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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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象潟へ

1.
 昨夏、復興中の松島を船で巡り、他より被害の少なかったのにやや安堵。
また、湾内260余の島全てに名がついているのに驚嘆し、
海水がひた寄せる岩にしっかり根を張る松に感心した。
真水のある所まで根が届いているのだろう。

高田浜の松は津波に打ち勝った一本も、海水で根が腐ってしまったという。
今年は、「奥の細道」で「松島は笑うが如く、象潟は憾(うら)むがごとし」
といわれた象潟をこの目で見に出かけることにした。
 6月18日朝、新幹線「とき」で新潟へ。12時半の「稲穂5号」に乗り換え、
15時16分象潟着。駅近くの宿を2-3軒物色してチェックイン。

夕闇のせまるまでに「うらむがごとし」の光景を目にしようと出かけた。
羽越本線の踏切を越すと、右手にTDKの工場があり、「祝東京ドーム出場!」
の横幕が掛る。4つ辻を左折し、目指すは能因島と伝わる島。
更に行くと右手に又TDKの大きな工場があり、そこを過ぎると、
かつての海が2Mほど隆起して陸になったところを更に整地したものか、
新しくて立派な住宅地が続く。農家には見えないが豊かになった農家かもしれぬ。
TDKの社員や関連産業の人たちが建てたものかもしれない。
 イメージとしては、播州赤穂のかつて広大な塩田だった所に、製塩業が廃れて、
盛り土され、整地されて工場や新しい住宅が次々に建てられたのに似ている。
その住宅地が切れると、川が流れその向こうの田んぼの中に能因島が見える。
決して高くはない。数メートルしかない。石碑と幹の太い松が何本も生えている。
芭蕉が舟から上がった時も低い島だったろう。
 見回すと、鳥海山のふもとまで、小さくて低い土塁状の墳墓のような丘が点在し、
その周囲を水田が埋める。これが海水だったわけだ。
 説明書には、2600年ほど前の鳥海山の噴火で、泥と岩石がここまできた由。
泥は海に流され、岩に松が生え、九十九個もの島八十八の潟になったそうだ。
それが1804年の地震で海底が隆起して潟湖が陸地になったのだが、
飛んできた岩石は潟の軟弱な潟底の土に乗っかっていただけだろうから、
持ち上げられることなく、そのままの高さを保ったものだろうか?
 確かに隆起もしただろうが、長年の河川の沖積で陸地化したのかもしれぬ。
(説明書には、本庄藩が3年後に開田を始め……蚶満寺の僧の反対で中止されたが、
その後も藩の財政的支援で進められ、現在は象潟の主要米作地帯となった、とある)


2.
日本海側には新潟をはじめ、八郎潟、象潟、犀潟など有名な潟が沢山ある。
いずれもその多くは陸となり、農民の手によって水田に変じている。
青森市も江戸時代は「安潟」といわれたが、河川の付け替えなどで陸地化し、
そこに青い森ができたので青森と呼んだと伝わる。
今そこは安方町(やすかた)という。
海と河川が運んできた土砂が砂洲になり、それが蟹のハサミのように、
或いは象の鼻のように遠浅の海を囲み、そこに河川からの土砂が堆積して、
農地になり人が稲を植え、豊かに暮らせるようになった。

 今回の津波でおびただしい量の海底土砂が農地を覆ったが、最近の報道では、
それらの土砂にはKやMgなどを多く含み、表面と深くの土をよく混ぜ合わせ、
水はけを良くすれば、塩分は雨水で流され、却って肥沃な土地になるという。
それにアルカリ性の製鉄スラグを投入すれば中性化されるとか、
ゼオライトでセシウム除去とか、人間はこの津波を逆に福に転じようとしている。
 日本海側は雨量も多いし、象潟もやはり1804年の大地震で大変な被害が出ただろうが、本庄藩が財政支援を惜しまず、数年後には象潟を主要米作地にした。


        (鳥海山を眺める象潟の水田と元の小島群)




3.
 そんなことを考えていたら、「かた」「がた」「ぎた」などの地名音のいわれは、
昔は潟だったかもしれないという空想が広がった。
博多、山形、酒田、坂田、ひょっとして秋田(あぎだ)もそうかと。
直方(のうがた)も大昔は海岸から近かったかもしれない。
 日本海側にそうした地名が多いというのはどうしてだろう?
広辞苑で潟を引くと①遠浅の海で、潮がさせば隠れ、ひけば現れる所。
②砂丘・砂洲・三角洲などのため外海と分離してできた塩湖。
 一部が切れて海に連なることが多い。サロマ湖、風連湖の類。
③湖・沼または入江の称。 とある。
中国語「新華漢語辞典」の潟は:Xiと発音し、塩水が浸漬してくる土地、とある。

(新潟などの地名表記に現代中国語で使われる瀉は一瀉千里のように一気に流れる、
という意味に使われる言葉だが、瀉湖という時は日本と同じ塩水湖として使う。
簡体字で造りは同音の写にしており発音もXieだが、本来は潟とすべきだろう。
ちなみに舃という造りは、カササギの象形の由)

 カササギは中国朝鮮半島に生息し、日本では九州辺りでしか見ないが、
渡来人が漢字をもたらしたころは、九州はじめ本州各地の日本海側の潟に、
たくさん生息していたかもしれぬ。

4.
 さて象潟をいつごろどういうことから「きさがた」と呼び始めたのだろう。
宝永―正徳年間に描かれたと思われる「象潟古図」(本間美術館蔵)の右上に、
『蚶潟(手書きの造りは写と書いてある)之圖』と大きな字が見える。
この蚶は「かん、きさ」と読み、赤貝のことで、古名は「きさがい」の由。
この潟は昔から「きさがい=赤貝」が良く採れたのでそう呼ばれた、という。
この潟の中に浮かぶ島にお寺があり、それを蚶満寺といい、芭蕉も舟で詣でた。
今は羽越線の踏切の左にある。
寺の僧が開田に反対したのは潟が無くなり「蚶」が採れなくなってしまうからか?
水田が開け、農民が作業に出入りして、仏の道を学ぶのが妨げられるからか。
別の説明では、「カンマン」とはサンスクリット語で不動明王のことだそうで、
円仁が付け、その後、仁和寺から「蚶満」の額を得た由。
芭蕉の奥の細道には「干満珠寺」とある。
閑話休題、当時はきさ貝が良く採れたので「きさがた」と呼んでいたのだろう。
その「きさ」がどうして「象」に変じたのだろう。
熊野権現から海側に突き出ていた半島のような部分が象の鼻に似ていたためか。
まるで横浜港の像の鼻のごとくである。
いや多分きっと名前を名乗る時に使う、「きさ」という音を借用したのだろう。
まさか潟が陸地になって「きさ貝」が採れなくなった為ではあるまい。
 しかし、芭蕉が目にしたのは「干満珠寺」という額だったかも知れぬから、
「蚶」の字を憚るようなことがあったやも知れぬ。

5.
 さて話しは芭蕉の句に移る。
    (象潟駅前広場の「ねぶの花」記念切手の陶板)




寺には当地に伝わる初案を元に「象潟の 雨や西施が ねぶの花」の碑が、
彼の没後70年に建てられた。
 いまその境内に、芭蕉と西施の像が立つ。不思議な取り合わせだ。
杭州の西湖もやはり潟湖だったのか、水深が非常に浅く、小島が沢山点在する。
唐の白居易に習って、宋の蘇軾も湖底の土を掬い、湖中を縦に長い堤を造り、
今、白堤とともに蘇堤と呼ばれている。
陸から流れ込んでくる土砂を掬わないと、大雨で湖水があふれて住民が難儀する。
 さて芭蕉が、蘇軾の「欲把西湖比西子」西湖を把って西子に比せんと欲すれば、
という有名な「飲湖上初晴後雨」と題す詩に興をかきたてられたのは、
二つの潟湖を描いた墨絵などを飽かず眺めて来た芭蕉ならではと思われる。
彼は実際に西湖に行っていないから、詩と絵で想像を膨らませたのだろう。
芭蕉が着いた日は雨のため、蜑(あま)の苫屋に膝を入れて、雨の晴るを待つ、
という詩境に巡り合えた。雨も亦奇なり、である。
なぜここで合歓の花が出て来たのか?
能因島の先に、合歓の花の群生地あり、と説明の絵地図にある。
今はまだ新暦の6月で花は咲いていないが、つぼみはふくらみかけている。
芭蕉の着いた旧暦6月16日は、合歓の花が咲いていた。
夕食した店の主人に依れば、7月中頃から咲くという。
ここの合歓の木は相対的に低く、北京や大連の並木として植えられた5-6M高の
ものと比べると、種が違うほどの低さである。高くならないのだろうか。

   (大連の合歓の花の並木)
  大連は5月のアカシアの並木で有名だが、7月は合歓の花が散歩を楽しませてくれる。





さて、芭蕉はこの合歓の花を西施とどのようにつなげたのであろうか。
上述の句に続く、淡い化粧も、濃い化粧も、総べて相宜し。という句が物語る。
 潟湖に浮かぶ島々を眺め、岸辺にたたずむ西子の目の先には合歓の花がねぶる。
そう、まぶたを閉じて、この湖の美しい景色はもう二度と目にすることはできない。
越王勾践の命で、呉王夫差のもとに行くことになったのだ。
有名な「象潟は憾むがごとく、寂しさに悲しみを加えて、地勢魂を悩ますに似たり」
というのは、象潟というよりは、潟湖畔にたたずむ西施のことではあるまいか。

6.
 暗くなってきたので、駅に戻り、夕食をとる。お勧めの広東風焼きそばを頼む。
横浜から来たと言うと、主人は若い頃、赤坂の周富徳の店で働いたことがある、と。
TDKが不景気だった時で、高校を出ても就職できず、故郷を出た。
その後、JR関係の仕事をし、今はこうしてスナック喫茶店を開いているという。
今また電子関係の仕事ががたっと減って、象潟周辺にある3-4か所のTDKの工場の
一部が閉鎖されるというので、商売が減ってしまうと心配顔であった。
 宿について早々に就寝。
翌朝4時半に宿を出て、昨晩の続きを歩いた。
すれ違う人々は「おはようございます」と声をかけあうおばさんおじさんたち。
合歓の花はどこですか、と尋ね尋ね、やっと数本生えているところに辿り着いた。
もっとたくさんあるかと期待していたが、松の方が圧倒的に多い。
私としては、もう少し並木にも合歓の花を植えてみてはと進言したくなった。
 踏切の方から列車の音が聞こえるのでカメラを向けた。
なんと今や数すくなった上野―青森の寝台特急「あけぼの」ではないか。
象潟5時37分着。早起きは三文の徳。
鳥海の山の端にお日さまがぼうっと出ている。
 芭蕉たちが欄干から鳥海と象潟を眺めた赤い橋から、往昔の面影をしのぶ。
ここら辺りは昔から多少人家があったのだろう。








小学生の男の子二人を連れた父親がこちらに向かって歩いて来る。
ここから海までどれくらい?と尋ねたら、彼らも同じ方角だからと案内してくれた。
熊野権現に着いたら、真っすぐ行って幼稚園の所を曲がれという。
彼らは、これから熊野神社の階段を何回か上り下りして朝の運動をするという。
この神社と本隆寺には階段が何段もあり、昔から高台だったことが分かる。
今回の津波でよく分かったことだが、千年前からあるお寺は大抵大丈夫だった。
それでなければ、鎌倉の大仏のように建物は津波に流されてしまうのだ。
自衛隊の人に聞いた話だが、昔、海軍基地を開く時は、大昔からあるというお寺に、
引っ越して貰って、その一帯に基地の本部を置いたそうだ。
横須賀、舞鶴、江田島、佐世保など前に防波堤の島があり、天然の要塞だが、
さらに念には念をいれて、大昔からの由緒あるお寺さんにも引っ越してもらった。
明治海軍の智恵であり、英国海軍から学んだ上に、
大地震津波を加味したものだ、と。
それなら千年に一度という想定外の津波も来ないから安心だろう。
福島原発はわざわざ高台だったのを削って低くしたという。
なんたることか。
波越さぬ 契も無しに 削るとは。
8.
 芭蕉が泊まろうとした能登屋は、あいにく熊野権現の祭礼で、女客があり、
やむなくその前にあった向屋に泊る。これが「蜑(あま)の苫屋」であろうか。
ここに膝を入れて雨の晴れるのを待つ、とあり、
翌日は能登屋に移っているから、
苫屋だったに違いない。
そこから現在の漁港までは少し離れているが、
昔はすぐ目の前が海だっただろう。
 ここで又空想が湧いてきた。
有名な「一つ家に遊女も寝たり萩と月」の市振の段は、
創作であるとされている。
曾良の日記にそれらしき記述は無いのだ。
 芭蕉等は象潟に来て、今野又左衛門の世話になっているが、
宿を頼んではいなかったのだろうか。
事前に文などで頼んでおけばこういうことにはならないだろう。
推測としては、前の宿で知り合った、美濃の商人、
低耳から象潟に着いたら、
能登屋に宿を取る様にと聞かされ、
彼も遅れて参じる云々ということだったろう。
ところがどっこい、元禄2年の頃には、女性も多く旅をするようになっていたから、
能登屋はそうした女性客で満室だったのだろう。
 それにしても不思議なのは、曾良の日記に「所ノ祭二付而客有」の客の前の「女」
という字が抹消されていることだ。
 想像をたくましくすると、如何に元禄時代、女性の旅が普及したとはいえ、
象潟まで足を伸ばすのはめったにないことではなかったろうか。
となると、祭礼に集まる人々たちに「娯楽」を提供する女性だった可能性が高い。
それにしても、僧形の身とはいえ、地元の名士も世話をしたほどの芭蕉たちを、
泊められないのには、何かがあったのだろう。翌日は泊まることができた。
ここを定宿として商売をしている低耳がかけ合った結果だろうか。
 このときのことを覚えていて、ここから長い長い越後路を終える市振に来て、
この寓話をもとに、あの隣から聞こえる話しなどを創作したのではなかろうか。
いろいろ空想をふくらませて楽しませてくれる象潟であった。
              2012/06/23 日夜浮かぶ

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