忍者ブログ

日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

現在、新しいコメントを受け付けない設定になっています。

風馬牛

「順で不信」の方がましだと唱える御大将趙景深氏は近頃なんら大作も訳さず、主には
「小説月報」に「海外文壇ニュース」を紹介するのみ。これも勿論感謝すべきだ。あのニュースは彼が文献を訳したものか、それとも自ら問い合わせたとか研究したものか?知るすべも無いが。訳したものでも大抵は出所の説明がなく、調べようも無い。当然「順で不信」訳を唱える趙氏はそんなことに気を使う必要も無く、多少の「不信」があっても宗旨貫徹ということだろう。
 然るに私はひとつの疑問がわいた。
 「小説月報」2月号に氏は「新群衆作家近況」と題して、そのひとつに「Gropperはサーカスの絵入り物語『Alay Oop』を脱稿、とある。これは極めて「順」だが、この本の絵を見ると、サーカスではない。英語の辞書で書名の下の2行の英文注記の「Life and Love Among the Acrobats Told Entirely in Pictures」を調べて分かったのは「サーカス」の物語ではなく、「サーカス団員たち」の物語だった。こうなると勿論「不順」だが、
内容はそうなのだから、別の言い方も思いつかない。「サーカス団員」でなければ「Love」は生まれない。
「小説月報」の11月号に趙氏は「Thiessが四部曲完成」と教えてくれ、「最後の一冊、『半人、半牛怪』(Der Zentaur)も今年出版された」という。この「Der」を見て、ちょっと驚いた。これはジャーマン語で、辞典を引こうとすれば、(ドイツ系の)同済学校以外ではなかなか手に入らぬから、敢えて二心を持とうとは思わない。だが、その次の名詞を書かねば良かっただろう。書いたがために、叉疑問雑念が起こってしまった。この字は多分ギリシャ語で英語の辞書にもあり、しばしばそれを画題にしているのを目にする。上半身は人で、下半身は馬で、牛ではない。牛馬は同じ哺乳類だから「順」にするためには、混用しても構わぬが、馬は奇蹄類、牛は偶蹄類であるから分別した方が良い。「最後の一冊」を出すにあたり、わざわざ「牛」(ホラ)を吹いたら、趙氏の有名な訳「牛乳路」(Milky Way:銀河の意)を連想させられた。これは直訳又は「硬訳」のようにみえる。がじつはさにあらずで、縁もゆかりもない「牛」が入り込んだのだ。
 この故事は辞書をひくまでもなく、絵を見ればすぐわかる。ギリシャ神話の大神ゼウスは女性をとても好む神で、ある時人間世界に来て、某女子との間に男児をもうけた。物事には必ず偶があり、ゼウスの妻は大変嫉妬深い女神で、彼女はそれを知るや、机を叩くや椅子を鳴らすの大騒ぎ。その子を天上に取り上げ、機を見て殺そうとした。が、その子はとても天真で、そうとはつゆ知らず、あるとき奥方の乳頭をくわえて乳を飲もうとしたので、彼女は驚いてその子を押しのけ、人間世界にけり落とした。だが、彼は死ななかっただけでなく、後に英雄となった。
 だが、彼女の乳汁は「牛乳路」となった――いや「神乳路」とすべきだが。
白人たちはすべての「乳」を「Milk」と呼ぶし、缶入りの牛乳を見慣れているので、
時に誤訳も免れぬのは、むべなるかなで怪しむには足りぬ。
 しかし翻訳に関しては、一家言ある名人が、馬に出会って昏迷し、牛を愛することが、
性となり、「牛頭は馬嘴に合わぬ」訳も、少しは話のタネにすべしか――他人の話のタネにすぎぬし、これでギリシャ神話を少し知ることができたにすぎぬが、趙氏の「信で不順は順で不信(な訳)に如かず」の格言にとっては何の損害も無いことではある。
 これを称し「乱訳万歳!」という。

訳者雑感:日本で天の川をミルキーウエイと表記する人も別に珍しくもなくなった。
1930年代の中国でそれを「牛乳路」と漢字で表記し、銀河とか天の河という従来の表記より新鮮なイメージを持たせようとしたのだろうか。
 唐詩の英訳を見ていて、漢字の逐誤訳に出会って驚くことが多い。特に中国人で英語の堪能な(というか、
英会話は問題ないほどの達者な)人でも、中国語の本来のニュアンスには頓着せず、そのまま「柳色新」を  Color of Willow Newと辞書の一番目に出てくる意味をそのまま使って平気な人もいる。ひどいのになるとWillow Color Newで、これは香港や上海の租界で使われて来た、外国人相手のビジネスで通じればよいというピジンイングリッシュの影響だろう。
 今日の政治の世界でも中国的発想から、彼らの論理を漢字で表現するのに何の抵抗というか、気配りもしていないことが多々ある。
 南シナ海の島の帰属を巡って、ベトナムやフィリピンが抗議するのに対して、小国ベトナムの反抗を断乎として懲らしめねばならぬ云々という論調である。
 戦前の日本が「大日本帝国」と称して、東亜の迷える子羊たち、小国、植民地にされている諸国を統合して「大東亜共栄圏」などと思いあがったころを彷彿させる。
 もちろん彼らの人口、面積と比較したら、ベトナム、フィリピン、それに我が日本すらも
みな小国には相違ないだろうが、それは大国が使う言葉ではない。相手の立場で考えない国の発想だ。
    2011/10/13訳









拍手[0回]

PR

コメント

お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

カレンダー

06 2024/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

フリーエリア

最新CM

[09/21 佐々木淳]
[09/21 サンディ]
[09/20 佐々木淳]
[08/05 サンディ]
[07/21 岩田 茂雄]

最新TB

プロフィール

HN:
山善
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R