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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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象潟へ

1.
 昨夏、復興中の松島を船で巡り、他より被害の少なかったのにやや安堵。
また、湾内260余の島全てに名がついているのに驚嘆し、
海水がひた寄せる岩にしっかり根を張る松に感心した。
真水のある所まで根が届いているのだろう。

高田浜の松は津波に打ち勝った一本も、海水で根が腐ってしまったという。
今年は、「奥の細道」で「松島は笑うが如く、象潟は憾(うら)むがごとし」
といわれた象潟をこの目で見に出かけることにした。
 6月18日朝、新幹線「とき」で新潟へ。12時半の「稲穂5号」に乗り換え、
15時16分象潟着。駅近くの宿を2-3軒物色してチェックイン。

夕闇のせまるまでに「うらむがごとし」の光景を目にしようと出かけた。
羽越本線の踏切を越すと、右手にTDKの工場があり、「祝東京ドーム出場!」
の横幕が掛る。4つ辻を左折し、目指すは能因島と伝わる島。
更に行くと右手に又TDKの大きな工場があり、そこを過ぎると、
かつての海が2Mほど隆起して陸になったところを更に整地したものか、
新しくて立派な住宅地が続く。農家には見えないが豊かになった農家かもしれぬ。
TDKの社員や関連産業の人たちが建てたものかもしれない。
 イメージとしては、播州赤穂のかつて広大な塩田だった所に、製塩業が廃れて、
盛り土され、整地されて工場や新しい住宅が次々に建てられたのに似ている。
その住宅地が切れると、川が流れその向こうの田んぼの中に能因島が見える。
決して高くはない。数メートルしかない。石碑と幹の太い松が何本も生えている。
芭蕉が舟から上がった時も低い島だったろう。
 見回すと、鳥海山のふもとまで、小さくて低い土塁状の墳墓のような丘が点在し、
その周囲を水田が埋める。これが海水だったわけだ。
 説明書には、2600年ほど前の鳥海山の噴火で、泥と岩石がここまできた由。
泥は海に流され、岩に松が生え、九十九個もの島八十八の潟になったそうだ。
それが1804年の地震で海底が隆起して潟湖が陸地になったのだが、
飛んできた岩石は潟の軟弱な潟底の土に乗っかっていただけだろうから、
持ち上げられることなく、そのままの高さを保ったものだろうか?
 確かに隆起もしただろうが、長年の河川の沖積で陸地化したのかもしれぬ。
(説明書には、本庄藩が3年後に開田を始め……蚶満寺の僧の反対で中止されたが、
その後も藩の財政的支援で進められ、現在は象潟の主要米作地帯となった、とある)


2.
日本海側には新潟をはじめ、八郎潟、象潟、犀潟など有名な潟が沢山ある。
いずれもその多くは陸となり、農民の手によって水田に変じている。
青森市も江戸時代は「安潟」といわれたが、河川の付け替えなどで陸地化し、
そこに青い森ができたので青森と呼んだと伝わる。
今そこは安方町(やすかた)という。
海と河川が運んできた土砂が砂洲になり、それが蟹のハサミのように、
或いは象の鼻のように遠浅の海を囲み、そこに河川からの土砂が堆積して、
農地になり人が稲を植え、豊かに暮らせるようになった。

 今回の津波でおびただしい量の海底土砂が農地を覆ったが、最近の報道では、
それらの土砂にはKやMgなどを多く含み、表面と深くの土をよく混ぜ合わせ、
水はけを良くすれば、塩分は雨水で流され、却って肥沃な土地になるという。
それにアルカリ性の製鉄スラグを投入すれば中性化されるとか、
ゼオライトでセシウム除去とか、人間はこの津波を逆に福に転じようとしている。
 日本海側は雨量も多いし、象潟もやはり1804年の大地震で大変な被害が出ただろうが、本庄藩が財政支援を惜しまず、数年後には象潟を主要米作地にした。


        (鳥海山を眺める象潟の水田と元の小島群)




3.
 そんなことを考えていたら、「かた」「がた」「ぎた」などの地名音のいわれは、
昔は潟だったかもしれないという空想が広がった。
博多、山形、酒田、坂田、ひょっとして秋田(あぎだ)もそうかと。
直方(のうがた)も大昔は海岸から近かったかもしれない。
 日本海側にそうした地名が多いというのはどうしてだろう?
広辞苑で潟を引くと①遠浅の海で、潮がさせば隠れ、ひけば現れる所。
②砂丘・砂洲・三角洲などのため外海と分離してできた塩湖。
 一部が切れて海に連なることが多い。サロマ湖、風連湖の類。
③湖・沼または入江の称。 とある。
中国語「新華漢語辞典」の潟は:Xiと発音し、塩水が浸漬してくる土地、とある。

(新潟などの地名表記に現代中国語で使われる瀉は一瀉千里のように一気に流れる、
という意味に使われる言葉だが、瀉湖という時は日本と同じ塩水湖として使う。
簡体字で造りは同音の写にしており発音もXieだが、本来は潟とすべきだろう。
ちなみに舃という造りは、カササギの象形の由)

 カササギは中国朝鮮半島に生息し、日本では九州辺りでしか見ないが、
渡来人が漢字をもたらしたころは、九州はじめ本州各地の日本海側の潟に、
たくさん生息していたかもしれぬ。

4.
 さて象潟をいつごろどういうことから「きさがた」と呼び始めたのだろう。
宝永―正徳年間に描かれたと思われる「象潟古図」(本間美術館蔵)の右上に、
『蚶潟(手書きの造りは写と書いてある)之圖』と大きな字が見える。
この蚶は「かん、きさ」と読み、赤貝のことで、古名は「きさがい」の由。
この潟は昔から「きさがい=赤貝」が良く採れたのでそう呼ばれた、という。
この潟の中に浮かぶ島にお寺があり、それを蚶満寺といい、芭蕉も舟で詣でた。
今は羽越線の踏切の左にある。
寺の僧が開田に反対したのは潟が無くなり「蚶」が採れなくなってしまうからか?
水田が開け、農民が作業に出入りして、仏の道を学ぶのが妨げられるからか。
別の説明では、「カンマン」とはサンスクリット語で不動明王のことだそうで、
円仁が付け、その後、仁和寺から「蚶満」の額を得た由。
芭蕉の奥の細道には「干満珠寺」とある。
閑話休題、当時はきさ貝が良く採れたので「きさがた」と呼んでいたのだろう。
その「きさ」がどうして「象」に変じたのだろう。
熊野権現から海側に突き出ていた半島のような部分が象の鼻に似ていたためか。
まるで横浜港の像の鼻のごとくである。
いや多分きっと名前を名乗る時に使う、「きさ」という音を借用したのだろう。
まさか潟が陸地になって「きさ貝」が採れなくなった為ではあるまい。
 しかし、芭蕉が目にしたのは「干満珠寺」という額だったかも知れぬから、
「蚶」の字を憚るようなことがあったやも知れぬ。

5.
 さて話しは芭蕉の句に移る。
    (象潟駅前広場の「ねぶの花」記念切手の陶板)




寺には当地に伝わる初案を元に「象潟の 雨や西施が ねぶの花」の碑が、
彼の没後70年に建てられた。
 いまその境内に、芭蕉と西施の像が立つ。不思議な取り合わせだ。
杭州の西湖もやはり潟湖だったのか、水深が非常に浅く、小島が沢山点在する。
唐の白居易に習って、宋の蘇軾も湖底の土を掬い、湖中を縦に長い堤を造り、
今、白堤とともに蘇堤と呼ばれている。
陸から流れ込んでくる土砂を掬わないと、大雨で湖水があふれて住民が難儀する。
 さて芭蕉が、蘇軾の「欲把西湖比西子」西湖を把って西子に比せんと欲すれば、
という有名な「飲湖上初晴後雨」と題す詩に興をかきたてられたのは、
二つの潟湖を描いた墨絵などを飽かず眺めて来た芭蕉ならではと思われる。
彼は実際に西湖に行っていないから、詩と絵で想像を膨らませたのだろう。
芭蕉が着いた日は雨のため、蜑(あま)の苫屋に膝を入れて、雨の晴るを待つ、
という詩境に巡り合えた。雨も亦奇なり、である。
なぜここで合歓の花が出て来たのか?
能因島の先に、合歓の花の群生地あり、と説明の絵地図にある。
今はまだ新暦の6月で花は咲いていないが、つぼみはふくらみかけている。
芭蕉の着いた旧暦6月16日は、合歓の花が咲いていた。
夕食した店の主人に依れば、7月中頃から咲くという。
ここの合歓の木は相対的に低く、北京や大連の並木として植えられた5-6M高の
ものと比べると、種が違うほどの低さである。高くならないのだろうか。

   (大連の合歓の花の並木)
  大連は5月のアカシアの並木で有名だが、7月は合歓の花が散歩を楽しませてくれる。





さて、芭蕉はこの合歓の花を西施とどのようにつなげたのであろうか。
上述の句に続く、淡い化粧も、濃い化粧も、総べて相宜し。という句が物語る。
 潟湖に浮かぶ島々を眺め、岸辺にたたずむ西子の目の先には合歓の花がねぶる。
そう、まぶたを閉じて、この湖の美しい景色はもう二度と目にすることはできない。
越王勾践の命で、呉王夫差のもとに行くことになったのだ。
有名な「象潟は憾むがごとく、寂しさに悲しみを加えて、地勢魂を悩ますに似たり」
というのは、象潟というよりは、潟湖畔にたたずむ西施のことではあるまいか。

6.
 暗くなってきたので、駅に戻り、夕食をとる。お勧めの広東風焼きそばを頼む。
横浜から来たと言うと、主人は若い頃、赤坂の周富徳の店で働いたことがある、と。
TDKが不景気だった時で、高校を出ても就職できず、故郷を出た。
その後、JR関係の仕事をし、今はこうしてスナック喫茶店を開いているという。
今また電子関係の仕事ががたっと減って、象潟周辺にある3-4か所のTDKの工場の
一部が閉鎖されるというので、商売が減ってしまうと心配顔であった。
 宿について早々に就寝。
翌朝4時半に宿を出て、昨晩の続きを歩いた。
すれ違う人々は「おはようございます」と声をかけあうおばさんおじさんたち。
合歓の花はどこですか、と尋ね尋ね、やっと数本生えているところに辿り着いた。
もっとたくさんあるかと期待していたが、松の方が圧倒的に多い。
私としては、もう少し並木にも合歓の花を植えてみてはと進言したくなった。
 踏切の方から列車の音が聞こえるのでカメラを向けた。
なんと今や数すくなった上野―青森の寝台特急「あけぼの」ではないか。
象潟5時37分着。早起きは三文の徳。
鳥海の山の端にお日さまがぼうっと出ている。
 芭蕉たちが欄干から鳥海と象潟を眺めた赤い橋から、往昔の面影をしのぶ。
ここら辺りは昔から多少人家があったのだろう。








小学生の男の子二人を連れた父親がこちらに向かって歩いて来る。
ここから海までどれくらい?と尋ねたら、彼らも同じ方角だからと案内してくれた。
熊野権現に着いたら、真っすぐ行って幼稚園の所を曲がれという。
彼らは、これから熊野神社の階段を何回か上り下りして朝の運動をするという。
この神社と本隆寺には階段が何段もあり、昔から高台だったことが分かる。
今回の津波でよく分かったことだが、千年前からあるお寺は大抵大丈夫だった。
それでなければ、鎌倉の大仏のように建物は津波に流されてしまうのだ。
自衛隊の人に聞いた話だが、昔、海軍基地を開く時は、大昔からあるというお寺に、
引っ越して貰って、その一帯に基地の本部を置いたそうだ。
横須賀、舞鶴、江田島、佐世保など前に防波堤の島があり、天然の要塞だが、
さらに念には念をいれて、大昔からの由緒あるお寺さんにも引っ越してもらった。
明治海軍の智恵であり、英国海軍から学んだ上に、
大地震津波を加味したものだ、と。
それなら千年に一度という想定外の津波も来ないから安心だろう。
福島原発はわざわざ高台だったのを削って低くしたという。
なんたることか。
波越さぬ 契も無しに 削るとは。
8.
 芭蕉が泊まろうとした能登屋は、あいにく熊野権現の祭礼で、女客があり、
やむなくその前にあった向屋に泊る。これが「蜑(あま)の苫屋」であろうか。
ここに膝を入れて雨の晴れるのを待つ、とあり、
翌日は能登屋に移っているから、
苫屋だったに違いない。
そこから現在の漁港までは少し離れているが、
昔はすぐ目の前が海だっただろう。
 ここで又空想が湧いてきた。
有名な「一つ家に遊女も寝たり萩と月」の市振の段は、
創作であるとされている。
曾良の日記にそれらしき記述は無いのだ。
 芭蕉等は象潟に来て、今野又左衛門の世話になっているが、
宿を頼んではいなかったのだろうか。
事前に文などで頼んでおけばこういうことにはならないだろう。
推測としては、前の宿で知り合った、美濃の商人、
低耳から象潟に着いたら、
能登屋に宿を取る様にと聞かされ、
彼も遅れて参じる云々ということだったろう。
ところがどっこい、元禄2年の頃には、女性も多く旅をするようになっていたから、
能登屋はそうした女性客で満室だったのだろう。
 それにしても不思議なのは、曾良の日記に「所ノ祭二付而客有」の客の前の「女」
という字が抹消されていることだ。
 想像をたくましくすると、如何に元禄時代、女性の旅が普及したとはいえ、
象潟まで足を伸ばすのはめったにないことではなかったろうか。
となると、祭礼に集まる人々たちに「娯楽」を提供する女性だった可能性が高い。
それにしても、僧形の身とはいえ、地元の名士も世話をしたほどの芭蕉たちを、
泊められないのには、何かがあったのだろう。翌日は泊まることができた。
ここを定宿として商売をしている低耳がかけ合った結果だろうか。
 このときのことを覚えていて、ここから長い長い越後路を終える市振に来て、
この寓話をもとに、あの隣から聞こえる話しなどを創作したのではなかろうか。
いろいろ空想をふくらませて楽しませてくれる象潟であった。
              2012/06/23 日夜浮かぶ

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買官いろいろ

買官いろいろ
清の中葉、官は金で買えた。「買官」という。
金持の若旦那はおいしいものをたらふく食べ、
軽薄でつやつやした顔付きをしているが、
ある日忽然、忙しそうに立ちまわっているなとみるや、
頭に水晶の飾りを付け、藍色の鳥の羽(いずれも官位の印)を付けて、
北京官話で「今日は日和もたいへんよろしく」と話しだす。
 民国になり、官位は買えなくなったというべきだが、
買官の道は実際にはむしろ一層開けて来ている。
「学士文人」の官位も、同じように買えるようになってきた。
まあいずれにしても、先立つものは金で、金さえあれば何でも可能だ。
例えば、学者の位を得るには、骨董を買い集め、文人食客と交際を深め、
数名の職人を雇い、骨董の面に刻まれた花紋や文字を拓本にとり、
コロタイプで製本し、名付けて「某々集古録」或いは「何とか考古録」とする。
李富孫は「金石学録」を作り、金石を研究する人を専門に載せた。
これが悪い先例となり、食客たちに続編を作らせ、押し広めた結果、
骨董収蔵家、骨董屋の若旦那や商人たちまですべて収録し、「金石家」と呼んだ。
 「文学家」の位を買うには新しい手法は何も要らない。
出版社を作り、数名の作家を呼び、太鼓持ちを雇い、小新聞を出すだけでよい。
「今日は日和もよろしくて」というのも言わねばならぬが、
何か記事を書いて、印刷して販売店に渡す。
一年か半年もすれば、必ず成功すること保証する。
但し、骨董の花紋や文字の拓本は使えない。
その代わりに、映画スターやモダンガールのブロマイドを使うのがよい。
これこそ新時代の芸術だ。
「愛美」する人は中国にたくさんいるから「文学家」や「芸術家」は、
このようにして生まれる。
 買官した暁には人民を搾取して金を儲けることができた。
学者文人の位を買うのも元本割れは無いから損はしない。
印刷したものは売って現金になり、骨董も将来は毛唐が大枚を払うこともあろう。
 これまた「名利ともに得られる」と言える。
しかしまずは「投資」できなければそう容易ではないから、一般人には無理だ。
だれでも成れるなら、文人学士といっても大した値打ちはあるまい。
 今のところ値打ちがあるから、ある人はせっせと「人名辞典」を作り、
文芸史を造り、作家論を出し、自伝を編纂する。
もし歴史を書くとしたら、文人をロマン派、古典派に分けるのと同じように、
別途、「買官」派というのを立てるべきだと思う。
歴史は「真」を求めるものである。それゆえ、いささかの怨まれるにせよ、
じっと耐えて、我慢するしかないだろう。
      8月24日
 
訳者雑感:
 「人名辞典」を作りと言う時は、原文は「作」を使っている。
これは主に「人名録」に載せた人たちに購入してもらうのだろうから、
できるだけ沢山網羅するに越したことはない。
その一方「文芸史」を造ると言う時は「造」と言う字を使っている。
これは人名辞典というような「中立的一般的」なものではなく、
作者の座標軸をもとに、毀誉褒貶、名声、悪評などを、
随意に載せたり削ったりするのだろう。
だから魯迅は「造」と書いた。
この造(Zao)という字はくせものである。
製造とか創造、造形などの場合は、悪い意味はない。
模造とか人造というと、なにやら本物でない、後からこさえたものとなる。
中国各地で、骨董と称して売っているものの殆どは「あれは造(ザオ)だ」
と物をよく知っている人は教えてくれる。
偽造である。摸倣の倣(ファン)とも言い、後人があとからこさえた物だ。
それでもその方が結構できのいい場合があるそうだ。
オリジナルだと信じられてきた物の中にも、「造された」ものがあると言う。
学者文人も「造された」ものの方が結構幅をきかしている。
しかしそれらは皆短命である。骨董は造できるが、文人は造できない。
      2012/06/16訳
 
 
 
 

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出世と突進(賭け)

出世と突進(賭け)      旬継
 以前、梁実秋教授曰く:貧者は出世しようと這い上がって、
富翁になろうとする。貧者のみならず奴隷も然り、と。
出世のチャンスを得たら、奴隷すら神仙になったように感じ、
天下は当然ながら泰平となる。
 出世できるのは少ないが、各人は自分がそこに入れると思っている。
こうして自然に、分に安んじ、田を耕し作物を植え、大糞を拾い集め、
どんな冷遇にも耐え、刻苦勤勉、苦悩の運命を背負いながら、
自然と戦い、懸命に出世しようとする。
 出世しようとする人はたくさんいるが、その道は只一つで大変混み合う。
真面目に規定通り、規則に従って出世しようとしても、大抵は出世できない。
利口な者は、他人を押しのけ、どかせ、倒したり、足でフンづけて、
彼らの肩や頭を踏み越えて出世する。
 多くの人は出世しようとあがくのみで、自分の仇が自分たちの上にいる、
とは思ってもいない。自分の仇は自分の傍らにいる連中だと思い――
即ち、自分と並んで出世しようとしている奴だと考えている。
そういう人たち全てが、忍耐しながら、両手両足で地を這い、
一歩一歩押し合いへしあい、休むことなく這い上がろうとする。
 然るに、出世しようとする人はとても多いが、出世できる人は非常に少ない。
それで、失望がだんだん善良な人の心を浸食し、
その結果、地上に這いつくばっている者たちに革命が起こる。
それは出世以外に、突進を発明するのだ。
 それは地上に這いつくばっているのがとても苦しいと思い、
地上から立ち上がりたいから、君の背後から何かが猛然「突進せよ」と叫ぶ。
各人の疲れ切った足は、麻痺状態でぶるぶる震えながらも突進する。
これは這い上がるより楽だし、腕力も要らないし、膝も動かす必要はない。
ただ、身体を横にし、びゅーっと突撃すればよい。
成功すれば50万元(当時の国民党政府の宝くじ)が当たり、
妻も財産も子も禄もみな手に入れられる。
失敗しても、また地面に転倒するだけのことだから、怖れることはない。
元々地面に伏していたのだから、元通り這い上がろうとすることも可能だ。
況や、ある人たちは面白がって突進を試みているので、
その結果、転倒したって止むを得ないと考えている。
 出世しようと考えることは、昔から之ありで、
童生(未入学者)が状元(科挙のトップ合格者)へ出世しようとし、
使い走りがコンプラドール(買弁)になろうとする如くだ。
突進は近代の発明のようだ。
考証してみると、昔の「お嬢さんの綾玉投げ」位しか見当たらない。
お嬢さんが玉を投げようとすると、白鳥の肉を食べたい連中が、
頭を仰ぎ、口をあけて、数尺もの涎をたらし…、
惜しいかな、古人はおバカさんで、こうした連中から賭け金を取らなかった。
もしそうしていたら、きっと数万元を入手できたろう。
 出世の機会が少なくなればなるほど、突進しようとする者が増え、
すでに出世している人たちは、連日、彼らの為に突進の機会を作る。
彼らに小額の金を払わせることによって、名と利の双方が得られ、
神仙生活ができる夢を予約する。
 突進の機会は出世する可能性よりずっと少ないが、皆、試そうとする。
かくして、這い上がろうとしては突進し、突進できないと又這い続ける…
身を粉にして働きつめに働き、死して後やむまで。
          8月16日。
 
訳者雑感:
原題は「爬 和 撞」(爬虫類のように這う、と鐘を撞くの突く)。
最初「這い上がると突く」という題で翻訳してみるが、どうもしっくりこない。
貧者が富翁になろうと這い上がるのは、出世しようとする意味だと考えた。
では撞はどうするか。辞書には突っ込む、ぶつかる、衝突、突進などがある。
「お嬢さんの綾玉投げ」の例から、ひょっとすると幸運に巡り合えるかも、
えいやっと突撃、突進して、ダメ元で試してみる、一発勝負の賭けと考えた。
最後の行にある言葉は、諸葛孔明の出師の表の句で、死ぬまで頑張るのみだが、
大抵の人は何とか這い上がろうと死ぬまで働き、生を終えるの意。
    2012/06/15訳
 
  
 
 
 
 

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翻訳を擁護する

翻訳を擁護する   洛 文
 今年は翻訳に対する包囲殲滅の年だ。
「硬訳」とか「乱訳」とか、「今、多くの翻訳家は…本を開いてすぐ訳を始め、
原作の内容理解のお粗末なこと、話しにならない」など批判されている。
それで読者は「何が言いたいのか全く分からぬ」という。
 こうした現象は確かに多い。
だがその病根は「先を争う」にある。
中国人はもともと「先を争う」のが好きな国民で、
電車の乗降、切符を買う時、書留郵便を出す時、我先にと争う。
翻訳家も当然、例外ではない。
書店と読者も実際には、同じ原本に2種の訳を容認する雅量も力量もない。
すでに訳が出ていれば、別の訳を出す書店は無く、
既に出版されていれば、誰も買わないだろうと思う。
 例えば:今や古典となったダーウインの「種の起源」は、
日本には2種の訳があり、先の訳は、誤りがとても多いが、後のは良い本だ。
中国には馬君武博士の訳しかないが、彼は日本の誤訳の多い本から訳した。
それゆえ新たに訳す必要があるが、訳者が富翁で、自家出版する以外、
それを出す書店は無いだろう。
だが富翁であれば、彼はすぐ算盤をはじき、翻訳に手を出さないだろう。
 もう一つの問題は、中国の流行は廃れるのも実に速いことだ。
ある学問や文芸が紹介されても、長くて1年、短いと半年で大抵消えてしまう。
翻訳で生計を立てる者は、心をこめて取り組み、推敲、脱稿した時には、
社会はもう見向きもしない。
中国でトルストイ、ツルゲーネフが大評判になり、
後にシンクレアも評判だったが、彼らの選集は一つも無い。
去年、郭沫若氏の盛名で、幸い「戦争と平和」が出版されたが、
読者も飽きてきて、訳者も飽き、出版社も飽き、最後まで完結しないだろう。
 翻訳不振の責任の大半は、もとより翻訳者にある。
だが読書界と出版界、なかんずく批評家も何がしかの責任を分担すべきだ。
この頽勢を挽回するために、正しい批評が必要である。
悪い点を指摘し、良い点を奨励することである。
もしそれも無いなら、比較的ましな点を指摘してもよい。
しかしそうするにはどうしたらよいか:
悪い訳を指摘するのは、拳(反駁)と勇気の無い訳者に対しては問題無い。
だが有名な人の逆嶙に触れると大変で、彼はすぐ赤い帽子をかぶせられ、
命さえも取られかねない。
こうした状況のために批評家は態度をあいまいにしてしまうのだ。
 このほか、今最も一般的な翻訳への不満は、何十行読んでも、
何が言いたいのかさっぱり分からないことである。
しかし、これもはっきり区別せねばならない。
カントの「純粋理性批判」のような本は、ドイツ人が原文で読んでも、
専門家でないと、とても理解できないということだ。
しかし「本を開いてすぐ翻訳を始める」訳者は無責任である。
この違いをはっきりさ区別せずに、どんな翻訳でも、本を開いて、
一行目からすぐ理解できるように要求する読者も、無責任と言わざるを得ない。
     8月14日
 
訳者雑感:
 新華書店に並べられた魯迅の全集は1メートル弱あるが、
それ以外に翻訳書の量も大変な量である。
彼は東京でドイツ語を熱心に学び、ドイツへの留学を計画していた。
オランダ語やロシア語の堪能な友人と一緒に北京の公園で、
原本と照会しながら訳したりした。
日本語からの翻訳も沢山あるが、ドイツ語からの翻訳の方が文法的に、
より正確な概念をつかみとれて、翻訳に重宝したのであろう。
 私も5年ほど前に顧頡剛氏の「中国史学入門」の翻訳に取り組んでから、
翻訳の原稿を歴史に造詣の深い友人に批評してもらったりした。
魯迅の指摘する通り、批評家がしっかり良し悪しを示すことが大切だ。
この2年間、魯迅の翻訳に取り組んで、訳者雑感の部分を除いて、
翻訳の部分だけで4百字原稿用紙50枚が33冊となった。
この中には沢山の誤訳、理解不足、誤解があるに違いない。
読者の批評を歓迎する。
中国では、「有名で権威のある作家や博士」の名を冠した訳書でないと、
売れないという「悪しき慣習」があったようだが、日本もそうであった。
しかし近年、過去の盛名な人の翻訳に挑戦して、「星の王子さま」をはじめ、
多くの古典が新訳されている。これは良いことだ。
なお「種の起源」の後のは1914年新潮社、大杉栄訳の由(出版社)。
    2012/06/14訳
 
 
 
 

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我々は児童教育にどう取り組むか?

我々は児童教育にどう取り組むか?  旅 隼
 (1933年8月14日「申報」の投稿で)「孔乙已」を読んで、
中国の児童教育はこれまでどうだったか考えた。
 今は色々な教科書があるが、村塾ではまだ「三字経」や「百家姓」だ。
清末には「天子は英豪を重んじ、文章は汝らを教える。
万般はみな下等で、惟読書だけが高等だ」(「神童詩」)を使って、
「読書人」の栄光を誇張した人たちがいた:
またある人たちが学んだのは、「混沌始めて開け、乾坤始めて奠(さだまり)、
軽くて清いものは上に浮き天となり、
重くて濁れるものは下で凝固して地となる」(「幼学瓊林」)のごとく、
古文の紋切調で内容の無いものを教えていた。それ以前は知らないが、
聞くところでは、唐末宋初は「大公家教」を使っていた由。
その本も長いこと失われていたが、後に敦煌石窟から発見された。
漢代には「急就篇」の類が使われた。
 所謂「教科書」といっても、この30年どれ程変わったか知らない。
ある日突然ああ言ったかと思うと、今日はこうだとなり、明日は別の主張が出る。
教育を施さねばそれですむが、一旦「教育」を施すとなると、
学校から多くの矛盾衝突を抱えた人間を社会に出すが、古い社会関係の影響で、
一方では依然「混沌初めて開け、乾坤始めて奠(さだまり)」式の骨董品もある。
 中国では作家や「文豪」が求められているが、真正の学究が必要である。
誰かが歴史を書いて、中国暦来の児童教育の状況をまとめて明確な記録とし、
古人から現在にいたるまで、どのように薫陶されてきたかを明らかにしたら、
その功徳は禹(彼は虫にすぎなかったと言う人もいるが:出版社:顧頡剛の言)
に劣ることはないだろう。
「自由談」の投稿者は古今に博通しているから、この件の適任者がいると思う。
これに取り組んで見ようという人はいないだろうか?
今私はこのことを提起するが、蓋し知るは易く、行うは難し、である。
ただ思いついたことを書いただけだ。
その力のある人が、これに取り組んでくれるのを切望する。
           8月14日
 
訳者雑感:
 今、中国の児童教育はどうなっているのだろうか。
各地の新華書店は5-6階のスペースの1フロアーを小中学生向けの学習書で埋める。
たいへん魅力的なカラー刷り、絵写真いりの児童向けの本であふれている。
手に取ってみて、日本のものより豪華で多面的とすら感じる。
だが、内容的にはやはり今も「三字経」「千字文」「唐詩三百首」などの古典が圧倒的だ。
親たちもこうした昔からの伝統的古典的な「教科書」を読ませるのが、
有名大学への「最短の道」だと信じているかの様だ。
 現代の科挙といわれる「大学入試」。
もちろん自然科学、社会科学も大きなウエートを占めるが、
漢字を駆使して、立派な文章を書くことができるのがその出発点だ。
そのためには、二千年以上に亘って蓄積され、
伝承されて来た「古文古典」の字句を暗唱するほどに詰め込まねばならない、
というのが漢字文明を誇る中国の児童達の重荷でもある。
 西欧でもラテンギリシャの古典を学ばねば、紳士とはいえない時代があったが、
その重荷は中国に比べれば、比較的軽いかと思われる。
 温家宝首相など理系を出た人たちの演説のあちこちに古典の引用がちりばめられ、
それが聞く人の心に届く。
そういう古典を引用できるまでにならないと、首相は務まらないお国柄なのだ。
     2012/06/13訳
 
 

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揩油(カイヨウ:くすねる)

揩油(カイヨウ:くすねる)  葦 索
「揩油」は奴隷根性の最たるものだ。
これは「リベートを取る」や「口銭を取る」とは違う。
これはこっそりやるもの:だが窃盗ではない。
原則、取るのは実に微々たるもの。
それゆえ、「山分け」とも言えぬし:せいぜい「ちょろまかし」だ。
だがこれは公明正大な「ちょろまかし」で、取るのは富豪や富翁、羽振りのいい連中、
外国商人の物で、それもほんのわずかだ。
油水があふれるほどのところから、ちょっとくすねるだけで、人に損害は無く、
くすねた者には有益であり、富者を損じて貧者を救う正道からもはずれない。
口実をつけて婦女をからかい、すきをみてちょっとさわるのも「くすねる」と言える。
これはお金をくすねる場合のように、「名正しければ言従う」には及ばぬが、
かすめ取られた者にも大きな損はない点、同じだ。
 最も典型的な手口は、電車の切符売りだろう。
熟練したら、くすねることのできそうな乗客を見つけるのに気を配りながら、
その一方ではふいにやってくる検札員に注意を払う。
眼光は老練なネズミと鷹のミックスした如くだ。
 運賃を受け取っても、切符は渡さない。
乗客は受け取るべきだが、実際は受け取りにくいし、又受け取っているのを見かけない。
というのも、こすねているのは西洋人の物だし(当時の電車は英仏租界会社経営)
同じ中国人として当然、協力の義務があり、受け取れば洋商に協力したことになる。
受け取る時、切符売りは憎しげな目で乗客をにらむ。
同乗の客たちも往往彼を時勢の分からぬ奴だという顔つきで眺める。
 しかし、それも一時、これも一時。
三等客の中に、偶々銅銭一枚が足らぬ為に、目的地の手前で下車させられるが、
この時、切符売りは大目に見ずに、洋商の忠僕に変じてしまう。
 上海で警官や門衛、西洋人の雇員と話すと、大抵は洋鬼子(毛唐)を憎悪し、
多くは愛国主義者だが、彼らは洋鬼子同様、中国人を蔑視し、
棍棒とげんこつと軽蔑のまなこを中国人に向ける。
「くすねる」暮らしには福がある。
この手口は更に発展し、品格も高尚になり、その行為も妥当とされるだろう。
これは国民的な技両となり、帝国主義への復讐となるだろう。
ざっくばらんに言えば、所謂「高等華人」もこれをやらない手は無い。
 しかし「遊び人」の兄さん達同様、切符売りにも、彼らなりの道徳はある。
もし検札員が来て、彼が金を受け取って発券しないのを見つけられたら、
黙って罪を認め、決して金は受け取っていないと言い張ったりして、
罪を乗客になすりつけたりはしないのである。
       8月14日
 
訳者雑感:
 1970年代、北京にはトロリーバスが走っていて、電車と呼ばれていた。
正確には無軌電車。軌道の無い電車だ。たいてい2両連結だった。
車掌が切符を売るのだが、満員のときは手が届かないから、
結局切符を買わずに下車してしまう客もいた。
 私も10銭だったか払って切符を求めたが、車掌はお金を受け取って蝦蟇口に入れ、
ペラペラの子供のおもちゃのような切符をくれる時もあったが、
その場で破いて籠にいれるのもあった。ということは、やぶかないのもあったのだろう。
下車するときに切符をチェックしないから、こういうことで良かったし、
もうその頃は、西洋人の経営でもないが、親方五星紅旗だったが、いろいろあった訳だ。
 2000年代になって大連の路面電車やバスをよく使った。どこまで乗っても1元。
(たまに郊外までだと2元だが:北京の頃のレートは1元150円、今は12円)
乗車するときに、入口のアルミ製の箱に1元を投げ入れる方式で、切符は無い。
これだともう「かすめる」ことはできない。
しかし困ったことがあった。
ある日黒石磯まで出かけて、帰る時、手元に1元硬貨が無いのに気づいた。
10元札をワンマンの運転手に差し出すと、彼は暫く待て、という。
次のバス停で乗って来る客から、俺の横で1元ずつ手に受け取れという。
それが9枚貯まったら、お前の10元札をアルミ箱に入れよと言う。
なるほどそういう手があった。
最近はスイカと同様、殆どの乗客がタッチ式になったので、
小銭が無いと以前のように9人の現金客を待つのは難儀だろうな。
         2012/06/12訳
 
 

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秋夜の漫歩

秋夜の漫歩    游 光
 秋が来たが暑さは夏のままで、灯が太陽に代わる頃、漫歩する。
危険じゃないか?危険は人を緊張させ、緊張で自分の生命力を感じる。
危険の中での漫歩はとてもすばらしい。
 租界もまだ悠閑なところもあり、住宅地は特に良い。
しかし中等華人の巣窟は暑くてかなわぬ。屋台の食べ物屋、胡弓、麻雀、
蓄音器の音、ゴミ桶や裸の上半身と太もも。
漫歩に良いのは高等華人や無等洋人の住居の門の外で、広い道、緑の並木、
淡色のカーテン、涼風、月光、そして犬の鳴く声も聞こえる。
 私は農村で育ったので、犬の鳴く声が好きだ。
深夜、遠吠えを聞くと心が和らぐし、古人の所謂「犬声、豹の如し」がそれだ。
偶々知らぬ村外で、一声狂った如く鳴き叫び、大きな猟犬が跳びでてくると、
すごく緊張し、闘いに臨むがごとく、どきどきする。
 残念ながら、ここで鳴くのは狆である。
おじけづいたような耳障りな声で、キャンキャンと鳴く。この鳴き声は嫌いだ。
 漫歩しながら、冷笑をあびせる。私は狆を黙らせる方法を知っている。
奴の主人の門衛と二言三言話しをするか、肉骨も一本与えることだ。
そうするのは簡単だが、私はそうしない。
 奴は常にキャンキャン鳴く。
私は嫌いだ。
漫歩しながらムカっとし、石を握って冷笑を収めるや、
それを投げる。うまく彼の鼻梁に命中した。
 ううーと一声あげて、逃げて行った。
漫歩し、漫歩する。非常に得難い静寂の中を。
 秋は来た。が、私はやはり漫歩をつづけている。
鳴く犬はまだいるが、さらに怖じ気づき、声も以前とは異なり、
距離もだいぶ離れているので、鼻も見えない。
 私はもう冷笑もせず、ムカっともしないで漫歩する。
一方で、奴のとても弱弱しげな声を気持ちよく聞く。
        8月14日
 
訳者雑感:1966年頃、京都の下鴨出雲路橋のほとりに住んでいたころ、
6月のいまごろになると夜の十時を過ぎても家の北側にあった田んぼから、
蛙の鳴き声が良く聞こえた。市電の通る下鴨通りと鴨川に挟まれた住宅地で、
私はD大学を退官した人の家に下宿していた。
2軒北に今西錦司さんの庭の大きな家があった。
その蛙の鳴く声を耳にしながら、受験勉強していたころを思い出す。
京に田舎ありで、小学校に入る前に田舎の祖父の家で聞いて以来の蛙の合唱だった。
 
さて魯迅の作品に登場する狆は、彼の論敵の子分達を象徴している。
ここでは高等華人の家の狆だが、彼は農村で普段あまり通らない村外の道で、
突然巨大な猟犬が跳びだしてきたときのドキドキ感と租界の狆とを比べている。
狆を黙らせる方法は知っているが、彼はそれをしない。
門衛と親しそうに話すとか、肉骨で手なずけようとはしない。
そこいらにある石を拾いあげて、奴めがけて投げつける。
これが彼の狆を黙らせる方法だ。
妥協したり、手なずけたりしない。
租界の夜はかっさらいやかどわかしなど危険と隣り合わせだが、彼は漫歩した。
中等華人の住む喧騒とした巣窟も歩いたことだろう。
1980年頃、プラント交渉が中断し、何もすることが無くなったので、
私も旧フランス租界から豫園にかけてせっせと歩いた。
当時まだ背中にカゴを背負って、右手に「つかみ」を持ち、
換金できそうな紙やめぼしいものを拾って回る人たちが結構いた。
戦前住んでいた人から聞いた話だが、当時は同じ格好で路上の糞を、
拾い集めて生計を立てていた人もいたそうだ。犬のだけではない。
漢字はどう書くのか知らぬが、「タオフェル」というのが職名だった由。
                2012/06/12訳
 
 

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蹴る 

蹴る       豊之余
 2月前「押す」を書いたが、今回は「蹴る」を書く。
今月9日「申報」に、6日夜、漆匠、劉明山、楊阿坤、顧洪生の3人が、
フランス租界のバンドの太古埠頭で納涼中、おりから別の数人が左側で、
賭博をしていて、巡回中の警官に駆逐され、劉顧の2名は白系ロシアの警官に、
水中に放り込まれ楊明山は溺死した。
 ロシア人警官が言うのは当然ながら「自分で足を滑らせて水に落ちた」だ。
しかし顧の供述によると「私と劉、楊の3人は太古埠頭に涼みに行った。
劉はベンチの下の地面に座り、私はそのそばに立っていたが、
ロシア人警官がまず劉を蹴ったので、劉は立ちあがって避けようとしたが、
又蹴られ、黄浦江に転げ落ちた。私は彼を助けようとしたが間に合わず、
身をかわしてロシア人警官をつかもうとしたが手で押されて、
私も浦中に落ちたが、人に助けられた。
 判事の質問:「なぜ彼を蹴ったのか?」答えは「わかりません」
「押す」には手を挙げなければならず、下等人にはそんな面倒なことは要らない。
それで「蹴る」となる。上海には「蹴る」プロが実に沢山いる。
インド人、安南人に加え、今や白系ロシアの警官も登場した。
彼らはツアーリの時代、ユダヤ人に対して使った手を当地で展開してきた。
我々もほんとうに「忍辱し重い枷を負う」ことにかけては、辛抱強い国民で、
「江に落ち」さえしなければ、大抵は滑稽化して言う:
「毛唐のハム(火腿という中国語=足)を一本食ったよ」と一笑に付す。
 苗族は大敗後、山中に逃れたが、それは我々の先帝軒轅氏が追い出したのだ。
南宋は敗残の後、海辺に逃れ、これも我々の先帝ジンギスカーンが追い出したのだが、
最後には陸秀夫が小皇帝を背負って、海中に跳び込んだ。
我々中国人はもともと「自ら足を滑らせ、水中に落ちて」きたのだ。
 慷慨家は、世界で水と空気だけは貧乏人にも与えられているという。
だがそれは正確ではない。貧乏人は実際皆と同じようには水と空気を得られない。
埠頭で涼んでいただけでも、端無くも「蹴られ」江に落ちて命をなくす。
友を救おうとし、凶手をつかもうとすると「手で押され」:また江に落ちる。
『もし皆で加勢すると「反帝」の嫌疑をかけられる。
「反帝」はまだ中国では禁止されてはいないが、
「反動分子が機に乗じて騒ぐ」のを予防するため、
結果はやはり「蹴られ」「押されて」ついには江に落ちる』(以上『』内は傍点付き)
 
 時代は進歩しており、船も飛行機も随所にある。
仮に南宋皇帝が今日に生まれたら、決して海に落ちることにはなるまし。
彼は外国に逃れられる。平民たちが代わりに「浦江に落ちる」
 その理由は簡単とはいえ、複雑でもある。
故に、漆匠顧洪生曰く「分かりません」とあいなる。
    8月10日
訳者雑感:
 判事に何故蹴ったのかと問われて、顧は「わかりません」と言った。
とはどういう意味だろう。
判事が尋ねた相手は顧であって白系ロシア人ではないだろう。
警官になぜ蹴ったかとは聞いても始まらない。
賭博している連中の仲間とみなされたのだろうから。
してみると、顧は友達を水に蹴り込んだ警官を蹴ったのであろうか。
なぜ蹴ったのか? それは復讐というかこの野郎と思っての反撃だったろう。
しかしそれを反撃だとか復讐だと明言したら、それこそ牢屋行きとなる。
だから「わかりません」としか答えられないのか。
時代が進歩したから今日なら、南宋皇帝は海に飛び込んで死ぬことはあるまい。
どこかへ高飛びするだけのこと。
だが貧乏人は蹴りのプロ、外人警官に蹴られて死んでしまう。
それが30年代魔都上海の現実だったのだ。
      2012/06/10訳
 
 

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豪語の割引

豪語の割引   葦 索
 豪語の割引とは文学上の事で、
凡そ作者の自述などは何割か割引かねばならぬ。
憐れむべきとか無用だけれど等の自白すら「二語は無い」ではない。
況や豪語をや。
 仙才李太白は豪語がとてもうまいのは御存じの通り:
指の爪を長く伸ばし、痩骨柴のごとき鬼才李長吉も、
「若耶渓に水剣を求め、明朝帰って猿公に事(つかえん)」と言うも、
全く自らの力量を知りもせずに、刺客に学ぼうとするものだ。
これはゼロに値引かねばならぬ。その証拠は結局現場には行かなかったから。
 南宋のとき、国が艱難に陥り、陸放翁は慷慨党の一人だった。
彼は「老子は猶絶大な漠に堪えたるに、諸君はいずくんぞ新亭を泣くに至る」
と言ったが、実は彼もそこに行っていないから、これもゼロにせねばならぬ。
ただ私の手元に詩書が無いから、
引用に間違いがあるかしれず、まず値引いておく。
 実は豪語を故意に使う癖は、文人だけではなく、常人や仲買人にもよくある。
街中でケンカしているのを見ると、「俺の負けだ!」というのをよく聞く。
これは伍子胥と同じで、「今に見てみろ、仇は返すぞ」との誓いである。
だが総じてそうすることができぬことも多い。
 インテリは多分別の陰謀を使うかもしれないが、荒っぽい人はケンカの結果、
口先だけで心からでは無いことを言って、聞く方も意にかなわぬが、
ケンカの手じまいとしての一種の儀式になっている。
 旧小説家も早くからこの局面を見破っていて、
淫売娼婦が別の相手との争いを描くには、例によって相手が男を盗んだと罵った後、
自から序して「私や、拳上に立つ人間、腕上を走る馬…」
それがどうした?(水滸の潘金蓮のセリフ:出版社)
 と言って、相手がそれを割引くに任す。
彼は相手がそんないい加減なことはしないことを十分信じておりながら、
やはりこう言って、それは丁度偽の売薬の包装紙に必ずあるように、
「世間さまを欺く下心あれば、落雷で焼死すべし」と同じことだ。
これも一種の儀式となっている。
 然し時勢が変わってきて、自らすぐ割引くのもでてきた。
例えば広告で、次のようなのを目にする。
「私は決して名を変えたり、姓を改めたりしない」と言うから、
「七侠五義」の中の人物を見たように敬意を起こさせるが、
その舌の乾かぬ内に、「たとえ時には他の筆名を使うとしても、
発表した文にはすべて責任を負う」と言いだし、
体をひとひねりすると、土行孫の様に姿を隠す。
まさか「他の筆名を使った方が良いか?」止むを得ないからか。
 上海は元はといえば中国の一部で、もちろん孔子の教化を受けた。
商店のカウンターの「掛け値無し」の金看板も、
時に店外の「大安売り」の大旗と互いに輝き映じあうが、
総じて言えば、それには理由があり:
国産品愛用の提唱でなければ、開店記念なのだ。
 だから店の方で大安売りだといっても、やはり満足できぬなら、
凡そ「老上海」(人)は、さらに値引きせよと要求せねばならぬ。
        8月4日
訳者雑感;
 ここで言う「豪語」とは「大風呂敷」とか「誇大宣伝」「大ボラふき」
の意味だろう。
 30年代の文学作品にもこうした「自分では、やれもしないこと」
を青年たちに鼓舞するように騒ぎ立てたものが多かったのだ。
その先例として、李長吉とか陸放翁などの詩を挙げている。
 金に攻められて国がめちゃめちゃにされた南宋時代、
陸放翁は慷慨の詩をたくさん作り、北伐して金を倒し、国土を回復せよと、
繰り返しくりかえし訴えた。
 しかし魯迅はそれを「ゼロ」とした。
自分では行ってもいない、行く事すらできぬ所のことを書いて、何になるのだ。
というのが、彼の評価軸だろう。
 文学も商店の値札同様、「老上海」なら自分の気の済むまで、
値引き交渉せねばならぬ。
      2012/06/09雨の朝、訳
 
 

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中国的奇想天外 

中国的奇想天外  游 光
 外国人は中国のことを余り知らないで、中国人は実際的な物を重視するという。
実はそうでもない。中国人は世界でも最も奇想天外な人間である。
 古今を問わず、誰もが知っていることだが、一人の男が何人もの妾を蓄え、
どこまでも肉欲の赴くままにしたい放題で、最後には、
毎日三鞭酒を飲んでも効かなくなってしまうまでのみならず、
まったく「寿命が尽き果ててしまう」までやらないと気が済まぬようだ。
我々の古人は一大奇想を有していた。
「御女」(女を御す)によって、仙人になれるというのだ。
例として、彭祖がたくさんの女人を有して、数百才まで生きたという話しだ。
この方法と錬金術は同じように流行した。
古代の書籍目録に各種の書名がある。
だが実際は、どうもうまくゆかなかったようだ。
今ではもう誰も信じないが、これは漁色好きの英雄には誠に不幸なことだ。
 しかしまだ小さい奇想はあり、フンと一声鼻から白光を放ち、
それで以てどんな遠くにいる敵でも仇でも殺すことができる、というもの。
白光は必ず戻ってくるので、証拠が無く、誰が殺したかは分からない。
敵を殺しても、厄介なことにならず、なんともいい気分だ。
この技両は一昨年、ある男が武当山に登って、求めようとしたが果たせず、
去年になって、大刀隊を使うというのが、この奇想に肩代わりされてしまった。
現在ではこの大刀隊の名声すら寂莫となってしまった。
愛国的英雄にとっては大変不幸なことである。
 我々は最近また一大奇想を有した。
それは一方で救国しながら、もう一方でお金が儲かるという救国籤だ。
宝くじは賭博に似ているが、お金が儲かるというのもその「望」に過ぎない。
だが、この二つがすでに連関し始めたというのは本当だ。
世界には賭博で客を集め、国を維持しているモナコという国がある。
しかし常理から言えば、賭博は、たいてい小は家を破り、大は国を滅ぼすもの:
救国というと、どうしても犠牲は避けられない。
少なくとも金もうけからは大きくかけ離れている。
然るに、そこに一致点を発見したのが我々中国で、目下試験中である。
 更にまたもう一つの小奇想あり。
今回、白光は使わず、広告を数回出し、匿名の手紙か仮名の文章を仇の頭上に落とす。
多少の血が流れるが、自分の洋館や洋服は決して汚れない。
相互にやりあう内に、自分は名を成し、利を得る。
これも目下試験中で、結果はわからない。
既存の文芸史をめくってみても、それをうまく果たせた者は一人もいない。
多分それは折角の企みも、妄りに用いたからだろう。
 賭博で救国とか、肉欲を尽くして仙人になるとか、懐手して敵を殺すとか、
デマを飛ばして田を買うなど、誰か「龍文鞭影」(故事成句)の続編を出すなら、
この四句を添えても構わない。(狂賭救国、縦欲成仙、袖手殺敵、造謡買田)
      8月4日
訳者雑感:
 日本に来た中国人がトイレの清潔なことに驚嘆して、
「日本のトイレは素晴らしいね」との感想。
それで気分を良くした日本人は、お国よりずっと清潔でしょう、と答えたら、
「日本のトイレには御婦人用と書いてあるが、これは婦人を御すために用いるのか?」
と反問。これには参った。確かに以前は紳士用と対でそう書いてあった。
近頃はこの影響か、御婦人用の標識は女性の姿に変じた。
中国の各地をバスで巡ると、2時間おきにトイレ休憩があり、いずこも旧式のもので、
標識はただ「男」「女」と大きな漢字一字が多い。たまに後に厠と付くのもあるが。
         2012/06/08訳
 
 
 

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