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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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知識過剰

知識過剰    虞 明
 世界は生産過剰で経済恐慌にあえいでいる。
同時に3千万以上の労働者が飢餓に飢えているが、
食糧過剰も相変わらぬ「客観事実」である。
さもなくば、米国は決して我々に小麦粉を掛け売りしないだろうし、
我々も「豊作災害」になどならないだろう。
 然るに知識も過剰で、知識過剰により恐慌も拡大した。
一説には、中国の現在の教育を農村で提唱すればするほど、
農村の破産は速くなるという。
これは知識の豊作が禍をなすということ。
米国は綿花が安価なため、綿花畑をつぶした。
中国は知識をつぶすべし。これは西洋伝来の妙法だ。
 西洋人は能力があり、5-6年前、ドイツは大学生が多すぎるとして、
政治家と教育家は声を大にして、青年に大学には行くなと呼びかけた。
今、ドイツは勧告だけでなく、知識をつぶしに入っている。
例えば、一切の書籍を焼却し、作家に自分の原稿を腹に飲み込ませ、
更にはおおぜいの学生を兵舎で労働させて、「失業問題解決」としている。
 中国も法文系学生が過剰だと叫んでいるではないか!
実は法文系のみに止まらない。高校生も多すぎる。
「厳格」に入試を実施すれば、鉄の箒で一掃すれば、
大多数の知識青年を「民間」に掃き出すことができる。
 知識過剰がなぜ恐慌をもたらすのか?
中国は80-90%文盲ではないのか?
然るに、知識過剰は終始「客観事実」で、その為の恐慌も「客観事実」だ。
 知識が多すぎると、気持ちが活発にならなければ、すぐ落ち込む。
活発だと色々考え、落ち込むとしんどいことはしたくなくなる。
その結果、自分を沈静できぬと、他人の沈静を妨害するようになる。
 それで禍が起こる。それゆえ知識も一掃せねばならぬ。
しかし一掃するだけでは足りない。予め実用に適した教育を施さねばならぬ。
第一は、命理学で――楽天知命、運命は辛くとも、楽しむべし。
第二は、識相学で――「相を認識」すべしで、近代武器のすごさを知るべし。
少なくともこの2種の実用的な学問を早く提唱すべし。
その方法はとても簡単――古代哲学者が唯心論に反駁して言った。
この碗の麦飯の物質的存在を疑うなら、一番良いのは食べて満腹するか否か、
をみさせることだ。
今例えば電気学を学ばせるには、電気に触れさせて、痛いかどうかを見:
飛行機などの効用を分からせるためには、頭上を飛ばせて爆弾を落とし、
死ぬかどうかを見させることだ。…
 このような実用的教育をすれば、知識はもう過剰ではなくなる。アーメン!
       7月12日
 
訳者雑感:
 世界大恐慌はどうして起こったのか?
生産過剰で、豊作貧乏、その一方で3千万の労働者が飢餓にあえぐ。
その大本は知識過剰というのが本文の趣旨。
文盲が80-90%という農村に現行教育を施すと、農村は破産するという。
農民が農地を耕さなくなり、都会に出稼ぎに出、農村は消失してきた。
過去2千年の過程は、戦乱で押しだされた人々がどんどん国の周辺に移住し、
そこで生きてゆくために米や麦を植えて命を保持してきた。
 それが20世紀に入って、教育が普及し、知識過剰となって、
気分が活発な時は色々なことを考えるが、落ち込んだ時はしんどいことはしなくなる。
しんどい事というのは農作業であり、肉体労働だろう。
 魯迅が掲げた2つの実用に適した学問は、頭でっかちで、実際に適さぬことを記憶するだけの伝統的な中国独特の学問を一掃せよ、と訴えているものだろう。
    2012/06/05訳

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古帳簿の検査

古帳簿の検査     旅隼
 ここ数日、聴涛社が「肉食者の言」を出し、今政権にいる者たちが、
在野時の言論を載せ「その時の言動を聴き、その行いを観」て、
前後でどう違うかを示した。
又同社の週刊「涛声」も良く同じ様な文章が出ている。
 これは古帳簿の検査で、帳簿をめくって算盤をはじいて決算し、
前後で符合せぬ所を調べ、どう違うか、明確に分かるから、
逃げ隠れのできぬやり方である。
だが今やこれも「古いやり方」の感がする。
 古人もこの種の検査を怖れ、蜀の韋荘が困窮時に、梗概激昂して、
どちらかと言えば通俗的な「秦婦吟」を書き、大いに伝誦されたが、
出世後には自分の作品集からはずしただけでなく、他人の抄本すらも、
何とかして消滅させようとした。
当時それがうまくいったかどうか知らぬが、清末に敦煌の山洞から、
この詩の抄本が発掘されたことからみれば、
その努力もむなしかったが、苦心したことは分かる。
 これは古の名人の話。常人はそうはゆかぬ。
古帳簿を抹殺しようとしたら、まず自分の首を切って、生まれ変わらなければならぬ。
死刑囚が刑場に運ばれる時、大声で「20年後に男一匹!」と叫ぶのは、
新たにカマドをこしらえ、新しく生まれ変わるためには20年経たねばならぬ。
まことに面倒なことではある。
 これは古今の常人のことに過ぎない。現在の名人はこれとは違う。
古帳簿を抹殺し、新しい人間に生まれ変わるには、常人に比べると、
手紙と電報との速度差がある。
すこしゆっくりで良ければ、洋行し、寺を建て、病を得、数日山に遊ぶ:
速くしたいなら、会議を開き、詩をつくるもよし:
更に速くしたいなら、自ら頬を打ち、涙を流し、例によって別の人間に変わり、
「昔の私」とは関係を断ち切る。
浄壇将軍(猪八戒)は身をゆすって一変し、フナに化し、
女妖たちの大腿の間を遊泳し、作者は自分ながら入神のできと思いあがるが、
今からみれば何も新奇なものはない。
 こんな変法するのが面倒なら、目を白くして反問し:「これが俺の帳簿?」
そんな面倒すら嫌なら、目も白くせず、反問もしない。
 最近の流行は後半で、「古道」がどうして今の世に行われよう!
まだ読経を主張する人がいるが、何の意味があるのか不明である。
一晩過ぎたら、兵隊になれと言いだすやも知れぬ。
だから私は今、もう経も買わないが、だからといって明日兵にとられることも無かろう。
      7月25日
訳者雑感:
 出版社注によると、「肉食者」とは高位高官を指し、時の政権にいるものが、
在野時に当時の政府を糾弾する文章を書いておきながら、妖術を使うかのごとく、
「過去の自分」とは関係を断つ輩をいう。
 古帳簿の検査とは、1949年以後もたびたび行われた。
そのときに、自己批判(自我検討という)していともあっさりと、
「私の書いたものをすべて否定する」と公言して、肉食者の地位に留まった者が、
大勢いた。
1968年夏、訳者が北京を訪問したとき、
陳毅氏と郭沫若氏が我々の前に現れて、偉大な文化大革命の魂に触れて下さい、
という趣旨のことを話してくれた。
 その後、しばらくしたら陳毅氏は批判され、死亡した。
その葬儀に現れた毛沢東は、突然の知らせで喪服が間に合わなかったのか、
彼が部屋着として愛用したガウン姿の影像が残っている。
陳毅は古帳簿の検査に対して、毅然として対応したのであろう。
一方の郭沫若の方は、どうであったか?
今彼を評価する人は少ない。
       2012/06/04訳
 
 
 
 

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「押す」の余談 

「押す」の余談      豊之余
 「第三種人の『押す』」を読んだ所感を下記する:
(魯迅が以前に書いた「押す」に対する寥氏の文章を指す:出版社)
確かに現在「押す」ことが激しくなりますます増えてきた。
30年前、長江の汽船の三等船室によく乗ったが、これほどまで、
(寥氏の言うように)むちゃくちゃ「押す」ことはなかった。
 当時、切符は勿論買うのだが、「床」は買うわけではなく、
買う時もあるが、それは又別の話しである。
「床」が取れないのが心配なら、行李を持って早めに上船すれば、
三等はガラガラで客は3-5人しかいない。
しかし行李を空いた床に置こうとすると、みな塞がっていて難儀する。
ここには天秤棒、あそこは縄の束、そこには破れたムシロ、
その先は胴着が置いてある。
数人の中から一人がやってきて、ここは彼が占有しているという。
だがその時、交渉により平和裏に彼を買収でき、8角出せば買える。
もし闘うつもりがあるなら、いともたやすく応対できる。
一声も発せず、その近くに座りこみ、銅鑼が鳴れば汽船は出帆。
そこいらにいた床取りの連中は、天秤棒やムシロを手に、
煙をまいて岸に向かい、売れ残った空床を抛りだして去る。
そこで悠然、行李を置いて眠ることができる。
 もし人の数が床より多い時は、その傍らや船尾で寝るのだが、
「第三種人」は「押し」には来ない。
2等船室の外で休んでいる人は、検札時に3等船室に避難しなければならない。
 切符を買ってない人は、間違いなく「押」し出される。
その手順は物品没収後、マストか柱に吊られ、ぶたれるような雲行きだが、
私が目撃した限り、本当にぶたれるのはごく稀である。
たいてい次の埠頭で彼を「押し」だす。
 ボーイの話しでは、貨物室に「押し」こんで、乗船した埠頭に戻す、
というのもあるが、彼らはそうしたくない。
次の埠頭で「押し」だすのだが、彼らは少なくとも、一つの埠頭は進めた訳で、
こうして一つ一つ「押さ」れてゆけば、辛いけれども最終的に目的地に着く。
 昔の「第三種人」は今より人が良いようだ。
生活に圧迫され、苦しめられた結果、考えがいい加減になってきて、
自分の仇敵が誰か明確にできず、家人も通りすがりの人すらも、
自分の道を遮るものだと考えて、「押す」のだ。
 自己保存の為だけでなく、他人を憎み始める。
この類の人は羽振りがよくなると、外出の際は「道を清めろ」と言いだす。
 私は過去に眷恋しているのではない。
現在「押す」行為がひどくなり、増えて広がった、というに過ぎぬ。
 将来、羽振りのいい連中が私を「反動」と言う名の埠頭に押しだすことの
無いようにしてくれれば、幸である。
       7月24日(1933年)
 
訳者雑感:
 魯迅は16才で父を亡くし、18才の時、母よりの路銀を手に、
南京の江南出師学堂の給費生となるべく、紹興を出て長江を汽船に乗った。
本文からすると1902年22歳で官費留学生として日本に渡るまで4年間、
何回も故郷と南京の間を往復したであろう。
 当時の三等船室がどういうものか正確には分からないが、
粗末な床がずらっと並んでいて、切符の枚数分はあったのであろうが、
汽車と同じで早い者勝ちだったのだろう。
そこに席取を商売にする輩がいて、先に来て床に何かを置いて占拠し、
後から来た乗客から何がしかをせしめていたわけだ。
 訳者は2009年に重慶から三峡下りをした。
夕刻、やっと船室に入り、さあ着替えて夜景を見に行こうとしたら、
ボーイのような格好をした男が、入ってきて言うには、この部屋は先ほど自分がきれいに掃除をしたので、チップを寄こせという。
いくらかと聞いたのがまずかった。
魯迅のように一声も発せずにおけばよかった。
外国人だと知ると、「百元」と吹っかけて来た。
百元など相場からしてとんでもないと断ると、50元という。
こちらも馬鹿らしくなって10元なら出してもいいが、いやなら船長に言うぞ、
と電話機を取ろうとしたら、まもなく出帆の銅鑼が鳴ったので、
男は10元でいいとそれをひったくるようにして出て行った。
あとで、切符検査の乗員がきたので、それを説明すると、そいつはもぐりだ。
今後一切ボーイの格好している奴が来ても取り合わぬように、と注意された。
乗船前に聞いていれば、渡さなかったものを。
まあ10元で済んでよかった。
         2012/06/03訳
 
 

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詩と予言

詩と予言       虞明
 予言は総じて言えば詩で、詩人の大半は予言者だ。
予言は詩に過ぎぬが、詩は往々、予言より霊験あらたかである。
 例えば、辛亥革命時に忽然現れたのは:
「鋼刀99本を手に胡児(満州族)を殺し尽くせ」
 この「推背図」(占術で満州族の支配を倒せ)の予言は「詩」に過ぎぬ。
当時わずか99本の鋼刀などということがあろうか?洋式の銃砲がたくさんあり、
当然洋式の銃砲が優勢で、鋼刀しかなければ大敗したにちがいない。
まして当時の「胡児」は「殺し尽く」せていないばかりか、優遇すらしており、
今に到ってもなお「偽」溥儀がしゃしゃり出てくる始末である。
従って予言としてみると、この歌にはまったく霊験はない。
――杓子定規にこの予言に照らして物事を為すと、すぐ壁にぶつかる。
少し前、ほんとうに99本の鋼刀を特注し、前線の兵士に送ったが、
古北口等(熱河近郊、日本軍が華北進攻した地)で血が流れただけで、
国難には立ち向えないことを証明した。
この予言の数え唄を「詩」とみれば、「意を以て志を逆(むか)え、自ら之を得」
ということができる。
 詩の中には確かに極めて真に近い予言がある。
 予言を探すには「推背図」なぞは詩人の詩に及ばない。
多分このごろは又なにかを出させねばならぬ時代のようで、最近こんなのを見つけた。
「此輩の大きな狼は狂犬に従い、平素より人を獣のように狩る。
万人が一たび怒れば、もう挽回は無理で、太白が首に懸かるのを見る」
(汪精衛著「双照楼詩詞稿」:Hugoの「共和2年の戦士」の訳)
これは「机を叩いて絶叫」せずにいられようか。
この「大きな狼は狂犬に従う」というのは、自分は畜生なのに、
他人も畜生だとみて:畜生が狩りをし、人間は逆に狩られる!
「万人」の憤怒はもう押さえられぬ。
Hugoのこの詩は1793年(仏第一共和制)の市制党のことを指しているが、
140年後にもその霊験があろうとは予想もしなかったろう。
 汪氏がこの詩を数句訳したころ、その2-30年後の中国が口語の世界になるとは、
思いも及ばなかっただろう。
今この種の文語の詩の分かる人は少なくなり、大変残念である。
だが予言の妙所は、本当に分かったようで、どうも分からぬとの中間にあり、
もの事が完全にあらたかになった後、「はっと大悟する」のにある。
「天機(天の機密)は漏らすべからず」というやつだ。
       7月20日
訳者雑感:
 古代エジプトなどでも占星術など大変盛んであった。
為政者は次の手を打つに際し、星の運行とか日食とか天体の動きを占って
決めることで権威を保って来た由。
 中国の易というのは星も太陽もいろいろ使ったが、文字を使ったことも他の国
との比較において、面白いことと思う。
 動物の骨(肩甲骨)に筋を入れ、漢字を書いたものが発見されたのは
百年ほど前に過ぎぬが、
これらの甲骨文字は魯迅の言うように、予言であり亦詩でもあったろう。
 予言とか詩は分かったようで良くわからないその間に妙所がある。
どちらにも解釈できるが、ことがあらたかになった時、はっと大悟する。
ああ、あれはこういうことを予言していたのか、と。
       2012/05/31訳
 
 
 
 
 

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もう一人の窃火者

もう一人の窃火者    丁萌
 火の来源について、ギリシャ人はプロメテウスが天上から偸んできたと思っていて、
その為にゼウスの怒りに触れ、高い山の頂に鎖で繋がれ,
大鷹に毎日彼の肉を啄ばまれた。
 アフリカ原住民のWangyamwezi族(意味は月の人:出版社)も火を使用していたが、
ギリシャ人から教わったのではない。彼らにもう一人の窃火者がいたのだ。
 彼の名は誰も知らぬし、早くに忘れられた。彼は天上から火を偸んで来、
W族の祖先に伝えた。その為、タラス神の怒りに触れ…,
ここのところはギリシャ古伝と似ている。
が、タラスの懲らしめ方は異なり、山頂に繋がず、
密かに暗黒の洞穴に閉じ込め、誰にも知らせなかった。
派したのは大鷹ではなく、蚊、ノミ、南京虫で彼の血を吸わせ、皮膚を腫らせた。
そして次に派したのはハエで、奴らは傷口を見つけるのが得意で、
ぶんぶん唸りながら、
夢中になって吸いつき、同時に皮膚にフンを沢山つけ、彼がいかに汚いかを証明した。
 だが、W族はこの故事を知らない。
火は酋長の祖先が発明したもので、それを酋長が、
異端者を焼き殺し、家屋を焼き払うために使ったことしか知らない。
 今日では交通が発達したおかげで、
アフリカのハエのある者が中国に飛来してきて、
彼らの唸り声から、この事について少し聞き出せた。 7月8日
 
訳者雑感:
 魯迅の「華蓋集」に孫文をモデルにしてその死体に群がって、
ぶんぶん唸るハエが出て来る雑文がある。
孫文の死後9日目に書かれた「戦士とハエ」だ。孫文を戦士としている。
アフリカの窃火者は名も無く、忘れ去られているが、革命者ではないとしても、
この世を住み易いようにしようとした戦士だろう。
そういう事をした人を後の人は忘れてしまって、
その火は、異端を焼き殺すことや家屋を焼き払うことに使うことしか知らない。
 W族はタンザニアに住む2百万人程の部族だが、
魯迅はこれをどういう風にして思いついたか、
似たようなヒントから着想したものだろうか。
 
 話は変わるが、原発は第2の火だと言われる。
使い始めたのは現代のプロメテウスだが、
W族の人と同じで、それを天上から偸んできた人の名前を知らぬし、忘れてしまった。
原子力の火を偸んできた人は、W族の故事のように暗い洞窟に閉じ込められて、
蚊やハエに血を吸われ、皮膚はフンだらけで、如何にきたないかを証明されているのだろうか?
 
 英語のAtomとNuclearを原子力と核という別別の漢字を充てて、平和利用と武器用に
使い分けているのは原爆を落とされた日本人の「耳の錯覚」を誘因しているようだ。
元元原爆はAtomic Bombで原子力発電は Nuclear Powerだから、本来は、核発電と
訳すところを原子力発電(原発)としたのは核というと核爆発とか核実験を思い出させて、
拒否反応が顕著になるのを怖れたものか。今回は水素爆発だったが。
 今回の福島の事故はメルトダウンという一般人には分かり難い専門用語のまま使っている。
核爆発を想起させる炉心溶融という漢字はとてもおそろしい感じがする。
炉心で何が溶融しているのだろう。
       2012/05/28訳

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中国とドイツの焚書の差異

中国とドイツの焚書の差異     孺牛
 独のヒットラー氏の焚書について、中国と日本の評論家はこれを始皇帝に比した。
が、始皇帝の焚書は冤罪である。
彼がしくじったのは、2世で滅び、太鼓持ちたちが、
新しい主人のために彼の悪口を一杯並べたてたせいだ。
 確かに始皇帝は本を焼いたが、それは思想統一の為で
農書と医書は焼かなかった:
それに他国から多くの「客卿」(実力見識のある人物)を集めた。
決して専ら「秦の思想」だけを重用したのではなく、各種の考えを広く採り入れた。
秦の人はこどもを大切にしたし:始皇帝の母親は趙の女で
趙は婦人を大切にしたから、
「劇秦」(短命な秦の歴史を劇とみなした)の遺文にも、女人を軽視したような痕跡はない。

 ヒトラー氏は違う。彼が焼いたのはまず「非ドイツ的思想」の書で、
他国からの「客卿」を受容する魄力も無い:
次に性関係の書で、これは科学的な性道徳の解放の研究を毀滅させ、
その結果婦人と小児を古い昔の地位に沈め、光明を見いだせなくなった。
始皇帝の車軌同一、書字同文…の如き大事業に比べ、彼らは何ひとつできていない。

 アラブ人がアレキサンドリアを攻落したとき、図書館を焼いた。
その理論根拠は:その書が講じる道理が「コーラン」と同じなら「コーラン」があるから、
留める必要はない:もし違うなら異端だから留めるべきでない、というものであった。
これこそヒットラー氏たちの正嫡の祖で――アラブ人も「非独的」だが――秦の焚書とは、
比較にならない。

 結果は往々、英雄たちの目論みから外れてしまう。
始皇帝は皇帝を万世続けようとしたが、わずか2世で滅び、農書と医書を赦免したが、
秦以前のこの類の書は、今一冊も伝わっていない。
 ヒットラー氏たちが政権を取り、焚書し、ユダヤ人を虐殺し、尊大になった。
こちらでも黄色い顔の子分達が、それを聞いて大喜びし、被圧迫民族を嘲笑った。
風刺に対して、風刺の冷たい矢を放ち――結局、あからさまに冷酷な尋問をして:
お前たちは本当に自由が欲しいのか?自由が無ければ死ぬ方がましではないか。
今なぜ命を懸けて戦わないのか、と。
 今回は2世まで待たずとも、半年でヒットラー氏たちの門徒はオーストリーで禁止されると
党の徽章も三色のバラに改めた。(33年1月のドイツ・オースリーの合併問題)
最も面白いのはスローガンを叫ぶのが禁じられたため
手で口を押さえ、「口押さえ式」が用いられたことだ。
これは本当に大きな風刺である。誰を風刺しているのかここでは問わずにおく。
しかし風刺も「たわごと」ではすまされないことが分かる。
これを黄色い顔の義理の息子たちに訊いたら、彼らはどういうだろうか。
              6月28日 (1933年)
 
訳者雑感:
 始皇帝が焼かなかった農書と医書の類について、魯迅の文章そのままに理解すると、
秦以前のこの類の書籍は一冊も残っていない、ということになる。その行間にあるのは、
農書医書以外の書籍は壁に隠されたりして、大切にしまいこまれ、
秦滅亡後にとりだされて復刻・再生されたのだろうか。禁じられたものが残り、
赦免されたものは重要性が減った結果、それ以前の同類のものは顧みられず、
棄てられてしまったのだろうか。
 焚書されるという情報が伝わると、大切な物は何としてでも見つからないようにする。
焚書されない昔の農書や医書は、不要となって他の目的に再利用されてしまったのかも知れない。

 それで思うのだが、奈良の正倉院の古文書の中に、役人の付けた出納帳のようなものが、
残っていて、これは地方からの貢物などの品名と数量を書きつけたものだそうだが、
それを裏返しにしたら、なんと鑑真和尚が東大寺の良弁に宛てた「依頼状」だと判明した。
 税金関係の役人たちが、東大寺で反故扱いされた紙を再利用した結果、
今日こんな価値のあるものが見つかった。
 一方の地方から車に載せられて上納された貢物には木の札に
「アワビ何斤」とか記されていたそうだが、
それらは用が済んだら、また削られて再利用され、最後は炊飯に使われたりした由。
 始皇帝の時代の書籍というのは勿論紙の発明前だから、木や竹に記されたものだから、
とてもかさばるし、不要だと判断されたら、何か他の目的に転用されてしまっただろう。
 人間万事塞翁が馬、何が幸いするか分からない。
        2012/05/27訳
 
 
 

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中国ドイツの国粋保持について

中国とドイツの国粋保持について  孺牛
 ヒットラー氏は独国内に他の党の存在を許さず、屈服した国権党すら幸存は困難である、
これは我々の一部の英雄たちを大変感動させ、その「大ナタをふるう」のを称賛している。
 だが実はそれは彼と彼の流派の一面に過ぎず、
別の面ではとても細心の注意を払ってい、
次のような歌が証だ。
 
 ノミが大官になった
 家来を引き連れ各所を巡る
 皇后や女官たちはおそれをなして
 誰も手だしのしようがない。
 さされて痒くても
 押しつぶすわけにはゆかない。
 アッハハ アッハハ アッハハ!
 
誰でも知っている有名な「ノミの歌」の一節だが、ドイツではすでに禁止された。
もちろんノミを尊敬してではなく、大官を風刺しているためだ:
だが風刺が「前世紀の老人のたわごと」だからではなく、
この歌が「非ドイツ的」な為。
中国とドイツの大小の英雄たちは時として彼我の違いを感じざるを得ない。
 中華にも小さなところまで口出しする人間がおり、
微細なところまで思考が及ぶようで、
例えば今年北平社会局が、市政府に対し、女人がオス犬を飼うのを禁止する案を提出し:
「…雌女がオス犬と一緒にいると、単に健康を害すのみならず、恥ずべき醜聞も発生し易く、
我が礼儀の邦として、亦習俗としても許されぬことで、謹んで特令を発し厳禁し、
番犬、猟犬以外は、凡そ婦女はオス犬を飼うものはこれを斬って許さず、取り締まるべし」
 
 両国の立脚点はいずれも「国粋」に基づいているが、中華の気魄は宏大だ。
ドイツではあの歌を歌えないだけだが、中華は単に「雌女:が犬を飼えぬのみでなく、
「オス犬」の首も斬られるのだ。
この影響は狆にとっては大変大きいものだ。自己保存の本能と、時勢のニーズに合わせて、
狆(イヌ)は必ず「番犬、猟犬」のようなものに変わるだろう。 
 6月26日
 
訳者雑感:
狆とは主人に可愛がられようとして、主人の悪口をいう魯迅のような批評家に
向かってキャンキャン吠え騒ぎたてる連中のことを指す。
ドイツのナチスは一党独裁で他党の存在を禁じ、大官を批判するノミの歌を禁じたが、
それは「非ドイツ的」というとても不思議な理由からだ。
 同じころの北京では、社会局というものが市政府に対して、
婦人がオス犬を飼うのを禁じるように提言している。
その理由たるやなにやら怪しげで且つ噴飯ものでもあるが、
こうした提言を出す根拠は「礼儀の邦」としての国粋保持にあるという。
一党独裁と国粋保持。驕りが国を滅ぼすという。
ナチスドイツも国民党の中華民国も、神国日本も独裁の驕りによって破れ去った。
     2012/05/25訳
 
 
 
 

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私の「堕民」談

私の「堕民」談    越客
 6月29日の「自由談」に唐弢(トウ)氏が浙東の堕民を取り上げており、且つまた
「堕民猥談」(猥談は下流の意)の説に拠ると、宋の将軍焦光瓉の部下が金に降ったため、
当時の人たちから軽蔑され、明の太祖の時にはその門に「乞食の家」と書かれ、
その後彼らは悲苦と軽蔑の中で暮らしてきたと言われている。
 紹興生まれなので、堕民は幼小のころからよく見た。父老の口から彼らがどうして堕民
になったについても同じようないわれも聞いた。だが後に懐疑するようになった。
思うに、明の太祖は元に対しても乱暴を許さぬくらい故、一代前の金に降った宋の将軍を、
咎めなかったかのではないか:
彼らの職業は明らかに「教坊」(唐代に始まった
女性の楽隊機構:出版社)や「楽戸」(封建時、罪人の妻女を楽籍者に編入した。
官妓だったが、雍正年間に廃止された:出版社)の末裔だから、
彼らの祖先は明初、洪武と永楽帝に反抗した忠臣義士かもしれぬ。
 もう一つは、善良な人の子孫は苦しみ、売国奴の子孫は必ずしも堕民にならぬことで、
最も身近な例では、岳飛の後裔は杭州で岳王の墓守をして窮乏悲惨な暮らしをしているが、
他方、秦檜、厳嵩…達の後人はどうか?…
 だが今はこうした古証文を引っくり返そうとは思わぬ。
言いたいのは、紹興の堕民はすでに解放された奴隷であり、
それは雍正年間に解放されたというが、確かなことはわからない。
だから彼らは皆すでに職業を持っている。もちろん賤業だが。
男は古物回収、鶏毛を売り、青蛙を捕え、芝居をやる。
女は正月や節句には主筋だと言われて来た家に行き、祝辞を言い、慶弔時には手伝いに行く。
ここに奴隷だった頃の片鱗を残しているが、それが終わると家に帰るが、
頗る多額のねぎらい金を貰うことから、解放されていることが分かる。
 それぞれの堕民が向かう主筋の家は決まっていて、はっきりしており:婆さんが死ぬと、
嫁が行くようになり、後代に伝える。ちょうど遺産のようなもので:非常に貧窮し、
出入りの権利を他人に売らねばならなくなった時、主筋との関係が断絶する。
もし端無くも彼女にもう来なくても良い、というと、それは彼女にとても大きな侮辱を与えたことになる。
民国革命後、私の母が一人に堕民女に「これからは我々は同じだから、もう来なくていいよ」
と言った時のことを覚えている。
彼女はなんと勃然顔色を変え、憤慨して「なんておっしゃいます…我々は千年万代ずっと参ります!」と答えたのだ。
 すなわち、すこしばかりのねぎらい金のために、奴隷となることに安んじ、さらには、
もっと広い意味の奴隷になろうとし、金を出してまで奴隷の権利を買わねばならないとは。
これは堕民でない自由人の全く想像だにできぬことである。  
7月3日
訳者雑感:
 「堕民」という言葉をはじめて知った。
大連の街角にはリヤカーをつけた自転車を漕いで、「かんかんかんかん」
と音をさせて廃品回収をする人達をよく目にした。
回収したものを、交差点の近くの歩道の比較的余裕のある場所に広げて、
家族5-6人で仕分けをしながら、その傍らで赤子に食事を与える母親もいた。
それぞれ決まった場所があり、週末にそこを通ると同じメンバーだった。
ペットボトルやアルミ缶、布切れ、
古新聞雑誌、ボール紙、たまには鉄やアルミの古い家電製品もあった。
それらを一定の所に持ち寄って換金する。夕方には歩道はきれいに片付いている。
 大連の地の人に訊けば、彼らは大連の気候の良い春から秋口まで、
遠い南方からやってきて、ああして廃品回収で収入を得、寒い冬にはまた南方に戻って行くという。
 今も私の耳にあの自転車を漕ぎながら「かんかんかんかん」と鳴らす音が残る。
 
 彼の小説「故郷」の閏土は魯迅の家の大がかりな祭礼の時に手伝いに来て、
魯迅と友達になった。彼の先祖がどうであったか知る由もないが、
それぞれ奉公に出かける主筋の家と小作人の関係は、
堕民とは違うが封建時代に形成された関係だろう。
そこに出入りできる権利は金を払ってでも買う価値があるのだ。年季奉公すれば食いはぐれは無い。
洪水や飢饉のときに最低食べて行ける後ろ盾があるのは、海岸近くの農民にはかけがえのない保険だったであろう。
 数年前ラジオで紹興の魯迅記念館に閏土の子孫が勤務していると報じていた。
墓守ではなく、記念館で働けるのは、なにやら昔、先祖が周家に年季奉公にでていた
御蔭のようであり、魯迅が小説に取りあげた縁のようだ。
     2012/05/24訳

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「白相飯を食う」(遊び人)

「白相飯を食う」(遊び人)   旅準
 上海語の「白相」を北京語に訳すと「玩ぶ」とする他ないが、「白相飯を食う」となると、文語にして「正業に就かぬ遊び人」とすると他所の人に分かりやすい。
 遊び人を生業とするとは大変奇妙だが、上海の男に、又は女に夫の職業はと聞くと、実に直裁に「白相飯を食」ってる、という回答を受ける。
 聞いた方も何の不思議も感じず、「教師」「職工」と同じ様に受け取る。だが「何もしてない」と言われると不安だ。
「白相飯を食う」は上海ではまっとうな職で、上海の新聞によくこうした人物の業績を見かける。彼らがいないと、
本市の新聞は活気が失せる。業績が多いとはいえ、帰納すれば3つに過ぎない。必ずしも何にでも適用できる訳ではないが、見た目にはいろいろに映るのだ。
一つはペテン。強欲な人を見つければ利で誘い、憤慨している人には同情を装い、落ち込んでいる人には慷慨を装い、
感慨している人には悲苦を装い、その結果は相手から物を巻き上げる。
二つ目は、オドシ。ペテンでは効き目がなく見抜かれたら、
ガラッと顔を変えてオドシ、相手の無礼を咎め、相手が不正をはたらいたとして誣告し、金を貸していると言いがかりをつけ、或いは何の根拠も無く、こうするのが「道理」だと、いちゃもんをつけて何かを巻き上げる。
 三つ目はトンヅラ。上記のいずれかがうまく行ったら、
すぐトンヅラし、尻を捕まえられぬようにする。事が少しデカければ、本市を離れ、おさまってから舞い戻る。
 こうした職業があるのは確かだが、人々は奇とせぬ。
「白相」で飯が食え、労働者が飯を食えずに腹をすかしているのも明らかなのだが、誰もそれを奇妙に思わぬ。
だが「白相飯を食う」連中にも敬すべき点あり、それは彼らが自分から悪びれもせず「白相飯を食っている」と平気で言うことだ。 6月26日
訳者雑感:何も言うこと無し。
 魔都上海には何でもありで、こんな連中がわんさといた。
それが魔都と云われた由縁だろう。
戦後の日活映画にも、ヤクザが麻薬取引とか、人さらいをして船倉にぶち込んで売り飛ばすとかを、戦前戦中の上海を舞台にしていた。ヤクザが自由に何でもできた街だ。
2012/05/23訳
 

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抄靶子(チャオバーズ=所持品検査)

抄靶子(チャオバーズ=所持品検査)  旅準(リュイシュン=魯迅と同音)
 中国はなんといっても文明最古の地で、人道重視のお国柄。
人間に対してこれまで大変重視してきた。たまに凌辱誅戮が起こると、それはそういう連中が、
人間ではなかったからだとされてきた。
皇帝が誅したのは「逆」也で、官軍が剿(ソウ)したのは「匪」で、殺し屋が殺したのは「犯」(人)なのだ。
満州人が「中華に入って主」となり、暫くしてこの淳風に染まり,
雍正帝は自分の兄弟を除こうとし、まず「アキナ」「サスヘイ」という名に改称させた。
私は満州語がよく分からぬが、多分「豚」と「狗」という意味だろう。
 黄巣の造反の時、人間を糧とみなしたというが、彼を人食いだというのは正しくない。
彼が食べたのは「二本足の羊」だと称した。
 時は20世紀、所は上海。骨子は長い間「素より人道重視」だが、表面的な違いもある。
中国の一部の「人」という生物に対して西洋人がどんなおくり名を付けているかは知らない。
彼らの手下どもが付けた名なら知っているが。
 租界を歩いていると、制服の同胞と一人の異人(往往、異人なしもあるが)、
がピストルを突き付けて、全身、所持品検査するのによく遭遇する。
白人はあり得ない:
黄色人種でも日本人だというとすぐピストルを下げ、どうぞお通り下さいと放免する:
独り文明最古の黄帝の子孫のみは免れぬ。
香港では「身体捜査」と言い、対面は余り傷つけられぬが、上海では「抄靶子」
(所持品検査)と言う。
抄は捜也で靶子は鉄砲の的で、一昨年の9月にやっとその名の的確さを知った。
4億の靶子が文明最古の地に散らばっており、僥倖を願うには、只只撃たれないようにする他ない。
西洋人の部下は実に自分の同胞に絶好の名を付けたものだ。
 然るに、我々「靶子」たちは、自ら互いに推挙を始める時は慎み深い。
私は老上海ではないから、上海バンド辺りで、以前互いに罵りあう時、どんな言葉を使ったか知らない。
物の本には、「曲辨子」「阿木林」くらいしかない。
(辮髪が短くて曲がっているのが豚の尻尾に見えるから、アホ、馬鹿の類)
「寿頭碼子」は「ブタ」の隠語だが、隠語に過ぎず、「雅」だが意が十分に「達」していない嫌いがある。
今、相手に恭順でないと見咎められたら最後、相手は赤く血走った目をかっと見開き、喉を絞り、
口角泡を飛ばして「ドアホ!」とののしる。
 6月16日
 
訳者雑感:大連空港は軍用空港でもあり、旅客機の離着陸の合間に、
戦闘機がつぎつぎに離着陸を繰り返す。これほど国際化して旅客機の数が増えたのだから、
軍用空港をどこか郊外の人家の少ないところに移転させてはと思った。
だが、計画では旅客用の空港が移転する様だ。周囲は住宅が密集して建てられ、
滑走路の向こう側は5-6階建のマンションがびっしり立ち並ぶ。
まるで普天間基地のようで怖いと感じるから、旅客用が移転するのも良いかもしれない、
大分市内から遠くなって不便になるが安全だろう。
大連の人になぜ空軍がひっこさないかと尋ねたら、あの空港の周辺には空軍の建物が一杯あり、
軍人たちは市内中心部から30分という快適な住居を離れたくないということも理由の一つだそうで、
既得権益として軍は手放さないということだ。
さて本題の「靶子」に戻る。
国内用の飛行機で長春に毎月出かけていたころ、帰りは営口から南下、
渤海側の海岸線に近いところの禿げ山におびただしい数の円が描かれていて、
そこに番号が付いているのを見て、何だろうと思い、大連の地の人に尋ねた。
 答えは「靶子」(バ―ズ)という。音だけでは分からないのでどう書くの、
と聞いたが、字を見ても分からぬ。彼は飛行機のように翼を広げて、そこから
弾を落とすしぐさをしたのでやっと分かった。
 そうかあの円の中に模擬弾を落とす訓練をするために、
戦闘機が次から次に旅客機の合間を縫って離着陸を繰り返していたのだ。
空軍はこういう大都会に住んで、既得権を享受しているかぎり、
何の娯楽も無いような田舎に移転するのは嫌がるのだろうな、と感じた。
 普天間の連中も横須賀や佐世保などでも似たようなことがあるに違いない。
百年の軍港(空港)は放したくない、ということか。
     2012/05/22訳

追記:2012年6月14日の毎日新聞に、
尖閣諸島の久場島は米軍の爆撃標的として使用されてきて、
軍の関係者以外立ち入り禁止となっていたそうだ。
この伝で行けば、米軍が使用している限り、外国は無論日本も、
立ち入りできないということだが、紛争の対象にもならぬだろう。
  6月15日

 
 

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