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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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山の辺の道

山の辺の道

 学生時代の友人3人で山の辺の道を歩いた。
蘇軾の詩にいう、橙(ゆず)黄ばみ、橘は緑の季節が一年中で一番良い、と。
この時期はまだ紅葉も始まらず、歩く人もまばらで、出会う人は皆、職を終えた人ばかり。
京都から近鉄で天理まで行き、駅前で山の辺の道の地図をもらい、アーケードの商店街を歩くこと30分。途中、天理教の本部にお参りし、布留という地名の交差点に着いた。ここがあの枕詞の「ちはやふる」の「ふる」だという話しから、博学のTさんが「ちはやふる神代も聞かずたつた川、からくれないにみずくくるとは」を吟じ、これが落語のネタにもなったという方向に転じた。
布留の森一帯を背景にして、石上神宮がある。神宮というからにはお伊勢さん平安神宮、明治神宮などやんごとなきお社に違いない。さっそく坂道を上がって行く。10分もせぬうちに、Tさんがちょっと休憩という。2人でお社に参詣しながら、他の人達が右側の階段を上がって行くのを眺めやりながら、Tさんの休んでいる所まで戻って来た。
それからろくに地図も見ずに、左に曲がって、トラックの通る道を南下していった。
そのうちに標識があって、現在地がどうも山の辺の道に行く方向と違うことが分かった。それで、野菜を手にしたおばさんに「山の辺の道へはどう行くんでしょうか」と聞いた。このまま南下してから山の辺の道にたどりつくのは遠いから、今来た道を戻って、右に曲がり、バイパスの下のガードをくぐり右に行けば出られるよ、とのことで、指示通りに歩いてやっと「山の辺の道」の標識にたどりついた。すでに1時間以上歩いたが、元の道に引き返すということで、精神的にもだいぶ疲れが出てきている上に、さすが山の辺の道だけあって、アップダウンもあり、昨日久しぶりに再会を祝してハイになり飲みすぎたせいで、3人とも疲れが出始めていた。それでも明治の廃仏毀釈で「まったく廃墟」と化して址しか残っていない「永久寺」の前まで来た。皮肉な名前だとIさんがいう。説明板には「永久年間に作られた」から云々とある。放生池の周りを巡って雰囲気の良い道を歩き出したのだが、数日前に降った大雨の運んだ土砂がそのままの道を歩む。さすが奈良の道だ、京都の観光地ではすぐ片づけるのだが、こういうのも悪くないなと言いながら歩いてゆくと、行きどまりとなった。がっくり。もう2時間近く歩いて、ペットボトルの水もなくなり、況やお握りすら買って来ていない。しかし周囲を見渡してもコンビニはおろか、ペットボトルの自販機などありそうな気配は無い。12時半過ぎて、登り道を、歯を食いしばりながら歩く。途中でTさんは「ちょっと休憩」と手を挙げる。どうしたものか?と思案していると、向こうから70代と思われる夫婦が杖をついてやって来た。「すいません、三輪から来られたのですか?」「何時間かかりましたか?」と訊いたら「3時間ほどですが、ここからは下りが多いですよ」という。それを聞いてへなへなとなった我々は、何とか水と食料を探そうと、とにかく右に曲がってJRの桜井線の方向を目指した。
 天理市のアーケードで水とお握りを買ってくるのを忘れたことが「大失敗」であった。
実は数年前、愛宕山に登った時に、途中のコンビニでお握りを買ってくるのを忘れて、昼過ぎ山頂近くの愛宕神社の前で、登山者がそれぞれおいしそうな弁当を食べているのをみて、一つ恵んで下さいと言いたくなったことなど、つい2時間ほど前に2人に話したところであった。「トラウマ」とは恐ろしい。ここは三輪への縦走は断念し、食にありつくべく人家のある方向を目指した。
 そうこうしているうちに、SUVにエンジンをかけているお姉さんに出会った。ここから一番近くで水と食べ物が入手できる場所は?と訊けば、右の道を下りてゆけば、夜都伎神社にでられますからその途中にあります、との答え。我々は更に立派な人家を幾つか横目に見ながら、やっと「天理観光農園」という旗がたなびくのを見、安堵した。さっそく、カレーとから揚げランチ、その前に水をごくごく飲んで生き返った。
 昨日仁和寺にお参りしてきたというTさんは得意の古典から「先達はあらまほしきもの」
とか、石清水八幡に参詣した坊さんの話しなど展開、だいぶ口が滑らかになってきた。
 さあこうなったら、JRの長柄駅を目指し、山の辺の道南下を再開した。途中山の中腹に立派な屋根壁の集落がいくつかある。古代の人達は、敵からの防御のために壕を作ったり山の中腹に居を構えて集って暮らしてきたのだろう。奈良盆地の多くは低湿地で、住むには適さなかったのだという。そういわれれば、大和三山といわれる香具山や耳成山などは、なにやら湖面に浮かぶ島のように見える。石上神宮も「いそのかみ」と「磯」のイメージを与える。万葉仮名は伊曽乃加美とか以曾乃加美とかで表記されている。
今では香具山の中腹に住んでいる人はいないが、万葉集の「春過ぎて夏来るらし白妙の衣乾したり天の香具山」と詠まれたころは、中腹に家を構えて暮らしている人がいたのだろう。山の麓に住んでいる人の乾した白妙は、歌にはなりそうもないから。
 こうした環濠集落の人々は朝廷が大和を去って近江へ行く時、額田王が詠んだ「三輪山をしかも隠すか雲だにも 情あらなむ隠さふべしや」という状況下、近江には同行せずに居残った人達の子孫だろうか。
 そんなことを考えていたら、「大和神社」(おおやまとじんじゃ)を左に見て、長柄駅に着いた。知らない人が見たらなぜ「おおやまと」というか不思議に思うだろう。説明板にはこの神社は戦前「戦艦大和」の守護神で云々とある。後で調べたらこんな盆地にありながら、この神様は「海上交通」の神様で、74歳の山上憶良が第9次遣唐使の大使として赴任する丹比(たじひ)の広成(ひろなり)に送った「好去好来歌」の「神代より言い伝え来らく そらみつ大和の国は …言霊の幸はふ国(後略)」と歌ったように、「海上交通の神でもある大和神社に新任大使の無事を、心をこめて祈った」(「万葉の歌3」山内英正著)
という文章を得た。そうか、彼の頃から大和から舟で大和川を下り、そこから大きな船に乗り換えて、唐に渡ったのだろう。数年前公開された「平城京復元」の公園に遣唐使の乗った船がみごとに彩色されて展示されていたことを思い出した。大きな荷物や貢物を携えて難波に向うのもやはり舟で行くのが便利だったろうし、川幅も水量も今我々が想像するよりずっと広くて滔々とした流れだっただろう。海上交通の守護神がこの山の辺のすぐ近くにあるのがやっとわかった気がした。
   帰ってから司馬遼太郎の「街道をゆく」一の「大和石上へ」を見たら、64ページにこういう記述がある。
『「石上のいそは、やはり海岸の磯の意味の様に思うがなあ」(…)なぜならば大和盆地は古代にあっては一大湖沼であったからである。古代聚落は盆地のまわりの麓や高地に発達したから、いまでも磯野、浮孔、南浦、磯城島(しきしま)といったふうに磯くさい古い地名が残っており、となれば石上の地形からみてこれは磯ノ上に違いないと思う方が、穏当のような気がする』

    なんだか知らないが、万葉のころの大和盆地は、一部が今の滋賀県の南東の一角のように、たくさんの川が山側から流れこむ琵琶湖の小さいイメージを彷彿とさせる。
同じ「万葉の歌3」に舒明天皇の「大和には群山あれど とりよろふ 天の香具山 登りたち国見をすれば 国原は煙立ち立つ 海原は鴎(かもめ)立ち立つ うまし国ぞ蜻蛉島(あきつしま)大和の国は」(巻1-2)とあり、これは、奈良盆地は湖沼で鴎が大和川を上って飛んで来ていたものかと思う。京都の鴨川の四条大橋あたりには鴎が飛んでくるが、これは琵琶湖から東山を越えて飛来するものという。鴨川変じて鴎川となるカモしれぬ。
      2013/11/08記

 

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中国人は自信力を亡くしたか

中国人は自信力を亡くしたか
 公開された文章では:2年前までは、我々は常に「時大物博」と自ら誇っていたのは事実だった:その後暫くして誇らなくなり、国際連盟に希望を託すのみとなったのも事実だ:今や自ら誇らないだけでなく、国際連盟も信じなくなり、一途に神に求め仏を拝すに改め、古(いにしえ)を懐い、今を傷む――のも事実だ。
 それである人は慨嘆して曰く:中国人は自信力を亡くした、と。
 只単にこの一点の現象に基づいて論じるなら、自信はとっくに亡くしていた。以前「地」や「物」を信じ、後に「国際連盟」を信じたが、いずれの場合も「自分」を信じたことは無かった。たとえこれをも一種の「信」と言えるなら、それは只、中国人はかつて「他信の力」があっただけだと言える。連盟への失望から、この他信力もすべて失った。
 他信力を亡くし、疑うようになり、一転して、ただ自分だけを信じられるようになったのは、一つの新生の道なのだろうが、不幸なのは徐々に疑わしく虚ろになってきた事だ。
「他」と「物」を信じたのは、本当だったが、連盟は渺茫としていて、やはりそれに頼っていても何にもならないと悟らされた。求神拝仏となると玄虚の至りで、有益か有害かという結果は直ぐには出てこぬから、より長い間自分を麻酔にかけておくことはできる。
 中国人は今「自ら欺く力」を磨いている。
 「自ら欺く」も今に始まった訳ではないが、今は只それが日一日と顕著になったに過ぎず、全てを包んでしまった。しかしながら、この籠の中には自信喪失していない中国人がいる。
 我々には古くから、一生懸命に苦労してきた人々がおり、命がけで生きて来た人、民を助けて来た人、捨身求法してきた人もいるし、……帝王将相のために家譜、所謂「正史」を作ったことに等しいとはいえ、それでも彼らの光輝を蔽い隠すことはできず、これが正しく中国のバックボーンである。
 この様な人が今そんなに少なくなったなどということはない。彼らは確信を持っており、自ら欺かない:彼らは前駆者が倒れてもすぐその後を継いで戦うが、いつも痛めつけられ、抹殺され、暗黒の中で消され、人々に知られることは無いが、中国人が自信を喪失したというのは、一部の人を指してそういうことはできるが、全体がそうだというのは侮べつだ。
 中国人を論じようとするなら、うわべの見せかけだけの白粉を塗って、自ら欺き、人を欺く連中に騙されず、彼の筋骨と背骨を見なければならない。自信の有無は、状元宰相の文章は何の根拠にもならない。自分でその地の底にあるものを見ることが大切だ。
             9月25日

訳者雑感:自信と自信力とはどう違うのだろう。自信を持つ・持ち続ける力か。
「地大物博」と称して世界に伍して行ける自信を持っていたのが、欧米にめちゃくちゃにされただけでなく、隣の小国とみなしてきた日本にも負けて、更には満州から華北一帯を日本に占領され、自信喪失したのだと言われた。しかしそんな状況下でも、前者が倒れたらすぐその後を継いで戦う人達がいる。時の宰相たちが発表する「コメント」など何の足しにもならない。地の底で戦っている人達がいることを忘れず、自信を持てと呼びかけている。
     2013/10/28記
 

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中国語文の新生

中国語文の新生
 中国の現在の所謂中国の文字と文章はもはや中国人皆のものではない。
遠い昔、無論どの国も文字を使えるのは元々少数の人だったが、今教育が普及し始め、凡そ文明国と称す国では文字は皆の公有物である。しかし我々中国の識字率はおよそ全人口の20%で、文章を書ける人は更に少ない。それでも文字は皆のものだと言えるだろうか?
 中には、この20%の特別な国民は中国文化を大切にし、中国大衆を代表していると言う人もいるかも知れぬ。それは間違っていると思う。こんな少数で中国人を代表できない。
まさに中国人の中に、燕の巣やフカヒレを食べる人がおり、ヘロイン売りもおり、リベートをとるものもいるが、それですべての中国人が燕の巣やフカヒレを食べ、ヘロインを売り、リベートをとっていると言うことはできないのと同じだ。
 さもかければ、鄭孝胥(清朝の遺老で満州国の総理兼文教大臣をした)一人が、本当に全幅の「王道」をひっさげて、満州に乗り込むも可ということになる訳だ。
 我々はしかし最大多数を根拠に、中国には文字が無いというべきである。
 このように文字すら無い国度は、日一日と悪くなってゆく。これについては例示するまでもないと思う。
 単に文字が無いという点に関しても、知識人は早くから漠然とした不安を持っていた。清末の白話新聞の創刊、五四運動時代の「文学革命」を叫んだのはこのためである。
只やはり文章が難しいと言うことがわかっただけで、中国は文字が無いに等しいと言う事までは悟らなかった。今年の文語文復興の提唱もこのためで、彼らは明らかに今日の機関銃は利器だと知りながら、暦来なまけてきて、何も振興しないで、危機に臨んでも又も、僥倖にすがり、大刀隊で事が為せると夢想しただけである。
 大刀党の失敗はもはやあきらかで、2年もせぬうちに、99本の鋼刀を軍隊に送る者はいなくなった。しかし文語文の役に立たぬ事が明らかになるのはおそく、まだ揺らぎなく命を保っている。
 文語文提唱の逆流に反対しているのは、現在の大衆語の提唱だが、まだ根本的な問題に直面していない:即ち中国は文字の無いに等しいということ。ラテン化提議が現れて始めて問題解決の重要な鍵をにぎった。
 反対、これは大いにあり、特定の人達の既成概念はなかなか変えられない。ガリレーの地動説、ダーウインの進化論は、宗教と道徳の基礎を揺るがせたから、攻撃されたのは元々怪しむに足りない:しかしハーヴェィが血液が人体を環流していることを発見したことは、社会制度にどんな関係があるというのだろう。だが彼も攻撃された。結果はどうか?結果は:血は人体を環流しているのだ!
 中国人が世界で生存してゆこうとすれば「十三経」の名前を知っているだけの学者や、「灯は紅」には「酒は緑」という対ができるだけの文人は全く役に立たず、全ては人々の本当の智力にかかっているのは明白なことだ。
 それでは生存してゆこうとするなら、まず智力の伝播を阻碍している結核を除去せねばならない:それは話し言葉ではない文(語)と四角い字(漢字)だ。皆が旧文字の犠牲にされないようにと思うなら、旧文字を棄てなければならない。どちらをとるか?これは冷笑家が指摘するように、只単にラテン化提唱者の成功か失敗かだけでなく、中国大衆の存亡に関わってくるのだ。これを実証するにはそれほど長くかからぬと思う。
 ラテン化についての詳細な意見は、私は大体「自由談」に連載された華圉(魯迅の変名)の「門外文談」の意見に近いから、ここではこれ以上触れない。私も全ての冷笑家の冷嘲する大衆語の前途の艱難さに同意する:但し、たとえどんなに難しくてもやはりやろうと思うし:艱難なら艱難なほどやらねばならぬと思う。改革は、これまで順風に行われたということは無いし、冷笑家が賛成に回るのは、事が成った後である。信じないなら、白話文提唱時のことを見れば分かる。
            9月24日

訳者雑感:大衆語というのは1934年ころに盛んに提唱された由。それまでは白話文運動といいながら、20%の非文盲の「漢字を読める人」のみを対象にしてきた。80%の文盲を無くさなければ、中国人は世界で生存してゆけない。智力の伝播もできないとの切実な訴え。
魯迅達の呼びかけで、漢字のラテン化を通じ、上海の人も北京の人と対話できるようになり始めた。同じ漢字を共通のラテン文字表記で曲がりなりにも理解できるようにしたのだ。
 ところでなぜABCで表記するのをローマ字化と言わないで、ラテン化というのか、というのが疑問であった。調べてみたら、それ以前に「ローマ字化」というものも提唱されていて、その表記法は四声も表すとか破裂音とかを小文字を付すなど複雑なもので、大衆にそれを習得させることが問題でもあった。それで旧ソ連に住んでいた中国人達が、工夫して今日のようなX,Q,J,Zなどが多用されたアルファベット表記を使って、漢字を表そうとした。これで青島をTsingtao と外国人が表記していたのを Qingdaoとするようになった。
約束事だから、慣れてしまえば問題ないが、この表記法を学んだことの無い中国人(海外に住む華人なども含め)からは不評であった。人名地名などは昔からの慣用でPekingとかCantonなら発音できるが、BeijingとかGuangdong と表記されると、別の都市かと思われてしまう。「べいじん」「ぐあんどん」と外国人が自国の訛りで発音すると相手も聞いて分からない事になるが、時間の経過とともに通用してゆくことだろう。
    2013/10/25記


 

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肉の味を知らず、と水の味を知らぬこと


  今年の尊孔は民国以来2番目に盛大で、凡そ展示可能なものは殆ど出展された。上海の中華地区は、夷場(租界)に近いとはいえ、往時孔子が聞いて「三月肉の味を知らず」と言った「韶楽」も聞く事が出来た。8月30日付「申報」に依れば――
 『27日、本市各界は文廟にて孔誕記念会を開催、党と政府機関及び各界代表千余名参加。
大同楽会が演奏せる中和と韶楽二章。楽器は音量増大のため、古今を分けず、凡そ国楽器に属すものは全て投入し、全部で40種もあった。譜は旧例通りで変動無し。演奏は荘厳、厳粛で、一般の響きと異なり、悠然として敬虔な気持ちになる。直系三代以上の泰平雅頌は、我国の民族性として平和酷愛をしめしている……』

 楽器は古今を分けず、全て配したとは、蓋し周朝の韶楽とはだいぶ異なっていた筈だ。
だが、「音量増大」のためにはこうする他なく、現在の尊孔精神とも十分合致していよう。
「孔子は聖の時なるもの也」「亦すなわち、聖のモダ―ンなもの也」で、三月の間フカヒレや燕の巣の味を知らず。楽器も多分「計40種」ないとダメだろう:況やあの当時、中国は 外患はあれども、租界はまだ無かったから。(匈奴などの外患はいたが…の意)

 しかしこのことから、時勢はやはり大きな違いがあるのが分かるし、たとえ「音量増大」しても、やはり郷間の村里にまで届く事は無く、同日の「中華日報」には「泰平を雅頌し、そして我国の民族性は平和を酷愛すを示す」体面を頗る傷つける記事がのった。最も具合の悪いのは、27日付のもので―――
 『(寧波通訊)余姚が夏に入って、ひどい旱魃に悩まされ、河水が枯渇したため、住民の飲料水は大半を河畔に掘った土井から汲み上げた。それで先を争って衝突が何回も 起きた。

27日午前、姚城から40里の朗霞鎮の後方屋地区で、居民の楊厚坤と姚土蓮が又井戸水を争って衝突した。殴り合いの結果、姚土蓮はキセルの先で楊の頭を猛撃。楊は即昏倒した。
次いで姚は棍棒と石で楊を害そうとし、ついに殴殺した。周囲はそれを聞いて救命せんとしたが,楊はとうに気絶していた。姚土蓮はすでに禍を免れぬと、機に乗じて逃げた…』

 『韶を聞くのは一つの世界。喉が渇くのも一つの世界。肉を食って味を知らぬは一つの世界。喉が渇いて水を争うのもまた一つの世界。無論この間に、君子と小人の差はあるが、
「小人あらざれば、以て君子を養うなし」で、結局彼らが殴打し殺し合い渇死するに任すわけにはゆかないのだ』(『』内は傍点付き)

 アラブのある所では水は宝で、水を飲むために血と交換するという。
「我国の民族性」は「平和を酷愛」するからこの様にはならないと思う。
『だが、余姚の例は、実に心寒させられる。我々は肉を食す者が聞いて、肉の味を知らぬほどになる「韶楽」のほかに、水の味を知らぬ者が聞いたら、水を飲みたいと思わなくなる「韶楽」 が必要だ』(『』内は傍点付き)  
  8月29日


訳者雑感:
 孔子の時代、やはり肉を食べるのがご馳走だっただろう。豚か鶏か。いずれにせよ普段は野菜穀物が主体で、晴れの食べ物が羊や豚を一頭つぶし塩づけ保存する以外は、2-3日それを食した。殿様から下賜の肉として有り難く頂戴した。それが韶楽を聞いて、その晴れの肉の味を忘れてしまったほどだという。まさか肉欲の肉ではないと思うが…。
 孔子の後の儒家、孟子の「告子上」に「食色、性也」今の訳は「飲食男女是人的本性」とあり英訳は「Eating and sex are human nature」(山東友誼出版社:曹其新 編訳)と。
戦前の訳は「飲食男女人的本性」で是は無かった。
香港の女流作家が、飲食男、女人的本性」と句読点を付けたのが世間の評判になった。

 その後の儒教が国教になり、こうした肉欲的なものをオブラートにくるみ、科挙の試験の出題に適すような「堅苦しい内容」にし、その後それを利用して、人が人を食う社会にしてしまったとは多くの人の言葉だ。
 10年ほど前、孔子の故郷に孔府を訪れた時、門を入ると、左右に部屋があり、つい最近まで孔子の子孫が使っていた部屋で、第一夫人と第二夫人の居室であるとの説明を見て、 儒教の聖人も、清朝の皇帝たちと規模こそ違え、同じ後宮の仕組みで暮らしていたのだなと実感した。
 老舎の小説で「駱駝の祥子」に、貧しい男は、人力車引きで力を売り、貧しい女は肉を売るという段がある。

 数日前の日経新聞で、どなたかが清少納言の「枕草子」の春はあけぼの、冬はつとめて、という本当の意味は、枕を交した人と過ごした素晴らしいときのことだとの説を発表していた。古代の人は正直で、包み隠す事は無かった。中世の教会とか宗教の影響で、いろいろ包み隠すようになったのだろう。紫式部の光源氏などは大変なプレイボーイだし。
現人神たる天皇もあの通りで、孔子もあの通りだったかもしれぬ。
       2013/10/23記
    

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12.終わりに

12.終わりに
 たくさん話した。だが要するに話すだけでは何にもならず、大事なことはやることだ。
沢山の人に実行してもらい:大衆と先駆者に:各々の教育家・文学家・言語学者…に。
これは必要に迫られおり、たとえ目下逆流にあえぎながらでも、船を曳いて進むしかない。
順風なら固より結構なことだが、舵取りが不可欠である。
 この曳航や舵取りの良い方法は、口では話す事が出来るが、たいてい実験で益が得られ、無論どの様に風を見、水を見るにしても、目的は只一つ:前に向うことのみ。
 各位は多分きっと自分の意見があると思うので、これから諸君の高論を聞かせてほしい。

訳者雑感:
 蒸し暑い上海の夏も、夕方になると海風が吹いてきて、川辺の堤に腰掛けて夕涼みする。市内の建てこんだ住宅は蒸し暑いから、めいめいが小さな椅子を持って、集って来る。
夏は増水してその水面を吹く風は涼しい。川幅が広いから海風と同じだ。こうした光景は揚子江の高い堤に、10メートルほども下の農家からそれぞれが折りたたみ
できるのや、小さな腰かけを持ってきて、夕涼みをしていた情景を思い出した。あれは確か、1980年代のはじめ、堤防上の道を南京に向って車を走らせていた時だ。同行の中国人
の友人に聞くと、洪水対策の為に高い堤防ができたので、洪水は少なくなったが、夏は家の中では暑くてたまらぬので、みなこうして夕涼みしながら、世間話をして過ごすのだと。
 魯迅の12章にも及ぶこの「文談」は何日かかけて、そうした夕涼みにやってきた人達に語ったことを、まとめたものだが、大変面白いから、聴衆も段々増えたことだろう。
  2013/10/20記

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11.大衆は読書人の考えているほど馬鹿じゃない

11.大衆は読書人の考えているほど馬鹿じゃない
 だが今回、大衆語文が提唱されるや、数名の猛将が勢いに乗じて登場し、来歴は皆異なるが、すべて白話、翻訳、欧化語法、新しい単語に進攻してきた。彼らは皆「大衆」の旗を叩き、こんな物は大衆には分からぬから要らないと言った。その中は元々文語派の残党で、この機を借りて当面の白話と翻訳を叩こうとし、祖伝の「遠交近攻」の古い手で:ある者は元々が怠け者で、真面目に学んだことも無く、大衆語が出来上がる前に、白話が先ず倒れ、その隙に大口をたたこうとしているが、実は文語文の親友であるが、私はここではこれ以上触れない。今言いたいことは、只それらの好意的だが、間違っている人のことで、彼らは大衆を軽んじていないが、自分を軽んじて古い読書人の旧弊を犯している事だ。
 読書人は常々他人を軽んじ、比較的新しくて難しい字句は、自分は分かるが、大衆は分からないと思い、大衆のためにはそれらを根こそぎせねばと考え、言葉も文章も俗なほど良いと考える。こういた考えが進むと、無自覚の内に新しい国粋派となる。或いは大衆語文が大衆の中に早く広まる様に企図し、何でもかんでも大衆の口に合うようにと主張し、甚だしきは「大衆迎合」を説き、故意に罵倒句を多く使って大衆の歓心を博そうとし、それはそれなりに苦心しているのだが、それは大衆の新しい太鼓持ちになってしまう。
 大衆といえどもその範囲は広く、各種各様の人を包含するが「目に一丁字もない」文盲も、私から見れば実は読書人の考えているような馬鹿じゃない。彼らは知識を欲し、新しい知識を求め学ぼうとし、また摂取できるのだ。無論すべてを新語法、新名詞でとなると、彼らは何も分からぬ:ただ一つずつ必要なものを選んであげれば、受け入れられる:その消化力たるや、先入観の強い読書人にも勝る。生まれたばかりの赤子はすべて文盲だが、2歳になれば次第に多くの言葉がわかり、沢山の話しができ、それは彼にとっては全て新名詞、新語法である。彼は「馬氏文通」や「字源」を調べることなどあり得ぬし、教師が解釈することもなく、何日か聞いた後で、比べてみながら意味が分かるのだ。大衆が新しい語彙と語法を摂取できるのもこういう風で、こう言う風にして前進できる。だから新国粋派の主張は、大衆の為にと考えているようだが、実際は引き延ばしてきた任務を引っくり返しているのだ。しかしこれを大衆のやるのに任せるというわけにはゆかぬ。というのも多くの見識は、やはり覚悟のできた読書人のものであり、それらを随時選んで取り上げて行かぬと、多分無益なものを間違って取り上げ、有害なものさえ出て来るのだ。
従って「大衆迎合」という太鼓持ちは絶対いけない。
歴史の示すことから、凡そ改革は最初はどうしても覚悟のある知識人の任務である。ただこれら知識人は研究せねばならず、よく考えて決断し、そして毅力が要る。彼は権力を使うが、人を騙さず、上手に指導し、決して迎合しない。彼は自分を軽んじて、皆のための演技者だと考えず、そして人を軽んじて自分の手下としない。彼は只只大衆の一人で、思うに、こういう風にやっていってはじめて大衆の事業ができるだろう。

訳者雑感:魯迅がここで2歳の赤子が正に文盲だが、新しい言葉や語法をどんどん覚えるように、大衆も読書人の考えるような馬鹿じゃなく、新しい(全国に通じる)言葉や語法をどんどん覚えられると説いている。だからそれを大衆と一緒になって、大衆の一人としてやっていけば、中国語の共通化は可能だと考えている。彼の死後数十年の時を経てそれが実現した。しかしその一方で、今中国の一部となった香港では、いまだに梁氏は香港の代表として、広東語で大衆に語りかけている。普通語では香港人の心に届かないとでもいうかのようだ。しかし大衆は確かに広東語の劇や歌を大切にしてはいるが、北京語をしゃべることができないと、現代社会で通用しないことは認識していて、カラオケなどでは普通語の歌を歌い、普通語の映画も好きだ。あとどれくらいしたら、広東語の歌が歌われなくなるだろうか。
    2013/10/19記


 

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10.怖れる必要はない


   山西省五台山の廟の奉納劇(午前7時ごろ)

10.怖れる必要はない
 『 』内は、原文は傍点つき:
 『だがこれは必ずしも実行せずに、発言しただけでも、別のある人たちを怖れさせる。
 先ず大衆語を提唱した人はすなわち「文芸の政治宣伝員の宋陽の類(共産党でこれを担当していた瞿秋白の筆名)」の本意は造反にあるという。色つきの帽子を被らせるのは、極めて単純な反対方法だ。一面では又自己保全の為、中国の80%が文盲でも構わぬと言う。では口頭で宣伝するなら、中国の80%を聾者にしなければならなくなる。だがここでは今「文を談じる」範囲外だから、これ以上触れない。
 専ら文学の為に怖れている人は今2種類いると思う。1種は大衆がみんな読み書きできたら、全員が文学家になると怖れる人だ。これは天が落ちて来るのを怖れるお人よしだ』
上述したように、字を知らぬ大衆の中にもこれまで作家がいた。もう長いこと帰郷していないが、昔は農民達も余閑があり、夕涼みの時、人は故事を語った。語り手は大抵特定の人で、比較的見識があり、話しがうまく、分かりやすく聴かせるのが上手で、且つ面白い。これ即ち作家で、彼の作品を書けば作品となる。話しが無味で、冗長なおしゃべりなどは皆聞こうとせぬし、冷めた言葉で――嘲笑する。我々は何千年も文語でやって来て、この十年来白話でやってきたが、凡そ書ける人はどうして皆文学家だと言えようか?たとえ全てが文学家になったとしても、軍閥や土匪ではないから大衆に危害を及ぼさず、互いに作品を見せ合うだけのことだ。
 もう一つは文学の低落を心配すること。大衆は旧文学の素養などないし、士大夫の繊細さに比べれば、あきらかに所謂「低落」だろうが、旧文学の痼疾に染まっていないから、剛健で清新である。「子夜歌」のような無名氏の文学の流れは、旧文学に新たな力を与えるだろう。上述したが:現在も多くの民歌や故事を紹介している人がいる。更には戯劇もあり、「朝花夕拾」で紹介した「目連救母」の無常鬼の自伝は、いわば一人の鬼魂(亡者)に同情し、半日娑婆に帰してやったら、はからずも閻魔に懲らしめられ、それからというもの、決して手を緩めなかった――
  「たとえ鉄の壁でも銅のでも、
   天子さまの親戚でも、容赦せぬ!」
 なんと人情味のある、また一度間違ったらすぐ改め、法を遵守し、果断に行う。我々の文学者はこんなものを書けるだろうか?
 これは本当の農民と手工業労働者の作品で、彼らは、閑を見つけては演じている。
目連の巡行する一連の多くの故事を借り、「小尼姑下山」以外は、木刻版の「目連救母記」
とはまったく異なる。その中の「武松打虎」は甲乙の二人が一強一弱で演じる。まず甲が
武松になり、乙は虎で、甲に死ぬほど叩かれ、乙は彼を恨む。甲は言う:「お前は虎だから叩かないと、こちらが咬み殺されるじゃないか?」乙は交代してくれと頼むが、今度は逆に甲に咬まれて死にそうで恨みをいうと、甲は「お前は武松だ。咬み殺さないと、お前に叩き殺されるじゃないか?」という。ギリシャのイソップ、ロシアのソログーブの寓話と比べても遜色ないと思う。
 全国各地に行って集めたら、この種の作品は大変多いだろう。ただ無論欠点もある。これまで難しい字と難しい文章で封鎖され、現代の思潮と隔絶している点だ。従って、中国の文化を一緒に向上させようとしたら、大衆語文を提唱し、かつ書法も必ずラテン化しなければならない。

訳者雑感:
 中国の各地の神様を祀る社殿の前には、丁度日本の大きな神社の前の「能舞台」のような屋根を持った「舞台」があり、そこで「目連救母」のような一連の演劇が奉納される。
それは規模の大小を問わず、小さい村にはそれなりの舞台が常設され、本当の農民や手工業の労働者が、「余技」として仕事の合間に練習してきた「戯劇」を演じ、神に豊作のお礼をする。それを村中の人が交替で観に来る。従って彼らの演劇は朝早くから夜更けまで続く。私も山西省の御利益のある廟に朝7時にお参りしたら、その小さな廟の前に立派な舞台があり、それぞれが御利益のお礼参りに来た人達の為に、演じている。えんえんと。
 彼らは物語の筋はよく知っており、台本なしで、演じられる。文盲かと思う。角付の漫才が盲目や、「ごぜ」であった日本も同じだと思う。
 彼らは難しい字や文章は読めなかったが、耳で覚えたせりふは忘れることは無かった。
   2013/10/17記
 


 

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9.特化か普遍化か?

9.特化か普遍化か?
 ここに来て、大問題にぶつかる:中国語は各地ごとに大きな違いがあり、大きく分けただけでも、北方語、江浙語、両湖川貴語、福建語、広東語の5種あり、この5種も更に小区分があり、今ラテン語で書くとすると、普通語か土語か?普通語を書こうにも多くの人々は書く事も出来ず:土語だと他の地の人は読めないから、却って隔絶が起き、全国に通用している漢字に及ばない。これは大きな弊害だ!
 私の考えは:当初の啓蒙期は、各地は各地の土語を書き、他の地方と意思が通じないのは気にしない。ラテン書法を使う前は、我々の識字できぬ人々は、もともと漢字で互いに通じる音を持っていなかったのだから、新たな短所は何もなく、新しい長所があり、少なくとも同じ言葉の地域なら、互いの意思の交換ができ、知識を吸収し――それは当然一面では、ある人たちが有益な本を書かねばならぬが。問題はこの各地の大衆語文の中から、将来それを特化するか、普遍化するかである。
 方言土語には大変意味深長な言葉があり、私たちの所では「煉話(よく練られた言葉)」
というが、とても面白く、丁度文語に古典を引用する如く、聞く方も興味をそそられる。
それぞれに方言があり、語法と語彙は更に煉って発達させるのが特化だ。これは文学にはとても有益で、それは一般的なありきたりの文章より面白いが、特化には危険性もある。私は、言語学は知らぬが、生物では一度特化すると往々にして滅亡する。人類出現前の多くの動植物は、余りにも特化したため、可変性を失い、環境が変わると対応不能で、滅亡する他なかった。――幸い我々人類は、まだ特化した動物にはなっていないから、心配しないでよい。大衆は文学を持っているし、必要としてもいるが、文学の為に犠牲になってはいけない。さもないと、その荒唐無稽さと漢字保存のために、80%の中国人を文盲にし、殉難させてきた、活き聖賢と何ら変わることは無い。従って、思うに、啓蒙の段階では、方言を使うが、一面では徐々に普通の語法と語彙を取り入れて行くのが良い。まず固有のものを使うことは、その地方の語文の大衆化で、新しい物を取り入れるのは全国的な語文の大衆化だ。
 読書人が数人書斎で話して出した案は大抵通用しないが、すべて自然の流れに任すのもよくない。今埠頭や公共機関で、また大学で確かに一種の普通語(共通語)らしきものがすでに出て来たようで、みんなが話すのは「国語」ではないが、北京語でもなく、夫々郷土の音調を帯びているが、方言でもないし、たとえ話すのに苦労したり、聞く方も苦労するが、なんとか話せるし、聞いて分かる。整理して発展させてゆけば、大衆語の一つとなり、将来さらに主力となるかもしれない。私は方言は「新しいものを取り入れてゆく」と言ったが「新しいもの」の来源はここにある。こういう一種の自然に出て来、更に人工の方言を加えて普遍化すれば、我々の大衆語文は大体において統一したことになるわけだ。
 今後もこれを継続してやるのだ。年月を経れば、語文は更に一致し「煉語」と同じように良いものになり「古典:より活き活きとしたものになり、徐々に形成されて文学は更に精錬を加えることになろう。直ぐにはできない。考えてみてください。国粋家が宝とする漢字は3-4千年かけてやっとこんな程度の結果しか出せなかったじゃないですか。
 それでは誰に始めてもらうか、という問題だが、言うまでもなく:覚悟のできた読書人です。一部の人は「大衆の事は大衆自身でやるべし!」という。勿論それはその通りだが、どういう人がそれを言っているのかを見なければならない。それを言ったのが大衆うならそれはある面で正しいし、正しいのは自分でやろうとする点だが、間違っているのは協力しようとする人を排除してしまうことである。
もしそれを言っているのが読書人なら、話しはまったく違ってくる:彼はきれいごとを言って、文字を把持し、自分たちの尊厳と栄光を守ろうとしているのだ。

訳者雑感:埠頭とか公共機関(役所を含め)大学などには全国各地からいろんな方言の人が集って来て、それぞれが意思の疎通のために、共通語・普通語に近いものを話し始める。
それが上海や北京などの大都会で始まった。1970年代にシンガポールに住んでいた頃、やはり世界的な埠頭であるシンガポールには、マレー人やインド人(主にタミ―ル人)がいたが、共通の言葉は英語であった。しかし人口の80%を占める華人の多くは中国各地から来ていて、多くは英語はしゃべれず、華人の世界でも広東語・福建語・客家語・海南語などお互い通じない方言では意思の疎通ができぬので、「華語」(HuaYu)と称して、北方語を自分の方言の訛りを濃厚に残しながらも使っていた。魯迅の活きていた1930年代の上海は丁度1970年代以前のシンガポールに似ているかと思う。
    2013/10/15記

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8.どう渡すか

8.どう渡すか
 文字を大衆に渡す事は、清末からすでにあった。
「鼓を打つな、鉦を叩くな、吾が歌う太平歌を聞け……」は、欽頒(お上の御達し)の大衆教育の俗歌だ:この外に、士大夫も些か白話新聞を出したが、その意思はただ、みなが聞いて分かる様にさせることで、必ずしも書けるようにというわけでは無かった。「平民千字課」は少しばかり書けるようになる可能性もあったが、只記帳や手紙を書ける程度で十分とみなしていた。もし考えていることを書こうとしたら、限定された字数では不十分だった。例えば、牢獄は確かに人に一定の土地を与えるが、制限があり、その範囲内だけで立ったり坐ったり臥したりできるが、設定された鉄柵の外に逃げ出す事はできない。
 労乃宣と王照の二人は、簡略字を有し、進歩はとても早く、音に従って字を書けた。民国初年、教育部は字母を制定しようとし、彼ら二人はその会員で、労氏は代表を出席させ、王氏は自ら参加し、入声の存廃問題のため、かつて呉稚暉氏と大いに戦い、その結果、呉氏の腹はぺこぺこになって、ズボンがずり落ちた。だが結果は、例の通りいろいろな斟酌を経て、一つの事を制定し「注音字母」と呼んだ。当時多くの人は漢字を代替することができると思ったが、実際はダメであった。というのもそれはつまる所、簡略な方塊字(漢字の意)に過ぎず、丁度日本の「カナ」と同じで、幾つかを漢字に挟んで、或いは漢字の旁に注をするのはまだいいが、これを師(決定版)と仰ぐには力不足だった。書くとなるととてもごちゃごちゃし、読むとなると眼がつかれる。当時の会員は「注音字母」と呼んだが、その能力の限界をよく知っていた。再度日本を見ると、彼らの中にも漢字を減らせと主張するものあり、ラテン語表記を主張する者もいるが、「カナ」だけにしろと主張するものはいない。
もう少しよいのは、ローマ字表記法で、一番詳しく研究しているのは、趙元任氏だが、私は余り分かっていない。世界に通用するローマ字で表記すると――今やトルコすらそうだが――一ひとつの言葉がひとつながりで、非常に明晰で良い。ただ、私の様な門外漢に言わせれば、その表記法はとても煩雑なようだ。精密さを求めると当然煩雑にならざるを得ぬが、とても煩雑だとまた「難」に変じてしまい、普及の妨げとなる。やはり一番良いのは、別の一種の簡単で、固陋でないものを造ることだ。
 ここで我々は新たな「ラテン化」法を研究できる「毎日国際文選」に小冊子の「中国語法のラテン化」や「世界」第2年第6・7号の合本付録の「言語科学」などはいずれもこれを紹介している。安いから興味のある人は買って読むことができる。それは28字だけで表記法も簡単に学べる。「人」はRhen、「房子」(部屋)はFangzで「我喫果子」はWo ch
Goz「他是工人」はTa sh gungrhenだ。だが私は中国はやはり北方語――北京語ではなく――を話す人が多く、将来もしいたるところで通用する大衆語が持てるとしたら、主力はやはり北方語だと思う。さしあたり、少し増減を行って、各地の特有の音に合わせさえすれば、どんな僻地や田舎でも使える。
 28字を覚え、綴り方、書き方を学べば怠けものと低能以外は誰でも書け、読める。況や
そこには一つの長所があり、早く書けることだ。米国人は、時は金なりというが:私は:時は生命だと思う。何の理由も無く、人の時間を空費するのは、実は財産を奪い、命を害することに他ならない。だが、我々のように夕涼みがてら坐ってだべっている者は別だが。

訳者雑感:
 大学で中国語を学び始めた時、まず、最初に習うのが、ぼぽもふぉであった。ローマ字ではbpmfと表記し、次いでdtnl、gkh、jqx、zhchshr、zcsの合計23音の声母表であった。
 これは魯迅達が上記でいろいろ試行錯誤した後に生まれて来たものだろう。なぜこうした塊で覚えさせるのか、最初はわけがわからなかった。だいぶ経ってから、唇や舌などの動きを系統的にまとめたものだろうと思った。そして無気音と有気音の違いをbp、dt、
gk、jqなどで覚えさせたものだと理解し始めた。だが、欧米人がABCで文字を覚え始め、日本人があいうえお、で始めるのと比較すると、果たしてどうだろうか。
 中国語はこの23の声母(子音)に母音と子音の複合したものを付けて、漢字ごとに発音を覚えなければならない。これは古文の中の漢字で比較的発音の難しいと思われる字には、
反切といって、例えば、東の字を徳紅(d+ong)の反または切と言う長いしがらみから来ているのではないかと思う。確かに一定以上の漢字を知っていれば、これで全ての漢字の発音ができるわけだ。だが、その「一定」は魯迅の言うように「千字」程度では記帳や簡単な手紙を書ける程度で、それ以上を覚えるとなると相当な困難が伴う。
 簡略化される前の画数の多い漢字の文章を読むたびに、魯迅ではないが、(理由も無く)
覚えるのと、書くのに(人の大切な)時間を空費させて来たのは、命を奪うに等しいというのもわからぬでもない。ただ夕涼みの余興でだべるのは別であり、中国人はそうして過ごすことが好きでもある。特に茶館でおいしい茶菓と気の合う友がいっしょなら。
  2013/10/11記

 

 

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7.字を知らなかった作家

7.字を知らなかった作家
 そんな難しい字で書かれた古語の摘要を、かつては「文」と呼び、今は少し新派らしく「文学」と呼ぶが、この言葉は「文学(文章博学)は子游、子夏の二人(論語)」の中からとったのではなく、日本から輸入したもので、彼らが英語のLiteratureから翻訳した物だ。この「文」を書ける者が、現在では白話文も書けるが、「文学家」或いは「作家」という。
 文学の存立条件としてまず字を書けることが必要だが、そうであれば、字を知らぬ文盲の人達には無論文学家はあり得ない。だが作家はいるのだ。余り早まって私を笑わないで欲しい。まだ話しの続きがあるから。思うに、人類は文字が現れる前から創作してきたが、誰も記録できる人がいなくて、記す方法も無かった。我々の祖先の原始人は、話しもできなかったが、一緒に仕事をするとき、意思を発せねばならない。それで、段々複雑な音声を出せるようになり、当時皆で木を担ぐ場合、とても苦労したが、誰もそれを口にだせなかったが、その中の誰かが、「ヨイショヨイショ」と叫んだ。それで、それが創作となった:皆は感心しそれを使い、これが正に出版に等しく:もし何か記号で残したら文学である:彼は勿論作家で文学家でもあり「ヨイショヨイショ派」だ。笑わないで。この作品は確かにとても幼稚だが、古人が今の人に及ばない点は大変多いが、これは正にその一つである。
周のあの「関関雎鳩、在河之洲、窈窕淑女、君子好逑」を例にとると、これは「詩経」の第一篇だから、我々は、ははーと驚きいって、頭を垂れ敬服するしかないが、もしこれまでにこういう詩がなかったとして、現代の新詩人がこの詩意を白話の詩をつくり、何かの副刊に投稿したとしても、9割は編集者によって屑かごに放り込まれると思う。「きれいなお嬢さん、若旦那の良い伴侶!」なんのこった。
 例えば「詩経」の「国風」の中の多くは、字を識らぬ無名氏の作品だが、すぐれていたから皆が口々に伝えた。採詩の官が探し出し、行政の参考のために記録したが、この外に消滅した物がどれほど多かったかは全く分からない。ギリシャ人のホーマー、暫時こう言う人がいたとする――の二大史詩は元来口吟で、現在のものは他の人が記録したのである。
 東晋から斉陳にかけての「子夜歌」や「読曲歌」の類、唐の「竹枝詞」や「柳枝詞」等、元はみな無名氏の作で、文人に採録と潤色されて伝わった。この潤色により、残るには残ったが、惜しいことにきっと多くの本来の面目は失われただろう。いまでもいろんな所似民謡、山歌、漁歌などがまだたくさんあるが、それはとりもなおさず、字を識らない詩人の作品だ:また童話と故事の伝承も、字を識らない小説家の作品で:彼らはみな不識字作家である。
 だが記録されていない作品は、いとも簡単に消滅し、流布の範囲も広まらないから、知っている人もとても少ない。たまたま、少しの作品が文人に見出され、往々驚いて、自分の作品に吸入し、新しい養分となる。旧文学衰退時、民間文学或いは外国文学を摂取し、新たな転変をする。こうした例は文学史上、よくみられる。不識字作家は文人の繊細さは無いが、却って剛健で清新である。
 この様な作品をみなで共有しようとするなら、まずこの作家が字を書けるようにし、同時に読者たちも識字でき、字や文章を書けるようにすること:文字を全ての人に渡すことが大事だ。

訳者雑感:明治維新後、欧州人が北海道に来て、アイヌの民話や民謡を蝋管で採録して、伝えてくれた。文字の無いアイヌの人たちの中に、まさしく魯迅のいう作家や詩人がたくさんいたのだ。ダークダックスも戦後ロシアに渡り、多くのロシア民謡を採譜し日本語の詩をつけて我々に伝えてくれた。字を識らない人達のなかに沢山の作家詩人がいたのだ。
   2013/10/10記
 

 

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