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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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礼  葦索
 新聞を読むのは有益だ。うっとうしい時もあるが。
例えば、中国は世界で国恥記念日の最多国で、その日は新聞に例によって、
幾つかの記事や文章が載る。だが、余りにも重複したり、長すぎたり、
千篇一律で、今日も、明日も、次回も使え、去年の物を来年も使える。
新たな事情が起こらぬ限り、よしんば起こっても、常套句はそのまま使える。
どうもそのような句しか使わぬようだ。
だから健忘症でない人はうっとうしく感じ、新しい啓示を発見できない。
 だが私はやはり読む。今日偶々北京で抗日英雄、鄧文の記事を見た。
最初は報告、次に講演、最後は「礼が終わり、奏楽して散会」とある。
そこで新しい啓示を得た:凡そ記念とは「礼」そのものである、と。
 中国は元来「礼儀の邦」で、礼に関する書には三大書がある。
外国にも翻訳されており、特に「儀礼」を訳した人を私は敬服する。
君に事(つか)える、は今やもうしなくてよくなった:
親に事えるのはもちろん孝を尽くすのだが、歿後のつかえ方は、祭礼にあり、
それぞれ礼がある:今の忌日に拝むことや、陰寿を行うなどの類だ。
新しい忌日が加わり、旧いのは少し淡く「新鬼は盛大に、故鬼はささやかに」だ。
 我々の記念日も旧いものの幾つかは余り盛大ではなく、
新しいものも幾つかは冷淡になり、只時が過ぎゆくのを待つ他ないのは、
人の忌辰を拝むのと同じだ。
 中国は家族を基礎とする国だというのは、誠に識見である。
中国はまた元来「礼譲を国と為す」とし、礼があるなら必ず譲ることができるし、
譲ることが多くなれば、礼もより繁くなる。この事はこの辺にしておこう。
 古い時代に黄老を以て天下を治め、或いはまた孝を以て天下を治めた。
現在は多分礼を以て天下を治める時期に入っただろう。
このことをはっきり認識すれば、民衆が記念日について冷淡だと責めるのは、
間違いだということが分かる。「礼」に曰く:「礼は庶人に下さず」:
物質的にどんな物も棄てられないというのも間違いであり、
孔子も言ったではないか:「賜也、汝が其の羊を愛し、我は其の礼を愛す!」と。
 「礼に非ざるは視るなかれ、礼に非ざるは聴くなかれ、礼に非ざるは動くなかれ」
静かにじっと待て、他の人が「不義を多く行えば必ず自斃する」を、礼也。
      9月20日
訳者雑感:魯迅が最後にいう「不義を多く行えば必ず自斃する」のを静かに待て、
というのは、中国に国恥日を世界一多くした侵略者のことであろう。
抗日英雄の記念日の礼から得た新しい啓示である。2012/07/27訳
 
 
 
 
 

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新秋雑記

新秋雑記   旅隼
 「秋が来た!」
ほんとうに秋が来た。晴れた日はいいが、夜はシャツ一枚では肌寒い。
新聞は「秋」についての色々な文章で満ち:迎秋、悲秋、哀秋、秋を責める等。
時節がら、何か書こうと思うがなにも書けない。
「悲秋」の類を書こうにも、「福気」が必要で、それが無いのが恨めしい。
 幼時、父母の慈愛を受けていた頃、一番の思い出は、軽い病気になることで、
大病などしたらとても苦しいし危ないが、軽い病気で床に横になると、
物憂く悲しいが、甘えもでき、少し辛いが甘酸っぱく、実に秋の詩境だ。
嗚呼、悲しいかな、世間に出てからそうした霊感は巻きあげられ、
軽い病気すらしなくなった。
偶々、文学家の名文に、秋、花は之が為に容姿衰え、大海は之が為に黙す、
とあるのを見ても、只自分の感情が麻痺しているのを覚えるのみ。
これまで秋に花が私の為に悲しんで、忽然と顔色を変えるのを見たことも無く:
風が吹けば大海はいつも怒涛となる。静かさを好むか否かに関わりなく。
 冰瑩女士の佳作「晨(人名)は科学を学んでいるが、この刹那、
全く彼の趣向を忘れ去り、彼の脳には唯一つ、できる限り自然美を、
享受しようとする目的だけがあった。…」とあるが、これも一種の福気だ。
 科学は深く学んでないし、生物学の教科書を一冊読んだ程度だが、
その教えとして、花は植物の生殖器官で、虫の鳴くのや、鳥がさえずるのは、
求愛行為だというたぐいだが、もう全く忘れてしまった。
 
 昨晩、草地を散歩していたら、野菊の花の下で蟋蟀の声が聞こえ、
いいなあと感じ、詩興が湧き、新詩二句を得た――
   野菊の生殖器の下
   蟋蟀が吊膀子(DiaoBangz:求愛)している。
 紙に書いたが、粗野な人たちの謡う歌より多少高雅だが、
新詩人の「インスピレーション」から来る詩に比べると「見劣り」する。
余りに科学的で、写実すぎ、雅さに欠ける。
旧詩に改めれば、多分こうはならぬと思う。
生殖器官を厳復氏(清末の文学者)の訳語では、「性官」となるし、
吊膀子(求愛)の語源は知らぬが、地の上海人に依れば、
西洋人の男女が腕を組んで歩いていることから、異性を誘惑・追い求める意とか。
吊は懸けるで、相挟み持つである。それで吾が詩を訳すと――
   野菊の性官の下
   鳴く蟋蟀が肘(ひじ)を懸く。
 いささか分かり難いが、雅さはだいぶ高まり良くなった。
人々が分からないのを雅で良いというのは、現在も文豪になる秘訣の一つだ。
これを「新詩人」の邵洵美氏たちが見てどう思われるや?
     9月14日
 
訳者雑感:
吊膀子(DiaoBangz:求愛)は男女が腕を組みあって歩くことから来ている、
というのが上海人たちの「地の言葉」となった由。
訳者が推測するに、これはひょっとしてランデブーの訳ではないだろうか。
ランは省略して、デブーを上海音で吊膀子(D―B音)と訳したものか。
広東語や上海語にはその方言音をベースにした西洋語の漢訳で、
面白いものがある。音と意味とがぴったりくるのだ。
その代表例はCoca Colaだろうか。いつ頃どこで訳されたか知りたい。
可口可楽と漢字表記し、ローマ字では正確な音を表すのは難しいが、
北京音は KeKouKeLeで無理やりカタカナにするとコーコウコーラ。
このKe音はカとコの中間で「可能」は「コーノン」「カーノン」の中間。
手元の広東語辞書の広東音は HoHauHolok ホハウホーラ。
ローマ字表記のH音はK音と同じ喉の奥を使うので、K音に近く聞こえる。
こちらの方がアメリカ人にはすんなり聞こえるだろう。
上海音でどういうか訊いてみよう。ひょっとして上海音かもしれない。
この30年、沢山の外資が最初の頃、香港広東を基地として中国に入ってきたが、
彼らの社名や商品名にも広東音をベースにしたものがみられる。
それを北京音で発音すると少し違和感があるものもあるが、止むを得ぬ。
ちなみにハワイは夏威夷と書き、北京音はXiaで始まるが、広東語はHaである。
北京はかつてPekingとされてきたがこれば広東語のBakGingパッキンからで、
外来語の漢訳が多く外国との窓口であった広東語、アヘン戦争後は上海語を、
ベースにしたものが多いのは当然のこと。
今後は北京音をベースにした翻訳が増えるだろうが。
     2012/07/25訳
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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翻訳について

翻訳について      洛文
 私の散文が、穆木天氏の『「翻訳を擁護する」についてと、楼氏訳の
「20世紀の欧州文学」について』(「自由談」9月号所載)を惹起した。
とても光栄なことながら、指摘された点は全くの誤認だと思う。
 筆者の注釈の中から、私が思い到ったことを書いてみよう。
これを書くことは、なにがしかの意義があると思うので、下記する。
まず引用すると、199頁に
「この種の小説に最近、学術院(訳者:著者の所属するロシア共産主義学院)
が選んだルイ・ベルトランドの不朽の諸作品を、最優秀作品とした」と記すが、
この所謂「Academie」とは、アカデミー・フランセーズのことで、
ソ連は学芸の発達した国とはいえ、帝国主義作家のために、選集は出さないだろう。
なぜ楼氏があんな風にでたらめに注釈したのか理解できない」
 どこのアカデミーか私は分からない。
当然アカデミー・フランセーズとみるのが筋だろうが、
ソ連の大学院が帝国主義作家の選集を出すことはあり得ないと決めつけられない。
もし10年前ならもちろんあり得ない。物力的にも限りがあるのみならず、
革命の嬰児を守るために、滋養のあるものと、無益なもの・有害な食品を、
区別せずにいい加減に子供の前に置く訳にはいかない。
 今はもう大丈夫。嬰児は成長し、強壮で賢くなり、たとえアヘン・モルヒネを、
彼に見せても大きな危険は無い。
但し、言うまでも無いが、まず先覚者が「吸うと中毒となり、廃物となり、
社会の害虫になる」ことを明示すべきだ。
 事実、私はかつてソ連のアカデミーの新訳のアラビアの「千夜一夜」、
イタリアの「デカメロン」スペインの「ドンキホーテ」
英国の「ロビンソン漂流記」を見たことがある。新聞にトルストイ選集、
ゲーテ全集――より完璧な全集、という記事を見た。
ベルトランドはカトリックの宣伝者だけでなく、王朝主義の代弁者だが、
19世紀初めのドイツ ブルジョアジー文豪ゲーテに比べれば、
彼の作品がそれよりも有害だとも言えない。
だからソ連が彼の選集を出すことも大いに有りうると思う。
だが、それらの本の前文には必ず詳細な序文がつき、仔細な分析と、
正確な批評が加えられると思う。
 凡そ作者は読者との縁が遠いほど、その作品は読者にとっては無害である。
古典的、反動的で、イデオロギーも、大きく違っている作品は、大抵が、
新しい青年たちの心を打たない。(勿論正確な指示が必要だが)
却って、その中から描写のうまさと作者の工夫を学びとれる。
ちょうど、砒石の大塊のように、よく鑑賞した後、その殺傷能力と、
結晶の状態を知ることができる:薬物学と鉱物学の知識が得られる。
恐ろしいのは、微量の砒素を食物に入れ、青年が知らぬうちに飲んでしまう事。
似て非なる所謂「革命文学」のようになることである。
故意に激烈な所謂「唯物史観的批判」をするのはこの類だ。それは防がねばならぬ。
 私は青年も「帝国主義者」の作品を読んでもよいと言いたい。
古典にある「己を知り、彼を知る」だ。
青年は虎狼を見る為に、徒手空拳で深山に入るのは固よりよくない。
だが虎狼が恐ろしいからといって、鉄柵のある動物園にすら行こうとしないなら、
笑止千万で愚かなことだ。
 文学にとって有害な鉄柵とは何か?評論家がそれだ。 9月11日。
補記:本編は発刊できなかった。 9月15日。
 
訳者雑感:
魯迅は砒素を例に取りあげ、砒素を青年に知らないうちに飲ませるのは、
防がねばならぬ、と訴えている。
この当時、教条主義的・唯物史観的批判を金科玉条にして、
似て非なる「革命文学」が横行し、文学的に退歩した。
10年ほど前に、青年達に「中国の本は読む必要は無い」と訴えた彼は、
外国の本を読むようにと勧めている。
中国の本を読むと、沈んでゆくように感じる。インド以外の外国の本は、
読むと人間の生き方について考えさせてくれる、たとえ腐敗したものでも、と。
33年の段階では、「知己知彼」と孫子の兵法を引いて、西洋の古典を読めば、
その描写のうまさと作者の工夫を学びとることができると述べている。
ただ単に「革命文学」と唱えていても、中身が伴わなければ誰も読まない。
   2012/07/24訳
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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映画の教訓

映画の教訓  孺牛
 故郷の村で中国の旧劇をみていた頃、私はまだ「読書人」
になるための教育を受ける前だったから、友達は大抵農民の子だった。
わくわくして見たのはトンボ返りや跳老虎(虎を跳び越える大回転)、
火焔と共に突然現れる妖精で:劇の内容には大した興味は無かった。
大面(悪役)と老生(主役)の城や領地の争い、
小生(二枚目)と正旦(女形)の離合悲歓などは全くの他人ごとで、
鋤鍬で生活する者には、(政治の舞台に)登壇して将を拝命するとか、
上京して科挙を受けるなどということはありえ無いことだと知っていた。
だが一度、とても感動した劇を覚えている。
確か「木誠を斬る」という劇で、ある大官が冤罪で死刑にされることになり、
彼の家に老僕がいて、顔つきがそっくりなので、身代わりに刑を受けた。
その悲壮な所作と唱声は、観客を感動させ、自分の良い模範を発見させた。
というのも実は、私の故郷の農民は農繁期が過ぎると、
みな長者の家に出かけて短期工をしていたからである。
よりうまく演じる為には、刑に臨む時、主人の母は例に従ってすりよって、
「頭を抱えて」大声で泣きわめかねばならぬが、蹴りだされてしまう。
その時ですら、名分は厳しく守られ、それが忠僕であり、義士であり、善人なのだ。
 
 しかし、上海で映画をみるようになると、早くも「下等華人」とされ、
2階で坐ってみているのは、白人と金持ち連中で、
階下に中等と下等の「華人の末裔」が並び、
銀幕には白人の兵隊たちが戦い、白人旦那が金を儲け、白人の娘が結婚し、
白人の英雄が探検して、観客を感服させ羨慕させ、怖れさせ、
自分たちにはとてもできないと思わせる。
だが、白人の英雄がアフリカ探検の時には、黒人の忠僕がいつも道案内し、
役務を果たし、懸命に働き、彼の代わりに死に主人は無事帰国できた:
第二次探検の準備を始めるが、忠僕はもういない。
死者を思い出しては顔色がくもり、銀幕に彼の記憶に残る黒い顔が映る。
黄色い顔の観客もたいてい、薄明かりの中で、顔をくもらせ:感動する。
 幸い、国産の映画も競って登場し始めた。
高い壁によじ登り、手を振り上げ、手裏剣を飛ばすが、
これらも19路軍とともに、上海から退去し、
今まさにツルゲーネフの「春潮」と、茅盾の「春蚕」が上映され、当然の進歩だ。
しかしこういう時に、先に現れたのは、大宣伝中の「瑶山艶史」だ。
 この主題は「瑶民の開化」でカギは「附馬を招く」(瑶族の王の娘婿になり…)
にあり、「四朗の母探し」と「双陽公主、犾を追う」の脚本を思わせる。
中国の精神文明は、全世界を主宰するという大義名論は、
近頃あまり聞かなくなった。
開化しようとするなら、当然苗瑶族の中に入って行かねばならないが、
この種の大事業を為さんとするなら、まず「結婚」せねばならず、
黄帝の子孫も黒人と同じように、欧亜大国の公主とは結婚できないから、
精神文明も伝播しようにも方法が無い。
これは読者のみなさんは、この点から理解できるでしょう。
   9月7日
 
訳者雑感:
 魯迅の映画好きは有名だ。
内山書店の近くの当時では北東の住まいから車に乗って、
南京路などにあった繁華街の映画館にしばしば出かけている。
ターザンの映画は好きだったと日記にある。
 子供のころに見た「旧劇」は宙返りとか大回転などを見るのが好きで、
ストーリーはどうでもよかったというが、主人の身代わりに死に就く忠僕の話しは、
後段のアフリカ探検で主人の代わりに身を犠牲にする黒人の忠僕とダブらせている。
 そして結の部分で、黄帝の子孫たる中国人も黒人と同じく、
欧亜の大国の公主と結婚することはできないから、
うまい具合に彼女の娘婿となって、影響力を行使して、
中華精神文明を伝播しようとしてもその方法は無いとしている。
 
 では本編の映画の教訓というのは何だろう。
私の推測は、旧劇と同じく、観客を支配者たちにとって従順で、
扱いやすい、都合のいい人間にするという目的に沿ったものだということ。
魯迅は沢山映画をみたが、その大半が娯楽映画で、それを見ているうちに、
知らずしらずの内に、主の身代わりとなって死ぬことが忠僕、義士、善人だと、
思うようになること、それが映画だという教訓だと思う。
     2012/07/11訳
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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同意と解釈

同意と解釈   虞明
 上司は行動を起こす時、必ずしも部下の同意を得なくとも構わない。
これは当たり前のことだ。だが部下に対して、解釈することはある。
 新進の世界的名士(ヒットラーの意:出版社)が言うには:
「原人時代、人は威力と権力を持っていて、
動物を自分の意思に服従する様に強迫し、自由に生きることを放棄させたが、
動物たちの同意は必ずしも求めなかった。これは言いえて妙である。
そうでなければ、牛肉を食べ、馬に乗ることはできなかったろう。
人間は人間に対しても同様である。
 日本キリスト教会の主教が、最近日本は聖書に言う所の天使だと宣言し:
「上帝は日本にこれまでユダヤ人を殺してきた白人を征服させようとし、…
武力でユダヤ人を解放し、「旧約」の予言を実現させようとした」
これは明らかに白人の同意を求めていないが、
それは正しくユダヤ人を殺した白人が同意を求めなかったのと同じだ。
日本の大人(官僚)が中国で「国難」を作ったが、
中国人の同意は求めなかった。――
各地方の田舎紳士たちは、逆に日本の大人の同意を求め、
彼らに自分たちの土地の治安維持を頼んだが、それはまた別の話し。
要するに、好き勝手に牛肉を食べ、馬に乗るなどは、常に自分が上司で、
他の人たちは部下だと宣布し:或いは人を動物扱いし、自分を天使だと思うわけだ。
 ここで最も大事なのは「武力」であって、理論ではない。
社会学的とかキリスト教理論であれ何ら権威を生みだせない。
原人の動物に対する権威は、弓矢などの発明による。
理論は後に考え出された解釈に過ぎぬ。
この種の解釈の効用は自分の権威をつくる宗教的、哲学的、科学的、
世界の潮流としての根拠に基づいており、奴隷と牛馬が「はいその通りです」と、
世界の公理だと悟り、名誉回復しようなどという夢想を放棄させる。
 上司が部下に解釈する時、部下の君はそれが君の同意を求めていると、
誤解などしてはならない。君が絶対同意しないとしても、
彼は彼のやりたいようにするのである。
彼には彼の夢想があり、金銀財宝や飛行機大砲の力が彼の手にあるなら、
彼の夢想は実現する。
そして君の夢想はついにそのまま夢想で終わり――万一実現しようものなら、
彼は君が彼の動物主義の持論を盗んだと非難するだろう。
「現在の世界の潮流では、大きな権力を持つ政府が現れており、
それは19世紀の人が夢想もしなかったものだ。
イタリアとドイツは言うまでも無く、イギリスの国民政府すら、
『彼らの実権は完全に保守党一党のものだ』
『米国の新大統領が取った措置、経済復興への権力は、
戦争時や戒厳令の時より強大である』
民衆は動物と同じようになり、上司は何の同意を求める必要も無い、
それがまさに世界の潮流である。
こんな具合のいいこと、良い模範をどうして学ばないのか?
 だが私のこの様な解釈はやや誉めすぎで、玉に瑕がある:
中国も秦の始皇帝の焚書坑儒をしたし、中国自身にも韓退之などの説があり:
『民は米粟麻絹を納めて、以て仕えずば誅す』と言う。
この説はもともと国産であり、どうしてわざわざ民族主義に反して、
外国の学説と事実を引用するのか――なぜ彼らの威風を増長させ、
自分の志気を滅ぼすようなことをするのか』」(「…」内は全て傍点付き)
          9月3日
 
訳者雑感:
 ヒットラーの手法を上司と部下のたとえで、民衆を動物扱いし、
武力で民衆や外国人の同意を求めずに奴隷とする。牛馬とする。
これは何も欧州の専売特許でもなく、中国でもやってきたことだ。
「米粟麻絹を納めない民は殺す」ぞ、と脅して、税を徴収してきた。
 
 これを書いている時、クリントン氏が我が玄葉外相に、
「オスプレイの配備は、予定通り実施する」と通達した。
上司は部下の同意を得る必要は無いのだ。
北上大さんのブログにある通り、人間は鳥のマネをして飛べるようになったが、
オスプレイ(ミサゴ、雎鳩、現代中国語は魚鷹)のマネをするのはまだ難しい。
垂直に急降下して水中の魚を捕えて、すぐ飛びあがる芸当は、
よほどの熟達者でないと、追い風やら逆風やらで難しかろう。
 
彼女は、オスプレイは「人道支援や災害対策」に使えると説明した。
これは、上司は部下に対して、解釈する、という状況だ。
部下は決して同意してはならない。
米国が日本にオスプレイを配備するのは、
何も「人道支援や災害支援」のためなどでは無い。
そんなお人よしなことで、自国の兵隊が何十人も事故死している物を、
配備する訳が無い。
 
沖縄県知事は日米安保により、配備すると通知されたら拒否できない。
普天間に基地がある限り日米の協定により、日本の同意云々の前に、
彼らの計画したものを配備できてしまうのだ。
だから基地を県外に移せと訴えている。
普天間も戦前日本軍が整備したときは荒野の中だった。
できてから、周囲に人の住まないような基地はあり得ない。
基地ができたらその周辺に兵隊、軍属相手の店ができ、人が集まって来る。
 
大連の国際空港すら、もともとは空軍基地だったのを軍民兼用にしてきた。
今や、滑走路の向こうにはおびただしい数のマンションが林立する。
そこを戦闘機が何回も何回も離着陸の訓練をしている。
旧式なもので、尻にパラシュートをつけての着陸である。
空軍は周囲に司令部と兵舎それにとても便利な宿舎という既得権があるから、
中国のような専制国家ですら、空軍を移転させることができないので、
民用空港を別途建設する他ないそうだ。
      2012/07/09訳
 
 
 

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男の進化

男の進化   虞明
 禽獣の交合を恋というのはいささか冒涜かもしれない。
だが禽獣にも性生活があるのは否定できぬ。
彼らは春に発情し、雌と雄が出会うと「ねえーわたしとどう」とじゃれつき、
結ばれようとするのは自然の成り行きだ。
固より雌は時に虚勢を装い、数歩離れてはまたふり返り、何度も叫び、
それは「同居の愛」がかなうまで続く。
禽獣の種類は多いし、彼らの「恋」の方式も複雑だが、
疑いの余地がないのは、雄に何の特権もない事だ。
 人間は万物の霊長で、男の本領が大きい。
はじめはもともとどちらとも言えなかった。
「母は知っているが、父を知らぬ」ということで、
母たちは一時期世の中を「支配」しており,
祖母などは、後の族長たちより権力があった。
その後、どういうわけか女の方が弱くなった。
首や手足に鎖をかけられ、輪や環をつけられ、
数千年後には、それが金や銀になり、真珠宝石がはめ込まれ、
そうした首飾りや腕輪指輪などは今、女が奴隷であることの象徴である。
女が奴隷となると、男は彼女の同意を求めることなく、彼女を「愛」した。
古代、部落間の戦争の結果、俘虜は奴隷とされ、女俘は強姦された。
その頃多分、春の発情期はとっくに「取消」され、随時随所で、
男の主は女俘を強姦できた。
今、強盗やゴロツキは女を人間扱いせぬが、これは昔の酋長式武士道の遺風だ。
 強姦の本領は、人間が禽獣より「進化」したとはいえ、
開化は道半ばにすぎぬ。
女がめそめそ泣き、手足をくねらせるのを見て、どれほどの楽しみがあるのか。
金という宝ができてから、男の進化は大変進んだ。
この世の一切は金で買える。性欲も例外ではない。
男は悪銭を使って、女の体を買えるようになった。
そして女に:お前を強姦するのではない。お前の願望で、
金が欲しいというからこうするので、互いの思い通り、
双方がフェア―な取引をするのだ!
蹂躙した後も女に一声「若旦那さんありがとう」と言わせる。
これは禽獣にはできないことだ。
だから妓女を買うのは男が進化した非常に高い段階である。
 それと同時に、父母の命で媒酌による旧式婚姻は、
妓女を買うよりさらに賢く、この制度で男は永久に生きた財産を得る。
新婦が新郎のベッドの上に抛り置かれた時、彼女には義務のみがあり、
値段を交渉する自由すらない。況や恋愛をや。
愛していようがいまいが、周公孔聖人の名の下に、
一人の男に一生従い、貞操を守らねばならない。
男は随時彼女を使えるが、彼女は聖賢の礼教を遵守しなければ、
「心の中によこしまな考えを持っただけでも、姦淫を犯した事になる」
もし雄犬が雌犬にこのような巧妙で厳しい手段を使ったら、
雌はきっとすぐにも「塀を飛び越えて逃げ出す」だろう。
人間はただ井戸に身を投げ、節婦、貞女、烈婦となるのみ。
礼教婚姻の進化の意義も、これを考えれば、はっきり分かる。
 男が「最も科学的」な学説を使って、無礼教な女といえども、
一人の男に死ぬまで従い、性欲は「獣欲」だと硬く信じ込ませ、
恋愛の基本的な条件だとは思わせぬようにした:
そのために「科学的貞操」を発明したら――
当然のことながら、それが文明進化の頂点となるだろう。
嗚呼、人間――男――の禽獣と異なる由縁也!
 自注:本編は古い道徳を守るための文章である。
     8月3日
 
訳者雑感:
「准風月談」という雑文集は、当時魯迅の名前で、「風雲」を談じる、
ということが当局の厳しい取り締まりで、出版できなくなっていたので、
別のペンネームを使って、「風月」を談じたものを集めたものゆえ、
彼としては柔らかい面を出している。
 本編を訳していたら、上野のパンダが出産した。
150グラム程の小さな赤ちゃんが乳首に吸いつく映像が可愛い。
その前に、シンシンがお尻を差し向けて、交尾を求めている映像や、
リーリーがシンシンに楽しそうにのっかっている映像まで公開された。
魯迅の指摘するように、リーリーは何の特権ももっていない。
ニュースでもシンシンよくやって、おめでとう、というのが圧倒的で、
リーリーよくやったというのは無い。
中国側のアドヴァイスに基づき、発情期の前後は竹ばかり食べさせた。
他の栄養剤などは与えず、自然のままにしたことが、今回の成功につながった。
魯迅のいう禽獣の交合は恋というのは冒涜をまぬかれぬ、
とはこのケースには当たらないかと思う。
年に一回しか訪れない発情期には、禽獣も恋をするといってよいだろう。
魯迅のころには映画が盛んになり始めていたが、パンダのような動物が、
あのように交合する映画はまだ撮影されていなかったのだろう。
「猫の恋」ともいうから、春に子孫を残すという本能のためとはいえ、
交合したくなるのは、恋といっても冒涜ではないと思う。
パンダは熊猫というから、猫の恋のDNAを受け継いでいるのだろうか。
相性がよくないと、自然交配はなかなかうまくゆかないらしい。
   2012/07/07訳 (相愛の二人が年に一度だけ会える日に)
 
 
 

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新秋雑感(2)

新秋雑感(2)  旅隼
 8月30日夜、遠くや近くから突然パンパンという音。
一瞬、あまり深く考えもせずに「抵抗」(対日)が又始まったかと…。
暫くして爆竹だと判り安心。次に何の節季だったかと考えた。
翌朝、新聞で昨夜は月食だったと知り、あのパンパンという音は、
我が同胞、異胞たちが(皆は黄帝の子孫と自称するが、黄帝に負けた、
蚩尤の子孫も必ずしもまだ死に絶えてはいないから「異胞」という)
示威行動をして、月を天狗の嘴から助け出そうとしたのだ。
 数日前の夜もとても騒々しく、街路に卓を並べ、
麺類とスイカを載せ:スイカにはハエと青虫、蚊が群がり、
その中の一卓の和尚は、むにゃむにゃとお経をあげている。
「回猪玀…! 唵(オン)ヤウン!ウン!!」(梵語の漢語訳)
これはまさに供養、施餓鬼をしているのだ。
盂蘭盆には餓鬼と非餓鬼があの世から抜け出てきて、
上海のシャバを見に来るから、善男信女は土地の人間として、
精いっぱいもてなそうとする。
和尚に「オンヤウン」と念じてもらい、数粒の白米をばら撒いて、
彼らに腹いっぱい食べてもらうのである。
 私は俗人だから、これまであの世の天国や地獄に関心は無かったが、
こういう時節には、この世に住む同胞と異胞たちの考えの高遠さと、
適切さを感じざるを得ない。
ほかのことは言うまでも無く、この2年間、大は四省(旧満州+熱河)、
小は九島(南沙諸島)の国旗の色が変わり、もうすぐ八島もそうなるだろう。
(別の南方諸島もフランスに占領されるだろうとの意)
しかし、それを救おうにも救えぬだけでなく、救おうとして、
『口を開くも、自らも危険で(この2句は印刷後「情勢からして救えぬ」
と、訂正された)、それゆえに、最も適切なことは、月を救うことで、
爆竹を鳴らし、天にも届くほどにとどろかせたとしても、
天狗が咬みついたりする心配はない。
月の酋長(もしいたらの話しだが)も、それが反動だとして禁じたりはしまい。
 人を救うのも同じことである。
戦災、干ばつ、イナゴの害、水災、…、農民たちはその対象に入らない。
幸いにして、災難から免れた細民に対して、どのような救い方があるのか?
それは当然、魂を救うに如かず。その方が手間を省き、功が多い。
立派な人たちといっしょで、仏典を念じ、塔を建てる功徳と同じだ。
これ即ち、所謂「人遠慮無くば、必ず近く憂いあり」で
「君子はその大なる者、遠なる者を務む」は亦この謂なり。
 況や、「庖人は庖を治めずといえども、屍祝は(巫)は尊俎を越えて、
これに代わらず」(領分を犯さない、しゃしゃり出ない)
というのもまた、古聖賢の明訓で、国事も治国者がいる限り、
細民は騒ぐまでもない。
だが、歴来の聖帝明王は、細民をないがしろにせず、
更に高度な自由と権利を与え、すなわち彼らがやりたいようにさせ、
専ら宇宙と霊魂を救うことにあたらせた。これが太平の根源で、
昔から今まで、それに沿って行われ、廃れることは無かった。
将来もきっと真っ先に廃されることは無いだろう。
 去年のことだが、上海戦争(事変)が初めて停戦となり、
日本軍が軍艦に戻り、兵営に退いた時、
あの晩もこのようにパンパンという音がした。
当時はまだ「長期抵抗」の最中だったため、日本人は我々の国粋を知らず、
また第何路軍が失地回復に来たと思い、則斥候を放ち、出兵…、大騒ぎとなった。
我々が月を救おうとしていると知り、彼らは亡霊を敵と疑ったことを悟った。
「お―、成程(Naruhodo)」(原来、かくの如し)
驚きと敬服の余、やっと平和の現状を取り戻した。
今年は斥候も出さないのは、多分中国の精神文明に感化されたのだろう。
「今侵略者と圧制者には、古代の暴君のように、奴隷にさえも、
呆けて夢を見るということすら許さぬ者がいるだろうか? …」
(カッコ内は皆傍点付き)   8月31日
 
訳者雑感:
 最後の句は私にははっきり理解できぬ点がある。
昔の聖賢は庶民の魂を救うための「風習」を守るのを許した。
奴隷の様な状態に置かれても、呆けて夢をみて暮らしてきた。
盂蘭盆には施餓鬼をし、月食には爆竹を鳴らして、天狗の嘴に食われる月を、
救いだそうとした。何かにつけて爆竹を鳴らして魂を救うのだ。
 大連の宿舎の近くに大きな病院があり、週に数回、朝6時に花火の音がする。
土地の人は、あれは病院で往生した親をあの世に送るためのものだ、という。
立派な病院で治療につとめ、看病したが、寿命尽きてあの世に行くに際し、
天に届くように大音声で報告するのだ、と。
 悲しみの中にも、孝という責めを果たした家族たちの思いが込められていよう。
周恩来が亡くなった時、中南海から毛沢東の爆竹の音が聞こえたという。
ほっとしたのだと言われている。       2012/07/05訳

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聾から唖へ (聾唖者)

聾から唖へ (聾唖者)  洛文
 医者は言う:唖者の多くは、喉と舌のせいで話せぬのではない、
小さい時から聾のために、人の言葉が聞き取れず、学習できぬため、
人はウーアーと言っていると思い、当人もウーアーと言うのみ。
それで、Brandesはデンマーク文学の衰微を嘆じてこう言った:
『文学創作は殆ど完全に死滅した。この世界の社会的な問題に対して、
なんら関心も示さず、新聞と雑誌以外、論争すら起こせない。
強烈で独創的な創作など見たことが無い。
加えて、外国の精神を取り入れることについても、
今やほとんど誰も顧みない。
それゆえ、精神的な「聾」となり、その結果「啞」になっている』
(「19世紀文学の主潮」第一巻自序)
 以上の状態は、中国の文芸界もその通りだと思う。
この状態は決してすべて圧迫者の抑圧のせいにはできぬ。
五四運動時の啓蒙運動家とその後の反対者は、
その責任を分担しなければならない。
前者は功を急ぐあまり、本当に価値ある書籍を一冊も訳出せず、
後者は故意に怒りの矛先を変えて、翻訳者を産婆と罵り、
青年達はその風潮を更に加速させ、ひどい時には人名、地名の下に、
原文を付して、読者の参考に供すことをも只の「衒学」だとした。
 今はどうか? 間口三間の書店は四馬路(上海の繁華街)にも、
沢山あるが、店内はすべて薄っぺらな小冊子ばかりで、
大部の本を探そうとするのは、砂の中から金を選び出すようなものだ。
もちろん、背が高くて太った人が偉い人とはかぎらず、
大部の作品や、何度も再版されるのが名著ともいえない。
況や「カット&ペースト」など論外だ。
薄くて小さな「何とか入門」は、全体としての学術文芸を網羅できない。
濁流はもとより一杯の清水の清潔さと透明さに及ばぬが、
濁流の一部を蒸留すれば、何杯もの清水ができる。
 何年もの間、中身の無い作品ばかり出してきた結果、文学は荒廃した。
文章形式は多少整ったが、戦闘精神は以前より後退し、進歩がない。
文人は買官や仲間内の褒めあいによって、早く名を成すが、
あまりに誉めすぎるので、ズウタイばかりでかくなって、
中は空っぽというのが多い。
その結果、この空虚を寂莫と取り違え、読者にもったいぶった形で語りかけ、
更には、心の中の腐爛をさらけ出し、それを内面の宝だと言いだす。
散文は文苑の中では比較的成功した方だが、今年選ばれた三名は、
まさに「貂(テン)がいないから、犬の尾で間に合わす」の感がする。
シイナで青年を養おうとしても、決して壮健な体にはならない。
将来の成就もさらにちっぽけなものしかならない。
その姿は、ニーチェの言う「末人」(希望も創造性もない浅薄な人間)だ。
 唯、外国の思潮を紹介し、世界の名作を翻訳するのは、
凡そ精神的な糧を運ぶ航路だが、今は殆どが聾唖者を製造する者たちに、
塞がれていて、西洋人の狗や金満家の入り婿たちも、フンと冷笑するだけだ。
彼らは青年の耳を覆い、聾と啞にし、干からびて小さくなった「末人」とし、
金持ちの倅やチンピラ達の売る春画を見るだけの状態に陥れるまで、
その手をゆるめようとしない。
甘んじて泥土となる覚悟を固めた作家と翻訳家の奮闘は、
今や絶対ゆるがせにできない状況にある。
それは即ち懸命になって確固とした精神的糧を運んできて、
青年達に届け、その一方で、あの聾唖者を製造する連中を、
彼らがもともといた暗い洞穴と、朱塗りの門(権勢家)の中へ送り返すのだ。
                 8月29日
 
訳者雑感:
 中国でも本を出すには、著者の名が売れてないとダメなようで、
買官(位を買った中身の無い)作家や、仲間褒めで選ばれた連中の本しか売れない。
それらはみな「シイナ」みたいな本ばかりで、
それを読んだ青年が壮健になるわけがない。
 魯迅は五四運動時代の啓蒙家とその後の反対論者(古文派・国粋派)の間の、
無毛な抗争が今日の結果を招いたとして彼らの責任を追及し、
精神的な聾唖者しかいない現状を打破して、
確かな作品を輸入翻訳して青年に届けねばならない、と訴えている。
最近の新華書店の翻訳書コーナーは以前に比して大分層が厚くなっては来た。
しかしその多くは古典名作の焼き直しか、21世紀の新潮流、新作品が主流である。
日本の書店もそうだが、魯迅の理想としている「作品」と現実に売れ筋の良い本とは、
大きな溝が存在しているのは、いつの時代もあることだ。
読んで、こころに残る作品と、2度と読むことの無い作品の差。
だが、書店が売りたいのは、2度と読んでみたいと思われないけど、
多くの人が、一度は手にとって読んでみたいと思う本だろう。
商売としては。
  2012/07/02訳
 
 
 
 
 
 
 
 

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新秋雑感

新秋雑感   旅隼
 門の外の狭い所で、二群れのアリが争っていた。
童話作家エロシェンコの名は、今では読者の記憶から薄れたが、
これを見ていて、彼のある奇異な愁いを思い出した。
 北京にいた頃、彼は真顔で私にこう語った:
「将来誰かがある方法を発明し、もしそうなったらとても心配だが、
ちょっとひとひねりするだけで、人間をすべて戦争の道具にしてしまうのだ」
 この方法はとっくの昔に発明されている。
だがいささか煩瑣で「ちょっとやそっと」ではできなかっただけだ。
外国の児童向けの本や玩具はたいてい、武器の使い方を教えているものが、
大半だと知れば、それはまさしく戦争の道具を造る装置だとわかる。
そしてそれを造るには、かならず天真な子供から始めねばならぬということは、
人間だけではなく、昆虫でも知っている。
アリの中には兵隊アリがいて、自分では巣を造らず、エサも集めず、
専ら他のアリを攻撃し、幼虫を掠奪し、奴隷として働かせる。
奇妙なのは決して成虫を掠奪せぬことで、それはもう教化が困難な為だ。
掠奪するのは幼虫とサナギに限り、盗まれてきた巣穴で成長し、
それ以前のことは何も覚えてなくて、永遠に愚鈍で忠実な奴隷として、
働くだけでなく、兵隊アリが掠奪に行く時にはついて行き、
侵略された同胞の幼虫とサナギを運ぶのを手伝う。
 しかし人類はそう単純にはゆかない。
「万物の霊長」たる由縁だ。
しかし製造者たちも決して手はゆるめない。
子供は成長すると、天真さを失うだけでなく、大抵はぼんくらになる。
経済不況の結果、出版界もしっかりした学術文芸書などは発行しようとせず、
教科書や児童書を、黄河が決壊したように次々出すが、中身はどうか?
我々の子供をどのように育成しようとするのか?
こうした点についてこれまで戦闘的評論家の論及は無い。
将来のことには誰もあまり心配しないようだ。
 
 「反戦会議」のことについては、新聞各紙が取りあげないのは、
主戦を唱える方が、中国人の嗜好にあっているからのようだ。
 反戦に冷淡なのは、それが我々の嗜好に反している証だ。
無論、戦争となれば当然戦うのだが。
兵隊アリについて行き、敗者の幼虫を運び、奴隷として勝ったような気になる。
だが人は「万物の霊長」だから、そんなことで満足していてはいけない。
戦いは当然やらなければならない。戦争の道具を造るアリ塚を壊し、
子供を害する薬餌を廃棄し、将来を台無しにする陰謀を暴きだして潰す:
これこそが、人間としての戦士の任務である。
                 8月28日
 
訳者雑感:
 主戦論者と講和論者(被侵略者側としては投降に近い)、宋末の岳飛と蓁檜。
日中戦争時代の蒋介石と汪兆銘。後者はいずれも後に、漢奸と罵られた。
魯迅の弟、周作人も日本の敗戦後、日本の傀儡政権下で文化的漢奸として、
日本に協力した廉で、蒋介石の国民党政府から、14年の有罪判決を受けた。
(後10年に減刑、更に毛沢東政権下で釈放されたが)
魯迅は本文に触れている33年上海で開かれた「反戦会議」の主席団の名誉主席に、
推薦された。
この反戦会議は英仏など世界帝国主義戦争に反対する委員会が33年9月に、
上海で開催したもの。
今回は日本帝国主義の中国侵略に反対し、国際平和を勝ち取る等の問題を討議した。
上海での開催について、国民党政府と租界当局が反対し阻止された。
それで秘密裏に開催したのだが、新聞もそれを無視して取り上げなかった。
魯迅は、反戦というのは中国人の「嗜好」にあわない証だと指摘している。
 
日本と中国は宣戦布告しないままに、15年戦争の泥沼に入り込んでいた。
 32年頃から太平洋戦争まで間は、双方とも「戦争状態から平和な関係」
を取り戻せないか、懸命になっていろいろ工作してきた。
日本が真珠湾攻撃を開始するまでは、日中双方とも「もやもやした」状態だった。
中国人の特質として、歴史的には異民族に侵略されたら、主戦論を唱えて、
抗戦するのが「あるべき姿」で、講和を模索する弱腰を「漢奸」と罵って来た。
 それでも、元や清のように、長期に亘って漢族を統治してしまった後は、
それらに協力した人々を漢奸と罵らない。
もしもの話しとして、中国の一部歴史家も「日本があの戦争に勝っていたら」
広大な中国大陸と東アジア諸国が一つの「大国家」となって、
今頃はEU米国を凌駕する「大国」になっただろう、という論文を書いた。
(趙無眠著「趙無眠辛辣説歴史」第2節「如果日本戦勝中国」)
 1930年代、混乱する祖国を嘆き、日本に協力して「安定した」体制をつくり、
平和な生活を取り戻したい、と考える人がいたとしてもなんら不思議は無い。
しかし、それは日本の敗戦の結果、全ての協力者は漢奸とされたのだ。
 
 本文では、魯迅は「反戦」ではあるが、主戦論者のようにはみえない。
当時の日中の兵力、力関係から、正面から抗戦しても歯が立たないことは、
残念ながら認めざるを得ない状況だったからか。
しかし、33年頃の状況は、侵略者に自国の子供を「アリの幼虫」と同じように、
「教育され」、育てられて、成虫として、侵略者の兵隊アリに協力して、
自分たちの巣の幼虫を運ぶ手伝いをしている同胞がたくさんいたのが現実だった。
万物の霊長として、そんなことではいけない、と説いている。
 
 絶交した後も、魯迅は周作人を批判したりはせず、かばったりもした。
しかし、侵略者に協力して、自分の幼虫たちを侵略者の目的に沿った形で、
教育することは「やってはならないこと」だと指摘している。
 同じ家に住んでいた頃、一緒に生活した盲目詩人エロシェンコの言葉を引いて。
「ちょっとひとひねりすれば、簡単に戦争する器械にできる」
ようにしては、万物の霊長たる由縁を失うことになる。
        2012/06/28訳

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四庫全書珍本

四庫全書珍本   豊之余
 今、兵争、政争という争いの他に、閑人以外は余り関心が無いが、
写真版「四庫全書」の「珍本」を巡る争いがある。
官商(官営出版社)は、原本に照らして一刻も早く発行しようとし、
学界はその原本には、改刪(かいざん)、錯誤があるからという理由で、
別の原本が得られるなら、別の「善本」を探すべきだと主張する。
 だが学界の主張は通らず、結果「欽定四庫全書」に依拠せよ、となるだろう。
理由は明白で、急ぐ為である。
(9.18で)四省(東北3省と熱河)がとられ、(そのどさくさにフランスが、
強引に占領した西沙南沙諸島の)九島を取り戻せとか等は言うまでも無いが、
只単に、黄河を決壊させるという挙動だけでも、人々を明日はどうなるだろう、
大変なことになるに違いないとあわてさせる。
商売するなら急がねばならぬと考えさせる。
 況や「欽定」の2字には今なお威光があり、「御殿医」「献上緞子」など、
今も衆とは段違いで、それゆえ、つとに共和制になったフランスでさえ、
ナポレオンの蔵書はオークションでは平民の本よりずっと値が高くなる:
欧州の著名な某「支那学者」(原文のまま)は中国について語る際は決まって、
「欽定図書集成」を引用する。
従って、これは中国の考証家としては、賛同しかねるやりかたではあるが、
「欽定」の「珍本」を発行したら、外国での販売は「善本」より良いだろう。
 今の中国でも「珍本」の方がきっとよく売れるに違いない。
というのは、「珍本」は装飾になるが、「善本」は実用に適すのみだからだ。
この種の本は、貧乏書生は決して買えない。
これは買った後、客間に置かれるのは分かり切ったことだ。
この種の本の買主は、殷や周の古鼎も飾る:
だが、土鍋や鉄の大鍋を紫檀の卓上に置くようなことはしない。
彼の目標は「珍」であって「善」ではなく、実用に適すか否かなど眼中にない。
 
 明末の人は、名を大事にし、古書を刻印するのが気風となった。
しかし往々、自分が読んで分からないと、元の文字は間違っていると考え、
勝手に乱改した。改めねばまだ良かったが、一度改めてしまうと、
却って間違った方向に改めることになってしまった。
 後世の考証家は、首をふり嘆息して、
「明人は古書の印刻を好んだ結果、古書は亡んだ」と言った。
このたびの「四庫全書」の「珍本」は写真版ゆえ、改錯の弊は無いが、
その原本に、無意識的な錯字もあるし、故意の改刪もあり、
新本の流布により、善本がいん滅し、将来まじめな読者が偶々これを見たら、
またもや首をふり、嘆くことは免れまい。
 しかし結果は総じて「欽定四庫全書」に依拠することになろう。
「将来」のことは、只今現在の官営出版社には無関係だから。8月24日
 
訳者雑感:
 魯迅の翻訳をはじめて2年半経った。
最初は2008年版、北京燕山出版社の挿絵入りの「吶喊」だった。
次に2004年版、浙江文芸出版社の写真入りの「与魯迅看社戯」で、
(題の和訳は「魯迅といっしょに奉納劇を見よう」で紹興の奉納劇のために
建てられた幾つかの舞台とそれを舟に乗ったまま観劇する人々の写真がある)
これを撰文した何信恩さんの写真と説明が私を魯迅の世界に深く誘い込んだ。
それから雑文関係に進み、2006年版、人民文学出版社のものに依拠した。
これには詳細な注がついており、前2者には無い注釈で、
翻訳にとても役に立った。
 
竹内好初め、多くの先人たちが苦労に苦労を重ねても、
やはり現物を見てない外国人には、写真とか注釈がないと、理解は難しい。
米文学者が翻訳雑事として、ティッシュのことをどう和訳しようかと悩んだ、
というエピソードを紹介していた。
文中のそれはクリネックスという商品名だった。これは知らないと訳せない。
ベッドで男女が使う物という段でやっと想像ができたが、チリ紙では具合悪い。
鼻紙としてもいまひとつ。その後彼はアメリカに行って実物を見て、
そのままティシュとすることにした由。
今ではこれが主流でチリ紙すらトイレット・ペーパーに代わった。
 
 これまでは神田の内山書店で分冊のものを買ってきたが、輸入品だから、
かなり割高になるので、残りは大連に出かけた際に新華書店で買おうとした。
 書店には私が手元にあるような作品は並んでいるのだが、
余り売れ行きの芳しくない物は置いてない。
店の事務所に行って、私が買いたいと思っている二十数冊の書名を示し、
「人民文学出版社」から取り寄せて欲しいと依頼した。
彼女もやはりこの「分冊」されたものをかつて読んだことがあり、
この方が、携帯にも便利で、読み易いと同意しながら、出版社に電話してくれたが、
その内3冊程は品切れで、取り寄せるのに時間がかかるというので、
友人にお金を託して、届いたら郵送してくれるように依頼した。
 
その一方で、厚い表紙の全集は何種類かが幅2Mほどの書棚に展示されていて、
これは書店としての「体裁」もあるのだろうが、やはり「サロンの装飾」として、
購入する客がいて、年に何部かは売れるから置いてあるのだろう、と思った。
全集は飾られるのみで、手にとって読まれることは稀だろう。
実用に適さない。書き込みもしづらい。寝ながら読みにも重い…。
 
さて、「明人が古書を刻印した結果、古書が亡んだ」ことに関して、
私見だが、今中国で出ている「唐詩」の李白「静夜思」には、
「床前明月光、疑是地上霜。挙頭望明月、低頭思故郷。」が主流である。
我々が学校で習った「床前看月光、…挙頭望山月、…」と比べると、
看が明に、山が明になっているのが分かる。
どうしてこうなったのか不思議に思っていた。
今日本に伝わっているのは、宋代あたりのものが多いと言われている。
21世紀の中国では、明人が自分で吟じて、乱改して刻印したものが、
清から民国にと受け継がれたものだろうか。確かに吟じやすい点は認める。
詩すらも唐から千年も経つと、「音韻」的にも「変化」が生じてくるし、
吟じて心地よい方に馴れが起きるのは、日本の和歌にもあることだ。
清末に日本に来た外交官が、日本に宋本がたくさん残っているので、
感激したという。最近宋本に依拠して修正されたものも出ているやに聞く。
日本人は外国語の古典を乱改するような力は無いから千年前のものが、
宝物のように残ったのだろう。
       2012/06/26訳
 

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