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日夜浮かぶの翻訳雑感

魯迅の翻訳と訳者の雑感 大連、京都の随想など

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天津のコンプラドール その9

 

天津のコンプラドール その9

1.

豪ドル先物取引で、栄智健氏が百億香港ドル以上の損を出し、みずから創設し、北京のCITIC本部から独立した中信泰富即ちCITIC Pacificのトップの座を 4月に追われたことは、先に述べた。その彼が、9月8日、中国の不動産と金融を扱う会社を個人名義で作り、再起を図ると発表した。上海を中心にというが、日本のバブルと同じ現象が起きていると思われる上海で、再度不動産中心に事業展開して、大丈夫かとの懸念する報道が多い。しかしやはり上海なのであろう。彼が青年時代を過ごした、彼一族の出発点なのだから。

この会社は、CITICグループと競合する形ではなく、CITICとの協力を排除するものではない、と発表している。彼は香港の投資家たちの金を集めて、ふたたび大陸の不動産に賭けているようだ。彼の経歴と人脈を使って大陸に投資したいという香港の資産家も多いのだろう。

4月に退任させられた時、周囲はこのままでは終わらないだろう。いずれは、捲土重来するに違いない、と観測していた。退任後、保有するCITIC Pacificの株を段階的に売却し、15億香港ドルの資金を作った。さて、これから彼が上海中心に展開するという不動産、金融業が一般投資家の目にどのように映り、どのような展開を遂げるだろうか。

富は三代続かない、という揶揄を跳ね返して、中国語でいうところの東山再起できるかどうか、見ものである。香港の資産家たちは、彼のブランドと北京政府とのコネクションを使って、彼の会社に投資することに、賭けてみようとしている。香港人特有の楽しみ方、投資のやり方を見るようだ。

マスコミは、国と株主に大損をさせておいて、またぞろ何だ、と辛口の批判が多い。が、北京政府の支持さえ取り付けられれば、儲かる仕組みは、いともたやすくひねり出せるだろう。為替さえ失敗しなければ。その為替も、1年前のリーマン ショックさえ無ければ、こんなことにはならなかった。

豪ドルも人民元に対し、年初比40%も切り上がった。為替とは本当に恐ろしいものだ。天津の梁さんの父も、為替では失敗した。彼を育ててくれた唐景星の招商局での鉄道石炭などの事業展開で、結局は、清朝政府から横槍を食らい、没収されたり、英国資本に買収されたり、次から次へと押し寄せる苦難に鑑み、いわゆる洋務運動事業には手を出さなかった。だが、不動産と金融については、積極的だった。天津の英国租界にもあまたの不動産を取得し、租界外の中国内地にも手を広げた。その不動産会社も登記上は香港に置き、買弁仲間の出資を募り、リスクを分散するとともに、大きな資金を集めた。為替に失敗しても、すぐ又不動産に投資して、取り返すという精神は、中国人の骨の髄まで滲みているようだ。

2.

北京から張家口に鉄道が敷設されると聞くや、鉄道駅予定地に広大な土地を買収し、鉄道会社に対して、駅舎用の広大な土地を貸付、駅前通りの周辺に旅館や商業区、歓楽街を作った。そしてその外周に大型の住宅団地を建設した。株主には天津在の英国人弁護士の名を借りて、政府に取り上げられないようにした。

鉄道の要衝として張家口が発展するとともに、彼の懐には莫大な資金が貯まった。それを長い間、彼は外国の銀行に預けていたが、あるとき魔がさしたのか、中国系の銀行から「定期預金」にしたら、非常に高い利子をつけるという勧誘に乗ってしまった。それに味をしめて、低利の外銀への預金を殆ど中国系銀行の定期にしてしまった。暫くして、為替の大暴落が起こった。高利を狙って、長期預金にしていた梁さんは、莫大な損失を蒙ってしまった。

為替というか、通貨の変動というものは、一旦潮の流れが始まると、その動きは誰も止められない。もうじき戻るだろうと待てば待つほど、行き着くところまで行って、損を出しつくした頃に、反転する。株は紙くずになることがあるが、それは持ち分限りであるのに対して、為替は限度が無いから、底なしの泥沼にひき釣りこまれてしまう例が多い。

梁さんの父は、株や不動産など、ジャーディンの買弁の仕事以外に、多くの金融、債権売買でいちども失敗したことは無かったが、為替では大損を蒙ったという。それにもめげずに、また不動産への投資を続けたそうだ。戦前の中国に、大地主が沢山の農奴的な小作人から搾取してきた、その源泉は土地である。

大地主の土地の囲い込みが、際限なく繰り返されて、共産革命の引き金となったのは、周知のことだが、今また農地の囲い込みと、都市近郊の土地の囲い込みが、始まっている。いずれも使用権という名目で、国有であることには、違いないのだが、50年の使用権の切れた後は、どうなるのだろうか。

3.

栄氏の話から、梁さんの不動産の話をしていたら、友人から温家宝氏の娘が、大連でここ十数年間に急成長してきた大連実徳の徐総経理と結婚していたという話を聞いた。大連の友人に聞いたら、「確かにそうだよ。彼が北京に遊学している頃に、誰かの紹介で、結婚したけどもう別かれたという話だ。」「温首相が偉くなる前じゃないかな」という。

その友人が、人から聞いた話では、温という姓は昔、フィリピンから大陸に戻って来た人たちに多い姓だという。その8で触れたが、北方の種族が中原を征服し、そこにいた部族が南下した。南に住んでいた部族は、人口が稠密になったので、更に南や海の向こうに渡っていった。だがそうした人たちも、そこで成功して、また大陸に戻ってきた、という話だ。

中国の古代史に詳しい顧頡剛氏に依れば、古代中国は、いわゆる黄河流域の東西間の種族間争いがしきりに繰り広げられた。その結果、西の種族が東に攻め込んで、その鉄器などの文明が、山東などに伝播した。そこで鉄と塩とを併せもった山東地域の種族とともに富を築き上げていった。その富を狙って東北にいた種族が、攻め込んできたので、今度は北と南の間に争いが起こり、長い時を経て揚子江から更に南の方に下っていったそうだ。欧州のゲルマンの大移動を彷彿とさせる。こうして南北の文明が混合していった。鉄や穀物などを沢山生産して余力の出来た種族が、地域を拡大していった。古代中国人の地域拡大は、富を求めるものと、それに追われたものとが織り成した、綾錦の如くである。富を得た者が、その資金で更に広い地域を獲得してゆく。なにやら、栄氏の香港移住から上海への再投資など、思考と行動は不易の如しだ。

従来から南に住んでいた人々は、ベトナムや雲南、フィリピンなどに出て行ったという。19世紀以降でも、人口が稠密となった福建や広東から多くの華僑が南洋やハワイ、インド洋の島々にも移り住み、私がシンガポールで寄寓していた張さん一家も、祖父がインド洋のセーシェルで成功して、彼をシンガポールの学校に留学させて、卒業後はシンガポールに定住し、書店、印刷会社を起こし、広東省梅県からも親戚を呼び寄せて、数家族で暮らしていた。梅県は客家の出身地として有名である。

4.

余談だが、南方の華人の行動範囲の広さについて、筆者の経験から少し引用したい。ジョン万次郎は漂流の結果、アメリカ東海岸まで連れてゆかれて、そこで英語を勉強して、また東洋に戻り、島伝いに日本に帰国を果たすことができた稀な例である。

一方、福建広東からの移民たちは、自分の意志からというのもあったが、多くは、人狩りにあい、或いは人口稠密になった結果として、南洋やアメリカなどに連れて行かれた。そこで成功をおさめて、故国に錦を飾った華人が沢山いる。広東省の仏山市には、大良という街があり、そこの一番にぎやかな通りは、両側はまるで、サンフランシスコの金門橋の畔の建物のような洋館が櫛比している。その一軒、一軒は、アメリカで成功して、故郷に戻ってきた人たちが建てたものだ。アメリカでは住めなかったような洋館を建てて、余生をそこで暮らした。隣のだれそれが、洋館を建てたとなると、それ以上に豪華なものを競うようにして次々に建てられたという。

シンガポールのゴム王といわれた、陳嘉庚(タン カーキー)はアモイの生まれで、そこに集美学院を作り、アモイ大学を開校して、林語同や魯迅を教授に招いた。1926年ごろの魯迅のアモイ時代の日記に、私の尊敬する歴史家顧頡剛氏の名が出てきた。顧氏から彼の著書を贈呈された、とある。二人とも北京で教鞭を執っていたのだが、北京を去らねばならぬ理由もあってか、同じ頃にアモイ大学に招聘された。魯迅は短期間で文通相手の許広平のいる広州の中山大学に移っている。顧氏も同じくアモイを去って広州に向かった。

5.

人の縁とは奇遇なものである。シンガポールの南洋大学に留学していた私は、大家の張さんが、ジョホールの錫の鉱山に投資していた。その後私はペナンの英系資源会社から、相場リスクを分散するため、錫を毎日5トンずつ買い付ける役目になるのだが。彼はある日、私の見聞を広めさせてやろうと、日曜の朝早く、張さんが運転するベンツの助手席に座って、シンガポールとジョホールの海峡にかかるコーヅウエイの国境をいとも簡単に通過して、2時間ほどの距離にある錫の採掘場に着いた。共同出資者たちとの話は、客家語で、北京語に比較的近い音もあるそうだが、私にはよく理解できなかった。どうやら錫の値段が下落しているので、しばらく閉山してはという話だった。華人の投資家たちは、ものごとの基準を儲かるかどうかで、即断するので、鉱山でも、電気炉でも相場が下落して儲からなくなったら、すぐ従業員を解雇して、会社を清算する。この辺は歯を食いしばってでも、雇用を守ろう、会社の名前を存続させようとする日本人的発想とは、180度違う。彼等は再開するときは、また別の名前でやれば良いという。

大きな竹ザルで錫を洗鉱している労働者たちを、解雇せねばならぬという話しであった。帰りの車中で、張さんからもうあの錫山の出資は引き揚げると聞いた。ゴム園とか錫などの相場商品に投資してきた彼等にとっては、出資もその引き揚げも日常茶飯事で、解雇した労働者も、次はパームオイルの農園とかに流れてゆく仕組みができていた。

大陸から南洋行きの貨物船の船底に豚の子のように詰め込まれて、マレー半島に連れてこられたクーリーたちが、ゴム園や錫のとれる大きな水溜りのような選鉱場の横の、粗末な掘っ立て小屋で暮らしていた。最初は英国資本が、おびただしい数のクーリーを雇ってきたのだが、戦後になって、華人の資本を蓄えた者たちが、新しいゴム園や、錫鉱山を開いて、大陸から大量の労働者を連れてきた。英国人に使われるよりは、同じ民族のボスの下で働く方が、安心だとも聞いた。労働条件やすぐ解雇などでは華人の方が過酷であったが。

6.

ここ数日、建国60周年を記念して、当時の国慶節やその前後の記念式典のラジオ放送のアーカイブス特集をしている。今年は10周年ぶりに天安門の軍事パレードが開かれるそうだ。今年は、陸軍の歩兵のパレードは少なくし、近代装備の機械軍団が主だという。私が始めてこの広場を訪れたのは、1968年の夏であった。シンガポール華僑が建てた新僑飯店を早朝に抜けだし、自分の目でその広さを確かめようと見に出かけた。当時は毛主席記念堂など何もなく、とてつもない広さに驚いた。天安門の左に、毛沢東と親密なる戦友、林彪の二人が寄り添うように並んだ、でっかい写真が掲げられていた。

日本で8月15日に、天皇の「玉音放送」が流れるように、毛沢東のやや音程を外し、感きわまったような「中華人民共和国」のあと少し間をおいて「成立了」という声が何回も流れている。地主、軍閥、官僚などから、農地を小作人の手に取り戻すことができたという響きが伝わってきた。しかし、取り戻したはずのものが、また一部の特権階級のところに戻ってしまっていた。

国名について、人民の後に、民主という言葉を入れるか入れぬかで、大議論があったというエピソードも紹介されている。隣の北朝鮮の方が先に建国したのだが、あちらの方は、人民民主主義という。中国では、人民という言葉がある以上、これは王侯の国ではない。人民の国であり、人民という字だけで、民主、即ち民が主の国を意味するから、不要だという結論になったという。今も政治協商会議に参加している幾つかの党を民主党派と呼んでいるから、彼らの党には人民の2文字はない。民主党派が国民党を見限ったから、百万の共産軍が、八百万の国民党軍を打ち破ることができたという。

話は飛ぶが、最近、彼のことをかなり自在に話せるようになった中国人が増えている。「私は彼が嫌いだ。」という人も多い。北朝鮮支配者の言動、振る舞い、核実験への固執などを見ていると、60年代の毛沢東を思い出して不愉快だとまでいう。二人とも、米国と対等に渡り合わなければ、自分たちの存在が危ういと感じていたのは、よく似ている、と。その二人の下で切り詰めた生活を強いられた国民は、かわいそうだ、という。戦後になっても、正夫人以外に何人もの女性と暮らしたということまでが、伝わっているのも、いやだという。

7.

大分前のことだが、数名の中国の人たちと会食していて、「君、中国で女房のことを愛人と云い始めたのは、何時ごろからか知っているかい」という話になった。私たちが中国語を学び始めた頃は、この愛人というのが、夫人、女房の意味で使われていて、何の疑問も持たなかったが、文字の国、中国で愛人という言葉が使われ始めたのには、何か訳があるのだろうとは感じていた。

日本語で自分の女房を「愛人」と呼ぶ者はいまい。我が愛する人、という意味で、我愛人、と中国語でいうのだが、彼の愛人というと、奥さんのことか、そうでないのか、困ってしまうときもある。

彼は、杯を傾けながら、語りだした。

「愛人とはねえ、共産党軍が国民党軍に追われて、延安まで逃げ延びたあと、使われ始めたという説があるのよ。君も知っているように、毛沢東も横穴式の洞窟みたいな部屋に住んでいたのだが、彼の洞窟には江青が一緒だったのさ。

それで、彼の部屋に一緒にいる女性をどう呼べばよいか、ということになった。結婚しているとは聞いていないので、夫人を意味する太々とは呼べない。どんなものか思案投首。ある男が、愛人ではどうか?と言いだしたのが、始まりなのさ」。

当時の多くの党員は、封建時代の慣習で魯迅などもそうであったように、若いときに、親の決めた相手と結婚していた。そして夫人は両親と一緒に暮らして、家を守ってきた。それで、都会に出て革命に身を投じた党員たちは、故郷には戻れない。故郷から遠く離れて暮らすうちに、新しい伴侶を見つけて暮らすようになった。

ドイツ共産党から延安に派遣されてきた、中国名李某という男も、周囲の仲間が、女性と暮らしているのを見て、自分も欲しいと要求してきたので、党は彼にも紹介したという。それを見た若い兵士は、共産党もそういうことをするのかと、最近になって公にしている。「飲食男女人之性也」とは孔孟のころからの句で、食欲と性欲は人の本性だという意味だ。共産主義も是を否定しない。

8.

吉川幸次郎は、彼の著作のなかで、正夫人以外をすべて「妾」と書いている。王朝を継ぐ皇帝はたいがい妾腹が多いし、その方が王朝も永続するというのも、おもしろい現象である。かつて女性には「妾願望」というものがあって、正夫人から権力を持つ男を、自分の魅力で奪い取ることに、あやしい魅力を感じるという。動物の世界でも、より大きくて力の強いオスに鞍替えするメスが多いし、それが生存競争に勝ち抜き、より強い子孫を残すための本能だとも言われる。

魯迅研究で有名な藤井省三氏も魯迅と許広平の関係を、現代日本なら「不倫」という関係になると述べている。正夫人以外との関係は、今日ではそうなる。が、昭和の20年代までは、特別「不倫」とか何とかは言い出すものも少なかった。もちろん、谷崎潤一郎と佐藤春夫の例の関係や、有島健郎のように文人のそういう方面での言動は、報道もされたが、政治家や企業家たちの行動は黙認というか、21世紀の今日のごとくに、やかましく言われなかった。

当時の人間は現代よりも男女関係についてより自由奔放であった。いわゆるプロの世界とか、芸者の世界というのが公然とあった。人倫にもとるとか、という意識は薄かった。漱石すら、京の祇園のお茶屋で倒れて、無様なかっこうを東京から駆けつけた夫人に、なじられていることを書いているが、それとて、なんでそこから移動しなかったのか、という面が強い。

1956年に、魯迅の遺体が30年前に葬られていた上海の万国公墓から、虹口にある魯迅公園に移すときのアーカイブも放送された。新中国の偉大な精神的闘士として「魯迅の国葬」が行われたのだ。魯迅の愛人であった許広平の声が聞こえてきた。北方にも住んだことのある彼女だが、やはり南方なまりは消えてはいなかった。

彼女は彼女を愛した魯迅が、国葬されるのを「光栄」だ、と話しているが、本当のところはどうだったのだろうか。当時の政治的な潮流の中で、政治的に利用されているということは感じていなかったろうか。前年には、白話文学の先駆者、胡適を徹底批判する運動が全国的に展開されていた。

魯迅も多くの友人、知人に見送られて葬られた、多くの友人がともに埋葬されている万国公墓にいた方が、居心地がよいと感じてはいないだろうか。毛沢東の言う「もっとも硬い骨を持つ文芸戦士」と神のごとくに祭り上げられてしまった。文革中にはいたるところの公園に彼の有名な「眉を横たえて、冷ややかに対す千夫の指 云々」という句が建てられ、何種もの切手にもなった。

 (つづく)

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