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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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山の辺の道

山の辺の道

 学生時代の友人3人で山の辺の道を歩いた。
蘇軾の詩にいう、橙(ゆず)黄ばみ、橘は緑の季節が一年中で一番良い、と。
この時期はまだ紅葉も始まらず、歩く人もまばらで、出会う人は皆、職を終えた人ばかり。
京都から近鉄で天理まで行き、駅前で山の辺の道の地図をもらい、アーケードの商店街を歩くこと30分。途中、天理教の本部にお参りし、布留という地名の交差点に着いた。ここがあの枕詞の「ちはやふる」の「ふる」だという話しから、博学のTさんが「ちはやふる神代も聞かずたつた川、からくれないにみずくくるとは」を吟じ、これが落語のネタにもなったという方向に転じた。
布留の森一帯を背景にして、石上神宮がある。神宮というからにはお伊勢さん平安神宮、明治神宮などやんごとなきお社に違いない。さっそく坂道を上がって行く。10分もせぬうちに、Tさんがちょっと休憩という。2人でお社に参詣しながら、他の人達が右側の階段を上がって行くのを眺めやりながら、Tさんの休んでいる所まで戻って来た。
それからろくに地図も見ずに、左に曲がって、トラックの通る道を南下していった。
そのうちに標識があって、現在地がどうも山の辺の道に行く方向と違うことが分かった。それで、野菜を手にしたおばさんに「山の辺の道へはどう行くんでしょうか」と聞いた。このまま南下してから山の辺の道にたどりつくのは遠いから、今来た道を戻って、右に曲がり、バイパスの下のガードをくぐり右に行けば出られるよ、とのことで、指示通りに歩いてやっと「山の辺の道」の標識にたどりついた。すでに1時間以上歩いたが、元の道に引き返すということで、精神的にもだいぶ疲れが出てきている上に、さすが山の辺の道だけあって、アップダウンもあり、昨日久しぶりに再会を祝してハイになり飲みすぎたせいで、3人とも疲れが出始めていた。それでも明治の廃仏毀釈で「まったく廃墟」と化して址しか残っていない「永久寺」の前まで来た。皮肉な名前だとIさんがいう。説明板には「永久年間に作られた」から云々とある。放生池の周りを巡って雰囲気の良い道を歩き出したのだが、数日前に降った大雨の運んだ土砂がそのままの道を歩む。さすが奈良の道だ、京都の観光地ではすぐ片づけるのだが、こういうのも悪くないなと言いながら歩いてゆくと、行きどまりとなった。がっくり。もう2時間近く歩いて、ペットボトルの水もなくなり、況やお握りすら買って来ていない。しかし周囲を見渡してもコンビニはおろか、ペットボトルの自販機などありそうな気配は無い。12時半過ぎて、登り道を、歯を食いしばりながら歩く。途中でTさんは「ちょっと休憩」と手を挙げる。どうしたものか?と思案していると、向こうから70代と思われる夫婦が杖をついてやって来た。「すいません、三輪から来られたのですか?」「何時間かかりましたか?」と訊いたら「3時間ほどですが、ここからは下りが多いですよ」という。それを聞いてへなへなとなった我々は、何とか水と食料を探そうと、とにかく右に曲がってJRの桜井線の方向を目指した。
 天理市のアーケードで水とお握りを買ってくるのを忘れたことが「大失敗」であった。
実は数年前、愛宕山に登った時に、途中のコンビニでお握りを買ってくるのを忘れて、昼過ぎ山頂近くの愛宕神社の前で、登山者がそれぞれおいしそうな弁当を食べているのをみて、一つ恵んで下さいと言いたくなったことなど、つい2時間ほど前に2人に話したところであった。「トラウマ」とは恐ろしい。ここは三輪への縦走は断念し、食にありつくべく人家のある方向を目指した。
 そうこうしているうちに、SUVにエンジンをかけているお姉さんに出会った。ここから一番近くで水と食べ物が入手できる場所は?と訊けば、右の道を下りてゆけば、夜都伎神社にでられますからその途中にあります、との答え。我々は更に立派な人家を幾つか横目に見ながら、やっと「天理観光農園」という旗がたなびくのを見、安堵した。さっそく、カレーとから揚げランチ、その前に水をごくごく飲んで生き返った。
 昨日仁和寺にお参りしてきたというTさんは得意の古典から「先達はあらまほしきもの」
とか、石清水八幡に参詣した坊さんの話しなど展開、だいぶ口が滑らかになってきた。
 さあこうなったら、JRの長柄駅を目指し、山の辺の道南下を再開した。途中山の中腹に立派な屋根壁の集落がいくつかある。古代の人達は、敵からの防御のために壕を作ったり山の中腹に居を構えて集って暮らしてきたのだろう。奈良盆地の多くは低湿地で、住むには適さなかったのだという。そういわれれば、大和三山といわれる香具山や耳成山などは、なにやら湖面に浮かぶ島のように見える。石上神宮も「いそのかみ」と「磯」のイメージを与える。万葉仮名は伊曽乃加美とか以曾乃加美とかで表記されている。
今では香具山の中腹に住んでいる人はいないが、万葉集の「春過ぎて夏来るらし白妙の衣乾したり天の香具山」と詠まれたころは、中腹に家を構えて暮らしている人がいたのだろう。山の麓に住んでいる人の乾した白妙は、歌にはなりそうもないから。
 こうした環濠集落の人々は朝廷が大和を去って近江へ行く時、額田王が詠んだ「三輪山をしかも隠すか雲だにも 情あらなむ隠さふべしや」という状況下、近江には同行せずに居残った人達の子孫だろうか。
 そんなことを考えていたら、「大和神社」(おおやまとじんじゃ)を左に見て、長柄駅に着いた。知らない人が見たらなぜ「おおやまと」というか不思議に思うだろう。説明板にはこの神社は戦前「戦艦大和」の守護神で云々とある。後で調べたらこんな盆地にありながら、この神様は「海上交通」の神様で、74歳の山上憶良が第9次遣唐使の大使として赴任する丹比(たじひ)の広成(ひろなり)に送った「好去好来歌」の「神代より言い伝え来らく そらみつ大和の国は …言霊の幸はふ国(後略)」と歌ったように、「海上交通の神でもある大和神社に新任大使の無事を、心をこめて祈った」(「万葉の歌3」山内英正著)
という文章を得た。そうか、彼の頃から大和から舟で大和川を下り、そこから大きな船に乗り換えて、唐に渡ったのだろう。数年前公開された「平城京復元」の公園に遣唐使の乗った船がみごとに彩色されて展示されていたことを思い出した。大きな荷物や貢物を携えて難波に向うのもやはり舟で行くのが便利だったろうし、川幅も水量も今我々が想像するよりずっと広くて滔々とした流れだっただろう。海上交通の守護神がこの山の辺のすぐ近くにあるのがやっとわかった気がした。
   帰ってから司馬遼太郎の「街道をゆく」一の「大和石上へ」を見たら、64ページにこういう記述がある。
『「石上のいそは、やはり海岸の磯の意味の様に思うがなあ」(…)なぜならば大和盆地は古代にあっては一大湖沼であったからである。古代聚落は盆地のまわりの麓や高地に発達したから、いまでも磯野、浮孔、南浦、磯城島(しきしま)といったふうに磯くさい古い地名が残っており、となれば石上の地形からみてこれは磯ノ上に違いないと思う方が、穏当のような気がする』

    なんだか知らないが、万葉のころの大和盆地は、一部が今の滋賀県の南東の一角のように、たくさんの川が山側から流れこむ琵琶湖の小さいイメージを彷彿とさせる。
同じ「万葉の歌3」に舒明天皇の「大和には群山あれど とりよろふ 天の香具山 登りたち国見をすれば 国原は煙立ち立つ 海原は鴎(かもめ)立ち立つ うまし国ぞ蜻蛉島(あきつしま)大和の国は」(巻1-2)とあり、これは、奈良盆地は湖沼で鴎が大和川を上って飛んで来ていたものかと思う。京都の鴨川の四条大橋あたりには鴎が飛んでくるが、これは琵琶湖から東山を越えて飛来するものという。鴨川変じて鴎川となるカモしれぬ。
      2013/11/08記

 

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