古来多くの人が怨みを飲んで死んでいった。彼らは一面では「才がありながら、時に遇わず」とか「天道いずくんぞ論ぜん」の類の句を残し、その一方で資産家は嫖に狂い、賭博にのめり込んでいった。あまり金の無い者は何十杯もの酒を飲み、不平を鳴らしながらしまいには怨みを飲んで死んでいった。
彼らが生きているうちに訊いておくべきだった。諸公!北京は崑崙から何里離れ、弱水は黄河を去ること何丈なりや?火薬は爆竹以外に、羅針盤は風水を見るため以外に、何の用途がありや?綿花は紅か白か?穀物は木になるのか、草になるのか?桑間濮上(男女がこの地で相会する;出版社注)はいかなる状況で、自由恋愛はいかなるものか?夜半にふと恥ずかしくなることなきや?
早朝突然くやむことなきや?四斤の荷は担げるや?三里の道は走れるや?
彼らがよく考えてみて、だんだん悔い始めたら、なにがしかの希望が見えてくる。もし更に一層不平をこぼし、憤慨して恨むようなら、もはや何の手助けもできない。それで彼らは怨みを飲んで死んでゆく。
今の中国には、不平憤懣分子が多すぎる。不平はまだ改造の導火線になることもあるが、その前に自己を改造し、社会を再改造し、世界を改造せねばならぬ。ただ単に不平だけをこぼしていても始まらぬ。
憤慨と恨みなどは殆ど何の役にも立たぬ。
憤慨と恨みはただ単に怨みを飲んで死ぬための根と苗に過ぎず、古人に沢山いたし、我々は彼らの轍を踏んではならない。
我々は「天下に公理も無く、人道も無い」という言葉を借りて来て、自暴自棄の行為を覆い隠し、自らを「怨みの塊」と称し、怨みを飲んで死ぬ顔つきをして、実は何の怨みも無く死んではならぬ。2010/10/01訳
訳者雑感:古来中国の名詩と言われるものの何割かは、世に容れられず、時に遇わぬ文人たちが、不遇の時に作ったものと伝えられる。左遷の途次や配流の地で詠ったものが、そうした境遇に追い込まれた「才はあるのに時に遇わず」
「王は我を起用せず、佞臣(ねいしん)に政治を任し、云々」という状況は、
古くから連綿と続いてきたし、魯迅がこの雑文を書いた時にも数え切れないほど、蔓延していたようだ。袁世凱以降、あたかも平成20年前後の日本のごとく、大総統や皇帝、軍閥政権がころころと首班を代え、めちゃくちゃな時代、魯迅の書いたような怨みを飲んで死んでゆく人間が余りに多く、それが彼らの美学だとするような風潮が、民国初期の中国に重くのしかかっていたのだ。そうした人たちが、自暴自棄になって死んでゆくのは、何とかしなければという思いがこれを書かせたのか。立派な学校を出た若者が、職も見つけられず、自暴自棄になって行くのはなんとしても食い止めなければ。
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