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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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突進 

突進   旅隼
 「推す」と「蹴る」ではただ一人か二人くらいしか殺傷できない。
沢山の人をとなると「突進」しかない。
 13日の新聞に、貴陽通信があり「9.18記念で各校の学生が集合デモをした。
教育長の譚星閣は驚きあわて、兵隊を街頭に派遣配置して、何台もの自動車を、
デモの列に突進させた。
 それで惨劇が起こり、学生2人死亡、40人余が負傷した。
内、正誼小学校の生徒が最も多く、年齢わずか十歳前後…。
 以前から、武将はたいていは文にも通じていて、「戈を枕に旦を待つ」時、
駢儷文の電報を打つということは知っていたが、
今回、文官といえども兵法に深く習熟している事がわかった。
(戦国時代の)田単(武将)は火牛作戦を使ったが、今自動車に代わった。
確かに20世紀である。
 「突進」はもっともすっきりした戦法で、自動車部隊を縦横から突っ込ませ、
直撃して敵を車輪の下で死傷させる。なんと直截なことよ:
「突進」は最も威武的な行為でもあり、エンジンを起動すれば猛スピードで、
相手は逃げようにも間に合わぬ。何とむごい英雄か。
各国の警備兵はホースの水攻めを好むが、
ツアーはかつてコザック騎馬隊を突進させ、常に快挙であった。
各租界では、外国兵が戦車を巡行させるのを目にする。
万一恭順な態度を示さぬと、これが突進してくる。
 自動車は突撃用としては利器ではないが、相手が小学生なら、
くたびれたロバは戦場では役に立たぬが、柔らかな牧草上を走るだけなら、
騎士も何ら叱咤せずとも、愉快に任に堪えるだろう。
人が見たら、なんという滑稽なことかと思うに違いない。
 十歳前後の子供が造反するなど、本来まったく滑稽としか思えない。
だが、我々中国には神童がよく現れ、一歳で絵を画き、二歳で詩を作り、
七歳で劇を書き、十歳で従軍し、十数歳で委員になるのもよくあることだ:
7-8才の女児も凌辱され、他の人には「芳紀まさに花開く」に見えるのだ。
 況や、「突撃」の時、対面にいるのが抵抗可能な相手なら、自動車もうまくゆかず、
突進者も英雄でもないから、敵は常に軟弱なのを選ばねばならないのである。
 ゴロツキが田舎から出て来た老人を欺き、西洋人が中国人を殴り、
教育庁長は小学生に突進する。すべては敵に勝つ豪傑だ。
「身をその突進に充てる」とは、かつては空言だったが、今や霊験あらたかで、
これは成人にだけでなく、子供にまで適用される。
「嬰児殺戮」は罪悪と看做されたのは過去のことで、乳児を空中に抛りあげ、
槍先で受けるのが、一種の見世物に過ぎないとされる日も遠くはなさそうだ。
    10月17日
 
訳者雑感:
 9.18記念日とは日本軍が旧満州を占領し、多くの中国人が満州の地を失った日だ。
それを奪回すべしとのスローガンでデモが行われた。
そのデモの中に十才前後の小学生もいて、教育長の命じた自動車部隊の突進により、
多くの死傷者が出た。というのがこの雑文を書かせた背景だ。
 ここ2週間、中国各地で尖閣諸島を返せとのデモが数十か所で起こっている。
中国で生産された日系自動車会社のパトカーが引っくり返され、日の丸も焼かれた。
2012年の今、中国政府はデモを管理しつつも暴発させぬよう慎重に抑制している。
反日デモはいつでも反政府デモに変じるからだ。
1933年の貴陽で、何を血迷ったのか、教育長が自動車部隊を小学生も参加している
デモ隊に突進させた。逃げ遅れた小学生の多くが死傷した。
教育長はデモ行進が自分たちに造反するのかと慌てふためいたのかも知れない。
私も1979年頃に上海で、大規模なデモに遭遇した。
トロリーが走っていた頃で、道一杯に広がったデモ隊が、そのトロリーの電線を切り、
上海の中心地の大通りを行進して、大声で叫んでいた。
デモは常に時の政府への不満を訴えるもので、うろたえた責任者はとんでもない弾圧に
向うことがある。それが惨劇を引き起こす。焼け焦げた死体が道に残る。
天安門事件の後、長安街の横断陸橋から吊り下げられた黒こげの死体が、
今なお目に焼き付いている。
    2012/08/26訳
 
 
 
 

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黄禍

黄禍  尤剛
 今日、所謂「黄禍」は、我々では「黄河の決壊」を指すが、
30年前はそうではなかった。
 当時は黄色人種が欧州を席巻するという意味に使われた。
何人かの英雄はこれを聞いて、ちょうど白人が以前「眠れる獅子」
と中国をおだてた時のように、何年間というもの得意になって、
欧州に行ってボスになろうと考えた者もいた。
 だが実は「黄禍」の由来は、我々が幻想したようなものではなく、
ドイツのウイルヘルム皇帝の発言に拠るものだ。
彼は一枚の絵を画かせた。それはローマ軍の装束を着けた戦士が、
東方からやって来た一人の男を防ごうとしているものだ。
その男は孔子でなくて、仏陀だったので、中国人はぬかよろこびだった。
 従って、我々は一面では「黄禍」の夢を見たが:
もう一方ではドイツ支配下の青島の現実を見た。
かわいそうな子が電柱を汚したので、白人の巡査に足をつかまれて、
中国人がアヒルにそうするように、逆さにされて連行された。
 現在、ヒットラーの非ゲルマン民族的思想を排斥する手法は、
ドイツの皇帝のやったことと同じである。
 ドイツ皇帝の「黄禍」については、我々はもはや夢想もせぬし、
「眠れる獅子」さえ持ち出さない。
「地大物博、人口が多い」というのも、もうあまり見かけない。
獅子ならどれ程大きく太っているか誇っても構わない。
だが、豚や羊では、肥大は良い兆しではない。
我々は今自ら何に似ていると感じているか知らない。
 もう何も考えぬようであるし、どんな「象徴」かも尋ねぬし、
今まさにHagenbeckの猛獣ショ―で、獅虎が牛を食うのを鑑賞し:
我々は、軍縮(会議)の「平和保障」に賛成するが、
ヒットラーの軍縮からの離脱にも敬服し:
他国が中国を戦場とするのを怖れるが、我々はまた反戦会議を、
憎んでもいる。(政府が上海での開催を拒否したことを指す)
我々はまだどうやら「眠れる獅子」のままのようだ。
「黄禍」は一転福とする事も可能で、目覚めた獅はサーカスもできる。
欧州大戦の時、我々は彼らに代わって懸命に働いた労働者がいたのに、
青島が占領されると、逆吊りにされる子供になってしまった。
 だが20世紀の舞台に、我々の役割が無いとしたら不合理である。
       10月17日
訳者雑感:
 「眠れる獅子」とは白人が19世紀の中国を指した言葉だと理解する。
アヘン戦争を始めたころのイギリスはこんな大国に戦争をしかけるなど、
おそるおそるだったろう。
日本も日清戦争の前までは清朝の力を怖れてもいたし、
明治天皇は、最後まで清国と戦争するのを避けようとしていたという。
 日清戦争の後では、「眠れる獅子」はこのまま眠り続けると見られ、
眠りから覚めても、弱くて戦う力さえない獅子のようにみなしていた。
 
 しかし魯迅の指摘するように、当初は白人もおっかなびっくりで、
今は眠っているが、起きだしたら大変凶暴になる怖れのある獅子だと、
認識していたから、眠れる獅子と呼んだのだろう。
 それをおだてだと思った中国人が、今度また黄禍と言い始めた。
黄色人が欧州を席巻するとの怖れを聞いて、得意になった者がいたという。
ドイツ人を始めとする欧州人の多くは、昔のフン族とかモンゴルのように、
アジア人のことを、禍をもたらす種族と考えていたようだ。
 
30年前の改革開放で世界の工場となり、米国はおろか、
欧州の多くの一般的工業製品を駆逐し、席巻したことが、
彼らの雇用機会を奪い、失業者をあふれさせた。
今日の欧州危機の引き金の一つになったことは間違いなかろう。
ドイツの高級自動車や一部の高級ブランド製品を除いて、
小さなものでは、百円ライターや文房具雑貨から始まり、
殆どの繊維製品、日用雑貨、太陽光発電機器など、
超のつく低価格の中国製品が欧州市場を席巻している。
 「黄禍」論を言いだしたドイツはその例外なのは興味深い。
ドイツ人は自国で生産した長持ちする製品を使い続けるのが好きで、
安ものの中国品を他の国のようには買わないからなのだろうか?
   2012/08/25訳
 

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感旧の後(下)

感旧の後(下)   豊之余
 もう少し書く。先ず申し述べねばならぬが、これは施氏の話しから、
引き起こされたが、決して彼の為に書くのではない。
個人については、私は原稿には常に名を書いたが、印刷されると、
往々「某」の字に化けるとか、権勢家の姓名、危ない言葉などは、
生殖器官の俗語の共通の符号「XXX」にされた。
本編での文字はこのような変化はないことを望む。誤解されないように。
 今申し上げたいのは:
話すのも難しいが、話さないのも容易ではないということ。
物書きはどうしても何かを書き、書くとどうしても災難を惹起することを、
免れないようだ。
黄河の水は堤防の弱いところを攻めるのだが、腕を露わにした女性と、
字を間違えた青年はすぐ嘲笑の的となる。
しかし彼女彼らは拳も勇気もないから、忍受するのみである。
田舎から上海租界に来た人が「アホ」と呼ばれても耐えるしかないのと同じ。
 が、中には冤罪もあり、ここで一例を挙げると、「論語」26期の、
劉半農氏の「自注自批」の「桐花芝豆堂詩集」という戯れ詩だ。
北京大学の試験官として、国文の答案に面白い誤字を見つけ、詩にした。
やり玉に挙げられた人は、穴があったら入りたい気持ちだろうが、
彼らは高校を卒業したばかり。
一方、彼は教授で、凡そ指摘する所は間違っているはずはない。
しかし私には些か協議の余地がありそうに思う。
「自注」だけに絞って言うと――
『「文化倡明」者、余曰く:倡は「娼」の字であり、凡そ文化発達の所は、
必ず娼妓多し。文化も娼妓からと謂うもこれ道理なり』
 娼妓の娼は今では「倡」とは書かぬが、かつては2字とも通用し、
劉氏の引用したのは古文だろうが、古文を引くなら、
「詩経」に「倡予和女」の句があり、これまで誰も「自分も娼妓となって、
人に応じて和そう」という意味に解した人はいないようだ。
従って、その誤字は只字を間違えただけで、滑稽とか軽蔑の対象ではない。
もう一句:
『幸い「科学思想の芽が萌え」』
「芽」と「萌」の字の傍らに圏点をつけ、
多分滑稽なのはここと示しているのだろうが、
私は「萌芽」「萌蘖」(ひこばえ)は固より、一つの名詞であるが、
「萌動」「萌発」は動詞であり、「萌」の字を動詞とするのも、
間違いではないと思う。
 五四運動の頃、口語を提倡(劉氏は「娼妓を提起」と解されるかな)
した人々が誤字を書き、古典を誤用しても、なんら奇としなかった。
だがこれは、反対する人たちは、口語を提倡する者は古典を知らずに、
口から出まかせの輩だ、と言っていた為で、往往古文を書くことで、
彼らの口を塞いだからだ。
但しそれは旧塁から取り出してきた物で、積習は大変深いものがあり、
すぐには脱却できぬため、古文の気息を帯びたのも無いとはしない。
 当時、口語運動が勝ち、戦士の中にはこれで出世したが、
出世してからは、口語のために更に戦うことをしなくなったのみならず、
それを踏みつけて、古文を持ち出して、後進の青年を嘲笑った。
 今なお古典古文を使って人を笑い物にするため、青年の中には、
古典を読むことをおろそかにはできぬと考える者もでてきた。
文語を常用する作家を模範とするようになり、もう新しい道を開いて、
発展しようとし、新しい局面を打ちだそうとしなくなった。
 今ここに二人の人がいる:
一人は高校生で、「留学生」と書くところを、「流学生」と一字間違えた:
一人は大学教授で、得意になって詩を作って曰く:
「先生、弥天の罪を犯し、罰として西洋に行き、学を流し、
九流に一等を加えるべく、面筋を熬(い)尽くす一鍋の油」
(出版社注:劉氏の自注には、昔九流は国境を出ることはなかった。
今外洋に流れるのは、一等を加えて罪を治めるか)
 さあ皆さん、おかしいのはどちらでしょうか?  10月12日
 
訳者雑感:
 北京大学の試験官の教授が受験生の誤字をネタに戯れ詩を作って、
雑誌に載せる。古典古文を持ち出して来て、若い人たちに「さあどうだ」
これが分からなければ、大学には入れないぞと脅す。
 口語運動から20年経って、最初口語を提唱していた人たちも学者になり、
役人になり、出世した結果、口語運動を締め付けにかかってきた。
 難しい古典古文こそが、学者役人(中国では学者が政治家になるという、
伝統が根強く残っている)のポストを強固に守る「手段」であった。
(儒教的な呪縛の残る)古典古文を持ち出してくることで、
青年達の新しい企図を阻止しようとする動きが強まっていた。
 昨今でも、天安門広場に、巨大な孔子像が建てられたのは、
上述したような、儒教的なものを持ち出してきて、ぐらつき始めた、
「中国式の市場経済」の精神的支えを求めようとする動きだろう。
しかし、数ヵ月後に孔子像は撤去された。
毛沢東の巨大な肖像画と孔子像が天安門で並立することは困難なようだ。
    2012/08/12訳
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 

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感旧の後(上)

感旧の後(上)   豊之余
 うっかり感旧したばかりに、(第3種人の)施蟄存氏の「荘子と文選」を、
引きださせてしまった。彼はあれは彼のことを指していると考えており、
しかし又その一方で、彼のことを指してないことを希望している。
 私は今少し述べたい:
「感旧」は施氏を指しているのではない。だが施氏を含んでも構わない。
 もっぱら特定の個人について書くなら、現代風な書き方なら、
まず相手の貫籍、出身、容貌から、故郷の名産品などについて、
また親父がどんな店を開いているかに至るまで調べねばならず、
その上で当人ということをほのめかすように書いてこそ書式に会う。
私の文章には少しもそうしたことをほのめかしてない。
あの中では、一群の遺少(古雅を好む若者)の気風を指摘しているが、
誰と誰だとは特定していない。だが指摘したのが一群であるからして、
その中に入るのも当然大勢いる。
たとえ総体としてでなくても、そのなかの一肢一節であり、
永遠にその一群に属していないとしても、時にはそれに属している。
今、施氏自ら、青年に「荘子」と「文選」を読むように勧め、
それを「文学修養の一助」にというのは、私の指摘と関係してくるが、
私の文が彼の為に書かれたと思うのは誠に「神経過敏」であり、
私にはまったくその意は無い。
 だがこれは施氏が私の文章の出る前に書いたことで、
今や却ってこの「関係」もあまり直接的なものではなくなった。
私の指摘したのは、より頑固な遺少たちで、標的はもっと高かった。
 今、施氏自身の釈明を読み、1)彼の置かれている状況を初めて知り、
出版社の返答用紙の枠が小さすぎたのが原因で、「もう少し大きければ」
彼は「もう何冊か推薦したい」と考えていたこと。
2)彼の経歴を知り、「国文の教員から雑誌の編集者」となり、
「青年の文章がとても稚拙で語彙も少ない」と感じたから、
この2冊の古典を推薦し、彼らに語法を学び、語彙を増やしてもらい、
「今ではもう多くの字が使われなくなってしまった」が、
それでもそこから探し求めてもらう他ない、と指摘している。
荘子が生きていたら、(伝説通り彼の)棺桶を開いたら息を吹き返し、
結婚願望の女性に対し「烈女伝」を読めと勧めるに違いない。
  もう少し別の話しをすると――
一)
施氏は私が瓶と酒を「文学修養」に比すのは間違いだというが、
私はそういう風には比していない。新青年が旧思想を持つことも構わぬし、
旧形式に新しいものを蔵するのも可と言ったのである。
私も「新文学」と「旧文学」の間に明確な境界が引けるとは思わないが、
脱皮はあり、なにがしか偏向もあるだろうから、
そして更に正しく「何かで分ける」ということもできないだろうから、
「第3種人」の立場もなくなると思う。
二)
施氏が篆字は個人的なことで、他人にそれを強制しない限り、
問題無いという。もっともの事のように思われる。
しかし高校生と投稿者たちは、それぞれ個人の文章はとても稚拙で、
語彙も大変少ないが、他人に同じようにせよとは強制していない。
施氏はどういうわけか、大いに感ずるところがあってかどうか、
「文学に志す青年」は「荘子」と「文選」を読むよう勧めたのか?
施氏は(北京大学の)試験官として、詞を以て士を採用することは、
良くないと思っているが、教員と編者をしている人が、
「荘子」と「文選」を青年に勧めるというのはどういうことなのか、
私には誠にその間にどのような分界があるのか理解できない。
三)
施氏は更に「魯迅氏」に触れ、彼が荘子の新しい道統を継承しており、
すべての文章は彼が「荘子」と「文選」を読んだことから出てきている、
と言う風に書かれているが、「私はこれも少し武断だと思う」。
彼の文章中に、誠に多くの字が「荘子」と「文選」にあるもので、
例えば「之乎者也」の類だが、これらの文字は他の本に無いとは限らぬ。
より露骨に言えば、この様な本から生きた語彙を増やそうとするのは、
まったくアホなことで、きっと施氏自身もそんなことはしないだろう。
        10月12日
 
{備考}: 「荘子」と「文選」   施蟄存
 
 先月「大晩報」の編者が、枠を印刷した葉書を送ってきて、
2項目について答えるようにと;
1)今読んでいる本 2)青年に紹介したい本。
第2項に「荘子」「文選」、脚注に「青年の文学修養の一助に」と記した。
 今日「自由談」に豊之余の「感旧」を見て、神経過敏になり、
豊氏の文章は私のことを書いているのだと思った。
 だが今、豊氏を難じようという気持ちは無く、
この機会にあれについて、自分の状況を説明しようと思うだけだ。
第一、ここ数年来私の生活は国文教師から雑誌編集に変わり、
青年の文章と接触する機会が大幅に増えた。
私はどうもこうした施年の文章がとても稚拙で語彙も少ない、
と感じていたので、「大晩報」の編者の寄せた狭い回答枠の中に、
この2冊を推薦した。
 この2冊は文章の書き方の参考になると思い、語彙も増える、
と思った。(中には多くの字がもう使われていないが)
だが私は無論青年がみな「荘子」「文選」の類の「古文」を書くのを、
希望しているのではない。
第2、私は只、文学を志す青年が、この2冊を読めるようになることを、
希望すると書くべきだった。
個々の文学者は、上代の文学の助けを借りるべきであると考えており、
「新文学」と「旧文学」の間を、何を以て分界するのか分からない。
私としては、文学上、「旧瓶に新酒を入れる」と「新瓶に旧酒を入れる」
という比喩を使うのは、正しくないと思う。
一人の人間の文学修養を酒に比すれば、この様に言えるだろう:
酒瓶の新旧は関係ないが、酒は必ず醸造しなければならない。
 文学青年に「荘子」と「文選」を勧める目的は、彼らに醸造してもらう為で、
「大晩報」の編者の枠が広かったら、もう何冊かを推薦しただろう。
今、魯迅氏を例に取りあげていうことは構わないと思う。
魯迅氏の様な新文学者は十分、新しい瓶とみなしてよいようだ。
だが彼の酒は?純粋なブランディだろうか?私は信じられない。
古典文学の修養を経ずして、彼の新文学は今のようにうまくは書けない。
従って敢えて言う:
魯迅氏のあの瓶には多くの五加皮と紹興老酒の成分があるのは免れない。
 豊之余氏は篆字、詞、自刻版の印板の封筒を使うのを、学校を出ていない、
或いは国学専門のことと思っているが、私はこれも些か武断だと思う。
このようなことは、只個人的なことで、篆字を書く人がそれで手紙を書かず、
填詞する人が官について詞で士を採用せず、自刻印板の封筒を使う人が、
他の人に専用の封筒を使えと強制しなければ構わないことで、
これも豊氏の口誅筆伐で、「鬼子」や「亡霊」とみなすべきではない。
 新文学者の中にも、木刻をたしなみ、版本を研究し、蔵書印の蒐集、
駢儷文で口語の手紙の序を書き、机上に骨董の置物を置く人もおり、
豊氏のおっしゃるような考えからすると、まさか彼らは、
『「今の雅」を以て、天地の間に立足せんとするか』とでもなるのだろうか。
 彼らには必ずしもそんな企図はないだろう。
最後に、豊氏のあの文章が私の為ではないことを希望する。
   10月8日「自由談」
訳者雑感;
 魯迅は「狂人日記」を口語文体で書いて、中国の新文学者一号となった。
それでも「狂人日記」の序文のところは、些か文語的ではあるが。
施氏の指摘するように、彼の瓶(文体)は新瓶だと言えるが、
中の酒はブランディではなく、中国古来の五加皮か紹興酒の成分が残っている、
というのは確かにその通りだろう。その成分はといえば古典に違いない。
今2-3頁の雑文を翻訳していても、その中に必ず複数の古典からの引用があり、
人民文学出版社の注がなければ読解困難な物が多いのも事実だ。
 魯迅はこういう古典の句を原典に当たりながら引用しているのもあろうが、
多くは、彼が幼い頃から暗誦した「科挙のための読書」での蓄積があるからだ。
彼は原典を見ずに書いているのもあるが、原典に当たって調べるという作業の前に、
確かあそこにこういう句があったと記憶の底から思いだせるのは、読書の結果だ。
だがそれを使えこなせたとして何になろう、というのが彼の口癖だが。
 
 ここで魯迅が批判しているのは、遺少(古雅を好む若者)の気風である。
それは、光緒末に何とか富国を果たし、外国から侮られぱなしの中国を、
強くしたいとの願望から、新しい西洋の学問を取り入れようとした「新党」の人々、
其の人たちに讃辞を捧げようとする彼からみると、全くの後退であり、
進化論の生存競争からすると、前進しようとしているのに、逆走なのである、
と、魯迅は批判している。
      2012/08/10訳
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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3重なりの感旧

3重なりの感旧
  ――1933年に光緒末年を回想して   豊之余
 私は、過ぎ去って行った人たちに讃辞を贈りたい。
だがけっして(守旧者が昔を懐かしむ)「骸骨の未練」などではない。
 過ぎ去って行った人とは、光緒末年の所謂「新党」の人たちで、
民国初年には彼らは「老新党」と呼ばれた。
日清戦争に負け、彼らは自ら覚悟を決め「維新」しようとした。
3-40才の中年も「数学談義」を読み「化学原鑑」を読んだ:
英語や日本語を学ぼうと、ぎこちない舌を使い怪しげな発音で朗誦し、
それを周囲の人に恥じることもなかった。
目的は「洋書」を読む為、洋書を読む由縁は中国の「富強」を図る為。
今も古本屋の棚に偶に「富強叢書」が並んでいるが、それは現在の、
「表現字典」「基礎英語」の類と同じで、当時の機運に応じたものだ。
八股(科挙)出身の張之洞さえ繆(ビユウ)荃孫に「書目問答」を代作させた。
その中で、全力を尽くして各種の翻訳書を取りいれており、
そのころの維新の風潮の烈しさがよく伝わってくる。
 然し現在、これとは別の現象が生じて来た。一部の新青年の境遇は、
「老新党」とは全く違うし、八股の毒に少しも染まっていない。
学校も出ていて、国学の専門家でもないのに、篆書を学んだり、
(楽府から変化した)詞曲をつくり、「荘子」「文選」を読めと人に勧め、
封筒も自分で印刻した印板を持ち、新詩も(字句数をそろえて)、
見た目に四角い形に作っている。新詩を作るという嗜好を除けば、
光緒末年の雅人とまったく同じである。
違うのは辮髪が無いのと、時に洋服を着ることだけだ。
 近年よく「古い瓶に新酒は入れられない」というが、そうでもない。
古瓶に新酒を入れることもできるし、新瓶に古酒を入れることもできる。
信じられなければ、五加皮とブランディを入れ替えてみればわかる。
五加皮(白酒)はブランディの瓶にいれても五加皮だ。
この簡単な試験で、只単に「五更の調べ」と「攅十文」の格調(の詞)も、
新しい内容に入れ替える事ができるだけでなく、新式の青年の体内にも、
「桐城派の鬼子」や「選学の亡霊」の子分を潜ませられる事を証明している。
 「老新党」の見識は浅陋だったが、目的が明確で:富強を図ること。
それゆえ彼らの意志は堅固切実で:外国語を学ぶのも怪しげだが目的は:
富強の術を求めること。だから真面目で熱心だった。
排満論が広まるにつれ、多くの人が革命党になったが、それも中国富強の為に、
まずは排満から始めなければと考えたからだった。
 排満は成功し、五四運動もとうに過去のものとなった。
そこで篆書、詞、「荘子」「文選」古式封筒、四角い形の新詩、
そして今また新しい企図が出てきて、「古雅」を世の中に広めようとしている。
もしこれが実現したら「生存競争」に新しい例が添えられることになろう。
     10月1日
 
訳者雑感:
10月になると、魯迅は決まって清末の「新党」の先人のことを思い、
彼らのために何か書かねばと、旧事に感じるものがあるようだ。
彼が今日あるのは、清末の「新党」の人々の御蔭である。
新党たちの「富強」を図るための血の出るような努力と犠牲の結果、
洋書を学んで国を強くしようとする運動が起こった。
 科挙受験の為に「古典」(儒教主軸の伝統文学)を勉強してきた魯迅は、
祖父の贈賄嫌疑での入獄・父の病死で家は没落し、科挙の勉強を諦め、
1898年戊戌変法の年、18才で南京の江南水師学堂に給費で入った。
翌年、陸師学堂敷設の鉄路学堂に移り、1902年国費で日本に留学した。
科挙を諦め、西洋の学問をしに行くことは、魂を売り渡すようなもの、
というのが当時の世間の目であった。
 魯迅のそうした青春時の洋書勉強時代も、相変わらず科挙は続けられ、
1905年にやっと廃止された。儒教主軸の国学では、西洋に立ち向って、
国の富強を図ることはできないことが、ようやく認められたのだった。
しかしそれも30年ほどたつと、再び「古雅」を世に広めようとする動きが
出て来た。
「荘子」「文選」を読んで、古い伝統の雅を天下に広めることが、
もしも実現したなら、それは「進化論」の「生存競争」の判例のなかで、
古雅なものが新しいものに取って替るという判例を作ることになる。
 
中国は孔子以来、復古的な考えが強く、範を遠い昔に求めてきた。
満州族の王朝を倒して、維新を行おうとした「光緒末年の先人」たちが、
過ぎて行ってからいくばくもせぬうちに、もう復古の動きが出て来た。
これが1933年、3の重なった年の感慨だった。
      2012/08/06訳
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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曲芸を見る

曲芸を見る    游光
 私は「曲芸」を見るのが好きだ。
曲芸師は旅回りだから、各地の芸はたいてい同じで、
稼ぐには必ず二つの出しものが要る:クマと子供だ。
 クマは餓えて痩せこけ、ほとんど跳びまわる力も無さそうで、
もちろんこれは強壮にさせぬためで、もしそうなると御せないからだ。
半死の状態だが、それでも鉄輪で鼻を穿たれ、綱で繋がれ、芸を見せる。
時々少しの餌をもらえるが、それは饅頭の皮を湿らせた小片で、
尚かつ杓子で高くかかげ、クマを立たせ、頭を伸ばし、口を開けさせ、
長いこと苦労してやっと腹に入る。
曲芸師はそこでお金を集める。
 このクマの曲芸は中国人が始めたのではない。
西洋人の調査によると、まず小熊を山から捕えてくる:
大人のクマは使えない。大きくなってから野性をなおすことはできない。
小熊もやはり「訓練」が必要で、「訓練」方法は「打つ」と「飢え」で、
その後、虐待により死んでゆく、という。
 これはその通りだと思う。クマは曲芸をしている時、痩せ衰えて、
クマの気息すらない。所によって「狗熊」と蔑称されている。
 子供が出て来るのも、たいへん苦しそうで、大人が腹の上に乗っかり、
両手をねじられ、とてもつらそうに困り切った顔をして、
観客の救いを求める。
6枚、5枚、更に4枚、3枚…が投げられ、曲芸師はそれらを集める。
子供はもちろん訓練されていて、苦痛もそのふりをしているだけで、
曲芸師とグルになって騙しているのだが、金の為には止むを得ぬ。
 午後の銅鑼で開演し、このような芸を夜まで演じる。
幕を下ろすと客は散る。銭を出したのもいるが出さぬものもいる。
毎回幕が下りた後、私は歩きながら思う:
二つの出し物の内、一つは虐待されて死に、次の小熊を探してくる:
もう一つの方は、大人になったら、別な子供と小熊を探してきて、
旧来通りの曲芸をする。
事はまことにたいへん簡単だが、少し考えるとどうも索然として味気ない。
しかし私はよく見にゆく。これ以外に何を見ろというのか?諸君。
      10月1日
訳者雑感:
魯迅は毎回見終わった後、味気ないと感じながら、しばしば見に出かけた。
アメリカ映画のターザンものも何回も見に出かけている。
他に娯楽が無かったのだろうが、何度も見に行っているようだ。
中国語の題は「看変戯法」で辞書には手品と訳されている例が多い。
しかし本文の2つの出し物からすると曲芸とか曲技のようだ。
銭を稼げるのはクマと子供だが、他の出し物もいろいろあったろう。
今日、上海雑技として世界的に有名になったが、この雑技と言う言葉は、
新中国になってから、周恩来か誰かが命名したものと聞いたことがある。
それ以前は「変戯法」と呼ぶのが一般的だったのだろう。
それでこうした出し物をいろいろ調べてみた。
馬戯はサーカス、戯法は手品、魔術、奇術、口技は声色や物まね、
走網絲は綱渡り、車技は曲のり、これ以外にも猿回しとか雑多な曲技、
曲芸があり、百戯とも言う。ハラハラドキドキさせる技だ。
動物と人間の曲芸を2-3時間で見せるのが雑技だ。
魯迅はクマと子供だけでなくいろいろな雑技を見るのが好きだったのだろう。
本文で2つ取りあげたのは、曲芸師の収益源がこれらだと思ったのだろう。
雑文を生計の収益源にしていた魯迅が後に雑技と呼ばれるようになる戯法、
百戯を見るのが好きだったのも何か縁がありそうだ。
京劇のオリジンは元曲といわれるが、宋元時代に雑劇と呼ばれていたそうだ。
雑誌、雑貨、いろいろなものを取り混ぜる。
中国語で雑家とは日本語の雑学家のこと。雑は面白い。雑感も。
     2012/08/04訳
 
 
 
 
 
 
 
 

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使用禁止と自国製造

使用禁止と自国製造 孺牛
 新聞報道では、鉛筆と万年筆の輸入が増えたため、
いくつかの地域ではすでに使用が禁止され、毛筆に改められた由。
 いま暫く、飛行機や大砲、米国産綿と麦も国産品ではないじゃないか、
という迂遠な話はさておき、紙と筆だけについて書く。
 書家の書く大きな字や国画の名人のことはさておいて、
単に実際に事務処理する人たちについて書く。
彼らにとって、毛筆はとても不便だ。硯と墨は携帯せず、墨汁にするか、
というが、墨汁といっても国産品じゃない。
私の経験では、墨汁も常用はできない。数千字書くと筆が膠で固まり、
すらすらと書けなくなってしまう。
硯を置き、墨を磨り、紙をひろげて筆を舐めなめ書くとなると、
学生の講義筆記を例にとっても、速さは万年筆の三分の一は遅くなり、
うまく筆記できないから、教師はゆっくり話し、それだけ時間が無駄になる。
「便利」というのは、決して怠けるわけではなく、
同じ時間内により多くの事ができる。即ち時間の節約によって、
人間の限りある命をより有効に使えるから、寿命を延ばすに等しい。
古人曰く:「人が墨を磨るに非ず。墨が人を磨る」とは人生を紙墨の中で、
消磨することを悲憤しており、万年筆の登場は正にこの欠点を補うものだ。
 だがこれは時間と生命が大切にされている所で使われねばならない。
中国はそうなってはいない。これはもちろん国産品ではない。
輸出入される貨物については統計帳簿があるが、(輸入が増えた事を指す)
人口については一冊の帳簿すら無い。
一人の人間の生育と教育に、両親がどれ程の物力と気力を使うことか。
若い青年男女がしばしば(誘拐で)行方不明になっても誰も気にしない。
時間が余計かかる事などは何ら問題無いとして、毛筆で暮らせれば、
或いは却って幸福かもしれない。
 中国と同様、これまで毛筆を使ってきた国に日本がある。
しかし日本では今毛筆はほとんど無くなって、鉛筆と万年筆が使われ、
それらの習字帳もとても多い。なぜか?便利で時間が節約できるから。
彼らは「古来の権益が流出」するのを心配しないのか?
心配しない。彼らは既に自分で作って、中国に運んでこようとしている。
 良い物なのに、国産でないと中国は使用禁止し、日本はまねて作る。
これは両国のはっきり異なる点だ。 
 9月30日
 
訳者雑感:
1933年当時、中国は万年筆と鉛筆を生産できなかったのか。
魯迅によれば、日本はそれをまねて作って中国に運ぼうとしている。
輸入を禁止すると外国からクレームされるから、使用禁止となる。
多少時間がかかるが、ゆっくりと毛筆で書けばよいではないか、
毛筆で書くという伝統と権益、即ち毛筆文具製造体系と製造業が
無くなってしまうことを心配しなくて良いか?
という方向に議論が傾いてしまう。国粋主義の主張だ。
 
戦後20年経って、中国を訪問し、上海の文房具屋で売っていたのは、
パーカー万年筆と瓜二つのものであった。
魯迅が本文を書いた後、パーカー社が上海で製造を始めたのを、
戦後に接収して、同じものをまねて作りだしたものか。
魯迅が日本とはっきり異なる点と指摘している「まねて作る」、
ということは、この30年間で、大きな変貌を遂げた。
万年筆に止まらず、ブランド品や家電製品などが世界を席巻している。
      2012/08/03訳
 
 
 

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喫茶 

喫茶  豊之余
 某公司がまた大安売りというので、上等の茶葉を2両買った。
1両20銭(洋銀で)。急須にいれ、冷めぬように綿入れで包んで大事に扱い、
さて飲んだところ、味は普段の安い茶と変わらず、色も澄んでいない。
 私は間違ったと悟った。良い茶を飲むには、蓋つき茶碗でなくちゃいけない。
それで茶をいれたら、果たして色も澄み、味も甘くて微香がたちこめ、
苦みも無く確かに良い茶だった。
但しこれは静かに座って、無為な時に飲むべきで、「喫教」を書きながら、
手にとって飲んだりしては、せっかくの良い味も知らぬ間に通り過ぎてしまい、
安ものの茶と同じみたいになった。
 うまい茶を飲む。うまい茶を飲めるというのは、「清福」である。
だがこの「清福」を享受するには、ゆったりした時間がなければならないし、
特別な感覚を磨くことが大切だ。
この極めてつまらぬ経験から、肉体労働者が喉の渇いて裂けそうな時に、
龍井の芽茶、珠蘭の香りの茶を与えても、只の白湯となんら違いはないと思う。
所謂「秋の思い」も実はこれと同じで、詩人墨客が「悲しいかな、秋の気は」、
と感じるのも、風雨や晴陰もすべてある種の刺激で、一面では「清福」だが、
老いた農夫は、例年その頃は稲刈りの季節だと知るだけである。
 それゆえ、この繊細で鋭敏な感覚は、無論粗野な人たちのものではなく、
上等人の印だと考える人がいる。
しかしまさにこの印こそが倒産の予告だと、私は心配している。
我々には痛覚がある。それで苦しむのだが、自衛もできる。
もし痛覚が無いと、背中を尖刀で突かれても、知覚がなく、血が尽き倒れるまで、
なぜ地に倒れたか分からない。
だがこの痛覚が繊細鋭敏になると、服の上からでも小さな刺でも感じるだけでなく、
服の縫い目、結び目、布毛も感じ、「無縫の天衣」をまとわないと、
終日何かに刺されているようで、生きてゆけないことになる。
しかしその振りをしているのは、無論この例ではない。
 感覚の繊細鋭敏は、鈍感に比べればとうぜん進歩といえるが、
それはもちろん生命の進化の助けになる限りという条件がつく。
もしそれが互いに関係がなく、障碍にさえなるようであれば、
それは進化の段階における病態で、暫くすれば行き詰まるだろう。
清福を享受し、秋の心を抱く雅人と、破衣粗食の粗野な人を比べてみれば、
畢竟、いずれが生き残れるか分かる。茶を飲み、秋天を望みつつ、考えた:
うまい茶も知らず、秋思もないのも、却っていいじゃないか、と。
9月30日
訳者雑感:
喫茶店というのはいつごろから始まったのだろう。
最近は欧米系のチェーン店との競争で、従来からの古い店がずいぶん減った。
マスターが隠退するとママが継ぐが、ママが倒れると閉店となるようだ。
本文の現代は「喝茶」で、これは華北地方で使い、華中・華南は「喫茶」、
広東では「飲茶」というと辞書にある。
日本は宋代に禅宗の和尚が持ち込んだから「喫茶」というのだろう。
それまでは、何を飲んでいたのだろう?
ただの水か沸かした白湯。これさえあれば生きては行ける。
鋭敏繊細な感覚は進歩といえるが、上等な茶が飲めないと、生活に潤いが無く、
生きていてもつまらないと感じるほどだとなると問題である。
 茶で命を落とした人もいる。
茶の交易で財を成した人もたくさんいる。
茶の税金を巡って英本国から独立を果たした国もある。
その茶の輸入代金の支払いに困って、代わりにアヘンを売りつけた英国と、
戦争を始めて負けた国もある。
繊細鋭敏な感覚を身につけず、白湯のままで暮らしていたら、
米国の独立や清朝の滅亡もだいぶ後のことになっていたかも知れない。
茶があったから、世界史の進行が加速されたと言えようか。
     2012/08/01訳
 
 
 
 

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喫教(宗教で食う)

喫教(宗教で食う)   豊之余
 陳子展氏は「文統の夢」で、劉勰(キョウ:南北朝時代の文芸理論家)が、
孔子に随った夢をみて、論文を書き始めたが、後に和尚になったために、
遂に「貽羞往聖」(出版社:羞じを往聖である孔子に貽(オクッタ))と譏った。
 だが中国は南北朝以来、凡そ文人学士道士和尚はたいてい「特に節操なし」
を特色としてきた。晋以来の名士はめいめい三つの玩意を持っていた。
一つは「論語」と「孝経」、一つは「老子」、もう一つは「維摩詰経」で、
文章を書く時に採りいれ、話しのネタにするのみならず、堂々と注釈も作った。
唐代に三教弁論が出たが、後にみんな戯れ文のごとくなり:
所謂名儒が伽藍の碑文を書くのも大した問題にもならなくなった。
宋儒もゆったりした顔をして、禅師の語録をぬすんだ。
清代はそんな昔じゃないから、儒者が「太上感応篇」と「文昌帝君陰騭文」を
信じて、さらには和尚を家に招いて、読経してもらったことを知っている。
 耶穌教が中国に伝来し、教徒は自ら信教していると考えていたが、
教会の外の大衆は、彼らを「喫(洋)教」(外国の宗教で暮らす)と呼んだ。
この二字はまことに教徒の「精神」を表し、また大多数の儒釈道教などの信者も、
含むことが可能で、又多くの「革命で食っている」老英雄にも転用できる。
 清朝人は八股文を「門を敲くレンガ」と称し、功名を遂げることができたら、
即ち門が開けたら、レンガは無用となる。
これを最近のことに比するなら、雑誌に載る「主張」がそれにあたる。
「現代評論」の身売りも、圧力からでなく、この派の作家の出世の為であり:
「新月」の凋落も古い同人が皆「出世した」為、月との距離が遠くなったからだ。
この種の本を「門敲きレンガ」と区別するため、「天に昇る梯」とする。
 「教」の中国におけるや、こう言う点から何の違いがあるだろうか。
革命を講じるもいっとき:忠孝を講じるもいっとき:
大ラマの後について圏を回るもいっとき:塔を建てて蔵にする主義もいっときだ。
一つの教えを専らにしているのが良い時は、一つの本尊に帰依し、
いくつかを併せている方が良い時は、諸教もまた大きな差異は無いし、
一皿は鴨の丸焼き、もう一皿はとりあわせにするだけにすぎぬ。
劉勰もまた然り、蓋し僅かに「生姜を下げずに食す」(孔子の飲食習慣)から
一変して精進料理となっただけだが、もともと胃の容量には差は無い。
いわんや、和尚、以て「論語」「孝経」或いは「老子」に注するも、
なんぞ一種の「天経地義」(天の教え、地の道義)たるを失わんか?
      9月27日
 
訳者雑感;
喫茶と喫飯は茶を飲み、メシを食うことだ。
題名の喫教とは上の伝なら、教えを食う意だが、宗教を食い物にするとなり、
新華漢語辞典には「新旧のキリスト教を信じることを称す。
当時のある種の信者が教会の勢力を利用し、生計を立て、利を謀った、
などの風刺や誹謗の意味も含む」とある。
 魯迅が本文で言いたいのは何だろうか?
当時の上海でキリスト教信者としてはばをきかせていた多くの中国人を、
教会の外の大衆は「喫教」と謗っていた。
だが、中国は古来「無節操な」儒者・道士・和尚などが、
三つの玩意を適当に使って食ってきたではないか、と指摘し、
キリスト教で飯を食うのも、何の違いも無いといっているようだ。
ちなみに喫洋飯は外国人のところで働いて生計を立てることだが、
日本のビジネスマンが欧米人と商談の後の会食を「ヨコ飯」を食うという。
本音は日本食を食べたいのだが、連日、ヨコ飯で胃がもたれるとこぼす。
      2012/07/31訳
 
 

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印象はいかが?

印象はいかが?   桃推
 五四運動以後、中国人に新しいクセができ、有名な外国人や偉い人が、
初訪中すると、中国についての印象を聞きたがるようになった。
 ラッセルが中国で講義をするというと、急進的な青年達は歓迎会を開き、
印象を聞いた。
ラ氏は「こんなにもてなしてくれるので、悪口を言おうにも言えません」と答えた。
急進的青年達は憤然として、彼はずるいと言った。
 バーナード・ショ―が中国を周遊した時、上海の記者が印象を聞いた。
ショーは「どんな意見を言ったとしても、あなた方には関係ないでしょう。
もし私が軍人で十万人を殺したら、私の意見を尊重してくれるでしょうが」
革命家も非革命家も皆憤然とし、彼を辛辣だと言った。
 今回スエーデンのカール親王が上海に来、記者は彼の印象を記した:
「訪れた所すべてで官民の慇懃な歓待を蒙り、感激し、大変愉快でした。
今訪問で、貴国政府と国民にとても良い印象を持ち、永遠に磨滅しないでしょう」
これは最も穏当で一点の非も無いものだ。
 だが、ラ・ショ―両氏もずるいとか辛辣だとは言えないと思う。
印象はいかが、と聞かれた時、その外国人が答える前に、
「あなたの自国に対する印象はどうですか?」と問われたら、返答に窮すだろう。
 我々はこの国で生まれ育ったから、所感があっても、それは「印象」とは言えず、
意見としていうことになり:それをどう表現すればよいか:
我々は濁水に棲む魚で、いいかげんなその日暮らし、わけも分からぬ状態でなど、
意見とも言えない。中国はとてもいい国だ、というのも難しい。
これが、愛国者が悲しむ所謂「国民的自信喪失」だが、実際に喪失したようであり、
人に印象を聞くのは、おみくじで吉凶を占ってもらうようなもので、
自分の心では、狐疑しているからである。
 意見表明する人もいるが、よく見かけるのは、腕力も勇気も無く、
「十万人も殺した」こともない「小市民」と称する人だから、
誰も彼の意見を「尊重」しないから、みんなとは「無関係」である。
勢力のある大人物は、在野の時には急進的だったかも知れぬが、
今や一声も発せず、中国は「私にこんなにも良くしてくれているので、
悪口を言えといわれても言えない」状態である。
当時、ラ氏の歓迎宴で憤然としながら、新潮社から勢力をつけて出世した、
諸公の現在を見ると、実際問題、ラ氏はけっしてずるいとは感じないし、
先見の明がある風刺家で、10年後の今の気持ちを予め述べたことが分かる。
 これが私の印象、摸儀解答で、外国人の言葉を引用したものだ。
(出版社:これは某氏が魯迅の雑文は内山の談話の中から取って来たものだ、
という批判に対する意趣返し)    9月20日
 
訳者雑感:
 初めて訪中した外国の著名人に、中国の印象は?と聞くのが流行したらしい。
1920-30年代の中国を訪問した著名人は大変多い。
当時は船で世界を回るから、長い時間をかけ、日本やインドなどにも寄港した。
アジアの病夫と揶揄されながらも、都会に住む新聞を読むような階層は、
大抵、カール親王のような模範解答を期待していた。
上海は当時アジアで一番繁栄していた大都会であった。
しかし、ラッセルやショーは決してカール親王のようなコメントは出さなかった。
彼らに「中国はなかなかうまくやっている」と褒めてもらうか、
或いは改善すべき点を指摘してもらいたい、とかを期待していたのだが、
彼らからは何もコメントすらもらえなかった。
それが愛国主義者の悲しむ所である所謂「国民的自信喪失」である。
外国人に自国に対する印象を聞くのは「おみくじ」を引くようなものだ、
というのは、自分の考えに自信が無いから、確固とした自分の考えを、
持っていないことの証であり、そんな状態で人に印象を聞いても始まらない。
    2012/07/30訳
 
 

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