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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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天津のコンプラドール そのー3

1.
 梁さんの口から出た「四人組」というのが、私の耳に蘇った。中国語では「四人幇」(スーレンバン)と言う。前にも書いたが、梁さんの父親は当時の天津で「広東幇の最大富豪」と呼ばれていた。梁さんを牢屋に入れたのは、「四人幇」だったが、その「四人幇」が今度は獄に繋がれることになったのだ。わずか十年の間に、天地がひっくり返った。
 梁さんの父親、梁炎卿は吝嗇としても多分、広東幇のナンバーワンだったかも知れない。劉海岩氏は次のように記す。梁は平素から吝嗇で聞こえ、朋友や同郷人を助けたり、彼らの事業に出資したりすることはなかった、と。
 これは、彼が唐氏のように、自分の故郷から若い才能を呼び寄せたり、事業を起こしたりしようとしなかったためでもあろう。しかし、広東人の同郷会館を建てるときには、英国最大の洋行の買弁で、資格も古く、個人財産も最も大きいので、20世紀の初めには、同郷人たちから「広東幇の首領」に挙げられていた。
 20世紀の初め、天津に寓居する広東人のための会館を建てようという気運が盛り上がった。当時の天津税関長だった広東同郷人仲間でのナンバーワン、唐紹儀(前にも述べたが、袁世凱の下で、内閣総理大臣を務めた。その内閣の農林次官に梁さんの長男が就任した)が提起し、多くの天津在の広東人の賛同を得た。結局41名の発起人の会長に、梁さんが選ばれたのだ。同郷人から寄付を募り、その額は11万余両、大洋銀2万元余が集まった。その中で梁さんの6,000両が最多であった。次が唐紹儀の4,000両であったという。
 会館は1904年に着工し、1907年に竣工した。その後、会館は広東人のあらゆる集会、慶祝、葬祭などに使われた。梁さんは役員を務めた。辛亥革命後、天津の広東人は会館で何度も集会を開き、1912年3月7日、広東会館役員会が発起人となり、250名の代表が国民募金連合会を開き、梁さんがスピーチを行った。同年9月、同じ広東人である孫文が、広東会館に来て、
同郷人たちの熱烈な歓迎を受けた。このころが、梁炎卿の数少ない社交活動だった、と劉氏は記す。
 2.
 1912年、長男の梁賚奎がアメリカの大学から帰国して、袁世凱系の唐紹儀総理の時に、短い間農林次官を勤めていたと書いたが、まさしくこの時は、
梁炎卿が自分の息子を政界に送りこみ、祖国のために何かしなくては、と考えていた時期であったであろう。
 もしも長男が、同じ天津在の広東籍の先輩であった唐紹儀内閣で、任務を果たすことができ、順調に政界に乗り出していたなら、彼の買弁生活は終わりを告げていたかもしれない。政治家の父親はやはりそれなりに政治に関与せざるを得なくなるであろう。買弁ではいられなくなったであろう。実業に乗り出していたかもしれない。いずれも、仮定の話である。この話は袁世凱と国民党との争いの中で、胡散霧消してしまう。
 中国の辛亥革命後の現実の政治は、袁世凱によってめちゃくちゃにされたというのが、新中国の歴史家の定説である。袁世凱にはとてつもなく立派な墓がある。死後、子分の徐世昌が、袁の原籍地の河南省の彰徳にとんでもなく大きな墓を建てた。皇帝を凌ぐほどの巨大な墓である。解放後、この墓は破壊されずに、政府は二つの碑を建てた。一つは墓の大門の前にあり、「窃国大盗袁世凱」と刻まれ、もう一つは墓前にあり、これにも「窃国大盗袁世凱」とあるそうだ。国をめちゃくちゃにした大盗賊というのは、今後も覆されることは無いであろう。自らが皇帝になるために21ヶ条の売国条約を受諾したというのは拭いきれない汚名である。
 3.
 清末、民国初めの政治家の伝記類が、最近になって陸続と出版されている。
新華書店の伝記類を並べた棚には、古い歴史上の人物や欧米の著名人や文化人の伝記よりも、この百年前後の近代の登場人物の伝記の方が沢山並んでいる。
李鴻章を初め、曽国藩とか左宗棠など一般の日本人には余り馴染みのない実務的な政治家など、新中国成立後は否定されてきたか、或いは無視されてきた人物の中にも、実際は、祖国の近代化の為に、心血を注いだというあまたの人々のことを知るべきだし、調べて記録に残しておこうと言う気運が起こってきた。またそうした出版物を買う人が増えてきたというのも事実だ。それで、同じ人物についても、何種類もの伝記や、評伝などが新たにどんどん出版されている。
しかし、袁世凱の伝記はあまりみかけない。それで、民国から解放後まで継続して中国の政治世界、文化大革命で批判もされ、もまれながら、活動を行ってきた歴史家、「古史弁」の著者、顧頡剛氏の「中国史学入門」の中から、要約する。
袁世凱は李鴻章の死後、彼がそれまで握ってきた西洋式武器を備えた清朝の軍隊を、みずからの支配下に置いた。これが20世紀初頭の中国が、共和への道を歩むとき、大きな障害となった。顧氏によれば、袁世凱には三人の部下がいた。王士珍、段祺瑞、馮国璋の三人。この三人がアイデアを出し、実行方法を考えた、という。ある人が評すに、王は龍、段は虎、馮は狗で、もっとも貪欲だった。
この筆法からすると、袁世凱はアイデアを描き出す頭脳も、それを実行に移す方法を考えることもできなかったようだ。狗に擬せられた馮はその後の行動でその貪欲ぶりを余すところ無く発揮している。龍とか虎に擬せられた二人は何がしかの良いことを残したのであろう。
4.
武昌起義が起こるや、清朝の朝廷は袁世凱に鎮圧を要請した。袁世凱は、自分は前線には出向かず、狗と呼ばれた馮国璋を震源地の武漢三鎮に出陣させた。長江の北岸の漢口で軍を留めて、革命軍のいる南岸の武昌には攻め込ませなかった。袁世凱はこうしたやりかたで、清朝皇帝に圧力をかけ、退位させた。
 そして、所謂南北和議の会談が開かれた。南側、即ち孫文らの革命側は、伍廷芳を代表とし、袁世凱の北側は唐紹儀を代表とした。唐紹儀は繰り返すが、天津在の広東人で、梁さんの父とともに、広東会館建設の主唱者である。
南北和議が成立し、袁世凱のもとに孫文がやってきた、熱っぽく理想を語る孫文の広東人の話す言葉を、「彼は何を言いたいのかね。彼の話はチンプンカンプンで少しもわからない」と袁世凱が側近に漏らすのを、ドラマ「共和への道」で挿入していた。この二人が理解しあうには、梁さんのような広東出身で天津に長く生活している人間が、通訳して中を取り持たないと、うまく意志の疎通ができなかった。そうした小さな誤解や理解不足が、その後の悲劇の引き金となったとも言えよう。
Compradorはポルトガル語で、日本語訳は仲買人、仲介者、中間商など。
日本の国土の25倍もある中国で、北京の軍閥と南方の革命家の間には、イギリス人との場合と同じように、仲介者が必要であった。長崎には「金富良社」というコンプラドール仲間の組織があって、日本のCompradorはそこに集い、南蛮人の欲しいものを、買い付けてくるのが主な仕事であった。横浜にいたら、
もっと別の動きをしていたことだろう。
幕末、西郷の言葉を幕府の役人に上手く伝えるのには、江戸屋敷にいた薩摩藩士の協力があったから可能であった。広東人が語る北京語は、つい最近まで北京人によって“お天道様も神さんも怖くないが、広東人がしゃべる北京語が一番怖い”と揶揄されてきたくらい、耳障りで一番聞きたくない言葉だったのである。
5.
話を南北和議に戻すと、談判は南側が孫文を臨時大総統に推して、一歩も引かなかったので、決裂してしまった。袁世凱はそれならばそれで、戦争を続けるまでだと妥協しない。孫文は自分には強大な軍隊が無いので、仕方なく、宣統帝の退位を条件に、袁世凱が大総統に就くことを受諾するほか無かった。
話は遡るが、顧氏は著作の中で、袁世凱の生涯はあらゆる手段を使い、奸計を用い、陰険なたくらみで政権を手にした人物として描かれている。前代の光緒帝を退位させたのも、彼の仕業であるとしている。
次の挿話は、顧氏の書からの引用だが、戊戌の政変で日本に亡命した梁啓超が書いたものが、根拠となっているので、このクーデターが袁世凱の密告によって起こったということにされているのだが、異論もあり、複雑な要因が絡み合っていたことであろう。
康有為が新政を実行するために“維新”を行おうとして、“強学会”を創立したとき、袁世凱は大賛成して、すぐ加入した。その後、光緒帝が戊戌の変法を唱えると、西太后はこれに不満で、閲兵式に乗じて、彼を廃帝にしようと考えた。光緒帝はこれを知るや、彼が信頼していた潭嗣同に相談した。潭はすぐさま袁世凱に助けを求めた。その時、軍の実権を握っていた袁世凱しか光緒帝を救い出せるものはいないと考えた。潭は袁世凱に申し出た。「もし光緒帝を助けて、新政を実行できないのなら、自分を殺してくれ」と。袁世凱はこのとき、「私が栄禄(西太后の腹心)を殺すのは、犬一匹を殺すより簡単なことだ。本件は私がすべて引き受けた。全責任を負うから、帝にはご安心されよ。」と伝えて欲しい、と答えた。
ところが翌日、袁世凱はすぐさま天津に飛んでゆき、栄禄に密告した。光緒帝が維新の実行を斯く斯くしかじかと。栄禄は即刻北京に戻り、西太后に報告した。彼女は直ちに光緒帝を幽閉し、垂簾政冶を行った。潭嗣同ら、維新の主唱者たちは慷慨し刑場の露と消えた。康有為、梁啓超は国外に亡命した。
6.
以上が戊戌の政変のあらましである。戊戌の変法が吹っ飛んだのは、この袁の密告からである。まるで京劇のシナリオの如くに、歴史が動くのを楽しむがごときの感を禁じえない。項羽と劉邦の戦いから、三国志の争い、水滸伝の世界など、対立する者の間で、ハカリゴトをめぐらし、ワナを仕掛け、敵を陥れて、勝利する。観衆の目を意識して、観衆を楽しませることも、自分の果たすべき務めだという演劇的なものが、彼を突き動かしているとしか思えないほどである。政治の舞台に登場した以上、劇を演じなければ何をするのだ、と。
中国人のこうした政治的場面での身の処し方というのは、三千年の間の歴史舞台に登場した人物の行動を、思い出しながら再現しているかのようである。
自分がこの広大な中国の大地を統べる天下人として、後世の歴史と戯曲が、どのように取り上げるか。それが重要な関心事の一つであるかの如くに。そして又中国の歴史家が、そのように記すことが伝統として染み付いているのだろう。
何ゆえに、光緒帝を幽閉してまで、垂簾政冶を支持したのか分からない。
その十数年後の辛亥革命の時にも、最後の皇帝宣統帝を退位させた張本人となった。自分に都合の悪いと思われる皇帝を廃したのだが、帝を退位させることで、自分の影響力を強めたいと思ったのが、3人の部下のたくらみと実行力に支えられてきた彼の実像なのだろうか。
 7.
こうした袁世凱の下で、中国の北方では多くの軍閥や商人(ビジネスマン)たちが、それでも尚ひたすら彼を支えてきた。彼等はなぜ袁世凱を支え、その後も袁の後継たる北洋軍閥を支えてきたのであろうか。
 「国商」の著者、言夏氏に依れば、当時の実業家たちは、「孫文は、理想は高いが、実際的ではない。実現できないような公有制を唱え、共産主義の色彩を帯びていた。」と記す。
2008年に出版された同書は、近代中国に影響を与えた十人の商人との副題つきで、第1位に張謇を置き、彼の言葉を引用している。彼は孫文が大総統になったとき、孫文から直接、内閣の実業大臣に任命されたのだが、その後「孫文は自分が崖の上に立っていることを知らない。革命は成せても、建設はできない。」という言葉を日記に残している。そして40日間という短期間で、辞任してしまい、今度は章太炎とともに袁世凱を擁立しているのである。彼は袁世凱の下で、農商大臣に任命されている。
 張謇は革命政府ができても、金庫の中は全くの空っぽだったので、それまでの取引相手の三井物産から30万両の借款を得、更に自ら起こした紡績工場を担保にして50万両、計80万両もの大金を孫文の革命政府に出している。その彼の言葉である。その彼も、後に、政商、盛宣懐が“漢冶萍公司”という鉄鉱石、石炭、製鉄の複合公司の株50%を担保に、横浜正金銀行から資金を引き出そうとしている計画を知り、それには、猛烈に反対した。紡績工場はいくらでも建てられるが、鉱石、石炭などの資源は代替できないと考えたのであろうか。
 実業を起こして、祖国を近代化しようとする商人たちにとって、孫文は革命を成すまでは資金援助に値したが、革命の後では、危なっかしくて、とてもとてもこれ以上、支える気にはならなかったのであろう。不思議なことだが、他に誰もいないということか、袁世凱はこうした実業家たちに支えられ、孫文と対立し、国民党と対立して実権を握った。
 国会の多数を占める国民党は宋教仁をリーダーとして、袁世凱を倒そうとしたが、その彼は袁世凱の手によって、上海駅頭で暗殺されてしまった。その頃の袁世凱は、辛亥革命後の中国には“民国”は時期尚早と感じていた。顧氏の引用する彼の言葉は「まだそんな程度になっていない(没有程度)」ということになる。それではどうするか。隣国日本の“立憲君主制”が良いと考えたのだ。立憲君主となると大総統ではだめである。やはり皇帝をおかねばならない。清朝の満州族皇帝を退位させた実績のある自分が皇帝になるほかない、と考えたのだろう。取り巻き連中のおだてに乗って、国民は自分を皇帝として支持してくれるものと信じて舞い上がっていた。裸の王さまそのものだ。
 8.
こうした袁世凱の下で、梁炎卿はどう振舞おうと考えたであろうか。私の梁さんに聞いてみたかった。彼が買弁を続けた60年。時の政権と密接につながって、実業を興した者たちの末路は、哀れであった。
新中国建国以来、それらの実業家たちは、ほとんど顧みられることも無く、否定されてきた。しかし、改革開放の30年間で、外資企業の出資を招いて、輸出の大半と国内の大型産業の多くを、そうした外資企業に依存しているという実情を憂えて、民族系の企業を育成することの重要性を認識し始めた。その結果、ここ数年は戦前の実業家たちのことを取り上げて、中国の企業家を鼓舞しようとする動きが顕著になってきた。
 結局のところは、李鴻章や袁世凱の庇護の下で、紡績業から製鉄業まで、自前の鉄道とか炭鉱を起こしながら、官の官督のデタラメさから経営破たんし、外国資本に買収されたり、倒産したりと言う歴史の繰り返しであった。
30年代以降になると軍閥や蒋介石政府などによって没収された。別の言葉で言えば、軍閥政府のゆすり、たかりにあって、ほとんど跡形もなくなってしまった。1949年以降の公私合営で、最終的には国有化された。国有化されたビジネスは“大きな鍋の飯”を食うことで、世界の発展のスピードからあまりにも遠くかけはなれてしまった。かくてはならじ、と、この二十年で宝山製鉄など近代的な製鉄業の成功を手本に、造船や自動車などの大型工業分野でも世界の水準に近づきつつある。そのとき、先人たちの行跡を顧みる気運が出始めたのだ。
先人たちの失敗例を真摯に学ぶことで、21世紀の実業、起業の参考にしようとするから、著者も登場し、読者も増えているのである。
 9.
中国の政界と実業界の癒着というべきか、これは何も中国に限ったことではなく、日本でも常時起こっており、何も特定の国の専売特許ではないのだが、袁世凱以来の、所謂軍閥政権と実業家たちの、政界のトップ交代で、実業家が倒産したり、財産ごと没収されたりという悲劇は、どの国よりもその頻度において、甚だしいものがある。
 政権の資金は、主に官に癒着した商人たちからの上納金で賄われてきたのが、この国の伝統である。もともと所得税とか法人税という考えが薄く、税金の源は、物品税と関税、通行税などが主であった。漢代のころから、塩鉄税と称して、塩や鉄の取引にかかわる税金の取立てをめぐって、大きな論争を起こしてきた。律令制の下で租庸調とか両税法なども採用されたりしたが、政府にとって、もっとも確実な税収は、物品税であった。今日でも、17%という消費税と関税が税の主要部分を占めている。
 そんな状況下、中国全土で経済開発区が、国の正式認可された地域以外にもいたるところで造成された。それらの土地を開発するのは、地方政府だが、それを払い下げて工場誘致したり、高層マンションを建てて販売したりするのは、高級幹部と特別な関係を築いた“開発商”デヴェロッパーである。
 国の土地を、地方政府が開発し、特定の実業家に払い下げて、“招商”し、
それが立派な工業団地になり、内陸から十万、二十万の労働者を集めて、寒村を近代城市にする。そのことで、政府高官の成績は上がり、官位も上がる。
そして権限も大きくなり、さらに出世するという図が出来上がる。それが経済発展を支えてきた仕組みである。年率10%以上の経済成長を続けてきたことが、Win Winの状況であるかぎり、その高級幹部と特定の開発商は、大きなお咎めは受けない。たまにその限度を超えて、刑事罰を受けるものが新聞に載る。甚だしきは死刑宣告されるものもいるが。そんなことに驚いていては、大きな事業は起こせない。男一匹、この世に生を受けたからには、世間をあっと驚かすような、でかいことをしなければ意味がない。それには実権をもつ高官とうまく結びついて、国の土地で、政府の保証で銀行に金を出させ、次から次へと事業展開する。それが上手く当たればよし、ダメなときは逃げ去るのみ。高官ともども大金を懐に海外に高飛び、という話で一巻の終。
10.
過去30年、ビジネスを取り巻く中国人の考え方は180度の転換を見せた。孫文の思想には公有制、共産主義の色彩があったから、当時の実業家たちは、そんな孫文を危ういと考えていたなどという表現は、30年前には、誰も書けなかったであろう。対外貿易部傘下の国営の進出口公司という商品縦割りの独占的な窓口経由でしか、貿易できなかったがんじがらめの体制から、製造会社でも、個人商店でも、誰でも自由に対外貿易ができるようになったのだ。
この変わり身の早さこそが、世界に伍して米国の最大の債権保有国になった
源泉であろう。もうひとつ最近びっくりしたことがある。それは全国人民代表大会の呉邦国委員長が、2009年3月9日の会議で発表した次の宣言である。
「複数党による政権交代と“三権分立”は絶対行わない」と。
 要するに、西側の民主主義のモデルとされる“三権分立”と“複数党による政権交代”を、中国は否定する、ということだ。中国の進むべき方向は、三権分立ではなくて、“一府二院制”即ち、立法府を頂点にして、その下に行政院と司法院が機能するという形が適しているというのだ。
 政党も共産党が指導する形で、他の党との合作と政治協商で、共産党が執政党(政権党)で、他の民主党派は参政党だと規定している。参政するとは、政治に参与する、意見具申はできるが、政権党にはなれないという意味である。
 今、13億人の中国が、昨今の台湾のようにゴタゴタしては大変な事態を招く恐れがある。陳水扁政権が、下野するやとたんに、法廷での裁判を受け、獄に繋がれるような事態が、十年ごとに起こっては、大変な混乱を起しかねない。
60年前に建国して以来、略10年ごとに政治的混乱を経てきた。40年前に文化大革命が起き、30余年前に「四人組」を追放し、20年前に天安門事件で、趙紫陽を反党反社会主義の罪で失脚させて世界を驚愕させた。その時の北京の西単の歩道橋から、丸焦げになった死体が吊るされている映像は、全世界に配信された。こんなことは二度と繰り返してはならないのだ。
それ以降、これまでの20年間は比較的平穏で、現政権が打ち出したスローガンも「小康社会」を目指そうという穏やかなものとなっている。小康を保つというのは、日本語では、病が平癒して、やや小康状態にあるなどというニュアンスだが、ここでは少し異なるようだ。政治闘争とか騒乱の起こらない、穏やかで安定した状態を意味するようである。
 11.
1949年からの30年で、何人の指導者たちが糾弾され、つるし上げられ、そのために国が二つ三つに割れて、武力闘争によって、幾千万もの人の命が失われた。もう二度とそんな分裂、政治闘争は起こしたくない。というのが、
呉邦国委員長の一府二院制の趣旨であろう。昨年の台湾の政権交代そのものは歓迎するが、それをここでやってはいけない、という強い意志表示だ。なぜならば、もし、台湾や韓国のように、まだ民主主義が一定段階まで成熟していない状態で、与野党が政権交代を繰り返すごとに、前政権のトップが下獄させられ、国内が分裂するような事態は、絶対避けねばないのだ。贈収賄とか政治献金など、陳水扁ほどではなくとも、起訴する案件にはこと欠かない。下野したあとのトップは何を言われるか、心配で堪らない。
 1910年代に、袁世凱の口にした、「共和は、まだその程度にあらず」という言葉は、百年後の今、三権分立と複数政党による政権交代は、その程度にあらず、という中国の足元を見つめた現実から出発していると思う。
 私は、これはこの国の実態にある意味で即しているものだと思う。私の梁さんは、1979年までの30年の間に、理不尽な理由で、何回軟禁させられたことか。ただ親が大金持ちだったということ。しかも買弁だったということで。
新中国になってからも、親の残した大きな家に住んでいたということ、なんとでも罪状をつけて、ひっ捕らえにきては、大変な目にあわされた、という。
 もし、5年後、10年後に、現政権に反対する党が政権を握るような制度を容認したら、現政権の下で起業し、大きな産業に育て上げてきた、実業家たちは、共産党に入党加担していたという理由で、獄に繋がれてしまうことだろう。
7千万党員を誇る共産党だが、現代の実業家の殆どが党員だと聞く。収入の何パーセントというのが、党費だそうだ。政権が代わる度に、大企業のトップの首が飛ぶ。そんなことをしたら、中国に長期的な視野で産業を起こす企業家は育たないであろう。
 12.
 余談だが、話を日本に投影して見る。3月24日、WBCでイチローがセンター前に2点タイムリー。世界一を勝ち取ったその夜、民主党の小沢代表が、時に涙をぬぐいながら、この国に議会制民主主義を定着させること、そのために総選挙で勝利することを、最後の機会として挑戦したいと語った。これまでの日本には所謂西側の政権交代による議会制民主主義が定着していなかった、という現実を指摘しているわけだ。戦後アメリカから押し付けられた駐留軍とセットでの民主主義。これが60年以上経っても、定着していないというのが、彼の認識であろう。従って、駐留米軍も横須賀港の艦隊以外は、日本の国土から退出してもらいたい。それで初めて、アメリカからの本当の意味での独立と、議会制民主主義の定着への道が開けると考えているのであろう。
 国民の多くは、彼の民主党に期待を寄せながらも、彼の自民党時代以来の
金権体質には、ある種の危惧を抱いているのも事実だ。しかしその一方で、
三権分立と言いながら、検察が小沢代表の秘書を逮捕、起訴するのを黙認している与党政権にも、なにか少し引っかかるものを感じている。秘書を起訴するからというだけで、わざわざその理由を検察側からメディアに発表するなどは、
不自然さを否めない。
 明治憲法は、国民全員に選挙権を与えなかったという点で、民主主義とは言いがたい。戦後の新憲法は主権在民として、民主主義を標榜している。だが、この国のひとびとは、袁世凱の言うように、まだ議会制民主主義というものを実現するには「その程度に至っていない」という現実。議会制民主主義を自分本来のものに成しえていない。
自ら勝ち取ったものではないだけに、アメリカから二度と軍国主義に戻させないために、押し付けられたものという後ろめたさを、ぬぐいきれて居ない。
代議士は江戸時代の小藩の殿様の如くに、代々世襲で、人間のスケールがだんだん小さくなる一方で、首相をやらせても1年ももたずに放り出してしまう。
これも上述の民主主義と同じで、自分で戦って勝ち取ったものではなく、前任者が投げ出してしまったので、自分のところに転がってきたものだという、ぼんやりとした後ろめたさというか、自信の無さのあらわれである。
幕末の将軍や清朝末期のひ弱な皇帝たちのイメージが重なる。よし、この俺が、取って代わってやろうとか、そんな意気込みの片鱗さえ見出せない。ただ、
自分が首相でいたいというだけで、国民のためにこうしよう、どうしようというアイデアも熱意も感じられない。袁世凱の部下には龍とか虎とかアイデアを
出して、実行に移すものがいたのだが。
     2009年3月25日 大連にて 

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