忍者ブログ

日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

現在、新しいコメントを受け付けない設定になっています。

四庫全書珍本

四庫全書珍本   豊之余
 今、兵争、政争という争いの他に、閑人以外は余り関心が無いが、
写真版「四庫全書」の「珍本」を巡る争いがある。
官商(官営出版社)は、原本に照らして一刻も早く発行しようとし、
学界はその原本には、改刪(かいざん)、錯誤があるからという理由で、
別の原本が得られるなら、別の「善本」を探すべきだと主張する。
 だが学界の主張は通らず、結果「欽定四庫全書」に依拠せよ、となるだろう。
理由は明白で、急ぐ為である。
(9.18で)四省(東北3省と熱河)がとられ、(そのどさくさにフランスが、
強引に占領した西沙南沙諸島の)九島を取り戻せとか等は言うまでも無いが、
只単に、黄河を決壊させるという挙動だけでも、人々を明日はどうなるだろう、
大変なことになるに違いないとあわてさせる。
商売するなら急がねばならぬと考えさせる。
 況や「欽定」の2字には今なお威光があり、「御殿医」「献上緞子」など、
今も衆とは段違いで、それゆえ、つとに共和制になったフランスでさえ、
ナポレオンの蔵書はオークションでは平民の本よりずっと値が高くなる:
欧州の著名な某「支那学者」(原文のまま)は中国について語る際は決まって、
「欽定図書集成」を引用する。
従って、これは中国の考証家としては、賛同しかねるやりかたではあるが、
「欽定」の「珍本」を発行したら、外国での販売は「善本」より良いだろう。
 今の中国でも「珍本」の方がきっとよく売れるに違いない。
というのは、「珍本」は装飾になるが、「善本」は実用に適すのみだからだ。
この種の本は、貧乏書生は決して買えない。
これは買った後、客間に置かれるのは分かり切ったことだ。
この種の本の買主は、殷や周の古鼎も飾る:
だが、土鍋や鉄の大鍋を紫檀の卓上に置くようなことはしない。
彼の目標は「珍」であって「善」ではなく、実用に適すか否かなど眼中にない。
 
 明末の人は、名を大事にし、古書を刻印するのが気風となった。
しかし往々、自分が読んで分からないと、元の文字は間違っていると考え、
勝手に乱改した。改めねばまだ良かったが、一度改めてしまうと、
却って間違った方向に改めることになってしまった。
 後世の考証家は、首をふり嘆息して、
「明人は古書の印刻を好んだ結果、古書は亡んだ」と言った。
このたびの「四庫全書」の「珍本」は写真版ゆえ、改錯の弊は無いが、
その原本に、無意識的な錯字もあるし、故意の改刪もあり、
新本の流布により、善本がいん滅し、将来まじめな読者が偶々これを見たら、
またもや首をふり、嘆くことは免れまい。
 しかし結果は総じて「欽定四庫全書」に依拠することになろう。
「将来」のことは、只今現在の官営出版社には無関係だから。8月24日
 
訳者雑感:
 魯迅の翻訳をはじめて2年半経った。
最初は2008年版、北京燕山出版社の挿絵入りの「吶喊」だった。
次に2004年版、浙江文芸出版社の写真入りの「与魯迅看社戯」で、
(題の和訳は「魯迅といっしょに奉納劇を見よう」で紹興の奉納劇のために
建てられた幾つかの舞台とそれを舟に乗ったまま観劇する人々の写真がある)
これを撰文した何信恩さんの写真と説明が私を魯迅の世界に深く誘い込んだ。
それから雑文関係に進み、2006年版、人民文学出版社のものに依拠した。
これには詳細な注がついており、前2者には無い注釈で、
翻訳にとても役に立った。
 
竹内好初め、多くの先人たちが苦労に苦労を重ねても、
やはり現物を見てない外国人には、写真とか注釈がないと、理解は難しい。
米文学者が翻訳雑事として、ティッシュのことをどう和訳しようかと悩んだ、
というエピソードを紹介していた。
文中のそれはクリネックスという商品名だった。これは知らないと訳せない。
ベッドで男女が使う物という段でやっと想像ができたが、チリ紙では具合悪い。
鼻紙としてもいまひとつ。その後彼はアメリカに行って実物を見て、
そのままティシュとすることにした由。
今ではこれが主流でチリ紙すらトイレット・ペーパーに代わった。
 
 これまでは神田の内山書店で分冊のものを買ってきたが、輸入品だから、
かなり割高になるので、残りは大連に出かけた際に新華書店で買おうとした。
 書店には私が手元にあるような作品は並んでいるのだが、
余り売れ行きの芳しくない物は置いてない。
店の事務所に行って、私が買いたいと思っている二十数冊の書名を示し、
「人民文学出版社」から取り寄せて欲しいと依頼した。
彼女もやはりこの「分冊」されたものをかつて読んだことがあり、
この方が、携帯にも便利で、読み易いと同意しながら、出版社に電話してくれたが、
その内3冊程は品切れで、取り寄せるのに時間がかかるというので、
友人にお金を託して、届いたら郵送してくれるように依頼した。
 
その一方で、厚い表紙の全集は何種類かが幅2Mほどの書棚に展示されていて、
これは書店としての「体裁」もあるのだろうが、やはり「サロンの装飾」として、
購入する客がいて、年に何部かは売れるから置いてあるのだろう、と思った。
全集は飾られるのみで、手にとって読まれることは稀だろう。
実用に適さない。書き込みもしづらい。寝ながら読みにも重い…。
 
さて、「明人が古書を刻印した結果、古書が亡んだ」ことに関して、
私見だが、今中国で出ている「唐詩」の李白「静夜思」には、
「床前明月光、疑是地上霜。挙頭望明月、低頭思故郷。」が主流である。
我々が学校で習った「床前看月光、…挙頭望山月、…」と比べると、
看が明に、山が明になっているのが分かる。
どうしてこうなったのか不思議に思っていた。
今日本に伝わっているのは、宋代あたりのものが多いと言われている。
21世紀の中国では、明人が自分で吟じて、乱改して刻印したものが、
清から民国にと受け継がれたものだろうか。確かに吟じやすい点は認める。
詩すらも唐から千年も経つと、「音韻」的にも「変化」が生じてくるし、
吟じて心地よい方に馴れが起きるのは、日本の和歌にもあることだ。
清末に日本に来た外交官が、日本に宋本がたくさん残っているので、
感激したという。最近宋本に依拠して修正されたものも出ているやに聞く。
日本人は外国語の古典を乱改するような力は無いから千年前のものが、
宝物のように残ったのだろう。
       2012/06/26訳
 

拍手[1回]

PR

コメント

お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

カレンダー

06 2024/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

フリーエリア

最新CM

[09/21 佐々木淳]
[09/21 サンディ]
[09/20 佐々木淳]
[08/05 サンディ]
[07/21 岩田 茂雄]

最新TB

プロフィール

HN:
山善
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R