魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
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(3)雨中嵐山――日本京都
(一九一九年四月五日 「覚悟」創刊号)
雨中二次遊嵐山,
両岸蒼松,夾着幾株桜。
到尽処突見一山高,
流出泉水緑如許,繞石照人。
瀟瀟雨,霧濛濃;
一線陽光穿雲出,愈見[女交]妍。
人間的万象真理,愈求愈模糊;
――模糊中偶然見着一点光明,
真愈覚[女交]妍。
(女交は一字で美しい意。日夜浮かぶ注)
<訳詩>
雨の中、二度目の嵐山に遊ぶ
両岸の蒼い松の間に、何本もの桜の花が咲き誇る。
道が尽きると、突如、高い山が目に入る。
こんこんと流れ来る泉のような水は、美しい緑に映え、
河床の巨石を呑みこむように、人を照らす。
しとしと雨はやみ、濛霧がたち籠める:
雲間からもれ来る陽光は、見れば見るほど美しい。
世の中のすべての真理は、求めんとするほど模糊となるが:
――模糊の中に、偶然一点の光明を見つけると、本当に美しいと感じる。
2013/05/15再訳
追記:
この詩を書いた時の周恩来は「詩人」であった。
帰国後これを投稿した。
もし、彼が東京で官費の支給される国立大学に合格し、卒業証書を持って帰国したら、
同じ日本留学組の蒋介石や汪兆銘のように、国民党政府のエリート官僚として、全く別の道を歩んだかもしれない。
日本での勉学を断念して帰国する際に作ったこの詩が暗示するのは何か。
雲間からもれくる一筋の光明とは、その後、彼がフランスに渡り、共産党員になって、
その光明の源を探し求めることに繋がったのだろう。
(4)
雨後嵐山
(1919年4月5日作、「覚悟」創刊号)
山中雨過雲愈暗、
漸近黄昏、
万緑中擁出一叢桜、
淡紅嬌嫩、惹得人心酔、
自然美、不假人工、
不受人拘束。
想起那宗教、礼法、旧文芸、
粉飾的東西、
還在那講什麼信仰、情感、
美観……的制人学説、
登高遠望。
青山渺渺、
被遮掩的白雲如帯、
十数電光、射出那渺茫黒暗城市。
此時島民心理、彷彿従情景中呼出、
元老、軍閥、党閥、資本家、……
従此後「将何所恃」?
<訳詩>
雨後の嵐山
山中の雨止み、雲は愈々暗し、
漸く黄昏に近く、
万緑中に一叢の桜が抱かれているようにみえる、
淡紅のたおやかさが、人の心を酔わせる、
自然の美しさは、人の工(たくみ)を借りることはなく、
人の拘束も受けない。
あの宗教、礼法、旧文芸などの粉飾物は、
そして今なお信仰とか、情感、美観なぞを説く人を制せんとする説だと想う。
高きに登り遠望すれば、
青山渺渺たり、
覆いかぶさる白雲は帯の如く、
十数もの電光が、かの渺茫たる暗い城市より射し出ず、
この時、島民の心理は、情景より呼び出されるようだ、
元老、軍閥、党閥、資本家、……、
今より後、「何をか恃む」や!
訳者雑感:
この詩は雨が上がった黄昏に桂川右岸の「大悲閣」に登って作ったものか?
或いは法輪寺の舞台から京都市内の電光を見たものか?
いずれにせよ、1919年当時、桂川の右岸の高いところから京都市内を遠望したものだろう。
ここに使われている「島民心理」というのは大陸から来た周恩来にとって、島国日本の民が、元老や軍閥、党閥資本家などとどうかかわりあって行くのか?手を携えてゆこうとするのか?反抗しようとするのか?大正デモクラシーの日本、左翼系の思想基地たる京都で、彼は何を感じたのだろう?米騒動や、シベリア出兵、原敬内閣の時である。
四次遊円山公園
四次来遊、
満山満谷的「落英繽紛」:
樹上只剰得青松与緑葉、
更何処尋那「淡紅嬌嫩」的「桜」!
灯火熄、遊人漸漸稀。
我九天西京炎涼飽看、
想人世成敗繁枯、都是客観的現象、
何曾開芳草春花、自然的美、無碍着的心。
<訳詩>
四回円山公園に遊ぶ
来たのは四度目、
山も谷も「落花繽紛(ひんぷん)」と散りしき、
樹上は只、青松と緑葉を余すのみ、
今またどこに「淡紅でたおやかな」「桜」を尋ねんとするか!
灯火消え、遊客はようやく稀になった。
私は京都に九日間いて、自然の変化するを見た、
想うに、人の世の成敗繁枯はすべて客観的現象であり、
何ぞまた芳草春花、自然の美に、碍されることなき心を開かざらんや。
訳者雑感:彼は天津に帰国する途次、友人の住む京都に9日滞在して、4回円山公園に来たのだろうか?それとも以前にも来たことが有ったかもしれない。9日間で4回来たとすれば、余ほど気にいっていたのだろう。(1)の詩は円山の桜が燦爛と咲いていたころのあの円山の池の畔の情景を1919年4月5日に詠んでおり、(2)は落花が山と谷全体に散り敷いていた頃のことを4月9日に作ったことが分かる。
林芳さんの本には、周恩来首相がこの詩を作った50年後のピンポン外交で、愛工大の後藤鉀二さんに「私が日本を離れる時、丁度桜の季節でした。船で琵琶湖へ下りましたが、実に美しかった」と語っていることが紹介されている。
船で琵琶湖に下るというのは、例のインクラインの両側の桜と山科の疎水の両岸に美しい桜が咲いていたのだろう。国交回復に精魂こめた周恩来首相は、体が許せば、是非円山に5度目の観桜を果たしたかったことだろう。それがこんなことになってしまった。1919年五四運動時
2013/05/14記
詩人周恩来 (1)1917年天津南開学校にて
筆者1980年天津駐在時、周恩来記念館で購入せる絵ハガキより。
昨年、本ブログの紀行文で「雨中嵐山」という彼の詩を取り上げた。
魯迅の「重訳を論ず」の訳者雑感で、彼がドイツ語から沢山の重訳をし、本人もドイツに留学することを計画していたことに触れ、周恩来も日本留学で官費の支給を受けられる大学受験に失敗し、故郷天津に戻った後、雑誌などに詩を投稿していたことを目にしたことがあった。
今回、「寥天(ひろき天)」と題する周恩来若き日の詩を日本語に訳して1979年の周恩来夫人鄧さんの来日に間に合わすべく、林芳さんが出した本を図書館で借りることができたので、そこに日夜浮かぶの意訳を付して一部を紹介したいと思う。
彼は東京で生活していながら、京都の嵐山に2回、円山公園に4回訪れているということが、彼の詩から分かる。
底本は周氏歿後、北京大学図書館編として「周総理詩十八首―解釈匯編」で出版された。
四人組とか所謂文化大革命のころには、とても出版できなかったようだ。
1.最初に京都円山公園での「遊日本京都円山公園」
(1919年4月5日作、原詩は天津で発行された「覚悟」創刊号に寄稿)
満園桜花燦爛:
灯光四照:
人声嘈雑。
小池辺楊柳依依、
孤単単站着一個女子、
桜花楊柳、哪個可愛?
冷清清不言不語、
可没有人来問他。
<訳詩>
円山の桜は燦爛と咲いて:
灯光に映える:
人々のはしゃぐ声がさわがしい。
小池のほとり、柳の枝はなよなよと揺れ、
娘がひとり連れも無くそこにたたずむ、
桜と柳、いずれを愛ずるや?
もの悲しげになにも語らぬ、
ああ誰も彼女に声かける者なし。
2013/05/14記
米国TVドラマの「コンバット」と中国の抗日戦争映画について
中高生の頃、米国のテレビが面白くて毎週視ていた。それが原因で一浪した。
「逃亡者」とか「サンセット77」とか。なかでも人気だったのは「コンバット」だ。
フランスのレジスタンスと協力してナチスをやっつける。毎週同じようなパターンだが、相手はにっくきナチスだから、安心して見ていられた。ノルマンディに上陸する前に米軍がフランスでドラマのように活動できたか知らないが、今思い返せば、おかしな点がある。
数年前まで、中国の連続テレビは清朝時代のドラマが主体だった。日本で言うならば江戸時代を舞台にした「時代劇」だ。水戸黄門のような満州族の親王や侠客が、各藩の悪い連中をとっちめ、悪代官を懲らしめる。安心して見ていられる内容だった。
しかし最近それがどうも現代の腐敗した政府高官を糾弾していると怖れてか、そうした「時代劇」はまかりならぬということになった。
各テレビ局はどうしようか途方に暮れた。そこで生まれて来たのが、抗日戦のドラマで、毎週にっくき日本軍をやっつけるのだから、視聴者は安心して見ていられる。それもほとんどが共産軍と日本軍の白兵戦で、血沸き肉踊る内容だ。最後は日本軍がやられる。
こうした風潮に対して、香港の(中国寄りの)鳳凰テレビの番組でも、少し違和感を抱く、というコメンテーターが出て来た。日本が中国を侵略してきた時、「日本軍が来た」として反抗したのは、①国民党軍、②軍閥・匪賊でだいぶ後になって③共産軍の順であった。③が映画のように日本軍と戦争したのは、本当は大変稀で、主には①と②の間での戦争が一番激しく、その次は①と③の間であって、日本軍とまともに戦闘行為をしたのは、①であって、日本軍兵士の話しでは、ドイツ製の銃火器で装備された国民党軍の一部はとても手ごわくて、ドイツ製の銃声が聞こえるとこりゃ強いぞと思ったという。
中国の多くの人々が認めるのは、①②③の間での戦闘であって、張学良が蒋介石を捕えた西安事件も、彼に内戦を止めさせ、一致協力して抗日すべきとの意思であった。
私が70年代にシンガポールや台湾・香港で視た映画も、また80年代以降中国に駐在していた頃でも、あの時代の戦争映画は地主の為に戦う軍閥匪賊と国民党軍または共産軍の間の戦闘であった。史実はそうであることは、重々承知の上で、今は稀にしかなかった共産軍と日本軍の戦闘をテレビドラマのテーマにせざるを得ない状況なのだろう。
「コンバット」が飽きられたように、2010年代の「抗日戦争映画」が飽きられるまで、我々は辛抱強く待つ外ないかも知れない。大半の年配の中国人は「ちょっとおかしいぞ」と思っているに違いない。心配なのは現在の中国の中高生があれを史実だと思ってしまうことだ。
日夜浮かぶ 2013/03/30記
中国で、今年の春節前後のアワビとフカヒレの売れ行きががたんと落ちたそうだ。
習近平新主席が打ち出した、腐敗・汚職防止対策の一環だという。
一般の日本人には、なぜこれが腐敗・汚職防止なのか、なかなか理解できない。
私の大連の住まいの閑静な住宅街の一角に、有名なレストランが市内の繁華街から引っ越してきた。しゃれた2階建ての洋館で、地中海のどこかの建物を摸したようだ。
そこへ、連日のごとく、黒塗りのアウディやBMWなどの高級車が数台駐車している。
メニューには、アワビやフカヒレの料理が並んでいて、一人前300元とか500元と書いてある。我々外国人すら夕食に一人50元くらいしか払えないのと比較すれば、大変な金額である。一度300元のフカヒレを食べてみたいものだと思った。
なぜ、これが腐敗・汚職の土壌を作るのだろう?
中国の役人は、ベンツとかレクサスのような輸入車を公用車に使う事は禁じられている。
彼らが公用車として使えるのは、中国で組み立てられているアウディだ。
この辺まで書いてくると、「ははーん」と気づかれる人もいるだろう。
そうなのだ。アウディで来た客は大連の役人たちであり、BMWで来たのは業者なのだ。
では、アワビやフカヒレくらいで、どうして腐敗・汚職になるのか?
300元や500元など小さなものだ、という人もいるだろう。問題はその先にある。
実際の料理はアワビ・フカヒレの他に10皿以上の高級料理が供されて、一人当たり数千元の勘定になる。業者がそれを支払った後、何割かが役人への賄賂として「御足代」の形で料亭から払われるのだ。
この事自体で役人が得る賄賂などたかがしれているだろう。だが一旦そういう接待を受けると、それが毎月になり、毎週になり、どんどんのめり込んでゆき、其の業者へ特別の見返りを供して、防衛省の守屋次官と山田洋行のような関係ができてゆく。
そういう関係が、連日連夜、いろいろな階層の役人と業者の間でなされてゆき、役人は役人同士顔を見られても「同じ穴のむじな」だからいいが、繁華街の中にあっては、店から出て来た時、市民に見られて具合が悪い。だから閑静な住宅街に越してきたのだという。
今年の春節はアワビ・フカヒレの売れ行きがガタンと落ちたが、その代替として他の高額食材が、売れたことだろう。業者と料亭はすぐ次の手口を考え出すに違いない。
習主席のもう一つの勧告は、料理を一杯注文して大量に残すという悪しき習慣も廃止しようと呼びかけているが、果たして一朝一夕に改められるだろうか?
これは長い歴史の中で、主人は宴席で食べきれないほどの料理を卓に並べて、お客が腹いっぱい食べても、まだ残り、それを料理人・給仕・召し使い達が宴の終了後に食べられるように考えて、伝えられて来たものだから。
少ししか注文しないと、お客からももちろんだが、料理屋のお上からも、けちな客だといわれて、次からサービスが低下するのは覚悟せねばなるまい。
2013年2月27日、日夜浮かぶ
グレッグ・スミス辞任と重慶の薄書記解任
1.
17日の日経にゴールドマンサックスの幹部社員グレッグ・スミスの辞任関連ニュースで、ゴールドマンは顧客より自社の金もうけを優先していたと告発していた。
こうした告発はしばしばあることだそうだが、実態がゴールドマン社の自己勘定取引と投資に重点が置かれ、顧客への助言による本来のビジネスが軽んじられてきたことにあるようだ。顧客の利益のために存在する会社が、自己勘定取引で自社の利益増大の方が優先されるなら、顧客は見限って行くだろう。
さて話を重慶の薄書記解任に転じる。
中国の現在の中央集権体制は、秦の始皇帝が始めたといわれる郡県制にその起源がある。それまでは徳川の幕藩体制のように、首都周辺と重要な地点は中央が押さえていて、それ以外の地方は昔からの領主がいたのを、郡県として封建貴族の支配を排除して、中央から任命した役人が長となって3-4年ほどの任期で交代させて、腐敗を防ぐとともに、独立王国となって中央に反抗することを防止してきた。
その結果、その役人に任用されるための科挙制度が始まり、その試験に合格した者は、中央から各地方へ派遣され、その地で地方行政をうまく治め、その一方でそこで巨額の財産を蓄積して、中央の然るべき筋に上納し、時には官位を買って頭角を現して行った。
内藤湖南が指摘しているように、郡県制の欠点は長として任命された役人が、自分の任期の間に、その地方をよく治める一方で、できる限りの手段を講じて、そこから巨額の富を自分のものにしたことである。その伝統は今日まで受け継がれている。
2.
卑近な例でいえば、1997年の香港返還時に、それまで香港を統治してきたイギリスが、香港に貯めこんだ膨大な富をそのまま中国に返還してしまうのは惜しいとして、とてつもない予算を組んで、空港や高速鉄道、橋梁をイギリス系の会社に発注し、それまで蓄えてきた香港政庁の財産の何割かをそれらの会社を通して、自国に持ち帰ったということが指摘されている。
これは英国の植民地での行為だが、現在の中国の各地方の政府の長は、農民から取りあげた土地や、もともとは海や湖沼だった土地を埋め立てて開発区にし、外資系企業に分譲して使用料を稼ぎ、居住地としてデヴェロッパーに高層マンションを建てさせ、そこから
莫大な富を生み出す。その過程で大金が個人の手元に残る仕組みだ。
薄書記は私が大連に赴任した時、大連市長として日仏米など外国企業を沢山誘致して実績を上げ、私の在任中に遼寧省長に出世し、私が帰任する頃には中央政府の商務大臣となっていた。その後重慶のトップとなり、そこでも実績をあげて中国のトップ九人の中に入りそうな勢いだった。それが今回の解任となったのだが、彼はこれまで所謂上述の如き自分の出世のために任地から富を吸い上げ、それを上納して官を買ったような形跡は無い。いろいろ言われてはいるが、大連市、遼寧省での評判はさほど悪いものでは無かった。
今回の解任に対し、一部の重慶市民からは、彼のおかけで重慶は犯罪が少なくなった、彼にお礼せねばならない。彼がいなくなると、また元通りになってしまうのが心配だと。彼はどうして躓いたのか。彼は勿論大連市長として大連をきれいにしたし発展させた。瀋陽の街も、彼が赴任してから街もきれいになり、ヤクザたちもなりをひそめつつあった。重慶でも全体的にはきれいになったし、以前の暗いイメージから大分清潔になった、という感じはする。
だが彼は解任された。なぜだろう。右腕として遼寧省から呼び寄せた王公安局長が、汚職を暴かれて、米国領事館に駆け込んだことが発端だが、それを押さえられなかったということが、薄書記の力の限界を示している。権力闘争に敗れたのだ。
3.
温首相が記者会見で名指しして、歴代の重慶のトップは重慶のために努力してきたが、現在の体制はこうした問題を起こしたことをしっかり反省せねばならない、と解任発表の前日に記者たちに語った。これは、各紙が伝えるように、中国内の権力闘争であるが、その前提として、各地方のトップが共産党という名の「党に入っていて」中央から任命され、それまで各地で「実績」を上げてきた役人の出世争いが、こうした権力闘争を引き起こしているということを認識する必要がある。彼らは自己の権力拡大のために地方政治に励むのであって、その地方の人々の生活向上より、自分の出世を優先しているである。
冒頭のスミス氏辞任に戻ると、中国の各地方のトップはゴールドマン社と同じで、住民(顧客)のための公務員(助言者)であるより、自己勘定取引や投資優先で、自分が稼ぐこと、自分の出世が優先されてきたことの弊害だと言える。
これはやはり各地方の人々の選挙で自分たちのトップを選ぶようにしない限り、この党員という名の役人たちの権力闘争を防止することはできないと思う。
2012/03/17 日夜浮かぶ
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