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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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天津のコンプラドール その4

1.
 梁さんが香港に去った後、私は北京転勤となった。外貨兌換券(FECと称した)が普及し始めていた。外国人は本国から持参した外貨や、送金されてきた給与を、この兌換券に交換しなければならなくなった。輸入された生活必需品や酒タバコ、家電などはこれでないと買えなくなった。と同時に、一般の市場や商店で売っているものも、これで支払うことになった。最初のころは、偽札ではないかと疑われて受け取らない店もあった。地方に出張に行くときは、北京で元に交換して、持ってゆかないと通用しなかった。
 そのうち、北京飯店の前や外人向けの友諠商店の前に、この兌換券を元と交換しないかと、もちかけてくる闇のブローカーが出没するようになった。本来等価であるはずの兌換券と元は、みるみる内に元安になっていった。これが手に入れば、のどから手の出るほど欲しいカメラや家電製品が買えるのだ。
 「線香の火」という随筆集のなかで、日中戦争の起こる前の中国を旅していた、金沢大学の教授だった増井経夫氏が、そのころの中国各地の通貨交換レートについて触れている。病の篤くなった魯迅に、日本に来て治療するよう、岳父からの招請を伝えに、上海に魯迅を尋ねた。結局魯迅は日本には来ないのだが、上海で暫く暮らした後、船で広州に向かった。広州の町で買い物をして、金を払う段になって、上海で使っていたお札を出すと、つりは広州で通用している札で、自分の想定していた額より何割も多く返ってきたので、奇異に感じた、と書いている。広い中国では、各地で何種類かの紙幣が発行されて、通用していたが、それぞれ発行元の信用度で交換レートが異なった。これは清朝時代以来の「票号」という手形の発行元がそれぞれに発行,流通させていた「票」の信用度とか、馬蹄銀でも銀の含有量などでレートが違っていたことから、中国では、極当たり前のことであった。
2.
 中央銀行が、一般庶民向けに発券していた人民元と、外貨の裏づけのある外貨兌換券を併行して発券するようになった。これはそれまで鎖国のように世界から孤立してきた中国の経済を、ドルや円という西側資本主義経済の中に、踏み込ませようとする試みの意思表示であったと思う。
 それまでの元というのは、外国人が持ち込んだ円やドルを、入国のとき、交換申請書に正確に申告し、元に交換して使用した後、出国の際には、すべて外貨に戻さなければならなかった。当然ながら、持ち込んだ額以上を、持ち出すことはできなかった。通貨鎖国状態であった。駐在員仲間で、賭けマージャンをして大量に勝った人には、「そんなに稼いでも、国外持ち出し禁止だから、円で払うからまけてくれ」と冗談を飛ばすのが、負け惜しみであった。
カメラやラジカセなど持ち込んだ物は、出国するときに必ず持ち帰らねばならなかった。何万円もするカメラを無くしたり、泥棒に取られたりしたら、入国時に査定された金額を罰金として、徴収された。持ち込んだ品を高値で中国人に売って儲けようとする輩が多かったからだ。実際に盗まれたり失くした人は、罰金まで払わされて、泣き面に蜂であった。
3.
 清末にも、自国の通貨とは別に、欧米諸国から茶や絹織物の代金として流入した大量の銀貨がメキシコ銀として流通していた。これはまさしく、銀の裏打ちのある正真正銘の通貨で、世界のどこに出しても通用するものであった。当然、このメキシコ銀と清朝の貨幣との交換レートは、日々変わって行き、大量の流入によってインフレが起こり、一定額の給与のみで、清朝を支えてきた満州八旗の旗本たちを窮乏に追い込んだ。その結果、曽国藩、李鴻章、袁世凱と連なる、漢人の私兵軍隊、淮軍、湘軍、その後の北洋軍に、実権を奪われることになった。
徳川末期の旗本たちも似たような運命をたどっている。特に、日本の金と銀の交換レート差とメキシコ銀であふれる清国の4倍近い差を、狙い撃ちにされて、ハリスを含む幕末日本にやってきた欧米人たちは、大量の銀貨を持ち込み、4倍の値打ちのある日本の金貨小判を大量に持ち出した。その防止策として幕府の銀貨は改鋳され、悪貨に駆逐された結果、猛烈なインフレにみまわれ、幕府からの支給だけに頼っていた旗本たちは窮乏し、徳川幕府の命脈をちぢめることになったのは、歴史の示す通りである。清王朝も徳川幕府も同じ旗本体制による鎖国は、金と銀との為替レート差に目をつけた、欧米諸国の貪欲な使節と商人たちの餌食になったと言えよう。
4.
 1970年代から80年代にかけて、中国に暮らしていた外国人にとって、ある日突然、元から兌換券に変更され、それにしか両替できなくなったので、買い物するのに、店主の態度がコロっと変わったのに戸惑った人が多いと思う。最初は、偽札じゃないかと疑がわれ、受け取ってもらえなかった。それが暫くすると、二重レートになり、重宝されるようになって、今度は逆に、これでないと売ってくれなくなった。
袁世凱か段祺瑞かの妾宅といわれていた、立派な四合院を改装して「四川飯店」としてオープンさせ、観光客を呼び寄せることが始まった。紫禁城の北の北海公園の中の、西太后たちが宴を張っていた宮殿も改装して、「仿膳飯荘」として、外人向けのレストランを次々に開き、外人料金として値段を吊り上げていった。それまでは、宴会といえども、一人30元とか40元だったのが、百元、二百元へと値上げされていった。
 この頃から、インフレが始まり、元の切り下げが始まった。西側各国との貿易を活発化し、来料加工などあらゆる手段を導入して、外資を呼び込み、外貨を稼ぎ出すためには、自国通貨を切り下げて、輸出競争力を高めてゆくことが出発点であった。改革開放とは経済的豊かさの追求であった。豊かさの追求をテコにしたのが、現代中国の特色ある社会主義市場経済である。
 円とのレートで言えば、もちろん円自身が切り上ったことも大きいが、1970年代の1元150円から、急激に切り下がり、90年代の終わりには15円と、
10分の1にまで切り下がった。その分、インフレが進み、月給も3元から何百元の時代に突入した。それでも円に直すと1万円以下であった。
5.
 幕末に清国から大量の安い銀が日本に持ち込まれ、日本の金の小判が大量に流出した時代と似たような状況が起こってきた。それは日本のみならず、米欧にも急激なスピードで広まっていった。21世紀の今日では、銀の代わりは、繊維製品から運動靴、玩具、ライター、自転車などありとあらゆる軽工業品が、世界市場を席巻した。今ではテレビなどの家電は殆ど中国製となってしまった。
 大量のドルが中国の外貨口座に記帳され、2兆ドルを超えた。英国が買った大量の茶の代金の銀が貯まりに貯まったのが、19世紀の初頭である。そのころの清国は、英国が売りたがっていた綿製品や毛織物をまったく必要としなかった。朕の国は地大物博で必要な物はすべてあるから、イギリスから買いたいものは何もない。ただ、イギリスが茶とか絹を欲しいというから、分けてやろう、というのが清朝のイギリス使節への傲慢ともいえる回答であった。
 それを腹に据えかねて、その銀を取り戻すために売り始めたのが、アヘンであったとは先に触れた。
 今の米中関係は1840年以前の英清関係と、この点で似ている。今の中国も、米国から買いたいものがないので、米国の債権を買うしかない。この債権がアヘンのような毒性を発しないとは限らない。人体への害毒というよりは、ドル安など、中国の金融産業界への悪影響である。アメリカは、アヘンや債権に代わるものを、早く中国に提供できるようにしなければならない。いつまでもこの状態でやっていけるとは考えられない。かといって、収縮均衡にするのでは芸が無い。果たして何が良いのであろうか。
 或いは、中国政府が小麦など食糧買い付け価格を、戦後日本のように上昇させて、農民の購買力を高めることで、中国全体の給与水準も上昇し、人件費面での輸出競争力が低下していけば、今日のような中国製品の世界制覇は緩和されるだろう。それでも米国の赤字垂れ流しは止まないだろうが。
6. 
 自転車が、中国人の生活で最も高価な財産であった時代。それがカラーテレビになり、今ではマイカーの時代になった。おかげで、最近では北京市内の車の数が増えすぎて、夕刻の退社時間には、道路と言う道路は駐車場と化し、歩いて5分の距離が20分かかる様になった。北京市内の自動車の必要駐車場面積は、市中心部の一つの区に匹敵するといわれている。それで曜日に分けて、奇数と偶数のナンバーいずれかしか、市内に入れないような規制を取り出した。それでも、「お金持ちは奇数偶数の2台で対策を講じている」と口さがない人は言う。
 人民公社が無くなり、請負制で農民の生産意欲を高めて、生産性をあげて、世界の経済水準に、10年で追いつこうとしていた変化の時代。北京に暮らしていた外国人は、まだゴルフ場も無く、週末に自由に郊外に外出することも制限されていた。少し遠くに出かけるには、旅行証を申請しないと、遠出から帰ってくると、警察からのお咎めを受けた。尾行されていたのか、或いは誰かが通知したのであろう。気味の悪い状態はその後も続いた。
 それで、週末は市内の天壇公園や頤和園、香山のお寺参りをするぐらいしか、娯楽がなかった。車も無いので、たいていは住まいの近くの「国際クラブ」
という外国人のための映画館やプール、テニスコートなどで過ごした。
 ある日の午後、我々がテニスをしているところに、北京の体育協会の関係者が入って来て、日中友好テニス大会を開きたい。ついては参加者の名簿を出すようにとの申し出を受けた。 我々は、大使館の人や商社の駐在員など十数名のリストを出した。当日、先方の名簿の中に、梁某という名前があるのを見つけた。試合後、懇親会で挨拶した。年恰好は60を超えているようであった。
 確か、私の梁さんの次兄は、長男が身代金誘拐事件で殺された後、彼の後を継いだのだが、自分の性格に向かないとして買弁をやめて、自分で貿易会社を作ってビジネスをしていたが、革命後は貿易が国家管理になったので、教育関係に転じ、北京に移ったと、梁さんから聞いたことがあった。
 私は梁さんに「私は天津で、梁文奎さんという人とテニスをしたことがある」と話を切り出した。彼は、突然の話題に驚いたようだった。ややけむたそうな雰囲気ながら、「彼は私の弟だよ」と応じたが、すぐ自分の箸で料理を取り分けて、私の皿に乗せてくれた。そして、「彼はもう天津にはいないよ、香港に行ってしまったよ。」と話したきり、話題を他に転じてしまった。これ以上弟のことに触れて欲しくない感じであった。それで、彼の気持ちを察して、昼のテニスの話に戻した。北京にはテニス人口はどれくらいかとか、外国人が使用可能なコートは何面くらいあるかとか、とりとめのない話で、その日は終わった。
7.
 それから1ヶ月ほど経った頃、我々がテニスをしていると、隣のコートに彼と仲間たちが入ってきた。我々は、試合の合間にベンチに腰掛けながら、最近の北京のレストランが急に高くなった話をすると、「それなら中国の職員に頼んで、元で払えば、安く上がるよ」という話などをし、私が貿易会社に勤務しているという話をすると、彼も、「若い頃は、自分で貿易会社を作り、香港、イギリスなどと貿易をしていたのだ」と語りはじめた。
 「建国後は、国営の進出口公司で働いていたけれど、買弁をしていたという経歴がなにかと問題にされたので、体育関係の教師の仕事が見つかったのを機に、そちらに移り、今は体育協会の仕事をしている」と話してくれた。
 「私は日本の貿易会社の北京駐在として、五金鉱産公司との取引を中心に仕事をしている」というと、何名かの対外貿易部傘下の公司の人たちの名前を挙げて、以前一緒に働いていたと話してくれた。
 中国の対外貿易は、中央政府直轄の対外貿易部という官庁の下に、商品分野ごとに分れて、限られた数の進出口公司が独占していた。北京の総公司の下に、各省、各港湾に分公司が置かれていた。我々外国商社と接触するのは、すべてそれらの公司の職員で、日本でいえば役人であった。
 国内の各需要家から、向こう半年間に必要とされる鋼材とか原料などの明細を取り纏め、年に2回、大量の注文をすることで、世界一安い価格を引き出そうと懸命な駆け引きが繰り返された。貨比三家、と称して3社以上の供給者から見積もりを取り、その中の一番低い見積もり提出者を上手く誘導して、他から更に廉価な見積もりがでているように疑心暗鬼をおこさせ、さらに2割、3割の値引きを突きつけた。それでも供給過剰で行き場を失った大量の鋼材が、毎年数百万トンも中国に輸出された。これはこれで、世界資本主義市場の需要と供給のアンバランスを補って、鉄鋼メーカーの存続と成長には何がしかの貢献をしたのかもしれない。固定費を薄めるための商売が続いた。
私自身もそうした取引の中で、対中貿易の実践的な方法を学び育ってきたわけだ。その間にいろいろな人々に遭遇した。腐敗し、私腹を肥やす人を見ながら、私自身は距離をおくことができたのは、そうした人たちの末路を見てきたからであろう。香港に高飛びした男。相場に失敗して二度と祖国に戻れなくなった人。友人をすべて失った者。人から後ろ指をさされることになった人たちを、何人も見てきた。
8.
 進出口公司の買い付け担当のことを、日本駐在員社会ではそれぞれに渾名をつけて呼んでいた。彼等はたいてい二人で外国人との商談に臨んだ。主談と書記という格好で、書記は一言も発せず、何も記録していないようにボーッとしていながら、主談の発言に問題が無いか、外国商人と何か癒着でもしていないかチェックしていた。
 どのように外国商社と商談するかの手引書というものがあって、あとになってからの話だが、親しくなった人から笑い話として見せてもらったことがある。骨子は、共産ソビエト時代の輸入公団が、欧州の会社との交渉のプロセスを記述したものを、中国版に翻訳したものだ。だが、買弁がこうした外国貿易を仲介してきた中国で、一人で交渉を行わせることの危険性は、長い伝統から脱け出ることのできないほどのDNAとして、染み付いてしまっているので、この防止のために二人での相互監視体制が、腐敗の起こりえないといわれた社会主義体制下の国営公司でも必須であった。
  そうした対外貿易部傘下の進出口公司の独占状態が、1980年代の初めに、突如崩されることになった。それまで、対外貿易部に独り占めされてきた
貿易のうまい汁を、それぞれの産業、工業を所管する冶金工業部とか、石炭部という省庁が、冶金進出口公司とか煤炭進出口公司を設立して独自に貿易できるようになった。
 これが、中国の対外貿易の飛躍的な発展の導火線となった。その後、中央の各工業部だけでなく、上海や広東など主要都市の市政府も市名を冠した貿易公司を設立し、更には、各個別企業が傘下の専門貿易会社を作って、中央の支配から自由になった形で、諸外国との貿易を始めた。
 とりわけ、香港やマカオの中国人経営の貿易会社との取引で、相互に相手の
かゆいところに手が届くようになると、この腐敗の細菌は一気に増殖した。
大陸の公司が、香港に自分の会社の出先機関として、現地法人をつぎから次へと設立し、そこに取り扱いにからむ口銭をどんどん溜めていった。
 こうなってくると、それまで二人体制で、相互監視してきた、腐敗防止用の
薬も効かなくなってきた。対外貿易部のみで独占してきたときには、比較的腐敗も少なかったが、硬直的であった公司の先生方の対応に大きな変化が現れてきた。
9.
中国内でも同じ商品を扱う公司が幾つもでき、メーカーの販売担当との関係とか、個人的な結びつきが、その商売に大きな影響を与えるようになってきた。
 中国の工業生産高が年率10%以上の大きな伸びを示し始めると、産業の米としての、鉄鋼生産に欠かせない、銑鉄とかスクラップ、或いは鉄鉱石という原料の調達が、大変重要になってきた。
 つい2年ほど前までは、大量の銑鉄を日本に輸出して、日本の鉄鋼増産を支えてきた中国の中小高炉は、今度は中国各地からの鋼材の需要増加に対応するために、大量の銑鉄スクラップの調達に走った。社会主義経済で年間の生産計画を作って、中央政府の冶金工業部から、所要銑鉄量の配分を受けてきた鉄鋼メーカーは、今度は進出口公司に出向いて行って、増産で足りなくなる分を海外から調達するように懇願しなければならなくなった。原料さえ入手できれば、そしてそれを製品にさえ加工すれば、莫大な利益を入手できるのだった。
 この時に何が役に立つかといえば、窓口どうしの人間関係であり、その人間関係というものも、金銭的なものと切り離しては考えられないのである。それがこの国の必然であり、それは日本でも似たようなものであるが、社会主義革命を経て、戦前のどろどろとした状態から抜け出し、清貧を第一義とした社会になったかに見えた30年を経た後のことでもあり、“旧社会に戻った”というため息が、年配者の口から漏れるようになった。
 しかしそのため息の一方では、個々人が富を追い求めることができるようになった、というか、主義の金縛りからようやく解放されて、もとの漢民族の古くから親しんできた慣習に戻って、自由の空気が吸えるようになったという安堵感も感じられた。
 清廉、清潔な主義を掲げるだけでは、社会は住みやすいとは限らないようだ。
10.
 こうして現代の貿易は国営の進出口公司から、民間の誰でもが設立できる、貿易会社の時代に移った。もはや買弁は必要なくなったように考えられた。ところが、である。買弁は死なず、蘇生してきたのである。いや蘇生しただけではない。更に細胞分裂を重ね、19世紀植民地時代よりも、より大がかりとなった。今日、買弁は、中国各地の市役所の経済担当部門の局長のために、外国資本を呼び込み、有望な区画を払い下げてもらい、共同でその土地を工業団地にし、マンションを建設して、その投資額の中から、莫大なリベートを取る。それを販売して、上層部へ上納し、次の開発のための払い下げを拡大してゆく。それでより高い位の官に就いてゆく。買官である。
 これは、かつての東京湾埋め立てによるコンビナート建設とか、1960年代に日本の産業資本と国や県が一体となって、通産省の旗振りの下で、世界で物づくりのトップレベルに躍り出る、日本の産業構造の現代化を推進してきたことと、あわせ考えると面白い違いが見えてくる。
 日本にも確かに、造船疑獄とかロッキード事件、そして直近では防衛省次官などの腐敗がはびこっている。但し、その頻度と程度において、日中間では大きな差があると言わねばならない。かつての日本の通産省などの幹部は、もちろん、自己の出世のためもあったが、資源小国日本の発展のためには、何が一番よいかと真剣に考えていた時期もあった。自分の懐を肥やそうとして、役人になろうというモチベーションは相対的に少なかったと言える。
 中国の役人は、もともと役所の高官になることで、そのポストにいる間に、どれだけの財産を溜め込めるか、が最大のモチベーションの者が多い。況や、自分が長官である間に、実力のある買弁と手を組んで、そこと結託して自分の富を増やすことが最大の眼目であるような役人が多い。次からつぎへと摘発され、テレビでその死刑の場面まで放映されながら、今尚後を絶たない。
 中央政府の政治家の中には、国の発展の為に、身を粉にして活躍している人が何名かいて、そうした人たちがいることが唯一の救いであるが、地方レベルで、市長や省長クラスの役人の腐敗がなくなるのは、黄河の水が澄むのを待つより遠い先のように感じられて、ため息が出る。
それでも中国は発展し、人々は世界の中で、アメリカ人に次いで明るく、楽観的に暮らしている。
 2009年5月 大連にて 

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