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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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北京日中友好人民公社

 1978年8月12日の日中友好平和条約締結後、中国各地には、それを記念して、日中友好(中日友好)と冠した病院や教育施設などが多く建設された。


 1982年秋、私が勤めていた会社と農機会社のY社が共同で、北京郊外の中日友好人民公社に米作用農機を寄贈することになった。


 季候のいい10月に友好訪中団がやって来たので、私はY社のY社長一行をその公社へ案内した。公社への道中、Y社長は、農地のあぜ道がクネクネ曲がっているのを指しながら、私に向かって、「人民公社になっても、まだ農地の整備がきちんとできていませんネ。農業の機械化のためには、できるだけ広く方形の耕作地を作らねば効率が悪いんです」と指摘された。


 その時、私は新幹線の列車の車窓からよく見た、方形に広がっている琵琶湖東岸の水田の状況を思い出した。


 この地方の水田が、私の故郷愛知県のそれと違うのは、あぜ道に高さ2メートルほどの高さの稲架木が等間隔に植えられ、稲刈り期には、木と木の間に長い横木を架けて稲架(はさ)として利用していたことだった。近江の人は賢い、とつくづく感心した。


 私の祖父の水田では、稲刈り期には、丸太3本で稲架を架ける柱を組み、長い丸太の棒を農地近くの納屋からリヤカーで運び出して、その柱間に架けていた。その長い棒を盗まれたたこともよくあったらしい。


 その後、2010年代になって京都勤務になり、近江平野を車窓から見ると、以前のような稲架に使う並木がすっかり姿を消しているのに気づき、不思議に思った。それで、彦根に住んでいる同僚に尋ねてみた。


 「もうそんな昔のやり方は、どこもやってませんわ!」と笑われた。「収穫はすべて機械でやり、刈り取りと同時に、脱穀し、籾殻と藁にわけるんですわ。藁は田に戻して肥料にします……」


 その結果、今では畳や藁細工用の藁が不足し、中国の奥地から藁を輸入しているらしい。彼は「害虫が付着していないか、農水省の検査が厳しくて……」と教えてくれた。


 あれから45年、中日友好人民公社は解体された。人づてに、都市近郊型モデル農業として、しばらくは発展していたとは耳にしていたが……今頃、あのY社の農機もさび付いて、日中友好のモニュメントとともに、朽ち果てたことだろう。


2017.11.13作成
2017.11.21投稿

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横浜隆盛の恩人 ~井伊直弼~

 最近、肺がんで療養中の先輩のOさんが、入退院の合間を縫って、関内から神奈川宿のあった旧東海道へ通じる横浜道周辺を歩き巡った紀行文を送ってくれた。
 この横浜道に因んで、私も、数年前、Oさんが訪れた場所のひとつ、掃部山に登ったことがある。それは、なぜ横浜に掃部山があるのか、不思議に思ったからである。
 この掃部山と横浜道を南に越えた野毛山の間には、神奈川県奉行所跡、伊勢山皇大神宮、野毛山の佐久間象山顕彰碑や成田山横浜別院など、江戸時代や明治時代にかかわるものが結構集中している。
 さて、その掃部山は公園になっており、公園には、幕末ペリーから開国を迫られて、攘夷派が反対するなか、勅許を得ないまま日米通商条約を締結し、開国を進めた大老、井伊直弼掃部頭の銅像が建っていた。
 なるほど、開国を決定した井伊さんは、明治以降大きく発展した横浜の恩人であることは、確かである。だが、掃部という言葉が、井伊直弼とリンクしていることを知っている人は、よっぽどの歴史好きに違いなく、一般の人はほとんど知るまい。
 幕末、ペリーから江戸に近い神奈川に開港を迫られた江戸幕府は、当初、神奈川宿に近い神奈川湊を開放したが、この地は比較的人口も多く、日本人と外国人との接触が増えるにしたがって、トラブルが多く発生し、問題となっていた。これを恐れた幕府は、神奈川湊に代わるものとして、野毛山にほど近い桜木町付近から南にかけて新たに港を建設した。それが現在の横浜港である。
 その後の横浜港の発展はご存じの通りである。井伊直弼といえば、開国に反対した攘夷派などを安政の大獄において次々と処断したため、イメージがよくなく、それほど人気もないが、横浜にとっては大恩人というべき人で、横浜の人々にもっと知ってもらいたいものだ。
2017.6.13作成
2017.6.29投稿

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首相の説得

舛添都知事がやっと辞任した。都議会解散をちらつかせ、9月までの延命を図ったが、
これでは参院選で負けやしないかと危惧した安倍首相の電話でとうとうシャッポを脱いだ。
最後の落としどころは「まだ次の芽があるから」とか。安倍首相は消費税の延期の時も
反対表明していた麻生氏のシャッポを脱がせた。彼を落としたセリフは何だっただろう。
    2016年6月16日記

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生麦へ

生麦へ
 4月6日朝、O先輩から電話があり、午後2時半に生麦の例の生麦事件参考館の予約が取れたので、出てこないかとの誘いを受け、さっそく出かけることにした。
1.大倉山―鶴見間のバス停は寺社前が多い
 京浜急行の生麦駅で待ち合わせとなった。久しぶりの快晴で、桜はもう殆ど散ってしまっていたが、2年ほど前に鶴見川を河口まで歩いた時の事を思い出しながら、途中でメモを取らなかった「水神宮」の前の漁業組合の廃業にならざるを得なかった経緯を、再確認のために尋ねることとした。
 今回は大倉山から鶴見駅西口行きの41系統の市バスに乗ることにした。数年前も尾根伝いのバス通りをくねくね回るこの路線のバス停に寺社の名前が多いのが気になっていて、今回それをメモしたら次のようになった。
 大倉山駅の少し西側に①太尾神社前②観音前があり綱島街道に出て③蓮勝寺④法隆寺前⑤建功寺⑥宝蔵寺前⑦安養寺前⑧東福寺前⑨総持寺前、と何とこの30分前後の区間に9つの寺社の前にバス停がある。その名も京都奈良の名刹の名を冠していたりする。総持寺は明治以降に石川の寺を移設したのだそうだが、それ以外は江戸時代以前、鎌倉時代以前のものとの縁起が残る。
 この辺りは別に広い平野が開けているわけでもなく、鶴見川沿いの丘陵地帯で、勿論農民が多かったには違いないが、鶴見川の舟運と旧鎌倉街道、旧東海道との交差するところで、生麦の魚は勿論だが、武蔵平野の農産物と海岸の港から陸揚げされた関西方面からを主とする日本各地の物資が交易され、ここに商工業者が多く集まり、彼らの財力がこのような多くの寺社を建てさせたものと思われる。バス停からも山側に建てられた財力を示す大きな墓も見える。
 20代のころ大船から新橋まで国鉄で通勤していた。その時何気なく不思議だなと感じたのは横浜から川崎の間の国鉄と京浜急行の線路に挟まれた狭い土地にお墓がいくつかあることだった。どこかへ引っ越すということは考えられないことだったのだろう。これと似た光景は京都駅のすぐ東の東海道線と奈良線の間の線路の狭い土地にお寺と墓が今もあることだ。寺にとっても檀家が墓をどこか郊外に移転してしまったら、縁が切れてしまうので、死活問題なのであろう。
 ここ3―40年位の間に、このバス通りにも多くのマンション・戸建が立ち、人口も増え通勤通学の利用者が主体となったが、以前この通りはこうしたお寺にお参りする人の便をはかったものかもしれない。
2.水神宮と神楽殿
 鶴見駅前で昼を食べ、さっそく旧東海道を西に歩いた。鶴見線の古いガードを抜け、鶴見川と平行する道をてくてく行くと、魚河岸の卸店がちらほらと見える。以前は繁盛していたが、時代の流れで少しずつ減っているようだ。
 しばらく歩くと左側に鶴見川の堤防が見えるほどになる。さっそく左折して、鶴見川の堤防を歩く。昔の魚河岸の船着き場は今もいくつか残っていて、釣り船も繋留されている。その河口側には人工の干潟を造ろうとして、柵が伸び出て白い貝殻が川辺に蒔かれている。貝殻浜と呼ばれていたのを復活させるのだ。
 そこを眺めながら、淀川の大型の「わんど」という人工干潟を思い出していた。海水と真水の交わるところにこうした所を作って、植物が増え、昆虫やそれを餌にする魚類が増えるようにとの現代人の願望だ。コンクリートの護岸ばかり造ってきた20世紀の人間としての我々は反省せねばならない。夏にはトンボやチョウチョウが飛びかい、子供たちがタモでそれを追うという光景を再現したい。
 さてやっとお目当ての「水神宮」に着いた。前回尋ねてこの漁協が昭和24年には268名の組合員がいて、活発な活動をしていたことが記されていた。その後、江戸前の魚の名産地ともいうべきこの辺りも、扇島・大黒町が京浜工業地帯の建設のために埋め立てられ、さらには根岸以南も埋め立てられ、羽田空港埋め立て、本牧埠頭、金沢区までも埋め立てられ、留めは日本鋼管の扇島に新工場が建設されることになり、昭和48年に廃業することになり、357名の組合員が補償金をもらって、云々とある。その無念さの証がこの大きな石碑だ。
 鳥居の向こうの川側に建物があり、その姿が少し変わっていたので銘版を見ると、「神楽殿」とあり、この規模のささやかな神社には珍しいと感じた。神社自体はさほど大きくないが、それを支えてきた漁業組合員たちの水難を避けるための切なる願いが、こうした神楽殿を建てさせ、そこで神楽を奉納して、水の神様のごきげんを伺い、ご加護を祈ったものだろう。
 魯迅の小説の「奉納劇」(「宮芝居」という名の方が通用しているが)というのを思い出した。紹興の海岸近くの川の土手の上に、祠が建てられ、その対面に神楽殿のような舞台がしつらえられていて、お祭りの時にはそこで24時間、漁民や農民たちの持ち寄ったお金で、都会から「劇団」を招いて、越劇という紹興や杭州などで盛んな古典劇を催す。それを彼等は銘々が船を仕立てて、その船から観劇する。これも水難を逃れるための農漁民たちの切なる願いからのものであろうから、こうした「神」さま、「水神宮」への奉納劇というのは、中国の江南地方から九州や関西を経て、武蔵の国まで東上してきたものだろう。


    中国の奉納劇(山西省五台山のお寺で、朝8時に撮影したもの)
 

3.生麦事件参考館
 水神宮を後にして、生麦駅改札に向かった。しばらくしてOさんが出てこられ、駅からすぐ近くの「生麦事件参考館」を尋ねた。館長の浅海武夫さんが、迎えてくださった。さっそく1時間弱のDVDの講演を拝聴拝見した。元は生麦で酒の販売会社の社長をしていた浅海さんは、鹿児島から彼のところに生麦事件のことを調べに来た人との出会いが、彼がこの参考館を建てることになったきっかけだった由。社長を辞して、大学に通って、あの当時の歴史を丹念に学び、千件以上の関連資料を集めて、その中から選りすぐったものが展示してある。
 その展示品を眺めながら、氏が全国各地で何回も行ってきた講演会のDVDを聞くうち、すっかり彼の語りの面白さ、ウイットに富んだ語り口に吸い込まれていった。汗をふきふき熱心に語りかける。今80数歳とは思えないほどの熱気を感じた。鹿児島の女子大の講師を引き受けていて、授業が終わると、薩摩おごじょたちはとても熱心で、ついついおいしい焼酎を飲みすごしてしまうほど、会話が弾むと、顔をほころばせて話してくれた。
 氏がライフワークにした「根源」は生麦事件が日本の近代化の「引き金」となったことを、まず生麦の多くの人に知ってもらい、日本の多くの人に知ってもらおうというところにあったと思う。彼も鹿児島の人に問われるまで、よく知らなかったという。
 生麦以前にも日本各地で攘夷の人たちに多くの外国人が殺されたのだが、いくつかの偶然が重なって、この生麦事件が薩英戦争を呼び起こし、その時の薩摩の砲弾は「砲丸投げの丸いボール」でこれが帆柱に当たれば良いが、という程度であるのに対して、イギリス軍のは所謂アームストロングの長い炸裂弾で、この歴然たる差を薩摩人が悟ったことが、攘夷から開国へと方向転換させた、という辺りの語りはとても分かりやすい比喩であった。
 薩英戦争で英国に惨敗した後、すぐ英国の産業を導入し、非常に友好的になって、留学生も出し、英国の技術者も鹿児島に招いて、薩摩が日本の中でも先駆者となったのは、先の戦争で広島長崎への原爆投下や東京や各地への大空襲で悲惨な目にされたアメリカに対して、薩摩が英国に対したと同じように、友好的になり同盟まで結んだという点は、なにか不思議な縁を感じる。
 殺されたリチャードゾンのことを「ごろつき」と形容されたので、なぜかと尋ねたら、彼は上海で中国人を蹴ったりしていたからだとの由。彼が帰国を前に、ちょっと日本を見てみようと思い立ってやってきたのだが、さて英国に戻る段になって、予定の船が機関の故障で帰れなくなってしょげているのを見た友人が彼の知人が丁度遠乗りに出かけるという話を聞き、一緒に連れて行って欲しいと頼んできた。当時外国人の行動限度があって、その範囲は多摩川までだったので、ちょうど21日は川崎大師の例祭で店が沢山でるのでそれを見に出かけることにしたのだが、運悪く島津の殿様の行列に突っ込んでしまったわけだ。
 クレオパトラの鼻が云々ではないが、上海で稼いだ彼がそのまま帰国していたら、横浜で船が故障しなかったら、川崎大師の21日の弘法さんの例祭がなかったら、などなど歴史に「もし」は禁物だが、この一連の偶然が重ならなかったら、薩摩の攘夷は変わらず、開国はもっと先になったことだろうと思うと、歴史の偶然に驚く他ない。
 展示品はとても見ごたえあり、中でも、リチャードソンの包帯でぐるぐる巻きにされた遺体の写真が2種、オランダの博物館から送ってもらって展示されているのは、浅海さんの情熱の結果で、外人墓地にあるリチャードソンのお墓も数年前に自費で改修されたそうだ。「ごろつき」と形容する一方で、彼が偶然とはいえ攘夷に凝り固まっていた日本を、結果として開国させ、浅海さんたちの生麦、ひいては横浜・日本に繁栄をもたらしてくれたという念からだろう。
    2016/04/24記

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千住のやっちゃばと、生麦の魚市場

千住のやっちゃばと、生麦の魚市場
1.
 清明節の素晴らしい陽春の候を読書していてはもったいないと思い、千住と生麦に出かけた。北千住駅で降りてから、一旦千住大橋に向い、そこから芭蕉が通ったであろう旧日光街道を歩いた。
千住は芭蕉が奥の細道の旅で深川から舟で北上して上陸した地だ。彼の像と句碑が建てられていた。千住大橋の公園には全国の河川の番付やら、ここに西日本からも大量の物資が船で運ばれ、江戸市中や更に小舟で内陸各地へ運ばれていったと記されている。旧日光街道の観光案内所にもいろいろなパンフレットがある。北千住駅で降りてから、一旦千住大橋に向い、そこから芭蕉が通ったであろう旧日光街道を歩いた。
 
 この左側に旧日光街道のやっちゃば、(野菜市場)が続く。 右に足立市場がある。

 両側はやっちゃば、といわれた野菜市場で賑わった所で、朝の暗いうちから各地より舟で運ばれて来た野菜類が大八車に載せられて、この市場に並べられ、それが江戸市民の口に入る様に捌かれていった。この通りを歩いていると、なんとなく曲がっていて、真っすぐでは無いというのが気になった。近畿地方では最短距離を直線で結ぶという方法で大きな官道ができ、そこに人が家を建て商店を開いた例が多い。昔読んだ本では、律令時代の路は、周辺に何も無いところをAからBまで最短距離で結ぶ為、直線で造られたと記憶している。前方に見える山をめがけて、懸命に真っすぐの路を作った。これは租庸調などの税制とも関連していようが、各地からの「調」を滞りなく都に運ばせるための路であったからとのことだ。
江戸の周辺では必ずしも直線ではなく、先が見通せないような程度に曲がっているのは何故だろうか?川の曲がり具合にあわせているのだろうか。人口も増え、いろいろな場所に集落ができたり産業が起こったりして、それらを繋ぐために少しずつ彎曲しながら街道を繋いで行ったからだろうか。
京都から大阪へ向う阪急電車は何も無い野に敷設したから直線が長いが、京阪電車は伏見稲荷や石清水八幡などを経めぐるから彎曲が多いのとなんか似ている様な気がする。
関東平野も中央線に乗ると、何も遮る者の無い平野を一直線に突き進むという感じだが、京浜急行は泉岳寺とか川崎大師など寺社仏閣への便を担っている様に敷設されているのと似ている。
2.
さて千住の旧日光街道の街を歩くと、京都の町家や富山の八尾の町立ての雰囲気が醸し出されているのではないかと感じた。道は京都のように直線ではなく、八尾の坂道の様な傾斜はないが、3か所に共通しているのは多くの店が通りに面して幅3間が原則で、ウナギの寝床の様に奥に長い。これは京都の下町の智恵と同じだから、この幅でお上に税金を納めたのだろう。 今ではやっちゃ場は隣の近代的な足立市場に移り、一部の商店が営業しているだけだが、2階建てだった木造の多くは取り毀され、ビルに建て替えられている。その工事現場を見ると、ずっと奥までかなりの長さを保っている。立ち寄った町の駅でお茶をご馳走になったおばさんに尋ねると、「そうよ、こんなに長いから、みんなお金持ちで2-3軒いっしょにして大きなビルが建てられるのよ」といいながら、この街が駅にとても近いから早晩ほとんどがビルに建て替えられるだろうと嘆息していた。
 歩いていてあまり良い気分なので、荒川を越えて、歩けるところまで歩いてみようと考えた。昔からの商店や古いしもた屋が残っているところを伝いながら、多分それが旧日光街道だろうと信じながら北上した。とりあえず草加まで行こうと思った。これまでの経験だと、昔からあるような神社仏閣があれば、そこはきっと旧街道だろうと思いながら。詳細な地図を手にしてきょろきょろ歩くより、どこかに紛れ込んでまた旧に復すということも面白い歩き方だと思う。自動車が王様のようになってから、旧道は拡幅されたりしたが、多くはバイパス化され、旧道と斜めに交差しながらあざなえる縄のような場合が多いと感じる。
3.
 荒川を越えてから、梅田、島根、六月という地名が続き、竹の塚を過ぎ、毛長川という小さな川を越えると草加だ。せんべい家の看板が増えて来る。市役所にたどりつき、そこの地図で確認しながら、草加の松原に行くことにした。道の両側に旗がひらめき、草加の松原へいらっしゃいと呼びかけている。
 ここは日光街道が現在の綾瀬川にぶつかるところで、この川沿いに北上すれば春日部で、
芭蕉の頃はいろいろ派川が入り組んでいただろうが、この川沿いの平坦な道を北上して、今の栗橋辺のどこかで利根川を渡り、間々田から室の八島を訪ねたのだろう。
この草加松原には同行の曽良が風呂敷包みひとつを背負って室の八島の方向を指さす像が立っている。昔の人は徒歩の旅に、できる限り荷物を少なくして、こんな格好で旅を続けたのかと感慨ひとしおであった。洗濯などどうしたのだろう?4-5日位同じものを着て、
俳諧仲間の家に何日か泊めてもらったときに、洗ったり、着替えをもらったものだろうか。
 ここにも芭蕉の像が建てられ、矢立橋と百代橋という木造の、清明上河図にあるような太鼓橋の規模縮尺版が架けられていた。下を船でなく、自動車が通り過ぎるのが残念だが。
 千住から歩くこと3時間、やっと草加の松原にたどりつき、芭蕉はさらに春日部まで歩いたのだと思いながら、無理をせずに春日部までは次回の楽しみに残し帰途に着いた。
 
 
  草加松原の芭蕉翁像。見かえる先に曽良の像がある。
右の案内所にドナルド・キ―ンさんの記念写真もあり、百代の旅人がキーワード。
4.
 その翌週の早朝、綱島に用があり、その用が終わってそのまま帰宅するのももったいないと思い、鶴見川を河口まで歩くことにした。4月の中旬、10年前なら春風江上の道、ならぬ春風工場の道で、沿線には各種の大中小企業の工場がずらりと並び、水質はどぶ川のようだった鶴見川にも最近はアユが遡上してくるようになったという。沿岸の大きな工場は閉鎖され、マンションやショッピング・センターに変身したのと洗剤の品質改善も大いに影響していると思う。
 綱島街道が鶴見川を越える大綱橋から川底を眺めると、なんと川底が見えるではないか!引き潮の時には、このあたりまで海岸の水面の高さと同じなのだということにびっくりした。
以前大洪水の時に、綱島駅から大倉山の間の田んぼが冠水し、線路も冠水してしまったという写真を見て、そうか確かにこの高さでは、一旦暴れ川といわれた鶴見川の各支流から押し寄せた雨水は海に向うベクトルより堤防を乗り越え、決壊させて田んぼに流れ込むベクトルの方が強いのだなと感じた。それ故、護岸を強化し、堤防を高くして天井川にせざるを得ないのだ。海抜1メートルの所に、満潮時に大雨が降ったら、海に出るにも出られぬ雨水はどうしようもないことになる。
 私が今住んでいる所は大倉山というのだが、数年前までは太尾と言われていた。そして鶴見川の対岸は綱島という名前で、なぜ陸地に島という名がついているのか、不思議に感じたこともあった。それを数年前の講演会で、この地は鶴見川の洪水時に丁度長い島のように浮かんで見えたから、綱島と名付けられたと聞いて愕然としながら合点した。
私の住まいの太尾町は大倉邦彦という人が「大倉山精神文化研究所」を山の上に建てたので、東急電車が作った隣の梅林とともに、今や横浜市が引き継いで「大倉山公園」として、近隣各地から四季を問わず多くの人が訪れるようになったが、それまでは周囲一面は田んぼで、昔のお百姓さんの言葉に、「太尾には嫁にやるな」と言われる程、水害に悩まされた所だそうだ。
 そう言われてみると、太尾というのは、京都の高尾のように、山の尾根の意味で、神奈川では高い山は無いが、低い丘陵の尾根を指したのだろう。同じ鶴見川の上流に市が尾という地名もあり、駅は鶴見川から坂を上った所にあるから、同じような命名なのだろう。
5.
 そんなことを思いながら、河口にむかって春風を顔に受けて歩いた。1時間ほど歩くと、森永の新しい工場を過ぎ、JRの鉄橋が何本も架かっている所にでた。新幹線を除いた、横須賀線、東海道線、京浜東北線、貨物線の上下合計8本の線路がここに集中している。近づいてみると、ブイが浮かべられ、作業船が2隻作業している。この地は日本の動脈的な線路が8本も集中しているのだから、万一堤防が決壊したり、線路が流されたら、大変なことになる。それで、川底をさらえつつ、水流を制御しようとしているのだ。しかし海にすぐ近いこの辺りまでくると、大雨の大洪水は上流で氾濫しても、海面と同じ高さだから、氾濫するということは無いのかもしれない。津波でもないかぎり大丈夫なのだろう。
 さらに歩いてゆくと大きく右に旋回し、旧東海道の関の跡の石碑があり、そちらへ向う事にした。鶴見川の両岸はこの先、埋め立てられて工場が建てられ、歩行者が堤を歩くことはできなくなっているからここからは、生麦の例のイギリス人を殺傷した生麦事件の跡を見に行くことにした。
 旧東海道がこの辺りで昔の姿をある程度保存されているのは、鶴見地区の人々の情熱によるものだと感じた。陸側に第一京浜が作られ、京浜急行とJRの動脈があるが、鶴見川沿いのこの道は、自動車も少なく、旧日光街道を歩いた時と同じたたずまいで、少し彎曲しながら、古い店が続く。雰囲気が似ているなと感じたのは、野菜棚とか並んでいた店と同じように、こちらは魚を並べる棚がいくつも並んでいて、早朝は買い出しの人々で通りが賑わうそうで、午後でもまだ売っている店がある。現役の「魚市場」として昔からの営業を続けているからだ。      
 
 旧東海道鶴見橋の石碑と最近架けられた橋。
 

鶴見川の水運は隅田川と同様、海面から余り差の無い川岸に淡水の港を作れる条件を満たし、木造船が海浜に繁殖する舟虫に侵蝕されない所に「良港」を作れたことによって、所謂「河岸」(かし、と読み、船着き場、市場、旅客を泊める宿場の役割も担った津を指す)
としての機能を発揮し、野菜と魚及びその他の生活必需品を全国津々浦々から荷揚げでき川を遡上して内陸各地にも捌け、且つまた東海道と日光街道での陸送もできるので、大いに繁盛したのだろう。川と道の十字路であった。
     2014/04/27記

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宇治川へ

 

宇治川大改修

 彼岸の墓参の後、京の友人から宇治川の洪水防止工事の話しを聞いたので、どんな状況か見に出かけた。昨年の嵐山の渡月橋が大洪水で橋桁に迫る濁流を眺めて、3.11の津波程ではないが、その暴れぶりに圧倒された。1か月ほど後に現地に出かけ両岸の樹木の2メートル程の高さにまでゴミや草が引っ掛かっているのを見、この洪水が天龍寺の方まで押し寄せたら大変だったろうなと思ったことであった。

 
 2013年秋の台風で上流から桂川右岸の樹木に付着したゴミ、前方は渡月橋(10月撮影)

 JR宇治駅から大通り沿いに宇治橋に向った。駅から数百メートルずっと下り坂の道で、橋の少し手前でやっと少し上りになってきたが、他の川に架かった橋脚はかなり手前から上りになるのに、宇治川はそれだけ急流が川の周辺の土を削り取って来たことが分かる。
 橋脚の端に立って、上流をみてびっくりした。中の島から宇治上神社に向う赤い朝霧橋から少し下流で川幅の半分くらいがシートパイルで堰き止められ、大型重機が土を掘ってはダンプに積み込む。半分に堰き止められた急流は普段以上に激しくぐんぐんと流れ来る。


写真は右岸からと朝霧橋からの工事の状況 
朝霧橋から工事車両が川を半分堰き止めて底を深く掘削中、前方は宇治橋(3月20日)
 京阪宇治駅の方に向い、右折して右岸を上流に向った。暫くすると橘寺放生院という寺があり、その説明によると、宇治橋は日本でも最も古い橋の一つだが、しばしば洪水で流れたので、亡くなった人間と生き物を供養する為に沢山の生き物を放生した由。さらに進むと、まさしく大型重機とダンプが掘削工事をしている光景が目の前に入った。中州を大きくして、流れを更に急にして川底の土を削り、下流に推し流す事によって、平等院への大水害を防止しているのだろうか。平等院側の堤防はすでに自然に溶け込んでおり、これを淀川のような百メートル幅のスーパー堤防や、津波防波堤のようなものを作る訳にはゆかない。以前別の本で読んだことだが、水の流れによって川底を削ることで洪水を自然に防ぎ、水運の便にも利する。これが、ダムができるまでの日本の自然の川の力であった。
 しかしすぐ上流に天ケ瀬ダムができ、ダムが水を放流する時以外は、自力で川底を削る力が減り、底が浅くなって、洪水時には大災害をもたらすのだ。

 
説明では川を半分ずつ堰き止めては河底を0.4Mほど掘削して切り下げ、
水の流れる量を増やし、「洪水を安全に流せるように計画しました」(カッコは筆者)
最初の説明は「洪水による被害を軽減するため」とあり、軽減するためで防止することはできないというスタンスである。
 
橘橋から下流を堰き止め、緑のシートの間をダンプが土砂搬出する
 
中州を復元し、川の流れを以前のように勢いを取り戻させ土砂を押し流す。

 
朝霧橋から天ケ瀬ダムのある上流の眺め。雨後の山霧が立ち上る。説明ではこの橋から下流のみを0.4Mくらい深くするというが、今後こうした工事をするのだろう。土は上流から運ばれてきて、一度流れが緩やかになるとそこに堆積してしまうのだ…。
以前、伏見の港は宇治川と同水準であって、大阪から上って来た舟はそのまま京都に入れたが、宇治川が川底を侵食したためか、或いは水量が減ってしまったため高瀬川との段差ができてしまい、閘門を敷設して舟運を維持しなければならなかった。
 宮本常一の「川の道」141頁を引用すると、
「瀬田川が宇治川と名を変えるところが天が瀬(海人が瀬か)で…(中略)この先史の人々は琵琶湖ばかりか、絶えず淀川水系を上下して遥かなる瀬戸内にさえ交流したことがしのばれる」と記している。海人がこの辺りまで交易に上がって来たのか。
 琵琶湖の水面と淀川の河口の水面は、古代人の小舟が竿で河底をかき、岸から綱で曳いたりして上下できた高低差だったのだろう。
 1919年に京都の春を惜しんだ周恩来は、50年後のピンポン外交で、愛工大の後藤鉀二さんに「私が日本を離れる時、丁度桜の季節でした。船で琵琶湖へ下りましたが、実に美しかった」と語っている」林芳著「寥天(ひろき天)」
疎水から琵琶湖へ下り、琵琶湖から舟で瀬田川宇治川淀川経由大阪に着いたかもしれないと思うと興味が尽きない。(多分、汽車だったろうが、神戸から天津に帰る荷物と一緒なら舟が便利だし安かっただろうと思う)     2014/03/22記

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深谷の島は客土として削られたのか

深谷の島は客土として削られたのか
1月20日に深谷に出かけ、百円バスで渋沢翁の生家と彼の号の青淵という湧水の淵を訪ねた。総2階の大きな家で、2階は蚕棚で、屋根の上に通風用の小屋根がついているのは、他の養蚕地帯でも見かけたものだった。彼の生地の辺りは「血洗島」といい、その周辺にも内ケ島とか大塚島とか島のつく地名があるが、今はまっ平らで島のあった跡形も無い。
どうしてだろう。
先日、「奥の細道を行く」の象潟の所を読んでいたら、芭蕉が訪ねた後に潟が隆起して陸地になってしまった。それで本庄藩は田を開くために、たくさんあった島を客土用に削ろうとした。それに反対した蚶満寺の覚林和尚は寺領であるため、京都の宮家に訴えて開発を阻止してもらったが、藩の恨みをかい和尚は逃げたが、江戸で捕まり、獄死した。(郷土史家、竹島氏の話)
それでも幾つかの島は削られ、たが、明治9年に天然記念物に指定され、103の島が残った。島にはすべて名前がついている由。
深谷の島も利根川の洪水の運んだ土とともに、客土として農地開拓に使うために、削られたかもしれない。            2014/02/14記
 鳥海山と象潟の島と開かれた稲田
  

 

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五霞町へ


五霞町へ

1.
 今年の節分は4月のような陽気で、利根川の江上の道を散歩するには絶好だと、これまで気になっていた茨城県の五霞町にでかけた。利根川より南にあるが茨城県に属している。かつてはこの町の南に利根川が流れていたのだろうか。
 北千住から東武日光線の南栗橋下車、地図をたよりに権現堂川(行幸湖)に向った。この川は、利根川が渡良瀬川と合流した所から、南に下って中川か江戸川の方面に流れていたころの川筋で、今は利根川の巨大な堤防と水門で遮られ、必要な水量だけを取り込んでいるだけで、名前もかっこつきで(行幸湖)とされているように、今は水流がなくカモたちが悠然と浮かんでいる。後で調べたら、明治9年に明治天皇が東北巡幸時、岩倉具視・木戸孝允らと行幸したことにちなんでだいぶ後になってから名づけられたという。
 明治天皇は東京遷都後、北海道から九州まで全国を巡幸しているが、ここを行幸湖としたのはどうしてだろう。維新後9年、北関東からの米や色々な物資を利根川・江戸川の水運を使って、首都東京まで運んでいたから、鉄道が敷設されるまでは大変重要な要衝であった。天皇一行は陸路で北上したが、彼の巡幸のための物資その他は舟でこの辺りまで運ばれてきて、それをこの辺りで陸揚げしたので、立ち寄ったものだろうか。
彼は西南戦争のだいぶ前に西郷隆盛と西日本を蒸気船で訪れ、大阪から京都伏見までやはり森の石松で有名な川舟で移動している。舟で内陸河川を移動するのは陸路より安全で疲労も少なかったからだろう。東海道の名古屋の熱田の宮から桑名までは木曽三川に橋がないから船で渡っているし、草津から大津へも舟で渡っている。西風が吹く時はやはり歩いて瀬田に南下した方が確実だからというので「急がば回れ」というのは草津で生まれたことわざだそうだ。ロシアのニコライ皇太子も舟で移動していれば、大津事件に遭遇しなかったかもしれない。

2.
 閑話休題。その天皇行幸の地が明治20年代に大変な事になる。
 渡良瀬川上流の足尾銅山から鉱毒が流出し、その鉱毒が首都周辺に大変な影響を及ぼすという問題が発生した。それを防ぐため、利根川の水を赤堀川から常陸川経由銚子の方に流すこととなったというのが、小出博氏の「利根川と淀川」(中公新書)にある。
足尾の鉱山は富国強兵政策の遂行に重要な役割を果たすので、これを止めるわけにはゆかず、遊水地などで鉱毒を薄めるなどの措置をとったりしたが、周辺の樹木はすべて枯れてしまい、裸となった山から大量の土砂が流出し、各地で天井川となり洪水で土砂が田畑を埋めてしまった、ということだ。赤堀川というのが今五霞町の北を流れる利根川だ。関東ローム層の土を掘って作ったので、その色が赤かったからの名前だという。
しかし、それと同時に利根川水系から江戸東京への直接の舟運水系は保持せねばならぬ。
鉄道がくまなく敷設されるまでは、利根川・江戸川の舟運が経済活動に及ぼす影響は大変重大であったから、舟が常時通交できるように、五霞町一帯を流れる川筋を一本にまとめて水深を保つことが優先され、洪水時に利根川とその支流が氾濫して、農業に甚大な被害が及んでもそれは自然災害・天災としてやむないこととして受け止められていた。この舟運のための川が権現堂川であり、後に行幸湖といわれた水路である。
 これを今日の視点に立って見ると、東日本大震災での道路・鉄道が寸断されて所謂ライフラインが破壊されると、その復旧を最優先させ、津波で広大な住宅・農地が甚大な被害を蒙っても、仕方ないと思うしかないのと似ていよう。

3.
 その後昭和3年に完全に利根川からの流れは止められ、水門で必要な量だけを取水することとなり、この権現堂川という北関東の水を東京湾に注ぎつつ、大量の土砂を江戸川河口に運んで、沖積平野を形成してきた川は、その機能を失くし、湖となった。
 この湖の周辺には利根川の水を利用する工業団地が造成され、キューピーやヤクルト、キッコーマンなどの工場が目の前に現れた。この五霞町というのは利根川と権現堂川の間の広大な中州というか三角州のように周囲を川で囲まれた土地である。
以前は五霞沼とも呼ばれていたのが、利根川が運んできた大量の土砂で陸地化したもので、
丘陵も無いまっ平らな地形である。
利根川の水門の方に歩いてゆくと、湖のような川の断面図があり、満水時には川底の水深が8.5メートルもあるから、注意する様に警告している。すり鉢型の一番底の所は、かつて利根川の強い流れがこの川底を削り取って流れていたのだろうと思われる。舟運のための水深を保持してきたことがよく分かる。その後水門によって利根川の流れが遮られ、土砂も流入しなくなって、昔のままの川底が残ったのであろう。権現堂川という名前の由来も知りたくなった。徳川家康にゆかりがあるのだろうか?とも思ったが、どうやら熊野権現などがあったからそう命名されたそうだ。ということはこの川の西側は古くからの集落があったのだろう。権現堂というのはやはり平地から石段を上った所に建てられたのだろう。

4.

 そんなことを考えながら歩いていたら、利根川の土手から母子二人連れが下りてきた。
4歳くらいの子はペダルの無い子供用の自転車に乗って、緩やかな草の斜面を下りてくる。
堤防の斜面というのは、都会地では土地が狭いために急角度の斜面だが、利根川のこの辺りは、もともと自然堤防といわれる利根川が運んできた土砂が両岸に緩やかな丘を形成し、その幅は400メートルくらい、高さは数メートルで、河床は200メートル前後で、両岸の土手の端から端まで合計1,000メートル以上ある。

 だが、一旦洪水がこの地に押し寄せると、上流からの土砂が一気に流れ込み、堤防決壊がしばしば起こった。大地震の後に洪水が押し寄せて、ひび割れした堤防を決壊させたら大変なことになるなと感じていたら、目の前の河川敷に次から次へと下流から土砂を載せたダンプがやってくる。コンボイの如くで、河川敷に二車線のアスファルト道路が長く続いており、その先には、色とりどりのシャベルカーが、招き猫が腕を上下させるようにして、河原の土砂を2-3メートル掘り下げて山にした所からダンプに載せている。
 私が土手に上がったところは、丁度東北新幹線の鉄橋がかかり、そこから北は国道4号と東北線が伸びている。鉄道を引いた頃は、蒸気機関車の牽引力の限界にあわせ、できるだけ傾斜の緩やかな路線を選ばねばならぬので、河川が削った比較的なだらかな所を通すのは自然の道理であった。それで利根川が削って来た大地を北上するのは当然で、下流側には、4号線のバイパスも通っている。土手に海から180KMとの表示がある。そこから5KMほど堤防の上を歩いた。途中、野田から運動のため自転車でやって来た人と出会い、彼の話しに依れば、このダンプはこの先数キロに亘って、河川敷に堆積した土砂を上流に運び、そこの堤防を丁度富士山のすそ野のようななだらかな広大な斜面にして、どんな大洪水にも地震にも耐えられるようにするのだとのことだ。確かに東北線・4号線・新幹線・4号線バイパスの集中しているこの一帯のどこかが決壊したら、4本の幹線は麻痺してしまうだろう。それでこの一帯の堤防を強固にしているのは分かるが、その下流にある野田とかはどうなるのだろう。

 私が子供の頃に聞いた木曽三川の堤防を徳川家の尾張側は高くして、美濃側にあふれさせたと言う話しとか、中国では元々北京・天津方面に流れていた黄河がいつの頃からか、南の山東省の方に流れるようになったのも、或いは土砂の堆積が極限に達して、自然に水が低い方に流れたこともあり得ようが人工的な堤防とかによるものだろう。
いずれにせよ、人口の多い都会への洪水防止が最優先であること、そして鉄道ができるまでは、物資輸送のための舟運が優先されてきた為、農地に洪水をあふれさせるのはやむを得ぬと考えられてきたのだ。

 5KM以上歩いて、次から次に土砂を運ぶダンプを眺めながら、この作業は利根川が大量の土砂を運んで来て、人間がそれを自然の川の流力によって、海まで運べるだけの水量を喪失させてしまった以上、永遠に続けなければならぬ作業だなと思った。積んでも、積んでも転げ落とされる賽の河原の石のように。

       2014/02/08日夜浮かぶ記

 写真は五霞町の堤防上から見た河川敷の土砂を運ぶ作業現場。河川敷に送電線があり、その幅は千メートル前後かと思われる。平時の川幅は狭いが、大水だと大量の土砂が河川敷に堆積する。対岸は写真ではよく見えぬが、こちら側と同じ作業をしていた。まさか埼玉首都圏側だけ高くするというのは、現代では通用しまい。     2014/02/03撮影

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山の辺の道

山の辺の道

 学生時代の友人3人で山の辺の道を歩いた。
蘇軾の詩にいう、橙(ゆず)黄ばみ、橘は緑の季節が一年中で一番良い、と。
この時期はまだ紅葉も始まらず、歩く人もまばらで、出会う人は皆、職を終えた人ばかり。
京都から近鉄で天理まで行き、駅前で山の辺の道の地図をもらい、アーケードの商店街を歩くこと30分。途中、天理教の本部にお参りし、布留という地名の交差点に着いた。ここがあの枕詞の「ちはやふる」の「ふる」だという話しから、博学のTさんが「ちはやふる神代も聞かずたつた川、からくれないにみずくくるとは」を吟じ、これが落語のネタにもなったという方向に転じた。
布留の森一帯を背景にして、石上神宮がある。神宮というからにはお伊勢さん平安神宮、明治神宮などやんごとなきお社に違いない。さっそく坂道を上がって行く。10分もせぬうちに、Tさんがちょっと休憩という。2人でお社に参詣しながら、他の人達が右側の階段を上がって行くのを眺めやりながら、Tさんの休んでいる所まで戻って来た。
それからろくに地図も見ずに、左に曲がって、トラックの通る道を南下していった。
そのうちに標識があって、現在地がどうも山の辺の道に行く方向と違うことが分かった。それで、野菜を手にしたおばさんに「山の辺の道へはどう行くんでしょうか」と聞いた。このまま南下してから山の辺の道にたどりつくのは遠いから、今来た道を戻って、右に曲がり、バイパスの下のガードをくぐり右に行けば出られるよ、とのことで、指示通りに歩いてやっと「山の辺の道」の標識にたどりついた。すでに1時間以上歩いたが、元の道に引き返すということで、精神的にもだいぶ疲れが出てきている上に、さすが山の辺の道だけあって、アップダウンもあり、昨日久しぶりに再会を祝してハイになり飲みすぎたせいで、3人とも疲れが出始めていた。それでも明治の廃仏毀釈で「まったく廃墟」と化して址しか残っていない「永久寺」の前まで来た。皮肉な名前だとIさんがいう。説明板には「永久年間に作られた」から云々とある。放生池の周りを巡って雰囲気の良い道を歩き出したのだが、数日前に降った大雨の運んだ土砂がそのままの道を歩む。さすが奈良の道だ、京都の観光地ではすぐ片づけるのだが、こういうのも悪くないなと言いながら歩いてゆくと、行きどまりとなった。がっくり。もう2時間近く歩いて、ペットボトルの水もなくなり、況やお握りすら買って来ていない。しかし周囲を見渡してもコンビニはおろか、ペットボトルの自販機などありそうな気配は無い。12時半過ぎて、登り道を、歯を食いしばりながら歩く。途中でTさんは「ちょっと休憩」と手を挙げる。どうしたものか?と思案していると、向こうから70代と思われる夫婦が杖をついてやって来た。「すいません、三輪から来られたのですか?」「何時間かかりましたか?」と訊いたら「3時間ほどですが、ここからは下りが多いですよ」という。それを聞いてへなへなとなった我々は、何とか水と食料を探そうと、とにかく右に曲がってJRの桜井線の方向を目指した。
 天理市のアーケードで水とお握りを買ってくるのを忘れたことが「大失敗」であった。
実は数年前、愛宕山に登った時に、途中のコンビニでお握りを買ってくるのを忘れて、昼過ぎ山頂近くの愛宕神社の前で、登山者がそれぞれおいしそうな弁当を食べているのをみて、一つ恵んで下さいと言いたくなったことなど、つい2時間ほど前に2人に話したところであった。「トラウマ」とは恐ろしい。ここは三輪への縦走は断念し、食にありつくべく人家のある方向を目指した。
 そうこうしているうちに、SUVにエンジンをかけているお姉さんに出会った。ここから一番近くで水と食べ物が入手できる場所は?と訊けば、右の道を下りてゆけば、夜都伎神社にでられますからその途中にあります、との答え。我々は更に立派な人家を幾つか横目に見ながら、やっと「天理観光農園」という旗がたなびくのを見、安堵した。さっそく、カレーとから揚げランチ、その前に水をごくごく飲んで生き返った。
 昨日仁和寺にお参りしてきたというTさんは得意の古典から「先達はあらまほしきもの」
とか、石清水八幡に参詣した坊さんの話しなど展開、だいぶ口が滑らかになってきた。
 さあこうなったら、JRの長柄駅を目指し、山の辺の道南下を再開した。途中山の中腹に立派な屋根壁の集落がいくつかある。古代の人達は、敵からの防御のために壕を作ったり山の中腹に居を構えて集って暮らしてきたのだろう。奈良盆地の多くは低湿地で、住むには適さなかったのだという。そういわれれば、大和三山といわれる香具山や耳成山などは、なにやら湖面に浮かぶ島のように見える。石上神宮も「いそのかみ」と「磯」のイメージを与える。万葉仮名は伊曽乃加美とか以曾乃加美とかで表記されている。
今では香具山の中腹に住んでいる人はいないが、万葉集の「春過ぎて夏来るらし白妙の衣乾したり天の香具山」と詠まれたころは、中腹に家を構えて暮らしている人がいたのだろう。山の麓に住んでいる人の乾した白妙は、歌にはなりそうもないから。
 こうした環濠集落の人々は朝廷が大和を去って近江へ行く時、額田王が詠んだ「三輪山をしかも隠すか雲だにも 情あらなむ隠さふべしや」という状況下、近江には同行せずに居残った人達の子孫だろうか。
 そんなことを考えていたら、「大和神社」(おおやまとじんじゃ)を左に見て、長柄駅に着いた。知らない人が見たらなぜ「おおやまと」というか不思議に思うだろう。説明板にはこの神社は戦前「戦艦大和」の守護神で云々とある。後で調べたらこんな盆地にありながら、この神様は「海上交通」の神様で、74歳の山上憶良が第9次遣唐使の大使として赴任する丹比(たじひ)の広成(ひろなり)に送った「好去好来歌」の「神代より言い伝え来らく そらみつ大和の国は …言霊の幸はふ国(後略)」と歌ったように、「海上交通の神でもある大和神社に新任大使の無事を、心をこめて祈った」(「万葉の歌3」山内英正著)
という文章を得た。そうか、彼の頃から大和から舟で大和川を下り、そこから大きな船に乗り換えて、唐に渡ったのだろう。数年前公開された「平城京復元」の公園に遣唐使の乗った船がみごとに彩色されて展示されていたことを思い出した。大きな荷物や貢物を携えて難波に向うのもやはり舟で行くのが便利だったろうし、川幅も水量も今我々が想像するよりずっと広くて滔々とした流れだっただろう。海上交通の守護神がこの山の辺のすぐ近くにあるのがやっとわかった気がした。
   帰ってから司馬遼太郎の「街道をゆく」一の「大和石上へ」を見たら、64ページにこういう記述がある。
『「石上のいそは、やはり海岸の磯の意味の様に思うがなあ」(…)なぜならば大和盆地は古代にあっては一大湖沼であったからである。古代聚落は盆地のまわりの麓や高地に発達したから、いまでも磯野、浮孔、南浦、磯城島(しきしま)といったふうに磯くさい古い地名が残っており、となれば石上の地形からみてこれは磯ノ上に違いないと思う方が、穏当のような気がする』

    なんだか知らないが、万葉のころの大和盆地は、一部が今の滋賀県の南東の一角のように、たくさんの川が山側から流れこむ琵琶湖の小さいイメージを彷彿とさせる。
同じ「万葉の歌3」に舒明天皇の「大和には群山あれど とりよろふ 天の香具山 登りたち国見をすれば 国原は煙立ち立つ 海原は鴎(かもめ)立ち立つ うまし国ぞ蜻蛉島(あきつしま)大和の国は」(巻1-2)とあり、これは、奈良盆地は湖沼で鴎が大和川を上って飛んで来ていたものかと思う。京都の鴨川の四条大橋あたりには鴎が飛んでくるが、これは琵琶湖から東山を越えて飛来するものという。鴨川変じて鴎川となるカモしれぬ。
      2013/11/08記

 

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石巻へ

 

1.

2年前の夏、塩釜から遊覧船に乗り松島を訪ねた。乗客は5人で、二人連れがえびせんをかざすと、たくさんのカモメが一斉に群がり飛んできて、二人は怖じ気づいていた。

それが無くなると、カモメたちは未練気に尚も追いかけて来たが、12分後に引き返して行った。これも大震災津波の影響だったろう。

 震災から2年半経って、あの仙石線の美しかった海岸は復旧しただろうか?

それを見に出かけた。塩釜から船着き場までの海岸沿いの「俳句」などが刻まれた碑は、2年前は倒れたままで、これを修復する前にやらねばならぬことが沢山あるのだから、しょうが無いと思いながら歩いた。今回はブルドーザーが石碑をきれいに撤去していまっていた。元の状態に戻るまでにはあと数年かかるだろうなと思った。

 遊覧船に乗ったら、今回はおおぜいの団体客で席は占められ、2階のデッキに上がった。

団体向けに売り子がえびせんをたくさん抱えて売っている。カモメは出帆前から、えびせんを袋から取り出した客の手をかすめながら飛び来たり、飛びさる。

 前回はテープのガイドだったが、今回は生の声で、右側の半島の地続き部分の住居は、津波の被害が大きくて、半数は誰も住んでいない状態だという。

島の松は大津波をもろに受けた所は、根がやられて、赤く枯れていた。

桂島は80世帯全員が山上の学校に避難して、1週間以上も支援なしに耐えて全員無事だったが、今は半数ほどに減ってしまったという。

 前回はテープの説明で、全ての小さな島にも名前がついているのに感心したが、今回の生ガイドでは、一つの島が3つに裂けたとの説明や、多くの松が枯れてしまい、カモメの巣に変じているのを見た。松島の二百幾つもの島は、過去の地震津波などの自然の力で、このように沢山の島に分かれたのだろうと思った。その中には蔵王連峰から吹き下ろす風も入っていて、その風の起こす浪で、蔵王の方向の壁はきれいな曲線を描いて抉られているのです、との説明にも感じいった。

 50分ほどで松島港に到着。港の正面の繁盛していた土産物店は、まだいくつかシャッターが下りて土嚢を積んだままだ。その数軒先からはみな元通り営業しているから、これは何か別に復旧できない事情があってのことだろう。復旧復興するのはやはり人なのだ。2.

 前回来た時は、橋がやられて渡れなかった雄島に向った。

東北大の艇庫を見ながら、赤いい欄干が修復された渡月橋を渡った。

沢山の仏像や石碑が津波の被害を受けたようにはみえないほど、しっかり残っていた。

芭蕉、曾良の句碑もはっきり読み取れる状態であった。

芭蕉は松島に来て、この島に上陸し雲居禅師の別室の跡などを尋ねた。

その「把不住」庵も(後に再建されたものだが)無事であった。

これもたび重なる自然災害で、倒れたり、廃墟になったりしたものが多いに違いないが、
後の人が彼を尊んで、再建したものが今も今回の津波に負けず残っている。

芭蕉は松島で「風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ」の後、予は口を閉じて眠らんとしていねられず、と記述しており、この時は句を残していないとされている。だが、この島の句碑には「朝よさをだれまつしまの片心」とある。

元禄2年の奥の細道に出かける前に作ったものだそうだ。

これ以外にも、「奥の枝折」に「島々や千々に砕けて夏の海」という句があり、雄島から眺めた松島湾の浪が千々に砕けているように観じたものか。

あるいは、小さな島々をそう観じたものか。

3.

 松島海岸駅前から代行バスで矢本に向った。
  


仙石線 津波から2年半後の野蒜駅 (137月撮影)

 

 以前、石巻に用があって、仙石線を何度か利用した。その時私が一番素晴らしい眺めだと思ったのは、東名駅辺りの海沿いになだらかな弧を描く線路であった。今、野蒜駅は上の写真のとおり、電柱は傾いたまま、鉄路は砂に埋もれたままである。

駅舎の右のコンビニは、板壁に大きな穴があいたまま、放置されている。鉄道が不通なのだから、誰もコンビニを利用する人はなく、店を修復する人もいない。

 それでも、元の線路に鉄板を敷いて、クレーンが修復作業を始めている。何年後かには、ハイブリッドのジーゼル車を石巻から仙台まで、東北線に合流して直結するという。

海岸線から少し内陸に入った丘陵地帯で、東京の大手ジェネコンが、東京郊外の新興住宅地開発と同じような雛壇式の宅地造成を行っていた。

仙台から30分の距離だから、こうした復旧が可能なのだろう。それに地場産業もある。

 2年後にもう一度来てみたら、阪神淡路大震災後の神戸のように復興していると思う。

カキの養殖も復活し、浜辺にはおびただしい数の稚貝用の貝殻が並んでいた。

前回来た時は広島産のカキを焼いていたが、今回は地元産だと言う、それまでは、大量の稚貝を、日本各地だけでなく、はるかフランスにまで送っていたそうだ。

今後この地区の稚貝が又フランスなどに届けられるようになる日も近いだろう。

4.

 矢本でバスから下車して、再び仙石線の鉄道で石巻に向った。雨が降り出して来た。

久しぶりの石巻は、駅周辺は大きな変化は感じなかったが、石森さんの漫画のアイドルたちのカラフルな像があちこちに建てられていた。彼を記念する建物も修復されていた。

 昼をどこかで食べようと思ったが、駅周辺は夜の居酒屋風な店はあるにはあるが、昼食用の店はない。それで昔よく歩いた立町商店街を歩いて、旧北上川の方に向った。

十年前もこの商店街はシャッターを閉めてしまった店が点在していて、日本各地の駅前商店街と同じ宿命をたどっていると感じた。

今回、10分ほど歩いて感じたことは、老舗の御菓子屋さんや伝統的な品を扱っている店、そして地場の銀行店舗は津波の被害から立ち直るべく改修され、復旧あるいは、前より現代化した店舗に変わっていた。その隣の幾つかの店は、シャッターが曲がったまま、板塀が崩れたまま、或いは青いシートで囲ったままの状態であった。これらの店は、松島海岸の港の正面の土産屋のように、夫々の事情があって、復旧に新たな資金と人手をかけることができないのだろう。

ラーメンやパスタを食べさせる店は、個人経営だったこともあってか、津波の被害が甚大で、再建できていない。

 時計は2時少し前だが、適当な食堂が見つからず、ひもじくなってきた。コンビニでお握りか、パン屋でパンでも買って食べようと探しながら歩いたが、牛肉屋とか羊羹店、饅頭などを売る店は少しあるのだが、コンビニもパン屋も無い。

とうとう旧北上川の岸辺まで来てしまった。

 自動販売機も見つからない。喉も乾いてきた。コンビニもパン屋も自動販売機もそれを利用する人がいて成り立つことが身にしみてわかった。

石巻駅から北上川まで、夜の飲み屋、すし屋、焼き肉屋等はあるが、旅行者が口にできるものを売る店がない。地元の人はそんな店を利用しないのだろう。

5.

 2年前東電の計画停電で、東京の都心の核となる地域を除いて、周辺の各区を時間ごとに区分けして、45時間の停電を実施したことがあった。千葉横浜の住民たちは大変難儀をさせられた。市役所や電車の駅の周辺は送電されるが、通り一つ隔てて電気が来ない。

その時の都知事の発言を突如思い出した。停電するくらいなら、電気を大量に消費する自販機をとめ、コンビニも営業時間を短縮して(24時間営業など止めて)一般家庭が停電で困ることの無いようにすべきだと提案した。

これは暴論だとして、自販機会社の配送などで働く人たちが失業するとか、コンビニが夜間営業停止すると、夜働く人達が不便になるとして反対して、沙汰やみとなった。

その時の都知事が、冷たい物を飲みたいなら、家で冷やしたものを飲めばいいし、弁当も家で作ればよいと言った。

 我々は現在あまりにも電気がもたらす「便利さ」に飼いならされてしまったようだ。

電気が来ないと、コンビニも自販機もファストフードの店も成り立たない。石巻やそれより北の津波の被害の甚大だった地区には、旅館やホテルなど宿泊施設が殆どやられてしまって、工事関係者を始め、ビジネス客や観光客は、ほとんど仙台市内のホテルに泊まるしかない。それで仙台市のビジネスホテルはいつも満室だそうだ。

 そうか、石巻に旅行者用の食堂やコンビニ、自販機が無いのは、ホテルが無いからか。

ヴォランティアや旅行者は仙台で仕入れた弁当と飲みものを持参して、被害地の復興に来る。去年来た人は、2食分或いは3食分の握り飯やパンを持って来たという。パサパサになった握り飯を食べて飢えをしのいだ、と。

 仙石線が一日も早く復旧して、旅行者が握り飯や飲み物を携帯せずに、普通のホテルに泊まれるようになる日が来ることを切望する。

      2013/07/22

 

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