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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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明日香へ

明日香へ
1.
 1960年代末、フランスでは5月革命で学生が敷石はがして警官に投げつけ、
中国では文化大革命で(反動派への)「造反有理」(革命無罪)を叫んで、
紅衛兵たちが実権派を吊るしあげ、市中に引き回し、世界を震撼させた。
日本もその影響を受け、安保闘争を旗印に「反米・反ベトナム戦争」を掲げ、
全共闘が大学を根拠地として、机をバリケードにして大学を封鎖した。
ノンポリの私すら御堂筋のデモに参加し、長い棒を持った先頭集団に続いた。
しかし日本には革命は起こらなかった。明治維新や戦後の「農地改革」はあったが、
主権が在民になっても革命とは呼べなかった。ただ占領軍に命じられただけだから。
 歴史の暗記で虫五匹(645年)と覚えた「大化の改新」の新しい政権も、
「革命」とは称さなかった。テロによって4代に渡り政治を専横してきた蘇我氏を
排除して改めただけという整理であった。日本は革命とは縁遠い国である。
 
 話しは60年末に戻す。安田講堂も占拠され、多くの大学は閉鎖された。
学校は授業の無い日が数カ月続いたので、アルバイトや他の事に精を出した。
その頃同級生のI君と明日香の石舞台に出かけ、一日ゆっくり散歩した。
それから40年ほど過ぎ、長い間音信も途絶えていたが、最近連絡を取り始めた。
それで昨年は法隆寺から薬師寺へ、のんびりと斑鳩の秋を半日散歩した。
今年もまた奈良の秋を楽しみたいね、ということになった。
 11月の文化の日が過ぎた頃、京都に住む彼と明日香へ向かった。
西大寺駅で待ち合わせ、明日香の一つ手前の岡寺駅で下車。
地図をたよりに駅前からゆっくり刈り入れの済んだ田の畔道を歩く。
しばらく歩くと、大勢の小学生が地図を手にして5-6名ずつ歩いている。
「どこから来たの?」と尋ねると、松原からとの答え。
5年生のオリエンテーリングで、秋の明日香の石舞台や橘寺など畑中の道を、
ポイントをクリア―しながら歩くのだそうだ。大阪の子供たちは都会にいながら、
すぐ近くに、こうした美しい田園と歴史的な風土を満喫できるのがうらやましい。
2.
 我々が目指すのは石舞台と飛鳥寺だが、急ぐ旅ではないのでいろいろ寄り道した。
橘寺は聖徳太子がここで生まれたとされ、当時はお寺でお産したのかと訝ったが、
訊けば丹後半島の間人(たいざ)から来た太子の母がこの地で用明王の「厩戸の王子」
を産んだのだが、当時は誰かの屋敷か用明王の別邸であったそうで、
後にここに太子を記念して寺ができたのだという。よもやお寺で出産はすまい。
境内に大きな弘法さんの立像があり、天台宗の寺にどうして真言宗の彼がいるのか、
と寺の人に問えば、日本の仏教を広めた祖ともいうべき太子を慕って、
弘法さんもこの寺にお参りしたとの由。確か大阪の四天王寺にも弘法さんの像があり、
日本仏教の宗祖たちがみな名を連ねているのは、太子の徳を慕っての事であろう。
 京都の広隆寺も斑鳩の法隆寺と並んで 太子の徳を慕って、後の人が作ったものとか。
渡来人、秦の河勝などが桂川の分水で灌漑用水を利用し、嵯峨野一帯の農地を開き、
農民が豊かになったのがそれを暗示する。農地が開墾され、鉄製の農具も普及した。
四天王寺や広隆寺など法隆寺に匹敵する程の大伽藍を建立できたのも、
その地の農業の発展と経済発展無しには考えられない。
3.
 これまで明日香という地域は山に囲まれた狭い盆地だと考えていたが、
空高き秋天に、遥かに見える吉野の山までは、けっこうな広がりがあると感じた。
飛鳥川のほとりに実質は蘇我氏4代の飛鳥時代と呼ばれる王朝が、その前後に、
転々と遷都を繰り返した短命政権より「比較的」長かったのはなぜだったろうか?
 朝鮮半島からの使者がここまで使いに来るということから想定すると、
豊かな農産物が取れ、また全国から産物を取りたてるだけの政治力があり、
それらを半島からの使者との外交儀礼に使えるだけの国力を築きあげたのだろう。
大化の改新の前の入鹿暗殺の時、しぶる入鹿をなんとかして誘い出せたのは、
半島からの使節が挨拶に参上したから…ということだったことがそれを暗示する。
(外国からの使節が来た時に、国の内乱をさらけ出すことになるテロは無かったのでは
という説もあるが、ここでは従来の説に従う)
朝鮮からの使節は、大和川を遡上する船で貢物を運んで来たことであろう。
 古代の地図を見ると、今の大阪市内の大半は淀川と大和川に囲まれた湖だった。
そして大和川は今では水量も減ってしまって、船運には使えそうに見えないが、
1400年前は、江戸時代の淀川のように、多くの物資を船で運んでいた事だろう。
そんな想像を巡らしながら、明日香の巨石文化を回ってみると、とてつもない程の
大きな石をどのように切り出して運びだしたか、大阪城の石垣のあのどでかいのが、
瀬戸内の船を使って運ばれたように、石舞台の2,300トンもの石はどこかの採石場から、
船に載せられて、ここまで運ばれたのではないかと思った。
 天皇陵は今も発掘が禁止され、調査もできないが、明日香を実際に牛耳っていたのは、
天皇でなく、蘇我氏だったから、あの巨石の墳墓はほとんどが蘇我氏かその取り巻きで、
中大兄皇子と藤原鎌足が乙巳の変でクーデターを起こし、入鹿の首を刎ねて、
都を難波に移した後は、付近の人々は我先に蘇我氏の墓の盗掘を始めたのであろう。
 地の人は、そうした「俗」「智恵」を持ち合わせていなかったかもしれぬが、
明日香の地にたくさん住みついていた渡来人たちは、大陸・半島ですでにそうしたことを、
たび重なる戦乱・王家の交替のたびに見て来たことだろう。
権力を失った者の墓は、盗掘に曝された。特に外国からの貴重な貢物なども埋葬された
と思われていた豪族の墓は、情け容赦なく盗掘されたと思われる。
明日香の各地に残るいろいろの巨石は、そうした墳墓の守護神とか祭祀用の物で、
盛り土が長い年月の雨水で流されて、露出したものではなかろうか。
 天皇陵の中に入って調査した資料を目にすることができないので、全くの推測だが、
元々の土着の発想では棺を入れる石室は、明日香の様には大きくないかもしれない。
仁徳陵など築山と壕は巨大だが、中は案外、質素なものかもしれない。
或いは、大陸の秦漢時代のような巨大なものに倣っているかもしれないが、その後の
天皇陵は、国力にあわせ薄葬となり、徐々に倹約・質素になってきたようだ。
4.
今回、飛鳥寺を訪ねたら、ちょうど女子学生たちのグループが2組ほどいて、
彼女等に対してわざわざ住職が対応するのに参加でき、面白い話しを聞く事ができた。
住職としても、大勢の若い「歴史ガール」たちを迎えることができてうれしそうだった。
(男の大学生たちがこうしたグループで行動しないのはどうしてだろう?)
彼は話している間、ずっと板の間に正座で、彼の話しで印象に残ったのは、
大きな大仏の顔が少し横向きであること、そして奈良の大仏のように戦乱や火事で
溶けて再建されたのではなく、製造時のものをそのまま何度も修復しているだけで、
日本最古の大仏だという。
 帰ってから調べたら、中国から渡来した鞍作鳥(止利)の作で、この造立のために、
隋から裴世清がきて、黄金を寄贈し、高句麗からも3百両の黄金が寄贈されたとかで、
6世紀には、すでに大陸と半島諸国との交流がそんなにも盛んだったと分かる。
 田中史生著「越境の古代史」(ちくま新書)に依れば、593年に蘇我馬子ら百余人が
百済服を着用して、この寺「法興寺」の刹柱を立てるのに参列している。(240頁)
百済服は、百済から取り寄せたものか、或いは明日香で造ったものか。
明治維新後、横浜に西洋人の為に洋服を仕立てる中国人がたくさん連れてこられた。
鹿鳴館の舞踏会にはそうした仕立て人がいなければ、開催できなかったろう。
6世紀の明日香にも、百着も作れる仕立て人が百済から来た人に学んだのだろう。
 日本人が海の向こうからやってきた「文物」をさっそく自分のものにしてしまう
伝播の速さはすごいものがある。
東大寺にある「聖武天皇」の肖像画は唐の皇帝と同様、冠から例のすだれのような
珠玉を垂らし、服装もほとんど「唐風」であるのは、儀式の時にはこうした服を着用し
外国からの使節にもそれを着て謁見したのであろう。
明治天皇も、維新後すぐ西洋式の元帥のいでたちで、外国使節を謁見している。
この辺の「進取」さは、お隣の国々が、いつまでも伝統的な服装や制度にこだわり、
西洋式近代化に後れをとったのと比較すると、興味深いことである。
21世紀の今日でも、東アジアで新正月を祝うのは日本だけで、中国や韓国は、
いまでも旧正月を最も大切にしている。何回か旧暦をカレンダーから削除したが、
民衆からの強い反対で、新旧併記の状態である。
 
5.
石舞台はたとえて言えば、盗掘の後の石組だけが残る昔の豪族の墓であり、
飛鳥寺はその豪族が祀りごとを専横するための「やんごとない大仏のいまします御寺」
であった。墓は盗掘され、見る影もなくなったが、飛鳥寺だけは残った。
 仏教を排斥した物部氏を除き、仏教流布に貢献した蘇我氏をそれなりに尊んだものか。
古来、反乱を起こした者、謀叛を謀った者、時の政府に異議申し立てをした者などを
その時には征伐し斬首の上、さらし物にしてきたが、何年かたつと、復活してきた。
平将門、西郷隆盛などがその例で、蘇我入鹿も彼らの住んでいた岡は公園になり、
彼の首塚も建てられている。
 これは何を物語るか?
確かに政治を専横して、王家をないがしろにして、政権を牛耳り、富を貪ってきたが、
またその一方では、なにがしかの良いことも行ったから4代も続いたと言える。
物部氏を排除するのに貢献したし、日本に仏教を流布させるのにも大いに預かった。
日本人は、雨水が豊富なため「過去を水に流す」のが上手であり、たたりを怖れて、
過去に罪を得て斬首された「為政者」を祭ることを好むようだ。
 この辺が、中国などでは信じられないことに属する。
中国には三国志で有名な関羽を祀った廟は沢山ある。菅原道真を祀った天満宮の如く。
しかし、西郷や将門に相当するとみられる者を祀るような社はあまり見たことが無い。
 呉三桂や汪兆銘、林彪などを祀るようなことは考えられない。劉少奇は復活したが。
私はA級戦犯を、明治国家建国のために死んでいった戦士たちを祀るために
建てられた神社に、合祀することに反対だ。
しかしそれは戦勝国が一方的な国際裁判でそう決めただけであって、
国の為に死んだことに変わりは無い、と考える人が多いのもこの国の姿なのだろう。
不思議なことだが、処刑後すぐにそれらを運び出し、密かにここへ持ち込んだという。
広田弘毅も他の戦犯と同じく合祀されたが、本人は泉下でどう思っているだろう。
あの連中と一緒にされたくないと思っているのではなかろうか。
私は広田だけなら合祀しても良いと考えている。やはり日本人である。
    2012/11/29記
     
 
 
 

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