは、その後、彼がフランスに渡り、共産党員になって、
その光明の源を探し求めることに繋がったのだろう。
2012/08/21記
 
 

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西安へ

始皇帝とヒットラー
1.兵馬俑
 7月11日から友人と西安に出かけた。
お目当ては始皇帝の兵馬俑と陝西省博物館。
兵馬俑は3度目。発掘後、公開されて暫くした82年と92年。
その間、西安には2回ほど来ているが、兵馬俑は20年ぶり。
最初はすぐ近くまで降りることができ、写真を撮ったりした。
一号館から移動する途中に、製造過程が展示されていて、
等身大より少し大きめの首から下だけのテラコッタに、
それぞれの兵士や将官が、自分の顔に似せた頭部を作ってもらう。
それゆえ、ひとつひとつの顔がすべて違っている。
今回それを探したが、見当たらなかった。
兵馬俑の顔をつぶさに観ていて、なんだか嬉しそうな感じで、
ほほ笑んでいるように見えた。なぜだろう。
身代わりの像を作ることで、殉死せずにすむからか。
こんなに自分によく似た像を作ってもらってうれしいのか。
よくわからないが、肖像画を書いてもらう時、立派な顔、
嬉しそうな顔に描いてもらいたい心理と似ているかもしれない。
その後、漢代とか明代に作られたものは、ずっと小型になり、
規模も小さく、顔も殆ど同じような印象である。
始皇帝の兵馬俑は芸術品のような品位が感じられるが、
それ以降のものは、大量生産された玩具のような印象である。
 30年前、秦の始皇帝の兵馬俑のすごさに圧倒されて、
頭がぼーっとなってしまった。その後に漢の兵馬俑をみて、
なんだか、サッカーのワールドカップを見てエキサイトした後、
他の球技を見るような拍子抜けをした思いだった。
 始皇帝以前、王侯が死んだ時、多くの側近が殉死したと聞く。
それを始皇帝か、あるいはその数代前の秦の王侯が殉死を減らして、
このようなテラコッタで代替させ、兵力国力を保ったのだろうか。
四川地方の豊饒な農地を手に入れ、農業を盛んにした結果、
戦国の七雄と称された他の六国を倒して、天下を統一できたのだ。
兵馬俑はその統一を兵士たちがうれしそうに祝っているかのようだ。
 物の本に依ると、これらの兵馬俑は、始皇帝が死ぬ前に作られた由。
始皇帝は、将兵は殉死しても、すぐ腐ってしまって、あの世での戦に、
使い物にならないと考え、腐らない俑や銅馬にしたとの説がある。

   展示品1 明の兵馬俑(漢代の物はこれの倍くらいはある)


2.博物館
陝西省博物館は、2009年に敦煌から大連に戻るときに観た。
その少し前から中国政府の方針で、全国の博物館が無料開放された為、
9時に行ったが、すでに長蛇の列で、2時間弱待って入場した。
午後3時の飛行機に乗るため、1時間ほどしか見学できず、
心残りで、今回、旅行社なら並ばずに見学できると思い参加した。
 朝一番にお決まりの美術工芸品の店に案内された。
誰も買いたい気にもならない、いかにも土産物然とした工芸品を、
まるでバナナのたたき売りのような雰囲気で、
これとあちらの3つ10万円で「お譲りします」と変な口上。
早くここから抜け出て、陝西省博物館に向かいたいのだが、
前々日の到着便が遅れて、夜中の2時にチェックインしたので、
昨日行く予定だった工芸品店に、今朝連れてこられたわけだ。
これも旅行社の低価格ゆえの別途収益稼ぎだから、止むを得ないが、
今回は目が肥えた8名で、誰も衝動買いすらしない。
1時間ほどいたが誰も何も買わない。時間の無駄であった。
或いはまずこれで贋物に食傷させてから、本物を見せてびっくりさせよう、
とでもいうのか。
正門は長蛇の列だったが、ガイドさんは土産店の裏口から入場。
中国語の走後門、というのを実感した。
上野の博物館でこんなことしたら、どうなることか?
春の「清明上河図」では、1400円払っても、2時間待ちだったが。

 展示品2 貨幣が登場するまで使われていた貝のお金。


 これらの貝は西安から遥か彼方の海で採れたもの。宝貝はまさに宝だ。
その後、各国で本物の刀や布がお金の代わりとして使われた。

3.貨幣と文字の統一
下の写真は、右側の秦の円い貨幣が天下の統一貨幣となる。
これが、所謂「円形で中に四角い穴の銅銭」の原型だ。
燕と斎は刀の形、趙と魏は布型で、隣国ゆえ似ている。
韓は秦に近い。秦は韓非子の祖国、韓にまねたものだろうか。
この貨幣統一ひとつとっても、秦が果たした役割は大変なものだ。
日本にも大きな影響を与えた。
 次ページ上、展示品3 貨幣の統一 下、展示品4 文字の統一



馬という字の各国使用例についての説明だが、下辺の4つの点が、
足を表すということを示しているのがよく分かる。
馬の特徴である、たてがみのついた首は各国共通しているが、
4本足と尾を明確にしたのは、楚から採りいれたものか。
他の文字は「目」と混同し易い。
西方から遅れて中原にやってきた秦は、後発ゆえに各国から、
いいとこ取りができたとも言える。
それは、他国から賢者を招き、彼らの意見をよく聞いて採用し、
それぞれを重職に起用したことにも、現れている。 
始皇帝は韓非子について、「私はこの人に会って、親しく交際できれば、
死んでも悔いは無い」と述べた、と「史記」にある。
韓非子はそれまでの世襲貴族による統治ではなく、
個々の能力や功績で人材を登用するように説いた。
その後、中央から任命する役人による統治体制の郡県制になる。
4.郡県制の弊害
 江戸時代の幕藩体制との差は、藩も国替えは何度もあったが、
基本的には各藩の藩主は長期に亘ってその土地を豊かにし、
藩内の人の暮らしを向上させようとしたが、
郡県制で任命された長官が、その県を豊かにした例もあるが、
大半は3-4年の任期中に自分の懐を肥やそうと懸命になり、
稼いだ財を上納し、中央で昇官し、さらに大きな権力を握ることに向けられた。
 21世紀の中国社会も、この伝統から抜け切れていない。
大連を発展させ、商務大臣になり、重慶でも辣腕を振るった薄氏も、
太子党という「世襲」官僚が、任地での蓄財をもとに中央へ戻り、
さらに大きな権力を握ろうとした伝統に則していたが、
No.2の離反や、妻の殺人容疑などで追い落とされた。
 薄氏の大連や重慶での統治を称賛する人は沢山いる。
確かに彼は普通のボンクラ役人ができないことをつぎつぎに仕掛けて、
成功例を積み上げ、低価格の住宅を大量に建設して、低所得者に分配した。
 しかし彼の取り締まりの手法は、逮捕者の財産を没収したため、
多くの逮捕者から怨みを買い、最終的には自らの身を滅ぼすことになった。
日本の県知事は各県の投票によって選ばれ、県と県民のために働くが、
現代中国の市長や省長らは中央から任命されるため、
3-4年の任期内で、次の自分の昇級の為に何をやるかが最優先される。
5.秦の咸陽城址




  上、牛羊村の秦咸陽城遺址の碑(2011年5月立)
  下、一号宮址の高台から、人家は無く、一面の畑。
   ここに「中日友好の石碑」がある。(徐福の御蔭かな?)


  牛羊溝の写真。このような深い溝が南北に延び、それが数条ある。
宮殿は版築で突き固めた高台の上に建てられたから、その間の溝か。
或いは、北の涇水から渭河への物資運搬用の運河か、用水路の名残か?
京都でも鴨川の西に烏丸・西洞院・堀川等何本も水路が掘られたが、
徐福伝説で有名な秦の時代に、日本に渡来した人たちの子孫といわれる、
秦の河勝の下で、咸陽の水路を思い出して摸したとしたら面白い。
桂川の豊富な水を、山城京の灌漑用に引いてきたとの説がある。
 前方、渭河の遥か先に漢の長安、明の長安を望む。

 最終日の14日、フリープランなので、3人で車を雇い、
秦の咸陽城址に向かった。9時に出発。
以前、樋口隆康著「始皇帝を掘る」(学生社96年版)を読み、
窯店鎮というところから入ったときの地図を模写したものを、
運転手の張さんに見せて案内してもらった。
彼は西安生まれだが、咸陽城址には行ったことがないという。
何も無いから、一般の旅行者は行かない場所だ。
石碑さえ2011年5月に建てられたばかりだ。
まずは現在の咸陽市に行って、土地の人に尋ねることとした。
 ホテルから真っすぐ西に向かい、シルクロード起点の彫刻を見、
渭河大橋を渡り、いつか徒歩で河畔をのんびりと歩きたいなと思った。
市内に入って2-3か所で尋ねてみたが、だれも知らない。
 その内、あちらの方ではないか、と指さす人に出会い、そちらに向かう。
咸陽市内を離れ、道も未舗装の純然たる農村地帯になった。
道路一面に大きな水たまりがあり、自転車が難儀している。
右側に西安から敦煌への鉄路が伸び、タンク車が停車している。
ここまで5-6人に尋ねたが、誰も咸陽城址のことを知らない。
同行のOさんも彼の故郷F市で発見された遺跡のことに触れ、
市民の百人に一人しかその遺跡を知らなかったというから無理も無いか。
どうやらやっと目指す牛羊村に着いたようだ。
路傍で物を売る人に聞いたら、通り過ぎたから元に戻れという。
ようやく北に向かう道を見つけそれらしい景観を見つけた。
豊かな装飾をつけた農家を見つけ、お婆さんに尋ねた。
「誰の家を訪ねるのか、名前を言えばそこまで案内するよ」
と親切な応対だが、城址のことは全く知らない。
それで、東に向かってそれらしい石垣の建造物を目指した。
そこは最近建てた地区センターのようなもので、途方に暮れていたら、
バイクに乗った兄さんが「咸陽城址なら今来た道を戻って、
更に北へ向かえば石碑がある」と教えてくれた。
わずか4-500メートル程の距離であった。
Oさんの故郷より確率は高いが、10人余に尋ねて、
やっと歴史好きな人に会えた。これまで2時間かかった。
実は、樋口さんの地図の漢字表記が、本文には「窯店」とあるのだが、
「窟店」と誤植されていたため、張さんのカーナビに出てこなかった為、
だということが判明したが、いずれにせよ、つい鼻の先の牛羊村の、
立派な家に住んでいる老人も知らないとは、驚きだった。
窯と窟の簡体字はよく似ていて、カーナビは誤入力では役に立たない。

6.焚書坑儒
 さて、表題の始皇帝とヒットラーに入る。
二人とも短命政権だったため、死後は「暴虐な独裁者」として、
徹底的に否定批判された。
ヒットラーがドイツ的でないとした書物をすべて焚書した時、
日本では、彼を始皇帝に比して批判した。
始皇帝は、農医以外の「他国の史書、儒家の詩経、書経、諸子百家の書」
などを全て焚書した、と言われている。
しかし、皮肉なことに、焚書を逃れたものが今日伝わっており、
秦以前の農医関係のものは、ひとつも残っていないそうだ。
大切な物は壁かどこかに蔵され、いつでも手に入る物は棄てられた。
 坑儒については、「世を惑わす者」として、儒者460人余を、
穴埋めにしたとされている。
これは弾圧された儒者がその後、漢代になって復活し、
政権の中枢に座ると、始皇帝の暴虐さを、これでもか、これでもか、
としつこく徹底的に誇張宣伝したためであるとされている。
実は、不老長寿の薬を探せる「超能力」があると吹聴して、
始皇帝から膨大な富財産をだまし取って、逃げて行った方士たち460人を捕え、
穴埋めにした、というのが真相との説がある。
 儒者は自分たちが虐待され坑儒されながら、漢の建国に貢献したと、
自己の正当性を証するために、始皇帝の暴虐さを誇張したというのだ。
ヒットラーの暴虐さはユダヤ人の大量虐殺が一番悲惨なことだが、
死者の数としては、ソ連の大祖国戦争の発表数字が最多である。
戦争と、強制連行の差は歴然としているが、広島長崎への原爆投下も、
米国がもし敗者となっていたら、どうなっていただろうか。

 魯迅の「准風月談」に「明末の張献忠が暴虐の挙句、無数の民を、
大量殺戮したが、清の粛王が彼を殺してくれたおかげで、明の民は、
清朝の民(奴隷)になれて大変喜んだ」という各地に残る戯曲に触れ、
これも、清朝政府が、自分の正当性を証明するために書いた戯曲で、
庶民はこの戯曲を観て、張献忠がいかに暴虐だったかと洗脳された。
 この手法は現代でも使われている。自己を正当化するためには、
前政権がいかに暴虐で、侵略者とグルになって、民を圧迫したか。
それを証明する映画を大量に製作して、民の頭にそれを刷りこむ。
敵を徹底的に悪物にしなければ、自己の正当性は証明できない。
南京で大虐殺をした暴虐な日本軍。そしてその日本との戦闘で、
日本軍の追跡を防ぐためと称して、黄河の堤防を決壊し、
多くの無辜の民を犠牲にした国民党とその軍隊。
彼らの悪事を暴き、民に示すことがとても大切なのだ。

始皇帝は、2世皇帝がしくじった結果、漢の儒家・歴史家たちに、
極悪非道の「悪物」にされた。
 しかし、40年ほど前に兵馬俑が発掘・公開されて、
彼の果たしたプラスの面が、知られるようになってきた。
それまで、漢に遠慮して始皇帝をプラス評価しなかった歴代の朝廷、
儒者の洗脳を受けて来た人々が、始皇帝を認め始めた。

始皇帝陵の付近には陪葬墓がある。そこは殉死した人たちの墓だ。
自ら願い出て殉死した公子高や、子の無い後宮の女たちが殉死させられた。
それは2世皇帝が始皇帝の死後に行ったことだという。
今、一部の青年以外に、ドイツでヒットラーを肯定するものはいない。
中国では、始皇帝を肯定する人が増えているという。

西安の世界遺産は「兵馬俑」しか無い。
漢代や唐代に作られたものは、始皇帝を凌ぐことはできなかった。
文明の厚さは漢・唐によって形成されたものだが。
     2012/07/20   日夜浮かぶ記

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象潟へ

1.
 昨夏、復興中の松島を船で巡り、他より被害の少なかったのにやや安堵。
また、湾内260余の島全てに名がついているのに驚嘆し、
海水がひた寄せる岩にしっかり根を張る松に感心した。
真水のある所まで根が届いているのだろう。

高田浜の松は津波に打ち勝った一本も、海水で根が腐ってしまったという。
今年は、「奥の細道」で「松島は笑うが如く、象潟は憾(うら)むがごとし」
といわれた象潟をこの目で見に出かけることにした。
 6月18日朝、新幹線「とき」で新潟へ。12時半の「稲穂5号」に乗り換え、
15時16分象潟着。駅近くの宿を2-3軒物色してチェックイン。

夕闇のせまるまでに「うらむがごとし」の光景を目にしようと出かけた。
羽越本線の踏切を越すと、右手にTDKの工場があり、「祝東京ドーム出場!」
の横幕が掛る。4つ辻を左折し、目指すは能因島と伝わる島。
更に行くと右手に又TDKの大きな工場があり、そこを過ぎると、
かつての海が2Mほど隆起して陸になったところを更に整地したものか、
新しくて立派な住宅地が続く。農家には見えないが豊かになった農家かもしれぬ。
TDKの社員や関連産業の人たちが建てたものかもしれない。
 イメージとしては、播州赤穂のかつて広大な塩田だった所に、製塩業が廃れて、
盛り土され、整地されて工場や新しい住宅が次々に建てられたのに似ている。
その住宅地が切れると、川が流れその向こうの田んぼの中に能因島が見える。
決して高くはない。数メートルしかない。石碑と幹の太い松が何本も生えている。
芭蕉が舟から上がった時も低い島だったろう。
 見回すと、鳥海山のふもとまで、小さくて低い土塁状の墳墓のような丘が点在し、
その周囲を水田が埋める。これが海水だったわけだ。
 説明書には、2600年ほど前の鳥海山の噴火で、泥と岩石がここまできた由。
泥は海に流され、岩に松が生え、九十九個もの島八十八の潟になったそうだ。
それが1804年の地震で海底が隆起して潟湖が陸地になったのだが、
飛んできた岩石は潟の軟弱な潟底の土に乗っかっていただけだろうから、
持ち上げられることなく、そのままの高さを保ったものだろうか?
 確かに隆起もしただろうが、長年の河川の沖積で陸地化したのかもしれぬ。
(説明書には、本庄藩が3年後に開田を始め……蚶満寺の僧の反対で中止されたが、
その後も藩の財政的支援で進められ、現在は象潟の主要米作地帯となった、とある)


2.
日本海側には新潟をはじめ、八郎潟、象潟、犀潟など有名な潟が沢山ある。
いずれもその多くは陸となり、農民の手によって水田に変じている。
青森市も江戸時代は「安潟」といわれたが、河川の付け替えなどで陸地化し、
そこに青い森ができたので青森と呼んだと伝わる。
今そこは安方町(やすかた)という。
海と河川が運んできた土砂が砂洲になり、それが蟹のハサミのように、
或いは象の鼻のように遠浅の海を囲み、そこに河川からの土砂が堆積して、
農地になり人が稲を植え、豊かに暮らせるようになった。

 今回の津波でおびただしい量の海底土砂が農地を覆ったが、最近の報道では、
それらの土砂にはKやMgなどを多く含み、表面と深くの土をよく混ぜ合わせ、
水はけを良くすれば、塩分は雨水で流され、却って肥沃な土地になるという。
それにアルカリ性の製鉄スラグを投入すれば中性化されるとか、
ゼオライトでセシウム除去とか、人間はこの津波を逆に福に転じようとしている。
 日本海側は雨量も多いし、象潟もやはり1804年の大地震で大変な被害が出ただろうが、本庄藩が財政支援を惜しまず、数年後には象潟を主要米作地にした。


        (鳥海山を眺める象潟の水田と元の小島群)




3.
 そんなことを考えていたら、「かた」「がた」「ぎた」などの地名音のいわれは、
昔は潟だったかもしれないという空想が広がった。
博多、山形、酒田、坂田、ひょっとして秋田(あぎだ)もそうかと。
直方(のうがた)も大昔は海岸から近かったかもしれない。
 日本海側にそうした地名が多いというのはどうしてだろう?
広辞苑で潟を引くと①遠浅の海で、潮がさせば隠れ、ひけば現れる所。
②砂丘・砂洲・三角洲などのため外海と分離してできた塩湖。
 一部が切れて海に連なることが多い。サロマ湖、風連湖の類。
③湖・沼または入江の称。 とある。
中国語「新華漢語辞典」の潟は:Xiと発音し、塩水が浸漬してくる土地、とある。

(新潟などの地名表記に現代中国語で使われる瀉は一瀉千里のように一気に流れる、
という意味に使われる言葉だが、瀉湖という時は日本と同じ塩水湖として使う。
簡体字で造りは同音の写にしており発音もXieだが、本来は潟とすべきだろう。
ちなみに舃という造りは、カササギの象形の由)

 カササギは中国朝鮮半島に生息し、日本では九州辺りでしか見ないが、
渡来人が漢字をもたらしたころは、九州はじめ本州各地の日本海側の潟に、
たくさん生息していたかもしれぬ。

4.
 さて象潟をいつごろどういうことから「きさがた」と呼び始めたのだろう。
宝永―正徳年間に描かれたと思われる「象潟古図」(本間美術館蔵)の右上に、
『蚶潟(手書きの造りは写と書いてある)之圖』と大きな字が見える。
この蚶は「かん、きさ」と読み、赤貝のことで、古名は「きさがい」の由。
この潟は昔から「きさがい=赤貝」が良く採れたのでそう呼ばれた、という。
この潟の中に浮かぶ島にお寺があり、それを蚶満寺といい、芭蕉も舟で詣でた。
今は羽越線の踏切の左にある。
寺の僧が開田に反対したのは潟が無くなり「蚶」が採れなくなってしまうからか?
水田が開け、農民が作業に出入りして、仏の道を学ぶのが妨げられるからか。
別の説明では、「カンマン」とはサンスクリット語で不動明王のことだそうで、
円仁が付け、その後、仁和寺から「蚶満」の額を得た由。
芭蕉の奥の細道には「干満珠寺」とある。
閑話休題、当時はきさ貝が良く採れたので「きさがた」と呼んでいたのだろう。
その「きさ」がどうして「象」に変じたのだろう。
熊野権現から海側に突き出ていた半島のような部分が象の鼻に似ていたためか。
まるで横浜港の像の鼻のごとくである。
いや多分きっと名前を名乗る時に使う、「きさ」という音を借用したのだろう。
まさか潟が陸地になって「きさ貝」が採れなくなった為ではあるまい。
 しかし、芭蕉が目にしたのは「干満珠寺」という額だったかも知れぬから、
「蚶」の字を憚るようなことがあったやも知れぬ。

5.
 さて話しは芭蕉の句に移る。
    (象潟駅前広場の「ねぶの花」記念切手の陶板)




寺には当地に伝わる初案を元に「象潟の 雨や西施が ねぶの花」の碑が、
彼の没後70年に建てられた。
 いまその境内に、芭蕉と西施の像が立つ。不思議な取り合わせだ。
杭州の西湖もやはり潟湖だったのか、水深が非常に浅く、小島が沢山点在する。
唐の白居易に習って、宋の蘇軾も湖底の土を掬い、湖中を縦に長い堤を造り、
今、白堤とともに蘇堤と呼ばれている。
陸から流れ込んでくる土砂を掬わないと、大雨で湖水があふれて住民が難儀する。
 さて芭蕉が、蘇軾の「欲把西湖比西子」西湖を把って西子に比せんと欲すれば、
という有名な「飲湖上初晴後雨」と題す詩に興をかきたてられたのは、
二つの潟湖を描いた墨絵などを飽かず眺めて来た芭蕉ならではと思われる。
彼は実際に西湖に行っていないから、詩と絵で想像を膨らませたのだろう。
芭蕉が着いた日は雨のため、蜑(あま)の苫屋に膝を入れて、雨の晴るを待つ、
という詩境に巡り合えた。雨も亦奇なり、である。
なぜここで合歓の花が出て来たのか?
能因島の先に、合歓の花の群生地あり、と説明の絵地図にある。
今はまだ新暦の6月で花は咲いていないが、つぼみはふくらみかけている。
芭蕉の着いた旧暦6月16日は、合歓の花が咲いていた。
夕食した店の主人に依れば、7月中頃から咲くという。
ここの合歓の木は相対的に低く、北京や大連の並木として植えられた5-6M高の
ものと比べると、種が違うほどの低さである。高くならないのだろうか。

   (大連の合歓の花の並木)
  大連は5月のアカシアの並木で有名だが、7月は合歓の花が散歩を楽しませてくれる。





さて、芭蕉はこの合歓の花を西施とどのようにつなげたのであろうか。
上述の句に続く、淡い化粧も、濃い化粧も、総べて相宜し。という句が物語る。
 潟湖に浮かぶ島々を眺め、岸辺にたたずむ西子の目の先には合歓の花がねぶる。
そう、まぶたを閉じて、この湖の美しい景色はもう二度と目にすることはできない。
越王勾践の命で、呉王夫差のもとに行くことになったのだ。
有名な「象潟は憾むがごとく、寂しさに悲しみを加えて、地勢魂を悩ますに似たり」
というのは、象潟というよりは、潟湖畔にたたずむ西施のことではあるまいか。

6.
 暗くなってきたので、駅に戻り、夕食をとる。お勧めの広東風焼きそばを頼む。
横浜から来たと言うと、主人は若い頃、赤坂の周富徳の店で働いたことがある、と。
TDKが不景気だった時で、高校を出ても就職できず、故郷を出た。
その後、JR関係の仕事をし、今はこうしてスナック喫茶店を開いているという。
今また電子関係の仕事ががたっと減って、象潟周辺にある3-4か所のTDKの工場の
一部が閉鎖されるというので、商売が減ってしまうと心配顔であった。
 宿について早々に就寝。
翌朝4時半に宿を出て、昨晩の続きを歩いた。
すれ違う人々は「おはようございます」と声をかけあうおばさんおじさんたち。
合歓の花はどこですか、と尋ね尋ね、やっと数本生えているところに辿り着いた。
もっとたくさんあるかと期待していたが、松の方が圧倒的に多い。
私としては、もう少し並木にも合歓の花を植えてみてはと進言したくなった。
 踏切の方から列車の音が聞こえるのでカメラを向けた。
なんと今や数すくなった上野―青森の寝台特急「あけぼの」ではないか。
象潟5時37分着。早起きは三文の徳。
鳥海の山の端にお日さまがぼうっと出ている。
 芭蕉たちが欄干から鳥海と象潟を眺めた赤い橋から、往昔の面影をしのぶ。
ここら辺りは昔から多少人家があったのだろう。








小学生の男の子二人を連れた父親がこちらに向かって歩いて来る。
ここから海までどれくらい?と尋ねたら、彼らも同じ方角だからと案内してくれた。
熊野権現に着いたら、真っすぐ行って幼稚園の所を曲がれという。
彼らは、これから熊野神社の階段を何回か上り下りして朝の運動をするという。
この神社と本隆寺には階段が何段もあり、昔から高台だったことが分かる。
今回の津波でよく分かったことだが、千年前からあるお寺は大抵大丈夫だった。
それでなければ、鎌倉の大仏のように建物は津波に流されてしまうのだ。
自衛隊の人に聞いた話だが、昔、海軍基地を開く時は、大昔からあるというお寺に、
引っ越して貰って、その一帯に基地の本部を置いたそうだ。
横須賀、舞鶴、江田島、佐世保など前に防波堤の島があり、天然の要塞だが、
さらに念には念をいれて、大昔からの由緒あるお寺さんにも引っ越してもらった。
明治海軍の智恵であり、英国海軍から学んだ上に、
大地震津波を加味したものだ、と。
それなら千年に一度という想定外の津波も来ないから安心だろう。
福島原発はわざわざ高台だったのを削って低くしたという。
なんたることか。
波越さぬ 契も無しに 削るとは。
8.
 芭蕉が泊まろうとした能登屋は、あいにく熊野権現の祭礼で、女客があり、
やむなくその前にあった向屋に泊る。これが「蜑(あま)の苫屋」であろうか。
ここに膝を入れて雨の晴れるのを待つ、とあり、
翌日は能登屋に移っているから、
苫屋だったに違いない。
そこから現在の漁港までは少し離れているが、
昔はすぐ目の前が海だっただろう。
 ここで又空想が湧いてきた。
有名な「一つ家に遊女も寝たり萩と月」の市振の段は、
創作であるとされている。
曾良の日記にそれらしき記述は無いのだ。
 芭蕉等は象潟に来て、今野又左衛門の世話になっているが、
宿を頼んではいなかったのだろうか。
事前に文などで頼んでおけばこういうことにはならないだろう。
推測としては、前の宿で知り合った、美濃の商人、
低耳から象潟に着いたら、
能登屋に宿を取る様にと聞かされ、
彼も遅れて参じる云々ということだったろう。
ところがどっこい、元禄2年の頃には、女性も多く旅をするようになっていたから、
能登屋はそうした女性客で満室だったのだろう。
 それにしても不思議なのは、曾良の日記に「所ノ祭二付而客有」の客の前の「女」
という字が抹消されていることだ。
 想像をたくましくすると、如何に元禄時代、女性の旅が普及したとはいえ、
象潟まで足を伸ばすのはめったにないことではなかったろうか。
となると、祭礼に集まる人々たちに「娯楽」を提供する女性だった可能性が高い。
それにしても、僧形の身とはいえ、地元の名士も世話をしたほどの芭蕉たちを、
泊められないのには、何かがあったのだろう。翌日は泊まることができた。
ここを定宿として商売をしている低耳がかけ合った結果だろうか。
 このときのことを覚えていて、ここから長い長い越後路を終える市振に来て、
この寓話をもとに、あの隣から聞こえる話しなどを創作したのではなかろうか。
いろいろ空想をふくらませて楽しませてくれる象潟であった。
              2012/06/23 日夜浮かぶ

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ハスのこと

若い頃、岩波新書の「唐詩選」で、李白の有名な詩「若耶渓のほとりに蓮を採るむすめ」
という句が大好きだった。季節も背景もなにも訳が分からなくともいい響きだった。
最近、筧文生さんの「長安 百花の時」(研文出版)を読んでいたら、筧さんもこの詩は
季節的にいつなのか、分からなかったとあり、注釈書にもそれに触れたものは無かった由。
 彼は学者で詩の専門家であり、いろいろな古典の中から、春、夏、秋と3つの季節に該当する例を示して、それにしても彼の日本、京都での自らの経験からは、春に蓮の花が咲くのだろうかと訝り、中国からの留学生に尋ねた。
その答えは、中国は広いから春でも蓮は咲くのでは、だった。ハスの花は朝開いて4日後には散ってしまうから、春から咲きだしたら、夏の終わりまで次々に咲くので、冒頭の詩の蓮を採るむすめたちは、仕事として食べごろになった実を選んで毎日蓮池を小舟に乗って蓮の花の間を行くのであろう。
私も京都に住んでいたころ、京都の四条南には六道珍皇寺という寺があり、8月の初旬には、善男信女が次々に訪れ、沿道の屋台でハスの花のつぼみを買い求めて、高野マキと共に先祖の霊に供える光景を目にした。

 その後彼は、蓮の花を採るのは、花瓶に入れて鑑賞するためではなく、蓮の実を採るためだったということ、そして花が散ったすぐ後に採った実は柔らかくて、そのまま食べられるそうだ、ということを記している。

 中国人には、なんでもまず食べることを中心とする思考回路が出来上がっているとし、
さらに陶淵明の「菊をとる東蘺の下」の句を引いて、これも花を花瓶に入れるためでなく、
菊の花を杯に浮かべて、邪気を払うため、と述べている。
 それで私も北京上海大連などにいたころの中国人の風習を思い出してみた。
70年代の広州交易会で広州の料理屋で食事中、先輩から聞いた話し、中国では空を飛ぶのは飛行機、海の中では潜水艦、陸の上では机以外の4本足の物は全て食す、
というのが強烈な印象として残った。
 確かに、中国人の発想の原点は、それが食すことができるかどうか、薬用として功能があるかどうかが、鑑賞の先にあるということは大方の人が認めることだ。
では日本はどうか?
先のハスの花も供花として実のなるまえにとってしまうから、食すよりは供える方が優先
されている。菊は一部てんぷらにして食べたりもするが、鑑賞がやはり優先されている。
ヨモギはどうであろうか?
日本ではヨモギ餅の材料としての方が多いが、中国では端午の節句にこれを根の着いたまま採って来て、家いえの軒に吊るす。邪気を払う為だという。
新聞では、根こそぎとるのをやめるように呼びかけているが、根がついてないと、
すぐ枯れてしまい、邪気が払えないとして根の無いのは見かけない。
最近はこの風習が盛んになってきて、里山のヨモギが根こそぎ採って行かれ、年々減ってきており、新聞などはこうした根こそぎ採るのは止めようと呼びかけているほどだ。日本では菖蒲湯といって菖蒲の方がこういう使われ方をしていて、ヨモギは餅用以外に被害に遭わないようだ。
日中両国の風習の違いは、どこから出て来たものだろうか、面白いから研究してみよう。
      2012/04/30

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西湖の魯迅像と倒立の男

所用で杭州に出かけた。 翌朝西湖の白堤を散歩した。大勢の老人たちが散歩から帰って来ていた。 数名の気の合う仲間と語らいながら散歩と体操をするのが日課になっていて、健康に一番だという。 さらに進んで魯迅の像があるところまで来た。 そこに不動の姿勢で倒立している男がいた。 彼にとってはこれが日課なのだろう。 この空気の良い杭州では魯迅も気持ちよさそうだった。

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グレッグ・スミス辞任と重慶の薄書記解任

1.

 17日の日経にゴールドマンサックスの幹部社員グレッグ・スミスの
辞任関連ニュースで、ゴールドマンは顧客より自社の金もうけを優先していたと告発していた。

 こうした告発はしばしばあることだそうだが、実態がゴールドマン社の
自己勘定取引と投資に重点が置かれ、顧客への助言による本来のビジネスが軽んじられてきたことにあるようだ。顧客の利益のために存在する会社が、自己勘定取引で自社の利益増大の方が優先されるなら、顧客は見限って行くだろう。

 さて話を重慶の薄書記解任に転じる。

 中国の現在の中央集権体制は、秦の始皇帝が始めたといわれる郡県制にその起源がある。

それまでは徳川の幕藩体制のように、首都周辺と重要な地点は中央が押さえていて、それ以外の地方は昔からの領主がいたのを、郡県として封建貴族の支配を排除して中央から任命した役人が長となって3-4年ほどの任期で交代させて、腐敗を防ぐとともに、独立王国となって中央に反抗することを防止してきた


 その結果、その役人に任用されるための科挙制度が始まり、その試験に合格した者は、中央から各地方へ派遣され、その地で地方行政をうまく治め、その一方でそこで巨額の財産を蓄積して、中央の然るべき筋に上納し、時には官位を買って頭角を現して行った。

 内藤湖南が指摘しているように、郡県制の欠点は長として任命された役人が、自分の任期の間に、その地方をよく治める一方で、できる限りの手段を講じて、そこから巨額の富を自分のものにしたことである。その伝統は今日まで受け継がれている。

2.

卑近な例でいえば、1997年の香港返還時に、それまで香港を統治してきたイギリスが、香港に貯めこんだ膨大な富をそのまま中国に返還してしまうのは惜しいとして、とてつもない予算を組んで、空港や高速鉄道、橋梁をイギリス系の会社に発注し、それまで蓄えてきた香港政庁の財産の何割かをそれらの会社を通して、自国に持ち帰ったということが指摘されている。

これは英国の植民地での行為だが、現在の中国の各地方の政府の長は、農民から取りあげた土地や、もともとは海や湖沼だった土地を埋め立てて開発区にし、外資系企業に分譲して使用料を稼ぎ、居住地としてデヴェロッパーに高層マンションを建てさせ、そこから莫大な富を生み出す。その過程で大金が個人の手元に残る仕組みだ。

 薄書記は私が大連に赴任した時、大連市長として日仏米など外国企業を沢山誘致して実績を上げ、私の在任中に遼寧省長に出世し、私が帰任する頃には中央政府の商務大臣となっていた。その後重慶のトップとなり、そこでも実績をあげて中国のトップ九人の中に入りそうな勢いだった。それが今回の解任となったのだが、彼はこれまで所謂上述の如き自分の出世のために任地から富を吸い上げ、それを上納して官を買ったような形跡は無い。

いろいろ言われてはいるが、大連市、遼寧省での評判はさほど悪いものでは無かった。

 今回の解任に対し、一部の重慶市民からは、彼のおかけで重慶は犯罪が少なくなった、彼にお礼せねばならない。彼がいなくなると、また元通りになってしまうのが心配だと。

彼はどうして躓いたのか。彼は勿論大連市長として大連をきれいにしたし発展させた。

瀋陽の街も、彼が赴任してから街もきれいになり、ヤクザたちもなりをひそめつつあった。重慶でも全体的にはきれいになったし、以前の暗いイメージから大分清潔になった、という感じはする。

 だが彼は解任された。なぜだろう。右腕として遼寧省から呼び寄せた王公安局長が、汚職を暴かれて、米国領事館に駆け込んだことが発端だが、それを押さえられなかったということが、薄書記の力の限界を示している。権力闘争に敗れたのだ。

3.

 温首相が記者会見で名指しして、歴代の重慶のトップは重慶のために努力してきたが、現在の体制はこうした問題を起こしたことをしっかり反省せねばならない、と解任発表の前日に記者たちに語った。これは、各紙が伝えるように、中国内の権力闘争である。

その前提として、各地方のトップが共産党という名の「党に入っていて」中央から任命され、それまで各地で「実績」を上げてきた役人の出世争いが、こうした権力闘争を引き起こしているということを認識する必要がある。彼らは自己の権力拡大のために地方政治に励むのであって、その地方の人々の生活向上より、自分の出世を優先しているである。

  冒頭のスミス氏辞任に戻ると、中国の各地方のトップはゴールドマン社と同じで、住民(顧客)のための公務員(助言者)であるより、自己勘定取引や投資優先で、自分が稼ぐこと、自分の出世が優先されてきたことの弊害だと言える。

これはやはり各地方の人々の選挙で自分たちのトップを選ぶようにしない限り、この党員という名の役人たちの権力闘争を防止することはできないと思う。

    2012/03/17 日夜浮かぶ



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