魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
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アインシュタインの直筆寄贈
1.
3月3日の新聞に、1922年に来日したアインシュタインが船内で体調を崩し、乗り合わせた三宅医師に診て貰い、その後彼宛てに送った手紙が孫から慶応大学に寄贈されたと報じられていた。ドイツから医学を学んだ日本人がアインシュタインに恩返しをすることができ、そのお礼の手紙が生誕135年の今年寄贈されたことは喜ばしいことだ。
一方、昨2013年11月22日の日経新聞に「魯迅の手紙1億円」と題して、中国で落札された内容が報じられていた。この頃丁度猪瀬氏が五千万円で国会喚問を受けて、耳から汗を背広の肩に落としていて、たった五千万円で晩節を汚す事になろうとは、あほらしく、まだ、しらを切るつもりかと、恥しらずにも程があると感じたことだった。
『北京=時事。中国の文豪、魯迅(1881~1936年)の短い手紙が北京で行われたオークションで、手数料を含め655万5000元(約1億5000万円)の高値で売却された。日本に留学経験のある魯迅が日本語学習について記した内容。中国のニュースサイト・人民網などが22日までに伝えた。
手紙は1934年6月、中華民国時代の著名な編集者、陶亢徳氏に宛てて出したとされ、計220字。「日本語を学び、小説をよめるようになるまでに必要な時間と労力は、決して欧州の文字を学ぶのに劣らない」などと書かれている。
手紙の購入者は明らかでないが、評価額は売却額の3分の1程度だったという。』
奇しくも魯迅とアインシュタインの生誕が同じだったということ、そして魯迅が指摘するように、彼は日本語からも多くの小説などを翻訳したが、日本にいる頃も医学を勉強していた関係もあってか、ドイツ語を熱心に勉強し日本からドイツに留学することも本気になって計画しており、ドイツ語からの欧州文学の重訳も大変多い。そういう彼が日本語の学習について、同じ漢字を使う日本語といえども「小説を読めるようになるまでに必要な時間と労力は決して欧州の文字を学ぶのに劣らない」というのはそうかと合点がゆく。
2.
それにしても片やアインシュタインの「日本における私の印象」や医師宛ての手紙などが寄贈されたというのに、なぜたった220文字の手紙がオークションにかけられ、1億円もの高値で落札されたのか、不思議でならない。
そう思っていたところ、香港のテレビの以前の放送番組を見ていたら、昨年以来、習近平政権の「虎もハエも叩く」という汚職撲滅運動の影響で、あからさまな贈賄とか贅沢の限りを尽くす接待が厳しく取り締まられた結果、5つ星ホテルに閑古鳥が鳴き、数万円もした高級酒が数千円に下落したとか、アワビとフカヒレの料理が禁じられたとか報じていた。
そして、最近の実態としては、贈賄側が相手に高価でもない骨董とか美術品を贈り、それをオークションにかけさせて、飛んでも無い高値で落札することで、目的を遂げている、云々との解説を聞いた。
増井経夫の本に、北京の骨董街で有名な瑠璃廠の店に並んでいた骨董を買おうとしたら、店主から「へ、へ、へこれは売り物じゃないので」と断られたいきさつが紹介されており、その品は役人が質草に置いていったもので、それをその筋の相手に売って得た代金を役人に渡すための物だという。なんだかパチンコ屋の景品交換のようである。違うのは二束三文の骨董品でも、その筋の相手はとても高い価値を認めるようである。
これを魯迅の220文字の手紙と関連させると、こういう連想が成り立つ。
虎もハエも叩けという号令が厳しくなった昨今、贈賄側は従来の方法は取れない。といって瑠璃廠のような手法も危い。そこでひねり出したのが、最近はやりのオークションだ。
前もって先方に大した価値の無いと思われそうなものを贈っておくかマーケットで購入してもらっておき、それをオークションにかけて貰う。それを数倍もの価格で落札することで、その差額が収賄側に渡るという仕組みだ。これには司直も手が出せぬ。
こんなに手の込んだやり方で、魯迅の220字の手紙が贈賄の手段に使われたら、もうこの手紙が再び公に戻ることは難しいだろう。生誕135年で大学に寄贈されたアインシュタインの手紙は幸いなるかな。同じ135年前に生まれた魯迅の短いが価値のある手紙が世の中から消え去ってしまうのは大変口惜しいことだ。
2014/03/05記
イギリス人と中国人の両次世界大戦での対独・対日勝利への「不思議な感覚」について。
来年2014年は欧州大戦百周年で、英国の新聞もこうした意見を発表するのでしょうね。
もしアメリカが参戦しなかったら、ドイツは負けなかったでしょうね。その意味では英国はアメリカの助けを借りて、やっと対独勝利を得たという「みじめな勝ち方」をした。
そうしたバックグランドが今回の記事の根底にあるかもしれませんね。
でもドイツが勝っていたら、記事の様に世界が二次大戦も無く今のような諸々の問題を抱えて苦しまずに済んだのでは、というのは 楽観的に過ぎるでしょう。
只一つ、もし日本とユダヤ人の協力によりFUGU Planが成功していて、大量のユダヤ人が満州や上海地区に移民できていたら、ホロコーストの悲劇は小さくなっていたかもしれませんが。
これは先の大戦でも、中国はアメリカが真珠湾のリベンジを掲げて参戦してくれたお陰で、何とか日本に「惨勝」(みじめだが、やっと勝った)できたというのと似た精神面があり、10年ほど前から中国でも「もし日本が先の大戦で勝っていたら」というテーマで論文が出ていて、過去の中国を侵略支配した遼・金・元・清のように東アジア全域を統治して、
強大な国を築きあげ、今のEUや米露などに対等かそれ以上の影響力を行使できる体制となり、それまでのように欧米から侵略・植民地化・租借地化された状態、即ち不平等な状態から、脱出できた云々と説いていました。今でも中国はアメリカに包囲されており、
日本韓国台湾はアメリカの影響下にあり、アメリカ軍が「地位協定」で支配的な立場にあり、これは戦前の上海などの租界地と類似な面(治外法権的)があると認識している。
これを支持する中国人と話していて、私は戦前の天皇制の下での貴族支配の残る体制で、
大半の農民は小作人で天皇の軍隊が小作人を奴隷のように葉書一枚で自在に戦場に狩りだせるような体制が残ったら、日本人もその日本に支配される中国人・朝鮮人もひどく惨めな状態に陥ると説明しました。戦後の農地解放、象徴天皇、貴族身分廃止、財閥解体などで、ずいぶんよくなったのは、日本がアメリカに負けて、マッカーサー体制が「推しつけて」きた結果の賜物だというと、「きょとん」としていました。
私の論点は日本が負けてより良くなったのだというのですが、中国人の友人は今の様な日本の体制が「中国を統治」してくれた方が、今の「共産党独裁体制」よりも「ましだ」という考えのようです。
イギリス人の40代で英語教師をしている友人は、私がどうしてイギリスはインドからアフリカ中近東そして東南アジアの植民地を「比較的こだわりなく(フランス等はベトナムで独立阻止の戦争をしているのに反し)」あきらめたのはどういう背景か、と聞いたら、
「第二次大戦でアメリカのお陰でなんとか体面を保てたが、もはや広大な植民地を保持するだけの軍事的力も、政治経済力も減じたから、撤退した方が良い、とアメリカに諭された結果だ」とのコメントでした。
(フォークランドやジブラルタルは別として)香港とかもゴネルつもりがあれば、九龍徒新開地だけ返還して、香港島は残せたかもしれませんが、そして多くの香港島に住む中国系住民も英国の植民地の方が良いというのが結構根強かったし、多くの中国系住民は英国カナダなどの2重国籍を取得し、家も買いましたが、サッチャ―はトウ小平との会談で、あっさり全て返還したので、会談後、人民大会堂から去る時、階段を踏み外して転んでしまった映像を何回も放映されたのが「印象的」でした。
とはいえ、シリアからイラク・イランなどの問題を投げだして、アメリカに渡したのが
今日の不幸な状態の始まりだったのです。アラビアのロレンスを使い捨てにした非情さ。
2013/12/29記
V-G Day & V-J Day
1.
8月16日、香港のPhoenix TVの鄭浩氏等が、日本が8月15日を戦没者追悼記念日として盛大な行事をするのに、中国がこの日に何もしないのはおかしいとコメントしていた。
韓国や北朝鮮が「光復」(植民地から解放され、独立)として記念するのに、中国が対日戦争に、8年間、降参せずに抵抗したことが、最終的に米ソなどの参戦で日本打倒に繋がったのだ、との趣旨である。もし、フランスがドイツに降参したように、蒋介石が日本に降参してしまっていたら、日本は東南アジアなどへ戦線拡大しないで、アメリカやイギリスとの戦争に踏み込まなかった可能性があったとの意見だ。(米国が石油禁輸などしなければ、
との前提付きだが、真珠湾攻撃に追い込まれることにはならなかったのでは…)
2.
1945年の8月15日に日本が降伏したことを一番喜んだのは米国だろう。中国は日本が降伏して、蒋介石と毛沢東の両勢力が内戦に突入したから、V-J Dayなどを喜べるような状態にはなかったのだと思う。それで台湾は辛亥革命後の中華民国の建国記念日10月10日を祝うし、北京では中華人民共和国の建国記念日10月1日を盛大に祝う。
香港のTV コメンテイタ―は、8.15に何もしないのは、政府の怠慢である、と主張する。
日本が8.15を全国挙げて、先の戦争で中国人及びアジア諸国の人を殺した軍人たちの死を追悼するのに対し中国がこの日に何もしないのは「邪を認める」ことになるという。
しかし現実には、外務省が日本大使を呼んで抗議するくらいで、中国としては対日勝利をこれまで国民的に祝う式典をしたことは無い。
3.
アメリカやソ連(ロシア)などが V-G Dayを国民的に祝うのに対して、占領され、戦争に強制的に協力させられたフランスやポーランドはどうであろうか?彼らは戦時下、大変屈辱的な立場に置かれながら、生き延びて来た。ドイツが負けてほっとしただろうが、ドイツに勝ったという気持ちにはなれなかっただろう。
中国でも、満州初め、華北、華南地区で日本占領下、フランスやポーランドと同じように日本に支配され、強制的に協力させられてきたから、似たような状況だったろう。
対独協力政府、対日協力政府の下で暮らしてきた人々には、屈折した感情があっただろう。
4.
ドイツはナチスを徹底的に否定し、周辺諸国に「明確なお詫び」をして、今やフランスに、ドイツの軍隊が相互乗り入れの形で、駐留するまでになった。
一方の日本は、68年経っても、「明確なお詫び」をしていないとして、近隣国からクレームされている。日本はドイツのように徹底的に戦前の体制を否定していないと見られている。国民の多くは平和憲法の継続を望んでいるが、今の政府はそれを変えようとしている。
「不戦」という言葉は消えてしまった。これは、ことと次第によっては、一戦を辞さないということを意味する、ととらえられても構わない、ということだ。
首相が毎年交替してしまうのは、国力低下も甚だしく、望まないことだが、「戦争放棄」を否定しようとする首相が、4年もやるとなると、本当に「平和憲法」を変えてしまいかねないことを怖れる。
後藤田さんのような人が、体をはってでも自衛隊の海外派遣を阻止したから、これまで戦争に行かずに済んだが、一度戦争に参加してしまったら、軍というのはもう止められないことになる。戦争をするために存在しているのだから。
ことと次第によっては戦争で、相手をねじ伏せるほかない、ということになるのだろう。
2013/08/17記
10)蓬仙兄の郷里に返るを送りて、感あり。
これは1916年作で、「敬業」第4号に掲載された。孤雁は寥(ひろき)天に入る、という句があり、これが林さんの本の題名とされた。これも、<訳詩>のみ。
相逢う萍水(みずくさ)も亦前世の縁か、
笈を負い、天津の門に来しも、あに偶然ならん。
虱(しらみ)をひねり、熱談し、四座を驚かす、
蟹を手に、酒を注いで、当年のことを語り、
危険なときも、平安な時も、平然と嘗胆し、
争って道義を担い、肩を休めんとはせず、
帰農して、功が満ちる日を待ち、
他年、預卜し(予測して占い)良い人の隣に家買う金を蓄えん。
東風は異客を催し、
南浦に別離の歌うたう。
目を転じれば、ひとは千里を行き、
消魂は一柯(斧)の夢、
星離れ、恨みを成し、
雲散じ、この愁い奈何せん。
欣喜の前塵は影となり、
縁(ゆかり)のことば多し。
同輩は競い疾走するに、
君独り、先鞭を着く。
事を転嫁する儂(われ)の拙さを憐れみ、
急流には、尓(なんじ)の賢に譲る。
群飛ぶ鴉は、夕暮れに樹木を恋し、
孤雁は寥(ひろき)天に入る。
惟交遊の旧(ふる)きことあればこそ、
岐(わかれ)に臨み、意(こころ)惆然(ちょうぜん)。
2013/05/26記
訳者雑感:
周恩来が京都に9日いた時に作った詩は、きっと彼を船に乗せて琵琶湖に下る時に見送ってくれた京都の友に贈ったことだろう。これは留別の詩。そして彼が天津の検察庁の看守所から、渡仏する李さんに贈った詩、そしてこれは「寥(ひろき)天」に飛び立つ孤雁に贈った詩。送別の詩。彼は中国伝統詩の精神を受け継ぎ、安西に使いする元二とか、黄鶴楼を去る孟浩然への詩とかの気持ちを表す「やさしさ」に満ちていると思う。
(完)
9) 生別死離(生き別れと死別)
1922年作、1923年に天津の<新民意報・覚郵副刊>に掲載された。
注によると、21年1月17日、「覚悟社」同志の黄愛が長沙の紡績工場のスト指導で、反動派に殺害されたことに対して、周恩来は友人宛に手紙を書いて、「壮烈にして悲痛」と彼へのはなむけの詩を送った。これも長いので、<訳詩>のみとする。
壮烈な死、
姑息な生。
生をむさぼり、死を怖れるは、
死を重んじ、生を軽んじるに如かず!
生別死離は、
最も堪えがたきこと。
別れれば、腸を牽かれ、はらわたを引き裂かれる思いだが;
死しても、毫(ごう)も軽重を感じないなら、
人を感動させる永別に如かず!
耕運せずして、
どうして収穫があろうか?
革命のタネを植えずして、
共産の花開くを待つとは!
赤色の旗の飛揚を夢想しつつ、
鮮血でそを染めようともしない、
天下いずこに、そんなうまい話がありえよう?
坐って談じるは、
立ちあがって行動するに如かず!
生を貪る人も、
別離を悲しみ傷み、
死生に随うが、
只彼らは、この人を感動させる永別を理解できない。
永別が人を感動させることを。
人に希望を託すのはやめよう!
生か死かの路は、
各人の目の前にある、
光明に向って飛ぶのは、
すべて君次第!
その黒い鉄の鋤をふりあげ、
あのまだ耕運されていない土地を拓くのだ:
タネをこの世に散じ、
鮮血を地上に滴(したた)らそう。
別れは人の常、
さらには永別もある!
生死の奥義を極め、
生の為に力をつくし、
死の為にさらに力をつくせば、
それで永別になるとても、何を悲しまん?
2013/05/25記
7)次皞如夫子傷時事原韻 1916年11月原載<敬業>第5号
茫茫大陸起風雲、
挙国昏沈豈足云、
最足傷心秋又到、
虫声即即不堪聞。(即の左に口:鳴き声)
<訳>
皞如夫子の時事を傷む詩の原韻に和して、
茫々とした大陸に、風雲巻き起き、
国中が混沌だと、あに言うに足らんや、
最も心痛むは、秋の又到りしこと、
虫の鳴く音も聞くに堪えない。
本文の注に依れば、これは皞如さんの「時事を傷む」という詩の韻に和したもの。
張皞如さんの詩の大意は、張勲の復辟に憤って作ったもので、太平の希望が雲煙と消え、国を誤った者どものことを何と言ってよいか。毎日新聞を読むことが恐ろしい、と。
虫の声というのは、チーチーと張勲への抵抗を言うだけで…。
行間には、チ―チ―と鳴くだけでは何もならない、行動に移さなければ…、と。
2013/05/23記
8)李愚如を送別し、併せ述弟へ示す。
(これは長い詩というか、手紙のようなもので、天津河北女子師範の学生活動家の
李錫志の渡仏を天津地方検察庁看守所から、民国9年6月8日に作ったもので、
述弟は周恩来の級友:長いので漢字の原詩は省略し、訳詩のみとする)
三カ月会わなかった間に、
すごく進歩したね、
だいぶ前に、念強君が来て、
君がイギリスへ行く予定だと言った。
私は、また口だけだと思っていた。
その後、丹文が又来て言った。
君がフランスへ行こうとしている、と。
私はまた口だけだと思っていた。
まさか、その数日後、
君が僕に別れを告げに来て、
僕に直接そう言った;
君は行けるんだね、
君は本当に行くんだね。
述弟が手紙で知らせてくれた、
君から彼への手紙で、
「……私は人間なのだから、
働いて自分で食べて行ける、
何があろうとも、
異郷で飢え死になぞしない!
分かってね!
幸福は自分でつかむもの:
切り株のそばで(兎を)待っていても、
一日の……を得ることはできないわ」
君は別れの時にも、私に言った:
「……四等車の切符を買って、
三等船室に乗り、……
…働きながら勉強するの、
一年勉強して、
労働と勉強で自力で生きて、
…応用理化学を研究するの:
私の志は、
私たち女性の生計独立をひらき、
精神的独立の自由な道を開くこと:
私たち女性の人権天賦をまもるの。……」
君の精神
君の決心、
君の勇敢、
勃々たる向上心を思う。
すべては君の奮闘と決意にかかっている。
国を出て、
東海から南海、紅海、地中海へと進む。
次から次へと逆巻き奔騰する荒波が、
君をかの自由のふるさと、フランスの海岸に送り届ける、
そこに着いたら、
工具をにぎり、
君は労働の汗を出し:
輝かしい成績を挙げる。
君は才智を磨き、
君の天真爛漫さを保て。
他日帰国したら、
自由のタネを植え、
独立の歌をうたえ。
女権を争い、
平等を求め、
社会的実験を推し進め、
古い倫理をくつがえすのだ、
世界は君のその心頭の一念にかかっている。
南京を過ぎると、
述弟に会えるさ:
下関駅で家族のことを思い、
黄浦江畔で、
しばしの別れはつらいけれど、
同じ世界にいるのだから、
離れ離れなどと嘆くことは無い。
ましてや、情念は綿々とし、
「ハスは切れても糸で繋がっている」
二ヶ月後に、
新大陸に述弟の足跡が見られるだろうし、
大西洋の荒波も、
君たちの書翰を断つことはできぬ:
二つの無線電信塔は、
東西の両岸に高々と聳え、
天空をかけて気を通じることができる。
三ヶ月後、
マルセーユの海岸で、
パリの郊外で、
私も或いは君に会えるかもしれぬ。
道中気をつけて!
君は本当に行くんだ。
行けるようになったんだ。
三ヶ月君に会えなかったが、
こんなに早く進歩したんだね。
―――
九、六、八、午後、恩来作
於天津地方検察庁看守所。
(追信)
愚如:
君の去るのを見送ることができない。詩を書いて君を送ろう!
今日午後四時から始めて、六時半にやっとできた。
この詩は私の詩集の中では「上の中」だと思う。どうだろう?
南京に着いたら、述庵に見せてほしい!
船がまだ着いてないなら、君の「天賦」で、僕の詩に和してみないか?
さらば、お別れだ!
三ヶ月後、或いは君に会えるかもしれない、そう願う。
天安(人名)も君に一首送るよ!
周恩来、九、六、八、
注では、1920年11月に周恩来は陶念強とともに渡仏し、「勤工便学」を始めた。
2013/05/24記
(5)春日偶成
これは1914年、周恩来が16才の時、天津の南開学校時代の作品で、ここにも桜が出て来るが、当時日本も租界を有し、多くの日本人が住んでいたから、彼らが植えたものか。
極目青郊外、
煙霾布正濃。
中原方逐鹿、
博浪踵相踪。
桜花紅陌上、
柳葉緑池辺。
燕子声声里、
想思又一年。
<訳>
目を極めれば、青い郊外の彼方に、
(戦火の)黒煙あがるが見える。
中原(中国の中心)、まさに鹿を逐う、
博浪(ロクでもない輩)が踵を接して次々と。
桜花の紅が路傍に咲き、
柳葉の緑は池の辺に映える。
燕のさえずりを聞きながら、
又想い思うこの一年。
訳者雑感:
これも1914年に発行された雑誌に残っていたものの由。
多感な16才の周恩来が天津で目にし、耳にしたのは、孫文が亡命し、袁世凱が正式大総統になったのが13年の10月。国民党は翌11月に解散された。15年には日本の21カ条へと続く情勢だった。
今PM2.5で問題にされている漢字は霾(バイ)で呼吸を困難にするほどの煤煙だ。
彼が天津を拠点とする袁世凱たちが、孫文や軍閥を相手に、辛亥革命後の中華民国を自分のものにしようと、自分が皇帝になろうとしていた時代だ。
博浪とは時流に乗って、天下を取ろうとする者の謂いか。
そんな物騒な世情だが、彼は桜と柳を路傍と池の辺に見、燕がまたやって来たと……。
6)無題 1917年9月作
大江歌罷掉頭東、
邃密郡科済世窮;
面壁十年図破壁、
難酬蹈海亦英雄。
<訳>
大江の歌罷(おわりて)、頭を東にふりむけ、
科学を究めて、窮せる世を救済せんとし;
面壁十年、壁を破らんとせしも、
酬われ難くして、海に投ずるも亦英雄なり。
上の写真は1919年天津に戻り、五四運動のころの周恩来
林さんの解説によると、周恩来は1917年9月渡日。この詩は投身自殺した陳天華の大義に感じての由。
2013/05/22記
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