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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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面白い話 2.


 だが事はそんな単純ではない。中国の悪人(水準以下の文人と無頼な学者や学匪、論敵が魯迅を罵った言葉:出版社注)は、将来大変な苦しみに遇い、死後は地獄に落ちるようで、ここはひとつ深謀遠慮し、今後注意して余計なことは言わぬ方が安全だ。「閑話先生」は、閑事に口出しはしないというが、決してそうとは限らぬだろう。彼はきっと「頭角を現してきた人の鋭気が抜け切ったころに、従容として彼の‘The Finishing touch’で、仕上げにかかり、ふふふと笑いながら、鉄の棒から磨き上げた刺繍針で、そんな性急なやり方ではダメだ、何とバカなことをするものよと詰り、その逆に、「たゆまぬ忍耐こそが天才たる唯一の証拠」と言う。(晨報副刊 1423号)
 後者は前者に勝るとは、世の常だが、堕落した民族には当てはまらない。衣服で譬えれば、裸から下帯、前垂れをつけ、その上に衣冠をつけるのが順序である。我我の将来の天才は特異で、人が前垂れをして激しく踊っている時に、彼は刺繍の仕事場で、刺繍して――ではなく、針を磨き、人の前垂れが破れた時、彼は花の刺繍のシャツを着て登場する。皆は、「おおー」と驚き、哀れで性急な野蛮人は、前垂れを替えることも知らず、鋭気も抜けてしまう。抜けるのはやむないとして、ふふふと笑う風刺の天才は、遠い将来のこととは言え、その魂を鞭打とうとする叱咤の顔である。
 更に恐ろしいのは、例の2025年に陶孟和教授が発表するというもので、内容については、百年後、我が曾孫、玄孫のみが知るべしだが、幸い「現代評論増刊」に一部が発表されたので、管から覗き見ることで、この新書の概略は判る。「現代教育界の特色」について、教員の「兼任」の多さに触れている。
彼は「私の論は悲観的過ぎ、酷薄で、でたらめだろうか?私はこの批評を事実でもって証明されるなら、それを受けとめたい」と述べている。
 批評は百年後に待つとしよう。その頃は事実が果たしてどうなっているか、知りようもないが。典籍は多分「ふふふと笑う」人の佳作だけが残るだろう。もし本当にそうなら、大半は「英雄の見る所と略同じで」後人はきっと酷薄とは言わぬであろう。推測は困難だが、今これを論じるなら、どうやら「孔子が<春秋>を作ったとき、乱臣や賊どもがとても懼れた」のと大変似ている。人々はこのような盛事に逢わなかったが、蓋しもう既に2,400年云々してきた。 
 要するに百年以内に、陳源教授の本が沢山出版され、百年以後に陶孟和教授の本が1冊出る。内容は知らぬが、現在漏れ来るところから見ると、多分あの
「頭角を現してきた人たち」または「北京中を(兼職で)駆け巡る」教授たちを風刺するものであろう。
 私はいつもインド小乗仏教の教えは何とすごいものか、と感嘆するのだが:
地獄説を作り、和尚から尼、念仏を唱える老婆の口を借りて宣教し、異端者を
恐懼させ、信心の薄い者をこわがらせる。その秘訣は、因果応報は目前にあるのではなく、百年後か、少なくとも鋭気の失せたころという点だ。この時、人はもう身動きもできず、人の言うがまま、鬼涙を流し、生きていた時に頭角を妄出したことを深く悔やみ、しかもこの時になって初めて閻魔大王の尊厳と偉大を悟る。
 こうした信仰は迷信だが、神道の教えるところは、世道を立て直し、人心を正すことにあり、御利益がある。ましてや、生前には悪人を豺虎に投与できなかったし、只、死後にやっと口と筆だけでこれを誅して伐したに過ぎず、孔子が2頭立て馬車で諸国を遊説し疲れ果てて戻ってきて、鋼筆で<春秋>を書いたのも、蓋し亦、この志なり。
 だが時代は変遷し、今になると、私はこの古い手法は、すごく気まじめな人たちだけを騙すことができるのだと思う。この手を使う人も、自分では必ずしも信じていない。況や所謂悪人をや。悪を為した人は、報いを受けるが、平常なんら特に奇妙なことにはならないし、時には婉曲な言い回しで、しばらくは遠慮している。なんでまた、地獄行きを免れようなどと思うものか。これは考えてもしょうがない。従容としていられない我々の世で、大仰なものを担ぎ出して偉そうな顔のエセ紳士のやり方でなく、やるなるすぐやる、来年の酒より今すぐ飲む水の方が大事であり、21世紀の死体解剖を待つのは、いますぐビンタを食らわすに如かず。将来、後人たちが立ちあがったのなら、今の人は決してその時に所謂古人の生きていたような社会ではないのである。もし、やっぱり相も変わらず今のような社会なら、中国はおしまいだ。   
114日 2010/10/28
 訳者雑感:これは極めて難解な雑文である。
房向東著 罵人与被罵 と副題のついた「魯迅生前身後」(青島出版社)に触れられているが、魯迅は生前、すさまじい数の「罵文」を書いた。そしてそれと同じかそれ以上の「罵られた文」を彼自身が読んで「こやし」にした。その
「こやし」が魯迅の雑文を育てたのだろう。
仏教の地獄説話を借りて、1925年前後の所謂「保守主義者、国粋家」たちが
新しい考えで、中国を改革しようとして「頭角を現してきた」人たちを、潰しにかかっている。これはそんな動きをする名流たちへの罵文である。
 
 
 

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