忍者ブログ

日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

天津のコンプラドール その11

 

天津のコンプラドール その11

1.

前回、日本の石炭産業が民族資本の手で開発されたことが、日本経済の発展につながったことに触れた。グラバー邸で有名な英国商人グラバーは、1859年上海に来て、ジャーディンマセソン商会に入った。そこから長崎にやってきて、同社の長崎代理人という肩書きで、倒幕派の雄藩に肩入れして、大量の武器弾薬を売って大もうけした。彼は、内戦は当分続くとみて、武器を大量に仕入れた。が、鳥羽伏見の一戦だけで終わってしまい、江戸は無血開城。思惑がはずれた。雄藩からの代金回収も滞って資金繰りが悪化、維新後2年目に倒産してしまった。

グラバー商会は倒産したが、彼が肥前藩と共同開発した高島炭鉱の経営は、1870年に官営化され、そして後藤象二郎に払い下げられたが、後に岩崎の三菱に買収されてからも、その経営ノウハウを買われ、所長として活躍していた。三菱の高島炭鉱買い戻しで、日本郵船三菱の発展へとつながった。

一方、中国は李鴻章の肝いりで創設した商船会社への石炭供給のために開山した開ラン炭田(当初は開平)が義和団の事変のドサクサにまぎれて、イギリス資本の手に渡ってしまった。このときに鉱山で働いていた外国人技師は、スタンフォード大学で地質学を専攻し、後に大恐慌にみまわれた米国大統領フーバーだった。彼は1900年6月、天津で義和団に包囲攻撃されている。

彼は、開平鉱務局の監督官庁のトップだった張翼の命で、開平に派遣されてきた天津税関司のドイツ人と相談した。張翼は、八カ国聯軍が浸入してきて、炭鉱を破壊し、石炭が採掘できなくなることを恐れた。それで、炭鉱にイギリス国旗を掲げることが、八カ国聯軍の攻撃から身を守る手段と考えた二人の進言に同意し、炭鉱の全資産を英国資本に譲る契約に調印した。

彼は中英両文の内容が符号していないデタラメな契約にサインした。この間のいきさつは省くが、監督官庁のトップが、自分の責任を回避し、尚且つ石炭採掘から得られる「利権収入」という上手い汁の確保にいかに汲々としていたかが分かる。

自分の任期中に、鉱山が破壊され、採掘が止まってしまっては、目論んでいた収入の道が絶たれてしまうのだ。その後、この騙し取られた開平炭鉱の周囲に、もともと開平炭鉱の経営に関与していた周学熙という天津一の実業家がラン州炭鉱を開いて、開平をイギリス人から取り戻して「開ラン炭鉱」とすることができたのは後の話。

2.

1949年に劉少奇が毛沢東からモスクワ行きの指示を受けたのは、開ラン炭鉱視察中であった。私が天津の旧金融街の一角に、開ラン炭鉱の石造りのがっしりとした本社ビルを見たのも、何かの縁かもしれない。日本と中国の間にLT貿易が始まった頃は、私の会社もこの開ラン炭を輸入していた。私が北京駐在のころも続いていて、秦皇島積みとして2-3日で到着するので、日本の需要家から好評を博していた。

その後、円借款により、山西の大同から秦皇島まで鉄道が敷設され、港は近代的な石炭積出港に変貌した。山西省の有望な炭田が、ロングウオールなど近代的な設備を投入して、幾つも開発された。山東、河北産だけでは足りず、山西省の無数に近い炭田の開発が行われ、最近では内モンゴルなどにも拡大していった。

30年前の出炭量は数億トンであったが、最近では25億トンと10倍にもなっている。鉄鋼業だけでも1トンの銑鉄生産のために約0.5トンのコークスを使う。その鉄鋼生産が、5千万トンレベルから5億トンと10倍になったのだから、鉄鋼向けだけでも相当なものだが、発電用とかセメント用とか中国の殆ど全産業に使用されてきた。

私が90年代に、河北省の邯鄲の近くの製鉄所を何度も訪問したころは、人頭大の大きさの塊炭を満載したトラックの列が、隣の山西省から、省境の山地を越えて、何時間もかけて、延々と輸送されていた。鉄鉱石は不足し始めていて、大半を輸入に依存せざるを得なくなっていたが、石炭は隣の山西省にいくらでもあるから安心だと豪語していた。

その後、外国の借款も利用して石炭輸送用の鉄道がどんどん敷設され、スラリー輸送なども検討された。しかし何といっても、運河での輸送がもっとも競争力があった。今春、重慶から三峡下りをしたとき、最終貯水目標の標高185メートルにまであと数メートルくらいのところまできていた。昔の映像でみた、グングンと後の波が前の波を押し出すような、ダイナミックさは完全に失せていた。李白の有名な、千里の江陵一日にして還る、という醍醐味はなくなってしまった。

そのために、流れの鎮まったダム湖の両岸には、水面から30メートルくらいのところに、貯炭場が何ヶ所も何ヶ所も設けられていた。そこへ近隣の炭鉱からトラックで運ばれた石炭が、次々に落とし込まれていた。水面の近くまで伸びたシューターで、千トンクラスの石炭船に流し込まれ、三峡ダムの水門を通って、武漢、上海まで運ばれると言う。

一旦乗せてしまえば、これほど輸送費のかからない運搬船に勝てるものはない。帰りは工業製品や日用品を積んで遡上するが、重慶までは湖のようなものだ。五大湖とセントローレンス河を行き来する小麦や石炭などを運搬するレーカーを彷彿させる。

三峡が五大湖に変じたようだ。とてつもない長さの湖。ただナイアガラの滝は眺められないのが残念だ。そのうち中国のことだから、ダムの堰から大放流して、観光客を呼び寄せることもするかな。

3.

数年前から今年にかけて、山西はじめ全国至るところで 炭鉱事故によって

数え切れないほど多くの人命が失われている。

政府は私企業の安全対策を無視した採掘をやめさせるべく、厳重に取り締まっているが、私企業のオーナーは、事故のあった炭鉱は閉山し、またすぐ近くの炭鉱を新しい会社名で採掘開始する。

山西には「煤老板」という言葉がある。戦後の日本で三橋美智也が歌って流行した、「おいらはナー生まれながらの炭鉱夫」という歌に典型的なように、

当時、石炭は「黒いダイヤ」と呼ばれて、九州の筑豊炭田を中心に、個人オーナーの経営する炭田がいくつも開山した。山西ではその規模といい、その凄まじさといい、筑豊などとは比べようもないほどの炭田が、次からつぎへと開山され、閉山されている。それらは皆「煤老板」といわれる、炭鉱おやじ、とでも訳すべき、「石炭成金」の手になるもので、その炭鉱親父が五万といる。データによれば年産一定規模の炭鉱は3万社以上あり、その内、神華など大手5社の占有率は10%に過ぎない。25億トンの内、90%22億トンは3万社の炭鉱おやじの手で採掘されている。

彼等炭鉱おやじたちは、表面上は名前を出さない。地方政府の採掘権を認可する役所に勤務している役人と、共同してというかグルになって、次から次へと採掘のしやすい炭田を掘りつくしては、移ってゆく。あたかも焼畑農業のごとくに。

どういう手口かといえば、例えば雲岡石窟で有名な大同の近くの村の役人に、この炭鉱おやじは、採掘の許可証を得る為に、通常の国の定めたロイヤルティ以外に相応の賄賂を渡す。それで、採掘会社を設立し、そこの社長には、別の鉱山で働いていた男を据える。自分は出資して、機材を調達し、産出された石炭をコストで引き取って、もっとも高く売れるところへ販売する。事故が起これば、すぐ閉山して責任はその男に転じて、本人は次の炭田の投資に移ってゆく。石油の値段が信じられないほどの勢いで暴騰したのに伴って、石炭の価格も、龍の飛翔する、がごとくに跳ね上がり、炭鉱おやじはぼろ儲けした。

10年ほど前、日本の製鉄会社の役員から、中国の出炭量があっという間に10億トンを超えたとき、いったいどういうことかね、と聞かれた事がある。

日本でもピークには、6千万トンくらいは出炭していたが、2-3億トンから一気に10億トンを超すことがそんなに簡単にできるとは信じられなかった。

豪州でも 何億トンも増産しようとすると、鉄道とかインフラなどの整備に長時間を要す。また環境問題などで地域政府の認可も簡単には下りない。

石炭産業の民営化以後、こんな会社ばかりが、雨後の筍のようにぞくぞくと現れた。これが先ほど述べた30年間で出炭量がかくも増大した原動力なのだから、これがなかったら、増産のスピードはかなり押さえられたにちがいない。

4.

最近になって、こうした状況が目にあまるようになったので、山西省政府は

「国進民退」政策を打ち出してきた。即ち、中小規模の炭田から民間資本を撤退させ、省がその炭鉱を買い取って30年前のように国営に戻すというのだ。

一旦 民営化した郵便局も、いろいろ不具合がでてきたので、見直すという日本の思考方法を採用しようとしているかもしれない。

確かにすべて民に任せてしまった結果、事故は続発するは、環境はむちゃくちゃになるはで、10年後20年後には石炭の山西といわれていた石炭王国は、

事故を起こして閉山させられ、ボタ山の炭鉱跡ばかりとなってしまうだろう。

大型で近代的な炭鉱の多い内モンゴルなどに負けてしまうことになろう。

国営時代も無駄が多く、決して問題が無いわけではなかったが、労働者の生命は大事にされ、危険な坑道には入ることを拒否できる権利も保証されていた。また、民営のような、ルーズな環境無視の採掘は禁止されていた。

民に任せると、商人である「煤老板」は利益追求に走り、偽の報告書を提出して、政府をあざむき、採掘権が賄賂の対象となって、官吏もその賄賂のために腐敗する。まさしく官民癒着とは、山西の炭田にその真骨頂を見る。

開ラン炭鉱でも、イギリス人、ドイツ人 アメリカ人などが入り乱れて、採掘権をめぐって 血なまぐさい法廷闘争がなされた。国営であるべきものを民間に払い下げたとたんに、すべてハイエナのように貪欲な異民族と身内の中の腐敗した連中に、いいようにされて、富を持っていかれてしまった。

官吏が任期中に、石炭採掘のための利権を付与することで賄賂同然の別途収入を稼ぐことに血眼になる。給与はたかが知れているので、給与外収入の最大化に懸命になり、商人は利を追求することのみに全精力を傾け、安全装置や計画的な採掘など二の次となる。もちろんこの背景には、凄まじい勢いで成長してきた、過去30年の経済発展がベースにある。この経済発展の過程で、数億トンから25億トンにまで増産された石炭が、がぶ飲みされた。20年間で十倍にも増産できたのは、こうした役人と炭鉱親父の上手い汁を吸えるという仕組みがなければ、実現できなかったであろう。もちろん、石炭価格の急上昇と、需要の急拡大がその底にあったのが、原動力であることは間違いない。

官が監督し,民が弁じるのは しっかりとした法制度に基づかねばならないが、そうした社会環境の破壊を無視した違法行為を取り締まる法律は、名はあっても、実施には程遠いところに放置されてきた。監督官庁の役人になる人間が、自ら法の網をかいくぐって、私腹を肥やすことに専念するという、民族的伝統を、どうしたら打破できるか。私の友人の言に依れば「あのね、中国でね、

長というポストに就いたら、好処(うまい汁)を吸わずにはおられないのよ。」

周りがそうするし、そうしない長はすぐ追い出されて、ポイさ。」との由。

この国で、役人になるための試験に合格したいという人間は、有名大学を卒業して、過去の科挙の試験に合格するのと同様の難関が待っている、と報道が騒いでいる。それで親たちは有名進学校を目指して、小学校から家庭教師をつけている。いずれも、その目的はうまい汁の吸える長になるためである。

科挙については、弊害も甚だしかったが、導入された時点での目的は、それまでの世襲制の弊害を無くし、誰でもが受験でき、優秀な役人を採用して、国のために、皇帝のために働いてもらうためであった。だが、国や皇帝のために働いたのはほんの一握りに過ぎず、大概は私腹を肥やすことに専念したという。

世襲もだめだが、科挙と同様の今の公務員試験もなあ。

5.

以前、杭州の学校は、公立の学校を民営化し、高い授業料を取って、有名大学への進学率が格段に向上したと、宣伝されていた。それが最近、教師たちが放課後にお金をとって予備校まがいのような商売を始め、いろいろな弊害が指摘された。

それで、民営化した学校を、もとの公立の学校に戻し、授業料も従来どおりにすると発表した。元来、国の税金で建設した学校を、民間に払い下げて、民間経営にして、優秀な教師を集め、高い授業料の払える親から、成績の優秀な学生を選抜して、私立学校にするというのは、言語道断だと非難の声が上がっている。

湖南省や湖北省でも、一つの学校の中に、優秀な生徒だけを集めて、クラスを編成し、一般より高い授業料を徴収して、いい先生をそろえて、進学率を高めた、という学校が糾弾されて、そうしたエリート教育は許さないと、報じられている。が、実態は、「某実験小学とか、実験中学」という名目で、進学校を作って、教師は塾まがいの教授方法で 給与の何倍もの収入を得ている。

こうした報道に接するたびに、私は、長年の共産党員でもある、私の友人に

解説と、解読を求める。

彼は、大きく嘆息しながら答える。

「我が民族は、名と利と二つながらに富、栄えることを、一生の目標に生きてきた伝統があるのさ。」

「名とは何か。政治的、文化的に後世に伝わるようなことをして、名を残すこと。これが歴代の詩人がほとんど官僚でもあったことの説明にもなる。」

「そして、その政治生命を長く保ちたいなら、李鴻章もそうしたように、政敵に、追い落とされないために、軍事力と資金を蓄えなければ、いつかはやられてしまうということを、身にしみて会得しているからさ。」

「昨年のオリンピックの開会式に女の子が歌った唄、知っているだろう。

五星紅旗は、風を受けて、翩翻とはためく。勝利の歌声はたからかに鳴り響く。

ただ今から我が民族は繁栄と富強へ邁進するのだ」、と。

「繁栄と富強というよりは、繁栄と腐敗に近いがね。」

 

2009年10月29日 大連にて

拍手[1回]

PR

天津のコンプラドール その9 つづき

9.

それから40年経て、魯迅の作品は教科書から削られてしまった。その代わりに、任侠小説で著名な金庸の作品が取り上げられている。ある人は新聞に、今や魯迅の作品は「鶏のあばら骨」になってしまったのかと嘆いている。食べられる肉がひとつもついてないという意味だ。

日本でも漱石鷗外の作品が教科書から消えた。しかし中国に於ける魯迅の影響は、現代日本に於ける漱石鷗外とは比較にならないほど、政治的意味合いが強い。彼は清朝晩年に生まれた。科挙廃止により、洋学が提唱され、学費の要らない官立の学校が建てられた。その南京の水師学堂に入学した。出立の朝に母から、厳しい家計の中から捻出してくれた路銀をもらった、と記されている。だが、その学校は清朝の水兵養成のための学校と知って、路鉱学堂に転校したのだが、結局、これではだめだと日本に留学した。

日本から帰国後、中国をこんなにメチャクチャにしてしまった「礼教」すなわち儒教という「人が人を食う」社会、官僚地主が庶民小作農の血を吸い上げる仕組みを壊さねばならないと立ち上がった。

「孔子を神に祭り上げて、国人の魂をがんじがらめにしばってきた礼教」を徹底的に否定し、孔子の店を打倒せよと叫び、青年に古い書物は読むな、と訴えた。この世から、人々の頭の中から、孔子を叩き出してしまわねば、中国に救いは無いと主張し、作品の中の大テーマとした。

毛沢東は彼のこうした一面を高く評価し、旧体制を打倒するためにもっとも硬い骨を持った戦士だとして讃えた。しかし、魯迅の作品の中には、そうでないものも沢山あり、純文学として読者を感動させるものも多い。

私なぞも、何の先入観もなしに読んだ「故郷」とか「藤野先生」という作品から受けた感動を大切にして、中国文学に親しみを持ってきた。

しかし、その後の「雑文」という形式で、旧体制、封建的、軍閥的体制、それを支えようとする文章家たちを容赦なく、木っ端微塵に叩き潰す、鋭い匕首のような文章の数々が、中国の多くの革命的青年たちの拠り所として、読まれてきたと思う。

只 彼は自分が国葬されることなど、思いもよらなかったろうし、毛沢東に彼の文章の中の一部を引用されて、公園の花壇の中に看板の如くに立てられようとは、想像すらしなかっただろう。

文革から30年以上経た今、彼の作品は書店に並んではいるが、現代の青少年に与える影響は、少なくなってしまったようだ。「狂人日記」や「阿Q正伝」などは、1980年代以降の一人っ子政策導入後の子供たちには、遠い存在のように感じられるのだろう。

彼の作品の役割は、文革を境にして終わってしまったのだろう。文革で持ち上げられた反動もあるかもしれない。私たちは、文革が中国と周辺国に与えた影響、投げかけた問題を、30年経った今、吟味再考することが、必要だと思う。なぜなら、あれほど魯迅が攻撃否定した「孔子を神に祭り上げて、国民を縛ってきた儒教」の古典が、ぞくぞくと復活、現代訳と解説をつけて、出版され、ベストセラーにさえなっているからだ。

10.

1949年から文革開始までの20年間は、共産主義という西洋から輸入した思想を掲げて、国づくりをしてきたのだが、やはり旧社会の伝統が、むくむくと息を吹き返してきた。党と政府の官僚たちは、特権を握り、エリートとして、旧社会の役人のような暮らしをするようになっていった。立派な家に住み、外国訪問なども、はでに行っていた。有産階級がより多くの富を手中にした。

首都北京から全国の津々浦々まで、毛沢東思想を宣伝し、共産主義の理想実現のために、「人民公社」に代表される「無産階級」社会は、人々の生産意欲を減衰させ、成り立たなくなってしまった。

文革中に中国を訪問したとき、我々を接待してくれた党の幹部は、当時、唯一の友好国であったアルバニア産のタバコを差し出して、私に勧めた。当時欧州の品物はアルバニア産以外、殆ど無かったほど、孤立していた。ソ連でも既に、フルシチョフの修正主義でないと、社会が回らなくなっていた。

毛沢東とその取り巻きたちは、「無産階級文化大革命」を起こして、無産階級者の手に、ふたたび中国の大地を取り戻そうとした。動物から進化した人間の生活は、穀物を植えたり、家畜を飼ったりして食糧を生産し、進化してきた。先に述べたように、鉄で生産手段を改善し、より多くの生産をあげて、それをテコに農耕地域を広げて、個々の種族が「財産」を私有するという欲望が引き金となって、より豊かな社会に発展してきた。そうした財産を「無産階級」の手に取り戻そうと試みたのが、文化大革命の一面であった。その裏には、どろどろとした権力闘争やら、怨念やらが一杯つまっていたのだが。

全国の有産者から、家産をすべて取り上げた。天津の大邸宅に住んでいた、梁さんのような有産階級は、産を私有していることを「自己批判」させられた。そして、辺境の農場に送られ、罪名をかぶせられて牢に繋がれた。

「無産階級文化大革命」とは、まさしくこの中国の大地を、またぞろ復活してきた、旧社会を支配してきた有産者たちの手から、取り戻すことだ。更に言えば、彼らの蓄えてきた財産をすべて取り上げて、無産者に配分することであった。梁さんの家も、数家族に配分され、彼が牢から戻ってきたとき、唯一残されていた、狭い離れのような小部屋に姉と二人で住むことを許された。

11.

こうして一旦は有産階級を追い出して、無産階級の手に戻ったかのように見えた中国の大地は、林彪や四人組などが、支配権を巡って、さらに泥沼に陥ってしまった。71年に林彪が毛沢東暗殺に失敗し、ソ連への脱出を謀ったが、墜落死し、72年にニクソンと田中角栄が訪中して、中国は孤立から脱却した。

1976年に、周恩来、朱徳、毛沢東などが、相次いで他界し、四人組も逮捕され、文革で政界から追放されていた、旧幹部たちが呼び戻された。といっても、ことはそう簡単には運ばなかった。

私は周恩来の死後、北京に出張する機会があった。北京飯店の東、王府井の「人民日報」のガラスケースに展示された周恩来の葬儀の写真を見たとき、鄧小平の姿が、数名の幹部の中にあった。翌日、友人を誘って見に出かけたときには、彼の姿はすっぽりと消えていた。それから半年ほどして四人組が逮捕されて、彼は本当に復活した。

「白い猫も黒い猫も、ネズミをとる猫はよい猫だ。」という四川の俗諺は、振り返ってみると、文化大革命の起こる前の1962年に,もうすでに言われていた。ということは、1949年に建国して10年ほどで、請負生産でないと、中国の農民は飢え死にしてしまうという現実に直面していたのだ。黒が資本主義、白が社会主義とすると、資本主義でも社会主義でも、農民の穀物生産がなければ、民は飢え死にしてしまう。社会主義の思想面からは、合法的でないものも、合法的にして、経済発展を目指す。さもなければ、多くの民が飢えてしまうほどの飢饉に見舞われていた。飲食男女は人の性だという欲望が進歩と発展の原動力だという、漢民族の伝統を一方で否定しておいて、増産に励めというのは農民たちにはとてもついていけない、大きな矛盾であった。

新中国になって、国民党時代の大地主を兼ねていた官僚から農地を取り上げて、国有とし、合作社とか人民公社という組織にその任用を委ねた。だが、農民の戸別には何の私有財産も与えなかった。このことが理想と現実で大きなギャップを生んだ。

12.

もし、62年の時点で、人民公社でなく、請負制が本格的に導入されていたら、10年の災厄から免れたかもしれない。10年間の文革で有産階級の財産をすべて取り上げ、そして戸別の請負制にしたのは、戦後日本の農地解放に準じるかもしれない。中国の大地には「所有権」は無い。「使用権」だけが農民や生産企業に付与されている。

ただ、改革解放後、農民に分けたはずの土地を、召し上げて、開発区とし、工業団地とし、住宅団地として、役人の息のかかったデヴェロッパーに払い下げて、莫大な不動産と富が一部の人間に偏在するようになった。

彼等は、自分で製造業を起こして、その販売で収益をあげることよりも、国の土地使用権を、コネや賄賂を使って廉価で入手し、そこにマンションや商業施設を作らせて、そこから出る上がりで稼ぐことの方が、性分に合っているようだ。製造業よりもずっと得意の分野のようだ。

今日ではマルクスの資本論は、欧州の資本主義の発展の次の段階としての「空想」的理論で、資本主義社会を経ていない ロシアや中国での適用は無理があった、という発言が力を得ている。今、西欧はEUとして国境が消されつつある。ある面で、社会主義の方向に向かっている。バンカーの年収制限を打ち出している。アメリカも皆保険という社会主義的方向も模索しており、日本も自民党のやり方が否定された。

中国では国民の多くが、今までの政府の経済政策は、資本主義に近い市場経済だったが、これからは保険、年金などの社会主義的制度を取り入れてゆかねば、貧富の差が益々拡大して、社会不安が起こるという。

中国には、イスラムやチベット仏教などの信仰に篤い人たちは2億人で、残りの11億人は無信仰者という。全世界の12億人の無信仰者の殆どが中国人だと。だから儒教のようなものが必要で、さもないと善悪を判断する基準を持たない国民ばかりとなる。

魯迅が否定しようとした儒教を肯定しようとしている。

孔子の生誕祝いが9月末に世界中から孔子の末裔が集まって、曲阜で行われた。だが、台湾に逃げた直系の一族は、中国の招きに一切応じていない。

2009.9.30.大連にて 

拍手[0回]

天津のコンプラドール その9

 

天津のコンプラドール その9

1.

豪ドル先物取引で、栄智健氏が百億香港ドル以上の損を出し、みずから創設し、北京のCITIC本部から独立した中信泰富即ちCITIC Pacificのトップの座を 4月に追われたことは、先に述べた。その彼が、9月8日、中国の不動産と金融を扱う会社を個人名義で作り、再起を図ると発表した。上海を中心にというが、日本のバブルと同じ現象が起きていると思われる上海で、再度不動産中心に事業展開して、大丈夫かとの懸念する報道が多い。しかしやはり上海なのであろう。彼が青年時代を過ごした、彼一族の出発点なのだから。

この会社は、CITICグループと競合する形ではなく、CITICとの協力を排除するものではない、と発表している。彼は香港の投資家たちの金を集めて、ふたたび大陸の不動産に賭けているようだ。彼の経歴と人脈を使って大陸に投資したいという香港の資産家も多いのだろう。

4月に退任させられた時、周囲はこのままでは終わらないだろう。いずれは、捲土重来するに違いない、と観測していた。退任後、保有するCITIC Pacificの株を段階的に売却し、15億香港ドルの資金を作った。さて、これから彼が上海中心に展開するという不動産、金融業が一般投資家の目にどのように映り、どのような展開を遂げるだろうか。

富は三代続かない、という揶揄を跳ね返して、中国語でいうところの東山再起できるかどうか、見ものである。香港の資産家たちは、彼のブランドと北京政府とのコネクションを使って、彼の会社に投資することに、賭けてみようとしている。香港人特有の楽しみ方、投資のやり方を見るようだ。

マスコミは、国と株主に大損をさせておいて、またぞろ何だ、と辛口の批判が多い。が、北京政府の支持さえ取り付けられれば、儲かる仕組みは、いともたやすくひねり出せるだろう。為替さえ失敗しなければ。その為替も、1年前のリーマン ショックさえ無ければ、こんなことにはならなかった。

豪ドルも人民元に対し、年初比40%も切り上がった。為替とは本当に恐ろしいものだ。天津の梁さんの父も、為替では失敗した。彼を育ててくれた唐景星の招商局での鉄道石炭などの事業展開で、結局は、清朝政府から横槍を食らい、没収されたり、英国資本に買収されたり、次から次へと押し寄せる苦難に鑑み、いわゆる洋務運動事業には手を出さなかった。だが、不動産と金融については、積極的だった。天津の英国租界にもあまたの不動産を取得し、租界外の中国内地にも手を広げた。その不動産会社も登記上は香港に置き、買弁仲間の出資を募り、リスクを分散するとともに、大きな資金を集めた。為替に失敗しても、すぐ又不動産に投資して、取り返すという精神は、中国人の骨の髄まで滲みているようだ。

2.

北京から張家口に鉄道が敷設されると聞くや、鉄道駅予定地に広大な土地を買収し、鉄道会社に対して、駅舎用の広大な土地を貸付、駅前通りの周辺に旅館や商業区、歓楽街を作った。そしてその外周に大型の住宅団地を建設した。株主には天津在の英国人弁護士の名を借りて、政府に取り上げられないようにした。

鉄道の要衝として張家口が発展するとともに、彼の懐には莫大な資金が貯まった。それを長い間、彼は外国の銀行に預けていたが、あるとき魔がさしたのか、中国系の銀行から「定期預金」にしたら、非常に高い利子をつけるという勧誘に乗ってしまった。それに味をしめて、低利の外銀への預金を殆ど中国系銀行の定期にしてしまった。暫くして、為替の大暴落が起こった。高利を狙って、長期預金にしていた梁さんは、莫大な損失を蒙ってしまった。

為替というか、通貨の変動というものは、一旦潮の流れが始まると、その動きは誰も止められない。もうじき戻るだろうと待てば待つほど、行き着くところまで行って、損を出しつくした頃に、反転する。株は紙くずになることがあるが、それは持ち分限りであるのに対して、為替は限度が無いから、底なしの泥沼にひき釣りこまれてしまう例が多い。

梁さんの父は、株や不動産など、ジャーディンの買弁の仕事以外に、多くの金融、債権売買でいちども失敗したことは無かったが、為替では大損を蒙ったという。それにもめげずに、また不動産への投資を続けたそうだ。戦前の中国に、大地主が沢山の農奴的な小作人から搾取してきた、その源泉は土地である。

大地主の土地の囲い込みが、際限なく繰り返されて、共産革命の引き金となったのは、周知のことだが、今また農地の囲い込みと、都市近郊の土地の囲い込みが、始まっている。いずれも使用権という名目で、国有であることには、違いないのだが、50年の使用権の切れた後は、どうなるのだろうか。

3.

栄氏の話から、梁さんの不動産の話をしていたら、友人から温家宝氏の娘が、大連でここ十数年間に急成長してきた大連実徳の徐総経理と結婚していたという話を聞いた。大連の友人に聞いたら、「確かにそうだよ。彼が北京に遊学している頃に、誰かの紹介で、結婚したけどもう別かれたという話だ。」「温首相が偉くなる前じゃないかな」という。

その友人が、人から聞いた話では、温という姓は昔、フィリピンから大陸に戻って来た人たちに多い姓だという。その8で触れたが、北方の種族が中原を征服し、そこにいた部族が南下した。南に住んでいた部族は、人口が稠密になったので、更に南や海の向こうに渡っていった。だがそうした人たちも、そこで成功して、また大陸に戻ってきた、という話だ。

中国の古代史に詳しい顧頡剛氏に依れば、古代中国は、いわゆる黄河流域の東西間の種族間争いがしきりに繰り広げられた。その結果、西の種族が東に攻め込んで、その鉄器などの文明が、山東などに伝播した。そこで鉄と塩とを併せもった山東地域の種族とともに富を築き上げていった。その富を狙って東北にいた種族が、攻め込んできたので、今度は北と南の間に争いが起こり、長い時を経て揚子江から更に南の方に下っていったそうだ。欧州のゲルマンの大移動を彷彿とさせる。こうして南北の文明が混合していった。鉄や穀物などを沢山生産して余力の出来た種族が、地域を拡大していった。古代中国人の地域拡大は、富を求めるものと、それに追われたものとが織り成した、綾錦の如くである。富を得た者が、その資金で更に広い地域を獲得してゆく。なにやら、栄氏の香港移住から上海への再投資など、思考と行動は不易の如しだ。

従来から南に住んでいた人々は、ベトナムや雲南、フィリピンなどに出て行ったという。19世紀以降でも、人口が稠密となった福建や広東から多くの華僑が南洋やハワイ、インド洋の島々にも移り住み、私がシンガポールで寄寓していた張さん一家も、祖父がインド洋のセーシェルで成功して、彼をシンガポールの学校に留学させて、卒業後はシンガポールに定住し、書店、印刷会社を起こし、広東省梅県からも親戚を呼び寄せて、数家族で暮らしていた。梅県は客家の出身地として有名である。

4.

余談だが、南方の華人の行動範囲の広さについて、筆者の経験から少し引用したい。ジョン万次郎は漂流の結果、アメリカ東海岸まで連れてゆかれて、そこで英語を勉強して、また東洋に戻り、島伝いに日本に帰国を果たすことができた稀な例である。

一方、福建広東からの移民たちは、自分の意志からというのもあったが、多くは、人狩りにあい、或いは人口稠密になった結果として、南洋やアメリカなどに連れて行かれた。そこで成功をおさめて、故国に錦を飾った華人が沢山いる。広東省の仏山市には、大良という街があり、そこの一番にぎやかな通りは、両側はまるで、サンフランシスコの金門橋の畔の建物のような洋館が櫛比している。その一軒、一軒は、アメリカで成功して、故郷に戻ってきた人たちが建てたものだ。アメリカでは住めなかったような洋館を建てて、余生をそこで暮らした。隣のだれそれが、洋館を建てたとなると、それ以上に豪華なものを競うようにして次々に建てられたという。

シンガポールのゴム王といわれた、陳嘉庚(タン カーキー)はアモイの生まれで、そこに集美学院を作り、アモイ大学を開校して、林語同や魯迅を教授に招いた。1926年ごろの魯迅のアモイ時代の日記に、私の尊敬する歴史家顧頡剛氏の名が出てきた。顧氏から彼の著書を贈呈された、とある。二人とも北京で教鞭を執っていたのだが、北京を去らねばならぬ理由もあってか、同じ頃にアモイ大学に招聘された。魯迅は短期間で文通相手の許広平のいる広州の中山大学に移っている。顧氏も同じくアモイを去って広州に向かった。

5.

人の縁とは奇遇なものである。シンガポールの南洋大学に留学していた私は、大家の張さんが、ジョホールの錫の鉱山に投資していた。その後私はペナンの英系資源会社から、相場リスクを分散するため、錫を毎日5トンずつ買い付ける役目になるのだが。彼はある日、私の見聞を広めさせてやろうと、日曜の朝早く、張さんが運転するベンツの助手席に座って、シンガポールとジョホールの海峡にかかるコーヅウエイの国境をいとも簡単に通過して、2時間ほどの距離にある錫の採掘場に着いた。共同出資者たちとの話は、客家語で、北京語に比較的近い音もあるそうだが、私にはよく理解できなかった。どうやら錫の値段が下落しているので、しばらく閉山してはという話だった。華人の投資家たちは、ものごとの基準を儲かるかどうかで、即断するので、鉱山でも、電気炉でも相場が下落して儲からなくなったら、すぐ従業員を解雇して、会社を清算する。この辺は歯を食いしばってでも、雇用を守ろう、会社の名前を存続させようとする日本人的発想とは、180度違う。彼等は再開するときは、また別の名前でやれば良いという。

大きな竹ザルで錫を洗鉱している労働者たちを、解雇せねばならぬという話しであった。帰りの車中で、張さんからもうあの錫山の出資は引き揚げると聞いた。ゴム園とか錫などの相場商品に投資してきた彼等にとっては、出資もその引き揚げも日常茶飯事で、解雇した労働者も、次はパームオイルの農園とかに流れてゆく仕組みができていた。

大陸から南洋行きの貨物船の船底に豚の子のように詰め込まれて、マレー半島に連れてこられたクーリーたちが、ゴム園や錫のとれる大きな水溜りのような選鉱場の横の、粗末な掘っ立て小屋で暮らしていた。最初は英国資本が、おびただしい数のクーリーを雇ってきたのだが、戦後になって、華人の資本を蓄えた者たちが、新しいゴム園や、錫鉱山を開いて、大陸から大量の労働者を連れてきた。英国人に使われるよりは、同じ民族のボスの下で働く方が、安心だとも聞いた。労働条件やすぐ解雇などでは華人の方が過酷であったが。

6.

ここ数日、建国60周年を記念して、当時の国慶節やその前後の記念式典のラジオ放送のアーカイブス特集をしている。今年は10周年ぶりに天安門の軍事パレードが開かれるそうだ。今年は、陸軍の歩兵のパレードは少なくし、近代装備の機械軍団が主だという。私が始めてこの広場を訪れたのは、1968年の夏であった。シンガポール華僑が建てた新僑飯店を早朝に抜けだし、自分の目でその広さを確かめようと見に出かけた。当時は毛主席記念堂など何もなく、とてつもない広さに驚いた。天安門の左に、毛沢東と親密なる戦友、林彪の二人が寄り添うように並んだ、でっかい写真が掲げられていた。

日本で8月15日に、天皇の「玉音放送」が流れるように、毛沢東のやや音程を外し、感きわまったような「中華人民共和国」のあと少し間をおいて「成立了」という声が何回も流れている。地主、軍閥、官僚などから、農地を小作人の手に取り戻すことができたという響きが伝わってきた。しかし、取り戻したはずのものが、また一部の特権階級のところに戻ってしまっていた。

国名について、人民の後に、民主という言葉を入れるか入れぬかで、大議論があったというエピソードも紹介されている。隣の北朝鮮の方が先に建国したのだが、あちらの方は、人民民主主義という。中国では、人民という言葉がある以上、これは王侯の国ではない。人民の国であり、人民という字だけで、民主、即ち民が主の国を意味するから、不要だという結論になったという。今も政治協商会議に参加している幾つかの党を民主党派と呼んでいるから、彼らの党には人民の2文字はない。民主党派が国民党を見限ったから、百万の共産軍が、八百万の国民党軍を打ち破ることができたという。

話は飛ぶが、最近、彼のことをかなり自在に話せるようになった中国人が増えている。「私は彼が嫌いだ。」という人も多い。北朝鮮支配者の言動、振る舞い、核実験への固執などを見ていると、60年代の毛沢東を思い出して不愉快だとまでいう。二人とも、米国と対等に渡り合わなければ、自分たちの存在が危ういと感じていたのは、よく似ている、と。その二人の下で切り詰めた生活を強いられた国民は、かわいそうだ、という。戦後になっても、正夫人以外に何人もの女性と暮らしたということまでが、伝わっているのも、いやだという。

7.

大分前のことだが、数名の中国の人たちと会食していて、「君、中国で女房のことを愛人と云い始めたのは、何時ごろからか知っているかい」という話になった。私たちが中国語を学び始めた頃は、この愛人というのが、夫人、女房の意味で使われていて、何の疑問も持たなかったが、文字の国、中国で愛人という言葉が使われ始めたのには、何か訳があるのだろうとは感じていた。

日本語で自分の女房を「愛人」と呼ぶ者はいまい。我が愛する人、という意味で、我愛人、と中国語でいうのだが、彼の愛人というと、奥さんのことか、そうでないのか、困ってしまうときもある。

彼は、杯を傾けながら、語りだした。

「愛人とはねえ、共産党軍が国民党軍に追われて、延安まで逃げ延びたあと、使われ始めたという説があるのよ。君も知っているように、毛沢東も横穴式の洞窟みたいな部屋に住んでいたのだが、彼の洞窟には江青が一緒だったのさ。

それで、彼の部屋に一緒にいる女性をどう呼べばよいか、ということになった。結婚しているとは聞いていないので、夫人を意味する太々とは呼べない。どんなものか思案投首。ある男が、愛人ではどうか?と言いだしたのが、始まりなのさ」。

当時の多くの党員は、封建時代の慣習で魯迅などもそうであったように、若いときに、親の決めた相手と結婚していた。そして夫人は両親と一緒に暮らして、家を守ってきた。それで、都会に出て革命に身を投じた党員たちは、故郷には戻れない。故郷から遠く離れて暮らすうちに、新しい伴侶を見つけて暮らすようになった。

ドイツ共産党から延安に派遣されてきた、中国名李某という男も、周囲の仲間が、女性と暮らしているのを見て、自分も欲しいと要求してきたので、党は彼にも紹介したという。それを見た若い兵士は、共産党もそういうことをするのかと、最近になって公にしている。「飲食男女人之性也」とは孔孟のころからの句で、食欲と性欲は人の本性だという意味だ。共産主義も是を否定しない。

8.

吉川幸次郎は、彼の著作のなかで、正夫人以外をすべて「妾」と書いている。王朝を継ぐ皇帝はたいがい妾腹が多いし、その方が王朝も永続するというのも、おもしろい現象である。かつて女性には「妾願望」というものがあって、正夫人から権力を持つ男を、自分の魅力で奪い取ることに、あやしい魅力を感じるという。動物の世界でも、より大きくて力の強いオスに鞍替えするメスが多いし、それが生存競争に勝ち抜き、より強い子孫を残すための本能だとも言われる。

魯迅研究で有名な藤井省三氏も魯迅と許広平の関係を、現代日本なら「不倫」という関係になると述べている。正夫人以外との関係は、今日ではそうなる。が、昭和の20年代までは、特別「不倫」とか何とかは言い出すものも少なかった。もちろん、谷崎潤一郎と佐藤春夫の例の関係や、有島健郎のように文人のそういう方面での言動は、報道もされたが、政治家や企業家たちの行動は黙認というか、21世紀の今日のごとくに、やかましく言われなかった。

当時の人間は現代よりも男女関係についてより自由奔放であった。いわゆるプロの世界とか、芸者の世界というのが公然とあった。人倫にもとるとか、という意識は薄かった。漱石すら、京の祇園のお茶屋で倒れて、無様なかっこうを東京から駆けつけた夫人に、なじられていることを書いているが、それとて、なんでそこから移動しなかったのか、という面が強い。

1956年に、魯迅の遺体が30年前に葬られていた上海の万国公墓から、虹口にある魯迅公園に移すときのアーカイブも放送された。新中国の偉大な精神的闘士として「魯迅の国葬」が行われたのだ。魯迅の愛人であった許広平の声が聞こえてきた。北方にも住んだことのある彼女だが、やはり南方なまりは消えてはいなかった。

彼女は彼女を愛した魯迅が、国葬されるのを「光栄」だ、と話しているが、本当のところはどうだったのだろうか。当時の政治的な潮流の中で、政治的に利用されているということは感じていなかったろうか。前年には、白話文学の先駆者、胡適を徹底批判する運動が全国的に展開されていた。

魯迅も多くの友人、知人に見送られて葬られた、多くの友人がともに埋葬されている万国公墓にいた方が、居心地がよいと感じてはいないだろうか。毛沢東の言う「もっとも硬い骨を持つ文芸戦士」と神のごとくに祭り上げられてしまった。文革中にはいたるところの公園に彼の有名な「眉を横たえて、冷ややかに対す千夫の指 云々」という句が建てられ、何種もの切手にもなった。

 (つづく)

拍手[0回]

天津のコンプラドール 8.

    天津のコンプラドール 8.

1.

 9月8日、今年の日中韓首脳会議が、10月8日に天津で開催の方向で、調整が進んでいるとの一報があった。昨年は麻生氏の関係で、福岡で開かれた。

今年は主催国の温家宝首相の故郷 天津で、ということだそうだ。

 2007年4月「氷を溶かす旅」として、両国の「友情と協力のために」日本を訪問した温家宝首相は、日本の国会で演説した。私自身もその演説が、彼の心の底から発していると感じて、感動を覚えたことである。

翌日に彼が記者団を前にして、「演説の後、すぐ(天津の)母親に電話をしたら、(90歳近い母が)“息子よ、本当にいい演説だったよ”と私を褒めてくれた。」と語っていたことが、強く印象に残っている。その時の彼の弾んだような中国語が、今も耳の奥から聞こえるようだ。

 どうして、彼は日本の国会での演説を終えたすぐ後に、母親に電話をいれたのであろうか、とちょっと不思議な気もしないではなかった。日本に出かける前に、母親に国会で話すことを、告げて来たのであろうか。彼と略同じ年齢の66歳に6度目の渡航で、殆ど失明の状態で、やっと日本にたどり着いた鑑真和尚のことを、演説の中で2回触れている。1942年天津で生まれた彼は、当時65歳で、母親は日中戦争が激しかったころの天津で、日本人とのいろいろな軋轢、風雪に耐えて、生きてきたのであろう。日本との戦争中に日本人が占領していた天津で、彼女はどのような生活をしてきたのであろうか、と想像してみた。

 2009年3月に、温家宝首相は、インターネットでの国民との対話の中で、

彼女のことに触れている。彼は子供のころ、母親から「どんなひとに対しても、自分の気持ちをこめて話すように。」と教えられてきたそうだ。

彼の母親は、教育関係の仕事に関係していたのであろうか。その母は、90年の風雪と滄桑の歴史を乗り越えて、自分を育ててきてくれたのだが、数日前に脳梗塞で倒れ、両目が失明に近い状態になってしまったと、ネットの庶民に語っていた。

2.

 私の手元に、9月7日付けの大連新商報の切抜きがある。片面では、新疆ウイグル自治区で、注射針事件を抑え切れなかった、同自治区トップの共産党書記の解任を求める漢族のデモに起因して、胡錦涛主席が、即刻、書記と公安のトップを更迭した、と伝えている。

 その隣に、総理就任以来、いちども欠かさずに「教師の日」の前には、学校を訪問し、教師たちとヒザを交えて懇談してきた温家宝首相が、9月4日に北京市の第三十五中学の2年五組の最後列で、40分単位の授業を5科目聴講し、ペンでノートを取っている写真と記事が掲載されている。

 見出しは「永遠に学生」、記事の概要は、彼はどんな多忙なときでも、「教師の日」の数日前には、フルに1日の時間を捻出して、学校訪問を欠かさず実行してきた。教師からいろいろな改善提案を聞き、それに対して彼の意見を丁寧に答えた、とある。その後の新聞発表として、「一国の将来は、教育を重視しているか否かにかかっている。教育を重視しない国に将来は無い。(中略)今年から(注;中国の新学期は9月から)全国各地の義務教育段階の教師の給与は、

その地区の公務員の水準を下回らないことを保障する。」と発言している。

 日本のテレビでもかつて紹介されたように、中国の地方、奥地の教師たちの生活は日本人の想像を絶するものがある。言語に表せないほどの貧困の中で、

本当にわずかな給与にもかかわらず、師範大学を卒業したばかりの教師たちが、

2年、3年という年限を区切って、奥地、農山村の子供たちを、一人で教えている。片道1時間、2時間かけて通ってくる子供たちに、昼食をも準備しながら、真心からでなければ決して勤まらないような環境にもめげずに、教えている。

 これまでは、彼ら彼女等の給与は同地区の公務員の水準から、ほど遠かったのであろう。それを今年から下回らない、と保障したのだ。

私は、そんな山奥の村に、自ら足を踏み入れたことはないが、広東省の田舎に出向いたとき、町の役所が、あたかもアメリカの議事堂を模したような、白亜の建物であったのに、そこからさほど離れていない場所の学校が、とても貧弱であったと、違和感を覚えたことがある。

 そんな役所に勤めている公務員たちも、毎月の給与はたかが知れている。しかし、給与外の収入が、その何倍にもなるのは、中国人なら誰でも知っている。山村の義務教育に従事する教師たちには、縁のないものである。友人にこのことを話したとき、彼の反応は「そりゃ田舎の教師は、誰もなり手がないんだが、北京や大連などの教師は、副業に堂々と、塾を開いては給与の何倍もの収入を得ているし、子弟たちの親から、入試にうまく成功したら、大変な謝礼をもらっているよ。だから、よけい田舎に赴任する教師が少なくなるんだ。」という。

3.

 温家宝首相の発言は更に続く。

「大学教授を尊重するのと同じように、中小学校の教師を尊重しなければならない」と。「この社会で、教育が一番大切だということを、大いに力をいれて宣伝し、(中略)この世の中で教師が最もひとびとの尊敬を受ける職業で、もっとも羨慕に値する職業にしなければならない。」と訴えている。

 私はこの発言の一部を、朝の散歩のときのラジオニュースで聞いて、感動したが、実際には残念ながら、そうでなくなりつつあるということを、認めざるを得ないのだ、という厳しい現実を認識しているのだということが、伝わってきて、づーん、ときた。

彼が小学生だったころ、彼の母親と同じような年齢の教師たちが、彼に対して、真剣に教えてくれたことを感謝し、それをかみしめながら、一字一句を発言していると思った。

 日本でも、オリンピックの開催された1964年ごろを境に、戦前からの教師は「聖職」という使命感を持って教壇に立っていた先生が、減少してゆき、「でもしか教師」という言葉が、登場しはじめた。中国も昨年のオリンピックを節目にして、日本が歩んだ道を歩むことになるのだろうか。

 大都市の教師の収入が高くなればなるほど、師範大学の卒業生は大都市に残りたがるようになり、田舎の学校には誰も行きたがらなくなるのは無理もない道理だ。温家宝首相の言うように、「ひとびとの尊敬を受ける教師になるよりは、人より高い収入を得るために大都市の教師になる、という流れは阻止できない。」それが、彼の心を苦しめているのだ。儒教2千数百年の伝統の中国で、‘師’となること、‘師’に対する尊敬の念は、世界の中でもっとも高い水準にあった国で、師となるよりも、より収入の高い職業に就かせるべく、世の親が血眼になっている。その結果、子供たちが、より有名な大学に入ることを最大の目標とし、学校の教師たちも、教え子たちの内の何名を有名大学に入学させたかを、教師の技量、成績として競っている。

4.

 今年の6月の大学入試で、大量の不正が発覚し、役人と教師たちによって点数が操作されたというのは、科挙の長い伝統をそのまま受け継いだものである。

「舞弊」という中国語がある。不正を働いてでも、目的を達するという意味で、魯迅の祖父ですら、なかなか科挙に合格できない息子のために、これをしたということで、牢に繋がれた。試験会場で、優秀な受験生の答案を横取りして、そのまま写すなどということが、横行している。

カンニングという言葉そのものの行為が、至るところで行われている。その最終目標は、役所に入り、官について、給与の何倍、何百倍もの収入を得るためという。その子供たちの背中を一生懸命に押しているのは、父親よりは母親が圧倒的に多いという。これは何も中国に限ったことではないが、昨今の新聞報道で、毎年数千人の収賄容疑者が、処刑されているが、少額の収賄は別として、大金、それも何千万、何億元というような金額の収賄犯の多くは、夫人とか家族の口利きによるものが、多いという。

 本人の物欲金銭欲はそれほどでなくとも、一定以上の高官に就任するやいなや、夫人のところへ、たいへんな贈り物が届く。将を得んとすれば、馬を射よ。である。送る側の狙いは正確無比である。必ず目的を達成する。

  小倉芳彦の「古代中国を読む」という本には、古代中国では、賄賂は、決して今日のような罪悪とは考えていなかった、とある。王と貴族の間の絆をしっかりとしたものにするためには、自分の身分や地位を保障してもらうために、最高級の玉の宝飾を、賄賂として王に贈るのが慣わしだったという。

 毒薬で殺されることになった男が、執行人に賄賂を贈って、その毒薬の濃度を薄めてもらって、毒殺から免れたという逸話を引いている。

 それがだんだん時代ともに変じて、今日では官位を引き上げてもらうため、あるいはより大きなビジネスを獲得するために、贈る様になったのだ。

5.

温首相は母親の薫陶を受けて、人に話をするときも、心をこめて話すように教育されてきた。その母親が、自分が日本の国会での演説を、天津の自宅で、同時中継テレビを通じて、聞いていてくれた。演説後すぐ電話したのは、「永遠に母親の子」であることを示している。なによりも真っ先に、彼女に電話して、どうだった、と感想を求め、「とてもよかった。いい話だったよ。」と褒めてもらって、翌日、記者たちに話さずにはおられないほど、うれしかったのであろう。高倉健の随筆「あなたに褒められたくて」の通り、彼は母に褒められたくて一生懸命、生きてきたのだ。

 彼は、素晴らしい母親に育てられて幸せであった。文化大革命中、甘粛省に長いこといて、離れてくらしていた。そんなつらい生活も、母親に褒められたくて、一心に金槌を握って、地質調査に励んだのであろう。

 現代の小中学生たちを見ていて、自分たちが親や教師たちから受けたものを今日の子供たちが、経済的にはすごく発展したのに、過去よりもよい環境で教育を受けることができていないということが、彼の心を痛めさせているのだろう。

私の会社から家までの間に、6階建ての大きなビルの中学校がある。5時半ごろ、仕事を終えて、その付近にちかづくと、3車線の道路のうち、2車線が、下校を待つ親や、関係者の出迎えの車で一杯になる。高学年になっても、親が車で迎えに来るというのは、一体ぜんたいどうしたことなのであろうか。

 中には、徒歩や自転車で帰る生徒もいるが、やはり進学校に入学させるために、遠方から通っているものが多いのであろう。日本のように電車が発達していなくて、通学には車しかないという面もあるが、中には高校生までも車の送迎が見られる。アウディとかベンツもあるし、殆どは新しい車だ。

6.

天津のコンプラドールその2を書いていて、気づいたことだが、広州近郊の例えば、仏山とか順徳あたりに科挙の進士をたくさん輩出した書院を見学したことがある。明の万歴のころ、状元となった黄士俊が建てたといわれる立派な書院で、清暉園という。もちろん広州市内にもそのモデルとなったような立派な書院がいくつかあるが、広州から車で1-2時間も離れたところにも、科挙に合格した人間が沢山いたとの説明書が展示されていた。

炎暑の広東でも、北方より多くの進士を出している。北方や西部地域は、武器を作る鉄の生産が盛んで、武力で統治するのに力を発揮してきた。一方、北部の人間が中央に攻め込んで、ドミノ倒しのように南方に追われてきた人たちは、広東に住みついた。中には客家とよばれ、体力的にも北方にかなわないので、一生懸命勉強することで頭角を現そうとした。文天祥などもそうだとされる。清末に活躍した梁啓超は客家かどうか知らないが、孫文たちは客家だといわれている。

閑話休題、科挙の制度が廃止されて、広東の多くの青少年たちは、役人になる希望は捨てて、英国人が開いた香港の英語学校に寄宿し、英語や近代的な西洋の学問を学んで、広東にもどり、ジャーディン社の総コンプラドールであった唐景星たちのような人たちに率いられて上海や天津のコンプラドールとなっていったケースが多いと感じたことである。広東香港は科挙廃止後のコンプラドールの養成所であった。前にも触れたが、唐氏は、後輩のために、ビジネス英漢辞典を編集し、上海に「格致書院」という学校まで作って、子弟の教育には大変熱心であった。

梁さんの父も教育にはとても熱心で、天津では屈指の金持ちなのに、広東幇の中では‘吝嗇でもナンバーワン’と言われていたが、妻妾との間にもうけた沢山のこどもたちにはみな最高の教育を受けさせていた。教育費は一切惜しまなかった。教育が、故郷を離れて働く広東人の最大の拠り所だと信じていたのだろう。

 7.

 そんなことを考えていたら、一人っ子政策の結果、車で送迎されて育った世代から、20年後の中国の将来を担うことのできる人間が育つであろうか、と心配になってきた。日本には、自国の学校には入学できず、外国の大学へ行って、英語は上手く話せるよというだけの政治家は何人かいるが、そんな人たちでは国難を乗り切ることは難しかろう、とも思った。

 9月7日、頼んでおいた本が届いた。人民出版社の「朱鎔基が記者の質問に答える」という表題で、1991年の副首相のころから、2002年に首相を退任するまでの12年間、内外のジャーナリストたちの質問に答えたものを編集した本だ。8月末に完成し、9月2日に発売された。

 457ページ、362千字で59元。この種の本としては、倍近い値段だが、初版は何部印刷されたのだろう。新聞に百万部は売れるだろうとの評があった。だが、朱鎔基氏本人の言葉は一切付け加えられていない。前書きも、何もいっさいない。彼自身はこの出版には何も関知しない。

 彼は首相退任後6年間、公の場から一切退いた。新聞記事から引用すると、

「彼は故郷の長沙に帰ることを拒絶し、従兄弟の書いた彼の伝記を読むことも拒絶し、中華詩詞協会の名誉主席就任への要請も拒絶した。」云々と続く。

 江沢民主席が、訪問先の求めに応じて、いろいろなところで、彼の名前を揮毫したものは、よく目にするが、朱氏のものはめったに見かけない。08年10月に山西省の平遥に出かけたとき、百年近く前の昔の役所の門に架けるための板看板に、地の人の求めに応じて揮毫したのを始めてみた。それも彼が首相を退いてから2002年に夫人と一緒に、平服で観光に訪れたときのものだ。

その役所の名は「平遥県衙」という。百年ほど前にここを訪問したフランス人ジャーナリストが撮った、ここで行われた当時の裁判と腐刑などまがまがしい処刑の写真を展示していた。

中国のウオール街と呼ばれて、票号という自家の手形を発行するなどして、金融で栄えたこの街でも、貪官汚吏が毎年のように悪事を働いた。だがここの役人は彼等を厳しく処罰したことをこの展示品はしっかりと説明していた。彼はこの役所の展示に心を動かされて、「平遥県衙」という4文字と自分の名を書くことに応じたのであろう。自分の後任者たちが、是非ここの人たちと同じように、貪官汚吏をきびしく取り締まってくれることを切望して。

8.

 今回の出版は、どのような背景から出てきたものであろうか。6年間、一切公の場で発言してこなかった彼のことを取り上げるのは、きっと何か訳があるに違いない。彼は一言もコメントしていないが、12年間の彼の言動は、とりもなおさず政治的なものである。

 芭蕉は「奥の細道」の手稿を何回も何回も白い紙を貼って書き直し、推敲に推敲を重ねて完成に近い状態になった。周囲の人たちが出版をと持ちかけたのを、きっぱり拒絶している。生前には公にしてくれるな、という意思表示であった。朱氏のこれまでの姿勢は、この芭蕉の心情を髣髴とさせる。弟子たちは、芭蕉の作品のすばらしい出来を、世の人に分かち与えたいと考えてもいただろうが、これによって名声を更に高めて、出版で収入を得ようとする輩もいたかもしれない。アメリカでは退任した大統領は、講演や回顧録を書いて余生のための収入を確保すると言う。

彼の伝記も、過去にも国外で沢山出版されて、好評を博してきた。しかし、彼は、そうした書物が中国で出版されるのを拒否してきた。

彼の記者への返答を読み進めてゆくうちに、私の心をぐさりと掴むことばにであった。 それは、2000年3月15日に行われた、第9次全人大の三次会議での記者会見のときであった。デンマークの記者が民主的な選挙の実施などの質問の最後に、「総理、貴方の任期は既に半ばを過ぎましたが、貴方が離任した後で、中国人民が貴方のどんな点を、もっとも記憶にとどめておいて欲しいと思いますか?」との問いに答えたものである。

 「残りの任期は残すところ3年もありませんが、(中略)私は人民の信任に背かぬように力を尽くして(後略)」という文章の後、「只 私が退任した後、全国の人民がこう一言、言ってくれることを望んでいます。“彼は一個の清官であった。貪官ではなかった。”それで私はたいへん満足します。もし彼等が更に気前良く、“朱鎔基はやはり実際に良いことをやってくれた、と言ってくれたなら、私は天に感謝し、地に感謝します。」と。

 これは、先に質問を受けていて、原稿を予め考えていたものであろう。ことばの流れとしては、その場の勢いで、原稿から少し脱線しているかもしれない。

 彼は在任中も、離任後も他の政治家の場合によく耳にするような、子弟とか夫人とかが、外資系の会社に云々とか、という噂を聞かなかった。離任後も別のポストに執着して、官から縁が切れることを心配しなかった。逆に自らもとめて、官、公から身を遠ざけた。官にしがみついてきた貪官汚吏の前人たちの末路を、いやというほど見てきた男の生きざまであろう。

9.

 その彼の後を襲ったのが、温家宝首相である。彼は母親の薫陶と、前任者の身の振り方を、しっかりと自分のものにし、その先輩の影を慕いながら、仕事に励んでいるように見受ける。こうした首相が2代続くというのは、改革開放後の中国にとって、なによりのめぐみであると思う。

温首相は、前にも少し触れたが、夫人が宝飾関係に大変関心が強く、自分でも事業を経営云々と言う話が、伝わってきた。それで首相就任後に、離縁したという噂である。本当かどうかは知らない。多くの中国人は真実を知っているようだが、口外しない。彼の外遊に、夫人同伴を見たことはない。本当なのだろうか。そうだとしたら、大変な勇気と決断をしたものだ。

英国のエリザベス女王一世は、生涯結婚しないのかと尋ねられて、「私は国と結婚していますから。」と答えた。温家宝首相が、前任者のように、首相の職務に専念するため、身の清さを保つために本当に離縁しているのなら、それは中国という国と結婚するためと言えるかもしれない。それだけの覚悟で望まないと、13億人もの人間を抱える中国の首相は務まらないのだろう。

朱首相は、別のところで、「農民の収入の向上を一番に考えている。」と述べている。温家宝首相は、2008年に「農民が喜んで小麦栽培に取り組めるように、小麦の買い上げ価格を引き揚げることを決定した。」と発表したときの

彼の表情は、真剣だが、とてもうれしそうであった。先輩の気持ちを引き継いで、そしてまた自分の気持ちをようやく実現できたことのうれしさだろう。

一昨年までは、小麦の値段が、低く抑えられていて、河南省の広大な面積の小麦畑は種も植えられず、農民が都市に出稼ぎに行ってしまった結果、荒れ果てていた。それが、08年の4月に河南省を訪れたとき、開封で乗ったタクシーの運転手からも、今年はやっとここの農民も小麦を植える気になってよかった、という話を聞いた。ほんのわずかな引き上げだったが、農民にとっては死活問題であったのだ。

中国の将来は、温家宝首相が語ったように、教育の問題と農村の農民の生活水準の引き上げにかかっている。

10.

 最近、建国60周年の式典準備のために、多くの軍人に混じって、北京の青少年たちが、深夜に動員されて、パレードの練習をしている姿が、放映されている。

あと1月で国慶節を迎えるこの時期に、人民出版社が6年間も公の場で何も発言してこなかった、彼のことばを印刷したのは、どんな経緯からであったのだろうか。

 このなぞは、もう暫くしたら分かるかもしれない。とうぶん分からないかもしれない。この本が百万部とか2百万部、飛ぶように売れたら、中国は健全な方向に向かっていると言えるだろう。

 首相という大任を力いっぱい勤め上げたら、あとは無官でいたい、と願うのが、本当の気持ちだろう。清官三代ということばがある。これは清の時代の役人を指すことばで、当時は清官といわれた人は殆どいなかったのだが、清官ですら、三代は何もしないで暮らしてゆけるだけの財産を残した、と言う意味だ。いわんや、清官でない貪官などは掃いて捨てるほどいて、彼等はその何十倍、何百倍もの財を蓄えたのだが、さらにその子弟たちを、自分の後継に据えて、さらに輪をかけた貪欲な役人となっていき、1911年の革命で終焉した。

 現代中国の官たちの中で、朱首相の望んだこと、離任の後に、全国の人民から、彼は貪官ではなかった、一個の清官だったと言ってもらえれば、たいへん満足します、ということばを、本当に自分の気持ちとして言えるのは何人くらいいるだろうか。

 大都市の学校には、山村の分校で子供を教えることに喜びを感じていた教師のように清らかな人は、もはや数えるほどしかいない。

(完)

 2009年9月10日 教師の日に、大連

 

 

拍手[0回]

天津のコンプラドール 1

写真:唐山大地震後の天津南京路の路上一杯の掘立小屋: 1.
二十数年ぶりに天津に出かけた。北京空港から高速道路で2時間。市の中心を流れる海河の畔のハイアットホテルに着き、夕食の時間まで、昔住んでいた頃の建物を探しながら歩いた。当時は、唐山大地震の後で、大通りの両側は、掘っ立て小屋がびっしりと並び、家を失った人々が、体を寄せ合うようにして、懸命に生きていた。今も鮮明に思い出すのだが、片道三車線の大通りの半分は、倒壊した建物のレンガや木材を再利用したバラックで埋め尽くされていた。もちろん歩道も同じ状態なので、歩く余地もなく、私は人々と同じように、車道の端を歩いた。そのうち、一軒の板壁に手書きで、「此屋有病人、請粛清」とあるのを見つけた。「病人がいるので、静かに」の意味。
 暑い夏の夕日がようやく沈む頃、人々は近くの露天市場で買ってきた野菜を、
道路端の七輪で煮炊きしていた。水はどこから手に入れるのだろうか。市政府は、郊外に建てた避難住居に移るように公告を張っているのだが、多くの人は、
生活用水も無い路上のバラックから離れたがらない。郊外に出てしまうと、これまでの八百屋や肉屋からの食糧が入手できなくなる。郊外の臨時住宅には、ろくな食料品店が無い。それに仕事場からも遠くなって、通勤に不便だ。それらが、引っ越せない、やむにやまれぬ事情だという。
 図書館前の広場には、魯迅の像が残っていた。その像の台の辺りからロープを引いて、いく張りものテントの下で暮らしている人がいた。テント越しに魯迅の顔を眺めながら、魯迅選集の中の一枚の写真を思い出していた。北京の師範学校の校庭だったか、大勢の学生達の中心に、椅子の上に立って上半身だけ見える形で、学生達に語りかける魯迅の姿を。
2.
 今では天津の町は、すっかり整理されたが、横丁の一角にはまだ当時の面影が残っている。しかしそのころ大いに繁昌していた露天市場は、あとかたもなくなっていた。渤海湾から採れたばかりの渡り蟹を売っていた屋台の魚屋たちは、どこかに引っ越してしまっていた。
 当時、事務所兼住居として住んでいた「友誼賓館」はすっかり模様替えされて、当時の事務所はサロンに変じていた。家族連れの外国人は珍しいということもあって、ホテルの従業員も親切にしてくれた。彼等と、仕事の合間に、いろいろおしゃべりした。こうしたホテルで働いていたものは、労働改造で精神をたたきなおさなければならない、として、安徽省の山村に送り込まれ、3年ほど「土とともに暮らした」と言う。
稲草も麦草も知らない、都会暮らしの青年にとって、土にまみれて生きることは、とても耐えられないことであった。ホテル勤務のような、土と遠くかけ離れた生活をしてきた若者にとって、過酷な自然のなかでの暮らしは、筆舌に尽くせないことであった。が、人間は慣れればなんとか生きられるものだと悟った。「豚になっても生きよ」とは映画「芙蓉鎮」の中で、腐敗分子の濡れ衣を着せられて牢に繋がれることになった恋人に向かって、男の口から出た言葉だが、まさしく豚小屋に入れられも、豚になっても生き続けるのだ!との叫びであった。
 ひと月の給料は三元。これで歯ブラシや石鹸などを買うのが精一杯であった。
でも、自分はまだましだ。友達の多くは、黒龍江省や新疆ウイグル自治区などに送られて、家族からの連絡も途中から取れなくなってしまい、帰るにも帰られない長い年月を過ごさねばならなくなった、という。

 その年の秋から年末にかけて、菊人形展覧会も終わり、水上公園の動物園の
放し飼いの丹頂鶴たちが、氷雪の上でダンスを踊り始める頃、寒いね、寒いねと言いながらも、子供を連れてパンダを見に出かけた。水上公園から帰って、食事を済ませて、部屋に戻ってテレビをつけてみると、逮捕された四人組の裁判が公開放送されていた。つい数年前まで猛威をふるった四人組の時代は終わったのだ、と全国民に告げているのであった。大学の大きな階段教室のような
大ホールが、この歴史的裁判の舞台であった。演壇の上には、裁判官が並ぶ。
被告席には、かの江青以下の四人組。そしてその後方の階段席には、大勢の傍聴人の姿。3人の被告はうなだれて,しょぼんとしているのに対し、江青被告は、背筋をぴんと伸ばし「私は国家のためを思って、こんなに精力を傾けて、働いてきたのに、こんな仕打ちにあうのは断じて許せない。毛沢東主席夫人が、こんな裁判などにかけられることがあってはならない。」などと叫び、壇上の裁判官を傲然と睨みつけていた。
写真説明:天津のジャーディンのビル 3.
 そのテレビを見た翌日、一人の初老の男が、私の事務所の戸を叩いた。品のよさそうな、いかにも教育を受けたことのあるという感じであった。中肉中背で50代半ばころと見受けた。彼が言うには、先日テニスコートに日本人らしき私を見つけたので、受付の人にどこの誰かと聞いて、尋ねてきたのだとのこと。「戦前の天津カネボウに友人がいて、私の会社の先輩とも一緒にテニスをした」という。「文化大革命で、すべての財産は没収され、姉と二人で生きてゆくだけの、ぎりぎりの狭い部屋に押し込められてきた。その姉も逝ってしまったので、ビザが取れしだい、香港にいる親戚を頼って移住する予定だ」という。「それまで良ければ、週末、彼の所属する「天津テニスクラブ」に遊びに来てくれ、友人たちを紹介するから」と言う。
戦前、イギリス人たちが「ブリティシュ クラブ」なるものを、世界各地の港湾都市に作っていた。香港やシンガポール、上海、横浜などにもその俤が残っている。天津にもそれほど規模は大きくないが、室内プールとテニスコートがその記念(かたみ)として残っていた。それで週末になると、そのコートに出かけて、初老の人たちとテニスをして仲良くなった。彼の仲間は戦前に始めた人たちで、外国人との接点も多く、大公報の記者をしていたとか、国際的な人たちが多かった。
 だいぶ親しくなったころ、彼は自分の生い立ちを語り始めた。「実は私の家は広東出身のコンプラドールで、百年ほど前に、天津に支店を出すというので、こちらに移ってきたものだ。私の会社とも取引があって、Shipping Invoiceに
名前があるのを見たことを覚えている。今は、昔の住まいの離れの一角に住んでいるが、一度食事に誘うから、家族3人で来てくれ」という。
妻に相談したら、子供がまだ小さいので、迷惑をかけるから、遠慮したいというので、私ひとりで出かけた。所番地をたよりに、タクシーで彼の家の近くまでたどりついた。
番地は広東路某番地余、と余の字がつく。「本体の番地は数家族用の住まいとして、人々の手に渡ってしまい、私の住んでいる離れは「余」を付けているのよ」と彼は笑って話した。離れといえども、家のレンガは普通のものの3倍くらい大きくて、たいそう頑丈なのが彼の自慢であった。万里の長城のレンガのような印象を受けたので、そう言うと、「これは清朝時代の天津の城壁を取り壊したときのレンガなのだ。それを貰い受けて造ったものだ」という。李鴻章や袁世凱が北京から汽車に乗って、天津駅頭に降り立つ映画で見たシーンが思い浮かんだ。義和団の乱や辛亥革命を見てきた城壁のレンガを触ってみた。暖かな手ざわりがした。「牢から開放された後、この離れに住んで、姉と一緒に暮らしてきたが、とうとうその姉もいなくなってしまったので、一人暮らしは耐えられそうも無い。だから香港のジャーディン マセソン社に親戚がいるので、それを頼りにビザを申請しているところだ」という。「四人組が逮捕され、この部屋に戻ってきた。まだいつ又何がおこるか心配だったが、私の会社のような外国の商社の支店ができて、家族も一緒に滞在できるようにまでなったのだから、もう二度と元に戻るようなことにはならないだろう」と自信に満ちた言葉で語った。
 そうした生活を半年ほど続けた後、私たちが帰国することになったというと、彼は泣き出さんばかりに悲しんだ。せっかく仲良くなれたのに、私たちが去ってしまうと、又ひとりぼっちになってしまうのだ。友情の記念にと、私たちの出発の前日、子供への土産と、お腹の大きく張り出した布袋さんのような弥勒さんの置物を抱えてきた。日本の住所を教えてくれというので、自宅の住所を書いて渡した。「香港に移住できたら、是非とも日本に遊びに行きたい」と別れを惜しんでくれた。その後、半年ほどして、彼からの手紙が届いた。香港への移住がかなって、昔の縁でジャーディン社の顧問として、生活の場を得て、若い頃やっていたShipping関係の仕事をみていると書いてきた。最後に、香港に来ることがあったら、是非連絡してくれとあった。
天津の広東会館: 4.
 香港には広州交易会に参加するとき、立ち寄る機会があったが、空港からそのまま広州に直行という忙しいスケジュールの中で、彼のところに尋ねてゆく時間はなかった。暫くして私は北京に転勤となった。私は北京から彼宛に手紙を出したが、返事は返ってこなかった。体調でも崩して、会社を休んでいるのだろうか。或いは日本へは気軽に出せる手紙も、北京へとなると、万一昔のような理不尽なやり方が再発して、私に変な嫌疑がかかるかもしれないと心配して、手紙を書くのをためらったのかもしれない。当時は手紙が開封されることは常識だったから。
 それから暫く後、仕事の関係で、ジャーディン社の北京事務所があることを知った。ジャーディン社の中国における活動に興味が湧いてきた。いろいろな本を読んでゆくうち、キーワードは茶とアヘンだと分かってきた。
 今でこそ、アヘンは禁止され、商取引の対象にはなっていないが、ジャーディン社が香港、広東で活躍していたころは、れっきとした貿易品目として扱われていた。大航海時代以来、冒険者たちの最大の目的は、一儲けして財産をなすことであった。だが、誰しもが簡単にひと財産を残せるほど、簡単ではなかった。
ヴァスコダガマのように大量の胡椒を無事ヨーロッパまで持ち帰ることができれば、莫大な稼ぎとなった。胡椒の次は茶が登場する。新茶を一番早くヨーロッパに持ち帰れば、その帆船は英雄扱いされた。南中国からイギリスの港まで、
何日で着けるか、航海日数の短縮競争が起こった。Tea Clipperとして有名なカティサークの出番であった。その茶の代金の支払いに大量の銀が中国に払われたが、中国がイギリスから買うものは何も無い。21世紀の今日の、米ドルが一方的に中国の外貨保有高を押し上げるだけで、中国は米国から買うものは、あまりないのと似ている。そこで、イギリスはその銀を取り戻すため、インドで作ったアヘンを売り込んだ。ジャーディン社関係の本の中に、アヘン取引での収益が最大であった、という記述を見て、愕然とした。
 吸引者を廃人にしてしまうアヘンで、財をなしたというのは許せないと感じた。それまでの印象では、アヘンは広東など南方中心で、北方は比較的その害に毒されていないと錯覚していた。実態は全中国に広まっていて、遥か遼東半島の金州あたりまでアヘン窟がいっぱいでき、中毒患者が増え、全中国を蝕んだ。金州の博物館に、長いキセルを手に、ほとんど死んだような目をした常習者の写真が何枚も展示されている。
 今日から見れば、唾棄すべきアヘン貿易も、ジャーディンとパートナーのマセソンたちの議会への働きかけで、イギリス政府のお墨付きの下に、堂々と営まれてきた。
 それが、林則徐により禁止され焼却されたため、アヘンを没収されたジャーディン社を含む貿易商たちは、その賠償を求めて、本国政府を説得して、大艦隊を中国に遠征せしめた。英国議会でも賛否両論、激しい論戦となった。当時は、ごろつきたちと見下されていたアヘン貿易商の賠償のために、栄光の英帝国艦隊を極東にまで派遣すべきではない。非人道的なアヘン貿易のためなどとは、言語道断だと、良識ある議会人は反対した。しかし、マンチェスターの産業界の支持を得て、自らも議員となっていたマセソンなどの活動により、さらには英女王の取り巻き立ちの、清との貿易から得られる莫大な利益のためにという貪欲さが合致した結果、艦隊派遣となった。イラク戦争が石油のための戦争といわれる如く、この戦争はアヘン戦争と呼ばれ、大英帝国に不名誉な名を残す戦争となった。この戦争の引き金を引く中核的な役割を担ったのが、ジャーディン社と知ったときは本当に驚いた。
 当時、英国は中国からの茶に高額の関税を課して、財政をまかなっていた。その茶の代金として銀の代わりに、アヘンを使ったのだが、もし英国が財政的に、茶に関税など課す必要がないほど余裕があって、なお且つ貪欲でなく、そしてもし、植民地アメリカに対しても茶税などを課すようなことをしなければ、
例の有名なボストン茶会事件は起こらなかったであろう。そしてアメリカ独立戦争はもう少し遅くなったであろう。茶という嗜好品をめぐって、アメリカが独立し、アヘン戦争が起こった。
5.
 当時のイギリスはアメリカ産の綿花を原料に、マンチェスターで綿織物としてインドに輸出した。その結果インドの土着綿業を破壊してしまったほどだ。その一方で中国産の茶を大量に仕入れたイギリスは、その見返りとして織物などの売り込みを試みたが、うまくゆかなかった。
「地大物博」と豪語していた清は、外国が求めてきた物品を分け与えてやるという態度で、その支払いには金銀銅などの貴金属貨幣を要求した。イギリスも茶の代金として大量の銀を払い続けた結果、巨大な貿易赤字を抱えてしまった。何らかの手段でこの穴埋めをしなければならない。片貿易は必ず破綻する。
一方だけが、金銀などを貯め込むと、貿易摩擦が生じ、挙句の果ては戦争になる。片貿易が起こったら、双方が真剣に協議を重ね、解決策を見出さないと大変なことになる。これが平等互恵のルールである。しかし今から170年ほど前には、そんな智恵は働かず、武力に訴えることとなってしまった。朝貢貿易しか認めない清国に対して、英国は物乞いのような取引は屈辱的だとし、貴重な銀の大量流出に耐えられなくなった。そこで、一攫千金を狙って、極東にまで出張っていた冒険的商会のボスたちにインド産のアヘンを渡し、これを清に売り込んで、それまで払い続けてきた銀を取り戻そうとした。その商会のボスたちの頭目的存在がジャーディンであった。
 アングロサクソン魂というのは、おそろしいほどの私欲の発露たる商魂の塊である。イラク戦争、パレスチナ紛争など、その源をたどれば、このアングロサクソンの私欲に発している。貪欲な商魂のすさまじき発露である。富や資源を求めて、あらゆる手段を駆使して、その目的を達成するのが、ゲームのように楽しく感ずるのであろうか。先の大戦でも、ユダヤ人を虐殺したことを大きく報道し、ユダヤ人の支持とその富を取り込むために、アラビア半島の土地を、
パレスチナ人からユダヤ人に分け与えるという約束をして、ドイツを屠った。
日本軍の頑固な抵抗で、さらに多くの米国兵が犠牲になるのを防ぐため、サハリン、千島などを分け与える約束で、ソ連に対日攻撃を承諾させた。
6.
 数年前、中国に返還後の香港を訪れた。返還直前にも訪れたのだが、その時、現地の人から聞いた話が、実によくこの魂を表していると思う。アヘン戦争後、植民地にしてから160年の間に蓄えた膨大な財産がある。これをそのまま中国に渡してなるものかと、空港や鉄道、橋梁など次々と巨大な土木工事を行い、それらの元請をすべて英国系の会社に発注した。香港政庁の金庫が、空になるまで使い切った。その上前は、いうまでもなく、イギリス政府に戻ってくる仕掛けだ。
 今回、返還から数年経って、落ち着いてきた香港島の中国銀行のビルを眺めながら、公園を散歩していたら、その一角に「茶の博物館」という案内板が目にとまった。古い格式ある建物を利用したもので、入場券をと尋ねたら、無料ですとの答え。二階には、数百年前に中国各地で作られた、素晴らしい姿形の骨董の茶器が展示されていた。説明書によると、かつて英国人総督の邸宅を、茶の博物館として公開し、香港の好事家たちが蒐集した茶器を一堂に集めたそうだ。アヘン戦争の結果、割譲させられた香港が祖国に戻ってきた。アヘン戦争といわれるが、その底は茶のための戦争でもあった。現代の香港の繁栄は、元をただせば、茶によって始まったといえる。茶の取引が始まり、銀が払われ、それが底をついて、アヘンで代替されて起こった戦争。その戦利品としてイギリスに割譲された香港。最後の総督パッテンが英海軍基地から乗船して香港を去って行ったとき、いかほどの財を持ち出したかは知らない。しかし、その邸宅は持ち出せなかった。それを茶の博物館にしたとは、なんと面白い意趣返しかと、感心した。
写真:天津のフランス教会 7.
天津にも上海と同様、列強が競って作った租界の跡がある。フランス人は、モントリオールに見るような、美しい塔の印象的なカトリック教会を建てた。唐山地震にも倒れず、冬の夕暮れには美しいシルエットで、仕事に疲れた私を慰めてくれた。
イギリス人は、ホテルや競馬場、そしてブリティシュ クラブという娯楽場を造った。戦後数十年経ても、そうした歴史的建物は壊されずに残っている。面白い対照である。英仏が競って植民したカナダの諸都市を始め、上海や天津など、両国人の残したものは、永い年月を経てその民族性を示してくれる。フランス人の住んでいた町には、カトリック教会の尖塔が聳え、イギリス人の方は、酒を飲みながらカードやビリヤードで遊ぶクラブや競馬場、そしてゴルフ場さえも残している。そんなことを感じながら、夕食に間に合うようにホテルに戻った。約束の時間までまだ20分ほどあったので、ロビーの売店を冷やかしていた。ひさかたの天津なので、なにか記念になるような土産はと探していると、「近代天津十大買弁」という本が平積みされていた。買弁とは確か二十数年前、彼から身の上話を聞いたときの「コンプラドール」のことだったなと、
思い至った。表紙の丸囲いの写真の右には、梁炎卿とある。ひょっとして、ひょっとすると、この写真の主は、私の知っている梁さんの祖父か父親ではないかと直感した。顔のつくりというか、輪郭のかもし出す雰囲気が似ている。白い美髯を蓄え、ふっくらとした頬の横に長い耳をもち、清朝時代の肖像画に良く描かれている、典型的な広東商人のイメージだ。アヘン戦争の映画に登場する、広東十三行の頭目たちの風貌である。早速買い求めて中をめくってみた。
しかし約束の時間が迫ってきたので、それを部屋に置きに帰った。
8.
 天津の人たちとの会食は、海河の畔の「飲茶」の店で、好みの点心を肴に
紹興酒をごちそうになった。私が唐山地震の後の復興の時期に、この街に住んでいたという話題になった。彼等もそのころの生活を思い出してか、今日では想像すらできないほど、人々の暮らしの大変だったことが語られた。天津から秦皇島に向かう鉄道の線路際には、途切れることなく、地震でなくなった人々の土饅頭が並んでいた。「十何万もの人が犠牲になったので、こうするほかには葬送の手段が無かった」という。
 最近ようやく、トヨタなど世界的な大企業が進出してきて、天津の市内も活況を呈してきた。上海のような派手さはないが、着実に製造業が基盤を固めつつある。そんな話をして、友誼を確かめ合い、ホテルに戻った。シャワーを浴びて、早速先ほどの本を読み始めた。読みすすめてゆくうち、表紙の写真は、私の梁さんの父親だと分かった。「1872年、20歳のとき先輩の唐景星に随って、上海のジャーディンの練習生となり、その後天津に転勤、1938年に亡くなるまで、60年以上の長きにわたり、ジャーディンの買弁として活動した」とある。
 その本に依れば、ジャーディンは1840年代のアヘン戦争前後に、大変な財をなし、今日の大銀行、香港上海銀行の設立にも、中核的な役割を果たした、英国の商社である。今でも香港を中心に世界各地で活躍している。梁さんの父は、そのジャーディン社に手腕を買われて、同社天津支店の買弁として活躍した。堪能な英語を駆使し、大変な商才を発揮した。その結果、ジャーディン社の買弁の総元締め、House Compradorとなった。義和団事件のあった1900年を挟み、第一次世界大戦前後には、梁さんの父は、英国資本と清朝の官民企業との間の仲介者として、大活躍した。当時の商取引はほとんど「つけ」で行われた。端午の節句、夏の中元、大晦日の3回に勘定を払った。
江戸時代の日本でもそうであったように、侍や商人は年に2回、或いは3回しか代金を払わないのが、東方の習慣であった。しかし、英国商社のジャーディンは毎月決済を主張して譲らない。そこで買弁たちは、その間に介在して、
清国商人たちの不払いリスクの見返りとして、高率の口銭を取って収益を拡大した、などと記されている。
9.
 この本の著者、劉海岩氏は買弁たちが、どのようにして莫大な利益をあげたかを、詳細に記している。値上がりしそうな商品は、市場の動向をよく見極めながら、大量に買い出動する。土地や建物も将来の値上がりを見込んで、優良物件を片端から買いに出る。古来、中国の商人は、手にした金で、産業を興すというよりは、商品や土地建物を仕入れて、その売買で稼ぐという方面で、商才を発揮してきた伝統がある。21世紀の今日でも、商才に長けた人たちは、額に汗して、ものづくりに励むよりも、その方がスマートで格好良いし、手っ取り早いと考えている節が見られる。
 劉氏は、これもあれもなんでもやった、と言う具合に買弁たちの手口を記述する。船荷証券の数量と、税関用の書類の数量を自分の都合の良いように書き換えるのは、朝飯前。運賃請求用の重量も、単位が替わるごとに数字を変換して、利ざやを稼ぐ。12進法と中国の旧式の重量単位との変換で、当時の算盤は、買弁たちの手元に、お金が沢山残るような仕組みになっていたと記す。
 買弁としての梁家のことを非難しつつも、筆者は梁家が、第一次大戦中は、中国の商品を大量に輸出して祖国に富をもたらしたと記す。その過程で、大いに資本を蓄積し、土地建物に投資して、大変な財を成したとする。どうしてこんなに莫大な財産を築けたか。「彼は生涯、ジャーディンというイギリス商社のために忠実に働き、勤勉倹約に努め、投資するときも、リスクを排除し、無謀な投資は一切せず、ただひたすら蓄財に励んだからだ」と著者は言う。
 時勢に会った良きパートナーに恵まれたということ。それはジャーディンにとっても同じで、外国に出向いて、成功するか否かの鍵は、現地のパートナーの良し悪しにかかっているとは、よく言われることだ。
 ほかの買弁のように、官と結託して政商として活動したり、官位を買うなどということをしなかった。戦争で負けることの無かった英国商社の代理人となったことも、成功の基盤であった。
 日本にも明治維新後、たくさんの外国商館ができ、今日でも長崎、神戸、横浜などに多くの建物が残っている。しかし、殆どが小規模なままで、その後、民族系商社に敗れて、多くは消滅してしまった。日本でも、外国商館のために働く買弁は多くいた。しかし、明治政府の富国強兵政策のもと、自前の商社、石炭鉱山の開発、商船会社などを興し、外国商館を駆逐した。そうした外国商館も、商売規模の小さい日本を見限って、清国の上海、天津などに移っていった。日本に上海や天津のような欧米人が、勝手に振舞える租界が無かったことも幸いした。
10.
 梁家と比較の意味で、この本にあるドイツ商社の買弁であった、王銘槐に触れてみる。梁氏と同時代に活躍した王氏は、北京の官界に入り込み、政商として一世を風靡した。しかし、ドイツの敗北によって破綻してしまう。時の実力者、李鴻章が天津で洋務を弁じるとして、軍需産業を興したとき、ドイツ泰来商会の買弁として、李に取り入って、魚雷艇や銃砲を買い付け、その後の北洋海軍の基礎を築いた。今もアモイの要塞跡に一門残っている、世界最長の砲身を持つクルップの大砲を買い付けた。イギリスの軍艦を仮想的としている以上、その防御のために、イギリスから大砲を買うわけにはゆかない。中国の古い物語にあるように、「汝の矛で、その盾を破ってみよ」である。イギリスが、清国に自国の艦艇を撃沈できるような大砲を売ってくれるはずがない。ちなみに、日本の明治の大砲といわれるものは、英国のアームストロング社のもので、日本製鋼所が技術導入して、自前で製造できるまでにした。
 明治の初期に、不平等条約改定の前交渉のために、欧米各国を回覧した岩倉具視たちの記録「米欧回覧実記」には、彼等が訪問先でいかに歓待を受けたかが実によく描けている。彼等は訪問先で、立派な装束で歓迎式に臨み、旅行費用は日本から持参した小粒の金できちっと払っている。受け入れ先の企業は、
蒸気機関車や大砲、軍艦など、明治日本が米欧などから大量に買い付けた実績と将来きっと上得意になると期待されたのであろう。しかも金払いがしっかりしていた。このあたりが、武士の魂がまだ健全であった日本の救いであった。野蛮な土地からきたと聞かされてきた割には、服装も整っており、眼光も鋭いものがある、と米国の新聞は報じている。
 さて、話を李鴻章に戻す。クルップの工場で大砲の操作を習得中の清国兵の
研修風景を視察している彼の写真が、最近クルップの書庫で見つかり、きれいに表装されて、アモイの大砲の説明書の横に展示されている。ロシアのニコライ二世の戴冠式に、彼でなければならないと、ロシア側から逆指名され、老体に鞭打つ形で、日清戦争での屈辱を受けた、憎き日本の土地には一切上陸を拒んで、シベリヤ鉄道で、ペテルブルグ入りした李鴻章は、その後ドイツ各地の武器工廠を視察した。ドイツのメーカーにとっては将来有望な重要顧客として、下にも置かぬ大歓待をしたことであろう。李鴻章はロシア、ドイツなどを訪問して帰国したのだが、このとき、ロシアと密約を交わし、満州鉄道の敷設権を与えたりして、相当額のルーブルを得たと非難を浴びていたので、クルップとしても、せっかく撮影した写真を送るのを躊躇したのであろうか。それが、最近のフォルクスワーゲンの事業や、上海のリニアーカーなどのプロジェクトなどが沢山実現して、ドイツと中国の関係が好転しており、李鴻章に対する評価も、残照の清国の最後の宰相として、愛国者でもあったとの評価も出てきており、アモイの要塞に格好の記念物として古証文の写真が、書庫から取り出されて、日の目を見たのであろう。
 余談だが、先年中国のテレビで放映された「共和への道」という連続ドラマで、日清戦争の黄海会戦で敗れるべくして敗れた清国海軍の、悲惨且つとんでもない挿話が紹介されている。皇帝の観閲式に、欧州から買い付けた最新鋭の軍艦から放った砲弾が、的として沖に浮かべた老朽船にいっかな命中しない。あろうことか、このことあるのを恐れていた海軍司令官は、老船に忍び込ませておいた水兵に自爆を命じた。なんとも言いようの無い惨状である。このドラマでは、明治天皇が国民とひもじさを共有せんと、広島の本営で、昼食は硬い握り飯一個で済ませているのに対比して、紫禁城では連日、贅沢な満漢全席を
供させて、箸も付けずに浪費している西太后や皇帝らを映し出している。
 李鴻章にとっては、そんな皇帝であっても忠義を尽くそうとしている。その忠義を果たすためには、軍隊が必要であり、莫大な金が必要であることは何時の時代も同じである。王は、李鴻章の腹心、財布係として資金調達で大変重要な役を果たした。
11.
 その李鴻章のことである。日清戦争の講和交渉に、これもそんな役割など誰も引き受け手がないので、請われてやむなく全権代表として下関に向かった。春帆楼での講和談判の卓に並んだ人物の絵でみると、辮髪を蓄えた李は、大変な寒がりとみえて、彼の隣には火鉢が置いてある。
 2億テールという賠償金の交渉に当たっても、最後の最後になっても、帰国の路銀の足しにいささかでもまけてくれぬかと、伊藤博文に頼んでいる。演出者のシナリオの行間には、それをも彼は私せんとしているような印象を残す。
 台湾や遼東半島まで割譲させられて、帰国後は売国奴として国民から一斉に非難を浴びた。しかし、その後自ら独仏露三国に働きかけて、清朝の故地である遼東半島を取り戻すことに成功した。この時、英国は日本が清朝に外国企業が清国内で工業を興すことができることを認めさせ、自動的に英国がその特恵を享受できるようになったことなどから、日本を重宝し始めていたので、三国干渉には加わらなかった。
 日本の歴史教科書のこの辺の記述は、日本はせっかく手に入れた遼東半島を、
三国干渉により、ロシアに奪われた。憎きロシア! いつの日か,仇を討たんと臥薪嘗胆を唱えた。これが10年後の日露戦争への導火線となるのだ。
 清にとっては、台湾くらいまでは耐えられるが、満州族の故地まで、弟のような存在にすぎなかった小国日本に取られるのは、大変な屈辱であった。この辺の認識が、当時の日本人は理解できていなかったのであろう。爪を伸ばしすぎたとも言えよう。
 日本から取り戻した遼東も、不凍港の欲しいロシアにすぐ租借させている。これは、「夷を持って夷を制す」という李鴻章の思惑から出ている。下関での屈辱を晴らすには、ロシアをして日本に当たらせるのが一番良いと考えた。日本とロシアは早晩、矛を交えることになったであろうが、その触媒役をつとめたのが、李鴻章であった。その李とロシアの間で、実務的なことがらを取り持ったのが、買弁であった。ロシアの方も、日清戦争後、李との接触を強めた。1896年には、清とロシアの政府間の合弁銀行「道勝銀行」を設立し、天津に支店を開いた。外資系銀行として始めて紙幣発行や、塩税、国税などの徴収を認可され、その見返りに、清の親王たちや高官たちの便宜をはかり、清朝御用達銀行として、莫大な資金を運用している。そこに預けた財産保全の為に、李鴻章は腹心の王銘槐を、この銀行の買弁として送り込んでいるのだ。
 李の評価は、最近はいささか修正され、彼の伝記なども、何冊かの本が出版されている。かつての国賊扱いから、西洋列強から祖国を守ろうとして、倒れかけていた清朝をなんとか支えんとして、心血を注いで、苦心した人物として描かれることもでてきた。それは相対的なものではあるが、それまでの腐敗しきった官僚たちに比べれば、の話ではある。国防のために、軍需工場を造り、艦隊を建造し、軍隊を整えたというに過ぎない。それまでイギリスから買っていた武器を、ドイツに切り替えた。背景には支払った代金の一部を還流させる目的もあった。後発のドイツメーカーの方が、そうした方面に融通がきいた。そうした目論見から、買弁を使って、大量の兵器を買い付ける。買弁から還流させた資金は、自分の子飼いの軍隊の軍資金として自在に使える。王はこうした役割をつとめ、当時最大の政商に登りつめた。そして破綻する。まるでつい最近の守屋事務次官と山田洋行の宮崎某の関係のようである。
スケールの大きさで言えば、象と蟻ほど、月とスッポンほどの差があるが。
ちなみに、上海事変で、蒋介石の国民党軍はドイツ製の精鋭な武器で日本軍と対峙した。この英ではなく独のという伝統は李鴻章以来のものといえよう。
12.
 梁さんは、父炎卿と妻妾4人との間に生まれた15人の内の末子らしい。父親は倹約家で、周囲からは「吝嗇(けち)」と、仇名されていた。口癖は「一銭、
一銭貯めることが、金持ちになる道」であった。一方、子弟の教育費は、惜しまなかった。他の南方系中国人と同じく、彼の家系も多産系で、且つ長期に亘って子をなした。
 余談だが、私がシンガポールの南洋大学にいたころ、下宿していた張さん一家は、やはり広東出身で、祖父の代にインド洋のセーシェルに渡り、そこで育った彼は、勉学のために親戚を頼ってシンガポールにやって来た。そこで本屋の見習いをした。その後、一般書の販売から、教科書の販売まで扱うようになり、戦後は印刷も始めた。9人の子供を育て、炊事洗濯に二人の使用人を使い、子供たちは2人一部屋とか3人一部屋で生活させ、離れの2部屋を外国人に貸していた。私たちの前にはインドネシアから来た学生に貸していた。これは、自らがセーシェルから勉学にきた時の経験から来ているものであった。又、子供たちに外国人との交流に慣れさせようとするものでもあったろう。
母屋の食堂には、8人掛けの円卓があり、私も週末などに呼ばれては、親戚やその配偶者などと一緒に家庭料理を食べさせてもらった。高菜と豚の角煮、白菜と蝦の炒めたのなど、素朴なおかずでご飯を御代わりした。8人が食べ終わると、次の8人が座る。食べ終わった人が私を誘って、彼らの部屋でおしゃべりし、カードなどで遊んだ。2段ベッドの部屋で、お金は一杯あるのに、子供の教育は自分が育ってきた多産系の南方人のやり方で、集団で生活させて、お互いの生活の智恵を伝授し、共有させていたのだと今になって感心している。
 長男が結婚するというので、私たちに貸していた離れを新婚用に改装することになった。それで、母家の一部屋を空けるので、そこに住んでくれという。それで残る半年ほどを、中学生の子供たちと隣室になった。夕食前に、サッカーゴールにシュートとか、バドミントンなどして仲良くなった。
 清明節に、張氏の会館で先祖を祭る儀式に誘われた。生贄の山羊が丸ごと供えられ、海外に住む華僑たちの風習をよく見ていってくれと、礼拝の仕方などを教わった。
 大家族の伝統であろう。子供の頃は一つの部屋で、けんかしながら暮らしてこそ、成人してからも兄弟の絆を忘れないのだ。小遣いは一切与えず、質素に暮らさせる。大人になったら親の仕事を受け継いで、事業を大きくする。これが海外に出た華人たちの成功の礎である。広東から天津にやってきた梁さん一家にも、同じ伝統が脈打っている。
13.
 さて、私の梁さんには1878年生まれの長兄がいた。コーネル大学とマサチュセッツ農科大学に学び、1912年、民国初期の唐紹儀内閣のときに、農務次官を務めた。が、唐内閣の退陣により天津に戻り、父の後を継いだ。彼は農場を買って経営しようとしたが、それにも失敗した、云々と記述の後、突然、梁文奎の文字が目に飛び込んできた。「ややや、これはまさしく彼のことではないか。」
 長男は1930年代、頻繁に起こった身代金目的の誘拐事件の犠牲となった。身代金は払ったのだが、当人は死体となって送り返されてきた。それで次男が継いだ。しかし彼も父親のような商才はなく、梁家の前途にかげりが出てきた。
 実質的には、父親の亡くなった1938年に19世紀以来の古いコンプラドールの時代は終わった。その後、戦争で日本の占領が全てを変えてしまった。
 1945年に日本が敗れると、ジャーディンも戻ってきた。彼等が新しいコンプラドールに任じたのが、私の知っている梁さんなのだ。父親が生前、ジャーディンの幹部に、自分が死んだら、彼を後継にしてくれと頼んだのだそうだ。戦後すぐ、学校を卒業したばかりの彼が、四代目の買弁となった。この頃は、戦前のような仕組みはなくなり、代払いなどもなくなって収益は減ったが、高額な給与制となり、彼は1952年にジャーディンが天津から撤退するまで、
船舶部遠洋航海部門の経理を兼任した。
 その後は、前に書いたとおり、政治運動の荒波に巻き込まれ、離れの一角に
軟禁状態のような形で、お姉さんと暮らしてきた。四人組が逮捕され、冤罪で牢に繋がれていた人たちが、名誉を回復し、彼の軟禁も解かれた。新中国になってから30年。さまざまな荒波が何回も彼を飲み込み、海の底へひきずりこまれてしまった。片時も離れずに暮らしてきた姉が亡くなってしまったので、親類のいる南方に戻ろうと決意したという。アヘン戦争から始まった西洋の衝撃を、コンプラドール、買弁という役割を演じながら、受け止めてきた梁さんの一族の物語を知ったことで、それまで歴史の教科書でしかしらなかった、アヘン戦争以後の中国近代史が、身近なものとして私の心に重く残った。
   (2008年3月20日)

拍手[1回]

天津のコンプラドール その7

1.
 7月初めに、リオティント上海の4人が、国家機密を盗んだとの嫌疑で、拘留されてから1ヶ月あまり経って、上海検察当局が、正式には「商業上の秘密を盗んだ」「贈賄」の容疑で、4人を逮捕した。中国側も首都鋼鉄の幹部以外に、他の鉄鋼会社の幹部も、収賄の容疑で取調べを受けている、と新聞で報じられている。
 そうこうしている内に、8月17日に中国鋼鉄協会が、豪州の三番目の鉄鉱石会社、FMG社と前年比35%ダウンで、価格交渉がまとまったと発表した。先に日本がリオ社と合意したのより、値下げ幅が大きいという。同協会によれば、今後はすべての鉄鉱石輸入はこの価格に統一され、スポット価格での輸入は認めない、と。他の鉄鉱石会社とはどうするのか、それは今後の交渉の進展を見なければ、なんとも言えない、と思う。中国の一般紙までもが、具体的な価格を一覧表にして掲載し、年内12月までは、すべての中国鉄鋼ミルに、この価格が適用されると大々的に宣伝していた。全国の中小高炉メーカーに、これより高い価格は払わないようにとの通達であろう。低いのは構わないのか。
 なぜ、そういう報道をしなければならないか、については、一般の外国人には理解しづらい。当地の鉄関係の友人に聞くと、中国の鉱石輸入は、日本高炉のように、共同して価格を決めるのではなく、日本の大手2社に匹敵するような大手数社が中心となって、海外鉱石会社と締結する長期契約価格と、それ以外の何十社もある中小高炉メーカーが、直接または貿易会社経由で、長契とは別の形で、取引の都度、価格を取り決めて購入するスポット取引があり、それが大きな比重を占めている。このスポットというのも、現実的には、すでに中国の港に陸揚げされた鉱石を、現物として購入するものもあり、海上運賃を含めた市況によっては、長契価格より大幅に割高なものとなっていた。
 だが、市況が一旦下がり相場の様相を帯びてくると、逆転することも出てきたのは自然の成り行きであった。08年の秋のリーマンショックで、自動車を初めあらゆる産業が減退し、鉄鋼需要も激減した。そして、それまで2割3割とプレミアムを払わされてきたスポット契約が、逆に下回るようにさえなった。そうなると、長契価格では、引き取らなくなる事態が起こった。スポットの方が安いからである。それを如実に物語っているのが、8月4日付けの「中新社」の以下の記事である。
2.
それに依れば、鉱石販売会社の安値売りにより、狂乱じみた安値が激増した。09年1-6月の輸入量は2.97億トンであったが、そのうち鉄鋼メーカーが輸入したのは1.66億トンで前年比9.6%増であった。一方、貿易会社が輸入したのは1.31億トンで、前年比90%増。これによって、貿易会社の輸入量の占める比率が、前年の30%から44%へと14%上昇した。
こうした貿易会社経由の鉄鉱石輸入が、市場を混乱させた原因であるとして、今後はすべて正規の輸入許可を取得したミルのみが、輸入できるような体制にする、と意気込んでいる。正規ではない輸入許可というものがはびこっていたのだろうか。規制が厳しくなればなるほど、裏から手を回して、実際に鉄鉱石を使わない企業までが、輸入許可を取得できていたのだろうか。WTOに加盟した21世紀の貿易自由化を唱導する国で、いまだに裏のI/Lがあるのか。
日本でもかつては、長期契約派と随意契約派に分かれて、それぞれがしのぎを削って、鉄鋼製品市場のシェアー争奪に明け暮れていた時代があった。それはアメリカからのスクラップの輸入が主であったが、原料炭などは、やはり米国の高品位のものが、即生産アップにつながるとして、すさまじい取り合いになったことがあり、そんな争奪戦のはげしい時代を経て、長期契約という形が定着してきたのである。通産省の指導という名の下に、生産規制、競争制限が行われてきた。過去数年で、1億トンが5億トン以上にもなった中国はもうしばらくは、この両派のどちらが生き残れるかの死闘が繰り広げられると見たほうが、妥当かもしれない。
3.
5月にリオティント社が日本の新日鉄と合意したあとも、長い間いわゆる三大鉱石会社との交渉は暗礁に乗り上げていた。それが8月17日になって突如として、中国が投資しているFMG社との間で、交渉が決着したというのだ。
待てよ、確か天津のコンプラドール関連で、中国の戦前の民営企業のことを調べていたとき、上海の財閥企業の雄であった栄氏一族、即ち国家副主席にまでなった、赤い資本家と言われ中国信託投資公司CITICの創設者、栄毅仁の長男が、これに絡んでいたことを思い出した。創業者である祖父から数えての三代目である栄智健氏が、豪州の鉱石会社の株式を取得して、その関連で豪州ドルの為替取引で、大損して会長職から追放されたのは、このFMGだったと思い当たった。
 09年の4月8日に香港の投資信託会社「中信泰富」の会長の職を辞すことになった、栄智健(Larry Yung)の白髪を真中から分けた顔が、思い浮かんだ。血色の良い肌で、眉は黒々とし、温和なGentlemanの容貌である。
当時の報道を振り返ってみる。
最初に彼の失脚を知ったのは、香港の鳳凰テレビでニュース番組の司会者、邱さんが、彼のことを「富は三代続かない」(日本の俗諺では、売り家と唐様で書く三代目)という一句に注意を喚起されたのだ。が、その翌日の中国のCCTV1チャンネルの報道番組で、記者が温家宝首相にマイクを差し伸べて、栄智健氏が為替取引に失敗して苦境に陥っているということですが、総理のご意見は、と問うたのに対して、「彼は中国に大変貢献してくれた人なので、彼が困難に陥ったなら、中央政府として、支援の手を差し伸べるのにやぶさかではない。」というニュアンスの発言をして、中国としても全面的にバックアップするような姿勢を見せたからであった。
 香港の一企業が苦境に陥ったからといって、普通なら中国の首相がそんなコメントを出すことは、ありえないだろうと思った。どうしてなのか、調べてみた。
4.
 今年は中華人民共和国建国60周年ということで、雑誌やテレビなどで、さまざまな特集を組んでいる。5月25日付けの「三聨生活」に60年前に上海市長として、共産党中央の命を受けて上海の解放を成功に導いた、洗いざらしの木綿の服を着て、右手にタバコを持った陳毅市長の写真が表紙を飾る特集記事から、栄氏一族の動きを抜き出してみる。
 栄智健の祖父は、戦前上海を中心に紡績業などで成功した。栄毅仁は四男で、家の中での地位は低く、謙虚な性格であった、という。蒋介石が台湾に逃れた後、彼の一族を含む上海の殆どの民族資本家たちは、共産軍が上海に来る前に、「共産、共妻」即ち資産も女房も共有されてしまう、取り上げられてしまうと恐れて大陸を離れ、香港、台湾、アメリカなどに脱出していた。
 結果として、弱冠33歳で2代目を継ぐはめになった、栄毅仁は上海に留まって、共産党に協力することを約した。それで、後に毛沢東から「中国の民族資本家No.1」という称号をもらっている。
 上海を捨てた民族資本家は、ちょうどロシア革命時に国外に逃れた資本家たちを白系ロシアと呼んだように、‘白系華人’と呼ばれていたが、栄毅仁は「赤い資本家」と言われていた。「赤い資本家」という言葉の定義は何だろうか。つい最近まで私は、この言葉を漠然と、共産主義に共鳴する資本家と考えてきた。  
最近になって、これは「共産党員の資本家」だと考えるのが適切だと思うようになった。それは、1921年創立以来の少数党員が、今や7千万人を超えるようになってきたことが、私にさとらせてくれた。私の70人の小さな会社にも3名の党員がいる。20人に一人の割合なのだが、これが15人に一人という方向になりそうな勢いである。さる党員の友人と話していて、どうしてこんなに党員が増えたのか、率直に聞いてみた。
 彼の返事は「今やねー、レストランのチェーン店から、自動車販売会社、不動産デヴェロッパーに至るまで、殆どの民営企業にも、党の組織が出来ていて、
書記もいるのさ。国有企業がどんどん減って、民営になった時点で、それまでの国有企業中心だった党組織が、民営企業に浸透してきたのさ。そして民営企業の方でも、党との関係無しには、何も出来ないような仕組みになっているのさ。」「今の中国で、ビジネスでお金を儲けようとするなら、入党しなければ、なかなか難しいのよ。まあ、よほど商才に長けて、資本があれば別だがね。
それでも、大きな会社になって、邪魔されないように、いじめられないようにするためには、党員になって党に協力するのが一番だろうね。」とのことで、そんなことも知らなかったの、と諭されたことであった。
5.
 この特集では、呉記者が当時の関係者をインタヴューしているのが特徴的だ。
1949年から56年までの7年間で、上海の民族資本家がどのように、共産党政権に協力し、そして最終的には公私合営という名の下で、国営化されていったかが、記されている。私は天津の梁さんから聞いた話を思い出しながら、栄毅仁がどのように赤い資本家になって行ったのかを、インタヴィユーから、すこしながらも知ることができた。
 88歳で今も元気にかつて民族資本家たちが住んでいた徐家花園に暮らしている徐さんは、栄氏の姉の友人だった。彼女は言う。「新中国建国後、栄家の家族子弟の殆どは、大量の金を持ち出して上海から脱出してしまい、33歳だった栄毅仁が、“申新”という紡績会社と、福新、茂新という製粉会社の全責任を負うことになったのさ。」
 又、今年94歳になる、当時上海の人民銀行の副頭取だった共産党幹部の孫さんは「私は当時、私営企業向けの借款を担当していた。それで栄毅仁と親しくなったのだが、彼は爽やかな人間で、自分の考えをはっきり言うし、話が上手で、人ともすぐ打ち解けあうので、親しくなったのだが、当時の上海で、彼の経歴と年齢は若輩だったわけだが、栄家の資産はとてつもなく大きかったので、党としては、特に重視し、彼が商工業界で模範的な役割を果たしてくれることを期待していた。」
 陳毅市長が率いる上海人民政府は、工商業支援策として、民族資本の紡績工業の再興を奨励し、外綿輸入に免税措置を与えた。栄氏が7つの工場を有する「申新」の総元締めとして、その当座預金を人民銀行に預けることを条件に、
特別借款を与え、政府としては、その資金で各工場の生産回復を支援した。
このニュースが香港に届くやいなや、香港に逃れた資本家たちは感動し、何名かの資本家は、資金提供や原料の供給を申し出てきた。
6.
 孫氏は更に続けた。「新中国成立当初の民族資本は、生き残れるかどうか、深刻な問題に直面していた。資産と原料はすべて国外に持ち出されてしまっていたからね。多くの民族資本家たちは、私をしょっちゅう訪ねてきては、苦境を訴え、資金援助を求めてきた。しかし、私も彼らの話を百%そのまま信ずるわけにはいかない。彼らの多くは、海外に殆どの資産を逃避させていながら、政府に金を出すように、持ちかけてきたからだ。」
 これは、人の褌で相撲をとる、という伝統的な手法である。この発想は今日でも生きていて、官の資金を引き出させて、大型プロジェクトを立ち上げるという事例が、至るところで行われている。民間の造船所が市内から2時間以上も北の長興島に建設する大型造船所に多額の公的資金を投資させ、大型製油所やLNGプラントからのダウンストリームなどの大型案件にも、公的資金を出させ、何も無い荒野を工場地帯に変じて、その案件を成功させた役人は、出世の道を歩むというのがサクセス ストーリーである。
 余談だが、ここ数ヶ月、大連のネット庶民は、市政府が福佳という9年前に出来たばかりの、不動産、商業、化学工業の3つの分野で急成長を遂げた会社に、大連化学という国有会社との合弁事業を許可した。それも通例に反して、国有側の方が、出資比率が低いという変則で、さらにひどいのは、人体に影響を及ぼす恐れのあるプラントを、人家から十分離れていない場所での稼動を許可したというので、大騒ぎとなっている。これを許可したトップを糾弾している書き込みが、削除され、文字化けして読めなくさせて平気でいる。 
7.
 話を栄氏に戻す。栄氏が孫氏に語った言葉として、「第一次大戦で欧州が、中国侵略の手を緩めたとき、栄家は紡績を始め、救国富強に努力した。初めは、蒋介石に希望を託していたが、理不尽なことから資産を取り上げられた。そしてその子分の宋子文も、我々の産業を取り上げようとした。戦後も彼らの警備司令部の特務機関によって、身代金誘拐事件に巻き込まれ、大金を取られてしまった上、企業の生産活動も思うように出来なくされてしまった。」
 天津の梁さんの長兄も誘拐され、生きて帰って来られなかったのだが、当時の身代金目的の誘拐は、警察と結託した連中がグルになっていたのだ、という。さもなければ、何時まで経っても、犯人が逮捕されないわけが無い、と。分け前は当然警察当局のしかるべきところに届けられた。
 栄氏は「国が強くなければ、企業が発展することは難しい」と考え、「共産党が、上海に入ってきたとき、もともと栄家の流動資産は枯渇していたのだが、政府が紡績工場の生産を回復するための資金を出してやろうというので、私はたいへん感激した。」との述懐を引用している。
 その後、公私合営となり、国が原料の綿を供給し、栄氏の工場がそれを紡績し、加工賃をもらって、国に綿布で返すという「加工取引」形式が続いた。
この文章を書いた呉氏は、この時代のことを「国家資本主義」と呼んでいる。
国が資本を出して、かつての民族資本家たちに生産を任せたのだ。改革解放後、30年経た今日も、そう呼ぶのがふさわしいかも知れない。自動車産業や造船業など、基幹産業は50%以上の株を国が保有して、生産技術を持った経営スキルに富んだ人間に任せている。
8.
 この栄氏が文化大革命の迫害を乗り越えて、30年前の改革開放で、CITICを
創設して、赤い投資家、国家資本主義の投資銀行として、60年前に人民銀行の孫さんが上海の民族企業を支援した金額の何万倍もの膨大な資金を投じることのできる仕組みを作った。それが国家副主席への道となった。
 冒頭に触れた、三代目の栄智健氏は、1966年に天津大学電機科卒後、吉林省の長白山水力発電所に配属となり、文革によって、父ともども迫害された。
四川に流され、6年間肉体労働に従事させられた。父親はこの間、守衛や肉体労働で、肝炎と眼底出血し、左目を失明した。71年に周恩来のはからいで北京に戻ることができ、翌年息子を北京の精華大学電機科で研究に従事させた。
 78年に父親がCITICを創設。暫くして、栄智健は精華大学での研究をするには年をとり過ぎていると限界を感じ、香港に移住して、父親が残しておいてくれた6百万香港ドルを元手に、独自のビジネスを始めた。天津の梁さんがジャーディン香港に移ったのも同じころであった。彼が梁さんと違うのは、父親のバックアップを梃子に、86年には香港のCITICに総経理として就任したことだ。当時まだ英国の植民地だった香港に、彼は中国政府が百%出資するCITICの香港現地法人の長となったのである。
それまでに培った香港経済界の人脈を利用して、中国政府の意向を汲んで、1997年に本土に返還される香港のインフラ、航空会社、電力会社、海底トンネルなど、返還までに事業をどうしようかと思いあぐねている、英系、地場系の資本から、次々と株式を買い進め、事業そのものを買収していった。
1840年のアヘン戦争以来、英国資本がコンプラドールを使って本土の鉄道や石炭鉱山などいろいろなインフラ、産業を買収したのだが、1990年代は、彼が本土の出先機関として、英国領香港のもろもろの産業、インフラを買収した形になった。
97年の香港返還が、彼にはまさしく、事業拡大の渡りに船となった。香港地場の華人資本家も、本土との橋渡し役として彼に何とか取り入って、うまく立ち回ろうとした。それが益々彼の事業拡大の踏み台となったのは当然の帰結である。
9.
 好事魔多し。96年まではCITICの出先として、CITIC本体とはつかず離れずうまく立ち回って、財を成した彼は、96年にCITIC北京の王軍会長に、香港CITICの完全分離独立を求めた。このとき、父親は国家副主席となっていた。一般的には、北京政府は彼の独立を認めないだろうという認識が強かった。しかし、彼は当時の中国政府の「一国二制度」というスローガンをうまく利用して、香港の出先機関を独立させるということが、中国にとって世界的ルールを守るという意思表明になるとして、独立を勝ち取ることに成功した。
 しかし、97年にアジアを襲った金融危機で、資金繰りが回らなくなり、中央のCITICから、十億香港ドル以上の支援を得て、難関を乗り切ったのだ。
その後は、順調に事業を伸張させ、香港のインフラ関連のみならず、中国本土に鉄鋼会社を設立し、その大元たる鉄鉱石を確保すべく豪州の鉱山会社に出資したのである。
 報道に依れば、その豪州の鉱山会社への出資金は豪州ドルで払い込まれるのだが、その支払いという実需をベースに、豪州ドルの為替取引契約を結んだ。
歴史にもしもは禁物だが、この豪州ドルの為替取引も、本来なら今回のような巨額の損失を出すようなことは、ほとんど起こりえないという仕組みであった。それが、08年のサブプライムローンに端を発した、リーマンショックで、栄氏の方だけが一方的に、雪だるま式に巨額の損失を被らねばならなくなるような、万に一つもありえないような事態が発生してしまった。それも実は彼の目の中に入れても痛くないというほど可愛がってきた愛娘に担当させてきた、中信泰富集団の財務部門が引き起こした事件であった。
10.
 彼が困難に陥ったとき、温家宝首相は「中央として救いの手を差し伸べるのにやぶさかでない。」との発言をした。彼は、どういう背景でこのような発言をしたのだろうか。毛沢東の評する「民族資本家のNo.1」、 CITICの創設者、栄毅仁の家系を苦境に追いこんではならないというような、古い考えからではなかろう。
夫人が大変な発展家で、自分で会社経営をしているということで、総理に就任するときに、いらぬ嫌疑を受けないようにと、離婚したという話を、複数の人から聞いたことがある。私自身も彼が2年前に日本で行ったスピーチや、英国の大学での靴投げ事件への対応。四川大地震や南方の雪害のとき、すぐさまとんでいって、人々を激励した大公無私の振る舞いに大変感動している人間である。
 温氏も青春を天津で暮らし、北京の地質学院で勉強して、甘粛省の地質関係の仕事で、金槌を片手に、岩をこんこんたたいて暮らしてきたそうだ。栄氏と略同じような世代で、お互いに嘗めた苦労を良く知り尽くしているだろう。その彼が、香港の中国返還を梃子に、巨大な富を築き、その資金、資本を本土の
いろいろな分野の産業に投資してきた。
 かつて、広東、上海、天津のコンプラドールたちが、10年で財を貯めた後、
コンプラドール稼業から足を洗い、マッチ製造や、紡績、セメント、石炭、鉄道など富国のために投資してきた。それが、弱体な政権とそのたび重なる政権交代の混乱のたびに、せっかく築き上げてきた工場資産をむしりとられ、誘拐に会い、ひどい目にあって、香港に逃れるほか無くなってしまった。
 文革でひどい目にあって、自由に香港に逃げ出せるようになった栄智健氏も、
やはり蓄積に蓄積を重ねた資産でもって、本土に多額の投資をして、共産政権を支えてきた。慈善事業には一切金を出さないケチとか、イギリスに大邸宅を買って、派手な生活をしているとか、今度の事件以来、水に落ちた犬を打てというような新聞報道がなされている。
今の北京中央としては、 CITIC香港へ支援の手を差し伸べるのにやぶさかではない。とのコメントを出すことで、これ以上の混乱を招かぬように配慮しているのであろう。一国二制度の香港での中国のシンボルが倒れては困るのである。 時宜を得たひと針が、九針をセーブする。
  大連にて 2009.8.25. 

拍手[1回]

天津のコンプラドール その6

1.
 7月27日、香港の鳳凰テレビのニュースで、吉林省の通化鋼鉄の社長が
従業員たちに吊るし上げられて、死亡したと報じていた。大陸で教育を受け、その後香港に移ったニュースキャスターは、「日本ではリストラされた社員が、自殺したりするが、中国では自分たちの首を切ろうとする社長を死に至らしめるようだ。」と揶揄しながら解説していた。
 日本にはかつて労使の団体交渉の場があり、賃金交渉が主だが、大きな負債を抱えて倒産の危機においこまれた企業が、従業員の大幅削減に踏み込まなければならないような状態に陥ったときの説明の場で、組合員が社長以下に詰めよって、経営陣は窮地に追い込まれ、病気を理由に入院するもの、自殺して従業員にお詫びするようなこともあった。
中国で従業員が社長を追い詰め、人質にとって死亡させるという事件は文革後の中国では珍しいことにちがいない。文化大革命のときには、いわゆる実権派と呼ばれた機関のトップや、工場長などが吊るし上げにされて、退陣させられ、三角の帽子をかぶせられて、トラックに乗せられて、市中引き回しされたようなことはよく起こった。それで自殺した人も多かったと聞く。
 通化鋼鉄という名前は、かつて私が、中国冶金進出口公司から銑鉄を大量に買い付けていたときの有力な供給元であったことから、その当時のいろいろなことを思い出させられた。北京から夜行列車に乗って、東北地方の製鉄所の町を何度か訪れた。当時はまだ平炉が残っていて、駅頭を出ると、七色の雲のような煙が、我々を驚かせた。公害をまだ大きな問題として深刻に考えるまでの余裕がなく、人々はその煙が煙突から出ていることが、自分たちの生活を保証してくれているとの気持ちの方が勝っていたのだろうか。住民の口からは、それに対する非難の声を聞かなかった。
2.
 さて銑鉄輸出の件に戻るが、日本は奈良時代の昔から、中国から銑鉄を輸入していたという記録がある。以前、上野の国立博物館に、ちょうど京都の八橋の焼いた菓子のような格好の「鉄片」というものが、展示されていた。これは大陸或いは朝鮮半島経由で輸入された銑鉄で、日本はこれを使って、刀ややじりなどの武器に使用していたとの説明があった。壬申の乱などのころ、こうした鉄片をより多く輸入できたものが、戦いを有利に進めることができた。これは織田豊臣軍も、明治昭和の日本も同じである。
 島根県で、砂鉄から日本刀や鎧兜の鉄を生産するようになるまでは、大陸から輸入した鉄源に依存していたのである。日清戦争の賠償金で建設が始まった八幡製鉄所も、その鉄鉱石は武漢の近くの大冶という鉄鉱山から、長江を下って、八幡に運ばれた。以前、クレームを受け、長江沿岸の大冶鋼鉄を訪れたとき、かつてここに暮らしていた、日鉄大冶の邦人たちの再訪の記事が壁に貼られていた。
日露戦争後、南満州鉄道を敷設し、その沿線に馬の鞍のような山があったのを見つけた人が、そこを発掘調査して大きな鉄鉱石の鉱脈を見つけた。それで、そこに鞍山製鉄所を作り、生産した銑鉄を日本に持ち帰った。馬の鞍のかっこうをした山には、鉄鉱石が埋蔵されているケースが多いとみえて、南京の西にも馬鞍山製鉄所があり、香港の九龍半島にも馬鞍山という鉱山があって、日本にも輸出されていた。
 第一次大戦後の列強による建艦競争に象徴されるように、帝国主義各国が軍艦や武器を大量に製造し始めた結果、鉄の需要が急増した。それで鉄鉱石の調達は益々喫緊の問題となり、先輩たちはマレー半島西岸のバトパハ近辺での採掘や、南豪州からの輸入に懸命な努力を重ねて調達に懸命であった。これが第二次世界大戦勃発の引き金の一つとなる。即ち米国の圧力によって、英系資本が採掘していた豪州の鉄鉱石輸出は、ある日突然、禁輸となってしまったのだ。
 米国は鉄鉱石のみならず、スクラップや原油の輸出も禁じた。それで、日本は、鉄源と原油を求めて、旧満州の各地をくまなく調査し、製鉄所をつくり、
軍需物資の調達を行った。もし大慶油田がそれまでに発見されていたら、マレー半島から、インドネシアに資源を求めて、戦線拡大の必要性も多少は緩和され、戦局は変わっていたかもしれない、とは大連にきてよく聞かされる話だ。
3.
鞍山鋼鉄とか本渓鋼鉄という大手高炉メーカーは、貿易開始直後は非常に積極的に銑鉄輸出をしていたが、しばらくすると、後発組に道を譲ることとなった。
 後発組というのは、高炉だけのミルで、そこで生産した銑鉄を消費地に近い上海などの製鋼メーカーに供給してきた企業である。鉄鉱石とコークスを高炉に投入し、溶融された1,500度の溶銑を鋳銑機というエスカレーターのような鋳型に注入し、なまこのお化けのような一個50KGほどの鉄の塊にして、遠隔地の製鋼メーカーに輸送する。そしてそれを再度加熱溶融するだけの機能しかない「化鉄炉」という大きな鍋で再びとかし、転炉に投入しスクラップなどを混入して、酸素を吹き込んで、鋼(はがね)にしていた。
手形決済の支払いが滞って三角債などが蔓延し、不況で上海などの製鋼メーカーからの発注が減り、入金がぱったり止まってしまったので、こうした銑鉄メーカーは、すぐ現金を貰える輸出に乗り出してきた。
 国内は中央政府の管理下で、物価水準に会わせ、原料価格も燃料価格も極端に低く抑えられていたので、最初、本渓鋼鉄などが高品位の銑鉄を輸出し始めたときは、150ドルとか160ドルという値段で、生産者も大きい利益を得ていたし、買い手側の日本の需要家も燐分とか硫黄の低い高品位銑鉄を高く評価していた。
4.
 それが、一年も経たないうちに、上述の銑鉄メーカーが、安値を提示して、輸出市場に登場してきた。その結果、洪水のように輸出ドライブがかかり、あっという間に百万トン以上の数量に膨れ上がり、供給が需要を上回った。そして値段もずるずると百ドルを切り、しまいには80ドル台まで一気に下落した。
 そのころになると、中央政府の冶金工業部及びエネルギー関係の研究部門から、強いトーンで抗議の警告が発せられた。国内の貴重な鉄源と石炭などの大切なエネルギーを、国際水準から程遠い安値で、外国に輸出するのは、エネルギーの安売り、国家資源の泥棒である。よって価格も是正し、数量も制限すべし、と。
 それで、ある日突然、輸出税を課すとの発表がなされた。
百ドル以下で契約していたものが120ドル以下では輸出許可証が下りないという。さあ困った。日本の需要家に事情を説明して、20ドル以上の価格差のなにがしかを負担してもらうことで、契約履行するようなことになった。残りは商社の負担として、通常は2-3%しか口銭の無いこのビジネスでは、数量が10万―20万トンと大きいだけに、大きな損失を蒙ることになった。需要家からは、それまで儲けた分を吐き出しなさいよと、言われた。
 それでも次回の商談では、120ドルの最低価格での成約となり、なんとか先の損失を3-4回の取引で取り戻すことの希望が見えてきた。
5.
 ところが、今度は、輸出税の問題より更に深刻なことが起こった。即ち、輸出数量規制が始まったのである。秩序だった輸出をするために、輸出許可証を、生産能力に余裕のある、大手高炉メーカー中心に絞り込んだために、中小の銑鉄メーカーには、輸出許可証が下りなくなったのだ。
本来、それらの専業メーカーは、製鋼メーカーへの銑鉄供給のために存在していたので、その大半が輸出されてしまえば、国内は供給不足に陥ってしまう。国は輸出数量を規制し、供給不足を解消し、価格引き上げに乗り出してきた。
 国際貿易で論議を起こす問題だが、民間企業間の貿易契約は、双方の政府の公租公課などに変更が生じた場合は、売り買い双方がその負担を巡って、協議して定めること、という約款がうたわれている。これは双方の力関係と市場の強弱に影響されて、その負担の方法や分担率が決まるのが常である。
 突然の輸出許可制導入ということで、相手先の銑鉄メーカーは、政府からの輸出許可が下りないとして、契約破棄を申しいれてきた。中国国内での需要も増大して、輸出に回さなくとも十分な収益が見込めるようになった。
 さあこうなると、今度は価格面での損失だけでは、ことは済まなくなってしまった。市場価格は当然のことながら、急カーブを描いて上昇する。他の国に同等品を求めても、おいそれとは入手できない。需要家からは、値段もこの前上げたばかりだから、なんとしてでも、契約どおりの条件で、3ヶ月以内に、代替品を納入せよと迫られる。
 こんな、若い頃の難儀が、瞬時に蘇ってきた。通化鋼鉄は当時、年産どれくらいだったのだろうか。宝山製鉄所が6百万トンという時代だったから、多分、百万トンはいかなかったであろう。
6.
 今回の社長死亡の記事をここ数日、丹念に調べてみた。
7月28-30日の「新商報」などの報道やテレビニュースなどをまとめると次のようになる。
7月24日、通化鋼鉄集団で群集による社長致死事件が起こった。一部の社員が、工場内で集会を開き、窮状を訴え、その結果高炉7基が生産停止に追い込まれた。今年3月に一旦は撤退した、かつて2番目の株主だった建龍集団が、7月に入って、66%の株を取得して再び経営権を握った。建龍が再度派遣してきた、前回もリストラを断行した陳社長を、殴打して死に至らしめた。
 通化鋼鉄は、吉林省の最大製鉄会社で、年産能力7百万トン。2005年に、経営危機に陥った同社の再建時に、出資者を募ったとき、建龍集団が乗り出してきて、再建途上にあった。それが昨秋から金融恐慌の影響で、業績はみるみる悪化し、今年の初めに、撤退していた。
 建龍の経営陣と通化の従業員の間には、怨念と憤怒が堆積していた。それが
7月には又再び経営権を握って乗り込んでくることになった。
 7月23日、一部社員や退職者が、それ以前のリストラなどの諸問題解決も含めて、多くの社員を引きずりこんで、直訴に及んだ。生産ラインに入りこみ、原料輸送を止め、高炉を休風させてしまった。建龍の張志祥会長は、通化の幹部たちとの合意内容を発表する予定だったが、この内容が従業員の一部に漏れ、大変な騒ぎとなった。
 それで24日朝から幹部が手分けして、各職場に説明に回った。重任社長として送り込まれてきた陳氏は、製銑工場での説明を終え、10時半ごろ、コークス工場に入った。彼がコークス工場事務所に来るということを聞きつけた職員と家族たちは、なだれをうってコークス工場に押し寄せた。それまでに彼によって解雇され、ひどい目に遭わされて来た職員とその家族たちが、「建龍は通化から出てゆけ」、「陳社長は通化から出て行け」と口ぐちに叫んだ。それでも陳社長はいっこうにひるまず、職場に戻るように説得した。そのうち、固い底の作業靴を投げるもの、ペットボトルをぶつけるものが現れた。そして、彼は廊下に引きずり出され、群集に殴打された。殴られても彼は事務所の部屋に逃げ込んだのだが、探し出されて、人質として軟禁された。
7.
 彼を人質として抑えていた男は、中国伝統の「侠」に感じての行動だと思う。彼に共鳴した人たちに支えられて、一命を賭して立ち上がったのであろう。それが群集を集め、その力で、経営陣たちに、従業員の生活のことを、これっぽっちも考えないような再建策の撤回を求めたということだ。まさか相手が死ぬとは思いもしなかったであろう。
 こうした事件を引き起こした以上は、処罰されることは覚悟の上、大衆を救うために、一身を投げだす、という義侠心が東北の片田舎に残っていた。中国では21世紀の今日も、「侠」の精神が受け継がれている。司馬遷の「史記」の中の「遊侠列伝」の主人公たちの身の処し方が手本となっているようだ。
 こうした展開で、建龍はリストラ案を撤回し、それまでの筆頭株主であった吉林省国資委と通化市政府の幹部は、取り囲んでいた群衆に対して、建龍への経営譲渡を撤回すると発表し、人質解放と現場からの撤退を求めた。
 その結果、大部分の人は退去したが、少数のものが残り、救出を拒んだ。それで、コークス工場宿舎からの突入を図り、社長を救出したが、同日23時、救助の甲斐なく、死亡した。公安関係者が死に至った状況を調査しているという。
 3万余人の従業員を今度は5千人にするというリストラ案が、買収側から漏れたというのが、そもそもの発端だという。
8.
 その後の報道によれば、事件に至った背景は、昨年の9月に始まった金融危機で、通化鋼鉄の経営も大きな打撃を受け、今年3月には、将来を見限った建龍集団は通化鋼鉄の株を売却して、経営から手を引いた。それが今年の5月に入り、政府の4兆元の内需刺激の発表により、鋼材の需要回復が顕著になりだした。線材製品中心の通化は6月の月次で、4、500万元(約7億円)の利益を計上した。
建龍は、吉林省国資委(公的機関で通化鋼鉄の筆頭株主)と協議の結果、7月に、建龍が、10億元現金出資し、国資委から株の譲渡を受け、66%を取得して経営権を握ることに合意した。そして、陳国軍というかつての社長を再度派遣し、国有企業を民営の手法で徹底的に改造しようとしたのである。
 それまでも、2005年に建龍が36%出資した後の経営改革により、給与は下がる一方で、リストラ対象者には、月間200-600元の勤務期間に応じた最低金額を払うだけ。そして現役の職員は月間1,000元のみだったが、金融危機時には平均500元未満だった、という不満不平がマグマのようにわだかまっていた。その一方で、建龍のトップは、月収数百万元も取っているとの噂が流れていた。1万人のリストラ社員の月収に相当する。
8.
これまでも多くの従業員をリストラしてきたのだが、今の3万人の従業員を5千人にするとは、これまた大変なリストラである。そもそも、国有製鉄所は、古来、病院から保育所、学校などのインフラをはじめ、鉄鉱山と石炭の採掘まで、すべてを一貫生産してきた、一つの社会共同体であった。
 社会主義経済では、低賃金、低価格の原料で、こうしたコンビナートに付帯する住民の生活がなんとか成り立つようになっていた。生産された製品は、その住民が生活してゆけるだけの収入を保証していた。
かつては10万近い従業員がいて、工場訪問の際には、生産現場のラインのみならず、発電所や病院など完備していることが紹介され、従業員の多さが自慢の種であった。会社の大きさは生産高のみでなく、何人の人間を養っているかも指標とされた時期があった。
 それが、改革解放後は、同業他社との厳しい競合にさらされ、90年代からは、インフラ関係、社会福祉関係は分離独立させ、鉄鋼生産だけに集中してきたのだが、それでも生産能力7百万トンで3万人を養うというのは、21世紀の競争社会では、困難に違いない。
 十年ほど前、かつて君津製鉄所の所長だった人から聞いた話だが、長い不況で、全国数ヶ所の高炉を止めることになった。同じ仲間として、長い間ともに働いてきた人たちに、辞めてもらわねばならなくなった。舟が沈みそうになったので、その中から何人か海に飛び込んでもらわねばならない。でも飛び込んだ人の多くは、船縁に指をかけて、もう一度舟に乗せて欲しいと頼む。その人たちの指を鋭利な刃物で切り落とさなければならない。それが高炉を止めるということだ、と。
9.
 武漢製鉄所でも、かつて劉所長から、同社が大規模のリストラを実行するに際して、多くの仲間たちには、製鉄所から出発する前に、馬と食糧、衣服をしっかり整えさせて、送り出さねばならない。馬も食糧もなにもなしで、路頭に迷わせるわけにはいかない、という話を聞いた。大都市の製鉄所だったからできることでもあった。
 この吉林省の朝鮮国境に近い通化の製鉄所を、唐山にベースを置く、設立後十年に満たない製鉄会社、建龍集団の経営により、2万5千人以上がリストラされるとの噂が、飛び交ったのである。
 米国のGMの工場閉鎖とリストラの苛酷さは、新聞でも取り上げられているが、吉林省の鉄の町通化では、この周辺に再就職の場所はなかなか見つからない。ましてや、それまでは鉄は国家なりとして、一生安心して暮らしてゆけると考えてきた従業員と年金生活者たちには、GMの労働者、年金生活者以上の将来への不安が襲ったことであろう。2万人余の従業員は他所に移るしか手立てはない。
10.
 その5でも触れたが、リオティント社の豪州国籍を取得した北京大学卒のエリート中国人幹部のスパイ容疑による拘留も、今回の建龍集団から派遣された社長の致死事件も、いずれも昨年の9月に起きた金融危機が引き金となっている。
一方は、4倍にまで膨れ上がった鉄鉱石価格が、急激な需要減退で、製鉄会社のボスと彼との間で結ばれてきた、中国人どうしの間の水増し契約の履行が、中国の悪しき伝統で、転売先がなくなった結果、秋以降は引き取りが出来なくなったこと。その不履行に対するペナルティを豪州の本社の指示に従って、各製鉄所のボスたちに、何とか一部でも引き取るか、ペナルティを支払うように交渉してきた男が、彼の内情を知る誰かから密告されて逮捕された。自分だけ儲けて、尻をすべて俺たちにかぶせて来るのは許さない、というかの如くに。
通化鋼鉄の社長も、一旦は昨秋の不況を理由に、撤退した通化鋼鉄に対して、手のひらを返したように、今度は経営権を握る66%を取得し、これまで営々と築き上げてきた、従業員の殆どを解雇する。こんなことを許しては、先輩に申し訳ない。しかもそのボスは利益を独り占めにして、1万人分の退職年金以上の収入を得ているのだ。
天網恢恢 疎にして漏らさず。
憤怒の労働者の鉄拳が彼を成敗した。
多くの中国人は今回の事件を、どのようにみているのだろうか。
腐敗した省政府の投資担当部門の官僚と、建龍のボスとの間の取引が、そのうちに明るみに出され、エンロンの如くに急拡大を遂げてきた、建龍集団が破綻するのではないかと危惧される。致死の社長への同情は少ない。
 因みに、建龍集団は鋼材貿易から身を起こした張志祥氏が1999年に鉄鋼生産企業に関与し、この十年で急成長してきた、製鉄、資源、造船、機電の4つの柱から成る企業集団で、傘下には唐山建龍、承徳建龍、吉林鋼鉄、黒竜江建龍、撫順新鋼鉄など5社を抱え、2008年の実生産高は654万トンで、2010年にはグループ全体で、年産能力は1800万トンに達するという。中国十大富豪の一人で、資産は29億ドルという。
 2009年7月30日 大連にて 

拍手[0回]

天津のコンプラドール その5

1.
 その4を書き終えて暫くして、ブラジルからフランスのパリに向かったエアバスの、不幸な墜落事故があった。中国では当初はあまり大きく報じられなかったが、4名の中国人が搭乗していたと報じていた。数日経過し、殆ど生存者の可能性が無くなった頃、搭乗していたのは遼寧省の本渓鋼鉄の経営幹部と子会社の貿易公司の役員だと発表された。豪州とブラジルの鉄鉱石の山を視察して、帰途パリ経由で帰国予定であった。
 私の中国の友人は、この4名は、鉄鉱石の輸入関連会社からの招待旅行で、ブラジルから普通ならアメリカか日本経由で帰国していれば、こんな不幸に遭遇しなかっただろうに、とのコメントであった。行間の意味するところは、パリでの観光と高価な買い物に釣られた結果の禍であるということだ。
 かつて日本でも、大手製鉄会社の幹部が、取引先の複数の商社員を連れて、ブラジルやカナダ、南アフリカなど、一般の日本人にはめったに行けない場所に、鉄鉱石の鉱山を視察するという名目で、大名旅行をしていた古き良き時代もあった。90年代の終わりに、すさまじい鉄冷えが襲来した結果、複数のやくたいもない商社経由での輸入代金支払いを停止し、口銭も大幅にカットし、各鉱山会社との直接取引に変更した。その結果、こうした慣行は激減したようだ。
 日本での鉄鉱石商談は、大手ミルが幹事会社として、業界を一本化し、豪州やブラジルなどの鉱石会社との直接交渉によって、比較的安定した価格レベルを保ちながら、2003年ごろまでは双方の納得できる、再生産可能かつ穏当な展開を示してきた。鉱石会社も何社かは淘汰され、吸収合併されたが、残ったところは、黒字経営を保ってきた。最近中国アルミとの提携やBHPとの合併話などで話題となっている、リオ社の経営危機は鉄鉱石以外の部門での採算悪化や投資の失敗などが主因だと言われている。
鉄鉱石会社と製鉄会社は、お互いを「同じ船に乗り合わせた乗組員仲間」として、互いに相手なくしては生存してゆけない、という固い絆で結び合ってきた。お互いの目指す方向は、より競争力のある企業へという点で一致していた。
片方だけが、大もうけするということは、長い目でみれば通じないことだとの
はっきりした認識を共有していた。
2.
 この絆がゆるみ、両者の関係が大きく変動したのは、2005年の価格が前年比71%も上昇したことが発端であった。その後も毎年値上がりし、08年には96%も上昇し、5年間で4倍以上となった。こうした値上げの魁をきったのは、中国の鉄鋼会社の買い付け窓口会社であった。この間、石油の上げ幅も大きかったが、産業の基礎原料としての鉄鉱石が非鉄金属や希少金属のような大変動を起こすことは、なにか不自然な要素や背景が、作用しているのではないかと、かつてこのビジネスに関わったものとして、とても気がかりで、原因は何だろうかと長い間、気になっていた。
 どうして、中国の製鉄会社はこんなに急激な価格アップを受け入れられるのだろうか。いろいろな人に聞いてみたが、明解なコメントには出会えなかった。それが今年に入って、日本ミルが価格交渉の主導権を取り戻し、33%ダウンで決着したとの報道が流れ、中国側がそれをいっかな認めようとせず、膠着状態に陥っているとき、ある中国人の言葉が、ヒントとなりすんなりと私の頭に入ってきた。輸入割り当てという言葉だ。
3.
 言うまでもないことだが、商品の価格が需要と供給によって決まるというのは、ゆるぎのない論理である。しかし中国での鉄鉱石の価格が、日本の「同じ船の仲間」という特別な絆とは、無関係な「余分の輪」がいくつも介在していることが、4倍以上の値上げをもたらした原因ではないかということであった。
即ち、同じ船にもともと乗ってはいない、乗ってはいけない人が、船に乗り込んで、個人的な利益の為に、船を上下左右に大きく揺さぶったことが原因なのではないか、ということだ。
 それは、こうして起こった。年間1億トンほどの粗鋼生産量であった中国が、
過去数年の間に、あっという間に4倍以上の生産高を誇るようになったのだ。
中国各社の生産高の発表数字は、同じ粗鋼の何パーセントかが、切断工程での切れ端とか、あるいは不良品として、短期間後にすぐまた同じ炉に戻され循環されることから、何割かは割り引いて見なければならないが、4倍近くにまで膨れ上がったのは、事実であろう。
 それにしても、生産量の急激な拡大と、価格の急激な上昇が、ほぼ同じ比率というのは解せない。この裏には、なにか中国的なマジックが働いていたと見るのが妥当である。そのマジックの技、舞台裏が、なかなかつかめなかった。
誰しも、自分の作ったものが、高い値段で売れているうちは、あまり深刻にものごとを考えることはしないようだ。売れなくなり、経営不振に陥ると、その原因を突き止め、再び這い上がろうと懸命に努力する。そうした過程で、過去の4倍以上もの価格アップの原因を探し出そうとし、それを排除して、健全な状態に戻そうとする。そうした動きの中で、一つの事件が起こった。
4.
それは、7月に入って、中国当局がリオティント社の上海事務所の駐在社員4名を「国家機密を盗んだ罪」で拘束したことである。それから、いろいろな報道を注意して読んでいるうちに、何かが徐々に分かり始めたような気がする。
公開された資料に依ると、4名の所謂「スパイ」のトップは中国天津が本籍で、1957年生まれ、天津の抗大紅一高校卒業後、北京大学に学び、80年代には、赤い資本家と言われ国家副主席にまでなった、かの有名な栄毅仁の設立した「中信集団」という国有企業に入り、順調な滑り出しをしていた人物、胡士泰という男が本件の主役であるということだ。
 1992,3年ごろ、まだ外資系企業にトラバーユして高給を食む中国人が少なかったころ、彼は、オーストラリアの会社が北京に設立した事務所で、コンサルタントと貿易の仕事を始めた。7月15日付けの「新商報」に依ると、この事務所は北京東城区の香港マカオセンターというビルにあった。その後、彼はリオティント社に入り、ハマスレー鉱山の販売に携わり、オーストラリア国籍を取ったという。
 世界の三大鉄鉱石会社の中国事務所には、彼と似たような経歴の持ち主が多いと伝えている。かつて国有大企業や製鉄会社に勤務した経歴があり、英語も堪能で、中国の業界事情にも詳しく、各製鉄所のトップにも人脈がある人間を、自社の駐在代表に据えている、という。
 筆者自身も、1980年代初めから1990年代の終わりまで、中国に駐在し、或いは日本からたびたび中国に出張しては、こうした人々とも接触し、情報交換などして、各ミルの増産計画、即ち3年後あるいは5年後には、新たな製鉄所を某所に建設し、生産規模を現在の2倍にするとか、4倍にするとかの非常に景気のよい情報を得ていたことがある。彼等は、本当のことも漏らすだろうが、時にはガサネタのときもある。同じ供給者として、自分にも利益になると思われる情報を、故意にリークしたりもする。
 彼等自身は、中国語でいうところの「自己人」として、製鉄所のトップやその周囲の人々と、同じ仲間、身内として付き合い、夕食をともにし、高価な贈り物も届ける。贈りかたも完璧に熟知しており、贈賄として検挙されないような、とてもうまい方法を使っていた。ところが、ここに来て、誰か密告したのか、首都鋼鉄の幹部などの名前が新聞に発表されはじめた。収賄容疑である。
5.
 彼らが各ミルから入手した情報は、オーストラリアの本社に打電され、それらの情報を、何人もの人間から別個に送られてくるものを、整理して、その信憑性に点数をつけ、比較的確度の高い情報だけが、スクリーンされ、コンパイルされて、3大鉱石会社の経営トップに届けられる。翌年の需要の伸びや3年後の需要の伸びをしっかり頭に叩き込んだ経営幹部は、価格交渉の窓口担当に対して、自信を持って高姿勢で臨むように檄を飛ばし続ける。その結果が4倍近い値上げとなったのであると言えよう。
 この時に、3大鉱石会社だけが儲かったのか、というと、事はそう単純ではない。鉄鉱石価格が上昇している間、日本の各製鉄会社も空前の収益を誇った。株価も上昇し、配当も信じられないほどの配当を実行できた。その時点では、
オーストラリアの楽天的な男たちがよく口にする、ウインウインの状態であった。
 一方の中国ではどうであったろうか。
国有製鉄会社の幹部と自社で設立した鉱石の輸入専門会社のトップは、リオ社の胡士泰氏が、会社を訪問する時は必ず顔を出し、市況や世界動向に関する情報交換をしながら、夕食を共にする。この時に、相応の手土産を受領し、自社の必要量を内密裏に彼に漏らし、実需より何割か多めの数字を流して、その数量供給の密約をさせる。胡氏の本来のミッションは、支払い面などに問題のない、国有会社への販売量拡大が第一義であり、そうした国有会社との年間契約を締結して、ビジネスを成功させ高額の給与とポストを得てきたのだ。
 中国マジックのからくりは、上述の国営の製鉄会社が輸入割り当て量を自由に操作できる「鉱石輸入を目的として設立した特権的な貿易会社」が自社分以外の割り当て量を、年間契約を締結できないような中小の製鉄所に、プレミアムを付けて、配給してやることにあった。ところが、急激な需要減退の結果、
中小ミルは、そうした数量を必要としなくなった。それで、年契で約束した数量引取りを履行できなくなってしまった。胡氏の仕事は、契約相手に対して、昨年度の契約価格での、契約履行を迫ることであった。履行しないなら、契約に基づいて、ペナルティを支払うように求めることとなった。これが、事態を急転させる引き金となったようだ。
6.
 日本の場合は、殆どの製鉄所は、自前の専用バースに大型船で運び込まれた鉄鉱石を、自社の製鉄所の高炉の出来るだけ近いところに荷卸しして、コスト削減することを最大の目標として設計、立地してきた。
 中国の場合は、殆どの製鉄所は新設の宝山製鉄など一部を除き、古来鉄鉱石か原料炭の取れる内陸に設立されてきた伝統がある。そのため、オーストラリアから運ばれた鉄鉱石は、一旦、大連や青島などの公共の大規模鉄鉱石埠頭に下ろされ、内陸の製鉄所までの長い距離を列車やトラック、或いは長江などを内航船で運ばれる。
 その間に、実需以上の部分の鉄鉱石は、長期契約価格より割高な値段で、転売されて、その差益が、その貿易会社の収益となり、幹部の懐を潤してきた。この価格格差がある限り、そしてまた値上げによるコストアップを、製品価格に転嫁できる限りは、値上げを拒否しなければならないという、必然的な理由は無かった。逆に言えば、前年価格で仕入れた原料をもとに、新価格での鋼材を顧客に転嫁できる限りは、経営者にとっては、右肩上がりの楽な経営ができたという点で、心の底ではありがたがっていたかもしれない。この動きに日本ミルも便乗した格好だが、本来は、基礎原料としての安定的な価格水準の維持を最優先させねばならなかった。原油価格の高騰に伴って、石炭をはじめ、あらゆる原燃料の価格が不自然なまでに高騰した。それを阻止しようとする健全な経営感覚が麻痺させられた。供給側でも、3大鉄鉱石会社の寡占が極端に進んだ結果、競争原理が働くなったことも、大きな影響を与えた。
7.
 胡士泰氏が逮捕され、いろいろな情報が飛び交い、オーストラリア政府は、これはあくまでビジネス上の問題で、国家機密云々というのは濡れ衣だとし、中国のビジネスの信用度に大きく係わってくるとコメントしている。
 中国のインターネット上には、胡士泰スパイ事件のアンケート調査に対して、13万人近い人からのアンケートの回答を得たとして、91%以上の人が、リオ社の国内外での結託(筆者注;3大鉱石会社のカルテル行為と、中国の貿易会社との結託行為を指すか?)は、国有企業と外資企業との間の交渉で普遍的に見られる現象であると看做しており、89.5%の人が、本件は「国家機密を盗んだ」行為と看做している。また、6.9%の人は、これは産業スパイだとし、3.6%の人が、これは商売上の贈賄だと考えている、と発表している。
 殆どのインターネット庶民は、胡士泰に対して、譴責せねばならぬ人間だと考え、更には、「漢奸」で「買弁」だと呼んでいる人もいる。「漢奸」とは売国奴の意味で、歴代王朝が滅びるとき、敵に通じて、国を滅ぼした売国奴のことである。記憶に新しいところでは、汪兆銘や周作人に与えられた。
要は中国人で北京大学という中国の最高学府で学びながら、オーストラリア国籍を取って、リオティントという外国企業の為に、中国の製鉄会社、ひいては中国国民に高い鉄鉱石を売りつけて、国に対して敵対行為を行った売国奴だということか。
 おっと、忘れてはいけない。「買弁」コンプラドールだと呼んでいる人たちがいまだにいることだ。百数十年前にイギリス資本などの為に、中国の国有企業とか政府機関との間に介在して、莫大な利益をあげてきた人のことを、21世紀のインターネット庶民は、まだ忘れていなかったのだった。しかも胡士泰氏は天津の抗大紅一という名前からして先の戦争中に抗日を掲げた有名大学の付属高校出身だから、天津のコンプラドールの伝統を受け継いでいることになる。これには正直、私もびっくりした。
8.
 「国家機密を盗んだ」という罪は、今後の調査の進展を注意深く見守らねばならない。中国の鉄鋼生産政策は、国家機密なのか、ビジネス上の秘密なのか、これは議論の分かれるところであろう。中国の特色ある社会主義経済体制下では、どのような判断が下されるのであろうか。
ただ、ここ数日、胡士泰氏と接触したと見られる数多くの国有製鉄会社の関係者が、次々に呼び出されて、尋問を受けていることを報道していることから、
問題の根深さが伺い知れる。盗んだ罪を咎めるためには、それを盗ませた人物の特定と、その代償としての金品授受の有無。そして、それらの関係者の処分が発表されることになろう。
 今後、こうした機密を漏らしながら、個人的に懐を肥やしてきた連中が再びのさばることのないように、というのが関係当局の狙いであろう。
 「国家機密を盗んだ罪」と、「それをさせた連中」というフレーズを書きながら、30年ほど前のことを思い出さずにはいられなくなった。筆者自身、北京の新僑飯店に滞在していた頃、数名の会社の先輩が、かつてこのホテルに軟禁されていたことに対するお詫びとして、中国の公安当局から招待されて、北京にやってきたことがあった。3階の廊下を歩いているとき、私たちの事務所にその先輩たちが挨拶に来られた。軟禁されていたのは、40数年前の文革のころであった。私が日ごろ気さくに声をかけていた、ホテルの年配の従業員が、
私のところに寄ってきて、耳元で、「私は彼等を知っている。」と驚いた様子で「私は彼等に食事を運んでいた。」とささやいた。
 軟禁された理由は、通常の業務報告で、その当時の出来事を日本の本社に連絡していたことが、「機密を盗んだ」との嫌疑を受けたためだと、聞かされた。
その報告書の文中に、街頭で大字報という宣伝ビラを張っているひとや、示威運動をしている人たちを、「連中」と呼ばわったということが、当局の日本語堪能な審査官に咎められたから、とも聞かされた。それからは「連中」という単語を報告書などに使うのを止める事にした。
9.
 2008年8月の北京オリンピックが閉幕して、リーマンショックで、世界金融恐慌が起こり、日米欧の鉄鋼メーカー各社は大減産に追い込まれた。自動車など鉄を使用するすべての産業の需要が激減し、あらゆる分野での鉄鋼消費が落ち込んだ結果、過去4年間、あれほどの活況を呈した鉄鋼業界は谷底に沈んでしまった。
 この影響は、当然のことながら、鉄鉱石価格の下落につながった。 2009年の鉄鉱石商談は、上述したように、33%の値下げで決着したが、中国はこれを認めず、40%以上下げろと主張してきた。
 それが、当局の取調べが始まったころから、状況に変化が現れた。7月15日には多くの製鉄会社が、33%値下げで同意したと報じられている。これは、多くのスポットサプライヤーたちが、これまで長期契約価格より下回った価格での取引に応じ、3大鉱石メーカーとの価格妥結の前に、より多くの鉄鉱石を中国向けに販売してきたのだが、そろそろ景気の底を打ったと判断して、値上げに転じたとの情報にも関係していることだろう。需給のバランスが取れ始めたことを示す証左だ。
10. 
しかし、33%引きで手を握ろうということになったのは、これ以上、価格交渉を長引かせて、膠着状態を続けていられなくなったのが主たる要因だと、推測される。早く次の船を回して、他人よりも早く安い価格で、原料を調達して、より競争力のある鋼材を出荷して、4兆元の予算の建設鋼材部分を出来るだけ沢山取り込もうとする動きが出てきたことによる。現金なものである。
中国政府の推進しようとする、中小規模の製鉄会社を淘汰して、生産能力を徹底的に絞りこもうとする大号令がでたので、淘汰されてはかなわぬと、将来を見越す力のある経営者たちが、大手メーカーに先んじて、妥結の道を選んだのであろう。中央政府は政策による厳しい淘汰で企業の数と生産能力を削減し、製鉄業を健全なものに引き締めると言いながら、一方の地方政府は、同地区の大きな税金収入の柱であり、基幹産業で、周辺関連企業の雇用問題などから、そうやすやすとは淘汰は実現できまい、というのが業界関係者の大方の見方である。
 日本の製鉄各社も、大分など止めていた高炉に再火入れを決めたところが出てきた。需要回復が、現実のものとなってきたことが大きい。昨年9月から始まった、世界的なマイナスのスパイラルが止まった。リオ社の胡士泰氏のスパイ事件がトリガーとなって、一つの時代が終わろうとしている。20ドル前後だった鉄鉱石の価格が、4倍に跳ね上がり、原料炭やコークスなども暴騰も加わって、産業の米と言われた鉄鋼までが、バブルの波にさらされた。
世界の鉄鉱石鉱山会社の数が極端に減少し、その3大鉱山のうち、BHPビリトン社とリオティント社という2社が合併するという。これが、鉄鋼を消費する産業と諸国民から受け入れられるかどうか。そういう時に、またしても、中国には、天津のコンプラドールが登場して、会社という公器の収益のためではなく、ポストについている貪欲な人間の個人的な利益のためにという人間の欲望を最大限に利用して、ビジネスをしてきた「買弁」は今後も、姿を変え、形を変えて、新たな舞台に登場し続けることであろう。経済活動の活況が続く限り、消え去ることはあるまい。
(完)  2009年7月16日 於大連


拍手[0回]

天津のコンプラドール その4

1.
 梁さんが香港に去った後、私は北京転勤となった。外貨兌換券(FECと称した)が普及し始めていた。外国人は本国から持参した外貨や、送金されてきた給与を、この兌換券に交換しなければならなくなった。輸入された生活必需品や酒タバコ、家電などはこれでないと買えなくなった。と同時に、一般の市場や商店で売っているものも、これで支払うことになった。最初のころは、偽札ではないかと疑われて受け取らない店もあった。地方に出張に行くときは、北京で元に交換して、持ってゆかないと通用しなかった。
 そのうち、北京飯店の前や外人向けの友諠商店の前に、この兌換券を元と交換しないかと、もちかけてくる闇のブローカーが出没するようになった。本来等価であるはずの兌換券と元は、みるみる内に元安になっていった。これが手に入れば、のどから手の出るほど欲しいカメラや家電製品が買えるのだ。
 「線香の火」という随筆集のなかで、日中戦争の起こる前の中国を旅していた、金沢大学の教授だった増井経夫氏が、そのころの中国各地の通貨交換レートについて触れている。病の篤くなった魯迅に、日本に来て治療するよう、岳父からの招請を伝えに、上海に魯迅を尋ねた。結局魯迅は日本には来ないのだが、上海で暫く暮らした後、船で広州に向かった。広州の町で買い物をして、金を払う段になって、上海で使っていたお札を出すと、つりは広州で通用している札で、自分の想定していた額より何割も多く返ってきたので、奇異に感じた、と書いている。広い中国では、各地で何種類かの紙幣が発行されて、通用していたが、それぞれ発行元の信用度で交換レートが異なった。これは清朝時代以来の「票号」という手形の発行元がそれぞれに発行,流通させていた「票」の信用度とか、馬蹄銀でも銀の含有量などでレートが違っていたことから、中国では、極当たり前のことであった。
2.
 中央銀行が、一般庶民向けに発券していた人民元と、外貨の裏づけのある外貨兌換券を併行して発券するようになった。これはそれまで鎖国のように世界から孤立してきた中国の経済を、ドルや円という西側資本主義経済の中に、踏み込ませようとする試みの意思表示であったと思う。
 それまでの元というのは、外国人が持ち込んだ円やドルを、入国のとき、交換申請書に正確に申告し、元に交換して使用した後、出国の際には、すべて外貨に戻さなければならなかった。当然ながら、持ち込んだ額以上を、持ち出すことはできなかった。通貨鎖国状態であった。駐在員仲間で、賭けマージャンをして大量に勝った人には、「そんなに稼いでも、国外持ち出し禁止だから、円で払うからまけてくれ」と冗談を飛ばすのが、負け惜しみであった。
カメラやラジカセなど持ち込んだ物は、出国するときに必ず持ち帰らねばならなかった。何万円もするカメラを無くしたり、泥棒に取られたりしたら、入国時に査定された金額を罰金として、徴収された。持ち込んだ品を高値で中国人に売って儲けようとする輩が多かったからだ。実際に盗まれたり失くした人は、罰金まで払わされて、泣き面に蜂であった。
3.
 清末にも、自国の通貨とは別に、欧米諸国から茶や絹織物の代金として流入した大量の銀貨がメキシコ銀として流通していた。これはまさしく、銀の裏打ちのある正真正銘の通貨で、世界のどこに出しても通用するものであった。当然、このメキシコ銀と清朝の貨幣との交換レートは、日々変わって行き、大量の流入によってインフレが起こり、一定額の給与のみで、清朝を支えてきた満州八旗の旗本たちを窮乏に追い込んだ。その結果、曽国藩、李鴻章、袁世凱と連なる、漢人の私兵軍隊、淮軍、湘軍、その後の北洋軍に、実権を奪われることになった。
徳川末期の旗本たちも似たような運命をたどっている。特に、日本の金と銀の交換レート差とメキシコ銀であふれる清国の4倍近い差を、狙い撃ちにされて、ハリスを含む幕末日本にやってきた欧米人たちは、大量の銀貨を持ち込み、4倍の値打ちのある日本の金貨小判を大量に持ち出した。その防止策として幕府の銀貨は改鋳され、悪貨に駆逐された結果、猛烈なインフレにみまわれ、幕府からの支給だけに頼っていた旗本たちは窮乏し、徳川幕府の命脈をちぢめることになったのは、歴史の示す通りである。清王朝も徳川幕府も同じ旗本体制による鎖国は、金と銀との為替レート差に目をつけた、欧米諸国の貪欲な使節と商人たちの餌食になったと言えよう。
4.
 1970年代から80年代にかけて、中国に暮らしていた外国人にとって、ある日突然、元から兌換券に変更され、それにしか両替できなくなったので、買い物するのに、店主の態度がコロっと変わったのに戸惑った人が多いと思う。最初は、偽札じゃないかと疑がわれ、受け取ってもらえなかった。それが暫くすると、二重レートになり、重宝されるようになって、今度は逆に、これでないと売ってくれなくなった。
袁世凱か段祺瑞かの妾宅といわれていた、立派な四合院を改装して「四川飯店」としてオープンさせ、観光客を呼び寄せることが始まった。紫禁城の北の北海公園の中の、西太后たちが宴を張っていた宮殿も改装して、「仿膳飯荘」として、外人向けのレストランを次々に開き、外人料金として値段を吊り上げていった。それまでは、宴会といえども、一人30元とか40元だったのが、百元、二百元へと値上げされていった。
 この頃から、インフレが始まり、元の切り下げが始まった。西側各国との貿易を活発化し、来料加工などあらゆる手段を導入して、外資を呼び込み、外貨を稼ぎ出すためには、自国通貨を切り下げて、輸出競争力を高めてゆくことが出発点であった。改革開放とは経済的豊かさの追求であった。豊かさの追求をテコにしたのが、現代中国の特色ある社会主義市場経済である。
 円とのレートで言えば、もちろん円自身が切り上ったことも大きいが、1970年代の1元150円から、急激に切り下がり、90年代の終わりには15円と、
10分の1にまで切り下がった。その分、インフレが進み、月給も3元から何百元の時代に突入した。それでも円に直すと1万円以下であった。
5.
 幕末に清国から大量の安い銀が日本に持ち込まれ、日本の金の小判が大量に流出した時代と似たような状況が起こってきた。それは日本のみならず、米欧にも急激なスピードで広まっていった。21世紀の今日では、銀の代わりは、繊維製品から運動靴、玩具、ライター、自転車などありとあらゆる軽工業品が、世界市場を席巻した。今ではテレビなどの家電は殆ど中国製となってしまった。
 大量のドルが中国の外貨口座に記帳され、2兆ドルを超えた。英国が買った大量の茶の代金の銀が貯まりに貯まったのが、19世紀の初頭である。そのころの清国は、英国が売りたがっていた綿製品や毛織物をまったく必要としなかった。朕の国は地大物博で必要な物はすべてあるから、イギリスから買いたいものは何もない。ただ、イギリスが茶とか絹を欲しいというから、分けてやろう、というのが清朝のイギリス使節への傲慢ともいえる回答であった。
 それを腹に据えかねて、その銀を取り戻すために売り始めたのが、アヘンであったとは先に触れた。
 今の米中関係は1840年以前の英清関係と、この点で似ている。今の中国も、米国から買いたいものがないので、米国の債権を買うしかない。この債権がアヘンのような毒性を発しないとは限らない。人体への害毒というよりは、ドル安など、中国の金融産業界への悪影響である。アメリカは、アヘンや債権に代わるものを、早く中国に提供できるようにしなければならない。いつまでもこの状態でやっていけるとは考えられない。かといって、収縮均衡にするのでは芸が無い。果たして何が良いのであろうか。
 或いは、中国政府が小麦など食糧買い付け価格を、戦後日本のように上昇させて、農民の購買力を高めることで、中国全体の給与水準も上昇し、人件費面での輸出競争力が低下していけば、今日のような中国製品の世界制覇は緩和されるだろう。それでも米国の赤字垂れ流しは止まないだろうが。
6. 
 自転車が、中国人の生活で最も高価な財産であった時代。それがカラーテレビになり、今ではマイカーの時代になった。おかげで、最近では北京市内の車の数が増えすぎて、夕刻の退社時間には、道路と言う道路は駐車場と化し、歩いて5分の距離が20分かかる様になった。北京市内の自動車の必要駐車場面積は、市中心部の一つの区に匹敵するといわれている。それで曜日に分けて、奇数と偶数のナンバーいずれかしか、市内に入れないような規制を取り出した。それでも、「お金持ちは奇数偶数の2台で対策を講じている」と口さがない人は言う。
 人民公社が無くなり、請負制で農民の生産意欲を高めて、生産性をあげて、世界の経済水準に、10年で追いつこうとしていた変化の時代。北京に暮らしていた外国人は、まだゴルフ場も無く、週末に自由に郊外に外出することも制限されていた。少し遠くに出かけるには、旅行証を申請しないと、遠出から帰ってくると、警察からのお咎めを受けた。尾行されていたのか、或いは誰かが通知したのであろう。気味の悪い状態はその後も続いた。
 それで、週末は市内の天壇公園や頤和園、香山のお寺参りをするぐらいしか、娯楽がなかった。車も無いので、たいていは住まいの近くの「国際クラブ」
という外国人のための映画館やプール、テニスコートなどで過ごした。
 ある日の午後、我々がテニスをしているところに、北京の体育協会の関係者が入って来て、日中友好テニス大会を開きたい。ついては参加者の名簿を出すようにとの申し出を受けた。 我々は、大使館の人や商社の駐在員など十数名のリストを出した。当日、先方の名簿の中に、梁某という名前があるのを見つけた。試合後、懇親会で挨拶した。年恰好は60を超えているようであった。
 確か、私の梁さんの次兄は、長男が身代金誘拐事件で殺された後、彼の後を継いだのだが、自分の性格に向かないとして買弁をやめて、自分で貿易会社を作ってビジネスをしていたが、革命後は貿易が国家管理になったので、教育関係に転じ、北京に移ったと、梁さんから聞いたことがあった。
 私は梁さんに「私は天津で、梁文奎さんという人とテニスをしたことがある」と話を切り出した。彼は、突然の話題に驚いたようだった。ややけむたそうな雰囲気ながら、「彼は私の弟だよ」と応じたが、すぐ自分の箸で料理を取り分けて、私の皿に乗せてくれた。そして、「彼はもう天津にはいないよ、香港に行ってしまったよ。」と話したきり、話題を他に転じてしまった。これ以上弟のことに触れて欲しくない感じであった。それで、彼の気持ちを察して、昼のテニスの話に戻した。北京にはテニス人口はどれくらいかとか、外国人が使用可能なコートは何面くらいあるかとか、とりとめのない話で、その日は終わった。
7.
 それから1ヶ月ほど経った頃、我々がテニスをしていると、隣のコートに彼と仲間たちが入ってきた。我々は、試合の合間にベンチに腰掛けながら、最近の北京のレストランが急に高くなった話をすると、「それなら中国の職員に頼んで、元で払えば、安く上がるよ」という話などをし、私が貿易会社に勤務しているという話をすると、彼も、「若い頃は、自分で貿易会社を作り、香港、イギリスなどと貿易をしていたのだ」と語りはじめた。
 「建国後は、国営の進出口公司で働いていたけれど、買弁をしていたという経歴がなにかと問題にされたので、体育関係の教師の仕事が見つかったのを機に、そちらに移り、今は体育協会の仕事をしている」と話してくれた。
 「私は日本の貿易会社の北京駐在として、五金鉱産公司との取引を中心に仕事をしている」というと、何名かの対外貿易部傘下の公司の人たちの名前を挙げて、以前一緒に働いていたと話してくれた。
 中国の対外貿易は、中央政府直轄の対外貿易部という官庁の下に、商品分野ごとに分れて、限られた数の進出口公司が独占していた。北京の総公司の下に、各省、各港湾に分公司が置かれていた。我々外国商社と接触するのは、すべてそれらの公司の職員で、日本でいえば役人であった。
 国内の各需要家から、向こう半年間に必要とされる鋼材とか原料などの明細を取り纏め、年に2回、大量の注文をすることで、世界一安い価格を引き出そうと懸命な駆け引きが繰り返された。貨比三家、と称して3社以上の供給者から見積もりを取り、その中の一番低い見積もり提出者を上手く誘導して、他から更に廉価な見積もりがでているように疑心暗鬼をおこさせ、さらに2割、3割の値引きを突きつけた。それでも供給過剰で行き場を失った大量の鋼材が、毎年数百万トンも中国に輸出された。これはこれで、世界資本主義市場の需要と供給のアンバランスを補って、鉄鋼メーカーの存続と成長には何がしかの貢献をしたのかもしれない。固定費を薄めるための商売が続いた。
私自身もそうした取引の中で、対中貿易の実践的な方法を学び育ってきたわけだ。その間にいろいろな人々に遭遇した。腐敗し、私腹を肥やす人を見ながら、私自身は距離をおくことができたのは、そうした人たちの末路を見てきたからであろう。香港に高飛びした男。相場に失敗して二度と祖国に戻れなくなった人。友人をすべて失った者。人から後ろ指をさされることになった人たちを、何人も見てきた。
8.
 進出口公司の買い付け担当のことを、日本駐在員社会ではそれぞれに渾名をつけて呼んでいた。彼等はたいてい二人で外国人との商談に臨んだ。主談と書記という格好で、書記は一言も発せず、何も記録していないようにボーッとしていながら、主談の発言に問題が無いか、外国商人と何か癒着でもしていないかチェックしていた。
 どのように外国商社と商談するかの手引書というものがあって、あとになってからの話だが、親しくなった人から笑い話として見せてもらったことがある。骨子は、共産ソビエト時代の輸入公団が、欧州の会社との交渉のプロセスを記述したものを、中国版に翻訳したものだ。だが、買弁がこうした外国貿易を仲介してきた中国で、一人で交渉を行わせることの危険性は、長い伝統から脱け出ることのできないほどのDNAとして、染み付いてしまっているので、この防止のために二人での相互監視体制が、腐敗の起こりえないといわれた社会主義体制下の国営公司でも必須であった。
  そうした対外貿易部傘下の進出口公司の独占状態が、1980年代の初めに、突如崩されることになった。それまで、対外貿易部に独り占めされてきた
貿易のうまい汁を、それぞれの産業、工業を所管する冶金工業部とか、石炭部という省庁が、冶金進出口公司とか煤炭進出口公司を設立して独自に貿易できるようになった。
 これが、中国の対外貿易の飛躍的な発展の導火線となった。その後、中央の各工業部だけでなく、上海や広東など主要都市の市政府も市名を冠した貿易公司を設立し、更には、各個別企業が傘下の専門貿易会社を作って、中央の支配から自由になった形で、諸外国との貿易を始めた。
 とりわけ、香港やマカオの中国人経営の貿易会社との取引で、相互に相手の
かゆいところに手が届くようになると、この腐敗の細菌は一気に増殖した。
大陸の公司が、香港に自分の会社の出先機関として、現地法人をつぎから次へと設立し、そこに取り扱いにからむ口銭をどんどん溜めていった。
 こうなってくると、それまで二人体制で、相互監視してきた、腐敗防止用の
薬も効かなくなってきた。対外貿易部のみで独占してきたときには、比較的腐敗も少なかったが、硬直的であった公司の先生方の対応に大きな変化が現れてきた。
9.
中国内でも同じ商品を扱う公司が幾つもでき、メーカーの販売担当との関係とか、個人的な結びつきが、その商売に大きな影響を与えるようになってきた。
 中国の工業生産高が年率10%以上の大きな伸びを示し始めると、産業の米としての、鉄鋼生産に欠かせない、銑鉄とかスクラップ、或いは鉄鉱石という原料の調達が、大変重要になってきた。
 つい2年ほど前までは、大量の銑鉄を日本に輸出して、日本の鉄鋼増産を支えてきた中国の中小高炉は、今度は中国各地からの鋼材の需要増加に対応するために、大量の銑鉄スクラップの調達に走った。社会主義経済で年間の生産計画を作って、中央政府の冶金工業部から、所要銑鉄量の配分を受けてきた鉄鋼メーカーは、今度は進出口公司に出向いて行って、増産で足りなくなる分を海外から調達するように懇願しなければならなくなった。原料さえ入手できれば、そしてそれを製品にさえ加工すれば、莫大な利益を入手できるのだった。
 この時に何が役に立つかといえば、窓口どうしの人間関係であり、その人間関係というものも、金銭的なものと切り離しては考えられないのである。それがこの国の必然であり、それは日本でも似たようなものであるが、社会主義革命を経て、戦前のどろどろとした状態から抜け出し、清貧を第一義とした社会になったかに見えた30年を経た後のことでもあり、“旧社会に戻った”というため息が、年配者の口から漏れるようになった。
 しかしそのため息の一方では、個々人が富を追い求めることができるようになった、というか、主義の金縛りからようやく解放されて、もとの漢民族の古くから親しんできた慣習に戻って、自由の空気が吸えるようになったという安堵感も感じられた。
 清廉、清潔な主義を掲げるだけでは、社会は住みやすいとは限らないようだ。
10.
 こうして現代の貿易は国営の進出口公司から、民間の誰でもが設立できる、貿易会社の時代に移った。もはや買弁は必要なくなったように考えられた。ところが、である。買弁は死なず、蘇生してきたのである。いや蘇生しただけではない。更に細胞分裂を重ね、19世紀植民地時代よりも、より大がかりとなった。今日、買弁は、中国各地の市役所の経済担当部門の局長のために、外国資本を呼び込み、有望な区画を払い下げてもらい、共同でその土地を工業団地にし、マンションを建設して、その投資額の中から、莫大なリベートを取る。それを販売して、上層部へ上納し、次の開発のための払い下げを拡大してゆく。それでより高い位の官に就いてゆく。買官である。
 これは、かつての東京湾埋め立てによるコンビナート建設とか、1960年代に日本の産業資本と国や県が一体となって、通産省の旗振りの下で、世界で物づくりのトップレベルに躍り出る、日本の産業構造の現代化を推進してきたことと、あわせ考えると面白い違いが見えてくる。
 日本にも確かに、造船疑獄とかロッキード事件、そして直近では防衛省次官などの腐敗がはびこっている。但し、その頻度と程度において、日中間では大きな差があると言わねばならない。かつての日本の通産省などの幹部は、もちろん、自己の出世のためもあったが、資源小国日本の発展のためには、何が一番よいかと真剣に考えていた時期もあった。自分の懐を肥やそうとして、役人になろうというモチベーションは相対的に少なかったと言える。
 中国の役人は、もともと役所の高官になることで、そのポストにいる間に、どれだけの財産を溜め込めるか、が最大のモチベーションの者が多い。況や、自分が長官である間に、実力のある買弁と手を組んで、そこと結託して自分の富を増やすことが最大の眼目であるような役人が多い。次からつぎへと摘発され、テレビでその死刑の場面まで放映されながら、今尚後を絶たない。
 中央政府の政治家の中には、国の発展の為に、身を粉にして活躍している人が何名かいて、そうした人たちがいることが唯一の救いであるが、地方レベルで、市長や省長クラスの役人の腐敗がなくなるのは、黄河の水が澄むのを待つより遠い先のように感じられて、ため息が出る。
それでも中国は発展し、人々は世界の中で、アメリカ人に次いで明るく、楽観的に暮らしている。
 2009年5月 大連にて 

拍手[0回]

天津のコンプラドール そのー3

1.
 梁さんの口から出た「四人組」というのが、私の耳に蘇った。中国語では「四人幇」(スーレンバン)と言う。前にも書いたが、梁さんの父親は当時の天津で「広東幇の最大富豪」と呼ばれていた。梁さんを牢屋に入れたのは、「四人幇」だったが、その「四人幇」が今度は獄に繋がれることになったのだ。わずか十年の間に、天地がひっくり返った。
 梁さんの父親、梁炎卿は吝嗇としても多分、広東幇のナンバーワンだったかも知れない。劉海岩氏は次のように記す。梁は平素から吝嗇で聞こえ、朋友や同郷人を助けたり、彼らの事業に出資したりすることはなかった、と。
 これは、彼が唐氏のように、自分の故郷から若い才能を呼び寄せたり、事業を起こしたりしようとしなかったためでもあろう。しかし、広東人の同郷会館を建てるときには、英国最大の洋行の買弁で、資格も古く、個人財産も最も大きいので、20世紀の初めには、同郷人たちから「広東幇の首領」に挙げられていた。
 20世紀の初め、天津に寓居する広東人のための会館を建てようという気運が盛り上がった。当時の天津税関長だった広東同郷人仲間でのナンバーワン、唐紹儀(前にも述べたが、袁世凱の下で、内閣総理大臣を務めた。その内閣の農林次官に梁さんの長男が就任した)が提起し、多くの天津在の広東人の賛同を得た。結局41名の発起人の会長に、梁さんが選ばれたのだ。同郷人から寄付を募り、その額は11万余両、大洋銀2万元余が集まった。その中で梁さんの6,000両が最多であった。次が唐紹儀の4,000両であったという。
 会館は1904年に着工し、1907年に竣工した。その後、会館は広東人のあらゆる集会、慶祝、葬祭などに使われた。梁さんは役員を務めた。辛亥革命後、天津の広東人は会館で何度も集会を開き、1912年3月7日、広東会館役員会が発起人となり、250名の代表が国民募金連合会を開き、梁さんがスピーチを行った。同年9月、同じ広東人である孫文が、広東会館に来て、
同郷人たちの熱烈な歓迎を受けた。このころが、梁炎卿の数少ない社交活動だった、と劉氏は記す。
 2.
 1912年、長男の梁賚奎がアメリカの大学から帰国して、袁世凱系の唐紹儀総理の時に、短い間農林次官を勤めていたと書いたが、まさしくこの時は、
梁炎卿が自分の息子を政界に送りこみ、祖国のために何かしなくては、と考えていた時期であったであろう。
 もしも長男が、同じ天津在の広東籍の先輩であった唐紹儀内閣で、任務を果たすことができ、順調に政界に乗り出していたなら、彼の買弁生活は終わりを告げていたかもしれない。政治家の父親はやはりそれなりに政治に関与せざるを得なくなるであろう。買弁ではいられなくなったであろう。実業に乗り出していたかもしれない。いずれも、仮定の話である。この話は袁世凱と国民党との争いの中で、胡散霧消してしまう。
 中国の辛亥革命後の現実の政治は、袁世凱によってめちゃくちゃにされたというのが、新中国の歴史家の定説である。袁世凱にはとてつもなく立派な墓がある。死後、子分の徐世昌が、袁の原籍地の河南省の彰徳にとんでもなく大きな墓を建てた。皇帝を凌ぐほどの巨大な墓である。解放後、この墓は破壊されずに、政府は二つの碑を建てた。一つは墓の大門の前にあり、「窃国大盗袁世凱」と刻まれ、もう一つは墓前にあり、これにも「窃国大盗袁世凱」とあるそうだ。国をめちゃくちゃにした大盗賊というのは、今後も覆されることは無いであろう。自らが皇帝になるために21ヶ条の売国条約を受諾したというのは拭いきれない汚名である。
 3.
 清末、民国初めの政治家の伝記類が、最近になって陸続と出版されている。
新華書店の伝記類を並べた棚には、古い歴史上の人物や欧米の著名人や文化人の伝記よりも、この百年前後の近代の登場人物の伝記の方が沢山並んでいる。
李鴻章を初め、曽国藩とか左宗棠など一般の日本人には余り馴染みのない実務的な政治家など、新中国成立後は否定されてきたか、或いは無視されてきた人物の中にも、実際は、祖国の近代化の為に、心血を注いだというあまたの人々のことを知るべきだし、調べて記録に残しておこうと言う気運が起こってきた。またそうした出版物を買う人が増えてきたというのも事実だ。それで、同じ人物についても、何種類もの伝記や、評伝などが新たにどんどん出版されている。
しかし、袁世凱の伝記はあまりみかけない。それで、民国から解放後まで継続して中国の政治世界、文化大革命で批判もされ、もまれながら、活動を行ってきた歴史家、「古史弁」の著者、顧頡剛氏の「中国史学入門」の中から、要約する。
袁世凱は李鴻章の死後、彼がそれまで握ってきた西洋式武器を備えた清朝の軍隊を、みずからの支配下に置いた。これが20世紀初頭の中国が、共和への道を歩むとき、大きな障害となった。顧氏によれば、袁世凱には三人の部下がいた。王士珍、段祺瑞、馮国璋の三人。この三人がアイデアを出し、実行方法を考えた、という。ある人が評すに、王は龍、段は虎、馮は狗で、もっとも貪欲だった。
この筆法からすると、袁世凱はアイデアを描き出す頭脳も、それを実行に移す方法を考えることもできなかったようだ。狗に擬せられた馮はその後の行動でその貪欲ぶりを余すところ無く発揮している。龍とか虎に擬せられた二人は何がしかの良いことを残したのであろう。
4.
武昌起義が起こるや、清朝の朝廷は袁世凱に鎮圧を要請した。袁世凱は、自分は前線には出向かず、狗と呼ばれた馮国璋を震源地の武漢三鎮に出陣させた。長江の北岸の漢口で軍を留めて、革命軍のいる南岸の武昌には攻め込ませなかった。袁世凱はこうしたやりかたで、清朝皇帝に圧力をかけ、退位させた。
 そして、所謂南北和議の会談が開かれた。南側、即ち孫文らの革命側は、伍廷芳を代表とし、袁世凱の北側は唐紹儀を代表とした。唐紹儀は繰り返すが、天津在の広東人で、梁さんの父とともに、広東会館建設の主唱者である。
南北和議が成立し、袁世凱のもとに孫文がやってきた、熱っぽく理想を語る孫文の広東人の話す言葉を、「彼は何を言いたいのかね。彼の話はチンプンカンプンで少しもわからない」と袁世凱が側近に漏らすのを、ドラマ「共和への道」で挿入していた。この二人が理解しあうには、梁さんのような広東出身で天津に長く生活している人間が、通訳して中を取り持たないと、うまく意志の疎通ができなかった。そうした小さな誤解や理解不足が、その後の悲劇の引き金となったとも言えよう。
Compradorはポルトガル語で、日本語訳は仲買人、仲介者、中間商など。
日本の国土の25倍もある中国で、北京の軍閥と南方の革命家の間には、イギリス人との場合と同じように、仲介者が必要であった。長崎には「金富良社」というコンプラドール仲間の組織があって、日本のCompradorはそこに集い、南蛮人の欲しいものを、買い付けてくるのが主な仕事であった。横浜にいたら、
もっと別の動きをしていたことだろう。
幕末、西郷の言葉を幕府の役人に上手く伝えるのには、江戸屋敷にいた薩摩藩士の協力があったから可能であった。広東人が語る北京語は、つい最近まで北京人によって“お天道様も神さんも怖くないが、広東人がしゃべる北京語が一番怖い”と揶揄されてきたくらい、耳障りで一番聞きたくない言葉だったのである。
5.
話を南北和議に戻すと、談判は南側が孫文を臨時大総統に推して、一歩も引かなかったので、決裂してしまった。袁世凱はそれならばそれで、戦争を続けるまでだと妥協しない。孫文は自分には強大な軍隊が無いので、仕方なく、宣統帝の退位を条件に、袁世凱が大総統に就くことを受諾するほか無かった。
話は遡るが、顧氏は著作の中で、袁世凱の生涯はあらゆる手段を使い、奸計を用い、陰険なたくらみで政権を手にした人物として描かれている。前代の光緒帝を退位させたのも、彼の仕業であるとしている。
次の挿話は、顧氏の書からの引用だが、戊戌の政変で日本に亡命した梁啓超が書いたものが、根拠となっているので、このクーデターが袁世凱の密告によって起こったということにされているのだが、異論もあり、複雑な要因が絡み合っていたことであろう。
康有為が新政を実行するために“維新”を行おうとして、“強学会”を創立したとき、袁世凱は大賛成して、すぐ加入した。その後、光緒帝が戊戌の変法を唱えると、西太后はこれに不満で、閲兵式に乗じて、彼を廃帝にしようと考えた。光緒帝はこれを知るや、彼が信頼していた潭嗣同に相談した。潭はすぐさま袁世凱に助けを求めた。その時、軍の実権を握っていた袁世凱しか光緒帝を救い出せるものはいないと考えた。潭は袁世凱に申し出た。「もし光緒帝を助けて、新政を実行できないのなら、自分を殺してくれ」と。袁世凱はこのとき、「私が栄禄(西太后の腹心)を殺すのは、犬一匹を殺すより簡単なことだ。本件は私がすべて引き受けた。全責任を負うから、帝にはご安心されよ。」と伝えて欲しい、と答えた。
ところが翌日、袁世凱はすぐさま天津に飛んでゆき、栄禄に密告した。光緒帝が維新の実行を斯く斯くしかじかと。栄禄は即刻北京に戻り、西太后に報告した。彼女は直ちに光緒帝を幽閉し、垂簾政冶を行った。潭嗣同ら、維新の主唱者たちは慷慨し刑場の露と消えた。康有為、梁啓超は国外に亡命した。
6.
以上が戊戌の政変のあらましである。戊戌の変法が吹っ飛んだのは、この袁の密告からである。まるで京劇のシナリオの如くに、歴史が動くのを楽しむがごときの感を禁じえない。項羽と劉邦の戦いから、三国志の争い、水滸伝の世界など、対立する者の間で、ハカリゴトをめぐらし、ワナを仕掛け、敵を陥れて、勝利する。観衆の目を意識して、観衆を楽しませることも、自分の果たすべき務めだという演劇的なものが、彼を突き動かしているとしか思えないほどである。政治の舞台に登場した以上、劇を演じなければ何をするのだ、と。
中国人のこうした政治的場面での身の処し方というのは、三千年の間の歴史舞台に登場した人物の行動を、思い出しながら再現しているかのようである。
自分がこの広大な中国の大地を統べる天下人として、後世の歴史と戯曲が、どのように取り上げるか。それが重要な関心事の一つであるかの如くに。そして又中国の歴史家が、そのように記すことが伝統として染み付いているのだろう。
何ゆえに、光緒帝を幽閉してまで、垂簾政冶を支持したのか分からない。
その十数年後の辛亥革命の時にも、最後の皇帝宣統帝を退位させた張本人となった。自分に都合の悪いと思われる皇帝を廃したのだが、帝を退位させることで、自分の影響力を強めたいと思ったのが、3人の部下のたくらみと実行力に支えられてきた彼の実像なのだろうか。
 7.
こうした袁世凱の下で、中国の北方では多くの軍閥や商人(ビジネスマン)たちが、それでも尚ひたすら彼を支えてきた。彼等はなぜ袁世凱を支え、その後も袁の後継たる北洋軍閥を支えてきたのであろうか。
 「国商」の著者、言夏氏に依れば、当時の実業家たちは、「孫文は、理想は高いが、実際的ではない。実現できないような公有制を唱え、共産主義の色彩を帯びていた。」と記す。
2008年に出版された同書は、近代中国に影響を与えた十人の商人との副題つきで、第1位に張謇を置き、彼の言葉を引用している。彼は孫文が大総統になったとき、孫文から直接、内閣の実業大臣に任命されたのだが、その後「孫文は自分が崖の上に立っていることを知らない。革命は成せても、建設はできない。」という言葉を日記に残している。そして40日間という短期間で、辞任してしまい、今度は章太炎とともに袁世凱を擁立しているのである。彼は袁世凱の下で、農商大臣に任命されている。
 張謇は革命政府ができても、金庫の中は全くの空っぽだったので、それまでの取引相手の三井物産から30万両の借款を得、更に自ら起こした紡績工場を担保にして50万両、計80万両もの大金を孫文の革命政府に出している。その彼の言葉である。その彼も、後に、政商、盛宣懐が“漢冶萍公司”という鉄鉱石、石炭、製鉄の複合公司の株50%を担保に、横浜正金銀行から資金を引き出そうとしている計画を知り、それには、猛烈に反対した。紡績工場はいくらでも建てられるが、鉱石、石炭などの資源は代替できないと考えたのであろうか。
 実業を起こして、祖国を近代化しようとする商人たちにとって、孫文は革命を成すまでは資金援助に値したが、革命の後では、危なっかしくて、とてもとてもこれ以上、支える気にはならなかったのであろう。不思議なことだが、他に誰もいないということか、袁世凱はこうした実業家たちに支えられ、孫文と対立し、国民党と対立して実権を握った。
 国会の多数を占める国民党は宋教仁をリーダーとして、袁世凱を倒そうとしたが、その彼は袁世凱の手によって、上海駅頭で暗殺されてしまった。その頃の袁世凱は、辛亥革命後の中国には“民国”は時期尚早と感じていた。顧氏の引用する彼の言葉は「まだそんな程度になっていない(没有程度)」ということになる。それではどうするか。隣国日本の“立憲君主制”が良いと考えたのだ。立憲君主となると大総統ではだめである。やはり皇帝をおかねばならない。清朝の満州族皇帝を退位させた実績のある自分が皇帝になるほかない、と考えたのだろう。取り巻き連中のおだてに乗って、国民は自分を皇帝として支持してくれるものと信じて舞い上がっていた。裸の王さまそのものだ。
 8.
こうした袁世凱の下で、梁炎卿はどう振舞おうと考えたであろうか。私の梁さんに聞いてみたかった。彼が買弁を続けた60年。時の政権と密接につながって、実業を興した者たちの末路は、哀れであった。
新中国建国以来、それらの実業家たちは、ほとんど顧みられることも無く、否定されてきた。しかし、改革開放の30年間で、外資企業の出資を招いて、輸出の大半と国内の大型産業の多くを、そうした外資企業に依存しているという実情を憂えて、民族系の企業を育成することの重要性を認識し始めた。その結果、ここ数年は戦前の実業家たちのことを取り上げて、中国の企業家を鼓舞しようとする動きが顕著になってきた。
 結局のところは、李鴻章や袁世凱の庇護の下で、紡績業から製鉄業まで、自前の鉄道とか炭鉱を起こしながら、官の官督のデタラメさから経営破たんし、外国資本に買収されたり、倒産したりと言う歴史の繰り返しであった。
30年代以降になると軍閥や蒋介石政府などによって没収された。別の言葉で言えば、軍閥政府のゆすり、たかりにあって、ほとんど跡形もなくなってしまった。1949年以降の公私合営で、最終的には国有化された。国有化されたビジネスは“大きな鍋の飯”を食うことで、世界の発展のスピードからあまりにも遠くかけはなれてしまった。かくてはならじ、と、この二十年で宝山製鉄など近代的な製鉄業の成功を手本に、造船や自動車などの大型工業分野でも世界の水準に近づきつつある。そのとき、先人たちの行跡を顧みる気運が出始めたのだ。
先人たちの失敗例を真摯に学ぶことで、21世紀の実業、起業の参考にしようとするから、著者も登場し、読者も増えているのである。
 9.
中国の政界と実業界の癒着というべきか、これは何も中国に限ったことではなく、日本でも常時起こっており、何も特定の国の専売特許ではないのだが、袁世凱以来の、所謂軍閥政権と実業家たちの、政界のトップ交代で、実業家が倒産したり、財産ごと没収されたりという悲劇は、どの国よりもその頻度において、甚だしいものがある。
 政権の資金は、主に官に癒着した商人たちからの上納金で賄われてきたのが、この国の伝統である。もともと所得税とか法人税という考えが薄く、税金の源は、物品税と関税、通行税などが主であった。漢代のころから、塩鉄税と称して、塩や鉄の取引にかかわる税金の取立てをめぐって、大きな論争を起こしてきた。律令制の下で租庸調とか両税法なども採用されたりしたが、政府にとって、もっとも確実な税収は、物品税であった。今日でも、17%という消費税と関税が税の主要部分を占めている。
 そんな状況下、中国全土で経済開発区が、国の正式認可された地域以外にもいたるところで造成された。それらの土地を開発するのは、地方政府だが、それを払い下げて工場誘致したり、高層マンションを建てて販売したりするのは、高級幹部と特別な関係を築いた“開発商”デヴェロッパーである。
 国の土地を、地方政府が開発し、特定の実業家に払い下げて、“招商”し、
それが立派な工業団地になり、内陸から十万、二十万の労働者を集めて、寒村を近代城市にする。そのことで、政府高官の成績は上がり、官位も上がる。
そして権限も大きくなり、さらに出世するという図が出来上がる。それが経済発展を支えてきた仕組みである。年率10%以上の経済成長を続けてきたことが、Win Winの状況であるかぎり、その高級幹部と特定の開発商は、大きなお咎めは受けない。たまにその限度を超えて、刑事罰を受けるものが新聞に載る。甚だしきは死刑宣告されるものもいるが。そんなことに驚いていては、大きな事業は起こせない。男一匹、この世に生を受けたからには、世間をあっと驚かすような、でかいことをしなければ意味がない。それには実権をもつ高官とうまく結びついて、国の土地で、政府の保証で銀行に金を出させ、次から次へと事業展開する。それが上手く当たればよし、ダメなときは逃げ去るのみ。高官ともども大金を懐に海外に高飛び、という話で一巻の終。
10.
過去30年、ビジネスを取り巻く中国人の考え方は180度の転換を見せた。孫文の思想には公有制、共産主義の色彩があったから、当時の実業家たちは、そんな孫文を危ういと考えていたなどという表現は、30年前には、誰も書けなかったであろう。対外貿易部傘下の国営の進出口公司という商品縦割りの独占的な窓口経由でしか、貿易できなかったがんじがらめの体制から、製造会社でも、個人商店でも、誰でも自由に対外貿易ができるようになったのだ。
この変わり身の早さこそが、世界に伍して米国の最大の債権保有国になった
源泉であろう。もうひとつ最近びっくりしたことがある。それは全国人民代表大会の呉邦国委員長が、2009年3月9日の会議で発表した次の宣言である。
「複数党による政権交代と“三権分立”は絶対行わない」と。
 要するに、西側の民主主義のモデルとされる“三権分立”と“複数党による政権交代”を、中国は否定する、ということだ。中国の進むべき方向は、三権分立ではなくて、“一府二院制”即ち、立法府を頂点にして、その下に行政院と司法院が機能するという形が適しているというのだ。
 政党も共産党が指導する形で、他の党との合作と政治協商で、共産党が執政党(政権党)で、他の民主党派は参政党だと規定している。参政するとは、政治に参与する、意見具申はできるが、政権党にはなれないという意味である。
 今、13億人の中国が、昨今の台湾のようにゴタゴタしては大変な事態を招く恐れがある。陳水扁政権が、下野するやとたんに、法廷での裁判を受け、獄に繋がれるような事態が、十年ごとに起こっては、大変な混乱を起しかねない。
60年前に建国して以来、略10年ごとに政治的混乱を経てきた。40年前に文化大革命が起き、30余年前に「四人組」を追放し、20年前に天安門事件で、趙紫陽を反党反社会主義の罪で失脚させて世界を驚愕させた。その時の北京の西単の歩道橋から、丸焦げになった死体が吊るされている映像は、全世界に配信された。こんなことは二度と繰り返してはならないのだ。
それ以降、これまでの20年間は比較的平穏で、現政権が打ち出したスローガンも「小康社会」を目指そうという穏やかなものとなっている。小康を保つというのは、日本語では、病が平癒して、やや小康状態にあるなどというニュアンスだが、ここでは少し異なるようだ。政治闘争とか騒乱の起こらない、穏やかで安定した状態を意味するようである。
 11.
1949年からの30年で、何人の指導者たちが糾弾され、つるし上げられ、そのために国が二つ三つに割れて、武力闘争によって、幾千万もの人の命が失われた。もう二度とそんな分裂、政治闘争は起こしたくない。というのが、
呉邦国委員長の一府二院制の趣旨であろう。昨年の台湾の政権交代そのものは歓迎するが、それをここでやってはいけない、という強い意志表示だ。なぜならば、もし、台湾や韓国のように、まだ民主主義が一定段階まで成熟していない状態で、与野党が政権交代を繰り返すごとに、前政権のトップが下獄させられ、国内が分裂するような事態は、絶対避けねばないのだ。贈収賄とか政治献金など、陳水扁ほどではなくとも、起訴する案件にはこと欠かない。下野したあとのトップは何を言われるか、心配で堪らない。
 1910年代に、袁世凱の口にした、「共和は、まだその程度にあらず」という言葉は、百年後の今、三権分立と複数政党による政権交代は、その程度にあらず、という中国の足元を見つめた現実から出発していると思う。
 私は、これはこの国の実態にある意味で即しているものだと思う。私の梁さんは、1979年までの30年の間に、理不尽な理由で、何回軟禁させられたことか。ただ親が大金持ちだったということ。しかも買弁だったということで。
新中国になってからも、親の残した大きな家に住んでいたということ、なんとでも罪状をつけて、ひっ捕らえにきては、大変な目にあわされた、という。
 もし、5年後、10年後に、現政権に反対する党が政権を握るような制度を容認したら、現政権の下で起業し、大きな産業に育て上げてきた、実業家たちは、共産党に入党加担していたという理由で、獄に繋がれてしまうことだろう。
7千万党員を誇る共産党だが、現代の実業家の殆どが党員だと聞く。収入の何パーセントというのが、党費だそうだ。政権が代わる度に、大企業のトップの首が飛ぶ。そんなことをしたら、中国に長期的な視野で産業を起こす企業家は育たないであろう。
 12.
 余談だが、話を日本に投影して見る。3月24日、WBCでイチローがセンター前に2点タイムリー。世界一を勝ち取ったその夜、民主党の小沢代表が、時に涙をぬぐいながら、この国に議会制民主主義を定着させること、そのために総選挙で勝利することを、最後の機会として挑戦したいと語った。これまでの日本には所謂西側の政権交代による議会制民主主義が定着していなかった、という現実を指摘しているわけだ。戦後アメリカから押し付けられた駐留軍とセットでの民主主義。これが60年以上経っても、定着していないというのが、彼の認識であろう。従って、駐留米軍も横須賀港の艦隊以外は、日本の国土から退出してもらいたい。それで初めて、アメリカからの本当の意味での独立と、議会制民主主義の定着への道が開けると考えているのであろう。
 国民の多くは、彼の民主党に期待を寄せながらも、彼の自民党時代以来の
金権体質には、ある種の危惧を抱いているのも事実だ。しかしその一方で、
三権分立と言いながら、検察が小沢代表の秘書を逮捕、起訴するのを黙認している与党政権にも、なにか少し引っかかるものを感じている。秘書を起訴するからというだけで、わざわざその理由を検察側からメディアに発表するなどは、
不自然さを否めない。
 明治憲法は、国民全員に選挙権を与えなかったという点で、民主主義とは言いがたい。戦後の新憲法は主権在民として、民主主義を標榜している。だが、この国のひとびとは、袁世凱の言うように、まだ議会制民主主義というものを実現するには「その程度に至っていない」という現実。議会制民主主義を自分本来のものに成しえていない。
自ら勝ち取ったものではないだけに、アメリカから二度と軍国主義に戻させないために、押し付けられたものという後ろめたさを、ぬぐいきれて居ない。
代議士は江戸時代の小藩の殿様の如くに、代々世襲で、人間のスケールがだんだん小さくなる一方で、首相をやらせても1年ももたずに放り出してしまう。
これも上述の民主主義と同じで、自分で戦って勝ち取ったものではなく、前任者が投げ出してしまったので、自分のところに転がってきたものだという、ぼんやりとした後ろめたさというか、自信の無さのあらわれである。
幕末の将軍や清朝末期のひ弱な皇帝たちのイメージが重なる。よし、この俺が、取って代わってやろうとか、そんな意気込みの片鱗さえ見出せない。ただ、
自分が首相でいたいというだけで、国民のためにこうしよう、どうしようというアイデアも熱意も感じられない。袁世凱の部下には龍とか虎とかアイデアを
出して、実行に移すものがいたのだが。
     2009年3月25日 大連にて 

拍手[2回]

カレンダー

06 2024/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

フリーエリア

最新CM

[09/21 佐々木淳]
[09/21 サンディ]
[09/20 佐々木淳]
[08/05 サンディ]
[07/21 岩田 茂雄]

最新TB

プロフィール

HN:
山善
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R