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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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談話録

魯迅先生はまもなくアモイに行かれる。自ら言われているように、また気候の関係で長くは住めないが、少なくとも半年か1年は北京を離れるので、実にさみしくなる。822日、女子師範大学学生会は学校が破壊された一周年の記念会を開き、魯迅先生が来られて演説したが、今回が北京最後の公開講演になるかもと思い記録し、私のささやかな記念の気持ちを表す。
人々は魯迅先生というと、少しばかり冷徹で、黙視しすぎる嫌いがあると感じるようだが、実際はいっときたりとも熱烈な希望に満ちていない事は無いし、豊富な感情を発露されないときはない。この談話でも、明確に彼の主張が出ている。では、今回の談話を記し、彼の出京の記念とするのも、意義の無いことではない。さて私自身についてだが、実直な人たちが取り越し苦労をせぬよう、
当日、私は一事務員として参加したということを説明しておかねばならぬ。
        (培良、雑誌「莽原」の寄稿者)                 
 
 昨晩「労働者セヴェリョフ」を校正し再度印刷しようとして、寝るのが遅くなり、今もボーっとしていて:校正中に忽然あることに思い到って、頭がとても混乱していますので、今日はあまりいい話をできないのではと心配です。
 私が訳した「労働者セヴェリョフ」のいきさつについて面白い話があります。
12年前欧洲の大混戦が起こり、後に我中国も参戦しました。即ち「対独宣戦」で沢山の労働者を欧洲支援に派遣しました。その結果、戦勝したのが所謂
「公理が戦勝した」というやつです。中国も戦利品を得て、――上海のドイツ商人のクラブの中にあったドイツ語の本、総数は大変な量で、文学関係が多かったので、北京の(紫禁城の)午門(巨大な楼閣を持つ門)の楼上に納めました。教育部はこれらの本を得て、整理分類しようとした――実は彼らがもともとしっかり分類していたのだが、誰かがよく分類できてないと言い出して、一から分類し直した――当時は多くの人間を使って、その中に私もいたわけです。
後に教育総長が、それらの本はいったいどんなものがあるのか見にくることになりました。それでどうしたかというと、我々に書名を中国語に訳させ、意味の通るのは意訳、無いのは音訳で、カイザー、クレオパトラ、ダマスカスなど。
(原文はすべて漢字の当て字だが省略す)一人毎月10元の車馬賃をもらい、私は百元ほど貰いました。当時は政府予算が潤沢だった。こうして一年余りいろいろやって、数千元使ったころ、対独講和が成立し、後にドイツが返還を求め、我々の取得したものも全て返還しましたが、数冊欠けたかもしれません。「クレオパトラ」は総長が見たかどうか知りません。
 私の知る限り、「対独宣戦」の結果、中国には中央公園にできた「公理戦勝」
の記念牌坊(中国式の鳥居のような門)と、私の手元の「労働者セヴェリョフ」の訳本一冊です。原本は当時整理していたドイツ語図書から選んだのです。
 膨大な図書の中にも文学書が大変多かったのにもかかわらず、なぜこれを択んだのか?どうもはっきりとは覚えていません。多分、民国以前、以後、我々には沢山の改革者がいたが、境遇がセヴェリョフととても似ていたので、彼の杯を借りようとしたのかも知れません。しかし昨晩読み返してみて、なんとその当時だけでなく、改革者が圧迫され、指導者が苦しむというのは、現在もー
そして将来も、数十年後も多くの改革者の境遇は彼と似ていると思ったので、私は重印しようと思ったのです。
「労働者セヴェリョフ」の作者、アルジバージェフはロシア人、今ロシアといっただけで、みなさんはびっくりするようですが、それには及びません。彼は共産党でもないし、彼の作品は現在ソ連では受け入れられていません。目が見えなくなってとても苦しんでおり、私にルーブルを贈ることなどできません。
要するに、彼はソ連とは無関係です。ただ、奇怪なのは多くの点で中国人と似ていて、例えば改革者、代表者の苦労は言うに及ばず:人々に対して、本分に安んじるようにと説教するお婆さんも、我が国の文人学者と同じです。ある教員が上司からの侮辱と罵倒にこらえきれずに歯向かって免職される。彼女は裏で彼を非難し、憎たらしいほど傲慢で、「ほら昔私は御主人さまからビンタを2回くらったけれど、じっと耐えて何も口応えしなかったさ。しまいには冤罪と分かって、ご主人さまは手ずから百ルーブルをお詫びにくれたださ」 勿論
我が文人学者はこんな拙い言葉は使わないし、文章ももっときれいですが。
 しかしセヴェリョフの最後の考えはとても恐ろしいものです。彼は最初社会のために行おうとするのですが、社会は彼を迫害し殺害しようとするので、彼はそこで一変し、社会に復讐しようとする。全てが仇で、一切を破壊しようとする。中国にはこのように一切を破壊しようとする人間はいない。多分いないし、そういう人がいることを望まない。だが中国にはこれまで別種の破壊者がいたので、我々が破壊しなくても、しょっちゅう破壊されてきたのです。一方で破壊されたのを、別のところで修理し、辛い苦労をかさねて生きてきました。
だから我々の生活は、一面で破壊され、またそれを補修し、又破壊され、それを補修してきたのです。この学校も楊蔭楡、章士釗たちが破壊した後、修復し、整理して過ごしてゆくのです。
 ロシアの婆さん式の文人学者は、それはにくむべき傲慢で懲らしめるべき云々、と言うかも知れぬし、それはもっともらしく聞こえましょう。だが実はそうとも限らぬのです。我が家に田舎から来た人が住んでいます。戦争のために家は無くなり、町に逃げて来ました。しかし彼女は高慢でもなく、楊蔭楡に反対したこともないのに、家は無くなり、破壊されてしまった。しかし戦争が終われば必ず帰ってゆきます。家が壊され、家具も投げ出され、田畑も荒れたが、生きてゆこうとしています。残ったものを拾い集め修理、整理してまた生きてゆきます。
 中国の文明はこのように破壊と修復の繰り返しで疲弊してしまい可哀そうなものです。だがある種の人はそれを誇り、破壊者すらもそれを誇ります。すなわち、本校の破壊者です。もし彼を万国婦女のなんとか会に派遣し、中国の女学校の状況を報告させたら、きっと「我中国には、国立北京女子師範大学があり」と言うでしょう。
 これはまことに残念なことで、我々中国人は自分のものでない物については、
きっとそれを壊していい気持ちになるのです。楊蔭楡はもはやここの学長はやってゆかれないと悟り、文の面では文人の「流言」を使い、武の面では(河北省の)三河地方の家政婦たちを動員して「女学生」たちをことごとく追い出してしまうことになったのです。
 私は昔、歴史書を見て、張献忠が四川省の民を殺戮したことにどんな意味があったのか、思い到らなかったのですが、後になって彼のことを知りやっと分かったのは:彼はもともと皇帝になりたかったのだが、李自成が先に北京に入城してしまい、皇帝になってしまった。それで彼は李自成の帝位を破壊しようとした。どうやって破壊するか?皇帝になるには、民百姓が必要、人民を殺し尽くしてしまえば、誰も皇帝になれぬ。民がいなければ、皇帝はない。李自成ただひとりが残り、誰もいなくなったさら地に醜態をさらすのみだ。これはまるで、学校が破壊された後の学長のようだ。これは笑止千万の極端なたとえだが、このたぐいの発想は張献忠一人ではないのです。
 我々はやはり中国人で、中国で起きていることを見るのだが、中国式の破壊者ではないから、破壊されても修復し、また破壊されては修理して生きるのです。我々の多くの命は無駄にされますが、自ら慰められるのは、いろいろ考えた結果、やはり将来への希望です。希望は存在にくっついています。存在があれば、希望があります。希望があれば光明がある。もし歴史家の話が出鱈目でなければ、世の中に暗黒の社会が長続きした先例はありません。暗黒は漸次滅亡するものにくっついており、それが滅亡したら暗黒も一緒に滅亡し、長続きすることはありません。しかし将来は永遠にあるものです。光り明るくなろうとするもので:暗黒の付着物にならずにいて、光明のために滅びるのなら、我々は必ず悠久の将来があり、きっと光明の将来があるのです。
 
  この会に出た4日後、私は北京を離れた。上海で朝刊を見たら、女師大は、
女子学院の師範部に改称され、教育部総長の任可澄が院長となり師範部の長は、
林素園がなった。その後北京の45日付夕刊に「今日午後1時半、任可澄は
特別に林氏と共に、警察庁保安部隊及び軍督察処の兵士40名を率いて、女師大に馳せ、武装接収した、…」
 一周年過ぎたばかりで、またも出兵を見た。来年のこの日、やはり兵を帯びて、開校記念日をするのか、それとも兵に破壊された記念日とするのか、今はしばらく、培良君のこの記録を転載して本年の記念とする。 
  19261014日  魯迅付記
 
訳者雑感:破壊と修復。これが2千年の中国の歴史であり、それを誰怨むことなく、忍耐強く生きてきたのが中国人だと思い到る。地上のものは、それが万里の長城ですら、何度も破壊され修復されてきた。況や都会の建造物をや!
地下の墓でも、有名なものは大半盗掘にあい、破壊されている。
 過去40年でも、文革で大抵の歴史的建造物や芸術的彫像などは破壊された。
それを直近の20年で、以前よりもスケールを大きくして立て替え、修復した。
全国各地に巨大な仏像が立てられた。あまりに多いので新規立像は禁止との話。
 魯迅の指摘する通り、中国人は自分のものでなくなると悟ると、壊してしまうのを何とも思わない人種が存在するようだ。四川省の張献忠の例は極端としても、人民を皆殺しにしてしまうという発想は、どこからでてくるのであろうか。
 その対極にあるのが、魯迅の家に避難している田舎のおばさんで、戦乱で家を焼かれ、家財もすべて失ってしまったが、戦乱が収まれば、また戻って行って、拾い集めたもので生活を再開する。この大地に根を生やした中国人が基盤のところに存在するかぎり、暗黒社会が長続きはしない、という楽観があるかぎり、人口は4億からほんの短い間に3倍に増えたのだろう。
  破壊修復:文革中に毛沢東が唱え始めたとされる「破旧立新」の発想は、
中国人から受容されやすいものなのだろう。それにしてもであるが、あの当時の
毛沢東の心境は、劉少奇という人間のものになってしまいそうな中国を、一度
破壊してしまおうとの悪魔のささやきが聞こえたのかも知れない。
何千万の無辜の民がそれによって死んでも構わぬと。
       2011/01/08
 

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 魯迅と進化論

1.
  2年ほど前から魯迅の作品が中国の教科書から削除され始めている。以前の理由は、現代の若者にとって魯迅の作品は「鶏のあばら骨」で、骨ばかりで食べるところが無い、という言葉に代表されていた。魯迅の作品に代わって採用されたのは、武侠小説で有名な香港在住の金庸氏の作品と伝えられた。こちらの方が肉のたっぷりついたKFCのように若者たちに人気があるらしい。
 日本ならさしずめ、漱石の代わりに、誰だろう、井上ひさしとかだろうか。
 
 20101231日のサンケイ新聞、上海の河崎真澄氏の伝えるところでは、
教科書出版元の人民出版社の削除の理由として
 ①作品の内容と現代の時代背景との差が開いた。
 ②中国語の用法が大きく変化した。
 ③作品の扱う内容が深刻すぎる、などを挙げていた。
 そして地元紙は「魯迅の文章は難しすぎる上、その言葉づかいは、現代の中国人のプライドを傷つけている」と削除賛成派の声を紹介した。
一方、魯迅の生地の浙江のネットには、「魯迅による国民性への批判を忘れて祖国の発展はない」と削除反対の論評で、「経済力をバックに国際的発言力を強める一方、内外からの批判を受け入れなくなった中国社会を問題視し、削除反対の立場を明確にした」と記者のコメントを附している。
そして次のように続く。
教育関係者の中には「批判精神が旺盛な魯迅の作品が、若者による中国共産党一党支配体制への批判に飛び火することを懸念したのではないか」との見方も出ている。
そして「祝福」など批判精神より文学性の色濃い作品に移った、と。
ここで気になるのは、記者が引用した言葉を発した「教育関係者」とはどのような人を指すのか?現場で教えている教師か、あるいは教育行政に携わる役人か?いずれにせよ今の中国では国家から給与を得ている公務員に違いない。
もし2010年の今日でも役人である教育関係者がサンケイという外国の新聞社に対して、一党支配体制批判に飛び火することを懸念したのではないか、というコメントを出せるようになったとしたら、冥土の魯迅も喜ぶことだろう。
 
2.地元紙のコメントの中で、「その言葉づかいは、現代の中国人のプライドを
 傷つけている」という一節がある。これは何を意味するのだろうか?
 「熱風」随感録42で、杭州の英国教会の医者が、医書の序に中国人を土人と呼んでいることに対して、魯迅はとても気分を害した、と書き出した。長くなるがなぜ世界に対して経済的な力を誇示して、EUやアメリカ、それにインドまで、その資金をバックにした「購買力」外交を展開して、GDP世界第二位の所まで来た中国人のプライドを傷つけるのか、見てみることにしよう。1920年代のことだ。
(上記の随感録より引用)
つらつら考えてみるに、今は忍受するほかないと思い始めた。土人という言葉は、本来その地に生まれた人を指し、なんら悪意はなかった。後になってその意味が多くは、野蛮民族を指すことになり、新たな意味を持ち出して野蛮人の代名詞になった。
彼らがこれで中国人を指すのは侮辱の意味を免れない。だが私は今、この名を受け入れざる以外に方法は無い。この是非は事実に基づくことで、口頭での争いでは決着しない。中国社会に食人、略奪、惨殺、人身売買、生殖器崇拝、心霊学、一夫多妻など凡そ所謂国粋なるものは、一つとして蛮人文化に合致せぬものは無い。弁髪をたらし、アヘンを吸うのは、まさしく土人の奇怪な編髪と、
インド麻を食うのと同じだ。纏足に至っては、土人の装飾法の中でも第一等の新発明だ。彼らは肉体に種々の装飾を施し、耳朶に穴を開け、栓を嵌める。下唇に大きな孔をあけ、獣骨を差し、鳥のくちばしのようだ。顔には蘭の花を彫り、背に燕の刺青。女の胸にはたくさんの丸くて長いこぶをつける。しかし彼女らは歩けるし、仕事もできる。彼らは今一歩の寸前で、纏足ということにまでは、思い到らなかった。……この世の中にこんなに肉体を痛めつける女性を知らないし、こんな残酷なことを美とする男はいない。
まことに奇事、怪事也。
 夜郎自大と古いものを後生大事にするのも土人の一特性である。英国人George Grey(1812-1898)はニュージーランド総督の頃、「多島海神話(ポリネシア)」を書き、序に著書の目的を記し、まったくの学術目的ではなく、大半は政治的手段だが、彼はNZの土人には、理を説くことは不可能だと書いている。彼らの神話の歴史の中から類似の事例を示して、酋長祭司たちに聞かせれば、うまくゆくという。
 例えば鉄道を敷く時、これがどれほど有益か口をすっぱく説明しても、決して聞く耳を持たない。もし、神話に基づいて、某大仙人がかつて一輪車を推して虹の上を歩いた。いま彼にならって一本の道を造るといえば、ダメだとは言わなくなる。(原文は忘れたが、大意は以上の通り)
 中国の十三経二十五史は、まさに酋長祭司らが一心に崇奉する治国平天下の
譜で、向後、土人と交渉する「西哲」が、もしも一篇手作りすれば、我々の
「東学西漸(東方の学問が、西方に漸進する)」の手助けになり、土人を喜ばせることになろう。
 引用が長くなったが、この文章を読む時、現代中国の若者は、大きなギャップを感じるだろうし、反感を持つかもしれない。過去のことになったのだろうが、聞きたくも無い非人道的なこととして。決して誇れるような過去ではなかった、と感じることだろう。「プライドを傷つけられた」と感じるかもしれない。
 
3.進化論
 魯迅はこれ以外の場所でも、頑迷固陋で古くから守って来た「国粋」を絶対手放さず、一切の改革を拒否する保守派を罵倒し続けてきた。
 その根源は何だったのであろうか?
 「父の病」にも書かれているが、ほとんどペテンだとこっぴどく否定して憚ることのなかった、漢方医否定に典型的に示されるものだろう。中華民族がこのまま、後生大事に古いものに固執し、進化論を受け入れなければ、上記の土人たちと同様、西洋の植民地にされ奴隷にされ、進化どころか退化して滅亡させられる恐れがある、と声を限りに叫び続けた。
 彼の時代には、ダーウインやハックスレーの進化論、自然淘汰説などが一世を風靡した。欧州人が考えたそれらの論や説をそのまま信じるとすると、進化論的に優位な立場にあり、身体能力、智恵に優れた欧州人が未開のままの土人たちを使役し、土地も富も取り上げ、種族は滅亡の危機に瀕する。そのストーリーが中国沿岸各所に徐々に浸透してきているにも関わらず、纏足に代表される「土人的」風習を頑迷に持ち続ける中国人に、一刻も早くそんな古いものは棄て去って、西洋近代化の原動力の一端となった「進化論」を始めとした近代文明を取り入れねばならない、と啓蒙し続けたのが彼の文章であったと思う。
 
4.今西錦司の「進化論」は「ダーウインの進化論」とは違うと言う。
最近、今西錦司の「ダーウイン論」土着思想からのレジスタンス(中公新書)を読んでいる。京都で暮らしていたころ、下宿の2軒北が彼の住まいだった。
煉瓦塀の中にうっそうとヒマラヤ杉のような大木が何本もある中に、洋館があり、その方面に興味のある友人が、有名な学者だと教えて呉れた。先日、近所を尋ねたとき寄ってみたら、我が下宿は3階建てになり、彼の家も数軒に分けられて、奥の方に同姓の新しい家が建っていた。向かいの酒造家の屋敷は45年前の風格そのままであった。
 そんな個人的な思いを抱きながら、彼の著書は読んだことは無かった。彼が
晩年70数歳でダーウインの「種の起源」を原著で読まねば、あの世に行って、
ダーウインとダーウインの論理でダーウインを批判できない、と思って、岐阜大学の友人に原著を拡大コピーしてもらって、2か月かけて読んだ、とある。
ダーウインの進化論は大変なものだが、自然淘汰説と混同してはいけない。
「ダーウイン亡き後の学者は殆ど彼の提灯持ちで、ダーウインの信奉者は誰ひとりダーウインの不利になるようなことは、おくびにも出さない。つまりダーウインの伝記や礼讃がやたらに多くて、一人として「ダーウイン論」をまともにやっているものがいない」(同書9頁)というのが、この本を書く出発点であった。
 今西の論点は自然淘汰ではなく、「定向進化論」にあり、「定向進化論」にもその歴史があり、いつも少数派で、たえず主流派の弾圧を受けながらも、今でもその命脈を絶やさずに、生き続けてきたのである。(同書166頁)
 「定向進化論」については、彼の著書に直接当たってもらう他ないが、彼は「私の書く本は自然科学書とは取り扱われないだろう」(同9頁)としている。
そして進化論に関しては、真理は一つとは限らぬ、とも述べている。
「進化を歴史と見なそうという立場は、もはや生物学の立場ではないかもしれない。(中略)進化を生物学の枠から外して、もっと大きくとらえ直そうとすることが、生物学者にはできない思想家の役目であるならば、かつては生物学を学んだ私ではあるけれども、今の私は一人の思想家であるといわれることを、かならずしもあえて辞退するものではない」(同154頁)
 「私をしてアンティ・ダーウイニズムに傾かせているものがあるとすれば、それはやはり棲み分けに端を発した私の自然観であり、(中略)それは一種の
停戦協定ができたようなものである」と考えている。
 そこには、19世紀から20世紀にかけて殆ど地球を占領しそうになった西洋進化論者たちへのレジスタンスがあり、未開とか遅れていると言われた地域に住んでいた人間と生物が、ダーウインのいうようには絶滅せず棲み分けによって、停戦協定の下、生存し続けてきている、と主張している。
 
5.現代中国人は魯迅を削除せず、読んで批判してこそ将来展望が開けてくる。
 魯迅は、儒教の経典を暗唱できなければ合格できないといわれた科挙受験のための勉強を、途中で止めて洋学に転じた。その当時は、そんなことをする者は魂を外国の鬼に売り渡す者だとさげすまれた。
しかし彼が南京の学校で学んだのは進化論をはじめとする西洋社会進化論で、それに基づけば、眠れる獅子中華民族はこのままでいたら欧米列強に淘汰されるとの恐れに突き動かされた。進化、改革せねば滅んでしまうという恐怖。
英米など西欧文学は優位者の立場を擁護、弁護するものが多く、魯迅の参考にはなりにくい。彼らに圧迫されている少数民族の文学に、その当時の清国の状況に近いものを見た。といって少数民族の言葉を読めない彼は、それらを多く翻訳しているドイツ語に注目して仙台の医学校を辞めて東京に戻ってから帰国までの数年間にせっせとドイツ協会の語学校に通った。
 ダーウインやハックスレーは魯迅にどんな影響を与えたか?
生存競争、適者生存、自然淘汰、これらの言葉が呪文のように、魯迅の頭の中で「改革」「変革」をして西欧の進化に追い付かねば、デクの棒のように西洋人に使役され、ロシア人のスパイとして銃殺されても、それを眺めて喜んでいるだけの中国人は、いずれこの地球から滅びてしまうというのではないかという危惧が、彼におびただしい量の文章を書かせた。
彼の文章は彼が生きていたころの同世代の人々、特に青年たちにどれほどの影響を与えたかは、正直言ってよく分からない。革命政権樹立後に祭り上げられたような大きな影響は無かったのではないかと思う。しかし、少数派として常に叫び続けてきたこと、そして1936年に死んだとき、約6千人の上海市民から贈られた「民族魂」と書かれた布にくるまれて、万国公墓に埋葬されてからじょじょに内外からの評価が高まったのではないかと思う。
 1920年代から30年間全土での内乱と日本の侵略による荒廃と抵抗を経て、なんとか新しい中国を造ることに成功した。そのときに毛沢東が彼を、「骨の硬い」先駆者として祭り上げ、全国各地に魯迅の名を冠する記念館、公園、芸術学院などを作り、大宣伝して「聖人」にしてしまった。彼は決してそうではないし、そうされることを拒絶する部類の人間だと思うが。
 その結果、台湾や米国に逃れた人を除き、殆どの人がダーウインの信奉者と同様、伝記と礼讃がやたら多くて、まともな魯迅論を出せなくなってしまった。これは不幸なことである。魯迅の信じた進化論。それは今そのまま通用しなくなってきている。確かにそれまでの聖書にあるような「地上の生き物はすべて神が創造したもので、生き物が自然に進化することはない」という天動説を引っ繰り返したダーウインは偉大であるが、その後の遺伝学の発展により、突然変異とか、いろいろ新たな発見がなされ、今西氏のような少数派もいくらか出てきた。それがダーウインを批判し、より真理に近いものにしようとしている。ダーウインの偉大な点を認めながらも、真理は一つとは限らないというのが大事である。
6.
 話は飛躍するが、アメリカに住んでいた人が私に語ってくれた話だが、アメリカにいる黒人がアフリカにいる黒人より体格も優れ、たくましいのはなぜかと訊く。答えに窮していると、アメリカ人の言うには、
① そもそもアフリカで頑丈そうなのを奴隷として集めてきた。
② 奴隷船の船倉に丸太棒のように押し込められて大西洋横断中に、死なずに上陸できた生命力の強いものの子孫である。
③ 南部の綿花畑のきびしい環境下、長時間労働に耐える体力を培った。
④ 農園主も労働力商品として生活管理を徹底し、長生きするよう大事にした。
等で、今のような頑強な体力の子孫が生き残った、という。
なんだかダーウインの進化論の亜流の感がする。
 これと似た話は、福建、広東から子豚が母豚の乳を吸うような格好で、船倉に押し込められて、東南アジアに苦力として運ばれてきた豚の子と呼ばれる華人の子孫たちも、輸送途上とか熱帯雨林のゴム園での苛酷な労働にも耐えて生き残った者の子孫だから、つよくてたくましいと言われる。百年もせぬうちに、移民先で政治的経済的な支配階層にもなっている。
話をアメリカに戻すと、華人よりもたくましい大統領が生まれたことは特筆に値する。タイやシンガポールの首相とは歴史的な重みが違うと思う。しかし
去年のオバマ大統領の中間選挙での敗北の一因に、彼が掲げる「Change」に同調できない、ダーウインの進化論を学校で教えない人たちの声が反映されている、と伝えられた。百年、二百年前の移民してきたころと同じ生活を大事に守って暮らす方が、Changeより大切であると信じている人たちが、発展はせずとも、先進科学文明に滅ぼされずに、個体数を減らさずに生きているのだ。これも今西論に近いかもしれない。棲み分けである。
しかしながらアメリカはダーウインの進化論以上に進歩しているのは素晴らしい。アフリカ系の先祖を持つ人間が一国の大統領になれる寛容さがあるのだ。
その一方で、少数派と言わざるを得ない上記のような白人も許容されている。
7.
 魯迅は生きている頃は、大多数の現状肯定派を罵しる少数派であった。
今、彼はまたもとの少数派に戻されようとしているようだ。少なくとも学校の教科書からは。
今の中国は7千万人と言われる翼賛的な共産党員の中から選ばれたエリートが13億人の中国人を統治する体制のなかで、「マルクス主義や毛沢東思想」というバックボーンを喪失した状況にある。そこで先祖がえりともいうべき、儒教的な考え方をより所にしようとする動きが顕著になりつつある。魯迅の否定した「孔子を聖人として崇める」考え方が、復活しつつある。全国各地で破壊され荒廃して放置されていた孔子廟が修復され、論語や儒教関係の本が書店の大きな売り場を占め始めている。子供向けの儒教の教養古典もどっさり並ぶ。
それを学ぶことが、受験にも役に立ち、エリートへの道を歩みだすための、入場券になりつつある。
 70年前まで、進化論に突き動かされて、改革をしなければ民族は滅びると叫びつづけた魯迅の文章を「現代中国人のプライドを傷つける」ものだとして、削除否定してしまうような尊大な「高慢さ」が、はびこってきているなら、夜郎自大と言われてもしかたあるまい。
 人間は物質的にある程度豊かになり、日々の暮らしが安定してくると、変化を嫌うようになるのだろうか。もともとが保守派が常に優勢を占め、新法とか改革派というのが、政治的には追い落とされてきた長い伝統の国であるから。
   2011/01/04記 
 
 

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「(未払い)給与支給」の記

 午後、中央公園でC君と(翻訳)作業をしていたら、突然昔の親しい仲間が知らせて呉れた。(教育)部で今日から給与の三割を支給するが、本人が三日以内に受け取りに出頭のこと、と。
「さもないと?」
どうなるか何も言わないが、それは火を見るより明らか。行かねば呉れない。
 お金が自分の手を通るとなると、檀家のお布施ではないが、人はどうも威張りたがるようだ。さもないと自分がつまらぬ人物だと思うのかもしれぬ。
確かな物品を質に入れるのでも、質屋は偉そうにふんぞり返って、高いカウンター越しだし、銀貨を銅銭に換えるのも両替屋は「銀貨買入」の張り紙で隠然と自分が「買主」だということを示したがる。手形も交換所に持参して換金しなければならぬが、ごく短い期間を設定し、受領書にサインしてから順番待ちの列に並べとどなられ、国粋のムチを手にした巡警に睨まれる。
 言う事を聞かないと、銭を貰えないだけでなく、ムチで打たれる!
 前にも書いたが、中華民国の役人はみな平民出身で、特殊な人種ではない。
高尚な文人学者或いは新聞記者たちは、彼らを異人種のようにみなし、自分たちより奇妙な田舎者で、おかしな連中と考えている。だがここ数年の私の経験では、何も特におかしな所は無く、すべて性癖も普通の同胞と同じだが、金が手を通るとなると、例の通りちょっと威張ってみたくなるのだ。
「本人受領」問題の歴史的起源はだいぶ古く、民国11年にはこの件で、
方玄綽(魯迅の小説中の主人公)の騒ぎが起こり、私はそれを「端午の節句」に書いた。だが歴史は繰り返すというが、印刷版木ではないから、今回と昔とは少し違う。往時「本人受領」を言い出したのは「給与要求会」――嗚呼、この専門用語を解説する暇のないことを諒とされよ、そして紙幅も惜しい――のモサが、昼夜奔走、国務院に陳情し、財政部前で坐り込み、それで入手するや、一緒に要求に行かなかった人には、功なくして禄をはむ者として、心にわだかまりを感じ、本人受領にして少し苦労を舐めさせようとした。
その意味はこの金は我々が取って来たもので、自分たちのものだと言いたいらしい。欲しければここに来て布施を受けるべし、と。衣や粥を施すのに、施主の方から施しを受ける者の家まで届けに行くかい?
 しかしそれは盛時の話。今やどんなやり方で「要求」しても一文も呉れない。
もし偶々「支給」するとしても、お上からの思いがけないお恵みで、「要求」とは何の関係も無い。だが時に「本人受領」の触れを出す施主はまだいるようで、
ただそれは給料要求の上手いモサではなく、毎日「出勤簿に判を押して」他に生計を立てようとせず、そして「二朝に出仕しなかった臣」なのだ。だから
以前の「本人受領」は一緒に要求に行かなかった者への罰だったが、今回は、空腹のために役所に来られなかった者への罰なのである。
 だがこれは大枠のことで、これ以上は身を以て臨まなければ分からない。
酸辣湯(酸っぱくて辛いスープ)一つとっても、話を聞くより、自分で飲んだ方がずっとよくわかるのと同じである。
最近わけの分からない名人たち数人が、間接的に私に忠告をする。去年私の書いた文章は、専ら数人と意見衝突を起しただけで、文学芸術と天下国家を論じることがなくなってしまったのは残念だ、と。
 何のことか分からなかったが、近頃なんとなく分かって来た。身をその境の小事の中においていても、尚且つ明らかにすることはできず、はっきりしたことも言えない。況や、あのような高尚で大事なこととはいえ、自分があまり分かってもいない事業については何も言えない。今私が言えるのは、比較的身近な私事だけで、立派な、所謂「公理」の類は、公理の専門家に任せよう。
 要するに、今回の「本人受領」を主張するものは、前回とはだいぶ違うと思うし、即ち「孤桐先生」の所謂「事態はいよいよ悪くなる」で、更には大騒ぎする方玄綽のような男も数えるほどしかいない。
 
「さあ行こう!」知らせを聞いてすぐ公園を出、俥に乗り、役所に奔った。
中に入ると巡警が直立敬礼したから、役人やるなら出世しなきゃいけないということが分かる。辞めてもうだいぶ経ったが、彼らはまだ私の顔を知っていた。
だが中に入っても誰もいない。勤務時間を午前に改めたので、多分みな受け取って帰ってしまったのだ。小使いを探して「本人受領」の要領を聞くと、まず会計科で伝票をもらいそれを持って窓口でお金を貰う。
 すぐ会計に行くと、職員がジロッと顔を見て、伝票を取りだした。彼は古い職員で、同僚をよく知っていて「本人確認」の重大任務を負っているのだと分かった。伝票を貰ってから私は特に二回頭を下げ、告別と感謝の意を表した。
 次は窓口。まず横の門を通り、上に「丙組」の張り紙と小さい字で注意書が
「百元未満」とある。手にした伝票には九十九元とあり、心中、これは正しく
「人生百に満たぬも、常に千歳の憂いを懐く。…」と思った。と同時にまっすぐそこに入った。私と同年輩の役人が「この百元未満」は給与全額のことで、
私のはここではなく奥の方だ、という。
 奥に入ると、大きな卓が二つあり、その周りに何名かが坐っていて、よく知
っている顔が私を呼んだので、伝票を出し、サインして銭票を貰った。順風と
いうべし。この組の傍らにとても太った役人がいて、多分監督官で官紗(絹の
薄物――或いは緞子だろうが、衣服に詳しくないので分からないが――シャツ
をはだけており、ぶよぶよの胸から三段腹に玉の汗がたらたらしたたっていた。
 それを見て端無くもある感慨に打たれた。現在皆が「役人の災難」「役人の窮
乏」と叫んでいるが、どっこい「心も広く体もでっぷり」したのはまだ少なく
ないと思った。23年前、教員が給料支払い要求で騒いだ時、学校の教員控え
室に飽食の者がいて、ゲップをすると胃の中のガスが口から出てきた。
 外に出ると同年輩の男がまだいたので、彼に不満をもらした。
「なんでこんなことをするの?」
「これは彼の意思で…」穏やかにニコニコしながら答えた。
「病人はどうするの?戸板に乗せて来るの?」
「彼はそういうケースには別な方法で処理する…」
 そこまで聞いて分かった。只「門――役所の―外漢」には解らぬだろうから、
注釈がいる。この彼とは総長か次官のこと。この時誰を指すかははっきりしなかったが、もっと掘り下げれば誰を指すかは分かるが、更に追求すれば分からなくなろう。要するに給料が入ったから、そんなことは「これ以上詮索せぬが
良い」さもないと、危うい目に会うことになる。今私が口外したのも既に穏当ではないのだから。
 それで窓口から出、昔の同僚たちに会い閑談した。まだ「戊組」まであって、すでに死んだ人の給料を払うのだが、この組には「本人受領」はないだろう。
今回の「本人受領」を言い出したのは「彼」だけでなく「彼ら」も含む。彼らとは「給料要求会」のボスたちのようだが、そうでもないらしく、役所にはとうに「要求会」は無くなっており、今回は別の一派を率いる新人物の由。
 今回「本人受領」の給与は、中華民国13年の2月分。それで事前に二つの学説があり、一つは132月の給与として払う。しかしそれだと新しく入省した者や新たに増額した者は、隅に追いやられた感を免れぬ。それで第二の学説が出て来て:往時のことは構わず、今年の6月分として支給する。しかしこれだと大いに不当で、「往時は構わぬ」の一言が問題なのである。
 この方法は以前もその処理に苦心した。去年章士釗が私を解任した後、官位を失って大打撃を受けたと思い、数名の文人学者が欣喜雀躍した。が、彼らは利口な人たちで、「部屋中すべてがドイツ語の本」に囲まれている人だから、すぐ私が単に官位を失っただけでは、一敗地に塗えるまでに至っていないことを悟った。私は未支給だった給与の支払いを得て、北京で生活できるのだから。そこで彼らの局長劉百昭は教育部の会議の席で、未支給分は支給せず、その月に支払うのはその月の分にしようと提案した。もしそれが実行されたら私は被害甚大で、即、経済的圧迫を受けることになる。
しかしその案は最終的には通らなかった。
 その提案の致命傷は「往時は構わず」にあり、それゆえ劉百昭は革命党だからといって、全てを一からやり直すという主張を押し通すわけにはゆかなくなった。だから今政府から出た金は、以前の分に充当し、たとえ今年北京にいなくても、132月にいたなら、実際に今いないからといってそれをカウントしないというのは難しい。しかし新しい学説が出た以上、少しはそれを考慮せねばならず、その結果は調整ということになる。このため我々の今回の伝票上の年月は132月とあるが、金額は156月分となる。
 かくして「往時のことは構わぬ」のではなく、新人や昇進、増額した者も少しは入金でき、多少ましになった。私には益無く損無しで、ただ今はまだ北京にいるから「正身」を示せる。
 私の簡単な方の日記を見ると、今年は4回支給あり:1回目は3元。2回目は6元。3回目は8250銭。即ち25%で端午の節句の夜に受け取った。4回目は3割で99元即ち今回。(魯迅の給与は月3百元弱と分かる、高給か)
私の未払い分累計は約9,240元(30カ月分)これには7月分は含まず。
 私は精神上の金持ちになった気分。惜しいかなこの「精神文明」ははなはだ頼りなく、劉司昭がこれを脅かしに来る。将来理財に長けた者が「未払い給与整理会」を設立して、事務所に何名かが坐り、外には看板をかけ、未払い分のある人たちはそこで相談することになるかもしれぬ。数日後または数か月後、人はいなくなり、看板も無くなり、精神的金持ちは物質的貧乏人に変じる。
 なにはともあれ、今確かに99元が手に入ったので、生活はちょっと安心できるようになったから、閑にまかせてまた議論をしよう。
           721
 
訳者雑感:
 30カ月分の給与が未払いでも生活できたのは、もともと高給で蓄えがあったのか、兼任の講師料や原稿料などで凌いできたのだろう。それにしても1回目は3元、2回目は6元、というのは給与の1%とか2%で、これでもなにがしかの足になったのであろうか。
 魯迅を北京から追い出そうとした章、劉たちの目論見は、官位的には彼を追い詰めたが、経済的には未払い給与支給が助けとなり、北京からの追放は果たせなかった。だが彼は翌8月北京を去ることになった。これにはいろいろな事情があるようで、これからおいおい翻訳してゆくことで明らかになろう。
 この当時まだ現在のような「銀行」が整備されておらず、「銭票」という名の
「手形」を発行する金融業者が中国各地に支店を開き、そこが発行する「票」で、大きな金額の支払いに充てていた。山西省の平遥には当時全国一の金融街があり、中国の「Wall Street」と呼ばれていた。訳者が前に訪問したとき、90年ほど前の町並みが保存されていて、大勢の中国人が観光に訪れていた。なぜこんな(日本人的には)内陸の奥地に金融街ができたのだろうかと不思議に思った。説明に依れば、南方のお茶を大量に内蒙古、モンゴルなど北方へ(モンゴル経由ロシアとか)販売する商取引が大変盛んで、その代金の支払いに「銭票」が不可欠であった由。富山の薬売りと同じで、多額の商品代金を現金(銅銭)で国元に持ち帰るのは、物理的にも重くて大変だし、途中強盗に奪われる危険が高い。それで「銭票」という手形を介して安全な取引にしたのが、この奥地に金融街が出来上がった由縁であった。
因みに、日露戦争の取材に満州奥地に入る外国人記者の必要物資を運ぶ大八車の写真には、車一杯に千枚ずつ紐を通した銅銭の山が積みこまれている。説明に奥地で食糧を調達するには、これでないと何も買えないからとある。
 魯迅が教育部に奉職して「高官」として勤務していたころ、月給三百元というのは、どれくらいのものだったか知りようもないが、3元とか6元の支給が意味を持っていたということから判断すると、相当なものであったことは、間違いないだろう。
 それが論敵、章士釗により解任されたということは、彼にとっても大きな痛手で、一家を養うために苦労した。それ以外もろもろの事情によって、北京を離れざるを得なくなった。この年は彼にとって大きな節目の年であった。
 2010/12/31
 

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7月8日

 午前、伊東医師の所に歯の治療に行く。客間で待つ間、無聊だった。壁には織物の絵と2対の聯が掛っているだけ。一つは江朝宗ので、もう一つは王芝祥
の。署名の下にそれぞれ二つの印があり、一つは名前でもう一つは称号:江のは「迪威将軍」王のは「仏門弟子」とある。
午後Miss高来訪。おやつが切れていたので、大事に取っておいた「口角のおできに効く柿霜糖を皿に盛って出す他なし。普段はおやつがあり、客にはそれを出すのだが:当初はMissMr.は一視同仁だったので、Mr.はややもすると出したおやつを一つ残らず平らげてしまうので、私の方が少し不満に感じ、自分も食べたいなら又買いに行かねばならぬ。そこで戒めとして方針変更し、やむをえないときは落花生に代えた。これは大変有効で、そうは沢山食べられぬし、あまり手を出さない人には丁寧に勧め、落花生の嫌いな織芳などは逡巡して逃げ去った。去年の夏にこの落花生政策を発明してからは今も継続中。しかし
Missはこの限りに非ずで、彼女らの胃は彼らより五分の四ほど小さく、消化力も十分の八ほど弱いので、小さなおやつでも大抵半分は残すし、砂糖菓子でも少しは残す。いくつか並べても少し食べるだけで、私の損失は極わずかだから「なんぞ改めんや」。
 Miss高はたまにしか来ない客ゆえ、落花生政策は取り難い。他におやつはなかったので、柿霜糖を出すしかなかった。これは遠方からのお土産の名菓で、勿論見栄えも立派だ。
 これはそんじょそこらの物とは違うから、まず來源と効用を説明せねばと思ったが、Miss高は一目瞭然。彼女はこれは河南の汜水県の銘菓で柿霜から作ったものと言う。最上品は濃い黄色で、淡い黄色は純粋の柿霜じゃない。これを舐めるとす―っとして、もし口角におできができたらこれを含むと徐々に口角から流れ出てすぐ治る、と。
 彼女は私の耳学問よりずっと詳しく、もう何も言えなくなった。この時になって、彼女が河南人だったことを思い出した。河南人に柿霜糖を勧めたのは、私に紹興酒を勧めるようなもので、まさに「その愚や、及ぶべからず」だ。
「茭白(マコモ)」の芯が少し黒いのを我々は灰茭といい、田舎の人間すら食べないが、北京では大宴会にもこれが出る。白菜は北京では一斤いくら、一車いくらで売られるが、南方に行くと根元を縄でしばり、八百屋の前に架け、買う時は一両(1/10斤)いくら、半株いくらで買い、火鍋の煮えたぎったところに入れたり、フカヒレの下に敷く。だがもし北京で私に灰茭を勧める人がいたり、
あるいは北京人が南方に行った時、白菜の煮たのを勧められたら、「おバカさん」とまでは言われないとしても、間の抜けたことを、と言われるだろう。
 しかるに、Miss高は一切れ食べて主の面子を立てて呉れたのだった。
 夕方ぼんやり坐りながら、これは河南以外の人に勧めるべきだったと考えながら食べている内に、平らげてしまった。
 凡そ物は希なるを以て貴しとす。欧米留学生の卒論は李白や楊朱、張三がいい。バーナード・ショーやウェルズなどはよくない。ましてやダンテなどは、「ダンテ伝」の作者バトラーもダンテの文献についても実際は読み終えてないと言っているくらいだ。中国に帰ってからバーナード・ショーやウエルズ、更にはシェークスピアなどどしどし講じたらよい。某年某月、私はマンスフィールドの墓前で痛哭した云々とか、某年某月、某所でAフランスと会った時、彼は私の肩を叩いて:君は将来私のようになる!と言った云々、と言えば良い。
「四書」「五経」の類に至っては、本国ではなるべく語らぬ方が良い。「流言」をそこに混ぜこんでも、「学理と事実」の妨げになることはなかろう。
 
訳者雑感:
 魯迅が役人になりそうな友人からもらった柿霜糖の黄色は濃かったかどうか。
私は濃くなかったのではないかと思う。
Miss高の言によれば、濃くないのは純粋の干し柿の霜から作ったのではない由。それでも彼女は魯迅の面子を立てて一切れ食べて呉れた。だから魯迅は、芯の白くないマコモが北京の宴席で重宝されることや北京の白菜が南方で貴重にされることを書いた後に、凡そ物は希なるを以て貴しとすると論じている。
 欧米留学帰国組が、彼の地でちょっと12度会った著名な文学者たちを引用して、自分の箔をつけたりしていながら、実際は薄っぺらな思想しか持ち合わせていないこと、生半可な理解認識しかない「四書」「五経」を持ち出したりして、古文古典を間違って使っていることすら自覚せずに、魯迅の「口語文」を攻撃してくる論敵への反撃である、と思う。
 当時の欧米文化の中国への紹介はまだまだ遅れていて、口語での翻訳もいまだしの感があったのだろう。彼は友人たちと共にせっせと翻訳に精をだした。
彼はそれらの文学を中国の青年たちに紹介することに情熱を傾けていた。特に
青年たちに勇気を与える作品。感動させる作品を。その前に彼自身がそう感じたものであること、言うまでも無い。
  2010/12/25
 
 

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そうですか

77日 晴。
 日々の天気は書いている当人も面倒ゆえ、今後は書かないことにする。
北京は幸い大抵晴れの日が多い。もし梅雨時なら、午前晴れ、昼過ぎ曇り、午後一時大雨、泥壁の崩れる音、聞こゆ。となるが書かないことにしよう。私の日記は将来気象学者が参考にすることはありえないから。
 午前、素園を訪問、閑談す。彼の話では、ロシアの有名な文学者Piliniakが先月北京に来たが、もう去った由。
 彼が日本を訪問したのは知っていたが、中国に来たのは知らなかった。
 この2年で、中国に来た有名な文学者は、私の知っているのは4人で、一人は勿論有名なタゴール、即ち漢字名「竺震旦」(竺はインド、震旦は古代インドが中国を指した言葉:出版社注)だが、インド帽をかぶった震旦人(徐志摩)に引っ張り回され、訳も分からないうちに去った。その後、イタリアで病に倒れ、震旦の「詩哲(徐志摩)」を電報で呼び寄せたが、「その後はどうなったか」知らぬ。
 今度はガンジーを中国に呼ぼうとしていると聞くが、この忍耐力卓越の偉大な人は、インドで生まれ、英国支配下のインドでこそ活動できる偉人に、中国に足跡を印させようとしている。だが、彼のはだしが華土を踏む前に、山影から暗雲が垂れ込めようとしている。
 次はスペインのIbanezで、中国には早くから紹介されてきたが、欧洲大戦時に人類愛と世界主義を強く提唱した人で、今年の全国教育連合会の議案からすると、彼は中国にふさわしくないので、誰も見向きもしなかった。というのも我々の教育家は民族主義を掲げているから。
 あとの二人はロシア人。一人はSkitalez,もう一人がPiliniakだ。二人ともペンネームでSkitalezは国外亡命中、Piliniakはソ連の作家で、自伝では革命初年からパン粉を買うために一年余忙しかった。それから小説を書き出したが、魚油をすすりながらで、こんな生活は中国では、一日中窮乏を訴えている文学家もきっと夢にも想像できないだろう。
 彼の名は任国楨君編訳の「ソビエトロシアの文芸論戦」に出ているが、訳は一冊も無い。日本では「IvanMaria」が訳されているが文体も特異で、この点だけでも中国人の目から―中庸の目―すると新奇に映る。文法は欧化され一部の人には目にガラス片がついたように見えるし、ましてや文体も欧化以上に奇抜である。そっときてそっと去ったのは実に幸いだった。
 それに中国では「ソビエトロシアの文芸論戦」に名前が出ているだけだが、
Libedinskyは、日本では「一週間」という小説も訳されている。彼らの紹介の早さと量は実に驚くほどだ。我々の武道家は彼らを祖師と仰ぐが、文人は彼らの文人の良さを少しも学ぼうとしない。このことから言えるのは、中国の将来は日本より必ずや泰平楽でいられるというものだ。
IvanMaria」の訳者、尾瀬敬止氏は言う。作者の考えは「リンゴの花は、古い中庭にも咲く、土があるかぎり、きっと咲く」と。そうであれば、彼はやはり懐旧の念から脱しきれていないことになる。しかし彼の目は革命を自らの体で感じ、そこには破壊があり、流血があり、矛盾があるが、創造が無いということではないと知っていて、決して絶望することは無かった。これこそまさに革命の時代に生きた人のこころだ。詩人Blockもそうである。彼らは勿論ソ連の詩人だが、純粋マルクス的な目から見ると、議論すべき対象が多いのも当然だ。だがトルストイ的文芸批評ならそんなにきびしい評価にはならぬと思う。
 惜しいかな、彼ら最新の作者の作品「一週間」をまだ見てない。
 革命の時代は多くの文芸家が委縮し、多くの文芸家は新しい疾風怒濤の大波に突き進んで行くが、のみ込まるか、或いは負傷してしまう。のみ込まれた者は消滅してしまうが、負傷した者は生きて自分の生活を切り開き、苦痛と愉悦の歌をうたう。それらが逝き去った後、次の新しい時代が現われ、より新しい文芸が生み出される。
 中国は民国元年の革命以来、所謂文芸家は委縮せず、負傷もせず、勿論消滅もせず、苦痛と愉悦の歌も無かった。それは新たな疾風怒濤の大波が無かったからであり、そしてまた革命が無かったからである。
 
訳者雑感:
 飛行機が無かったころ、タゴールやガンジーなどは船に乗って、いろんな国を訪れている。一生のうちに一度しか足を踏めないという思いからか、訪れた先での話も大変貴重で、大切に記録されている。活字に翻訳された本人の言葉を、肉声で直接聞きたいという外国の支持者、応援者を前にしての話は、舞台の役者と観客のように、時と共に去って戻らぬ音楽、芝居と同じである。
 孫文の大アジア主義も、神戸での演説が出発点であり、国内だけでの活動からは、出てきにくい性質のものだったろう。言葉を発する人が、自分を呼び、応援してくれる外国人を前にしての昂揚がなさしめたとも言える。
 魯迅は中国内のいろいろな所に出かけて講演していて、それが残されている。その講演の人を魅了する力は、書かれた雑文の数倍もあろうかと思う。
 惜しいことに彼は日本から帰国後、日本を再訪したことが無い。日本の文芸出版社などから何回も招かれたのだが、彼は日本に出かけなかった。
もし元気なうちに東京か仙台で日本人に何か語ってくれたらきっと素晴らしい話を聞けたろうに、と思う。
  2010/12/23

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7月6日 晴

 午後、前門外に薬を買いに行く。調合後、お金を払う前にカウンターの前で立ったまま一回分飲んだ。3つの理由のためで、1.1日分飲んでいないから
早く飲まねば 2.間違いないか試飲のため 3.暑くて喉が渇いていたから。
 なんとその場にいた客が怪しみだした。何を怪しんでいるのか分からないが、彼は店員に尋ねている。
「あれはアヘンの禁煙薬かい?」
「いや違います!」店員は私の名誉を守ってくれた。
「今飲んだのはアヘン禁煙の薬?」彼は直接私に聞いてきた。
 もしそれを「アヘン禁煙薬」と認めないと、きっと死んでも死にきれないだろうと思った。
 人生いくばくぞ。固執してもせんないことよと、どちらとも取れるような曖昧に頭を動かし、同時に例の「う、うんう…」と答えた。
 これなら店員の好意を傷つけず、彼の熱い期待を些か慰める妙薬となろう。果たして、それから万籟無声、天下太平、おもむろに瓶の栓をしめ街に出た。
 中央公園(今の中山公園)に着き、約束の閑静な所に向かう。(ドイツ留学の)
寿山はもう来ていた。「小約翰―小さきヨハネ」(長編童話詩)の対訳を始めた。これは良い本で、入手したのは偶然のことであった。約20年前、日本の東京の古本屋で、数十冊のドイツ語の文学雑誌を買ったら、そこにこの本の紹介と作者の評伝があり、その時ドイツ語に翻訳されたばかりだった。面白いと思って、丸善書店に出かけて買って訳そうとしたが、その力は無かった。後に常々訳そうと試みたが、いつも他のことで果たせず、去年になってやっと決心して夏休み中に訳して、広告に載せようとしたが、はからずも夏休みは他の時よりも一層難しくなった。今年また思い出し、広げてみたが疑問点が多く、私の力は及ばなかった。寿山に訊いたら共訳OKとの返事。それですぐ始めてこの夏休み中の完了を約した。(魯迅翻訳集に有り)
 晩に帰宅。少し食べて中庭で夕涼み。女中の田さんが今日午後斜め向かいの誰それの婆さんと嫁が大ケンカをした由。彼女の意見では婆さんも勿論ちょっとは問題あるが、嫁はまったく話にならん、と思うがどうか、と私の意見を求める。まず初めから誰の家のケンカかはっきりと聞いていなかったし、どのような姑と嫁か知らぬし、彼女らが何という積年の恨みつらみを持っているかも知らない。今私に意見を求められても実に何の自信もない。まして私は評論家でもないから、ただ「これは私には何とも言えぬ」と答えた。
 だがこの答えの結果はたいへんまずいことになった。
 暗がりで顔も見えぬとはいえ、耳はよく聞こえる。物音はいっさいせず、ひっそりと死んだように静かだった。後になってもう一人の人が立ち去って行った。
 私も手持無沙汰で、おもむろに立ちあがり、部屋に戻り灯をつけて床に横になって夕刊を見、数行でまた無聊になり、東壁のところで日記を書いた。それが「馬上支日記」だ。
 中庭はだんだんと又談笑の声がし、議論が始まった。
 今日の運はとても良くなかった。人は私がアヘン禁煙薬を飲んだと濡れ衣を着せ、田さんは私を……といった。彼女がなんと言ったか、私はしらない。
だが、明日からはもう二度とこんなことはご免だ。
 
訳者雑感:
 10月の大幅値上げで、禁煙薬の販売が好調らしい。魯迅は前門外の薬局で、
調合した薬をカウンターで立ち飲みしたことを客に「アヘン禁煙薬」をすぐにでも飲まないといけないほどの中毒患者と怪しまれた。アヘン戦争から85年ほど経過した北京で、どれほどアヘン吸引者がいたことだろう。そして何とかアヘンを止めたいと薬を探し求めていた人はどれくらいいたことだろう。
 譚璐美著「阿片の中国史」に1930年前後の中国の軍閥と国民党、共産党などの政治闘争に阿片がからんでくることが出てくる。日本軍も大量の阿片を販売することで、軍資金を調達し、戦費や軍用トンネル工事に充てた。すべて国家予算とか税金からだけの収入では支払いできないような性格の出費に回された。
 軍閥も国民党も日本軍も、自分が前面に出て売るわけにはゆかない。青幇とか、紅幇と呼ばれる黒社会を牛耳る組織に「物」を渡して阿片患者に売らせて、
その上がりを懐にする。この手口はどこの国の組織も似たようなものだ。中国が違うのは、それを国家警察とか地域の自警団組織が結託してやることだ。
 「阿片の中国史」で譚氏が延安時代の共産党も一時阿片を生産していたとの
トップシークレットを漏らしながら、建国後50年から3年で阿片をほぼ撲滅できた秘策も書いている。
 「阿片の害が深刻な四川省の場合、50年に実施した禁煙キャンペーン調査で、
省全体の25%が阿片喫煙者であったと判明した」… 中略…彼女は朝鮮戦争から三反五反運動のすさまじい政治運動の嵐の中で、禁煙キャンペーンよりも実際に大きな力となったのは、「阿片にとって、流通手段の遮断は命取りだ」
として、上記の政治運動中に河川の道、塩の道を中心にして、綿密な輸送ルートが、遮断されたことが致命的だった、と解説する。
 「全国に吹きまくる政治運動の嵐の中で、流通ルートが遮断され、結果的に
阿片市場が消滅してしまった面も大きいのである」という。
そして阿片収入に頼った「青幇」のネットワークも壊滅した。…と。
日本でも、もし煙草の流通が遮断されたら、自分で煙草の葉を植えるとかして
密造しない限り吸えないわけだから、喫煙者は激減するであろう。JTが煙草の
販売から撤退し、政府の税収は無くなるし、自販機会社も倒産しよう。
 今も重慶とか中国各地で、警察副所長がそうした黒社会のボスであったという事実が白日のもとに晒されて、新聞に載っても、一般の中国人は怪しからんとは思い、罵るけれども、極あたりまえのできごとのようにみなしている。
警察の副所長という役職は、そういうことをするために(金で)手に入れたものだ、ということも知っている。
 最近は公的機関が淫売婦の呼称を「失足婦女」と改めたと報道されている。
「失足」という言葉はなじみがないので辞書をみたら、
① 歩行中、不注意で転ぶこと
② 重大な間違いを犯し、堕落した人を指す。例「失足少年」(不良青年?)
かつて日本でトルコをヘルスとかサウナにしたようなもので、どこかから文句が出たのだろうが実態は変わらない。
 いずれにしても、公的機関がその存在を認め、その呼称を改めたというのは、公的機関のしかるべきポストにいる人間たちが、それの経営者か経営そのものに関わりを持っていることを暗示しているように取れる。
 80年代にできた「巴山夜雨」という映画で、文化大革命後、農民の娘が重慶から船に乗せられて、遠くの金持ちの年寄りの男のところに売られていく情景をみて、同船の老婆の口から出た言葉は「旧社会に戻ってしまった」であった。
 老婆の口から出た「旧社会」とは、戦前のことだろうが、21世紀の社会も旧社会に似てきたようだ。
 2010/12/21
 

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7月5日 晴。

朝、景宋(許広平)が「小説旧聞鈔」の一部を清書して送ってきた。もう一度目を通して午後にやっと終え、小峰に郵送して印刷へ。今日はとても暑い。
 疲れた。晩は灯火が目に痛いので灯を消して横になっているといい気持ちだ。
門を叩く音がするので急いで開けに出たが人はいない。門の外に出ると子供が暗がりを逃げてゆく。
 閉めて戻ってまた横になるといい気分だ。通行人が(京)劇の一節をうたいながら通る。余韻じょうじょうと「♪ういい――~~~♪」と聞こえてきた。
なぜか知らぬが、ふと今日校訂した「小説旧聞鈔」の強汝詢老先生の議論を思い出した。この先生の書斎は求有益斎というからして、そこで書かれたものの中身は推して知るべしだ。彼は言う。人はなぜ無聊にかこつけて小説を書いたり読んだりするのか、と。それでいて古小説についての評価は寛容で、それは古いからであり、且つ古人が書いて残したものだからだとの由。
 小説を憎悪するのはこの先生に限ったことではなく、この種の高論はどこにも見られる。しかし我が国民の学問の多くは小説からきており、甚だしきは、小説に基づいて脚本にされた劇本に依存しているものが多い。
関羽や岳飛を崇奉する大人諸先生、もし彼らの心目中のこの二人の「武聖」の風采はと聞くと、目を細めた赤ら顔の大漢と、五筋の長いヒゲの白面の書生、
或いは金糸で縁どられた緞子に兜をつけ、背には四本の軍旗を差した(京劇役者の隈どり)イメージから脱することはできないだろう。
 近来、確かに上下一心となり忠孝節義を提唱しているが、春節の縁日で見る
年画(めでたい絵)は、新作のこの種の美徳に関する絵が多いが、描かれた人物はといえば、すべて(京)劇に出てくる役者の老生(立ち役)、小生(二枚目)、
老旦(婦人役)、小旦(娘)、末、外、花旦ばかりだ。
 
訳者雑感:
 中国語を学び始めた頃、中国の老先生が授業中の雑談に彼の少年時代のことを話してくれた。それは、彼が中学時代のことだが、試験中になにかのはずみで、机の下の二重になっている所から、水滸伝がポロリと床に落ちてしまったことだった。
 運悪く、試験監視に机の間を通りかかった先生に見つかって取り上げられてしまった。試験終了後、先生からクラスみんなの前で、試験中はもちろん、普段もこんな小説を読んでいるようでは、先が思いやられる。今後、学校に小説を持って来ることは一切まかりならん、とこっぴどくお説教されたという。
 魯迅の「百草園から三味書屋へ」の中に、魯迅が授業のすきを狙って、あるいは授業の休み時間に、せっせと小説の登場人物の「挿し絵」を薄手の紙に書き写して、それが膨大な量になったこと、そしてお金に困った時に、紹興特産の錫箔の紙銭を売っている大店の息子(同級生)に売って、お金に代えたことなどを書いている。「西遊記」もその内の一冊だった。
 儒教の経典を読み、歴代の史書や詩詞をそらんじるほどに読むことが、中国で科挙に合格し、皇帝の役人として支配階級に仲間入りする道であったころ、試験には一切でない、とされてきた「ひまつぶし」に読む小説を読むことに、少年時代の貴重な時間を無駄遣いしては相ならぬ、というのが「師」の教えだった。それでも魯迅は授業に退屈すると、現代の子供たちがマンガの絵を描くようにして、石印本(石に漢字と絵を彫りつけて和紙のような薄手の紙に印刷した昔の書)を大事に書き写した。彼の記憶はこうした本を書き写したことで一層強くなったものと思われる。日本から帰国して、辛亥革命前後の、挫折し
うっ屈した時期に、「古小説」を次からつぎへと書き写している。それが上述の
「小説旧聞鈔」や「中国小説史略」となって結実した。
 医学をやめて、文学に転じたのは、三味書屋での授業をさぼっての作業にその源泉が見いだせそうだ。
 冒頭の私の老先生に戻ると、やはり彼も試験中にもかかわらず、読み出した
「三国演義」を試験中だからといって、暫くは我慢していたが、やはり試験の合間に、教師の目を偸んで、気分転換に読んだのが今も記憶に残るという。それが中国人の一般教養としての「学問」の基盤であった。
テレビもマンガも無い時代、やはり小説が血沸き肉踊る、少年たちの一番の友達だった。取り上げられた小説が戻ってきたかどうか、教えて呉れなかった。
多分教師も自分も読んだことのある本だからすぐ返してくれたことだろう。
役者の顔については、日本の歌舞伎でもお富さんの与三郎とか石川五右衛門など、隈どりも着物も決まったもので、舞台に出てきたらすぐそれと分かる。
中国の劇でも諸葛孔明や曹操の顔はいついかなる場合も全く同じで、細面の役者が曹操を演じてもそれとはっきり分かるように隈どりする。しかし総じて大きな顔の役者しか演じないようだ。
 2010/12/20
 

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7月3日 晴。

とても暑い。午前中はぶらぶらとなにもせず、午後は横になっていた。
 夕食後、中庭で涼んでいて、ふと動物園を思い出し、夏はあそこがいいけど今は閉まっていて入れないねと言うと、女中の田さんがあそこの門番だった二人のノッポ君の話を始め、高い方は彼女の隣人で、今ではアメリカ人に雇われてアメリカに行ってしまったといい、月給は千元だと。
 これがヒントになった。以前「現代評論」で11種の好著を紹介していた。
楊振声先生の小説「玉君」もその一つだが、理由のひとつが「長い」ことだ。
私はこの理由についてしっくりこなかったのだが、73日すなわち「馬廠で
師を誓い、再び共和に戻った記念」日の夜になってやっと分かった。「長い」ことは確かに価値がある。「現代評論」が「学問理論と事実」を重視していることを自ら自慢しているのは、確かによくぞ言ったり、よくぞやったりである。
 今日私が寝るまで、どうやら誰も国旗を掲揚しない。夜半以降に掲揚されるかどうか、私は知らない。
74日 晴。
 朝またハエが顔を這いまわり目が覚めたが、追い払えず起床するしかない。
品青(人名)から返信あり、孔徳学校には「閭邱辨囿」は無い由。やはりあの「小説からみた支那の民族性」のせいかな。そこに中国の料理のことが出ていて、ちょっと調べてみたかったのだ。これまでこの方面に注意したこともないので、古い書物もただ「礼記」の所謂「八珍」、「酉陽雑俎」の御賜のメニュー、
袁枚名士の「随園食単」ていどしか知らない。元代に和斯輝の「飲饌正要」があるが、古書店で立ってぱらぱらみたが、多分元版だから買えなかった。唐代には楊煜の「膳夫経手録」があり、「閭邱辨囿」に収められているのだが、これが借りられないとなると、この件は諦めるしかない。
 近年、我が国の人と外国人がよく中国料理を褒めるのを耳にする。美味かつ栄養豊富で世界で一番。宇宙でもn番、という。だが、一体どんな料理を指すのか知らぬ。我が国の多くの所では、ネギとニンニクと雑穀の粉の面餅(おやき)をかじっているし、他の所では、酢と唐辛子と塩漬け野菜で飯を食い、もっと多くの人は岩塩を舐めるだけだし、更に多くの人はそれすら舐められない。
内外の人が美味、栄養豊富で一番、n番というのは、勿論こんなものではない。
金持ち、上等人の食べる料理のことに違いない。しかし彼らがこんな風に食べるからといって、中国料理が一番だということはできないと思う。それはちょうど、去年23人の「高等華人」が出たからといっても、他の人たちはやはり
「下等」だということと同じである。
 安岡氏の中国料理論が引用しているのは、やはり「Middle Kingdom by
Williams」で最後の「享楽に耽り、淫風盛ん」篇にあり、以下の通り。
 「この好色の国民は、食物の原料を探すとき、大抵は性欲に効能があると思われる物を第一に考える。外国から輸入の特殊物産で最も多いのはこの種の効能があると思われる物。… 大宴会の多くのメニューのメインは特殊な強壮剤の成分を含有していると思われている奇妙な原料から作られている。…」
 外国人が中国人の欠点を指摘することに、さして反感を持たないが、これを読むと失笑を禁じえない。筵席の中国料理は実に濃厚だが、国民の常食ではない。中国の金持ちは確かに多くは淫昏だが、料理と強壮剤をごっちゃにするまでにはなってない。「紂は不善といえども、かくのごとき甚だしさに如かず」で
中国を研究する外国人は、深読み、過敏のきらいがあり、常々このように
「支那人」より性的に敏感である。
 安岡氏はまた言う――‐
「筍と支那人の関係もエビと同じ。彼の国人の筍好きは日本人以上である。おかしな話だが、多分あのピンと立った姿が想像をかきたてるからかも知れぬ」
 (故郷の)会稽は今も竹が多い。竹は古人にとって貴重で「会稽竹箭」という言葉がある。貴重な理由は戦争用に箭を作るからで、「ピンとした姿」が男根に似ているためではない。竹が多ければ筍も多い。多いから値段も北京の白菜とほぼ同じ。故郷にいたころ、十数年筍を食べたが、思い出してみて、何と言われても、それを食べる時、その「ピンと立っている姿」という発想の影響は少しも無かった。格好からそちらの効能を想像させてくれるのは別にあって、
肉蓯蓉(ホンオモト、一尺ほどの柱状の植物;薬剤)で、それは薬であって、料理には使わない。要するに筍は南方の竹林と食卓で常に目にするが、街頭の電柱や家の柱と同じで「ピン」と立っているが色欲とは何の関係も無い。
 この点を洗い出しても、中国人が真面目な国民だという証明にはならない。結論を得るまでにはずいぶん手間がかかる。しかし中国人は自分のことを研究しようとしない。安岡氏はまた言う「十年ほど前、… 『留東外史』という作者不詳の小説に、実際にあった話として、多分悪意で日本人の性的不道徳を描くためのようだが、全編通読すると、日本人を攻撃するよりは、却って知らずしらずのうちに、支那留学生の不品行を、告白しているところに力点がある方が多いのは滑稽だ」と。これはほんとうで、中国人のふまじめさを証明しようとするなら、まじめくさって男女共学の禁止を叫ぶとか、(裸の)モデルを禁止しようとする事件に如実に現れている。
 これまで「大宴会」に招かれる光栄に預かったことは無いが、中宴会では数回、ツバメの巣やフカヒレを食べた程度。思い出しても宴中も宴後も特に好色の気分が生じたことはない。
 しかし今なお奇妙に思うのは、よく煮込んだり蒸したり蒸し焼きした料理の合間に、ぴんぴん跳ねる酔っ払いエビが出てくることだ。安岡氏説ではエビも性欲と関係ありというが、彼だけでなく、国内でもこの類の話を聞いたことがある。しかし妙なのはこの両極端の交錯で、文明の乱熟した社会に忽然あきらかに毛のついたままの動物を食べ、生血を吸うような蛮風が出現することだ。この蛮風は野蛮から文明に向かうのではなく、文明から野蛮に向かう。仮に前者を白紙に比すと、これから字を書き始めるものとすれば、後者は字で真っ黒になった黒い紙である。一方で礼を制定して楽しみ、孔子を尊敬し、(儒教の)経を読んできた「四千年の文物の邦と声明し」ながら、ちょうど火がよく通った食べごろなのに、一方では平然と火つけ、人殺しを行い、略奪強姦をして、蛮人も自分の同族に対しては決してしないようなことを平気でする。… 全中国が今このような大宴会場になっている!
 中国人の食事は煮すぎて生気の無くなった物や、全くの生ものを食べるのは止めるべきで、火を通しても少し生で鮮血を帯びた肉類を食べるべきだと思う。
 正午。例に従って昼食のため討論中止。
 おかずは干した野菜、とうに「ピンと立った姿」を失った干筍、ビーフン、
塩漬け菜。紹興に対して陳源教授が憎悪するのは「幕僚」と「法廷書記」だが、私が憎悪するのは、飯とおかずだ。「嘉泰会稽志」は石印されたが未出版で、
将来出たら見てみたいのだが、紹興はこれまで何回の大飢饉に見舞われたのだろう。かくも住民をして恐れせしめ、明日にでも世界の終りが来そうなほどに、干物をせっせと貯蔵するのに喜々としている。野菜とみればすぐ晒して干す。
魚も干す。豆も干す。筍も干して原形をとどめぬ。菱の実も水分があり、肉も柔らかでサクッとしているのが特色なのに、風干しにする…。北極探検隊は缶詰ばかりで、新鮮な食物が取れないので、壊血病になると言うが、もし紹興人が干菜を携行したらより遠くまで探検できるだろう。
 晩、喬峰(魯迅の三弟)の手紙と叢蕪の訳したブーニンの短編「小さなすすり泣き」の原稿入手。上海の出版社に半年寝かされていたが、今回やっと取り戻した。
 中国人はどうも自分を研究しようとしない。小説から民族性を見るのもいいテーマだ。このほか、道士の思想(道教ではなく、方術士の:魯迅注)と歴史上の大事件との関係、現今の社会的勢力である孔子の教徒たちはどのようにして「聖道」をすべて自分たちの都合のよいように変えてしまったのか。戦国時代の遊士たちが「人の主」(主君)を説き動かしたいわゆる「利」と「害」とはいったいどんなものであったのか。それと現今の政客とどう違うのか。中国には昔から今まで、どれほど「文字の獄」があったのか。歴来「流言」の製造と散布方法及びその効験などなど…。研究に値する新分野は実に多い。
 
 
訳者雑感:
 大阪の友人と飲んでいた時、話が男だけの話になった。
関西人のたとえ話は漫才的で、ぶっちゃけた話、ずばり単刀直入。最近テレビで「整いました」とかいう「なにやらとかけて、何と説く」式なのも面白い。
毎晩帰りがおそいのでながらくの御無沙汰と奥方からクレームされて、
「わしのはな 関電の電柱や」と説く。(東電ではなく、感電をかける)
そのこころは「家の外で立つ」
かた物と思われがちな魯迅も、この段では男根の話などで暑気払いをしているようだ。文部省に当たる教育部の役人の職を解任されて自由に書ける気分になったのかもしれない。教育部の役人は、真面目腐っていないと務まらないのかも。筆名とはいえこのころは身分も明らかにされていたから、当時の雰囲気で
これを雑誌にだすと、敵からやり玉にあげられ攻撃材料にされただろう。
 日本人の安岡氏が中国人の筍好きは、その姿がピンとしているという連想から来ると言うことに対して、魯迅は、竹はピンとしているが筍はそうではないと故郷の筍の干物を思い浮かべて反論している。
 中国人の筍好きは、竹の姿からではなく、土を割ってむくむくと起き上って来るその動態からの連想が影響しているかもしれない。上述の電柱の譬えではないが、大阪人は電柱でそれを笑い話に譬えるように、中国人に限らず、日本人の筍好きも、栄養云々の前に、その土中から一気にむくむくと生命力を突きあげてくる動きに一種の羨望というか、連想をたくましくしているのかも。
 インドのゴアの鉄鉱石を中国市場に販売しようとしていたころ、若いころは共産主義に共鳴した活動家だったというゴア人が、中華料理の円卓を囲みながら、中国人とインド人のどちらが助平かという話になった時、断然インド人が上だ、と答えたのがおかしかった。その根拠はと聞くと、「中国人はこんなに精力のつくリッチな食事を食べてもインドのようなスピードで人口が増えてない。
インドじゃ、多くの人は菜食だけど人口は増え続けているからさ」という。
 中国でも、人口が増えていたのは魯迅の指摘するように「宴会食」を食べる金持ちではなく、岩塩を舐めて暮らしていた農民の方であっただろうが。ゴアの輸出部長が訪中し始めたころは、一人っ子政策で伸びが鈍化中であった。
  2010/12/18
 

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7月2日 晴。

 午後、前門外で薬を買って、東単の(邦人経営の)東亜公司をのぞいた。日本の本もついでに少しおいてあるが、中国研究の本は大変な量になっている。所持金の関係で安岡秀夫の「小説から見た支那の民族性」1冊だけ買って帰った。薄い本で濃紅と黄色の装丁で12角。
 夕方灯下でそれを読む。引用された34種の小説には、小説ではないものと、一部を数種に分けたものもある。蚊が何回も刺す。12匹だが坐って居られなくて、蚊取り線香をたく。やっと落ち着いて読めるようになった。
 安岡氏はたいへん謙虚に緒言で言う:「こうしたことは只支那だけでなく、日本でも免れ難いことだ」が「度のはげしい事と範囲の広さから、支那の民族性だと誇張しても、憚ることは無い」という。支那人の私からみても、確かに背中に冷や汗が流れてくるのを止められぬ。目次は次の通りで一目瞭然だ。
1.総論 2.体面と体裁を気にしすぎ 3.運命に安んじ、諦めが早い 
4.忍耐強い 5.同情心に欠け、残忍性が強い 6.個人主義と事大主義
7.極端な節約と不正蓄財 8.虚礼にこだわり、虚文を尚とぶ。
9.迷信深い 10.享楽的で淫風が激しい。
 彼はSmithの「Chinese Characteristies」を信じているようで、常にこれを典拠に引く。これは彼らの所では20年前に「支那人の気質」として訳されたが:支那人の我々は注意してこなかった。第一章はSmithの言う「支那人は
とても芝居がかったしぐさをするのが好きな民族で、精神が昂揚してくると、
芝居じみて来て、一字一句、一挙手一投足がすべてそれらしき格好で、本心から出るものより、芝居の場面から取ったものの方が多い、と。これは体面を重んじるせいで、常々自分の体面が十分保たれているかを気にし、敢えてそのような言葉(せりふ)動作をすることになる。要するに支那人の重要な国民性が織りなす複合的な問題を解くカギは、この「体面」である、と。
 すこし周囲を見て内省すればこれが決して辛辣に過ぎることはないと判る。
劇場の舞台の有名な対聯として今に伝わる「劇場は小天地。天地は劇場」がそれだ。中国人はみな本来、目の前の一切のことは劇に過ぎないと考えており、
もしそれに真剣に向きあっているのがいたら、その男を愚か者だと思う。但しこれも、積極的に体面を保つためではなく、心に不平を持ちながら、報復する勇気に欠け、すべては一場の劇だとする発想から、それを了とするのだ。万事が劇なら、不平も本物の不平ではないから、報復におじけることもない。
もし路上で不平を見て、抜刀して助けることができずとも、そのために昔から保ってきた正人君子たる体面を失う事も無い。
 これまで会った外国人はSmithの影響なのか、自らの体験からか知らないが、中国人の所謂「体面」とか「面子」にたいへん注目して研究しているが、私が思うに、彼らはとうに心得を持っていて、応用もしており、更に深く掘り下げて習熟したら、外交で勝利を収めるだけでなく、上等の「支那人」の好感を得ようとするだろう。その際には、「支那人」という三文字を使わないで、「華人」
という言葉にすべきだろう。これも「華人」の体面に関わるからである。
 民国初年に北京に来たころ、郵便局の門の扁額に「郵政局」と書かれていたが、外人の中国の内政干渉の声が高まるにつれて、偶然かどうか知らぬが、数日後にはすべて「郵務局」に代わっていた。外国人が少し郵「務」を管理するといっても、実際は「内政」とは無関係なのだが、この(茶番)劇は今日まで続いている。
 これまで国粋者や道徳家の類の痛哭し涙流るという(大げさな)真心を信じたことはなかった。たとえ目じりから涙が横に流れても、彼のハンカチに唐がらし液か生姜汁がつけてないか調べるべきだ、と思っていた。国家の古物保存とか、道徳振興とか、公理維持とか、学風整頓とか…、彼らは心から本当にそう思っているのかどうか。芝居をしだしたら、舞台上での大見栄と、楽屋での顔とはどうしても違ってくる。だが、観客は芝居とは知りながら、うまく演じていれば、それを悲しんだり、喜んだりできるからその芝居を続けて行ける:
もし誰かが出て来てそれをあばいたりしたら、観客は却って興ざめとなる。
 中国人はかつてロシアの「虚無党」と聞くと、驚き恐れおののいたが、それはちょうど現在のいわゆる「赤化」と同じだった。だがそれは「党」ではなく、
「虚無主義者」あるいは「虚無思想家」というもので、ツルゲーネフが名を付け、神を信じず、宗教も信じず、一切の伝統と権威を否定し、自由意志で生きる人間に戻ろうと言い出したのである。このような人間は、中国人からみると、それだけでもう憎むべき存在である。しかし中国の一部の人、少なくとも上等人は、神、宗教、伝統的権威に対し「信」じて「従」っているかどうか?それとも「おそれ」ながら「利用」しているのではないか?彼らがうまく変化適応しているかどうか、を見ればよくわかる。なにも特別なことはしないし、なにも信じて従ったりしないが、いつも決まって内心とは異なる見栄を張るのだ。
もし虚無党をさがそうとするなら、中国人の中にも実にたくさんいる:ロシアと違うのは、彼らはこう思ったら、それを口に出して言うし、そのように行動するが、我々のは、そう思っても、別の違う事を言い、楽屋ではそうしながら、
舞台の上では別のことをする…。この種の特別な人物を「芝居をする虚無党」或いは「体面上の虚無党」と称して区別しよう。この形容詞とそれに続く名詞は、どう転んでもうまく結び付かないが。
 夜、品青(人名)に出状。孔徳学校から「閭邱辨囿」を借りて貰うよう頼む。
 夜半、もう寝ようと決めて今日の日めくりを破ると、赤い字が目に入った。
明日は土曜なのになぜ赤字かと思った。よく見ると小さな字で二行、「馬廠誓師再造共和記念」(天津の馬廠で師に誓って、最後の皇帝溥儀を担いで復辟を企てた張勛を倒して、共和制に戻った記念日)とある。
 明日国旗を掲揚すべきか否かちょっと考えた。…が何も考えたくもないから、
眠ることにした。
訳者雑感:
 海老蔵の件で日本のテレビは、菅首相の頼りない政権運営より視聴者の興味はこちらの方が上だと敏感に感じ取って、この1カ月近く、連日トップニュース。北朝鮮の砲撃から万一の際は、邦人救出に自衛隊派遣など、突拍子もないことを言い出す首相に殆ど興ざめの状態である。
 海老蔵は舞台の上での見栄を切れなくなるかもしれないなど心配までされ始めている。彼の場合も舞台の見栄と、楽屋、或いは深夜のクラブでの顔は、まったく別のものだし、それはそれで当たり前のことだが、深夜の顔がいかにも「人間離れ」してしまったようだ。
 私も京劇を楽しむようになって以来、中国のテレビには一日中こうした劇(京劇、昆劇、越劇などなど各地にある地方劇も含)を放送していることに感心した。そして、普通の背広姿で、胡弓や琴を演奏する楽団をバックに、化粧も隈どりもしないで、つぎから次へと出場者が有名な劇のさわりの部分を「唱」う
のを聞いて、さらに感心した。歌ってる人も真剣そのものだが、何百人或いは千人近い観客が、それに会わせて首を振りながら悦楽の極みに達しているのだ。
 日本でも歌舞伎や浄瑠璃のセリフを、絶好のタイミングで会話の中に入れる男などが、夏目漱石の小説などには登場してくるが、中国のようにメロディを伴っていないから、そう頻繁には引用されないようだ。というのも、現代の日本人は、芝居の名セリフを会話に引用するのを手あかがついたものだとしてためらったりする。或いは、会話の相手がそれを知らないかもしれないと危惧もする。ところが中国では、なにかというと昔の(今も演じられている)芝居のセリフをすぐ引用する。それは相手も当然知っているという前提に立っているし、それがそのセリフを引用した人の「上等さ」の印しでもあり、相手にもそれを求めてもいるからだ。だが、上述の通り、中国人の言動を大きく束縛もしており、中国人の発想の原点は、自分がこう言う、あるいはそうする、ということは、京劇の登場人物が、その時に類似した場面で、どう話し、行動したかを模範として、演じているような節をちょくちょく見かける。
 彼らの言動を律しているのは、長年培われてきた「劇」中の人物のモラルであり、自分がその人物に置き代わったら、観客からどのように評価されるだろうかを常に気にしながら生きているようだ。だから政治家も「表演」するのに長けており、日本の政治家はとてもとても足元にも及べない。
          2010/12/14

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馬上支日記

 数日前、小峰に会った。話が半農の編集する副刊に「馬上日記」を投稿予定だということに及んだ時、彼はがっかりした様子で、回想は「旧事重提」(後に
「朝花夕拾」に改題)に書き、現在の雑感はその日記に書くのか…、と言った。
言外の意味は「語絲」(雑誌)には何を書くの?と言っているようだ。これは、私の心配性かもしれぬ。そのときひそかに思った:フグを平気で食べるような所で育った私が、なぜこんなことにくよくよするのか?政党は支部を作り、銀行は支店を開く。私が支日記を書いていけないという理屈はない。「語絲」にも何か書かねば。それですぐ実行に移し、支日記とする。
 
  629日晴。
 朝ハエが顔の上をはい回るので目が覚めた。追い払うがすぐまた戻って来る。そして元の所にとまる。叩こうとしたが死なないので、あきらめて起床した。
 一昨年の夏、S州にとまった時、旅館のハエの群れにはほとほと往生した。
食事を運んでくると、それを追いかけて来、まずは彼らが賞味する:夜は部屋中にとまっているので、寝る時もそおっと静かに頭を枕に乗せなければならない。もしゴロンと音など立てようものなら、ハエどもが驚いてブーンブーンと飛び回る。頭はクラクラ、目はくらみ、一敗地にまみれる。夜明けには、青年たちの希望の夜明けが来ると、飛んできて顔にとまる。
 だが、街を歩いて子供の寝ているのをみると、56匹のハエが顔の上を這いまわっているが、熟睡したままで皮膚もぴくりとも動かさない。中国で生きてゆくにはこうした訓練と涵養の工夫が不可欠であると思った。何とか云う名のハエ取り運動を鼓吹するのもいいが、こうした本領を会得するのが切実だ。
(当時は貧しい子供たちに金でハエ取りの競争をさせていた:出版社注)
 何もする気になれぬ。胃がまだ本調子でなく、睡眠不足のせいか。相変わらず所在なく反故をめくっていると、ふと「茶香室叢鈔」的なものが目にとまった。丸めて屑かごに入れてみたが、棄てるにしのびなく「水滸伝」関係のものを択び、書き写すとしよう――。
4頭の虎を退治する話。鴨は何匹かの雄と交尾しないと有精卵を産まない話。
宋江の物語など、割愛する。埋め草の感無きにしも非ず。胃痛、寝不足?)
 
71
 午前、空六(エスペラント語教務主任)が来談:すべて新聞に載っていることの真偽のほどは判らぬ、云々と。だいぶ長いこと居て帰ったが彼と話したことは殆ど忘れたから、話さなかったに等しい。ただひとつ覚えているのは:
呉佩孚大帥がさる宴席で発表した話によると、赤化の始祖を調べた結果それは
蚩尤(シユー)だと判明した(蚩尤は古代伝説の酋長で黄帝に涿鹿の野で戦い殺された:出版社注);  「蚩」と「赤」は同音だから蚩尤は「赤尤」で
「蚩尤」は「赤化した尤」の意:話しが終わると一同は「欣然」となった由。
(民族の始祖、黄帝が蚩尤を退治したのは赤狩りの始めという意味)
 
 太陽が照りつけ、鉢の草花がしおれそうになっているので水をやった。田おばさん(女中)が水は決まった時間にやらないと植物がだめになると言う。それもそうかなとためらったが、又考え直し、決まった時間に水やりをする者はいないし、私もそんなことはしていない。もし彼女の説が正しければ、小さな草花は枯れ死してしまう。たとえ時間通りでなくとも水やりしないよりましだし、たとえ有害でも枯れ死よりいい。それで水をやり続けたが、心の中はもやもやいていた。午後になって、葉が生気を取り戻した。どうやら害はなかったようで一安心。
 
 電球の下はとても暑いので、夜、暗がりのまま呆けて坐っていると、涼風がかすかに動き少し「欣然」となった。もし「超然象外」(唐詩の一節で、雄渾な風格を指すが、ここでは人生社会を超越する意:出版社注)することができれば新聞や雑誌を読むのも清涼な福を得られるというものだ。新聞雑誌については、私はこれまで博覧家ではないが、ここ半年で心に銘ずべき絶品に会った。
遠くは段祺瑞執政府の「二感篇」、張之江督弁「整頓学風電」、陳源教授の「閑話」、近くは丁文江督弁の自称「書呆子(読書馬鹿)」演説、胡適之博士の米国の義和団賠償金問答、牛栄声先生の「後戻り」論(「現代評論」78期)孫伝芳督軍の劉海粟先生と美術書を論ず。しかしこれらも赤化源流考と比べると、月と
スッポン程の差がある。今春、張之江督弁が電報で赤化の疑いのある学生の銃殺への賛意を表明したが、最終的には自らも赤化から逃げられなくなってしまった。とても奇妙なことだが、今や蚩尤が赤化の始祖だということを知り、その疑問も氷解した。蚩尤はかつて炎帝と戦ったが、炎帝は「赤魁(さきがけ)」 
で、炎は火の徳で火は赤色:帝とは首領の意味ではないか?従って3.18惨事は
すなわち、赤で以て赤を討つということになる。たとえどんな面から論じようとも、やはり赤化の名から脱し逃れることはできない。
 このように巧妙な考証は世の中にはさして多くは無い。以前日本の東京にいたころ、「読売新聞」に連載された大作を見たことがある。そこには黄帝すなわちアブラハンとの考証があり、大意は日本で油のことを「アブラ(Abura)」
と発音し、油の色は黄色で「アブラ」はすなわち「黄」。「帝」に至っては、
「罕」(カン)と形が近いとか、やはり「可汗」の音に近いとか、もう記憶が定かではないが、要するにアブラハンすなわち油帝で、油帝とは黄帝というのみ。
篇名と作者はみな忘れたが、後から本になったが、上巻だけで終った。だが、
この考証はやはりねじ曲げすぎており、つっこんで研究する必要もない。
 
訳者雑感:
 この当時、従来からの陰陽五行説で、何事も裏付けを取ったとして、伝説上の黄帝が赤狩りをして中華を開いたのだから、それを錦の御旗にして赤狩りを実行するという論がまかり通ったのであろう。しかし魯迅が奇妙に思ったのは、
赤化の疑いのある学生を銃殺するのを賛成していた本人が、しばらくすると、今度は別の軍閥から「赤狩り」されてしまうという現象が起こったのだ。
 ロシアでも多数派と少数派、過激派と穏健派などでの内部抗争が起こった。
自分に歯向かう敵を倒すには、何でもいいから何かそれらしき「御旗」が必要で、相手を「ルーブルを貰っている者」「赤」と決めつければそれが立派な大羲になる。だが、しばらくすると同じ論法で別の敵が自分を倒しに来る。
   2010/12/11
 

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