上海のモボがモガをひっかける時、第一歩は追い続けて離さない、これを「追っかけ」という。漢字では「釘梢」と書き、「釘」はくっついて離れぬ意、「梢」は末尾、後ろの意で言い換えると「追躡」(尻を追い回す)だろう。追っかけの専門家によれば、第二歩は、
「話に引き込む」ことで:罵られようとも、大いに望みありで、罵倒も言語のやりとりだから、「話に引き込む」の始まりとなる。
私は、こんなことは今日の租界だけと思っていた。今「花間集」で唐時代にもそういうことがあったと知った。それは張泌の「浣渓紗」調十首のその九にあり:
晩に香車を逐って鳳城に入り、東風斜めに繍帘の軽きを掲げ、
嬌慢な視線を投げかけ盈盈と笑う。
消息いまだ通じず、何の計を使うべきや。すべからく佯酔(酔ったふり)して
随行すれば、依稀に「太狂生」(きちがい)というのが聞こえる
これは現代の釘梢法と同じだ。口語詩に訳すと:
夜、洋車を追って、路上を飛ばす
東風はインド更紗の裳裾を吹き上げ、脚がほのみえる。
いたずらっぽい流し眼を投げかけ、なぞの笑みを浮かべる。
なかなかうまく話しかけられない。どうしよう?
ただ、酔ったふりして追っかけるのみ。
なんと「殺千刀」(死んじまえ)と罵られたようだ。
但し、古書を探せば、もっと古い時代のもあるかもしれぬ。博学のご教示を望む。
「追っかけ史」の研究者に役立つことと思う。
訳者雑感:
1931年の満州事変の後、魯迅でもこういう文章を書いていたことに興味がわいた。
従来の翻訳はあまり取り上げてこなかったようだ。これも魯迅が古小説研究のため、
丹念に読み返していた副産物だろうが、日本でも戦争の始まるまでの10年間は、重苦しい暮らしの中にも、モボモガが都市の夜を彩っていた。
唐代でも安史の乱を筆頭に、何回も全国的な戦乱があって、杜甫や李白なども戦に巻き込まれ、逃れながら詩を残してきたわけだ。暮らしている町、西安や上海の町のどこかで現実に兵隊が人間を殺し、その翌日か2-3日後には金の鞍をつけた貴族の若者がペルシャ人のホステスがいる酒場にでかけ、女の尻を追いかけている。
国が乱れてもこうした営みは不変であった。流行はすたれるが、その源流は不易だろう。
2011/10/05訳
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