魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
深谷の島は客土として削られたのか
1月20日に深谷に出かけ、百円バスで渋沢翁の生家と彼の号の青淵という湧水の淵を訪ねた。総2階の大きな家で、2階は蚕棚で、屋根の上に通風用の小屋根がついているのは、他の養蚕地帯でも見かけたものだった。彼の生地の辺りは「血洗島」といい、その周辺にも内ケ島とか大塚島とか島のつく地名があるが、今はまっ平らで島のあった跡形も無い。
どうしてだろう。
先日、「奥の細道を行く」の象潟の所を読んでいたら、芭蕉が訪ねた後に潟が隆起して陸地になってしまった。それで本庄藩は田を開くために、たくさんあった島を客土用に削ろうとした。それに反対した蚶満寺の覚林和尚は寺領であるため、京都の宮家に訴えて開発を阻止してもらったが、藩の恨みをかい和尚は逃げたが、江戸で捕まり、獄死した。(郷土史家、竹島氏の話)
それでも幾つかの島は削られ、たが、明治9年に天然記念物に指定され、103の島が残った。島にはすべて名前がついている由。
深谷の島も利根川の洪水の運んだ土とともに、客土として農地開拓に使うために、削られたかもしれない。 2014/02/14記
鳥海山と象潟の島と開かれた稲田
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