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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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1926年 おせっかい

1.        
陳源教授は今年から閑事には関わらないと決めたそうだ。この宣言は「現代評論」56期の「閑話」にある由。私はこれを見てないので、詳細は知らない。
もし本当なら例の常套句で「残念ですね」というしかないし、また自分のいい加減さを訝る他ない。年齢もそんな年になって、新暦の除夜と元旦の境に、こんなに大きく変わることができる人がいようとは知らなかった。近頃私は年の瀬について神経が鈍くなっているようで、何も感じない。実は感じようとしても、それに耐えられないのだ。みんな五色の国旗を掲げ、大通りは彩坊が何軒かに飾られ、「普天同慶」(おめでとう)の4字が書かれて、年越しとなる。みんな門を閉め、門神を貼り、爆竹をパンパンと鳴らして年を越す。
もし、言行が年越しと共に変われるなら、年年変わり続けて止まらないのではなろうか。勢い、ぐるぐると回転することだろう。だから、神経が鈍いのは、落後者と言われそうだが、弊あれば必ず利ありで、小さな利点もあるだろう。
 だが、考えてみるにいくつか不明な点がある。
 世の中に余計なことがあるから、人はそれに関わる。今の世の中は、余計なことは無いように思う。人が関わるのは自分と関係があるからで、それは即ち、人類を愛することからきており、自分が人間であるからだ。もし、火星で張龍と趙虎がケンカしたことを知ったからと言って、大いに問題とし、酒宴を開き、
張龍支持とか趙虎否認とか言い出すのは、全く余計なお世話だ。しかし火星のできごとを知ることができ、少なくとも交信でき、もしくは将来交通も開けたら、彼らは我々の頭上でケンカをすることになろう。我々地球上でのことになると、どこであれ何事でも我々に関係してくる。それでも一向構わないというのは、それを知らないか、構うわけにはゆかないかで、それが「余計な事」だということではない。例えば、英国で劉千昭がアイルランドの老女を雇い、
ロンドンで女性を拉致しても、閑事のようだが、実はそうではないので、我々のいるところに影響してくることになるのだ。というのも留学生がどんどん増えているでしょう?もし何か適当な場があれば、きっと例として取り上げられることになろう。正に文学上でシェークスピアやセルバンテス、Reinschを引用するように。
 (間違いです。Reinschは米国の駐華公使で文学者ではない。どこかの文芸学術の論文で彼の名を見たので、不注意にも引用しました。訂正します。読者が諒とせられんことを願う。)
 動物でも我々と無関係ではいられない。ハエの脚にはコレラ菌、蚊の唾沫には2つの伝染病菌があり、誰の血液に入るか分からない。
 「隣の猫が子を産んだ」というのに関ずらわるというのは笑い話と思う人が多いが、実はほんとに自分に関係が出てくる。吾住居の中庭に4匹の猫がしょっちゅう鳴いているが、この奥さん方がまた4匹飼ったら、34月後には8匹の猫がいつもやって来てやかましく騒ぎ、今の倍うるさくなる。
 だから私は一種の偏見があり、世の中に所謂「閑事」はなく、そんな沢山のことにかまけているだけの精神力が無いから、少しのものだけに限定するのだ。
なぜか?自分に最も関係するもの、大は人類の為、同類、同志のため、小は同級生、親戚、同郷のため、少なくとも多分何かのお陰だと思っている、顕在意識では思っていなくても、実は了然としているが、故意に痴呆で知らないふりを装っているのだが。
 しかし、陳源教授は、去年は閑事に関わったとおっしゃる由。もし、私の上述のことが間違っていなければ、彼は実に超人だ。今年から世事を問わない由、それは大変残念なことだが、正しく「この人が出てこなければ、如蒼生何(物事は始まらない)」だ。幸いもうすぐ新暦の年越しだ。除夜の亥の刻が過ぎたら、また心機も一転することあるやもしれぬとの望みもある。
訳者雑感:陳源教授は、魯迅の雑文の中に何回も登場する。18961970年、「現代評論」派の主要メンバー。英国留学後、当時北京大学教授で、種種の問題で、魯迅の論敵だった。
 魯迅は「文章を書くのは自分を守るため」とも言っている。相手が間違っていると思ったら、それを雑文で批判する。禅宗の和尚の中には「不立文字」として、生涯一文も残さないものがいた。自分を守るに文章は不要だったのだろう。座禅を通じて瞑想し、考えたことを文字にする必要を感じなかった。
 それに比べて、魯迅はこの雑文で、除夜を境に「新年からは閑事に口をださない」ということができるだろうか、と陳源教授を真っ向から批判している。魯迅は座禅をして何かを「思い到ったら」それを自分の意見として書かずにはおれなかった。それだけ「世の中に閑事は無く、そんな沢山のことにかまけているだけの精神力が無いから、少しのことだけに限定する」というわけにはゆかない、できる限り沢山のことに関わろうとする人間への愛に満ちていたのだ。訳者などは、身近のことで精いっぱいで、他人の文章をおかしいと思っても、批判しても始まらないと諦めてしまっている場合が多い。人間への愛が淡泊なせいだろう。
 それにしても、魯迅が陳源教授を批判して、いい年の大人が、新年から「要らぬお節介はしない」とかを簡単にできるとは、超人に違いないとこき下ろしているのも面白い。
101日から「禁煙」を誓った超人は経済的要因が援護射撃してくれている。       2010/10/20
 

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