丸1年もせぬに、雑感の量は去年1年分になってしまった。秋から海辺に住み、目に入るのは只雲と水。聞こえるのは風と波の音。殆ど社会と隔絶。環境が変わってなければ、多分今年もこんな無駄話を書かなかったろう。灯下に事もなし。旧稿を編集印刷し、吾雑感に興味のある主顧に供せんとす。
ここで述べたのもやはり何も宇宙の奥義とか人生の真理などは無い。私の遭遇したこと、考えたこと、言いたいこと、それが浅薄であろうと、全て書きとめた。些かの誇りをこめて言うなら、悲喜それぞれを、歌い哭すように、その時はこれによって憤りを解き、情を抒したもので、今これを誰かと競って、所謂公理とか正義を争奪しようなどと、さらさら思わない。相手がそうなら、私は断じてこうする、ということはある:どうしてもその命に遵じないのとか、
決して頭を下げない、といのもある:荘厳で高尚な仮面を引っ剥がすのもある。
その他には、何もたいしたことは無い。名実ともに「雑感」のみだ。
1月以来、大抵の物は入れた:只一篇のみ削った。それは多くの人に関係しているので、夫々の同意を得るのが容易でないから、勝手に発表できないためだ。
書名は?年は改まったが、情勢は相変わらずで、やはり「華蓋集」とする。
しかし年月は改まったので、「続編」の2字を加える。
1926年10月14日 アモイにて 魯迅記す。
訳者雑感:
北京にはいろいろなことで居られなくなって、8月末アモイに移る。林語堂の
紹介で、9月からアモイ大学で「文科国学系」の教授となる。それまでの雑文で
批判の矛先は主として「変革に反対する頑固な国学家」だったことと、彼がアモイで教えたのも国学であること。講義は「中国文学史」と「中国小説史」。
後に「中国小説史略」の名で出版されている。日本から帰国して以来、革命騒ぎの中で、黙々と書きうつしてきた「古文書」を整理し、古代からの小説とよぶことの可能な文学作品を、原典を載せながら彼の解釈を加えている。
この「はしがき」の通りとすれば、社会と隔絶した環境で、只管これらの
原稿の準備に精魂こめていたと推測される。
余談だが、その「小説史略」はすでにある日本人が書いたものを底本にしているなどと、批難されたりしたが、編集の方法などは参考にしたかもしれぬが、
彼の解釈、解説は彼でなければ書けないことだと思う。そしてその日本語訳を
出すために、増田渉が上海の魯迅を師と仰ぎ、一語一句これはどういう意味かと訊ねたのに対しての日本語での添削が残っているのが面白い。
そして立派な装丁で日本語訳が出版された時、彼はたいそう喜んでもいる。
私の推測だが、これで、万一彼の自国語の出版物が「焚書」されても。訳本は残るので、安心したであろう。喪失してしまった漢籍が日本で発見された
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