翻訳を擁護する 洛 文
今年は翻訳に対する包囲殲滅の年だ。
「硬訳」とか「乱訳」とか、「今、多くの翻訳家は…本を開いてすぐ訳を始め、
原作の内容理解のお粗末なこと、話しにならない」など批判されている。
それで読者は「何が言いたいのか全く分からぬ」という。
こうした現象は確かに多い。
だがその病根は「先を争う」にある。
中国人はもともと「先を争う」のが好きな国民で、
電車の乗降、切符を買う時、書留郵便を出す時、我先にと争う。
翻訳家も当然、例外ではない。
書店と読者も実際には、同じ原本に2種の訳を容認する雅量も力量もない。
すでに訳が出ていれば、別の訳を出す書店は無く、
既に出版されていれば、誰も買わないだろうと思う。
例えば:今や古典となったダーウインの「種の起源」は、
日本には2種の訳があり、先の訳は、誤りがとても多いが、後のは良い本だ。
中国には馬君武博士の訳しかないが、彼は日本の誤訳の多い本から訳した。
それゆえ新たに訳す必要があるが、訳者が富翁で、自家出版する以外、
それを出す書店は無いだろう。
だが富翁であれば、彼はすぐ算盤をはじき、翻訳に手を出さないだろう。
もう一つの問題は、中国の流行は廃れるのも実に速いことだ。
ある学問や文芸が紹介されても、長くて1年、短いと半年で大抵消えてしまう。
翻訳で生計を立てる者は、心をこめて取り組み、推敲、脱稿した時には、
社会はもう見向きもしない。
中国でトルストイ、ツルゲーネフが大評判になり、
後にシンクレアも評判だったが、彼らの選集は一つも無い。
去年、郭沫若氏の盛名で、幸い「戦争と平和」が出版されたが、
読者も飽きてきて、訳者も飽き、出版社も飽き、最後まで完結しないだろう。
翻訳不振の責任の大半は、もとより翻訳者にある。
だが読書界と出版界、なかんずく批評家も何がしかの責任を分担すべきだ。
この頽勢を挽回するために、正しい批評が必要である。
悪い点を指摘し、良い点を奨励することである。
もしそれも無いなら、比較的ましな点を指摘してもよい。
しかしそうするにはどうしたらよいか:
悪い訳を指摘するのは、拳(反駁)と勇気の無い訳者に対しては問題無い。
だが有名な人の逆嶙に触れると大変で、彼はすぐ赤い帽子をかぶせられ、
命さえも取られかねない。
こうした状況のために批評家は態度をあいまいにしてしまうのだ。
このほか、今最も一般的な翻訳への不満は、何十行読んでも、
何が言いたいのかさっぱり分からないことである。
しかし、これもはっきり区別せねばならない。
カントの「純粋理性批判」のような本は、ドイツ人が原文で読んでも、
専門家でないと、とても理解できないということだ。
しかし「本を開いてすぐ翻訳を始める」訳者は無責任である。
この違いをはっきりさ区別せずに、どんな翻訳でも、本を開いて、
一行目からすぐ理解できるように要求する読者も、無責任と言わざるを得ない。
8月14日
訳者雑感:
新華書店に並べられた魯迅の全集は1メートル弱あるが、
それ以外に翻訳書の量も大変な量である。
彼は東京でドイツ語を熱心に学び、ドイツへの留学を計画していた。
オランダ語やロシア語の堪能な友人と一緒に北京の公園で、
原本と照会しながら訳したりした。
日本語からの翻訳も沢山あるが、ドイツ語からの翻訳の方が文法的に、
より正確な概念をつかみとれて、翻訳に重宝したのであろう。
私も5年ほど前に顧頡剛氏の「中国史学入門」の翻訳に取り組んでから、
翻訳の原稿を歴史に造詣の深い友人に批評してもらったりした。
魯迅の指摘する通り、批評家がしっかり良し悪しを示すことが大切だ。
この2年間、魯迅の翻訳に取り組んで、訳者雑感の部分を除いて、
翻訳の部分だけで4百字原稿用紙50枚が33冊となった。
この中には沢山の誤訳、理解不足、誤解があるに違いない。
読者の批評を歓迎する。
中国では、「有名で権威のある作家や博士」の名を冠した訳書でないと、
売れないという「悪しき慣習」があったようだが、日本もそうであった。
しかし近年、過去の盛名な人の翻訳に挑戦して、「星の王子さま」をはじめ、
多くの古典が新訳されている。これは良いことだ。
なお「種の起源」の後のは1914年新潮社、大杉栄訳の由(出版社)。
2012/06/14訳
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