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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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天津のコンプラドール その7

1.
 7月初めに、リオティント上海の4人が、国家機密を盗んだとの嫌疑で、拘留されてから1ヶ月あまり経って、上海検察当局が、正式には「商業上の秘密を盗んだ」「贈賄」の容疑で、4人を逮捕した。中国側も首都鋼鉄の幹部以外に、他の鉄鋼会社の幹部も、収賄の容疑で取調べを受けている、と新聞で報じられている。
 そうこうしている内に、8月17日に中国鋼鉄協会が、豪州の三番目の鉄鉱石会社、FMG社と前年比35%ダウンで、価格交渉がまとまったと発表した。先に日本がリオ社と合意したのより、値下げ幅が大きいという。同協会によれば、今後はすべての鉄鉱石輸入はこの価格に統一され、スポット価格での輸入は認めない、と。他の鉄鉱石会社とはどうするのか、それは今後の交渉の進展を見なければ、なんとも言えない、と思う。中国の一般紙までもが、具体的な価格を一覧表にして掲載し、年内12月までは、すべての中国鉄鋼ミルに、この価格が適用されると大々的に宣伝していた。全国の中小高炉メーカーに、これより高い価格は払わないようにとの通達であろう。低いのは構わないのか。
 なぜ、そういう報道をしなければならないか、については、一般の外国人には理解しづらい。当地の鉄関係の友人に聞くと、中国の鉱石輸入は、日本高炉のように、共同して価格を決めるのではなく、日本の大手2社に匹敵するような大手数社が中心となって、海外鉱石会社と締結する長期契約価格と、それ以外の何十社もある中小高炉メーカーが、直接または貿易会社経由で、長契とは別の形で、取引の都度、価格を取り決めて購入するスポット取引があり、それが大きな比重を占めている。このスポットというのも、現実的には、すでに中国の港に陸揚げされた鉱石を、現物として購入するものもあり、海上運賃を含めた市況によっては、長契価格より大幅に割高なものとなっていた。
 だが、市況が一旦下がり相場の様相を帯びてくると、逆転することも出てきたのは自然の成り行きであった。08年の秋のリーマンショックで、自動車を初めあらゆる産業が減退し、鉄鋼需要も激減した。そして、それまで2割3割とプレミアムを払わされてきたスポット契約が、逆に下回るようにさえなった。そうなると、長契価格では、引き取らなくなる事態が起こった。スポットの方が安いからである。それを如実に物語っているのが、8月4日付けの「中新社」の以下の記事である。
2.
それに依れば、鉱石販売会社の安値売りにより、狂乱じみた安値が激増した。09年1-6月の輸入量は2.97億トンであったが、そのうち鉄鋼メーカーが輸入したのは1.66億トンで前年比9.6%増であった。一方、貿易会社が輸入したのは1.31億トンで、前年比90%増。これによって、貿易会社の輸入量の占める比率が、前年の30%から44%へと14%上昇した。
こうした貿易会社経由の鉄鉱石輸入が、市場を混乱させた原因であるとして、今後はすべて正規の輸入許可を取得したミルのみが、輸入できるような体制にする、と意気込んでいる。正規ではない輸入許可というものがはびこっていたのだろうか。規制が厳しくなればなるほど、裏から手を回して、実際に鉄鉱石を使わない企業までが、輸入許可を取得できていたのだろうか。WTOに加盟した21世紀の貿易自由化を唱導する国で、いまだに裏のI/Lがあるのか。
日本でもかつては、長期契約派と随意契約派に分かれて、それぞれがしのぎを削って、鉄鋼製品市場のシェアー争奪に明け暮れていた時代があった。それはアメリカからのスクラップの輸入が主であったが、原料炭などは、やはり米国の高品位のものが、即生産アップにつながるとして、すさまじい取り合いになったことがあり、そんな争奪戦のはげしい時代を経て、長期契約という形が定着してきたのである。通産省の指導という名の下に、生産規制、競争制限が行われてきた。過去数年で、1億トンが5億トン以上にもなった中国はもうしばらくは、この両派のどちらが生き残れるかの死闘が繰り広げられると見たほうが、妥当かもしれない。
3.
5月にリオティント社が日本の新日鉄と合意したあとも、長い間いわゆる三大鉱石会社との交渉は暗礁に乗り上げていた。それが8月17日になって突如として、中国が投資しているFMG社との間で、交渉が決着したというのだ。
待てよ、確か天津のコンプラドール関連で、中国の戦前の民営企業のことを調べていたとき、上海の財閥企業の雄であった栄氏一族、即ち国家副主席にまでなった、赤い資本家と言われ中国信託投資公司CITICの創設者、栄毅仁の長男が、これに絡んでいたことを思い出した。創業者である祖父から数えての三代目である栄智健氏が、豪州の鉱石会社の株式を取得して、その関連で豪州ドルの為替取引で、大損して会長職から追放されたのは、このFMGだったと思い当たった。
 09年の4月8日に香港の投資信託会社「中信泰富」の会長の職を辞すことになった、栄智健(Larry Yung)の白髪を真中から分けた顔が、思い浮かんだ。血色の良い肌で、眉は黒々とし、温和なGentlemanの容貌である。
当時の報道を振り返ってみる。
最初に彼の失脚を知ったのは、香港の鳳凰テレビでニュース番組の司会者、邱さんが、彼のことを「富は三代続かない」(日本の俗諺では、売り家と唐様で書く三代目)という一句に注意を喚起されたのだ。が、その翌日の中国のCCTV1チャンネルの報道番組で、記者が温家宝首相にマイクを差し伸べて、栄智健氏が為替取引に失敗して苦境に陥っているということですが、総理のご意見は、と問うたのに対して、「彼は中国に大変貢献してくれた人なので、彼が困難に陥ったなら、中央政府として、支援の手を差し伸べるのにやぶさかではない。」というニュアンスの発言をして、中国としても全面的にバックアップするような姿勢を見せたからであった。
 香港の一企業が苦境に陥ったからといって、普通なら中国の首相がそんなコメントを出すことは、ありえないだろうと思った。どうしてなのか、調べてみた。
4.
 今年は中華人民共和国建国60周年ということで、雑誌やテレビなどで、さまざまな特集を組んでいる。5月25日付けの「三聨生活」に60年前に上海市長として、共産党中央の命を受けて上海の解放を成功に導いた、洗いざらしの木綿の服を着て、右手にタバコを持った陳毅市長の写真が表紙を飾る特集記事から、栄氏一族の動きを抜き出してみる。
 栄智健の祖父は、戦前上海を中心に紡績業などで成功した。栄毅仁は四男で、家の中での地位は低く、謙虚な性格であった、という。蒋介石が台湾に逃れた後、彼の一族を含む上海の殆どの民族資本家たちは、共産軍が上海に来る前に、「共産、共妻」即ち資産も女房も共有されてしまう、取り上げられてしまうと恐れて大陸を離れ、香港、台湾、アメリカなどに脱出していた。
 結果として、弱冠33歳で2代目を継ぐはめになった、栄毅仁は上海に留まって、共産党に協力することを約した。それで、後に毛沢東から「中国の民族資本家No.1」という称号をもらっている。
 上海を捨てた民族資本家は、ちょうどロシア革命時に国外に逃れた資本家たちを白系ロシアと呼んだように、‘白系華人’と呼ばれていたが、栄毅仁は「赤い資本家」と言われていた。「赤い資本家」という言葉の定義は何だろうか。つい最近まで私は、この言葉を漠然と、共産主義に共鳴する資本家と考えてきた。  
最近になって、これは「共産党員の資本家」だと考えるのが適切だと思うようになった。それは、1921年創立以来の少数党員が、今や7千万人を超えるようになってきたことが、私にさとらせてくれた。私の70人の小さな会社にも3名の党員がいる。20人に一人の割合なのだが、これが15人に一人という方向になりそうな勢いである。さる党員の友人と話していて、どうしてこんなに党員が増えたのか、率直に聞いてみた。
 彼の返事は「今やねー、レストランのチェーン店から、自動車販売会社、不動産デヴェロッパーに至るまで、殆どの民営企業にも、党の組織が出来ていて、
書記もいるのさ。国有企業がどんどん減って、民営になった時点で、それまでの国有企業中心だった党組織が、民営企業に浸透してきたのさ。そして民営企業の方でも、党との関係無しには、何も出来ないような仕組みになっているのさ。」「今の中国で、ビジネスでお金を儲けようとするなら、入党しなければ、なかなか難しいのよ。まあ、よほど商才に長けて、資本があれば別だがね。
それでも、大きな会社になって、邪魔されないように、いじめられないようにするためには、党員になって党に協力するのが一番だろうね。」とのことで、そんなことも知らなかったの、と諭されたことであった。
5.
 この特集では、呉記者が当時の関係者をインタヴューしているのが特徴的だ。
1949年から56年までの7年間で、上海の民族資本家がどのように、共産党政権に協力し、そして最終的には公私合営という名の下で、国営化されていったかが、記されている。私は天津の梁さんから聞いた話を思い出しながら、栄毅仁がどのように赤い資本家になって行ったのかを、インタヴィユーから、すこしながらも知ることができた。
 88歳で今も元気にかつて民族資本家たちが住んでいた徐家花園に暮らしている徐さんは、栄氏の姉の友人だった。彼女は言う。「新中国建国後、栄家の家族子弟の殆どは、大量の金を持ち出して上海から脱出してしまい、33歳だった栄毅仁が、“申新”という紡績会社と、福新、茂新という製粉会社の全責任を負うことになったのさ。」
 又、今年94歳になる、当時上海の人民銀行の副頭取だった共産党幹部の孫さんは「私は当時、私営企業向けの借款を担当していた。それで栄毅仁と親しくなったのだが、彼は爽やかな人間で、自分の考えをはっきり言うし、話が上手で、人ともすぐ打ち解けあうので、親しくなったのだが、当時の上海で、彼の経歴と年齢は若輩だったわけだが、栄家の資産はとてつもなく大きかったので、党としては、特に重視し、彼が商工業界で模範的な役割を果たしてくれることを期待していた。」
 陳毅市長が率いる上海人民政府は、工商業支援策として、民族資本の紡績工業の再興を奨励し、外綿輸入に免税措置を与えた。栄氏が7つの工場を有する「申新」の総元締めとして、その当座預金を人民銀行に預けることを条件に、
特別借款を与え、政府としては、その資金で各工場の生産回復を支援した。
このニュースが香港に届くやいなや、香港に逃れた資本家たちは感動し、何名かの資本家は、資金提供や原料の供給を申し出てきた。
6.
 孫氏は更に続けた。「新中国成立当初の民族資本は、生き残れるかどうか、深刻な問題に直面していた。資産と原料はすべて国外に持ち出されてしまっていたからね。多くの民族資本家たちは、私をしょっちゅう訪ねてきては、苦境を訴え、資金援助を求めてきた。しかし、私も彼らの話を百%そのまま信ずるわけにはいかない。彼らの多くは、海外に殆どの資産を逃避させていながら、政府に金を出すように、持ちかけてきたからだ。」
 これは、人の褌で相撲をとる、という伝統的な手法である。この発想は今日でも生きていて、官の資金を引き出させて、大型プロジェクトを立ち上げるという事例が、至るところで行われている。民間の造船所が市内から2時間以上も北の長興島に建設する大型造船所に多額の公的資金を投資させ、大型製油所やLNGプラントからのダウンストリームなどの大型案件にも、公的資金を出させ、何も無い荒野を工場地帯に変じて、その案件を成功させた役人は、出世の道を歩むというのがサクセス ストーリーである。
 余談だが、ここ数ヶ月、大連のネット庶民は、市政府が福佳という9年前に出来たばかりの、不動産、商業、化学工業の3つの分野で急成長を遂げた会社に、大連化学という国有会社との合弁事業を許可した。それも通例に反して、国有側の方が、出資比率が低いという変則で、さらにひどいのは、人体に影響を及ぼす恐れのあるプラントを、人家から十分離れていない場所での稼動を許可したというので、大騒ぎとなっている。これを許可したトップを糾弾している書き込みが、削除され、文字化けして読めなくさせて平気でいる。 
7.
 話を栄氏に戻す。栄氏が孫氏に語った言葉として、「第一次大戦で欧州が、中国侵略の手を緩めたとき、栄家は紡績を始め、救国富強に努力した。初めは、蒋介石に希望を託していたが、理不尽なことから資産を取り上げられた。そしてその子分の宋子文も、我々の産業を取り上げようとした。戦後も彼らの警備司令部の特務機関によって、身代金誘拐事件に巻き込まれ、大金を取られてしまった上、企業の生産活動も思うように出来なくされてしまった。」
 天津の梁さんの長兄も誘拐され、生きて帰って来られなかったのだが、当時の身代金目的の誘拐は、警察と結託した連中がグルになっていたのだ、という。さもなければ、何時まで経っても、犯人が逮捕されないわけが無い、と。分け前は当然警察当局のしかるべきところに届けられた。
 栄氏は「国が強くなければ、企業が発展することは難しい」と考え、「共産党が、上海に入ってきたとき、もともと栄家の流動資産は枯渇していたのだが、政府が紡績工場の生産を回復するための資金を出してやろうというので、私はたいへん感激した。」との述懐を引用している。
 その後、公私合営となり、国が原料の綿を供給し、栄氏の工場がそれを紡績し、加工賃をもらって、国に綿布で返すという「加工取引」形式が続いた。
この文章を書いた呉氏は、この時代のことを「国家資本主義」と呼んでいる。
国が資本を出して、かつての民族資本家たちに生産を任せたのだ。改革解放後、30年経た今日も、そう呼ぶのがふさわしいかも知れない。自動車産業や造船業など、基幹産業は50%以上の株を国が保有して、生産技術を持った経営スキルに富んだ人間に任せている。
8.
 この栄氏が文化大革命の迫害を乗り越えて、30年前の改革開放で、CITICを
創設して、赤い投資家、国家資本主義の投資銀行として、60年前に人民銀行の孫さんが上海の民族企業を支援した金額の何万倍もの膨大な資金を投じることのできる仕組みを作った。それが国家副主席への道となった。
 冒頭に触れた、三代目の栄智健氏は、1966年に天津大学電機科卒後、吉林省の長白山水力発電所に配属となり、文革によって、父ともども迫害された。
四川に流され、6年間肉体労働に従事させられた。父親はこの間、守衛や肉体労働で、肝炎と眼底出血し、左目を失明した。71年に周恩来のはからいで北京に戻ることができ、翌年息子を北京の精華大学電機科で研究に従事させた。
 78年に父親がCITICを創設。暫くして、栄智健は精華大学での研究をするには年をとり過ぎていると限界を感じ、香港に移住して、父親が残しておいてくれた6百万香港ドルを元手に、独自のビジネスを始めた。天津の梁さんがジャーディン香港に移ったのも同じころであった。彼が梁さんと違うのは、父親のバックアップを梃子に、86年には香港のCITICに総経理として就任したことだ。当時まだ英国の植民地だった香港に、彼は中国政府が百%出資するCITICの香港現地法人の長となったのである。
それまでに培った香港経済界の人脈を利用して、中国政府の意向を汲んで、1997年に本土に返還される香港のインフラ、航空会社、電力会社、海底トンネルなど、返還までに事業をどうしようかと思いあぐねている、英系、地場系の資本から、次々と株式を買い進め、事業そのものを買収していった。
1840年のアヘン戦争以来、英国資本がコンプラドールを使って本土の鉄道や石炭鉱山などいろいろなインフラ、産業を買収したのだが、1990年代は、彼が本土の出先機関として、英国領香港のもろもろの産業、インフラを買収した形になった。
97年の香港返還が、彼にはまさしく、事業拡大の渡りに船となった。香港地場の華人資本家も、本土との橋渡し役として彼に何とか取り入って、うまく立ち回ろうとした。それが益々彼の事業拡大の踏み台となったのは当然の帰結である。
9.
 好事魔多し。96年まではCITICの出先として、CITIC本体とはつかず離れずうまく立ち回って、財を成した彼は、96年にCITIC北京の王軍会長に、香港CITICの完全分離独立を求めた。このとき、父親は国家副主席となっていた。一般的には、北京政府は彼の独立を認めないだろうという認識が強かった。しかし、彼は当時の中国政府の「一国二制度」というスローガンをうまく利用して、香港の出先機関を独立させるということが、中国にとって世界的ルールを守るという意思表明になるとして、独立を勝ち取ることに成功した。
 しかし、97年にアジアを襲った金融危機で、資金繰りが回らなくなり、中央のCITICから、十億香港ドル以上の支援を得て、難関を乗り切ったのだ。
その後は、順調に事業を伸張させ、香港のインフラ関連のみならず、中国本土に鉄鋼会社を設立し、その大元たる鉄鉱石を確保すべく豪州の鉱山会社に出資したのである。
 報道に依れば、その豪州の鉱山会社への出資金は豪州ドルで払い込まれるのだが、その支払いという実需をベースに、豪州ドルの為替取引契約を結んだ。
歴史にもしもは禁物だが、この豪州ドルの為替取引も、本来なら今回のような巨額の損失を出すようなことは、ほとんど起こりえないという仕組みであった。それが、08年のサブプライムローンに端を発した、リーマンショックで、栄氏の方だけが一方的に、雪だるま式に巨額の損失を被らねばならなくなるような、万に一つもありえないような事態が発生してしまった。それも実は彼の目の中に入れても痛くないというほど可愛がってきた愛娘に担当させてきた、中信泰富集団の財務部門が引き起こした事件であった。
10.
 彼が困難に陥ったとき、温家宝首相は「中央として救いの手を差し伸べるのにやぶさかでない。」との発言をした。彼は、どういう背景でこのような発言をしたのだろうか。毛沢東の評する「民族資本家のNo.1」、 CITICの創設者、栄毅仁の家系を苦境に追いこんではならないというような、古い考えからではなかろう。
夫人が大変な発展家で、自分で会社経営をしているということで、総理に就任するときに、いらぬ嫌疑を受けないようにと、離婚したという話を、複数の人から聞いたことがある。私自身も彼が2年前に日本で行ったスピーチや、英国の大学での靴投げ事件への対応。四川大地震や南方の雪害のとき、すぐさまとんでいって、人々を激励した大公無私の振る舞いに大変感動している人間である。
 温氏も青春を天津で暮らし、北京の地質学院で勉強して、甘粛省の地質関係の仕事で、金槌を片手に、岩をこんこんたたいて暮らしてきたそうだ。栄氏と略同じような世代で、お互いに嘗めた苦労を良く知り尽くしているだろう。その彼が、香港の中国返還を梃子に、巨大な富を築き、その資金、資本を本土の
いろいろな分野の産業に投資してきた。
 かつて、広東、上海、天津のコンプラドールたちが、10年で財を貯めた後、
コンプラドール稼業から足を洗い、マッチ製造や、紡績、セメント、石炭、鉄道など富国のために投資してきた。それが、弱体な政権とそのたび重なる政権交代の混乱のたびに、せっかく築き上げてきた工場資産をむしりとられ、誘拐に会い、ひどい目にあって、香港に逃れるほか無くなってしまった。
 文革でひどい目にあって、自由に香港に逃げ出せるようになった栄智健氏も、
やはり蓄積に蓄積を重ねた資産でもって、本土に多額の投資をして、共産政権を支えてきた。慈善事業には一切金を出さないケチとか、イギリスに大邸宅を買って、派手な生活をしているとか、今度の事件以来、水に落ちた犬を打てというような新聞報道がなされている。
今の北京中央としては、 CITIC香港へ支援の手を差し伸べるのにやぶさかではない。とのコメントを出すことで、これ以上の混乱を招かぬように配慮しているのであろう。一国二制度の香港での中国のシンボルが倒れては困るのである。 時宜を得たひと針が、九針をセーブする。
  大連にて 2009.8.25. 

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