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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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千住のやっちゃばと、生麦の魚市場

千住のやっちゃばと、生麦の魚市場
1.
 清明節の素晴らしい陽春の候を読書していてはもったいないと思い、千住と生麦に出かけた。北千住駅で降りてから、一旦千住大橋に向い、そこから芭蕉が通ったであろう旧日光街道を歩いた。
千住は芭蕉が奥の細道の旅で深川から舟で北上して上陸した地だ。彼の像と句碑が建てられていた。千住大橋の公園には全国の河川の番付やら、ここに西日本からも大量の物資が船で運ばれ、江戸市中や更に小舟で内陸各地へ運ばれていったと記されている。旧日光街道の観光案内所にもいろいろなパンフレットがある。北千住駅で降りてから、一旦千住大橋に向い、そこから芭蕉が通ったであろう旧日光街道を歩いた。
 
 この左側に旧日光街道のやっちゃば、(野菜市場)が続く。 右に足立市場がある。

 両側はやっちゃば、といわれた野菜市場で賑わった所で、朝の暗いうちから各地より舟で運ばれて来た野菜類が大八車に載せられて、この市場に並べられ、それが江戸市民の口に入る様に捌かれていった。この通りを歩いていると、なんとなく曲がっていて、真っすぐでは無いというのが気になった。近畿地方では最短距離を直線で結ぶという方法で大きな官道ができ、そこに人が家を建て商店を開いた例が多い。昔読んだ本では、律令時代の路は、周辺に何も無いところをAからBまで最短距離で結ぶ為、直線で造られたと記憶している。前方に見える山をめがけて、懸命に真っすぐの路を作った。これは租庸調などの税制とも関連していようが、各地からの「調」を滞りなく都に運ばせるための路であったからとのことだ。
江戸の周辺では必ずしも直線ではなく、先が見通せないような程度に曲がっているのは何故だろうか?川の曲がり具合にあわせているのだろうか。人口も増え、いろいろな場所に集落ができたり産業が起こったりして、それらを繋ぐために少しずつ彎曲しながら街道を繋いで行ったからだろうか。
京都から大阪へ向う阪急電車は何も無い野に敷設したから直線が長いが、京阪電車は伏見稲荷や石清水八幡などを経めぐるから彎曲が多いのとなんか似ている様な気がする。
関東平野も中央線に乗ると、何も遮る者の無い平野を一直線に突き進むという感じだが、京浜急行は泉岳寺とか川崎大師など寺社仏閣への便を担っている様に敷設されているのと似ている。
2.
さて千住の旧日光街道の街を歩くと、京都の町家や富山の八尾の町立ての雰囲気が醸し出されているのではないかと感じた。道は京都のように直線ではなく、八尾の坂道の様な傾斜はないが、3か所に共通しているのは多くの店が通りに面して幅3間が原則で、ウナギの寝床の様に奥に長い。これは京都の下町の智恵と同じだから、この幅でお上に税金を納めたのだろう。 今ではやっちゃ場は隣の近代的な足立市場に移り、一部の商店が営業しているだけだが、2階建てだった木造の多くは取り毀され、ビルに建て替えられている。その工事現場を見ると、ずっと奥までかなりの長さを保っている。立ち寄った町の駅でお茶をご馳走になったおばさんに尋ねると、「そうよ、こんなに長いから、みんなお金持ちで2-3軒いっしょにして大きなビルが建てられるのよ」といいながら、この街が駅にとても近いから早晩ほとんどがビルに建て替えられるだろうと嘆息していた。
 歩いていてあまり良い気分なので、荒川を越えて、歩けるところまで歩いてみようと考えた。昔からの商店や古いしもた屋が残っているところを伝いながら、多分それが旧日光街道だろうと信じながら北上した。とりあえず草加まで行こうと思った。これまでの経験だと、昔からあるような神社仏閣があれば、そこはきっと旧街道だろうと思いながら。詳細な地図を手にしてきょろきょろ歩くより、どこかに紛れ込んでまた旧に復すということも面白い歩き方だと思う。自動車が王様のようになってから、旧道は拡幅されたりしたが、多くはバイパス化され、旧道と斜めに交差しながらあざなえる縄のような場合が多いと感じる。
3.
 荒川を越えてから、梅田、島根、六月という地名が続き、竹の塚を過ぎ、毛長川という小さな川を越えると草加だ。せんべい家の看板が増えて来る。市役所にたどりつき、そこの地図で確認しながら、草加の松原に行くことにした。道の両側に旗がひらめき、草加の松原へいらっしゃいと呼びかけている。
 ここは日光街道が現在の綾瀬川にぶつかるところで、この川沿いに北上すれば春日部で、
芭蕉の頃はいろいろ派川が入り組んでいただろうが、この川沿いの平坦な道を北上して、今の栗橋辺のどこかで利根川を渡り、間々田から室の八島を訪ねたのだろう。
この草加松原には同行の曽良が風呂敷包みひとつを背負って室の八島の方向を指さす像が立っている。昔の人は徒歩の旅に、できる限り荷物を少なくして、こんな格好で旅を続けたのかと感慨ひとしおであった。洗濯などどうしたのだろう?4-5日位同じものを着て、
俳諧仲間の家に何日か泊めてもらったときに、洗ったり、着替えをもらったものだろうか。
 ここにも芭蕉の像が建てられ、矢立橋と百代橋という木造の、清明上河図にあるような太鼓橋の規模縮尺版が架けられていた。下を船でなく、自動車が通り過ぎるのが残念だが。
 千住から歩くこと3時間、やっと草加の松原にたどりつき、芭蕉はさらに春日部まで歩いたのだと思いながら、無理をせずに春日部までは次回の楽しみに残し帰途に着いた。
 
 
  草加松原の芭蕉翁像。見かえる先に曽良の像がある。
右の案内所にドナルド・キ―ンさんの記念写真もあり、百代の旅人がキーワード。
4.
 その翌週の早朝、綱島に用があり、その用が終わってそのまま帰宅するのももったいないと思い、鶴見川を河口まで歩くことにした。4月の中旬、10年前なら春風江上の道、ならぬ春風工場の道で、沿線には各種の大中小企業の工場がずらりと並び、水質はどぶ川のようだった鶴見川にも最近はアユが遡上してくるようになったという。沿岸の大きな工場は閉鎖され、マンションやショッピング・センターに変身したのと洗剤の品質改善も大いに影響していると思う。
 綱島街道が鶴見川を越える大綱橋から川底を眺めると、なんと川底が見えるではないか!引き潮の時には、このあたりまで海岸の水面の高さと同じなのだということにびっくりした。
以前大洪水の時に、綱島駅から大倉山の間の田んぼが冠水し、線路も冠水してしまったという写真を見て、そうか確かにこの高さでは、一旦暴れ川といわれた鶴見川の各支流から押し寄せた雨水は海に向うベクトルより堤防を乗り越え、決壊させて田んぼに流れ込むベクトルの方が強いのだなと感じた。それ故、護岸を強化し、堤防を高くして天井川にせざるを得ないのだ。海抜1メートルの所に、満潮時に大雨が降ったら、海に出るにも出られぬ雨水はどうしようもないことになる。
 私が今住んでいる所は大倉山というのだが、数年前までは太尾と言われていた。そして鶴見川の対岸は綱島という名前で、なぜ陸地に島という名がついているのか、不思議に感じたこともあった。それを数年前の講演会で、この地は鶴見川の洪水時に丁度長い島のように浮かんで見えたから、綱島と名付けられたと聞いて愕然としながら合点した。
私の住まいの太尾町は大倉邦彦という人が「大倉山精神文化研究所」を山の上に建てたので、東急電車が作った隣の梅林とともに、今や横浜市が引き継いで「大倉山公園」として、近隣各地から四季を問わず多くの人が訪れるようになったが、それまでは周囲一面は田んぼで、昔のお百姓さんの言葉に、「太尾には嫁にやるな」と言われる程、水害に悩まされた所だそうだ。
 そう言われてみると、太尾というのは、京都の高尾のように、山の尾根の意味で、神奈川では高い山は無いが、低い丘陵の尾根を指したのだろう。同じ鶴見川の上流に市が尾という地名もあり、駅は鶴見川から坂を上った所にあるから、同じような命名なのだろう。
5.
 そんなことを思いながら、河口にむかって春風を顔に受けて歩いた。1時間ほど歩くと、森永の新しい工場を過ぎ、JRの鉄橋が何本も架かっている所にでた。新幹線を除いた、横須賀線、東海道線、京浜東北線、貨物線の上下合計8本の線路がここに集中している。近づいてみると、ブイが浮かべられ、作業船が2隻作業している。この地は日本の動脈的な線路が8本も集中しているのだから、万一堤防が決壊したり、線路が流されたら、大変なことになる。それで、川底をさらえつつ、水流を制御しようとしているのだ。しかし海にすぐ近いこの辺りまでくると、大雨の大洪水は上流で氾濫しても、海面と同じ高さだから、氾濫するということは無いのかもしれない。津波でもないかぎり大丈夫なのだろう。
 さらに歩いてゆくと大きく右に旋回し、旧東海道の関の跡の石碑があり、そちらへ向う事にした。鶴見川の両岸はこの先、埋め立てられて工場が建てられ、歩行者が堤を歩くことはできなくなっているからここからは、生麦の例のイギリス人を殺傷した生麦事件の跡を見に行くことにした。
 旧東海道がこの辺りで昔の姿をある程度保存されているのは、鶴見地区の人々の情熱によるものだと感じた。陸側に第一京浜が作られ、京浜急行とJRの動脈があるが、鶴見川沿いのこの道は、自動車も少なく、旧日光街道を歩いた時と同じたたずまいで、少し彎曲しながら、古い店が続く。雰囲気が似ているなと感じたのは、野菜棚とか並んでいた店と同じように、こちらは魚を並べる棚がいくつも並んでいて、早朝は買い出しの人々で通りが賑わうそうで、午後でもまだ売っている店がある。現役の「魚市場」として昔からの営業を続けているからだ。      
 
 旧東海道鶴見橋の石碑と最近架けられた橋。
 

鶴見川の水運は隅田川と同様、海面から余り差の無い川岸に淡水の港を作れる条件を満たし、木造船が海浜に繁殖する舟虫に侵蝕されない所に「良港」を作れたことによって、所謂「河岸」(かし、と読み、船着き場、市場、旅客を泊める宿場の役割も担った津を指す)
としての機能を発揮し、野菜と魚及びその他の生活必需品を全国津々浦々から荷揚げでき川を遡上して内陸各地にも捌け、且つまた東海道と日光街道での陸送もできるので、大いに繁盛したのだろう。川と道の十字路であった。
     2014/04/27記

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