魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など
「有名無実」の反駁
近着の「戦場見聞記」に以下の記事あり:
「記者は小隊長と面談した。
彼は前線からこの地の防衛に移った。彼曰く、以前石門塞、海陽鎮、秦皇島、牛頭関、柳江等に、陣地と防空壕を築き、…洋銀3-40万元を使い、木材の高い費用は含まず…、艱難辛苦し本来死守を期していたが、不幸にも、冷口が陥落し、命令が下り、即後退となり、血と汗と金で作りあげた陣地も、多くは使わぬまま、敝履の如く棄てることになったは、痛恨の極み:
不抵抗の将軍が更迭され、上層部が替り、我が将兵はもろ手を挙げて喜ばないものはいない…
だが結果は気持ちと願望に反するものとなってしまった。
中国人に生まれた不幸よ!
特に有名無実の抗日軍人に生まれた不幸よ!」
(5月17日「申報」特約通信)
この小隊長の天真さは、まさに「教訓」を受けていない愚かな人民の証で、ともに政治を語るに足りない。
第一、彼は不抵抗将軍の更迭により「不抵抗」も廃されると思っている。これはロジックの分からぬものである:
将軍は一個の人間で、不抵抗は一種の主義であり、人は更迭されるが、主義は依然として台上に留まっている。
第二、3-40万元の洋銀で防衛基地を築いたから、必ずこれを死守しようとする。(これ自体は良いとしよう。だが彼は進攻しようとは考えていない)これは策略が判っていない:
防衛基地は元来人々に見せるためで、彼に死守させる為の
陣地でもないし、本当の策略は「敵を奥地深くに誘い込む」ことである。
第三、彼は命を奉じて退却したが、それを「痛恨」している。
哲学が判っていない:彼の精神は叩きなおさねばならぬ!
第四、彼の「もろ手を挙げて喜ぶ」としているが、命理が判っていない:中国人は生まれながらに、苦しい運命を背負っている。かくも痴呆な小隊長が「不幸」を4回も叫ぶのも無理はない。あろうことか、自分も「有名無実の抗日軍人」と認めている。だが結局誰が「有名無実」なのか、初めからしまいまで、全然判っていないのだ。
小隊長以下の兵卒は言うまでも無い。
彼らは「ざっくばらんに、ホントのことを言えば、我同胞が対応しているのは、
今や、外敵に対してでなく、反乱者に対してである。
(同上通信)こんなデタラメでは話しにならぬ。
古人曰く:敵国と外患無きものは、国恒に亡ぶ、と。
以前これはどういう意味なのか判らなかった:
敵国すらも無くなったら、我々の国は誰に亡ぼされるのか?
今この兵卒の話しで明らかになった。
国は反乱者に亡ぼされるのだ。
結論:亡国したくないなら、「敵国外患」をもっと探さねばならない。更により多くの「教訓」であの心を痛めている愚かな人々を「有名有実」に変えなければならない。5月18日
訳者雑感:
漱石がハルビン駅頭で伊藤博文が暗殺された後、現地の新聞に寄稿したものが発見された。その中で彼が現地で見て来た情勢から「日本人に生まれた幸せ」と述べていたのが印象に残った。
それまで日本で「不幸」を体一杯に背負いこんでいた彼が、比較にならぬほど「大変不幸」な境遇に置かれている人たちを見ての実感であったろう。
漱石の「満韓ところどころ」には、両地の人たちを見くびった点が気になる。
龍之介の北京酔いの気分というか、当時の中国の文人の着物(長衫)を着た彼の写真を見ると、彼の愛着を感じる。
話しは本題に戻すと、当時の国民党の軍隊は日本との戦争を避け、もっぱら「反乱者(共産軍を含む)」との戦いにあけくれていた。
魯迅は敵国と外患がなければ、国を亡ぼすは「反乱者」だと書いている。結局民国を亡ぼしたのは反乱者たる共産軍で、亡ぼしたから新しい国ができたのだ。
2013年1月29日記
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