忍者ブログ

日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

現在、新しいコメントを受け付けない設定になっています。

62 怨みを飲んで死す

 古来多くの人が怨みを飲んで死んでいった。彼らは一面では「才がありながら、時に遇わず」とか「天道いずくんぞ論ぜん」の類の句を残し、その一方で資産家は嫖に狂い、賭博にのめり込んでいった。あまり金の無い者は何十杯もの酒を飲み、不平を鳴らしながらしまいには怨みを飲んで死んでいった。
 彼らが生きているうちに訊いておくべきだった。諸公!北京は崑崙から何里離れ、弱水は黄河を去ること何丈なりや?火薬は爆竹以外に、羅針盤は風水を見るため以外に、何の用途がありや?綿花は紅か白か?穀物は木になるのか、草になるのか?桑間濮上(男女がこの地で相会する;出版社注)はいかなる状況で、自由恋愛はいかなるものか?夜半にふと恥ずかしくなることなきや?
早朝突然くやむことなきや?四斤の荷は担げるや?三里の道は走れるや?
 彼らがよく考えてみて、だんだん悔い始めたら、なにがしかの希望が見えてくる。もし更に一層不平をこぼし、憤慨して恨むようなら、もはや何の手助けもできない。それで彼らは怨みを飲んで死んでゆく。
 今の中国には、不平憤懣分子が多すぎる。不平はまだ改造の導火線になることもあるが、その前に自己を改造し、社会を再改造し、世界を改造せねばならぬ。ただ単に不平だけをこぼしていても始まらぬ。
 憤慨と恨みなどは殆ど何の役にも立たぬ。
 憤慨と恨みはただ単に怨みを飲んで死ぬための根と苗に過ぎず、古人に沢山いたし、我々は彼らの轍を踏んではならない。
 我々は「天下に公理も無く、人道も無い」という言葉を借りて来て、自暴自棄の行為を覆い隠し、自らを「怨みの塊」と称し、怨みを飲んで死ぬ顔つきをして、実は何の怨みも無く死んではならぬ。2010/10/01
     
訳者雑感:古来中国の名詩と言われるものの何割かは、世に容れられず、時に遇わぬ文人たちが、不遇の時に作ったものと伝えられる。左遷の途次や配流の地で詠ったものが、そうした境遇に追い込まれた「才はあるのに時に遇わず」
「王は我を起用せず、佞臣(ねいしん)に政治を任し、云々」という状況は、
古くから連綿と続いてきたし、魯迅がこの雑文を書いた時にも数え切れないほど、蔓延していたようだ。袁世凱以降、あたかも平成20年前後の日本のごとく、大総統や皇帝、軍閥政権がころころと首班を代え、めちゃくちゃな時代、魯迅の書いたような怨みを飲んで死んでゆく人間が余りに多く、それが彼らの美学だとするような風潮が、民国初期の中国に重くのしかかっていたのだ。そうした人たちが、自暴自棄になって死んでゆくのは、何とかしなければという思いがこれを書かせたのか。立派な学校を出た若者が、職も見つけられず、自暴自棄になって行くのはなんとしても食い止めなければ。

拍手[0回]

PR

コメント

お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

カレンダー

06 2024/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

フリーエリア

最新CM

[09/21 佐々木淳]
[09/21 サンディ]
[09/20 佐々木淳]
[08/05 サンディ]
[07/21 岩田 茂雄]

最新TB

プロフィール

HN:
山善
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R