忍者ブログ

日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

現在、新しいコメントを受け付けない設定になっています。

西安へ

始皇帝とヒットラー
1.兵馬俑
 7月11日から友人と西安に出かけた。
お目当ては始皇帝の兵馬俑と陝西省博物館。
兵馬俑は3度目。発掘後、公開されて暫くした82年と92年。
その間、西安には2回ほど来ているが、兵馬俑は20年ぶり。
最初はすぐ近くまで降りることができ、写真を撮ったりした。
一号館から移動する途中に、製造過程が展示されていて、
等身大より少し大きめの首から下だけのテラコッタに、
それぞれの兵士や将官が、自分の顔に似せた頭部を作ってもらう。
それゆえ、ひとつひとつの顔がすべて違っている。
今回それを探したが、見当たらなかった。
兵馬俑の顔をつぶさに観ていて、なんだか嬉しそうな感じで、
ほほ笑んでいるように見えた。なぜだろう。
身代わりの像を作ることで、殉死せずにすむからか。
こんなに自分によく似た像を作ってもらってうれしいのか。
よくわからないが、肖像画を書いてもらう時、立派な顔、
嬉しそうな顔に描いてもらいたい心理と似ているかもしれない。
その後、漢代とか明代に作られたものは、ずっと小型になり、
規模も小さく、顔も殆ど同じような印象である。
始皇帝の兵馬俑は芸術品のような品位が感じられるが、
それ以降のものは、大量生産された玩具のような印象である。
 30年前、秦の始皇帝の兵馬俑のすごさに圧倒されて、
頭がぼーっとなってしまった。その後に漢の兵馬俑をみて、
なんだか、サッカーのワールドカップを見てエキサイトした後、
他の球技を見るような拍子抜けをした思いだった。
 始皇帝以前、王侯が死んだ時、多くの側近が殉死したと聞く。
それを始皇帝か、あるいはその数代前の秦の王侯が殉死を減らして、
このようなテラコッタで代替させ、兵力国力を保ったのだろうか。
四川地方の豊饒な農地を手に入れ、農業を盛んにした結果、
戦国の七雄と称された他の六国を倒して、天下を統一できたのだ。
兵馬俑はその統一を兵士たちがうれしそうに祝っているかのようだ。
 物の本に依ると、これらの兵馬俑は、始皇帝が死ぬ前に作られた由。
始皇帝は、将兵は殉死しても、すぐ腐ってしまって、あの世での戦に、
使い物にならないと考え、腐らない俑や銅馬にしたとの説がある。

   展示品1 明の兵馬俑(漢代の物はこれの倍くらいはある)


2.博物館
陝西省博物館は、2009年に敦煌から大連に戻るときに観た。
その少し前から中国政府の方針で、全国の博物館が無料開放された為、
9時に行ったが、すでに長蛇の列で、2時間弱待って入場した。
午後3時の飛行機に乗るため、1時間ほどしか見学できず、
心残りで、今回、旅行社なら並ばずに見学できると思い参加した。
 朝一番にお決まりの美術工芸品の店に案内された。
誰も買いたい気にもならない、いかにも土産物然とした工芸品を、
まるでバナナのたたき売りのような雰囲気で、
これとあちらの3つ10万円で「お譲りします」と変な口上。
早くここから抜け出て、陝西省博物館に向かいたいのだが、
前々日の到着便が遅れて、夜中の2時にチェックインしたので、
昨日行く予定だった工芸品店に、今朝連れてこられたわけだ。
これも旅行社の低価格ゆえの別途収益稼ぎだから、止むを得ないが、
今回は目が肥えた8名で、誰も衝動買いすらしない。
1時間ほどいたが誰も何も買わない。時間の無駄であった。
或いはまずこれで贋物に食傷させてから、本物を見せてびっくりさせよう、
とでもいうのか。
正門は長蛇の列だったが、ガイドさんは土産店の裏口から入場。
中国語の走後門、というのを実感した。
上野の博物館でこんなことしたら、どうなることか?
春の「清明上河図」では、1400円払っても、2時間待ちだったが。

 展示品2 貨幣が登場するまで使われていた貝のお金。


 これらの貝は西安から遥か彼方の海で採れたもの。宝貝はまさに宝だ。
その後、各国で本物の刀や布がお金の代わりとして使われた。

3.貨幣と文字の統一
下の写真は、右側の秦の円い貨幣が天下の統一貨幣となる。
これが、所謂「円形で中に四角い穴の銅銭」の原型だ。
燕と斎は刀の形、趙と魏は布型で、隣国ゆえ似ている。
韓は秦に近い。秦は韓非子の祖国、韓にまねたものだろうか。
この貨幣統一ひとつとっても、秦が果たした役割は大変なものだ。
日本にも大きな影響を与えた。
 次ページ上、展示品3 貨幣の統一 下、展示品4 文字の統一



馬という字の各国使用例についての説明だが、下辺の4つの点が、
足を表すということを示しているのがよく分かる。
馬の特徴である、たてがみのついた首は各国共通しているが、
4本足と尾を明確にしたのは、楚から採りいれたものか。
他の文字は「目」と混同し易い。
西方から遅れて中原にやってきた秦は、後発ゆえに各国から、
いいとこ取りができたとも言える。
それは、他国から賢者を招き、彼らの意見をよく聞いて採用し、
それぞれを重職に起用したことにも、現れている。 
始皇帝は韓非子について、「私はこの人に会って、親しく交際できれば、
死んでも悔いは無い」と述べた、と「史記」にある。
韓非子はそれまでの世襲貴族による統治ではなく、
個々の能力や功績で人材を登用するように説いた。
その後、中央から任命する役人による統治体制の郡県制になる。
4.郡県制の弊害
 江戸時代の幕藩体制との差は、藩も国替えは何度もあったが、
基本的には各藩の藩主は長期に亘ってその土地を豊かにし、
藩内の人の暮らしを向上させようとしたが、
郡県制で任命された長官が、その県を豊かにした例もあるが、
大半は3-4年の任期中に自分の懐を肥やそうと懸命になり、
稼いだ財を上納し、中央で昇官し、さらに大きな権力を握ることに向けられた。
 21世紀の中国社会も、この伝統から抜け切れていない。
大連を発展させ、商務大臣になり、重慶でも辣腕を振るった薄氏も、
太子党という「世襲」官僚が、任地での蓄財をもとに中央へ戻り、
さらに大きな権力を握ろうとした伝統に則していたが、
No.2の離反や、妻の殺人容疑などで追い落とされた。
 薄氏の大連や重慶での統治を称賛する人は沢山いる。
確かに彼は普通のボンクラ役人ができないことをつぎつぎに仕掛けて、
成功例を積み上げ、低価格の住宅を大量に建設して、低所得者に分配した。
 しかし彼の取り締まりの手法は、逮捕者の財産を没収したため、
多くの逮捕者から怨みを買い、最終的には自らの身を滅ぼすことになった。
日本の県知事は各県の投票によって選ばれ、県と県民のために働くが、
現代中国の市長や省長らは中央から任命されるため、
3-4年の任期内で、次の自分の昇級の為に何をやるかが最優先される。
5.秦の咸陽城址




  上、牛羊村の秦咸陽城遺址の碑(2011年5月立)
  下、一号宮址の高台から、人家は無く、一面の畑。
   ここに「中日友好の石碑」がある。(徐福の御蔭かな?)


  牛羊溝の写真。このような深い溝が南北に延び、それが数条ある。
宮殿は版築で突き固めた高台の上に建てられたから、その間の溝か。
或いは、北の涇水から渭河への物資運搬用の運河か、用水路の名残か?
京都でも鴨川の西に烏丸・西洞院・堀川等何本も水路が掘られたが、
徐福伝説で有名な秦の時代に、日本に渡来した人たちの子孫といわれる、
秦の河勝の下で、咸陽の水路を思い出して摸したとしたら面白い。
桂川の豊富な水を、山城京の灌漑用に引いてきたとの説がある。
 前方、渭河の遥か先に漢の長安、明の長安を望む。

 最終日の14日、フリープランなので、3人で車を雇い、
秦の咸陽城址に向かった。9時に出発。
以前、樋口隆康著「始皇帝を掘る」(学生社96年版)を読み、
窯店鎮というところから入ったときの地図を模写したものを、
運転手の張さんに見せて案内してもらった。
彼は西安生まれだが、咸陽城址には行ったことがないという。
何も無いから、一般の旅行者は行かない場所だ。
石碑さえ2011年5月に建てられたばかりだ。
まずは現在の咸陽市に行って、土地の人に尋ねることとした。
 ホテルから真っすぐ西に向かい、シルクロード起点の彫刻を見、
渭河大橋を渡り、いつか徒歩で河畔をのんびりと歩きたいなと思った。
市内に入って2-3か所で尋ねてみたが、だれも知らない。
 その内、あちらの方ではないか、と指さす人に出会い、そちらに向かう。
咸陽市内を離れ、道も未舗装の純然たる農村地帯になった。
道路一面に大きな水たまりがあり、自転車が難儀している。
右側に西安から敦煌への鉄路が伸び、タンク車が停車している。
ここまで5-6人に尋ねたが、誰も咸陽城址のことを知らない。
同行のOさんも彼の故郷F市で発見された遺跡のことに触れ、
市民の百人に一人しかその遺跡を知らなかったというから無理も無いか。
どうやらやっと目指す牛羊村に着いたようだ。
路傍で物を売る人に聞いたら、通り過ぎたから元に戻れという。
ようやく北に向かう道を見つけそれらしい景観を見つけた。
豊かな装飾をつけた農家を見つけ、お婆さんに尋ねた。
「誰の家を訪ねるのか、名前を言えばそこまで案内するよ」
と親切な応対だが、城址のことは全く知らない。
それで、東に向かってそれらしい石垣の建造物を目指した。
そこは最近建てた地区センターのようなもので、途方に暮れていたら、
バイクに乗った兄さんが「咸陽城址なら今来た道を戻って、
更に北へ向かえば石碑がある」と教えてくれた。
わずか4-500メートル程の距離であった。
Oさんの故郷より確率は高いが、10人余に尋ねて、
やっと歴史好きな人に会えた。これまで2時間かかった。
実は、樋口さんの地図の漢字表記が、本文には「窯店」とあるのだが、
「窟店」と誤植されていたため、張さんのカーナビに出てこなかった為、
だということが判明したが、いずれにせよ、つい鼻の先の牛羊村の、
立派な家に住んでいる老人も知らないとは、驚きだった。
窯と窟の簡体字はよく似ていて、カーナビは誤入力では役に立たない。

6.焚書坑儒
 さて、表題の始皇帝とヒットラーに入る。
二人とも短命政権だったため、死後は「暴虐な独裁者」として、
徹底的に否定批判された。
ヒットラーがドイツ的でないとした書物をすべて焚書した時、
日本では、彼を始皇帝に比して批判した。
始皇帝は、農医以外の「他国の史書、儒家の詩経、書経、諸子百家の書」
などを全て焚書した、と言われている。
しかし、皮肉なことに、焚書を逃れたものが今日伝わっており、
秦以前の農医関係のものは、ひとつも残っていないそうだ。
大切な物は壁かどこかに蔵され、いつでも手に入る物は棄てられた。
 坑儒については、「世を惑わす者」として、儒者460人余を、
穴埋めにしたとされている。
これは弾圧された儒者がその後、漢代になって復活し、
政権の中枢に座ると、始皇帝の暴虐さを、これでもか、これでもか、
としつこく徹底的に誇張宣伝したためであるとされている。
実は、不老長寿の薬を探せる「超能力」があると吹聴して、
始皇帝から膨大な富財産をだまし取って、逃げて行った方士たち460人を捕え、
穴埋めにした、というのが真相との説がある。
 儒者は自分たちが虐待され坑儒されながら、漢の建国に貢献したと、
自己の正当性を証するために、始皇帝の暴虐さを誇張したというのだ。
ヒットラーの暴虐さはユダヤ人の大量虐殺が一番悲惨なことだが、
死者の数としては、ソ連の大祖国戦争の発表数字が最多である。
戦争と、強制連行の差は歴然としているが、広島長崎への原爆投下も、
米国がもし敗者となっていたら、どうなっていただろうか。

 魯迅の「准風月談」に「明末の張献忠が暴虐の挙句、無数の民を、
大量殺戮したが、清の粛王が彼を殺してくれたおかげで、明の民は、
清朝の民(奴隷)になれて大変喜んだ」という各地に残る戯曲に触れ、
これも、清朝政府が、自分の正当性を証明するために書いた戯曲で、
庶民はこの戯曲を観て、張献忠がいかに暴虐だったかと洗脳された。
 この手法は現代でも使われている。自己を正当化するためには、
前政権がいかに暴虐で、侵略者とグルになって、民を圧迫したか。
それを証明する映画を大量に製作して、民の頭にそれを刷りこむ。
敵を徹底的に悪物にしなければ、自己の正当性は証明できない。
南京で大虐殺をした暴虐な日本軍。そしてその日本との戦闘で、
日本軍の追跡を防ぐためと称して、黄河の堤防を決壊し、
多くの無辜の民を犠牲にした国民党とその軍隊。
彼らの悪事を暴き、民に示すことがとても大切なのだ。

始皇帝は、2世皇帝がしくじった結果、漢の儒家・歴史家たちに、
極悪非道の「悪物」にされた。
 しかし、40年ほど前に兵馬俑が発掘・公開されて、
彼の果たしたプラスの面が、知られるようになってきた。
それまで、漢に遠慮して始皇帝をプラス評価しなかった歴代の朝廷、
儒者の洗脳を受けて来た人々が、始皇帝を認め始めた。

始皇帝陵の付近には陪葬墓がある。そこは殉死した人たちの墓だ。
自ら願い出て殉死した公子高や、子の無い後宮の女たちが殉死させられた。
それは2世皇帝が始皇帝の死後に行ったことだという。
今、一部の青年以外に、ドイツでヒットラーを肯定するものはいない。
中国では、始皇帝を肯定する人が増えているという。

西安の世界遺産は「兵馬俑」しか無い。
漢代や唐代に作られたものは、始皇帝を凌ぐことはできなかった。
文明の厚さは漢・唐によって形成されたものだが。
     2012/07/20   日夜浮かぶ記

拍手[3回]

PR

コメント

お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

カレンダー

06 2024/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

フリーエリア

最新CM

[09/21 佐々木淳]
[09/21 サンディ]
[09/20 佐々木淳]
[08/05 サンディ]
[07/21 岩田 茂雄]

最新TB

プロフィール

HN:
山善
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R